2016年06月30日

運転ちゅうのイライラは、そのまま表情にでている

まえをはしる車の へたくそな運転に
イライラしているときの女性ドライバーは、
たいてい うつくしくない表情だ。
ほほえんでいれば もうすこし魅力のある顔なのだろうけど、
ストレートにイライラをだすと、
こころねのまずしさまで そのままおもてにでてしまう。
ゴーマンな表情をみると、
したしくなりたいとは すこしもおもわない。

男性の運転者の場合、イライラしても
それほど表情にはでないような気がする。
かりに イライラしていたとしても、
愛想のいい顔をもとめられていないから
ふだんの表情と、しかめっつらとに
たいしてギャップがないのかもしれない。

けさの朝日新聞に、政治家の生き方や品性が顔にでる、
という秋山訓子記者の記事がのっていた。
記事では写真家の藤原新也氏のことばが紹介されている。
顔っていうのは残酷なまでにその人の内面を表す。写真家ならシャッタースピードの2分の1秒もあれば判断できるかな

内面がでるのは、もちろん政治家だけではない。
運転者は、たとえイライラしていても
気もちをそのまま顔にうかべないほうがいい。
まわりのひとからみると、手にとるように
そのひとの ひととなりがわかってしまう。

すこしまえに免許証のきりかえをして、
あたらしい免許証になった。
免許センターでとる写真は
へんな顔にうつるのがお約束ともいえ、
おおくのひとが不満をかんじるようだ。
不満とは、自分はもうすこしマシな顔をしている、
という認識とのギャップであり、
ほかのひとはまだしも、自分だけは運のわるさから
ありえない顔にうつったと残念におもう。
わたしもまた、あんな写真と
これから5年間つきあうのかとおもうと
さすがにいい気もちはしない。

しかし「顔っていうのは残酷なまでにその人の内面を表す」
原則からいえば、これもまた、
自分の品性が正直にあらわれているとみたほうがいい。
不満なのは自分だけ。
まわりのひとにとれば、
おなじみの みなれた表情だ。
ふだん まわりのひとは、
わたしの顔をどうとらえているのか気になってくる。

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2016年06月29日

ヤンキー文化を完全にとりこみおえた よさこい

日曜日に松江駅ちかくの広場で
よさこいの大会がひらかれていた。
たぶん、よさこいだったとおもう。
島根県内から、いくつものチームが参加して
うたとおどりをきそっている。
ハッピをきて、じかたびをはき、
目もとに化粧している。
でも、よくみると、あんがい地味なひとたちだ。

子どものダンス発表会なんかだと、
いかにもこましゃくれたガキが、
ステージ衣装っぽい服をきこみ、
なんとなく「いたい」印象の親につれられ、
かんちがいしてるようすがきらいで、
「けっ!」とおもうけど、
このよさこいグループには、
そこらへんにいるおにーさん・おねーさん、あるいは
ふつうのおじさん・おばさんばかりが参加している。
よさこいにみるヤンキー文化がよくかたられるけど、
会場にきているひとたちの、ほぼ全員がヤンキーっぽくない。
島根の特殊性なのか、ヤンキー文化の日常化なのか。
すくなくとも、この会場にきているひとたちをもって
よさこいとヤンキー文化をかさねたりはできない。

でも、よくかんがえてみると、はなしは逆かもしれない。
ヤンキーにはみえない フツーのひとたちが、
よさこいをおどりたくなるからこそ、
ヤンキー文化がしっかり根をおろしたといえるのだろう。
ヤンキーらしくないひとがおどるよさこいに、
ヤンキー文化をみるという ややこしい手つづきをへて
ヤンキー文化の日常化を実感する。
ふつうのおじさん・おばさんのなかに、
ヤンキーの血が色こくながれていて、
ソーラン節によって その血がさわぐのだ。

きょう小雨のふるなかジョギングにでたら、
ものすごくちいさなカサをいそいでひらきながら
はしりだしたランナーをみかけた。
幼稚園の子たちがもつカサよりも、
もうふたまわりちいさなサイズで、
おとなが雨をふせぐためにさしても
やくにたつとはおもえない。
それなのに、そのランナーは
おおあわてでカサをとりだし、
頭だけをまもるようにさしながら
(頭だけしかまもれない)、
かなりのスピードではしっていった。
カサのちいささと、はしるスピードをかんがえると、
ぬれないためにカサをさすというよりも、
なにかべつの意味をふくんでの カサさしランニングにおもえた。
すれちがいざまに、ほんの数秒みただけなので、
このカサさしランナーの意図が 理解できなかったけど、
いまおもえば、あれはランニング版よさこいではなかったか。
ヤンキー文化は、小雨のなかのジョギングで、
実用からはなれてカサをさすことにより、
継承し、発展をとげているのかもしれない。

posted by カルピス at 21:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月28日

「ドコノコ」に ピピのかわいい写真をのこしたい

ほぼ日がつくったアプリ『ドコノコ』に、
ピピを登録してから3週間がすぎた。
『ドコノコ』は、「犬や猫と人が、親しくなるためのアプリ」で、
https://www.dokonoko.jp/
ピピのかわいい写真をアップしたいとおもいつつ、
このごろのピピはほとんどねてすごしており、
シャッターチャンスとなるポーズをとってくれない。
ごはんをたべているか、
毛づくろいをしているか、
まるくなってねているか、だ。
もっとも、ある程度おとなになったネコは
いつだってそれくらいのバリエーションをやりくりして
いちにちをすごしている。
ピピがうごかないだけではなく、
わたしのつきあい方にも問題があるのだろう。

ピピは2年まえから口内炎をわずらっており、
口のなかをひどくいたがりながら
だましだましごはんをたべている。
そのせいか、どうしても しかめっつらのときがおおく、
『ドコノコ』にアップした数枚の写真は、
どれも愛想がいいとはいえない。
毛はツヤをうしない、
ふるくなったぬいぐるみみたいにバサバサだ。
かたほうの目はうすくあけただけのときがおおく、
どうしても にらみつけているような印象をうける。
しらないひとにとって、ほかのネコたちほどには
かわいく みえないだろう。
そんなピピの写真にも、
『ドコノコ』には すかさず「いいね!」をくれるひとがいて、
ネコずきのやさしさと連帯感をありがたくおもう。

『ドコノコ』には、「ひろば」といって、
ほかのネコやイヌたちの写真でにぎわうコンテンツがあり、
どの写真もみごとにかわいい。
自分の家のネコがだいすきだから
こんなにすてきな写真がとれるのだろう。
ときどきひらいては
「・・・かわいい・・・」。
と胸をあつくする。かわいいとしか、いいようがない。

これまでこのブログに、ピピがもうながくないだろうと
なんどもかきながら2年がすぎた。
いまもまた、なんどめかの危機をむかえている。
ごはんをたべる回数と量が 2ヶ月まえの半分となり、
ごはんをたべる以外の時間は ねてばかりいる。
これだけねむれるのだから、
ただならぬコンディションなのだろう。
おしっこも、トイレシートのうえですませるので、
からだじゅうにおしっこがしみついているときもある。
夜おこされる回数がへったので、
わたしとしては楽でいいけど、
ピピの体力をおもうと よろこんではいられない。
このごろのピピのマイブームは、
わたしのひざに のった瞬間のおしっこだ。
こばしりにかけてきて、ひざのうえにとびのると、
おしっこをジワーっとズボンにそそいでくる。
いわゆる「うれション」かもしれないし、
ただたんにボケているだけかもしれない。

そそうしがちなネコをかかえる家にとって、
梅雨はあまりありがたくない。
むしあつくなると、部屋におしっこのにおいがたちこめる。
ほとんどのおしっこは、トイレシートのうえでするとはいえ、
床やカーテンにおしっこがかかるときもあり、
気づかずにほっておくと、おもわぬときに
かなりつよいをストレートにかいで ヘロヘロとなる。

そんなことを『ドコノコ』にかこうとおもいつつ、
いちにちのうち23時間以上をねてすごすピピに
ついシャッターチャンスをのがしてしまう。
いまもまた、カメラをむけると顔をふせられてしまった。
さいごのときをむかえつつあるピピに、
『ドコノコ』の公開が間にあったのは
なにかのめぐりあわせだ。
「よその子」の写真を愛でながら
「うちの子」である ピピのかわいさをのこしておきたい。

posted by カルピス at 21:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月27日

穴あけパンチの底

穴あけパンチの底には、穴をあけたときに
きりとった紙のきれはしをためるカバーがついている。
あるとき、穴あけパンチからはずされたカバーが
机のうえにおいてあったら
(なんでカバーだけをとりはずしたままにしたのかは不明)、
どーでもいいペラペラのじゃまものにみえたそうで、
そうじをしてた職員がすててしまった。
まだ断捨離ということばが
一般的でなかったころのはなしだ。
身がるになろうと おもいきってすてた、というよりも、
いかにも余分な部品にみえたので、
これはなんだろうとためらいつつも
ゴミ箱にいれたのではないか。

わたしには、すてたひとの気もちがよくわかる。
こういう「うっかり」がわたしはだいすきだ。
穴あけパンチの底につかわれているのを しらなければ、
あのカバーは、たしかに意味不明で、
やくにたつはずのない 部品としかおもえない。

すてたひとの気もちがわかるとはいえ、
なくなってみると、パンチの底に
あのカバーがないと ものすごく不便だった。
紙に穴をあけるたびに きれはしがふたつ、確実にはじきだされる。
もうそんなパンチなんて つかいたくないけど、
穴をあけるには パンチがなければ どうにもならない。

やくにたちそうにないパンチの底が、
いざなくなると しんじられないくらいこまる。
まるで、たいして存在感がないのに、
じつはいい仕事をしている職員みたいだ、では
もっともらしくておもしろくない。
ここは豊富な経験をつんだおとなとして、
パンチの底は、やくにたたないようにみえるとおり、
ほんとうにどうでもいい部分だったよ、
と おとしてみたい。
部品のなかには、仕事をしていない部品もある、
という世界のほうがたのしいから。

しばらくかんがえてみたけど、いい案がうかばない。
残念ながら 穴あけパンチの底は、みかけとちがって
ほんとうにいい仕事をしているみたいだ。
穴あけパンチのカバーみたいなひと、とだれかにいわれても、
けして腹をたててはいけない。

posted by カルピス at 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月26日

ののちゃんの「本能寺の変のなぞ」がわからない

6月21日の「ののちゃん」では、
ののちゃんの同級生であるキクチくんが
学級新聞に「本能寺の変のなぞ」を発表している。
これがまた ものすごく文字がおおく、
マンガなのか挿絵つきのコラムなのか
わからないほどだ。
とうぜん文字もちいさく、
わたしは老眼鏡をかけたうえに
虫めがねまでひっぱりだした。
4コママンガでありながら、
絵より文字のスペースが圧倒している。

本能寺の変で信長をたおした明智光秀は、
信長をたいした人物としてとらえていなかったらしい。
『当時の光秀にしてみりゃ暫定天下人三好長慶の後ガマを
ついやっちまった程度』説を根拠に、
「加害者の動機を特定したいなら
まず被害者の身元をよく調べてみろよ」が
この日の「ののちゃん」の骨子だ。

せんじつはアナグラムで
イチロー選手の新記録をたたえたように、
このセリフのどこかに、いしいひさいちさんは
メッセージをかくしているとみたほうがいい。
犯人が 証拠をあまりにものこしすぎると、
探偵はたいてい苦労する。
それとおなじで、これだけ文字がおおいと
どこに本音がかくれているのかわからない。

もしかすると放送ちゅうの『真田丸』と
なにか関係があるかもしれないけど、
歴史にくらいわたしには なんともいいようがない。
イギリスのEU離脱を 批判しているようにもとれるし、
舛添前都知事を皮肉ってる気もする。
アベノミクスの失敗とみたほうがいいのか、
あるいは めちゃくちゃな参院選のゆくえを
暗示しているのかもしれない。
4コママンガとしては、ありえないほどこまかい文字と、
さほど重要でさなそうな ながったらしい演説で
読者のよむ気をうばっておいて、
3年3組のキクチヒサヒコくんはなにをいいたかったのか。

posted by カルピス at 21:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | いしいひさいち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月25日

新聞は 死亡欄しかよまないひと

しりあいとはなしていたら、
新聞は死亡欄しかみない、というはなしになった。
個人事業をいとなんでいる そのしりあいは、
おくやみをかかしたことから 非難された体験があり、
お客さんの家で なくなったひとがいないかの
チェックをかかさなくなったそうだ。
じっさい 図書館で しりあいが新聞の束をかかえ、
テーブルにすわっているのをみた。
個人事業というのも なかなかたいへんだ。
しりあいからそんなはなしをきいてからは、
わたしもまた死亡欄が気になってきて、
このごろはよく目をとおすようになった。

死亡欄(朝日新聞では「悲しみ」)には
平均寿命にちかい数字がみごとにならび、
みんな ながいきしてるなーと 感心させられるけど、
ときにはたらきざかりの年齢だったり、
まだわかい方がこの欄にのっていたりもして、
本人の無念さと、家族のかなしみにふれる気がする。
島根版の死亡欄をみてると、
松江市よりも人口がすくないのに、
なくなった方の人数が だいたいいつも
松江市よりもおおい市がある。
老人がおおくすんでいる以外に、
なにか理由があるのかしりたいところだ。
半分の人口なのに、なくなるひとの数がおおいのは
ただごとではない。
死亡欄は、氏名と年齢、それに住所だけの一覧ながら、
行間にはおおくのものがたりがみえかくれしている。
わたしのしりあいも、チェックだけでなく
一覧から そうした情報をかぎとっているのだろうか。
死亡欄マニア、みたいなひともいそうな気がする。

死亡欄にしか 新聞の価値をおかないしりあいは、
新聞をよまなくても まったくこまらないそうだ。
ニュースはネットをみればわかるし、
よみものとしての記事にも興味はないという。
そういえばわたしも、新聞のニュースはほとんどよまない。
今朝の朝刊をにぎわしているイギリスのEU離脱も
たいして切実にはかんじない。
トップをかざるようなニュースよりも、
文化欄だったり本の紹介だったり、
すきな作家のかくエッセイだったりが
新聞をよむたのしみの大部分だ。
連載ちゅうの『吾輩は猫である』が
だんだんおもしろくなってきた。
新聞のよみ方はいろいろだ。

posted by カルピス at 09:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月24日

2泊3日かかった シーサンパンナへのバス旅行

ゆうべの『地球バス紀行』は中国の雲南省をたずねている。
昆明を出発した「旅人」(宮野真守氏)は、
元陽をへて ベトナムとの国境にある河口へむかう。

わたしが雲南省を旅行してから30年ちかくたつ。
当時の昆明も省都としておおきな町だったけど、
番組でみる昆明のかわりようにおどろいた。
バスターミナルもすごくりっぱだ。
もっとも、発展をつづける中国の
30年まえをひっぱりだすほうがどうかしている。

わたしが旅行した当時は、
シーサンパンナが旅行者にひらかれて間がなかった。
それまでも、雲南省といえば少数民族だったのが、
開放された地域がいっきょにひろがったことで
シーサンパンナが人気の旅行さきとなる。
シーサンパンナはラオスとミャンマーとの国境にちかく、
漢民族の町とはまるでちがう雰囲気だという。
飛行機もとんでいたけれど、
いつになったらチケットがとれるかわからない。
ツーリストバスもなく、旅行者のおおくは
2泊3日の路線バスにのってシーサンパンナの玄関口である
景洪(ジンホン)をめざした。

2泊3日とは、文字どおり とちゅうの町で2泊するのだ。
日中は、ときどきの休憩をのぞくと
ずっとバスで移動をつづけ、
夜になると路線ぞいにある町でとまる。
それだけながい距離の移動ということと、
中国製のバスが、ゆっくりしかはしれないので、
2泊3日も時間がかかってしまう。
峠をこえるときなど、じつにノロノロの運転になるし、
くだりはなぜかエンジンをきって
ブレーキだけで坂をおりていく。
ときどき日本製の自動車がバスをおいぬいていくと、
なんとなくにわかナショナリストとなり、
日本車の優秀さがほこらしくおもえた。

わたしはまったくといっていいほど
中国語をはなせなかったけど、
景洪のバスステーションについたときに
となりの席にすわっていたおじさんがいった
到了(ダオラ)だけはすんなり理解できた。
とうとうついたのだ。
2泊3日かけて はるばるやってきた町には、
「到了」こそがぴったりくる。

ほかのバスにのっていたひとのはなしでは、
2泊3日のバス旅行ちゅうに、亡くなった老人がいたという。
このごろよく耳にする
「エコノミークラス症候群」だったのかもしれないし、
ぜんぜんべつの持病やトラブルだったのかもしれないけど、
2泊3日のバス旅行は、それだけタフな移動なのだと
なにかにつけて自慢したものだ。

景洪からさらにまたバスにのってシーサンパンナにつく。
ここまで南にくると まわりの景色は南国のあかるさにみち、
中国というよりもタイの北部にきたみたいだ。
市場をあるくと赤飯のおこわをうっていた。
雲南省の山のなかは、照葉樹林文化の中心地でもあり、
日本とよくにた たべものをみかけると、
ほんとうに照葉樹林文化があったのだと実感できた。

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2016年06月23日

第2ステージでの 浦和レッズの活躍に期待する

第1ステージの前半は、
めっぽうつよかった浦和レッズ。
それがステージの終盤になり、
優勝あらそいがしぼられてくると
がくっとかてなくなった。
アジアチャンピオンズリーグの敗戦による
精神的なショックをひきずったまま
リーグ戦でも連敗をかさね、
有利だといわれていた優勝あらそいから
ずるずると後退する。
優勝あらそいにからんだときの
おなじみとなったレッズのすがただ。

きのうおこなわれたFC東京との試合では、
前半をずっとおしぎみにすすめながら
チャンスをいかせない。
反対に、FC東京は最初のシュートを得点にむすびつけた。
おなじような構図がしばらくつづき、
レッズはせめながらも点をいれられず、
FC東京にカウンターをくって 2点目をうしなった。

レッズの弱点は、決定力のないフォワードだときめつけ、
もっとましなフォワードをひっぱってこないかぎり、
優勝はのぞめないだろうと悪態をつく。
この試合でも、興梠・李・武藤の1トップ・2シャドーは、
なんどもおとずれた決定的チャンスをいかせない。
おおきくわくをはずしながら、
おおげさに残念がるポーズが
うんざりするほどくりかえされた。

まえの試合では、広島に4-2と
前半のリードをまもれないまま
ボコボコにちかい印象のゲームでまけている。
後半になるとずるずるとポゼッションをゆるし、
さいごにはミスがらみの失点をかさねる。
よわいときにレッズがみせる典型的なまけパターンが
またしても再現された。
いまのレッズが前半で2点をうしなえば
もう試合はきまったもおなじだ。
ハーフタイムにニュースがながれたのをきっかけに
テレビをけして部屋にもどった。

ところが、つぎの日に新聞をみると、
レッズはそこから奇跡の逆転をはたし、
3-2とFC東京にかっていた。
もしここでレッズがあのままやぶれていたら、
前半の優勝をのがしただけでなく、
はかりしれないマイナスの雰囲気をかかえて
第2ステージをむかえていただろう。
精神的にたちなおれないまま
後半もまた、ずるずると
だいじなときにかちきれないパターンを
くりかえしていたのではないか。
FC東京戦での逆転勝利は、
レッズの年間優勝が、首の皮いちまいでふみとどまった
大切な試合となった。

うまくいっていたときのレッズは、
ペトロヴィッチ監督のもとで システムが熟成し、
いよいよ完成の域にたっしたのかとおもわれた。
そのおなじチームが、3試合つづけて無得点におわったり、
4連敗をからくもまぬがれたりと、
べつのチームにすがたをかえるのだから
サッカーはおそろしい。
つよいチームは ほめたてられ、
うまくいかなくなると
すべての面がダメなチームのように
すきなことをいって批判しがちだ。
中途半端なファンの心理として、
愛情はにくしみにかわりやすい。
「勝てば官軍」ほどなさけない態度はないのだから、
よわいレッズを応援しきれなかった
わたしの安直な評価をいましめたい。

FC東京戦で、前半に2点を先行され、
4連敗がちらついていたときに、
試合をあきらめず、
たたかいつづけたレッズの選手たちをたたえたい。
この試合でまけなかったのは、
第1ステージでのかずすくない収穫となった。
第2ステージでの レッズの活躍に期待したい。

posted by カルピス at 21:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月22日

スタートとなった農業研修

きのうのはなしのつづき。
過疎村にある農場で、研修に参加しているひとのおおくは
20〜30代だった。
農的なくらしをこころざしているからといって、
すばらしい人徳者ばかりなわけはなく、
なかにはいってみれば、ごくフツーのわかものだ。
自分が食事当番のときは、
カレーライスだけしかつくらないひとや、
からだのよわさを理由に、
なかなか仕事にでてこられないひともいた。
酒をのんではなしをしていても、
人生や農業の話題になることはまずなく、
その日の仕事や うわさばなしなど、
居酒屋でのサラリーマンとかわらない。
とくに背のびをする必要もなく、
わたしには居心地のいいところだった。

よくおぼえているのは、夕ごはんをたべながら
みんなでみていた「風雲たけし城」だ。
ついふつかほどまえにみたばかりの番組を、
なぜ今夜もまた 放送してるのだろうと
わたしは不思議におもった。
こたえは、たった2日しかたっていないとおもったら、
ちゃんと一週間がすぎていたのだ。
なかみのないはなしにあけくれながらも、
とびきり充実した時間をすごしていたのだろう。

山のなかにある過疎村での農業は、
農的なくらしにあこがれるひとや、
安全なたべものに関心をもつひとから 注目されており、
都会からよく見学にこられた。
なにしろ社会をよりよくしようという「共同体」なのだから、
お客さんがくるたびに わたしたちは母屋にあつまって、
自己紹介するのがならわしだった。
わたしはだいたい福岡正信さんの自然農法にあこがれた、
みたいなはなしをしたようにおもう。

自然農法への関心は ほんとうのはなしで、
研修をうけながら わたしは自然農法をためす
チャンスをうかがっていた。
でも、仕事は朝のミーティングでわりふられ、
わたしが自由にうごける日など いつまでたってもやってこない。
けっきょくやすみの日に あいている畑で麦をそだてたのが
わたしにとってはじめての自然農法となった。
秋に麦の種まきをすると、冬をこして春にそだつ麦は、
草にまけることなくりっぱにそだった。

きのうのブログに、お風呂をマキでたく、
とかいたけれど、
マキで風呂をわかすのは いわばしろうとで、
名人になると、というか ふるいメンバーは、
そこらへんの道ばたにおちている木をひろうだけで、
その日のたきつけをまにあわせていた。
とうぜんながらナタでマキをわったりもせず、
キックでテキトーに木をおって かまどにくべる。
15人でくらしていたら、お風呂にはいる順番は
なかなかまわってこないけど、
だんだんと時間帯のすみわけができてきて、
あまり不自由をかんじなかった。

どっぷりと過疎の村でくらし、
体験するすべてが のちのちの財産となるような、
きわめてぜいたくな研修だったと
いまごろになってよくわかる。
仕事をとおして 草刈機やチェーンソーのあつかいになれ、
田んぼでは稲かりのすすめ方をおぼえた。
農場での研修を体験したからこそ、
ごくあたりまえに 自然農法をためす気になる。
いいときに ちゃんと種をまいておいたのだから、
あとは収穫するだけだ。

posted by カルピス at 22:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月21日

『百姓になるための手引』とのであい

IターンやUターンなど、
都会でのくらしにくぎりをつけ、
いなかではじめる農的な生活に関心がたかまっている。
これまで都会でしか くらしたことのないひとでも、
安心して村にはいれるように、研修制度がもうけられていたり、
家をやすくかりられる村もあるそうだ。

こうしたうごきは 最近になって
きゅうにはじまったわけではなく、
わたしがわかいころから ジワジワと注目をあつめていた。
いまとちがい、いぜんは村や町が積極的に
そうした希望者をうけいれたわけではなく、
それまでに村にはいりこんでいたひとのもとで
研修というか、勉強するのが ひとつのやり方だった。
そうしてある程度のちからをつけたのち、
独立して村での生活をはじめる、というながれだ。

わたしの手もとに
『百姓になるための手引』という本がある。
自然食通信社の別冊として
1986年の2月に出版された「手引」だ。
村にはいりこみ、農業による自立した生活をいとなんでいる
個人や団体が紹介されている。
この「手引」をよめば、
すんなり農的なくらしがはじめられるほど
こまやかなマニュアルではないにしても、
この本により はじめて じっさいに村にうつりすみ、
農業をはじめたひとをしった。

この手引には、「ここで"農"が体験できます」として、
実習なり研修をうけられる場所が紹介されており、
わたしはそのなかのひとつに連絡して、
まずは1ヶ月の体験、そのあとで1年間の研修に参加した。
その農場には、わたしとにたような年齢のわかものが、
すでに研修生やメンバーとしてくらしており、
そのなかのなんにんかは
『百姓になるための手引』をよんでの参加だった。
いま もしこの本とおなじような「手引」があれば、
村でのくらしをねがうひとたちから、
かなり注目をあつめるのではないか。

わたしが参加した農場は、1970年代に
日本の社会を村からかえようと
わかものたちが村にはいりこんだ共同体運動がもとになっており、
その名も「コミューン学校」として
1ヶ月農場にねとまりしながら 農業を体験させてくれた。
そのうえで もうすこし
農場での仕事をつづけたいとおもったら、
つぎは1年間の研修をうけさせてくれる。
研修のあいだは まったくお金がかからないうえに、
お米や野菜のそだて方やミソづくりを体験できるし、
お客さまとしてではなく、村にくらすひとりとして、
村の行事にかかわったりもした。
食事の準備は当番制で、
自分の番になると15人分の食事を用意する。
お風呂は五右衛門風呂で、マキをわって湯をわかした。
いまおもうと お金をはらってでもうけたい研修であり、
この1年間でわたしはすっかり生まれかわった、
というのはもちろんウソで、
研修のありがたさをまったく自覚せず、
仲間たちと 無為にすごした貴重な1年となった。

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2016年06月20日

『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』(高野秀行)納豆の常識を、ぜんぶひっくりかえす

『謎のアジア納豆 そして帰ってきた〈日本納豆〉』
(高野秀行・新潮社)

アジアの納豆といえば、照葉樹林文化論だろう。
日本の縄文時代には、中国の雲南省からヒマラヤにかけて、
お茶やツバキなど、表面がてかてかした
常緑の広葉樹林(照葉樹林)がひろがっていた。
その地域では、お茶・コウジ・納豆・モチなどをこのむ、
日本とおなじような文化がみられると、
植物学者の中尾佐助氏によって
発表されたのが照葉樹林文化論だ。
西日本もかつては照葉樹林がおいしげり、
ヒマラヤや雲南省にくらす民族と共通の文化がみられるという。
縄文時代における農耕の可能性とかさなり、
ロマンチックで壮大なイメージを刺激される。

アジア納豆と日本の納豆は、
おなじ照葉樹林文化にぞくするのだから、
アジアと日本におなじような納豆があったからといって、
なんの不思議もない。
高野さんは なにをいまさらアジアの納豆なんていいだしたのだろう。
でもまあだいすきな高野さんなので、つきあって本書をもとめた。

よみはじめても、照葉樹林文化の説明はみあたらない。
「照葉樹林文化」ということばをさがして
ざっと目をとおすけど、いつまでもでてこない。
350ページの本書にあって、323ページめでようやく
「照葉樹林文化」の語句が顔をみせた。
高野さんは、照葉樹林文化論では
納豆をよくたべる地域を説明できないとして、
否定的なかんがえ方をしめしている。
本書は、照葉樹林文化論とはべつな視点から、
じっさいに納豆をつくり・たべている
ひとたちへの取材をつうじて、
納豆の起源と発祥について仮説をたてている。

日本人は、納豆をたべるのは日本人だけだとおもっているし、
かりにほかの国に納豆とよくにた発酵食品があっても、
それは日本の納豆と根本的に別ものときめつけている。
糸をつよくひくのがよい納豆で、
納豆菌はワラのなかだけにすみ、
納豆特有のにおいがなければほんものの納豆ではなく・・・。
高野さんは、ミャンマー・ネパール・中国、
そして日本での取材により、
これまでおもいこんできた納豆の常識をぜんぶひっくりかえす。

納豆の起源について、納豆が基本的に
山の民によってつくられてきた歴史から、
醤油にかわるダシとしての役割をはたしてきたと 高野さんは指摘する。
醤油や魚醤(ナンプラーやニョクマム)があるところは
納豆のうまみを必要としない。
肉や油がかんたんに手にはいらないからこそ
納豆がもとめられたのだ。
日本でも、納豆をよくたべていた村では、
納豆といえば納豆汁であり、
納豆汁はダシをとらず納豆だけのうまみでつくっていた。

納豆発祥の地についても、
納豆は実に簡単にできる食べ物だ。(中略)いろいろな場所でいろいろは時期に作られるようになり、いったん作られると、近隣の民族にも「お、これ、なかなか美味いな」という調子で伝わっていったのではないか。

煮豆が発酵してしまい、たべてみたらうまかった、
というのが納豆の「おこり」であり、
そんな納豆にはっきりした「発祥の地」は特定できない、
というのが高野さんのかんがえ方だ。

わたしは、納豆について、しっているようで なにもしらなかった。
おおくの日本人もまた、わたしとおなじかんちがいをしている。
これだけポピュラーなたべものなのに、
なぜこんなに理解されてなかったのか ほんとうに不思議だ。
わたしがすきな照葉樹林文化論は否定してあるけれど、
現場での取材をつみあげて 納豆の核心にせまった
迫力のあるノンフィクションとなっている。
日本で納豆をよくたべるのが東北地方と、
照葉樹林文化帯でないだけが問題なのだから、
九州あたりでアジア納豆とおなじ納豆がつくられていたら、
照葉樹林文化論は否定できない。
高野さんによるこれからのさらなる調査をまちたい。

posted by カルピス at 22:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 高野秀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月19日

「ののちゃん」アナグラムによるイチロー選手のヒット数

朝日新聞に連載されている「ののちゃん」をたのしみにしている。
だけど、6月17日の「ののちゃん」は わらえなかった。
内容がよくなくて わらえない、というのではない。
意味がまったくわからなかったのだ。
「ののちゃん」をよんでも、よくわからずに
わらえないことが ときどきある。
マンガのオチがわからないのは ずいぶんさみしいもので、
朝からおちつかない気分になってしまう。
今回の「ののちゃん」には、なにがかくされているのだろう。

シチュエーションは こうだ。
ATMのまえで、
おじいさんがおばあさんに
暗証番号をたずねている。
おばあさんは4桁の数字(2754)をもろにつたえる。
のけぞるまわりのお客さん。
ののちゃんも、「やばいよね」と
おかあさんにはなしかけている。
4コマめは、おばあさんがおじいさんに
「アナグラムですよ」と
おおごえで念をおしており、
おじいさんは「わかっとるわい!」と、
さきほどきいた4つの数字をいれかえて
機械にうちこんでいる(5274)。

アナグラムがわからない。
アナグラムって、なんだ。
ウィキペディアによると、
単語または文の中の文字をいくつか入れ替えることによって全く別の意味にさせる遊び
とある。
なぜいしいひさいちさんは、
アナグラムをもちだしたのか。

いくらかんがえてもわからないので しばらくほっておいた。
ぜんぜんべつの記事をよんでいたとき、
はじめにおばあさんがおじいさんにつたえた
「2754」をいれかえたら、
イチロー選手がせんじつ達成した日米通算安打数、
4257になると気づいた。

すごい。いしいひさいちさんは、
ひとこともイチロー選手の名前をださずに
ピート=ローズ選手をうわまわったと おいわいしたのだ。
でも、もうひとつすっきりしない。
アナグラムによるヒット数には気づいたけど、
そのさきの意味がわからない。
なぜアナグラムというかたちを いしいさんはえらんだのか。
「ののちゃん」のなかでくちにされた「2754」と「5274」にも、
ほんとうは なにか意味があるような気がする。
イチロー選手が日本でうったヒット数は1278本。
これらの数字をたしたり ひいたりしたら、
もしかしたら だれも注意をはらわなかった
イチロー選手の偉業が姿をあらわすかもしれない。

posted by カルピス at 20:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | いしいひさいち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月18日

稲の苗はどこだ

田んぼに水をはる。
4月すえに種モミを土団子にしてまいているので、
もうそろそろある程度のおおきさに稲がそだっているはずだ。
まわりの田んぼをみると、田うえのたすぐあとは
たよりない苗だったのが、
いまではすっかりげんきよくそだち、
田んぼにはった水がみえないくらい稲がおいしげっている。

わたしの田んぼに目をやると、
どれが稲なのかよくわからない。
げんきがいいのはぜんぶヒエのような気がする。
きょねんもこんなかんじで、
けっきょく穂がみのるまでわからなかった。
ことしの稲は、もっと苦戦しているようだ。
種モミとしては、きょねんとれたモミをつかっている。
自分でそだてた稲をもとに、
お米をつくるのは ただしいすがただとおもうけど、
種モミとしてつかうには、なにか問題があったのだろうか。
ふつうの種モミは、塩水選といって、
塩みずにうかべ じゅうじつした種をえらんだのちに、
消毒したり、水につけて発芽しやすくしてから
育苗箱に種まきをする。
そこらへんを ぜんぶすっとばして
土団子にしたのだから、
いい種ばかりではなかったかもしれない。
それにしても全滅になるわけはなく、
なにが原因で芽がでなかったのかわからない。
160618田んぼ.jpg
田んぼのあとで畑にまわった。
こちらには2週間まえにサツマイモの苗をうえている。
ウネ全体をたがやすのではなく、
苗をさす場所だけ移植ごてで穴をあけた。
草をふせぐために、草かりをした草を苗のまわりにしく。
いわゆる草マルチで、いい時期に雨がふったせいか、
ほとんどの苗がげんきにそだっていた。
じゃがいもが、もうすぐ収穫の時期なので
ためしに2株ほってみる。
種イモとかわらないちいさなじゃがいもが、
いくつかできていた。
肥料なしでつくる自然農法は、
いまのところあまり結果をだしていない。
でも、畑の土はやわらかく、
いいかんじにかわってきている。
もうすこししたら みのりの時期をむかえるのだとおもいたい。

posted by カルピス at 18:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月17日

『本の雑誌』7月号の特集「読書の原点を探せ!」

『本の雑誌』7月号の特集は、「読書の原点を探せ!」。
子どものころよんだ本(児童書)をとりあげている。
おもしろかったのが、
「この本を読むとこうなる!?」で、
web本の雑誌の「作家の読者道」に登場した作家たちが、
おさないころどんな本をよんでいたのか しらべている。
作風と読書歴に、ある程度は関係がありそうだけど、
リストアップされた児童書ランキングと、
それらをよんでいた作家たちに、
かくべつ はっきりした傾向はみえない。
おおくの作家が、児童書にしたしんでいたのは
インタビューからもあきらかとはいえ、
だからといって「この本を読むとこうなる」
とはいえないのは、かんがえてみたらあたりまえだ。
おさないころの読書が、
そのごの作風にちょくせつ影響をあたえるわけがなく、
むりやりの調査なのが「本の雑誌」らしい。

おおくの作家が 子どものころの読書体験として
「赤毛のアンシリーズ」や
「ホームズシリーズ」の名をあげており、
ほかにも「ドリトル先生シリーズ」や
『長くつ下のピッピ』など、
わたしがよんできた本もおおい。

「ドリトル先生シリーズ」は、
6年生の夏やすみに全巻をよんだ。
家から3キロほどはなれたところにある県立図書館へ、
あついひざしをあびながら
まいにちのように自転車でかよった。
もっとちかくに図書館がほしいと
学校の先生にもらしたら、
県図書があるだけありがたくおもいなさい、
みたいなことをいわれた。
ちかくに図書館があったら、とねがうのは、
けしてまちがっていない。
学校の先生は、つまらないことをいうものだ。
こうした教育くさい発想が、
子どもながらにすごくいやだった。

「岩波少年文庫」への取材では、
『トムは真夜中の庭で』や『クローディアの秘密』が
「不動の定番書目」としてあげられている。
自分がたのしみ、むすこへのよみきかせで またであった本だ。
『あのころはフリードリヒがいた』は、
あかるい内容でないのに
歴代うりあげのベスト9にランキングされている。
岩波書店が子どもの本にはたしてきた役割を
ありがたくおもう。

わたしが小学生のころ熱中したのは
『ロビンソン・クルーソー』だ。
無人島にながれついたロビンソンが、
家をたて、猟をし、やがて小麦もそだてたり、
だんだんと生活をきずいていくようすがすきで、
図書館にあった何冊かの『ロビンソン・クルーソー』を
ぜんぶよんだ。
おさないころにすきだったからといって、
「この本を読むとこうなる」わけがない、
とさっきかいたけど、
この『ロビンソン・クルーソー』だけは
かなりの部分、おとなになってもひきずるような気がする。
わたしが旅行や自給自足に関心をむけるのは、
『ロビンソン・クルーソー』による影響をもろにうけている。

『ロビンソン・クルーソー』と、
禁欲的なプロテスタントとの関係について、
20代のころよんだ大塚久雄氏の本にかいてあり おどろいた。
冒険の本かとおもっていたのに、
そんなよみ方もできるらしい。
わたしの価値観のどこかに、
プロテスタント的な倫理がかくれているのだろうか。

posted by カルピス at 22:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月16日

『ドライ・ボーンズ』(トム=ボウマン) なぜさいごまで よみおえられたのだろう

『ドライ・ボーンズ』
(トム=ボウマン・熊井ひろ美:訳・ハヤカワ文庫)

web本の雑誌で杉江松恋さんと目黒考二さんが
この本を絶賛している
(目黒さんは霜月蒼氏の解説文についてほめている)。
アメリカ探偵作家クラブ賞を受賞しているし、
まちがいなくたのしめるだろうと期待してよみはじめると、
みごとに肩すかしをくった。
登場人物がおおく、にたような名前がいくつもあって おぼえきれない。
でてくるひとたちが、付属でついている
「登場人物」一覧におさまりきらず、ほとんど参考にならない。
いろいろ事件がおこるのだけど、
主人公のヘンリーが、なにをいったい深刻においかけているのかが、
さいごまでよくわからなかった。
それでもひとばんに数ページずつ、
ほそぼそとよみつづけ、1ヶ月半かけて ようやくよみおえた。

数ページずつの読書は かなり効率がわるい。
これまでによんできた出来事のおおくをわすれており、
まえにさかのぼって確認していると、
その日はさきにすすめずにおわり、なんてときもある。
集中できない本はたくさんあるし、
とちゅうでなげだした本もおおい。
そんななかで、『ドライ・ボーンズ』は、
全体像がつかめぬまま、
なぜわたしはよみつづけたのかのほうが 不思議におもえた。
いつもなら、もっとはやいうちによむのをやめている。
1ヶ月半もよみつづけたのだから、
なにかがわたしのこころをとらえたのだ。それはなにか。

たしかにハードボイルド特有の雰囲気があり、
いくつかの場面にかぎれば ここちよくよめた。
ただ、杉江さんと目黒さんの書評、それに
目黒さんがほめていた霜月氏の解説文へのたのしみがなければ、
もっとはやい段階でなげだしていただろう。
数ページずつ ほそぼそとよみつづけたのは、
わたしとしては めずらしい例だ。
マラソンなら、たちどまらずにはしりおえたら自慢できるけど、
数ページずつよみすすめてゴールをむかえたからといって、
いいことは ほとんどない。

霜月氏の解説文は、たしかにすぐれたよみものとなっている。
本文よりさきに解説をよむのは
よくないよみ方といわれるけど、
すくなくともこの本にかぎっては、
解説文からよんだほうが読者に親切だろう。
この作品をすんなり理解するには、
アメリカの歴史についてはばひろい知識が必要で、
それがなければ ながくておもい記述をたのしめない。
霜月氏の解説は、本書の位置づけを理解するうえで、
わかりやすい手びきとなっている。
そもそも東海岸北部は、ヨーロッパから入植してきた最初期の移民にまでさかのぼる白人の歴史があるわけで、その山間には、二十一世紀の常識から切り離されて、建国以来の「アメリカ」が封じられている。

霜月氏は画家グラント=ウッドのかいた
『アメリカン・ゴシック』という絵に、
「信仰と背中合わせの頑迷のようなもの、あるいは不寛容。それはアメリカの基盤をなす、「アメリカという土地」の姿
をみる。
作品の舞台となった町が、アメリカ社会において
どんな意味づけをされやすいかなど、
おそらくおおくの日本人には
なんらかの手だすけがあったほうが 理解しやすい。

これだけわけがわからないまま よみつづけた作品は記憶にない。
なぜなげださなかったのかだけが印象にのこる。
解説文からさきによむのをおすすめする めずらしい本であり、
わたしには文学的すぎる作品だったみたいだ。

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月15日

ぬくぬくと外仕事をしていたあのころ

ながぐつをかいにホームセンターへいったら、
適当なのがなかった。
内側がゴムばりのながぐつをさがしてるのに、
ぜんぶ布がはってある。
ぬれるのが前提のながぐつなのに、
ぬれたら なかなかかわかない布をはるのはなぜだろう。

わかいころ一年間の農業研修に参加していたとき、
季節をとわずながぐつのお世話になった。
夏でも冬でも足をまもってくれる。
むれないし、ぬれない。
ながぐつさえはいていたら、どこへでもはいりこめた。
山のなかでもマムシをおそれなくていいし、
田んぼや畑でも ながぐつをはけば すべての仕事で用がたりる。
農作業というと、地下足袋をおもいうかべるけど、
どこにでもでかけられるという点では
ながぐつにかなわない。

カッパも、作業用のぶあついカッパをつかっていた。
ビニール製なので、とうぜんむれる。
むれるけど、頑丈だ。
よくメッシュをつかった「むれにくい」カッパがうられているけど、
山仕事や足場のわるい場所の草をかるときなど、
チャラチャラした製品ではすぐだめになる。
しいたけの原木をかかえたりするのには、
頑丈なカッパでないと仕事にならない。
おもいし、かっこはよくないけど、
ちょっとやそっとではやぶれないので信頼がおける。

晴耕雨読にあこがれていたのに、
農業では 雨がふるとおやすみなのではなく、
草かりをするのだと はじめてしった。
雨のなかでの仕事は、みためにはしんどそうだけど、
それなりの装備でのぞめば あんがい平気だ。
草かりにかぎらず、雨の日でもやることはいくらでもある。
小雪のまう冬のさむい日に、
ハデにつかった材木や竹を1本ずつ肩にかついで
かなりながい距離をはこんだことがある。
まわりからみれば、さぞたいへんそうな風景だったとおもう。
でも、やっているほうは、適度な運動量でからだがあたたまり、
ぶあついカッパが雪や風をふせいでくれる。
気温のひくさとはうらはらに、
うっとりするような快適さをあじわっていた。
自分が外仕事にむいているとはおもわなかったけど、
こんなふうに きびしそうな環境のもとで
ぬくぬくとはたらくのは わるくないとおもった。
快適さをおもんじる わたしのこのみは、
あんがいこうした外仕事でやしなわれたのかもしれない。

posted by カルピス at 21:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月14日

初マラソンをふりかえる

『ラン×スマ』をみていたら、初マラソンとして
徳島マラソンに挑戦した女性ランナーをとりあげていた。
番組スタッフの高樹リサさんがサポートとして いっしょにはしる。
この女性は、これまで10キロとハーフの大会は体験してきたものの、
マラソンは はじめてなので、ずいぶん緊張しておられた。
いまの心境は?とたずねたら、
「にげだしてしまいたい」とこたえられている。
わたしは、にげだしたい、とはおもわないまでも、
レースまえはいつも「やだな〜」と
ネガティブな心境になる。
なんだってエントリーなんかしたんだろうと、
いつも自分につっこみをいれる。

番組では、とちゅうから足がうごかなくなった女性ランナーが、
ストレッチをいれて 腰やもものいたみをやりすごしていた。
そして、たちどまらずに6時間6分でゴール。
たのしかった、サポートのおかげでみじかくかんじたと、
ぶじに初マラソンを完走でき、感激されていた。
みているわたしまでうれしくなる。
またフルマラソンをはしりたくなってきた。

わたしの初マラソンは、2011年12月におこなわれた
チェンマイマラソン(タイ)だ。
初マラソンであり、マラソンはいまだに
このレースしかはしっていない。
とにかく「マラソンを完走したことがある」といいたくて参加した。
タイムは4時間51分。
後半からはただただ足がおもかったことだけをおぼえている。
レースまえの緊張や、ゴールしたときの感激は、
すっかりわすれてしまった。
日記をひっぱりだして、
わたしの初マラソンをふりかえってみたい。

タイといっても冬のチェンマイは日本の秋みたいで、
そんなにあつくない。
とはいえ日中には30℃くらいまで気温があがるので、
スタートは朝4時とめちゃくちゃはやかった。
主催者の挨拶もなく、なんとなくスタート地点にランナーがあつまって
4時になると あっけなくスタートする。
わたしは、となりではしるドイツ人ランナーを
かってにパートナーとしてえらんだ。
そのひとは、自己ベストが3時間40分だけど、
いまはリハビリちゅうなので、
5時間くらいをめざしているらしい。
わたしにちょうどいいペースなので、
そのひとについてはしることにする。

はじめのうちは、らくすぎるほどペースがおそい。
からだはもっとスピードをあげたがっている。
でも、初マラソンのおしえとして、
前半はおさえぎみにはしるのがセオリーなので、
20キロまではゆっくりいこう、
もし余裕があれば、そこからスピードをあげようと
おさえぎみにはしる。
正解だった。
20キロになったころ、みごとに足がとまる。
30キロの壁というより、20キロにも壁があるみたいだ。
そこからずっとヘロヘロのはしりとなり、
完走したものの、自分の足ではしりぬいた実感はない。
うごかなくなった足をまえにふりだしながら、
なんとかさいごまで あるかずにはしりおえた。
完走できたよろこびよりも、
フルマラソン経験者としての実績を手にでき ホットする。

タイでマラソンをはしったときのたのしみは、
なんといってもタイマッサージだ。
ホテルのひとからいいお店を紹介してもらい、
なんにちか かよった。
1時間、ときには1時間半のマッサージをうける。
クラッシュアイスでガンガンにひやされたシェイクも
マラソンのあとにはごちそうだった。

参加料は1010バーツ(当時で3000円)。
単調すぎるけど、ほぼフラットのコースは初心者むけだ。

posted by カルピス at 21:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月13日

玉造温泉駅で同時にとまる のぼりとくだりの特急やくもを 犯罪トリックにつかえないか

おでかけ支援ちゅうに、玉造温泉駅で電車をまっていると、
午後3時51分に、のぼりとくだりの特急やくもが
ほぼ同時にはいってきた。
せまいプラットフォームをはさんで、
のぼり線とくだり線の特急やくもがとまる。
玉造はちいさな駅だけど、温泉街のある観光地なので、
特急をふくむすべての列車がとまる。
特急やくもの のぼりは岡山ゆき、くだりは出雲市ゆきだ。
両方のやくものドアがあき、やろうとおもえば
反対側のやくもへのりうつれる時間帯があった。
あたまにまずうかんだのは、
犯罪小説のトリックにつかえないか、ということ。
あまりにもきれいに 2つの列車がすべりこんできたので、
この状況をいかしたくなった。

おおきな駅では のぼりとくだりの特急が、
おなじ時間帯にとまるなんて、日常的な光景かもしれない。
でも、ここは単線の山陰本線。
ホームをはさんで両方に特急がとまるのは
できすぎた映像みたいで、すごくうそくさい。
もし映画ならつくりすぎだとおもうだろう。

映画『トゥルーマン・ショー』をおもいだした。
主人公のジム=キャリーがちょっと目をそらしたすきに、
つくられた世界の住人たちが、
バタバタバタっと うらでつじつまをあわせる。
わたしが日常をすごす世界は、ほんとうに現実なのか。
のぼりとくだりのやくも号がどうじにとまる ありえない状況を、
わたしの意識をあざむこうとして、
だれかがおぜんだてした可能性はないか。

絶妙なタイミングで同時にとまった
のぼりとくだりの特急やくもなのに、
反対側の列車へ おおあわてでとびのるひとはいなかった。
単純にかんがえて、出雲市をでたやくも(岡山ゆき)から、
玉造駅で出雲市ゆきのやくもにのりかえるのは、
わすれものをした うかつな乗客しかいない。
わたしがみている世界は、そのまましんじてもよさそうだ。

posted by カルピス at 21:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月12日

自炊をはじめ、わたしの定番料理をつくるようになったむすこ

むすこが進学のため 広島でのくらしをはじめ、
中高齢者3名となったわがやは、夕ごはんがだいぶかわった。
これまでは、わかい胃袋を満足させるために
どうしても量が必要だった。
むすこがいなくなると、ボリュームのある料理をつくっても、
いつまでもなくならない。
カレーや鍋ものがこんだてからきえ、
料理のはばがせまくなった。
量をかげんするようになり、
居酒屋のつきだしみたいなおかずがふえた。
あたらしくおかずをつくらずに、
のこりものですませる日もある。
こんなふうに、だんだんと
老人むけのこんだてにうつっていくのだろう。

わるいことばかりではない。
むすこはナスやピーマンなど、おおくの夏やさいをにが手としており、
夏はあんがいこんだてがむつかしかった。
むすこがいないと、遠慮なくナスとピーマンのミソいためや
ゴーヤチャンプルーをつくれる。
むすこがいなくなって楽になった部分だ。

むすこはコンビニや外食ではなく
自分でつくってたべているという。
このまえはギョーザをつくったそうだ。
「本をかったの?」ときくと、
「うん」という。
かんがえてみれば、
本なんかかわなくても、
つくる気さえあれば、ネットですぐにしらべられる。
まえよりも、自炊はずっと簡単だ。
もっとも、ネットがない時代でも、
自炊する気さえあれば、本をみればわかったのだから、
けっきょくはどうしたいかという気もちの問題なのだろう。

ギョーザはわたしの定番料理だった。
ひとりでくらすようになったむすこが、
ギョーザをつくる気になったのは、ちょっとうれしい。
大学でも、ユースホステルにとまったりするクラブ
(なんてクラブかおしえてくれなかった)にはいったという。
これなんかもわたしの影響といえないこともなく、
ますますうれしい。

「web本の雑誌」に連載されている日常学事始
(荻原魚雷)の31回目は「ちゃんとした生活とは?」。
http://www.webdoku.jp/column/gyorai/2016/0530_104233.html
ものをくさらせないくらしについてかかれている。
自炊をするようになって はじめての夏は、
つい材料やつくった料理をくさらせるだろう。
むすこにそれとなくこの記事をしらせたい、とおもいつつ、
よくかんがえたら、のこされたわたしたちのほうが、
冷蔵庫にやたらとつめこみがちで、
むすこのいない「はじめての夏」を、
注意したほうがいいかもしれない。
料理を省力化しすぎて、栄養のかたよりもでそうだ。
おいしいものをすこしだけ、というこんだてになれ、
自分のたべたいものをつくっていこう。

posted by カルピス at 21:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月11日

宍道湖岸を2時間のLSD

職場のランニング仲間と2時間のLSD。
LSDは、ロング・スロー・ディスタンスの略で、
ながい距離にからだをならす効果がある。
わたしはいつもゆっくりはしっているので、
LSDみたいなもんだろうとおもっていたけど、
1キロを7分以下のペースでまわる
ちゃんとしたLSDはべつものだった。
あいかたのつけていた時計でスピードをおしえてもらうと、
くるしくなったところで スピードをあげているのがわかった。
いつもはそうやってからだをごまかしてるので、
スピードと距離の両方が、どっちつかずになっているのだろう。
おしゃべりしながらゆっくりはしっていると、
だんだんからだがなれてきて、
いくらでもはしれそうな気になってくる。

いっしょにまわった女性は、サプリメントにくわしく、
水分をいくらとってもカリウムがたりないと意味がないとか、
はしりおえたあとの30分以内に
アミノ酸をおぎなうと回復がぜんぜんちがう、など
わたしのしらない情報をおしえてくれる。
わたしはむかしながらのランナーで、
サプリメントについてほとんど関心がなく、
熱中症にならないよう、水をたくさんのんではしるよ、
くらいの知識しかない。
じっさいに、はしっているさいちゅうに
わけてくれたサプリメントをのんでみると、
からだが楽になり、即効的な効果を実感する。
ゆっくりはしってるにひどく汗をかくわたしをみて、
ミネラルがたりないのでは、とおしえてくれた。

2時間はしるのは、そうめずらしくないけど、
おしゃべりしながらゆっくりはしるのはたのしかった。
2時間を、まったくながくかんじなかったし、
はしりおえたあとも、まだ余裕があった。
足をひきずるようないつものラストとはえらいちがいだ。
ゴールすると、すぐにプロテインを手わたされ、
心理的な効果もあってか、あっという間にげんきを回復する。
原始的なわたしのからだは、なにをあたえられても効果がはやい。
のどもかわいてないし、おなかもへってない。
まだ10キロぐらいはしれる気がする。

いつもビールをたのしみに2時間はしる、というと、
長距離は肝機能に負担をかけるので、
はしったあとのビールはやめたほうがいいそうだ。
でも、ついふらふらとビールをかってしまうのが
わたしのよわいところで、プレミアム・モルツをごほうびに
きょうのLSDをしめくくった。
8月7日のスイムランにむけて、
長距離にからだをならしていきたい。

posted by カルピス at 18:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする