ゆうべは配偶者と恒例の花火大会へ。
これまで2日間にわけてうちあげていたのが、
いちにちだけの1万発にかわった。
なぜ2日にわけるのか 理解できなかったので、
わたしとしてはよろこばしい変更だ。
配偶者とふたりででかけるのは、
とくになかがいいわけではなく、
最低限の家庭内社交、の意味あいがつよい。
花火だけにはつきあってくれるので、
波風がたっている時期であろうと、ほそぼそとつづいている。
ほかの町の花火をみたことがないので
なんともいえないけど、
1時間で1万発というと、みごたえがある。
うちあげがはじまってしばらくの時間は、
はでな花火でもりあげて、
そのあと さいごの5分まで単調な構成がつづき、
ラストにもういちどみせばをつくる。
一連の派手な花火が おしみなくうちあげられ、
もうおわったかなーとおもったころに、
ほんとうのクライマックスが用意されている。
花火にかぎらず、もよおしものは
だいたいこんなながれがおおい。
ことしは、女子中学生4人のグループのうしろでみた。
花火をみないでおしゃべりばかりしている子や、
スマホで動画をとっている子、
でもぜんたいとしては、花火をすなおにたのしんでいて、
おおきなのや とくにきれいな花火があがったら
そのつどこまめによろこんでいた。
まわりをみわたすと、あんがいひとりで見学しているひとがいる。
あんがいおおくのひとが、わたしたちとおなじように、
まいとしおなじ場所にでかけ、
ときのうつりかわりを しみじみかんじているのではないか。
いちねんごとに、おなじことをくりかえし、
でもかくじつに すこしずつ歳をかさね、
花火だけがかわらない、というのが いかにも人生ってやつだ。
わたしの配偶者は、花火だけがたのしみにみえるほど
花火見学を人生のはしらとして生きている。
さすがにだんだん目がこえてきて、このごろは、
「ことしの花火はもうひとつだった」と
いちねんにいちどの花火を ひとことできりすてる。
わたしからみると、まいとしおなじような花火の気がするけど、
配偶者にとって いちねんごとの差はあきらかだ。
ことしはじめてのうごきとして、
場所とりが禁止となった。
これまでは もうすこしやわらかい表現だったのを、
花火がはじまる直前まで 場所とりを「禁止」するという。
わたしとしても 場所とりはうつくしくない行為なので
「禁止」に賛成だ。
でも、じっさいは いつもとかわらなかった。
ひるごろ会場をとおりかかったときに、
たくさんのブルーシートがしかれていた。
場所とりを禁止するといっても、
パトロールでとりしまってばかりは いられないだろうから、
じっさいはやりたい放題になる。
きびしいあつさのなか、場所とりをしてまで
花火をみようとするエネルギーのまえには、
おねがいする側のよびかけなど とどかなかったようだ。
とおもったのは わたしのかんちがいで、
禁止は当日の朝8時までだった。
なかには1週間まえから場所とりするひとがいたから、
きょねんは苦情がよせられていたそうだ。
ひどい。
1週間まえから場所をとるなんて、
なにをかんがえているのか。
資本主義は、土地をかこったひとが
「ここはおれの土地だ」と宣言したのがはじまり、
という説をよんだことがある。
だんじて土地のかこいこみを ゆるしてはならない。
2016年07月31日
2016年07月30日
1時間はしっても 自販機とコンビニにであえないときがある
先週につづき、LSDのあと海でおよぐ。
もっとも、きょうは水泳の練習ではなく、
はじめからシュノーケリングをするつもりだ。
はしったあとのシュノーケリングをたのしみに、
2時間の予定ではしりはじめると、
あつさのせいか いつもよりくるしい。
海ぞいのコースだったため、
1時間はしって自販機やコンビニにであわない。
わたしとレース仲間の両方とも、
ポカリを500ccずつ ウエストポーチにいれて はしっていたけど、
それだけでは2時間のランニングにたりなかった。
ふたりとも手もちの水がほぼなくなりかけている。
そのときになって、ようやく
自分たちがあぶない状況になっていることに気づいた。
水分を補給しないと、このままではスタート地点にもどれない。
道ばたで畑しごとをされていた女性がいたので、
このさきの自販機とお店についてたずねると、
しばらくはまだなにもない道がつづくそうだ。
コースえらびに油断があったわけで、
このまますすんで どこか自販機があるところをさがすか、
ひきかえして手もちの水がなくなるまではしるかの
選択をせまられる。
われわれがこまって相談していると、
さっき道をたずねた女性が、
しりあいの家に声をかけて 水をもらってあげる、という。
もうしわけないけど、そうしてもらえると とてもたすかる。
おことばにあまえて女性についていき、
ちかくの家で氷のはいった麦茶をわけてもらえた。
麦茶をペットボトルにうつし、
出発点にむけて またはしりだす。
なんとかスタート地点までたどりついたものの、
あの麦茶がなかったら、わたしたちはどうなっていただろう。
はしれないから あるくしかないし、
あるいたとしても、水がなければ 34℃のあつさのなか
かなりきびしい状況になっていたはずだ。
熱中症でたおれても、とおりかかるひとのいない道では、
だれも気づいてくれない。
自販機とコンビニがどこにでもあると
きめこんでいたわたしたちのあまさを反省する。
平凡な日常も、このあつさのなかでは
ちょっとした油断が命とりにつながる。
水のある家を案内してくれた女性と、
麦茶をくれたそのおうちの女性は、
もしかしたら命の恩人かもしれない。
コンビニでかったおかしを、ともおもったけど、
月曜日に 職場でつくっているクッキーを
お礼にもっていくことにする。
もっとも、きょうは水泳の練習ではなく、
はじめからシュノーケリングをするつもりだ。
はしったあとのシュノーケリングをたのしみに、
2時間の予定ではしりはじめると、
あつさのせいか いつもよりくるしい。
海ぞいのコースだったため、
1時間はしって自販機やコンビニにであわない。
わたしとレース仲間の両方とも、
ポカリを500ccずつ ウエストポーチにいれて はしっていたけど、
それだけでは2時間のランニングにたりなかった。
ふたりとも手もちの水がほぼなくなりかけている。
そのときになって、ようやく
自分たちがあぶない状況になっていることに気づいた。
水分を補給しないと、このままではスタート地点にもどれない。
道ばたで畑しごとをされていた女性がいたので、
このさきの自販機とお店についてたずねると、
しばらくはまだなにもない道がつづくそうだ。
コースえらびに油断があったわけで、
このまますすんで どこか自販機があるところをさがすか、
ひきかえして手もちの水がなくなるまではしるかの
選択をせまられる。
われわれがこまって相談していると、
さっき道をたずねた女性が、
しりあいの家に声をかけて 水をもらってあげる、という。
もうしわけないけど、そうしてもらえると とてもたすかる。
おことばにあまえて女性についていき、
ちかくの家で氷のはいった麦茶をわけてもらえた。
麦茶をペットボトルにうつし、
出発点にむけて またはしりだす。
なんとかスタート地点までたどりついたものの、
あの麦茶がなかったら、わたしたちはどうなっていただろう。
はしれないから あるくしかないし、
あるいたとしても、水がなければ 34℃のあつさのなか
かなりきびしい状況になっていたはずだ。
熱中症でたおれても、とおりかかるひとのいない道では、
だれも気づいてくれない。
自販機とコンビニがどこにでもあると
きめこんでいたわたしたちのあまさを反省する。
平凡な日常も、このあつさのなかでは
ちょっとした油断が命とりにつながる。
水のある家を案内してくれた女性と、
麦茶をくれたそのおうちの女性は、
もしかしたら命の恩人かもしれない。
コンビニでかったおかしを、ともおもったけど、
月曜日に 職場でつくっているクッキーを
お礼にもっていくことにする。
2016年07月29日
やめなくてもよさそうな「やめてみた」リスト
新聞の広告欄に『やめてみた。』(わたなべぽん・幻冬舎)
〜生きるのがラクになる31のやめてみたこと〜
がのっていた。
「心の中まですっきりしていく」
「本当に必要なものが見えてくる 暮らし方・考え方」
とある。
いくつかの「やめてみた」例が
箇条がきされている。
・炊飯器でごはんを炊くこと
・テレビをだらだら見ること
・ゴミ箱をいくつも置くこと
・かさばる長財布を使うこと
・タバコを吸うこと
・明細をとっておくこと
・晩酌にビールを飲むこと
はじめはなにかの冗談かとおもった。
よんでもないのに余計なお世話だけど、
べつにやめなくてもよさそうなのに、
そんなに絶大な効果を発揮するのだろうか。
たとえば「テレビをだらだら見る」については、
テレビはだらだらみるにかぎる、と
そのひとが納得していたら それでいい。
やめてもいいけど、やめなくてもいい。
そのほかの項目も、どーでもよさそうなことばかりだ。
・必要ないのにコンビニで買い物すること
・通販で下着を買うこと
・ついつい夜更かしをしてしまうこと
・「私には似合わないかも・・・」という思い込み
・否定から入ること
必要ないのにコンビニでかうから
たのしいのだとおもうけど。
これくらいのことを
「やめてみた」といって まじめにすっきりするなんて、
わたしの美意識とはずいぶんちがう。
もちろんひとによっては、わたなべ氏の本をよんで
ふかく共感する場合もあるだろうから、
あくまでもわたしの個人的な感想だ。
これくらいの気づきでも、
本になるのか、本にするのかと おどろいている。
(追記)
調子にのって いろんな「やめてみた」をおもいついた。
・コーヒーをやめてみた
・つまようじをつかうのをやめてみた
・ショーユをつかうのをやめてみた
・お米をたべるのをやめてみた
・昼ごはんをたべるのをやめてみた
・そうじをやめてみた
・トイレットペーパーをつかうのをやめてみた
・洗濯するのをやめてみた
・歯みがきするのをやめてみた
・息をするのをやめてみた
生きるのをやめるまで、あともうすこしだ。
〜生きるのがラクになる31のやめてみたこと〜
がのっていた。
「心の中まですっきりしていく」
「本当に必要なものが見えてくる 暮らし方・考え方」
とある。
いくつかの「やめてみた」例が
箇条がきされている。
・炊飯器でごはんを炊くこと
・テレビをだらだら見ること
・ゴミ箱をいくつも置くこと
・かさばる長財布を使うこと
・タバコを吸うこと
・明細をとっておくこと
・晩酌にビールを飲むこと
はじめはなにかの冗談かとおもった。
よんでもないのに余計なお世話だけど、
べつにやめなくてもよさそうなのに、
そんなに絶大な効果を発揮するのだろうか。
たとえば「テレビをだらだら見る」については、
テレビはだらだらみるにかぎる、と
そのひとが納得していたら それでいい。
やめてもいいけど、やめなくてもいい。
そのほかの項目も、どーでもよさそうなことばかりだ。
・必要ないのにコンビニで買い物すること
・通販で下着を買うこと
・ついつい夜更かしをしてしまうこと
・「私には似合わないかも・・・」という思い込み
・否定から入ること
必要ないのにコンビニでかうから
たのしいのだとおもうけど。
これくらいのことを
「やめてみた」といって まじめにすっきりするなんて、
わたしの美意識とはずいぶんちがう。
もちろんひとによっては、わたなべ氏の本をよんで
ふかく共感する場合もあるだろうから、
あくまでもわたしの個人的な感想だ。
これくらいの気づきでも、
本になるのか、本にするのかと おどろいている。
(追記)
調子にのって いろんな「やめてみた」をおもいついた。
・コーヒーをやめてみた
・つまようじをつかうのをやめてみた
・ショーユをつかうのをやめてみた
・お米をたべるのをやめてみた
・昼ごはんをたべるのをやめてみた
・そうじをやめてみた
・トイレットペーパーをつかうのをやめてみた
・洗濯するのをやめてみた
・歯みがきするのをやめてみた
・息をするのをやめてみた
生きるのをやめるまで、あともうすこしだ。
2016年07月28日
『きょうのできごと』(柴崎友香)
『きょうのできごと』(柴崎友香・河出文庫)
すこしまえに映画化された作品をみており、
原作はどうなのかしりたくて、手をだしてみる。
映画が、原作そのものといえるほど、
たくみに映像化されているのをしり おどろいた。
わたしがみた映画は、ほんとうにこの原作どおりだった。
本をよむうちに、映画の風景がどんどんよみがえってくる。
原作をそのまま映画化のシナリオにもってきても、
セリフだけでは世界観を再現できない。
家のつくりやテーブルにならべられた料理、
お風呂で散髪する場面や、部屋着でドテラをはおる大学院生など、
こまかなところまでが みごとに原作どおりだ。
おかしなはなしだけど、
映画のあとから シナリオをもとにかいたのが小説、
みたいな気さえする。
これだけ映画と原作のイメージがかさなる作品をわたしはしらない。
この作品は、ひっこしをした大学院生の家へ、
なかまがおいわいにあつまるだけのはなしだ。
とくに、なにかがおこるわけではない。
なかまといっても、すごくしたしいあいだがらでもない。
はじめて顔をあわすひともいるし、
おいわだって ただたべてのむだけのはなしで、
ほんのちょっとしたあつまりにすぎない。
料理がなくなると、テレビゲームをするやつがでたり、
酒をのみながら いーかげんなおしゃべりをしたり。
自分が大学生だったころをおもいだした。
そうやって たいしたようもないのにひとの部屋にあつまり、
どうでもいいはなしをしながら
夜をあかしたものだとなつかしかった。
映画のイメージどおりの原作、とさっきかいたように、
映画のキャスティングが もののみごとにはまっている。
映画化されたたいていの作品は、
おおかれすくなかれ、イメージにずれがでてくるのに、
この作品だけはピッタリ一致する。
真紀ちゃんは田中麗奈でなければならないし、
中沢くんのどうでもよさはまさしく妻夫木聡だ。
ちよは、池脇千鶴でないとうまくいかない。
行定勲監督は、どうやってこんな完璧なキャスティングを
おもいついたのだろう。
映画をみたときには、とくにストーリーがないはなしを、
よく映画化したものだと感心した。
事件がおこらなくても、
劇的な恋愛がからまなくても、
なんとなくずるずるとみつづけてしまう。
なんということのない日常をえがきながら、
ここまでみるものの 気もちをひきつけるのはなぜか。
ずるして解説をさきによむと、
保坂和志氏が、「ジャームッシュ以降の作家」
という文をよせている。
そうか、このとらえどころがないのに 妙にリアルなのは、
ジム=ジャームッシュだったのかとふにおちた。
躍動感がかんじられないジャームッシュの世界とは
すこしもにたところのない大学生たちだけど、
彼らのかるいおしゃべりが
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』にむけた
柴崎友香さんのこたえにおもえてくる。
ふかみはないようにみえても、
これはこれでひとつの希望ではないかと、
柴崎さんは彼らの生きかたを肯定している。
すこしまえに映画化された作品をみており、
原作はどうなのかしりたくて、手をだしてみる。
映画が、原作そのものといえるほど、
たくみに映像化されているのをしり おどろいた。
わたしがみた映画は、ほんとうにこの原作どおりだった。
本をよむうちに、映画の風景がどんどんよみがえってくる。
原作をそのまま映画化のシナリオにもってきても、
セリフだけでは世界観を再現できない。
家のつくりやテーブルにならべられた料理、
お風呂で散髪する場面や、部屋着でドテラをはおる大学院生など、
こまかなところまでが みごとに原作どおりだ。
おかしなはなしだけど、
映画のあとから シナリオをもとにかいたのが小説、
みたいな気さえする。
これだけ映画と原作のイメージがかさなる作品をわたしはしらない。
この作品は、ひっこしをした大学院生の家へ、
なかまがおいわいにあつまるだけのはなしだ。
とくに、なにかがおこるわけではない。
なかまといっても、すごくしたしいあいだがらでもない。
はじめて顔をあわすひともいるし、
おいわだって ただたべてのむだけのはなしで、
ほんのちょっとしたあつまりにすぎない。
料理がなくなると、テレビゲームをするやつがでたり、
酒をのみながら いーかげんなおしゃべりをしたり。
自分が大学生だったころをおもいだした。
そうやって たいしたようもないのにひとの部屋にあつまり、
どうでもいいはなしをしながら
夜をあかしたものだとなつかしかった。
映画のイメージどおりの原作、とさっきかいたように、
映画のキャスティングが もののみごとにはまっている。
映画化されたたいていの作品は、
おおかれすくなかれ、イメージにずれがでてくるのに、
この作品だけはピッタリ一致する。
真紀ちゃんは田中麗奈でなければならないし、
中沢くんのどうでもよさはまさしく妻夫木聡だ。
ちよは、池脇千鶴でないとうまくいかない。
行定勲監督は、どうやってこんな完璧なキャスティングを
おもいついたのだろう。
映画をみたときには、とくにストーリーがないはなしを、
よく映画化したものだと感心した。
事件がおこらなくても、
劇的な恋愛がからまなくても、
なんとなくずるずるとみつづけてしまう。
なんということのない日常をえがきながら、
ここまでみるものの 気もちをひきつけるのはなぜか。
ずるして解説をさきによむと、
保坂和志氏が、「ジャームッシュ以降の作家」
という文をよせている。
そうか、このとらえどころがないのに 妙にリアルなのは、
ジム=ジャームッシュだったのかとふにおちた。
柴崎友香は、あの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のジム・ジャームッシュがもたらしたショックを正しく、真っ正面から受け止めた小説家だと思う。(保坂和志)
躍動感がかんじられないジャームッシュの世界とは
すこしもにたところのない大学生たちだけど、
彼らのかるいおしゃべりが
『ストレンジャー・ザン・パラダイス』にむけた
柴崎友香さんのこたえにおもえてくる。
ふかみはないようにみえても、
これはこれでひとつの希望ではないかと、
柴崎さんは彼らの生きかたを肯定している。
2016年07月27日
食パンをケーキといいきれる会議
きのうにつづいてデイリーポータルZネタ。
「パンかケーキか会議」がおかしかった。
http://portal.nifty.com/kiji/160725197052_1.htm
・ヤマザキパンの「イチゴスペシャル」
・メロンパン
・ドーナツ
・蒸しパン
・フルーツサンド
・アップルパイ
・パウンドケーキ
・バームクーヘン
・食パン
など、どうみてもケーキなものから
みただけでは パンか、それともケーキなのか
すぐにはこたえられない商品を ごちゃまぜにならべ、
そのひとにとって パンかケーキかをあきらかにしていく。
蒸しパンは、とうぜんパンだといいきれそうなのに、
たべてみるとケーキっぽい気もしてくるとか、
なかなか判断がむつかしい。
あくまでも自分にとっては、という判断であり、
ひとによっては食パンもコッペパンも、
なにもかもケーキに分類するひとがでてきて
会議は紛糾してくる。
ケーキっぽさの本質は、クリームであるとか、
ケーキとはふわふわ感であるとか、
本質論がまた かまびすしい。
ケーキとはあまさであるというひともいるし、
ケーキ屋さんでうっているのがケーキ、
という極論までとびだしてくる。
もうひとつの論点として、
ケーキをなのるには、形もまた大切なのでは、
という意見もでてくる。
四角いアップルパイを三角形にきったら、とか、
さらに目をほそめてみたら、など、
さまざまな可能性について検討がかさねられている。
パンかケーキかをかんがえるような会議は、
じつはすべての分野において
日常的にわたしたちは体験している。
たとえばスポーツとはなにかをかんがえるとき、
運動量なのか、それとも競争に本質があるのか、
全国的な組織がととのっているかどうかなど、
みかたによっては、どれがスポーツなのかは
あんがいわけにくいものだ。
サッカーはとうぜんスポーツといいきりたいけど、
ではプロレスはどうかとか、
将棋やカルタなどをどうとらえるかも
ひとによってはさまざまだろう。
分類とは、はっきりきまった尺度があるようでいて、
たずさわるひとによって
おおきなゆれがともなってくる。
客観的な分類なんて、じつはありえないのだ。
食パンをケーキとするひとがいるみたいに、
あるひとによってはすべてがAかもしれないし、
だれもがBだとおもえるものでも、
目をほそめれば じつはCだった、
なんていうのもありえる。
「パンかケーキか会議」は、
そのあたまに「楽しい」がついている。
パンかケーキかをかんがえるような会議は
「楽しい」ともいえるし、
「楽し」くかんがえられないような会議では、
さまざまなアイデアがでてこない。
「楽し」く全部がケーキ、
といいきれるようなはなしあいが、
理想の会議だ。
「パンかケーキか会議」がおかしかった。
http://portal.nifty.com/kiji/160725197052_1.htm
・ヤマザキパンの「イチゴスペシャル」
・メロンパン
・ドーナツ
・蒸しパン
・フルーツサンド
・アップルパイ
・パウンドケーキ
・バームクーヘン
・食パン
など、どうみてもケーキなものから
みただけでは パンか、それともケーキなのか
すぐにはこたえられない商品を ごちゃまぜにならべ、
そのひとにとって パンかケーキかをあきらかにしていく。
蒸しパンは、とうぜんパンだといいきれそうなのに、
たべてみるとケーキっぽい気もしてくるとか、
なかなか判断がむつかしい。
あくまでも自分にとっては、という判断であり、
ひとによっては食パンもコッペパンも、
なにもかもケーキに分類するひとがでてきて
会議は紛糾してくる。
ケーキっぽさの本質は、クリームであるとか、
ケーキとはふわふわ感であるとか、
本質論がまた かまびすしい。
ケーキとはあまさであるというひともいるし、
ケーキ屋さんでうっているのがケーキ、
という極論までとびだしてくる。
もうひとつの論点として、
ケーキをなのるには、形もまた大切なのでは、
という意見もでてくる。
四角いアップルパイを三角形にきったら、とか、
さらに目をほそめてみたら、など、
さまざまな可能性について検討がかさねられている。
パンかケーキかをかんがえるような会議は、
じつはすべての分野において
日常的にわたしたちは体験している。
たとえばスポーツとはなにかをかんがえるとき、
運動量なのか、それとも競争に本質があるのか、
全国的な組織がととのっているかどうかなど、
みかたによっては、どれがスポーツなのかは
あんがいわけにくいものだ。
サッカーはとうぜんスポーツといいきりたいけど、
ではプロレスはどうかとか、
将棋やカルタなどをどうとらえるかも
ひとによってはさまざまだろう。
分類とは、はっきりきまった尺度があるようでいて、
たずさわるひとによって
おおきなゆれがともなってくる。
客観的な分類なんて、じつはありえないのだ。
食パンをケーキとするひとがいるみたいに、
あるひとによってはすべてがAかもしれないし、
だれもがBだとおもえるものでも、
目をほそめれば じつはCだった、
なんていうのもありえる。
「パンかケーキか会議」は、
そのあたまに「楽しい」がついている。
パンかケーキかをかんがえるような会議は
「楽しい」ともいえるし、
「楽し」くかんがえられないような会議では、
さまざまなアイデアがでてこない。
「楽し」く全部がケーキ、
といいきれるようなはなしあいが、
理想の会議だ。
2016年07月26日
大事なものをなくしたときには「自分のからだじゃない」作戦
デイリーポータルZに
「海外で大事な物をなくした人たちの話」がのっていた。
http://portal.nifty.com/kiji/160724197045_1.htm
パスポートやサイフなど、海外旅行になくてはならない貴重品を
「なくしたはなし」が報告されている。
わたしはすごく心配性なので、
さいわいだいじなものをなくした経験がない。
せいぜい水筒とかTシャツくらいで、
それでさえ、わすれものに気づいたときは、
しばらくモンモンとするほどケチで気がちいさい。
もしパスポートをなくしたりしたら
そうとうおちこみそうだ。
デイリーポータルZの記事によると、
なくした貴重品が、奇跡的にもどってきた例がすくなくない。
とはいえ、いったんは「なくなった」わけで、
その瞬間は、だれもがものすごくあわてている。
当然ながら、そのまま大事なものが
もどってこなかったひとだっている。
記事は「なくしたはなし」の紹介であり、
なくした場合、どうしたらいいかは またべつのはなしだ。
ひとつの対応策として、
自分を客観視する方法がある。
これは『1・2の三四郎』(小林まこと)にのっていた
「自分のからだじゃない作戦」の応用である。
三四郎に登場するレスラーが、
いくらなぐられてもびくともしないで
こりずにたちむかっていく。
そのレスラーがブツブツとなにか呪文をとなえているので、
いったいなにをいいきかせているのか よくきいてみると、
「自分のからだじゃない 自分のからだじゃない」だったのだ。
自分のからだだとおもうから、いたいわけで、
自分のからだでなければ、平然とやりすごせる、という理屈だ。
パスポートがなくなっても、いっしゅんで頭をきりかえて、
自分の身におきた事件とおもわないようにすれば、
のろまな観光客が、パスポートをなくした
よくある事件として 冷静に対応できる。
パスポートをなくした旅行者にできる対応はかぎられており、
あわてたところで、状況がよくなったりしない。
かなしみや不幸は、「自分」をはずして
10メートルくらい たかいところから 客観的にながめるのが
うまくやりすごすコツだ。
問題は、人間の脳みそは、どうしても「当事者」として
事件をとらえるようにできていることで、
すんなりと自分をはずせるひとは
認知機能になにか異常があるのかもしれない。
わたしはTシャツをなくしたぐらいでさえ
当事者感覚をビシバシ発揮できるので、
認知機能に不具合はないけれど、
「自分のからだじゃない」とは
どんな場合でも とてもおもえない。
「海外で大事な物をなくした人たちの話」がのっていた。
http://portal.nifty.com/kiji/160724197045_1.htm
パスポートやサイフなど、海外旅行になくてはならない貴重品を
「なくしたはなし」が報告されている。
わたしはすごく心配性なので、
さいわいだいじなものをなくした経験がない。
せいぜい水筒とかTシャツくらいで、
それでさえ、わすれものに気づいたときは、
しばらくモンモンとするほどケチで気がちいさい。
もしパスポートをなくしたりしたら
そうとうおちこみそうだ。
デイリーポータルZの記事によると、
なくした貴重品が、奇跡的にもどってきた例がすくなくない。
とはいえ、いったんは「なくなった」わけで、
その瞬間は、だれもがものすごくあわてている。
当然ながら、そのまま大事なものが
もどってこなかったひとだっている。
記事は「なくしたはなし」の紹介であり、
なくした場合、どうしたらいいかは またべつのはなしだ。
ひとつの対応策として、
自分を客観視する方法がある。
これは『1・2の三四郎』(小林まこと)にのっていた
「自分のからだじゃない作戦」の応用である。
三四郎に登場するレスラーが、
いくらなぐられてもびくともしないで
こりずにたちむかっていく。
そのレスラーがブツブツとなにか呪文をとなえているので、
いったいなにをいいきかせているのか よくきいてみると、
「自分のからだじゃない 自分のからだじゃない」だったのだ。
自分のからだだとおもうから、いたいわけで、
自分のからだでなければ、平然とやりすごせる、という理屈だ。
パスポートがなくなっても、いっしゅんで頭をきりかえて、
自分の身におきた事件とおもわないようにすれば、
のろまな観光客が、パスポートをなくした
よくある事件として 冷静に対応できる。
パスポートをなくした旅行者にできる対応はかぎられており、
あわてたところで、状況がよくなったりしない。
かなしみや不幸は、「自分」をはずして
10メートルくらい たかいところから 客観的にながめるのが
うまくやりすごすコツだ。
問題は、人間の脳みそは、どうしても「当事者」として
事件をとらえるようにできていることで、
すんなりと自分をはずせるひとは
認知機能になにか異常があるのかもしれない。
わたしはTシャツをなくしたぐらいでさえ
当事者感覚をビシバシ発揮できるので、
認知機能に不具合はないけれど、
「自分のからだじゃない」とは
どんな場合でも とてもおもえない。
2016年07月25日
老後はすでにはじまっている
本や映画にどっぷりつかった日々を 老後に夢みがちだけど、
老人になると、集中して本をよむ体力がすでにない、
とだれかがかいていた。
そういわれると、老化による
体力のおとろえが心配になってくる。
ただ、体力もかぎられてくるかもしれないけど、
そもそもそんなに本や映画がすきなのなら、
いまからできるだけ
本や映画ざんまいの日々をすごしたほうがいいのではないか。
そもそも老後とは、いつのことなのか。
一流企業につとめていたひとが 65歳で定年をむかえると、
つぎの日からまったくあたらしい生活がはじまるのかもしれない。
でも、わたしの場合は、
ある程度の仕事をつづけなければ
すぐお金にこまってしまう。
老後には、きっぱりと別の生活がまっているのではなく、
いまよりもすこし時間に余裕のある時期、
くらいのところだろう。
そんな人間が、老後になったら・・・と、
10年後をたのしみにするのはへんなはなしだ。
「今でしょう!」は、勉強だけでなく、
老後にとおもっていた あれやこれやにもあてはまる。
単純に、のこり時間がみえてきたことも関係する。
わかいころは、ずっーとはるかかなたに老後があったけど、
中年となったいまは、もうほんのちょっとさきでしかない。
もし本がすきでたまらず、わかいころよんだ本を、
歳をとってからじっくりよみかえそうなんて
おもっているのだとしたら、
老後になったら、なんていわないで、
いまのうちからよみかえせばいい。
まったく仕事をはなれ、本ばかりよむ生活を夢みるよりも、
いまから手をつけたほうがいい。
なんらかの制約があったほうが、
かえってスムーズにとりくめるように、
老後をむかえてからでなくても本はよめる。
毎年数冊ずつよみかえす本をきめていけば、
すくなくともきゅうにおむかえがきたときに後悔がすくない。
わたしの場合でいうと、『アンナ・カレーニナ』・『戦争と平和』・
ドストエフスキーの著作・カニグズバーグ著作集・
ジョン=アーヴィングの長編・ゲド戦記シリーズ・
梅棹忠夫著作集・村上春樹の著作など、
ちょっとおもいうかべただけでも
こうやってかぞえあげるのが無意味なくらい、
老後にたのしもうとおもっている本がたくさんある。
再読でさえ、候補にこまらないのだから、
新刊本をいれたら、時間はいくらあってもたりない。
もういちどみたい映画だって、おなじようにいくらでもある。
老後はすでにはじまっている。
いつやるのかといえば、今でしょう!がただしい。
老人になると、集中して本をよむ体力がすでにない、
とだれかがかいていた。
そういわれると、老化による
体力のおとろえが心配になってくる。
ただ、体力もかぎられてくるかもしれないけど、
そもそもそんなに本や映画がすきなのなら、
いまからできるだけ
本や映画ざんまいの日々をすごしたほうがいいのではないか。
そもそも老後とは、いつのことなのか。
一流企業につとめていたひとが 65歳で定年をむかえると、
つぎの日からまったくあたらしい生活がはじまるのかもしれない。
でも、わたしの場合は、
ある程度の仕事をつづけなければ
すぐお金にこまってしまう。
老後には、きっぱりと別の生活がまっているのではなく、
いまよりもすこし時間に余裕のある時期、
くらいのところだろう。
そんな人間が、老後になったら・・・と、
10年後をたのしみにするのはへんなはなしだ。
「今でしょう!」は、勉強だけでなく、
老後にとおもっていた あれやこれやにもあてはまる。
単純に、のこり時間がみえてきたことも関係する。
わかいころは、ずっーとはるかかなたに老後があったけど、
中年となったいまは、もうほんのちょっとさきでしかない。
もし本がすきでたまらず、わかいころよんだ本を、
歳をとってからじっくりよみかえそうなんて
おもっているのだとしたら、
老後になったら、なんていわないで、
いまのうちからよみかえせばいい。
まったく仕事をはなれ、本ばかりよむ生活を夢みるよりも、
いまから手をつけたほうがいい。
なんらかの制約があったほうが、
かえってスムーズにとりくめるように、
老後をむかえてからでなくても本はよめる。
毎年数冊ずつよみかえす本をきめていけば、
すくなくともきゅうにおむかえがきたときに後悔がすくない。
わたしの場合でいうと、『アンナ・カレーニナ』・『戦争と平和』・
ドストエフスキーの著作・カニグズバーグ著作集・
ジョン=アーヴィングの長編・ゲド戦記シリーズ・
梅棹忠夫著作集・村上春樹の著作など、
ちょっとおもいうかべただけでも
こうやってかぞえあげるのが無意味なくらい、
老後にたのしもうとおもっている本がたくさんある。
再読でさえ、候補にこまらないのだから、
新刊本をいれたら、時間はいくらあってもたりない。
もういちどみたい映画だって、おなじようにいくらでもある。
老後はすでにはじまっている。
いつやるのかといえば、今でしょう!がただしい。
2016年07月24日
「佛子園」雄谷理事長のとりくみ
「カンブリア宮殿」で
金沢にある「シェア金沢」をとりあげていた。
社会福祉法人「佛子園」の雄谷(おおや)理事長が、
「ごちゃまぜ」で活気のあるコミュニティをつくっている。
老人・わかもの・障害者・地域のひとたちが、
いっしょにくらしているようすが たのしそうだ。
「いろんなひととまじわるコミュニティで
ひとはかわることができる」
というのが雄谷さんの基本的なかんがえ方だ。
東京ドームよりすこしせまい敷地に、
老人ホームや天然温泉、レストランに小売店、
障害者施設が軒をつらね、70人ほどがくらしている。
老人ホームでくらす74歳の男性は、
ホームヘルパーの資格をとり、
老人のデイサービスで週2回はたらいておられた。
デイサービスの利用者と将棋をさし、
お風呂の時間になると、
大学生のボランティアがたずねてきて、
3人でちかくにある天然温泉へむかう。
その大学生は、コミュニティの敷地にあるアパートでくらしている。
週30時間のボランティアを条件に、家賃が4万円とやすい。
ほかにも、地域の子どもたちとあそぶことで、
いきいきとくらせるようになった
知的障害の青年が紹介された。
進行役の村上龍さんは、
「してもらう」より
「してあげる」ことで
ひとはしあわせになれる、
とかんじたそうだ。
わたしも障害者介護の仕事にかかわっており、
利用者が主体的にくらせるよう
気をくばっているつもりだけど、
どうしても対応は
わたしが「してあげる」立場になりがちで、
たとえ「してもらう」っぽい場面を用意しても、
つくりすぎで、なんとなくうそっぽい。
自分が必要とされている、
わたしがいないと このひとはこまってしまうんだと、
ほんとうにかんじられる状況を
どれだけうみだせるのかがとわれている。
わたしが所属するNPOも
「街づくり」をかかげているけれど、
日々のサービス提供ばかりに目がむかいがちで、
地域づくり・街づくりへのとりくみが
いつまでたっても形にならない。
いいサービスを提供することが、
部分的には すみよい地域づくりといえる面もあり、
それをいいわけに ずるずると年をかさねてきた。
いい事業所は、たいてい地域のひとたちをまきこんだ
活動を展開しており、
シェア金沢はそれを完成形にまで
じょうずにくみあわせているようにみえる。
老人だけでなく、障害者だけでなく、
地域のひとたちがレストランや温泉にひかれ、
義務感ではなく 自分たちのたのしみとして
コミュニティをおとずれている。
介護サービスをととのえ、提供するだけでは、
国の財源はつづかないだろう。
介護しているつもりはなくても
やってることはりっぱな介護、
みたいなシェア金沢のとりくみは
これからのくらしについて、ひとつのヒントをしめしている。
佛子園は、いま温水プールを建設ちゅうだ。
障害をもったひとがプールへいくと、
ほかのお客さんとのあいだに どうしても
不都合がおき、「おことわり」されて
くやしいおもいをしてきたそうだ。
自分たちのプールがあれば、おもいっきりあそべると、
雄谷理事長はプールの完成をまちのぞんでいる。
ふつうだと、プールをつくるよりも、
すこしずつ地域のひとへの理解をふかめるのが
ただしい道だといわれてきた。
謝罪と説明をていねいにかさね、
そのうえでおねがいをくりかえして
だんだんと地域にとけこんでいく、という筋道だ。
佛子園だって、そうした努力をつみかさねてきたのだろうけど、
てっとりばやいこたえとして、自分たちでプールをもつときめた。
コミュニティをつくり、ごちゃまぜな状況をめざしながら、
こんなふうにプールは自前のものをもちたいという、
アンバランスさがおもしろい。
金沢にある「シェア金沢」をとりあげていた。
社会福祉法人「佛子園」の雄谷(おおや)理事長が、
「ごちゃまぜ」で活気のあるコミュニティをつくっている。
老人・わかもの・障害者・地域のひとたちが、
いっしょにくらしているようすが たのしそうだ。
「いろんなひととまじわるコミュニティで
ひとはかわることができる」
というのが雄谷さんの基本的なかんがえ方だ。
東京ドームよりすこしせまい敷地に、
老人ホームや天然温泉、レストランに小売店、
障害者施設が軒をつらね、70人ほどがくらしている。
老人ホームでくらす74歳の男性は、
ホームヘルパーの資格をとり、
老人のデイサービスで週2回はたらいておられた。
デイサービスの利用者と将棋をさし、
お風呂の時間になると、
大学生のボランティアがたずねてきて、
3人でちかくにある天然温泉へむかう。
その大学生は、コミュニティの敷地にあるアパートでくらしている。
週30時間のボランティアを条件に、家賃が4万円とやすい。
ほかにも、地域の子どもたちとあそぶことで、
いきいきとくらせるようになった
知的障害の青年が紹介された。
進行役の村上龍さんは、
「してもらう」より
「してあげる」ことで
ひとはしあわせになれる、
とかんじたそうだ。
わたしも障害者介護の仕事にかかわっており、
利用者が主体的にくらせるよう
気をくばっているつもりだけど、
どうしても対応は
わたしが「してあげる」立場になりがちで、
たとえ「してもらう」っぽい場面を用意しても、
つくりすぎで、なんとなくうそっぽい。
自分が必要とされている、
わたしがいないと このひとはこまってしまうんだと、
ほんとうにかんじられる状況を
どれだけうみだせるのかがとわれている。
わたしが所属するNPOも
「街づくり」をかかげているけれど、
日々のサービス提供ばかりに目がむかいがちで、
地域づくり・街づくりへのとりくみが
いつまでたっても形にならない。
いいサービスを提供することが、
部分的には すみよい地域づくりといえる面もあり、
それをいいわけに ずるずると年をかさねてきた。
いい事業所は、たいてい地域のひとたちをまきこんだ
活動を展開しており、
シェア金沢はそれを完成形にまで
じょうずにくみあわせているようにみえる。
老人だけでなく、障害者だけでなく、
地域のひとたちがレストランや温泉にひかれ、
義務感ではなく 自分たちのたのしみとして
コミュニティをおとずれている。
介護サービスをととのえ、提供するだけでは、
国の財源はつづかないだろう。
介護しているつもりはなくても
やってることはりっぱな介護、
みたいなシェア金沢のとりくみは
これからのくらしについて、ひとつのヒントをしめしている。
佛子園は、いま温水プールを建設ちゅうだ。
障害をもったひとがプールへいくと、
ほかのお客さんとのあいだに どうしても
不都合がおき、「おことわり」されて
くやしいおもいをしてきたそうだ。
自分たちのプールがあれば、おもいっきりあそべると、
雄谷理事長はプールの完成をまちのぞんでいる。
ふつうだと、プールをつくるよりも、
すこしずつ地域のひとへの理解をふかめるのが
ただしい道だといわれてきた。
謝罪と説明をていねいにかさね、
そのうえでおねがいをくりかえして
だんだんと地域にとけこんでいく、という筋道だ。
佛子園だって、そうした努力をつみかさねてきたのだろうけど、
てっとりばやいこたえとして、自分たちでプールをもつときめた。
コミュニティをつくり、ごちゃまぜな状況をめざしながら、
こんなふうにプールは自前のものをもちたいという、
アンバランスさがおもしろい。
2016年07月23日
海でのトレーニングでしあわせをかんじる
本番のスイムランにむけて、海へでかける。
まず海岸ぞいを2時間はしり、そのあと海へ。
わたしはランニングですっかりつかれてしまい
(海岸ぞいだから、坂の のぼり・くだりがはげしい)、
海では20分しかおよげなかった。
いっしょにいったレース仲間は、
わたしがやすんでいるあいだもせっせとおよぐ。
ひさしぶりの海は、すごくいいかんじだ。
海びらきがあり、学校は夏やすみにはいっているのに、
海水浴場ではないためか、ほとんどひとがいない
(わたしたちのほかに2人だけ)。
水のなかのながめは、そうゆたかではないけど、
ちいさなさかなが あちこちでむれをつくっている。
およいでいるうちに、だんだんしあわせな気分になってきた。
原始の海にかえる、という本能なのかもしれない。
なにもかもが どうでもよくなり、
すべてがうまくいきそうでワクワクしてくる。
からだを自由にうごかして
さかなたちをながめながらすすんでいると、
トレーニングというよりも ゆったりと
シュノーケリングしてるみたいだ。
海からあがるとポリタンクにいれてきた水をかぶる。
シャワー設備がないところだし、
こっちのほうが場所をえらばない。
そんなことがどこでもできるほど
ひとがすくないのが島根のよさだ。
海でおよぐと適度にからだがひえて、
地上のあつさがまったく気にならない。
ハダがすべすべになり、
車にのってもエアコンをつけず
気もちよくすごせる。
子どものころの「夏」をおもいだした。
へとへとにつかれ、家にもどって スイカにかぶりつく。
そのあとひるね。
30℃ちかくある部屋でも ぜんぜん平気だ。
あーよくあそんだ、と
夏やすみみたいな すてきなトレーニングとなった。
まず海岸ぞいを2時間はしり、そのあと海へ。
わたしはランニングですっかりつかれてしまい
(海岸ぞいだから、坂の のぼり・くだりがはげしい)、
海では20分しかおよげなかった。
いっしょにいったレース仲間は、
わたしがやすんでいるあいだもせっせとおよぐ。
ひさしぶりの海は、すごくいいかんじだ。
海びらきがあり、学校は夏やすみにはいっているのに、
海水浴場ではないためか、ほとんどひとがいない
(わたしたちのほかに2人だけ)。
水のなかのながめは、そうゆたかではないけど、
ちいさなさかなが あちこちでむれをつくっている。
およいでいるうちに、だんだんしあわせな気分になってきた。
原始の海にかえる、という本能なのかもしれない。
なにもかもが どうでもよくなり、
すべてがうまくいきそうでワクワクしてくる。
からだを自由にうごかして
さかなたちをながめながらすすんでいると、
トレーニングというよりも ゆったりと
シュノーケリングしてるみたいだ。
海からあがるとポリタンクにいれてきた水をかぶる。
シャワー設備がないところだし、
こっちのほうが場所をえらばない。
そんなことがどこでもできるほど
ひとがすくないのが島根のよさだ。
海でおよぐと適度にからだがひえて、
地上のあつさがまったく気にならない。
ハダがすべすべになり、
車にのってもエアコンをつけず
気もちよくすごせる。
子どものころの「夏」をおもいだした。
へとへとにつかれ、家にもどって スイカにかぶりつく。
そのあとひるね。
30℃ちかくある部屋でも ぜんぜん平気だ。
あーよくあそんだ、と
夏やすみみたいな すてきなトレーニングとなった。
2016年07月22日
音楽の授業で学習したこと
中学の音楽の授業で、ソプラノ歌手のレコードをきかされた。
とてもたかい声で、ききなれないわたしには
ただうるさいだけだ。
そうおもっていたら、音楽の先生が、
「たかすぎて、ききぐるしいですね」みたいなことをいった。
先生の口から そんな発言がでたのはかなり意外で、
音楽は、そんなふうにかんじたことをそのままはなしてもいいんだと、
うれしい体験となる。
高校の音楽の授業でも、にたようなことがあった。
たかいソプラノのうたをレコードできき、
あとから生徒に感想をもとめる。
わたしは中学のときの学習をいかして、
「たかすぎてききぐるしい」と
おもっていたとおりの感想を口にした。
先生は もうおじいさんといってもいい高齢者で、
わたしの発言をきくと
ほんとうの音楽のよさをわからないくせに、
ききぐるしいとは おどろいた、と
頭ごなしの反応をしめされる。
感想をきかれたから 感想をつたえたのであり、
おもったとおりのことをいってなにがわるいのか。
そんなことなら感想なんかきかなくていいのに。
せっかく中学のときに学習した「自由」は
けっきょくたてまえにすぎないのを「学習」した。
わたしは楽譜がよめず、オンチでもあるので、
音楽の授業は気がおもかったけど、
いちどだけ いい評価をうけたおもいでがある。
中学のときにみじかい作曲の宿題がでて、
わたしは『ゴッドファーザー』のテーマソングを
ほんのすこしいじっただけの「作品」を提出した。
あの有名な曲を音楽の先生がしらないはずがないのに、
かなりいい評価と、おほめのコメントまでいただき
わたしとしては例外的に音楽でみとめられた体験となる。
その先生は、たかすぎるソプラノにたいし
「ききぐるしい」といったおなじひとで、
かたぐるしすぎて生徒にはあまり人気がなかったけど、
『ゴッドファーザー』の「編曲」をみとめてくれたように、
ほんとうは やわらかい発想の先生だったような気がする。
その先生のおかげで、わたしはオンチにもかかわらず、
自分の気にいった曲がいい音楽であり、
そうでないものはむりにきかなくてもいいと、
たいせつな態度をおそわった。
とてもたかい声で、ききなれないわたしには
ただうるさいだけだ。
そうおもっていたら、音楽の先生が、
「たかすぎて、ききぐるしいですね」みたいなことをいった。
先生の口から そんな発言がでたのはかなり意外で、
音楽は、そんなふうにかんじたことをそのままはなしてもいいんだと、
うれしい体験となる。
高校の音楽の授業でも、にたようなことがあった。
たかいソプラノのうたをレコードできき、
あとから生徒に感想をもとめる。
わたしは中学のときの学習をいかして、
「たかすぎてききぐるしい」と
おもっていたとおりの感想を口にした。
先生は もうおじいさんといってもいい高齢者で、
わたしの発言をきくと
ほんとうの音楽のよさをわからないくせに、
ききぐるしいとは おどろいた、と
頭ごなしの反応をしめされる。
感想をきかれたから 感想をつたえたのであり、
おもったとおりのことをいってなにがわるいのか。
そんなことなら感想なんかきかなくていいのに。
せっかく中学のときに学習した「自由」は
けっきょくたてまえにすぎないのを「学習」した。
わたしは楽譜がよめず、オンチでもあるので、
音楽の授業は気がおもかったけど、
いちどだけ いい評価をうけたおもいでがある。
中学のときにみじかい作曲の宿題がでて、
わたしは『ゴッドファーザー』のテーマソングを
ほんのすこしいじっただけの「作品」を提出した。
あの有名な曲を音楽の先生がしらないはずがないのに、
かなりいい評価と、おほめのコメントまでいただき
わたしとしては例外的に音楽でみとめられた体験となる。
その先生は、たかすぎるソプラノにたいし
「ききぐるしい」といったおなじひとで、
かたぐるしすぎて生徒にはあまり人気がなかったけど、
『ゴッドファーザー』の「編曲」をみとめてくれたように、
ほんとうは やわらかい発想の先生だったような気がする。
その先生のおかげで、わたしはオンチにもかかわらず、
自分の気にいった曲がいい音楽であり、
そうでないものはむりにきかなくてもいいと、
たいせつな態度をおそわった。
2016年07月21日
『泡沫日記』(酒井順子)中年期に体験する「はじめて」の記録
『泡沫日記』(酒井順子・集英社文庫)
わりとひとのかいた日記をよむのがすきで
(こっそりのぞきみ、という意味ではないです)、
関心をよせているひとの 日常をしりたくて、
エッセイだけでなく 日記までよみたくなる。
初体験はわかいころだけでなく、
歳をとればとったで こんどは
老化にともなう「はじめて」を体験するようになる。
本書は、中年期におとずれた「初体験」を、
日記のかたちでまとめたものだ。
具体的な日にちはかいてない。
ぜんぶ「某月某日」となっている。
エッセイのじょうずな酒井さんのことだから、
日記をかいても、よくできたエッセイとしかいいようがない。
本書には島根県もでてくる。
出雲でとびのった列車で、酒井さんははじめて席をゆずられる体験をする。
そういわれてみると、たしかにそうだ。
わたしもマジで席をゆずられたら、
「ありがとう」といいつつ
かなり動揺してしまうのではないか。
震災をめぐる日記では、被災地をおとずれたり、
日常生活で省エネに気をくばったりと、
この本をよんで、酒井さんのまともさをしり
ますますすきになった。
酒井さんは「申し訳ない」からと、
夏にもエアコンをつかわずにくらしている
(「・・・・あ、でも深夜電力タイムになったら、
ちょっとだけ冷房入れてるんですけどね、」という告白あり)。
こうしたまともな市民感覚が酒井さんの魅力であり つよみだ。
常識をよくわきまえ、まわりからいわれなくても
おのずと ひととしてただしい道をあゆんでいる。
中学生のとき卓球部に所属していた酒井さんは、
数年まえから卓球のレッスンにかよいだし、
ついには30年ぶりに試合にでる。
「セカンド初体験」というとらえ方がうまい。
1966年生まれの酒井さんは、
ことし50歳をむかえる。
本格的な老化にともなう初体験の報告を、
たのしみにまちたい。
ひとつ注文をつけると、
「〜な私。」
というとめ方がしばしばみられたので気になった。
女性のかくエッセイには、このいいまわしがおおい。
酒井さんほどの達人なのだから、
わかったうえで あえてつかっているのだろうけど、
だれもかれもが「〜な私。」とやるので
だんだんハナについてきた。
わりとひとのかいた日記をよむのがすきで
(こっそりのぞきみ、という意味ではないです)、
関心をよせているひとの 日常をしりたくて、
エッセイだけでなく 日記までよみたくなる。
初体験はわかいころだけでなく、
歳をとればとったで こんどは
老化にともなう「はじめて」を体験するようになる。
本書は、中年期におとずれた「初体験」を、
日記のかたちでまとめたものだ。
具体的な日にちはかいてない。
ぜんぶ「某月某日」となっている。
エッセイのじょうずな酒井さんのことだから、
日記をかいても、よくできたエッセイとしかいいようがない。
本書には島根県もでてくる。
山陰本線は、本線とはいえ運行本数が非常に少ない。その上、出雲以西は山陰本線の中でも出色の絶景区間が続くので、乗り遅れるわけにはいかないのだ。
出雲でとびのった列車で、酒井さんははじめて席をゆずられる体験をする。
本物の老人として初めて席を譲られるというのは、相当ショックな体験なのだと思う。
そういわれてみると、たしかにそうだ。
わたしもマジで席をゆずられたら、
「ありがとう」といいつつ
かなり動揺してしまうのではないか。
震災をめぐる日記では、被災地をおとずれたり、
日常生活で省エネに気をくばったりと、
この本をよんで、酒井さんのまともさをしり
ますますすきになった。
震災以来、心の中には「申し訳ない」」という気持ちが、しんしんと降り積もり続けている。”東京”電力のせいで、福島の皆さんにとんでもない迷惑をかけて申し訳ない。オール電化で申し訳ない。庭園にならなくて申し訳ない。普通に生活して申し訳ない。
酒井さんは「申し訳ない」からと、
夏にもエアコンをつかわずにくらしている
(「・・・・あ、でも深夜電力タイムになったら、
ちょっとだけ冷房入れてるんですけどね、」という告白あり)。
こうしたまともな市民感覚が酒井さんの魅力であり つよみだ。
常識をよくわきまえ、まわりからいわれなくても
おのずと ひととしてただしい道をあゆんでいる。
中学生のとき卓球部に所属していた酒井さんは、
数年まえから卓球のレッスンにかよいだし、
ついには30年ぶりに試合にでる。
最近、こういった「セカンドバージン」を破るセカンド初体験が増えている。昔とった杵柄をもう一度、というお年ごろなのであろう。
「セカンド初体験」というとらえ方がうまい。
1966年生まれの酒井さんは、
ことし50歳をむかえる。
本格的な老化にともなう初体験の報告を、
たのしみにまちたい。
ひとつ注文をつけると、
「〜な私。」
というとめ方がしばしばみられたので気になった。
女性のかくエッセイには、このいいまわしがおおい。
酒井さんほどの達人なのだから、
わかったうえで あえてつかっているのだろうけど、
だれもかれもが「〜な私。」とやるので
だんだんハナについてきた。
2016年07月20日
処分した本のおもいで
『本の雑誌 8月号』に、堀井憲一郎氏が
星新一と筒井康隆へのおもいでをかいている
(「筒井康隆文庫の古書価を調べてみる」)。
わたしも中高生のころ、このふたりはだいすきな作家であり、
記事をなつかしくよんだ。
むつかしそうな「文学」でなくても、
本はおもしろくてもいいんだと
おしえてくれたのが星新一と筒井康隆だ。
あのころはたいていの中高生が、
星新一や筒井康隆をよんでいたような気がする。
ほかにも北杜夫・山口瞳・吉行淳之介がお気にいりの作家となり、
ほぼすべての著作がわたしの本棚にならんでいた。
この3人は、旧制麻布中学の卒業生ということで、
まったくタイプがちがうのになかがいい。
はじめによんだのは北杜夫の本で、
そこからイモづる式に関心のある作家がふえた。
すきな作家がすすめる本は 自然とよんでみたくなる。
20代のまんなかあたりで
はじめての海外旅行を計画したとき、
すこしでも資金のたしにと、おもいきって本を整理した。
すきな作家の本も、数冊ずつをのこし 大胆に処分している。
1000冊ちかくの本を手ばなしたのに、
たいしたお金にはならず(たしか2万円弱)、
人生をかけたはずの海外旅行も、
ただの怠惰な観光旅行にしかならなかった。
うしなった本を ときどき残念におもうのは、
からふりにおわった旅行とセットだからから かもしれない。
かなり熱中した本たちなのに、
うりはらった後悔がすこしはあるものの、
もういちどよみたいとは ほとんどおもわない。
うえにあげた5人の作家のうち、
あとからまた手にしたのは 北杜夫の本だけだ。
『どくとるマンボウ青春記』
『どくとるマンボウ航海記』
は、なつかしさだけでなく、おもしろくよめた。
『楡家の人びと』は、
歳をとってからのおたのしみとしてとってある。
星新一と筒井康隆へのおもいでをかいている
(「筒井康隆文庫の古書価を調べてみる」)。
わたしも中高生のころ、このふたりはだいすきな作家であり、
記事をなつかしくよんだ。
むつかしそうな「文学」でなくても、
本はおもしろくてもいいんだと
おしえてくれたのが星新一と筒井康隆だ。
あのころはたいていの中高生が、
星新一や筒井康隆をよんでいたような気がする。
ほかにも北杜夫・山口瞳・吉行淳之介がお気にいりの作家となり、
ほぼすべての著作がわたしの本棚にならんでいた。
この3人は、旧制麻布中学の卒業生ということで、
まったくタイプがちがうのになかがいい。
はじめによんだのは北杜夫の本で、
そこからイモづる式に関心のある作家がふえた。
すきな作家がすすめる本は 自然とよんでみたくなる。
20代のまんなかあたりで
はじめての海外旅行を計画したとき、
すこしでも資金のたしにと、おもいきって本を整理した。
すきな作家の本も、数冊ずつをのこし 大胆に処分している。
1000冊ちかくの本を手ばなしたのに、
たいしたお金にはならず(たしか2万円弱)、
人生をかけたはずの海外旅行も、
ただの怠惰な観光旅行にしかならなかった。
うしなった本を ときどき残念におもうのは、
からふりにおわった旅行とセットだからから かもしれない。
かなり熱中した本たちなのに、
うりはらった後悔がすこしはあるものの、
もういちどよみたいとは ほとんどおもわない。
うえにあげた5人の作家のうち、
あとからまた手にしたのは 北杜夫の本だけだ。
『どくとるマンボウ青春記』
『どくとるマンボウ航海記』
は、なつかしさだけでなく、おもしろくよめた。
『楡家の人びと』は、
歳をとってからのおたのしみとしてとってある。
2016年07月19日
野宿野郎から「社員のようなもの」の名刺がとどく
家にかえるとちいさな小包がとどいている。
せっけんか、オイルサーディン缶くらいのおおきさだ。
ともだちがくれた誕生日プレゼントかとおもった。
7月15日がわたしの誕生日なのだ
(ほぼ日のブイヨンくんとおなじ日)。
夕ごはんをたべてからなかみをあらためると、
野宿野郎からおくられてきた名刺だった。
ずいぶんまえに、「社員のようなもの」にあたえられるという
名刺をもうしこんでいた。
気がむいたらおくるので、
期待しないでおまちください、
みたいなことがかかれていたとおもう。
わたしもわすれていたし、
そもそも野宿野郎のかとうさんがわすれていたから
なんねんもほったらかしになっていたのだ。
それが、いまごろになって、
まるで誕生日をいわうかのようにとどいたのは
偶然としてはできすぎだ。
すごくうれしい。
名刺には、銭湯主任としてわたしの名前がのっている。
もうしこむときにそえたローマ字のとおり、
「Zyun YOSIDA」となっている。
ほんとうは、「YOSIDA Zyun」とかいたのだけど、
名前と名字をひっくりかえされてしまった。
まあ、訓令式のローマ字はいじられなかったので
よしとする。
銭湯主任とは、文字どおり
お風呂をたいせつにする社員だからだ。
わたしは野宿野郎的な世界がだいすきだけど、
野宿に前後する あつかったりさむかったり、
からだがよごれていたりは あまりうれしくない。
野宿をするにしても、
あたたかな食事がふるまわれるとありがたいし、
なによりもお風呂にはいって、
きれいなからだを寝袋にもぐりこませたい。
そんな軟弱な人間には、
銭湯主任くらいしかつとまらないだろう。
そもそもこの名刺は、
「会社のようなもの」の野宿野郎に、
「社員のようなもの」としてかかわるひとにおくられる。
「無給365日 週休7日」の
ありがたい組織が野宿野郎である。
こうして名刺をいただいたからには、
なにかしらわたしも野宿野郎のちからになりたい。
野宿の山陰大会があれば、
なにはともあれかけつけて、
いごこちのいい温泉を紹介するつもりだ。
銭湯主任にふさわしい場面で
もっともらしく名刺交換をしたくなった。
せっけんか、オイルサーディン缶くらいのおおきさだ。
ともだちがくれた誕生日プレゼントかとおもった。
7月15日がわたしの誕生日なのだ
(ほぼ日のブイヨンくんとおなじ日)。
夕ごはんをたべてからなかみをあらためると、
野宿野郎からおくられてきた名刺だった。
ずいぶんまえに、「社員のようなもの」にあたえられるという
名刺をもうしこんでいた。
気がむいたらおくるので、
期待しないでおまちください、
みたいなことがかかれていたとおもう。
わたしもわすれていたし、
そもそも野宿野郎のかとうさんがわすれていたから
なんねんもほったらかしになっていたのだ。
それが、いまごろになって、
まるで誕生日をいわうかのようにとどいたのは
偶然としてはできすぎだ。
すごくうれしい。
名刺には、銭湯主任としてわたしの名前がのっている。
もうしこむときにそえたローマ字のとおり、
「Zyun YOSIDA」となっている。
ほんとうは、「YOSIDA Zyun」とかいたのだけど、
名前と名字をひっくりかえされてしまった。
まあ、訓令式のローマ字はいじられなかったので
よしとする。
銭湯主任とは、文字どおり
お風呂をたいせつにする社員だからだ。
わたしは野宿野郎的な世界がだいすきだけど、
野宿に前後する あつかったりさむかったり、
からだがよごれていたりは あまりうれしくない。
野宿をするにしても、
あたたかな食事がふるまわれるとありがたいし、
なによりもお風呂にはいって、
きれいなからだを寝袋にもぐりこませたい。
そんな軟弱な人間には、
銭湯主任くらいしかつとまらないだろう。
そもそもこの名刺は、
「会社のようなもの」の野宿野郎に、
「社員のようなもの」としてかかわるひとにおくられる。
「無給365日 週休7日」の
ありがたい組織が野宿野郎である。
こうして名刺をいただいたからには、
なにかしらわたしも野宿野郎のちからになりたい。
野宿の山陰大会があれば、
なにはともあれかけつけて、
いごこちのいい温泉を紹介するつもりだ。
銭湯主任にふさわしい場面で
もっともらしく名刺交換をしたくなった。
2016年07月18日
きょねんの7月18日は、新国立競技場の計画が、白紙にもどされた日
きょねんの7月18日は
エバーノートにどんなノートをつくったかを
ふりかえってみる。
新国立競技場の計画が、白紙にもどされた日だった。
東京でのオリンピックがきまったとき、
おおよろこびするひとがたくさんいた。
わたしには オリンピックの開催が
なぜそんなにおめでたいのかわからなかったので、
なんとなく おもしろくない気分をかかえていた。
そのうちに、新国立競技場の建設費が、
予定よりずっとたかくなりそうだといわれ、
そんな無責任な計画が、なぜとりいれらえたのかが問題となる。
こうして新国立競技場をめぐるぐちゃぐちゃがはじまった。
そして、白紙撤回されたのがきょねんのきょうなのだ。
2016年にひらかれるリオデジャネイ(ブラジル)大会は、
競技場の建築がおくれているとか、
治安に不安がある、などとすでにいわれていた。
日本にまかせておけば、ぜったいにそれらの問題はおきない。
日本人みたいな国民性の国にまかせたら安心なので、
国際オリンピック委員会は 日本をえらぶのだろう。
ともっていたら、
新国立競技場のデザインでもめ、エンブレムでもめ、
全体としてぐちゃぐちゃになった。
何年もをむだにすごしたため、
開催まであと4年しかないのに、
やっとスタートラインにたてた、
みたいな印象がある。
まさか日本でこんなガタガタがおきるとは。
リオデジャネイオリンピックは8月からひらかれる。
ことしにはいっていろんな競技で代表選手がえらばれた。
こんなに直前になって選手がきまるのかと、
おどろいてもいる。
サッカーのWカップでは、
ずっとまえから予選がはじまり、
2年まえには出場国がきまる。
くみあわせ抽選会が本大会の半年まえにおこなわれ、
参加する国々は、自分たちが所属するグループについて
情報をしいれ、綿密な準備をおこなう。
それにくらべると、オリンピックの運営は
ずいぶんのんびりしてるようにみえる。
正確な情報をもちあわせていないけれど、
こんなに大会のすぐまえになって
出場する選手がきまっても、なんとかなるのだから、
全体としても、なんとかなる大会なのだろう。
2020年の東京大会は、
いろんなぐちゃぐちゃがからみながらも、
なんとかなった大会として
おおくのひとの記憶にのこるはずだ。
とにかく、まにあえばいいのだし、
まにあわすことにかけて、
日本くらい安心してみていられる国はない。
けっきょく、新国立競技場の問題があってもなくても、
オリンピックはとどこおりなくひらかれ、
国際オリンピック委員会が日本をえらんだのは
ただしかったと証明される。
そとからみると ちゃんとしているようで、
なかは以外とめちゃくちゃで、
でも最終的にはなんとかなるという
日本の伝統が確認される大会となる。
エバーノートにどんなノートをつくったかを
ふりかえってみる。
新国立競技場の計画が、白紙にもどされた日だった。
東京でのオリンピックがきまったとき、
おおよろこびするひとがたくさんいた。
わたしには オリンピックの開催が
なぜそんなにおめでたいのかわからなかったので、
なんとなく おもしろくない気分をかかえていた。
そのうちに、新国立競技場の建設費が、
予定よりずっとたかくなりそうだといわれ、
そんな無責任な計画が、なぜとりいれらえたのかが問題となる。
こうして新国立競技場をめぐるぐちゃぐちゃがはじまった。
そして、白紙撤回されたのがきょねんのきょうなのだ。
2016年にひらかれるリオデジャネイ(ブラジル)大会は、
競技場の建築がおくれているとか、
治安に不安がある、などとすでにいわれていた。
日本にまかせておけば、ぜったいにそれらの問題はおきない。
日本人みたいな国民性の国にまかせたら安心なので、
国際オリンピック委員会は 日本をえらぶのだろう。
ともっていたら、
新国立競技場のデザインでもめ、エンブレムでもめ、
全体としてぐちゃぐちゃになった。
何年もをむだにすごしたため、
開催まであと4年しかないのに、
やっとスタートラインにたてた、
みたいな印象がある。
まさか日本でこんなガタガタがおきるとは。
リオデジャネイオリンピックは8月からひらかれる。
ことしにはいっていろんな競技で代表選手がえらばれた。
こんなに直前になって選手がきまるのかと、
おどろいてもいる。
サッカーのWカップでは、
ずっとまえから予選がはじまり、
2年まえには出場国がきまる。
くみあわせ抽選会が本大会の半年まえにおこなわれ、
参加する国々は、自分たちが所属するグループについて
情報をしいれ、綿密な準備をおこなう。
それにくらべると、オリンピックの運営は
ずいぶんのんびりしてるようにみえる。
正確な情報をもちあわせていないけれど、
こんなに大会のすぐまえになって
出場する選手がきまっても、なんとかなるのだから、
全体としても、なんとかなる大会なのだろう。
2020年の東京大会は、
いろんなぐちゃぐちゃがからみながらも、
なんとかなった大会として
おおくのひとの記憶にのこるはずだ。
とにかく、まにあえばいいのだし、
まにあわすことにかけて、
日本くらい安心してみていられる国はない。
けっきょく、新国立競技場の問題があってもなくても、
オリンピックはとどこおりなくひらかれ、
国際オリンピック委員会が日本をえらんだのは
ただしかったと証明される。
そとからみると ちゃんとしているようで、
なかは以外とめちゃくちゃで、
でも最終的にはなんとかなるという
日本の伝統が確認される大会となる。
2016年07月17日
ゆっくり ながくおよぐと トリップできる
レースまえの準備として、1時間つづけておよぐ。
いつもだと、クロールで1500メートル(30分くらい)およいだあとに
ほかの種目にすこしとりくむメニューがおおい。
30分と1時間のあいだには、
おおきなちがいがあるようで、
1時間つづけてゆっくりおよいでいるうちに、
かなりの確率で べつの世界にいったような気分になる。
1時間つづけておよぐには、
わたしの場合かなりスピードをおとさないとつづかないため、
からだはたいしてくるしくない。
ひくい負荷の状態を、ながい時間くりかえすことにより、
脳がある種の物質を分泌するのだ、と解釈している。
ランナーズ・ハイとはちがうとおもう。
もっとしずかで、ひとりきりのときにおきる。
もしかしたら修行しているお坊さんは、
おなじような精神状態を味わっているかもしれない。
ずっとプールの底だけをみつづけ、なにもかんがえず、
ただゆっくりからだをうごかしていると
頭は ふだんとちがうはたらきをするみたいだ。
脳みそとしては、なにもかんがえないわけにはいかず、
かといって じっくりかんがえられほどの余裕はない。
単調なくりかえしをながい時間つづけることで、
日常とはちがう世界にはいりやすくなるのだろう。
運動の負荷がつよすぎたら、
脳はくるしさについてかんがえるだろうし、
距離がみじかすぎれば、ちがう世界にいくには時間がたりない。
わたしにとって、1時間の水泳は、
現実から離脱できるてっとりばやい方法で、
かなりの確率で トリップしたような気分をあじわえる。
頭がいってしまっているので、
なんどプールを往復しても、
かぞえている距離がふえないときがある。
さっき1900メートルだったから、
つぎのタッチで1950メートルになるはずだけど、
でも、ほんとうにさっきは1900メートルだっただろうか、と
おなじところからまえにすすまない。
1時間およぐのが目的なのだから、
距離なんてかぞえなくてもいいようなものとはいえ、
習慣みたいなもので、ついいまは何メートルなのかを意識する。
認知症のひとが、もしながい距離をおよいだら、
こんなかんじで いつまでたっても
トレーニングがおわらないかもしれない。
もしかしたら、わたしのトリップ体験も、
認知機能がどうにかなっているだけなのかも。
いつもだと、クロールで1500メートル(30分くらい)およいだあとに
ほかの種目にすこしとりくむメニューがおおい。
30分と1時間のあいだには、
おおきなちがいがあるようで、
1時間つづけてゆっくりおよいでいるうちに、
かなりの確率で べつの世界にいったような気分になる。
1時間つづけておよぐには、
わたしの場合かなりスピードをおとさないとつづかないため、
からだはたいしてくるしくない。
ひくい負荷の状態を、ながい時間くりかえすことにより、
脳がある種の物質を分泌するのだ、と解釈している。
ランナーズ・ハイとはちがうとおもう。
もっとしずかで、ひとりきりのときにおきる。
もしかしたら修行しているお坊さんは、
おなじような精神状態を味わっているかもしれない。
ずっとプールの底だけをみつづけ、なにもかんがえず、
ただゆっくりからだをうごかしていると
頭は ふだんとちがうはたらきをするみたいだ。
脳みそとしては、なにもかんがえないわけにはいかず、
かといって じっくりかんがえられほどの余裕はない。
単調なくりかえしをながい時間つづけることで、
日常とはちがう世界にはいりやすくなるのだろう。
運動の負荷がつよすぎたら、
脳はくるしさについてかんがえるだろうし、
距離がみじかすぎれば、ちがう世界にいくには時間がたりない。
わたしにとって、1時間の水泳は、
現実から離脱できるてっとりばやい方法で、
かなりの確率で トリップしたような気分をあじわえる。
頭がいってしまっているので、
なんどプールを往復しても、
かぞえている距離がふえないときがある。
さっき1900メートルだったから、
つぎのタッチで1950メートルになるはずだけど、
でも、ほんとうにさっきは1900メートルだっただろうか、と
おなじところからまえにすすまない。
1時間およぐのが目的なのだから、
距離なんてかぞえなくてもいいようなものとはいえ、
習慣みたいなもので、ついいまは何メートルなのかを意識する。
認知症のひとが、もしながい距離をおよいだら、
こんなかんじで いつまでたっても
トレーニングがおわらないかもしれない。
もしかしたら、わたしのトリップ体験も、
認知機能がどうにかなっているだけなのかも。
2016年07月16日
『吾輩は猫である』のユーモアにおどろく
朝日新聞に連載されている『吾輩は猫である』
をたのしみにしている。
どうでもいいはなしが延々とつづき
100年まえにもこんなユーモアがあったのかと
おどろいている。
「吾輩」がすんでいる家の、
主人と奥さんとの会話
その後ふたりは、主人の鼻のあなからしろい毛がみえるだの、
奥さんの背がひくいのはみぐるしくていかん、だの、
いまさらいいだしたところで どうしようもないはなしを
まじめにやりあいはじめる。
禿があるといわれ、「禿なんざどうだって宜いじゃありまえんか」と
まったく気にとめない奥さんがすばらしい。
現代を生きるわたしがよんでもおもしろいけど、
こういったやりとりを100年まえの日本人が
どううけとめてよんでいたのだろう。
すこしまえのブログに、
酒井順子さんの『この年齢だった!』から
「今の人が考えることは、たいてい昔の人も考えている」
を引用した。
清少納言が生きた1000年まえのひとたちだって、
すでにいまとおなじようなことをかんがえている。
『吾輩は猫である』のわらいも、
むかしのひとはとても理解できなかったのではないかと
うたぐるのはわたしのごうまんであり、
当時のひとたちも、とうぜんこれくらいのユーモアを
うけいれるにたる 教養があったのだろう。
わらいだけでなく、小説のなかに
ヨーロッパで活躍する芸術家たちのなまえが
あたりまえにちりばめられている。
そのほとんどの名を、わたしはきいたことがない。
100年まえに連載されてた『吾輩は猫である』を
たのしみによんでいた当時のひとたちは、
現代のわたしよりも はるかにふかい教養を
身につけていたとみたほうがいい。
をたのしみにしている。
どうでもいいはなしが延々とつづき
100年まえにもこんなユーモアがあったのかと
おどろいている。
「吾輩」がすんでいる家の、
主人と奥さんとの会話
「何だって、御前の頭にゃ大きな禿があるぜ。しってるか」
「ええ」と細君は依然として仕事の手をやめずに答える。別段露見を恐れた様子もない。超然たる模範細君である。
「嫁にくるときからあるのか、結婚後新たに出来たのか」と主人が聞く。もし嫁にくる前から禿ているなら騙されたのであると口へは出さないが心の中で思う。
「いつ出来たんだか覚えちゃいませんわ、禿なんざどうだって宜いじゃありませんか」と大いに悟ったものである。
「どうだって宜いって、自分の頭じゃないか」と主人は少々怒気を帯びている。
その後ふたりは、主人の鼻のあなからしろい毛がみえるだの、
奥さんの背がひくいのはみぐるしくていかん、だの、
いまさらいいだしたところで どうしようもないはなしを
まじめにやりあいはじめる。
禿があるといわれ、「禿なんざどうだって宜いじゃありまえんか」と
まったく気にとめない奥さんがすばらしい。
現代を生きるわたしがよんでもおもしろいけど、
こういったやりとりを100年まえの日本人が
どううけとめてよんでいたのだろう。
すこしまえのブログに、
酒井順子さんの『この年齢だった!』から
「今の人が考えることは、たいてい昔の人も考えている」
を引用した。
清少納言が生きた1000年まえのひとたちだって、
すでにいまとおなじようなことをかんがえている。
『吾輩は猫である』のわらいも、
むかしのひとはとても理解できなかったのではないかと
うたぐるのはわたしのごうまんであり、
当時のひとたちも、とうぜんこれくらいのユーモアを
うけいれるにたる 教養があったのだろう。
わらいだけでなく、小説のなかに
ヨーロッパで活躍する芸術家たちのなまえが
あたりまえにちりばめられている。
そのほとんどの名を、わたしはきいたことがない。
100年まえに連載されてた『吾輩は猫である』を
たのしみによんでいた当時のひとたちは、
現代のわたしよりも はるかにふかい教養を
身につけていたとみたほうがいい。
2016年07月15日
糖質制限の食事をためしてみる
ちょっとした事情から、
糖質制限の食事をためしている。
何年かまえによんだ『炭水化物が人類を滅ぼす』
(夏井睦・光文社新書)をひっぱりだし、
要点をざっと復習する。
いまでこそよく耳にする「糖質制限」や「炭水化物オフ」の
さきがけは この本だったのではないか。
ずっとむかしから 人類は主食として米やパンを
たべてきたようにおもっていたけど、
歴史史的にみると、
炭水化物をすきなだけたべられるようになったのは、
ごく最近にすぎない。
それまでは、お米と麦なしで
人類はなんとかやってきたのだ。
本書では、糖質制限のきびしさによって
3つの段階にわけている。
・プチ糖質制限・・・夕食のみ主食ぬき
・スタンダード糖質制限・・・朝食と夕食のみ主食ぬき
・スーパー糖質制限・・・三食ともに主食ぬき
やってみるとわかるけれど、
かんたんそうにかいてある「プチ糖質制限」だって、
そんなにたやすくはない。
「食べていいもの、駄目なもの」として、
・米・小麦・蕎麦→原則的に食べてはいけない
・肉・魚類・卵→いくら食べても大丈夫
・大豆製品→いくら食べても大丈夫
・野菜→いくら食べても大丈夫
・乳製品→チーズはいくら食べても大丈夫
ヨーグルト・牛乳は、よほど大量ではければ大丈夫
・油類→いくら食べても大丈夫
と、「いくら食べても大丈夫」なたべものがならぶので、
なんだかかんたんそうにおもえる。
でも、炭水化物をあたりまえにたべてきたわたしには、
たとえ一食でも主食をぬくのはかんたんではない。
主食をたべずにおいて、
どうやって胃袋を納得させるのか。
肉を「いくら食べても大丈夫」といわれても、
毎食たくさんの肉をたべるのは
日本人の胃袋にはなじみにくいし、
お金だってたいへんだ。
ヤキニクをおなかいっぱいたべても、
頭とからだの両方が満足しないだろう。
いちにちやふつかなら、なんとかなるとしても、
無理があってはながいあいだつづかない。
自分の生活にあったしくみをみつけないと、
たとえ「プチ糖質制限」でもむつかしい。
かるい気もちでとりくめるほど、
主食ぬきのハードルはひくくなかった。
主食を腹いっぱいたべたいとはおもわない。
でも、主食なしではこころがみたされない。
糖質制限の食事をためしている。
何年かまえによんだ『炭水化物が人類を滅ぼす』
(夏井睦・光文社新書)をひっぱりだし、
要点をざっと復習する。
いまでこそよく耳にする「糖質制限」や「炭水化物オフ」の
さきがけは この本だったのではないか。
ずっとむかしから 人類は主食として米やパンを
たべてきたようにおもっていたけど、
歴史史的にみると、
炭水化物をすきなだけたべられるようになったのは、
ごく最近にすぎない。
それまでは、お米と麦なしで
人類はなんとかやってきたのだ。
本書では、糖質制限のきびしさによって
3つの段階にわけている。
・プチ糖質制限・・・夕食のみ主食ぬき
・スタンダード糖質制限・・・朝食と夕食のみ主食ぬき
・スーパー糖質制限・・・三食ともに主食ぬき
やってみるとわかるけれど、
かんたんそうにかいてある「プチ糖質制限」だって、
そんなにたやすくはない。
「食べていいもの、駄目なもの」として、
・米・小麦・蕎麦→原則的に食べてはいけない
・肉・魚類・卵→いくら食べても大丈夫
・大豆製品→いくら食べても大丈夫
・野菜→いくら食べても大丈夫
・乳製品→チーズはいくら食べても大丈夫
ヨーグルト・牛乳は、よほど大量ではければ大丈夫
・油類→いくら食べても大丈夫
と、「いくら食べても大丈夫」なたべものがならぶので、
なんだかかんたんそうにおもえる。
でも、炭水化物をあたりまえにたべてきたわたしには、
たとえ一食でも主食をぬくのはかんたんではない。
主食をたべずにおいて、
どうやって胃袋を納得させるのか。
肉を「いくら食べても大丈夫」といわれても、
毎食たくさんの肉をたべるのは
日本人の胃袋にはなじみにくいし、
お金だってたいへんだ。
ヤキニクをおなかいっぱいたべても、
頭とからだの両方が満足しないだろう。
いちにちやふつかなら、なんとかなるとしても、
無理があってはながいあいだつづかない。
自分の生活にあったしくみをみつけないと、
たとえ「プチ糖質制限」でもむつかしい。
かるい気もちでとりくめるほど、
主食ぬきのハードルはひくくなかった。
主食を腹いっぱいたべたいとはおもわない。
でも、主食なしではこころがみたされない。
2016年07月14日
詩ごころのない スカートのしたのジャージ
わたしのすむ町だけかもしれないけど、
女子中・高生はスカートのしたに
ジャージの短パンをはいて自転車にのっている。
風をうけ、ときには ももまでスカートをまくりあげながら
いさましく自転車をこぐ。
当然ながら みえたとしてもジャージなので、
彼女たちは「みられても平気」と ためらいがない。
井上章一さんの本に、
中国の女性はスカートがめくれてパンツがみえても、
「パンツをはいてるから大丈夫」と
ぜんぜんはずかしがらない、とかいてあった
(『パンツが見える。』(朝日新聞社))。
いま、日本の女子中高生は、
まさしくジャージをはいているから大丈夫と、
いきおいよく自転車をこぐ。
まことにもって、詩ごころがない風景と
いわなければならない。
わたしはひとりの男として、
スカートをはいているからには、
それなりのフォーム(というか はじらい)をたもちつつ
ペダルをまわしてほしいと のぞむものである。
フィギュアスケートやテニスの選手も、
「パンツをはいているから大丈夫」
とおもっているひとたちだ。
では、
「パンツをはいているから大丈夫」なパンツと、
「パンツをはいているからこそ(みられても)大丈夫じゃない」
パンツにわかれるのだろう。
その境界線とはなにか。
じつは、パンツのデザインが鍵をにぎるのではなく、
スカートのながさ(みじかさ)が
パンツへの視線を決定づけていると わたしはみている。
スケートやテニスの選手たちのように、
はじめからパンツがみえるくらい
みじかいスカートをはくと、
パンツがみえるのは当然すぎて
なんのときめきもない。
それが、へたにながめのスカートをはいていると、
どうしてもパンツをかくす役割をはたしてしまい、
その結果として、一瞬のちらつきに
期待をたかめてしまうのだ。
パンツをかくしてしまうスカートのながさこそ、
はじらいのみなもとだった。
女子中高生は、おそらく本能的に
このスカートのながさの法則に気づいている。
かくすから、はずかしくなるのだ。
だからこそ、とくにみせる必要がないときにでも、
いきおいよく自転車をこいで、スカートのしたには
鉄壁のジャージをはいているとしらせている。
男性たちがあやまった期待をいだかないよう、
ひごろからクギをさすために ジャージをみせる。
ジャージのおかげで 女の子たちが自転車にのっていても
わたしは目のやり場にこまらなくなった。
わたしの想像力をもってしても、
ジャージには なんのときめきもない。
女子中・高生はスカートのしたに
ジャージの短パンをはいて自転車にのっている。
風をうけ、ときには ももまでスカートをまくりあげながら
いさましく自転車をこぐ。
当然ながら みえたとしてもジャージなので、
彼女たちは「みられても平気」と ためらいがない。
井上章一さんの本に、
中国の女性はスカートがめくれてパンツがみえても、
「パンツをはいてるから大丈夫」と
ぜんぜんはずかしがらない、とかいてあった
(『パンツが見える。』(朝日新聞社))。
はずかしくないのかと、私は問いかけた。すると、その中国人研究者は、こうかえしてきたのである。パンツをはいているから、だいじょうぶだというのが、みんなの実感だろう、と。
いま、日本の女子中高生は、
まさしくジャージをはいているから大丈夫と、
いきおいよく自転車をこぐ。
まことにもって、詩ごころがない風景と
いわなければならない。
わたしはひとりの男として、
スカートをはいているからには、
それなりのフォーム(というか はじらい)をたもちつつ
ペダルをまわしてほしいと のぞむものである。
フィギュアスケートやテニスの選手も、
「パンツをはいているから大丈夫」
とおもっているひとたちだ。
では、
「パンツをはいているから大丈夫」なパンツと、
「パンツをはいているからこそ(みられても)大丈夫じゃない」
パンツにわかれるのだろう。
その境界線とはなにか。
じつは、パンツのデザインが鍵をにぎるのではなく、
スカートのながさ(みじかさ)が
パンツへの視線を決定づけていると わたしはみている。
スケートやテニスの選手たちのように、
はじめからパンツがみえるくらい
みじかいスカートをはくと、
パンツがみえるのは当然すぎて
なんのときめきもない。
それが、へたにながめのスカートをはいていると、
どうしてもパンツをかくす役割をはたしてしまい、
その結果として、一瞬のちらつきに
期待をたかめてしまうのだ。
パンツをかくしてしまうスカートのながさこそ、
はじらいのみなもとだった。
女子中高生は、おそらく本能的に
このスカートのながさの法則に気づいている。
かくすから、はずかしくなるのだ。
だからこそ、とくにみせる必要がないときにでも、
いきおいよく自転車をこいで、スカートのしたには
鉄壁のジャージをはいているとしらせている。
男性たちがあやまった期待をいだかないよう、
ひごろからクギをさすために ジャージをみせる。
ジャージのおかげで 女の子たちが自転車にのっていても
わたしは目のやり場にこまらなくなった。
わたしの想像力をもってしても、
ジャージには なんのときめきもない。
2016年07月13日
「うちのコ」も「よそのコ」もかわいがる社会へ
事業所の車で利用者をむかえにいくと、
おとなりの家の駐車場でネコがくつろいでいた。
わたしがちかよると、
からだをコンクリートにこすりつけながら
なき声をあげる。
あそんでほしいようでもあり、
ひなたぼっこをたのしんでいる姿にもとれた。
「あのネコはのらネコですか?
どこかのおうちでかわれているネコですか?」
利用者のお母さんにたずねると、
ネコの毛色を確認したうえで のらネコだという。
その利用者のおうちにもネコがいて、
それなりにかわいがっているようなのに、
こっちにやってきたのらネコにむかい
「シッ!」とおどかして、むこうへおいはらおうとされた。
ほぼ日がはじめたアプリ「ドコノコ」は、
そとのコも、
うちのコも、
みんなだいじ。
よそのコも
なんとなく気にかけてみまもりたい。
みたいなつながりを提案してるとおもうけど、
「うちのコ」はともかく、
「よそのコ」もだいじ、は
そうかんたんにいかないみたいだ。
自分の家にネコがいても、
よそのコは うちのコに害をくわえる
ろくでもない のらネコとしかみていない。
まるで『吾輩は猫である』がかかれた
ふるい時代にさかのぼったような ネコのあつかい方だ。
「ドコノコ」の精神がひろがりつつあるよう
おもっていたのに、
「よそのコ」への「シッ!」は
背中がすっとさむくなる 残念な対応だった。
動物たちが生きている現実の世界は
「よそのコ」にとってまだまだつめたい。
ゆうべはピピがいつまでもかえってこなかった。
なんどもあぶない時期をくぐりぬけてきたピピも、
さすがに年貢のおさめどきと、覚悟したほうがよさそうだ。
ピピのいない夜をさみしくすごしていたら、
あけがたの5時に、びっしょり雨にぬれてベッドにとびのってきた。
なきごえをあげて、かえってきたとうったえる。
タオルでぬれたからだをふいてやると、
ノドをゴロゴロならしはじめる。
こうやってタオルでふいてもらうのが、
ピピはだいすきなのだ。
ひととおりきれいになると、
ハナをわたしの顔にこすりつけてあまえてきた。
わたしがはなしかけると、
ひとこと ひとことに まばたきして返事をする。
もうしばらくは、ピピといっしょにくらせそうだ。
心配しながらの さみしい夜だったのが、
ピピのげんきなすがたをみると
いっぺんに気もちがあかるくなった。
「うちのコ」も「よそのコ」も、
おなじようにかわいがる社会へと、
すこしずつ かわっていくよう ねがっている。
おとなりの家の駐車場でネコがくつろいでいた。
わたしがちかよると、
からだをコンクリートにこすりつけながら
なき声をあげる。
あそんでほしいようでもあり、
ひなたぼっこをたのしんでいる姿にもとれた。
「あのネコはのらネコですか?
どこかのおうちでかわれているネコですか?」
利用者のお母さんにたずねると、
ネコの毛色を確認したうえで のらネコだという。
その利用者のおうちにもネコがいて、
それなりにかわいがっているようなのに、
こっちにやってきたのらネコにむかい
「シッ!」とおどかして、むこうへおいはらおうとされた。
ほぼ日がはじめたアプリ「ドコノコ」は、
そとのコも、
うちのコも、
みんなだいじ。
よそのコも
なんとなく気にかけてみまもりたい。
みたいなつながりを提案してるとおもうけど、
「うちのコ」はともかく、
「よそのコ」もだいじ、は
そうかんたんにいかないみたいだ。
自分の家にネコがいても、
よそのコは うちのコに害をくわえる
ろくでもない のらネコとしかみていない。
まるで『吾輩は猫である』がかかれた
ふるい時代にさかのぼったような ネコのあつかい方だ。
「ドコノコ」の精神がひろがりつつあるよう
おもっていたのに、
「よそのコ」への「シッ!」は
背中がすっとさむくなる 残念な対応だった。
動物たちが生きている現実の世界は
「よそのコ」にとってまだまだつめたい。
ゆうべはピピがいつまでもかえってこなかった。
なんどもあぶない時期をくぐりぬけてきたピピも、
さすがに年貢のおさめどきと、覚悟したほうがよさそうだ。
ピピのいない夜をさみしくすごしていたら、
あけがたの5時に、びっしょり雨にぬれてベッドにとびのってきた。
なきごえをあげて、かえってきたとうったえる。
タオルでぬれたからだをふいてやると、
ノドをゴロゴロならしはじめる。
こうやってタオルでふいてもらうのが、
ピピはだいすきなのだ。
ひととおりきれいになると、
ハナをわたしの顔にこすりつけてあまえてきた。
わたしがはなしかけると、
ひとこと ひとことに まばたきして返事をする。
もうしばらくは、ピピといっしょにくらせそうだ。
心配しながらの さみしい夜だったのが、
ピピのげんきなすがたをみると
いっぺんに気もちがあかるくなった。
「うちのコ」も「よそのコ」も、
おなじようにかわいがる社会へと、
すこしずつ かわっていくよう ねがっている。
2016年07月12日
姫野カオルコ氏のいかりに便乗して
しばらくまえの朝日新聞に、
姫野カオルコ氏による
「『食べる』に何が起こった!?」がのっていた。
ふつうに「食べる」といえばいいところを、
いつのまにか「いただく」が
あたりまえにつかわれているのはなぜか。
カオルコ氏のいかりに便乗して、
わたしは「こと」のうるささを指摘したい。
「みにいくことにしましょう」など、
とくに「こと」がなくてもよさそうな場面でも
わざわざ「こと」をつけてもったいぶる。
「みにいきましょう」ではなぜいけないのか。
サッカーの中継でも、
「シュートまでもっていくことができませんでした」
みたいに やたらと「こと」をいれたがるひとがいる。
「シュートまでもっていけませんでした」のほうが
すっきりしてるとおもうけど、
これはもうクセみたいなもので、
いちいち「こと」をいれないと気がすまないみたいだ。
かなりむりやりなかんじだけど、
「いただく」や「こと」の多用とおなじ根っこをもつ
余計なお世話な親切をみかけたので報告したい。
おでかけ支援でときどきおじゃまする公共施設に、
「踏み台・ご自由にお使いください」
とかかれた紙が壁にはってあり、
その下に木でつくった台がおいてある。
その台はほかでもないふみ台なのだから、
どうぞ自由につかってくださいね、
というわけなのだろうけど、
とくにふみ台がいる場所ではないのに、
そんな台を用意して、
わざわざ説明つきの紙まではってあるのは
親切すぎてへんなかんじだ。
おなじような意味あいで、
たとえば「ドライバー」「はさみ」「台車」を
壁のちかくにおいて、「ご自由にお使いください」とやれば
便利なときがぜったいにないとはいいきれないけれど、
本来その会場にもとめられる機能とは関係がない。
それにもかかわらず、
「ふみ台」をわざわざおいてあるのは、
よほどこみいった事情が このうらにかくされているのだろうか。
「食べる」ではなく「いただく」を平気でつかうひとは
「みにいくことにしましょう」の
「こと」がすきだろうし、
そうしたひとは公共施設のろうかに
「ふみ台」があっても なにも不思議におもわない。
これら3点へのこのみをしれば、
相手がなかよくやれそうなひとかどうか すぐわかる。
姫野カオルコ氏による
「『食べる』に何が起こった!?」がのっていた。
ふつうに「食べる」といえばいいところを、
いつのまにか「いただく」が
あたりまえにつかわれているのはなぜか。
いったいどうしたのだ!!「食べる」「召し上がる」をなぜさけるのだ?差別用語にでも指定されたのか?
ものすごく気持ちが悪い。
カオルコ氏のいかりに便乗して、
わたしは「こと」のうるささを指摘したい。
「みにいくことにしましょう」など、
とくに「こと」がなくてもよさそうな場面でも
わざわざ「こと」をつけてもったいぶる。
「みにいきましょう」ではなぜいけないのか。
サッカーの中継でも、
「シュートまでもっていくことができませんでした」
みたいに やたらと「こと」をいれたがるひとがいる。
「シュートまでもっていけませんでした」のほうが
すっきりしてるとおもうけど、
これはもうクセみたいなもので、
いちいち「こと」をいれないと気がすまないみたいだ。
かなりむりやりなかんじだけど、
「いただく」や「こと」の多用とおなじ根っこをもつ
余計なお世話な親切をみかけたので報告したい。
おでかけ支援でときどきおじゃまする公共施設に、
「踏み台・ご自由にお使いください」
とかかれた紙が壁にはってあり、
その下に木でつくった台がおいてある。
その台はほかでもないふみ台なのだから、
どうぞ自由につかってくださいね、
というわけなのだろうけど、
とくにふみ台がいる場所ではないのに、
そんな台を用意して、
わざわざ説明つきの紙まではってあるのは
親切すぎてへんなかんじだ。
おなじような意味あいで、
たとえば「ドライバー」「はさみ」「台車」を
壁のちかくにおいて、「ご自由にお使いください」とやれば
便利なときがぜったいにないとはいいきれないけれど、
本来その会場にもとめられる機能とは関係がない。
それにもかかわらず、
「ふみ台」をわざわざおいてあるのは、
よほどこみいった事情が このうらにかくされているのだろうか。
「食べる」ではなく「いただく」を平気でつかうひとは
「みにいくことにしましょう」の
「こと」がすきだろうし、
そうしたひとは公共施設のろうかに
「ふみ台」があっても なにも不思議におもわない。
これら3点へのこのみをしれば、
相手がなかよくやれそうなひとかどうか すぐわかる。