松江から10人のりのハイエースにのってでかけた。
荷物は、ひとによっていろいろで、
ちいさなデイバッグのひとがおおい。
わたしは毎日つかっている 20リットルほどのデイパックに
マックブックエアー11インチやら、
さむくなったときにそなえて ウィンドブレーカーやら、
iPodに文庫本と、いろいろつめこんだので ずっしりおもい。
荷物がおおくなりがちなのが わたしの弱点で、
旅行のときも なんだかんだでカバンいっぱに
ごちゃごちゃとつめこんでしまう。
ひとりの職員は、まったくの手ぶらで車にのりこんだ。
ポケットにメモ帳をしのばせているわけでもない。
とちゅうよったコンビニでもかわなかったから、
ノートをわすれたのではなく、
つよい確信のもとに 断固としてもっていかなかったのだ。
見学にいきながら、ノートをもたないとはなにごとか、
とはおもわない。
メモしなくても、五感をはたらかせて情報にふれ、
うけた刺激をかえってからの仕事にいかしたらいい。
メモをかきまくり、パソコンにまでうちこんだわたしが、
だからといって いい仕事につなげられるとはかぎらない。
わたしはその職員の身がるさに、すっかり感心してしまった。
手ぶらで車にのりこむなんて、わたしにはぜったいにできない。
断捨離とかミニマリストとかいわなくても、
すくないものでやっていけるひとがいるのだ。
梅棹忠夫さんの記録に、カルカッタから飛行機にのって
チベットをたずねる場面がある
(『著作集第4巻』P381「カルカッタ以後」)。
カメラだけもってダムダム飛行場にゆく。手ぶらの旅はなんと気らくなことだろう。
日がえりの旅行ではない。
カリンポンやブータンをたずねる4泊の旅なのに、
カメラしかもたない すがすがしいまでの身がるさにおどろく。
ノートさえもたなかった職員は、情報にたいする態度が、
梅棹さんは、ものにたいする感覚が、
わたしとはまったくちがう。
なぜそこまで身がるになれるのかが わたしにはわからない。