2016年08月31日

「犬には毛が何本生えているか」(ヨシダプロ)の概算がたのしい

あるとき1本の木をじっとみていたら、
この木には何枚葉っぱがはえているのか気になってきた。
気になった、というよりも、
もしこの木にはえている葉のかずを
かぞえななければならなくなったら
どうしたらいいだろう、とおもったのだ。
わたしが北朝鮮にすんでいて、
金正恩氏とまでいかなくても
上司が葉の数をかぞえろ、という命令をくだしたら、
いやでもわたしはかぞえなければならない。
1本の小枝にはだいたい10枚の葉がついているようで、
それをもとに概算するにしても、
おおきな木だとすごく時間がかかる。
(金正恩氏が概算をゆるしてくれるとはおもえないけど)。
1本どころか、ひと山にはえている葉は何枚だ?
なんてたずねられたらかんぜんにアウトだ。

デイリーポータルZをみていたら、
ヨシダプロ氏がにたような問題意識のもとに
「犬には毛が何本生えているか」という記事をアップしていた。
http://portal.nifty.com/kiji/160825197277_1.htm
ヨシダプロ氏は、1センチ四方の毛をかぞえ、
それをもとに犬に生えている毛を
算出する方法をとった。
実験台となるのは、わたしがだいすきなモモちゃん(柴犬)だ。
モモちゃんは、これまでもヨシダプロ氏のもとで
「犬を羽生くんにする」や、
「犬をはやぶさにする」などの記事に登場した。
どんなかっこをさせられても、正直そうな顔をくずさない。
今回も、ヨシダプロ氏に協力して
とちゅうまでは神妙な顔をしていた。
それが、モモちゃんの表面積をだすために、
メジャーではかろうとしたら、
犬はメジャーとあそぶのがだいすきみたいで、
ぜんぜんおもうようにうごいてくれない。
ヨシダプロ氏は、あらたな概算法をあみだしていく。

1センチ四方だったら、かんたんにかぞえられるかというと、
ぜんぜんそうではない。
始めてすぐにやってられないことに気づいた。毛、クソ多い。なんだこれ。繊細かつ薄い縮れ毛がすさまじい数になっている。

これは、わたしも身におぼえがある。
ピピの毛をかぞえようとしたら、
ほんのすこしの面積でもかぞえるのが不可能なほど
びっしりとこまかな毛がはえている。
あんなのは、どんな根気づよさをもってしても
とてもかぞえられない。

そこで、さらに概算の、そのまた概算と、
いったいその数字になんの根拠があるのか
はなはだ疑問な計算になっていくようすがたのしい。
で、みちびきだされた毛の数が◯◯万本。
すごいような、もっとあるような、
けっきょくのところよくわからない。
北朝鮮に生まれなくてよかったことだけはたしかだ。

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2016年08月30日

「ドコノコのべんりなぬの」がとどく

ほぼ日から「ドコノコのべんりなぬの」がおくられてきた。
6月15日までに「ドコノコ」をダウンロードしたので、
はやめのご利用ありがとうございます、
みたいなプレゼントらしい。
いくつものネコとイヌの絵がかかれた
50センチ四方のきいろい布で、
「べんりなぬの」といわれても
とりあえずは お弁当をくるむ ふろしきしかおもいつかない。
どんなおおきさのお弁当箱でもつつめるので、
べんりといえば、たしかにべんりかも。
ドコノコべんりなぬの.jpg
ドコノコは、うちのコも、そとのコも、
どこのコも気にとめて、いっしょにくらそう、
というコンセプトのもとに
ほぼ日が提供しているアプリだ。
https://www.dokonoko.jp/static/guide/
わたしはピピを登録しているし、
チラシをとりよせて(無料)、しりあいに紹介した。

ピピの写真をときどきアップするものの、
「よそのコ」のみかたがいまひとつわからない。
自宅から2キロのご近所さんはすぐにみられる。
こまるのは、とおくにすむしりあいが
「うちのコ」を登録したときで、
どれどれと写真をみてみたいのに、
地図からはさがせないし、検索もできない。
しらないコもかわいいけど、
まずはしってるコのようすがみたい。

ドコノコのトップページは、
「ひろば」といって、投稿されたすべての写真が
投稿された順にならんでいる。
でも、ものすごい数の写真なので、
そこからしりあいのコをさがすのは まずむりだ。

それにしても みんなかわいい。
とくにネコたち。
写真をみていると おもわず声がもれてしまう。
わかいネコがほとんどで、ピピみたいなとしよりは
ほとんどみかけない。
ドコノコがアプリとして成熟し、
たくさんのネコとイヌが登録されるにつれ、
だんだんとつかいがってのいい機能がふえていくのだろう。
そのうち「お達者クラブ」みたいなのもできるかも。
まずは、いいスタートがきれてよかった。

posted by カルピス at 22:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | ほぼ日 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月29日

「音楽遊覧飛行」にこじつけて、「わざわざ食べに行きたい食べ物」

今週の「音楽遊覧飛行」(NHK-FMの番組)は、
吉村喜彦さんが担当する「食と音楽で巡る地球の旅」。
テーマは、「わざわざ食べに行きたい食べ物」だ。
いつもだと、すっぱいものとか、あまいものとかのテーマをきめて、
それにまつわる町とたべものを紹介するのだけど、
今週は「わざわざ食べに」でかけたいほど
印象にのこるたべもののはなしだ。
でもまあ、内容としては、けっきょくいつもとおなじだった。
もともとテーマなんて あんまり意味がない番組だ。
吉村さんがたのしくおしゃべりして、
さいごにこじつけの曲をながせたらいい。

わたしもまたこじつけで、
「わざわざ食べに」でかけたい
おもいでのたべものについてかいてみる。
きりがないので、3つにしぼった。

・ネパールのダルバート
・イギリスのフィッシュアンドチップス
・モロッコのハリーラ

ダルバートはネパールの定食だ。
ダルは豆のスープ、バートはお米、
それにタルカリというカレー味のおかずが
最小限のセットになっている。
ボソボソのごはんにダルをかけて手でほぐし、
わしわしくちにはこび、ときどきタルカリをつまむ。
みそ汁のぶっかけ丼といえなくもない。
ネパールでは朝ごはんをごくかるくすますので、
ひるにはすごくお腹がすいている。
そんな胃袋にダルのやさしい味がたまらなかった。
ごはんはいくらでもつぎたしてくれる。

フィッシュ&チップスは、イギリスを紹介する本に
かならずといっていいほどでてくるので、
ずっとまえからたべてみたかった。
タラなどの魚のフライに酢をふりかけ、
大量のチップス(フライドポテト)をつけあわせにたべる。
こんなにたくさん とてもたべきれない、と
おどろくほどのチップスをいれてくれるので、
「おまえ、これだけの量をたべらられるか?」と
挑発されたような気がした(もちろんたべた)。

ハリーラは、モロッコのごった煮スープで、
ラマダンちゅうに、からっぽのお腹の準備体操として、
まずハリーラをゆっくり胃におくりこんでから
夕ごはんにうつる。
ラマダンにかぎらず、いつでもつくられており、
モロッコにおけるカゲの国民食ではないか(独断だけど)。
タジンとクスクスは日本でもつくったけど、
ハリーラだけはモロッコでたべたい。
「わざわざ食べに行きたい食べ物」にあげる所以だ。

3つ、といっておきながら、もうひとつかきたくなった。

・スペインのチーズサンドイッチ

夕ごはんまでのおやつにとおもい、
宿の1階でやっているバルでチーズサンドイッチをたのむと、
ぶあついチーズを何枚もきって
おおきなパンにはさんでくれた。
こんなのをおやつにたべるなんて、
さすがにスペイン人の食欲はひとけたちがう。
わたしの注文がなにかまちがってつたわったのでは、と
心配になるほど 何枚も何枚も
チーズきり器でスライスしてくれる。
これがフランスになると、がくっとチーズの量がへる。
チーズサンドイッチはぜったいにスペインでなければならない。
「ボカディージョ・デ・ケソ・ポルファボール」
(チーズサンドイッチをください)
は、いまでもおぼえている かずすくないスペイン語となっている。

いずれも、はじめてたべたのは、もう20年以上まえのはなしだ。
おむかえがくるまえに、センチメンタルジャーニーとして
これらの国をたずね、わかいころの記憶とてらしあわせたい。
ハリーラ以外は、どれも量にうちのめされているのがわかる。
いまでもそうだけど、
けっきょくわたしは量によわいだけかもしれない。

posted by カルピス at 21:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月28日

「コーラが一番吹き出す都道府県調べ」(地主恵亮)におどろく


デイリーポータルZの「再放送」に、
地主恵亮さんが以前かいた記事、
「コーラが一番吹き出す都道府県調べ」がのっていた。
http://portal.nifty.com/kiji/121005157688_1.htm
それぞれの都道府県で、コーラをふってからフタをひらき、
なかみがどれだけふきでるのか、という「調査」だ。

地主さんといえば、
「彼女がいる風」の写真でしられている。
まるで、彼女となかよくやっているみたいな場面を
ひとりでえんじ、ネットに投稿する。
ほかにもおもしろい記事がおおく、
わたしのすきなライターさんだけど、
ざっくりいって、あたり・はずれのゆれはばもまた特徴だ。
なにを意図しているのかわかりにくかったり、
あきらかにムリがあったり。
でも、ヒットだろうが からぶりだろうが、
可能なかぎり打席にたとうという姿勢がわたしの胸をうつ。

それにしても「コーラが一番吹き出す都道府県調べ」はすごい。
コーラは振ってから開けると吹き出す。誰もが知っていることだと思う。では、どこで振れば一番吹き出すのだろうか。日本には47もの都道府県があるのだ。そこで、どの都道府県でコーラを振った時が一番吹き出すのか調べてみようと思う。

べつにしらべてみなくても、
コーラのふきだし方に差があるわけない、
とふつうならおもう。
でも、やってみなければわからない、と痔主さんはかんがえる。
そして、ほんとうに(たぶん)47都道府県にでかけ、
コーラをふってみるのだ。
いちおうコーラをふる秒数がきめてあるようで、
うで時計で確認したのちにフタをひねっている。
もっともらしいようで、いかにもいいかげんにやっているので、
かえってウソくさい。
だって、コーラがふきだしたいきおいで、
まるで爆風にまきこまれたみたいに
地主さんがうしろにひっぱられているのだ。
そしてベスト3の発表。
まとめとしては、「次は世界で」というのだから
なみの人間にはとてもおもいつけない。

地主さんがかいた最近の記事では、
「財布のようにみえる練り物はこれだ」が26日にアップされている。
http://portal.nifty.com/kiji/160826197280_1.htm
「今日のみどころ」として編集部の安藤さんが
「地主くんの記事はわけがわからなかったので
 きのう書きなおしてもらいました」
とかいているぐらい、地主さんがなにを意図しているのかがみえない。
おもいつきを なにもひねらずに実行してしまうのが
地主さんのすごいところだ。
地主さんとブレストをしたら、
第1次案はいくらでもあがってきそうだ。
それをさらに発展させて・・・というのはにが手そうだけど。

「財布のようにみえる練り物」は、
かきなおされてもなお
なかなかふつうには理解できない着想であり、
もうすこしすれば、地主さんの発想に
だれもついていけなくなるのではないか。

posted by カルピス at 21:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月27日

豚モモブロックをステーキに

ときどきいく業務用スーパーに、豚モモ肉ブロックがおいてあり、
まえから気になっていた。
ステーキ用の肉にくらべ、かたまりなのにすごくやすい。
あれを、ステーキ肉としてやけないものか。
豚モモブロック.jpg
家でステーキをたべるときは、
ニュージーランドかオーストラリア産の牛ロースがほとんどで、
4人分が2000円もしないやすい肉をえらんでいる。
豚モモ肉ブロックは、そのビーフよりさらにやすく、1/2もしない。
でも、なんだかやすすぎる気がして、
まよいながらも いつもステーキ肉をかっていた。

きょうは、はじめから豚モモ肉いっぽんに腹をきめ、
スーパーへでかける。
カナダ産のかたまりが511グラム551円でうっている。
100グラムあたり108円と、おおきなかたまりにもかかわらず
圧倒的なやすさが豚モモ肉の魅力だ。
豚モモスライスはよくかっているけど、
それがかたまりになったときの迫力はすごい。

むすこはわかものらしく肉がすきで、
だされればいくらでもたべる。
ただ、焼肉屋にいくと、ほとんどカルビしかたべず、
お金がかかってしょうがない。
牛タンを、なんどかすすめてようやく、というところで、
レバーやホルモンは、まったく口にあわないらしい。
わたしが大学生のころは、
メニューのしたから、つまりホルモンやセンマイから注文し、
いちばんうえのカルビなんてたべたことがない。
ホルモンとミノでお腹をみたし、
さいごにツラミ、というのがおきまりだった。
カルビしかたべないなんて、どれだけヒンシュクな人間であるか。

やく30分まえに豚モモブロックを冷蔵庫からだしてきりわけ、
塩・コショーをふる。
豚モモはあっさりした肉なので、
塩・コショーをしっかりきかせたほうがいいそうだ
(「クックパッド」より)。
オリーブオイルとバターをしき、中火でやいた。
きょうは500グラムを3人、83歳の母はそんなにたべないので、
実質わたしとむすこで 大部分をたべたことになる。
豚肉のステーキでも、じゅうぶんおいしい。
国産牛肉は、たかすぎてとても手がでないのにくらべ、
外国産の豚モモブロックは しんじられないくらいやすい。
やすいからおいしくないかというと、ぜんぜんそんなことはなく、
牛肉よりも わたしにはたべやすかった。

焼肉屋でカルビをたのむと、
一皿だけで きょうの豚モモ肉ブロックの2倍くらいする。
むすこを焼肉屋につれていくのはやめにして、
家で豚肉ブロックをやき、
そのぶんワインやチーズにお金をまわしたくなった。
今夜のステーキで、わたしは豚モモのおいしさに目ざめた。
なぜ豚モモブロックは、その実力にもかかわらず
ひくくあつかわれているのだろう。
今夜のステーキは、おそらく我が家のターニングポイントとなる。

posted by カルピス at 21:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月26日

『ザ・パシフィック』アメリカ側からえがいた太平洋戦争

しりあいにつよくすすめられ、
『ザ・パシフィック』の1章から10章まですべてみる。
『バンド・オブ・ブラザース』が
ヨーロッパ戦線をえがいたテレビドラマであり、
この『ザ・パシフィック』は、その太平洋戦争版だ。
アメリカ海兵隊の部隊に焦点をあて、
ガダルカナル島とペリリュー島、
そして沖縄でのたたかいがおもにえがかれている。

『バンド・オブ・ブラザース』では、バストーニュの森で
タコツボにこもっていた兵士たちが印象にのこっている。
食糧と弾薬はのこりすくなく、さむさにこごえ、
敵の前線とにらみあいがつづき、ただまつしかない。
『ザ・パシフィック』は、しょっちゅう雨にふられ、
からだじゅうがビショビショだ。
あつさとさむさ、それに湿気によわいわたしは、
たたかうまえにどうにかなってしまうだろう。

この作品は、アメリカ側からみた太平洋戦争であり、
日本兵は、ただやみくもに突撃してくる
気味のわるい「ジャップ」でしかない。
作戦などなにもなく、人海戦術でつっこんでくるだけ。
海兵隊員が機関銃でバタバタたおしても、
あとからあとから日本兵がわきでてくる。
日本軍のようすとか、日本兵どおしの会話はいっさいない。

イーストウッド監督は硫黄島でのたたかいを、2つの作品でえがいた。
『父親たちの星条旗』はアメリカ側から、
『硫黄島からの手紙』は日本側からみた硫黄島だ。
それぞれすぐれた作品だけど、
あくまで2本でひとつの2部作構成であり、
両方の視点から戦争をとらえられた。

『バンド・オブ・ブラザース』でも、
相手のドイツ兵についてはえがかれていない。
この作品をみているときには なにも不満をかんじなかったのに、
『ザ・パシフィック』では おなじ日本人として
ただ突撃してくるだけの日本兵は みていてつらい。
アメリカ人によるアメリカ人のための作品であり、
さいごまで 違和感がきえなかった。

posted by カルピス at 23:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月25日

「夜の儀式」いちにちのおわりを しあわせなおもいでに

まとまって自由につかえる時間は
やすみの日でもほとんどない。
平日はなおさらで、
朝おきたら、夜ねるまでのほとんどの時間、
やらなければならない日課を こなしているだけだ。
それだけに、ねるまえのささやかなすきま時間を
ていねいにすごす儀式がたいせつとなる。
いくつかの日課をからめ、神聖な時間として ていねいにすごす。
その日いちにちを しあわせなおもいでにかえておきたい。
わたしの場合は3つの日課からなりたっている。

・30分ほどの半身浴
・寝酒(いまはとくにジン・トニック)
・寝酒をのみながらの読書

お風呂では、ちいさなイスを湯船にもちこんで、
フタにバスタオルをしき、半身浴をしながら本をよむ。
お風呂という場が、本をえらぶかとおもっていたけど、
やっているうちに、どんな本でもよめるのがわかってきた。
エッセイだけでなく、小説でも、旅行記でも、
ベッドでよむのとおなじ本をもちこめばいい。
夏だからといってシャワーだけですませずに、
半身浴で汗をしっかりかくとさっぱりする。
冬の半身浴は、もちろんからだをシンからあたためる。

寝酒も重要だ。
わたしはとくに酒のみではないけれど、
儀式として ほとんど毎日かかさずベッドにお酒をもちこむ。
いまはなんといってもジン・トニックで、
糸井重里さんの影響もあり、このごろはロックアイスをつかい、
ますます儀式のスタイルが洗練されてきた。
ジンもグラスも冷凍庫でひやしておく。
儀式には、こみいった手つづきによる
ていねいな準備がかかせない。

寝酒とともによむ本は、よっぱらってもかまわないように、
まえによんだことのある やわらかめの本がおおい。
いまよんでいるのは『東南アジア紀行』(梅棹忠夫)。
梅棹さんを隊長とするグループが、
タイ・カンボジア・ベトナム・ラオスを舞台に、
ジープをもちこんでの探検をおこなった記録だ。
1957年と、わたしが生まれるまえにおこなわれた探検なのに、
なんどよんでもひきこまれる。

あつい夏がわたしはにが手だけど、
毎晩の儀式によるしあわせな時間によって、
ことしの夏をなんとかしのいでいる。

posted by カルピス at 22:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月24日

『シン・ゴジラ』 「観たぞ」風、にわかファンの印象報告

『シン・ゴジラ』(庵野秀明:監督・2016年・日本)

映像に圧倒された。
「観たぞ リオオリンピック!」みたいに、
にわかファンがみてかんじたことを、
そのまま報告するしかない。
以下、ネタバレ。

・緊急会議のむなしさ。
 はなすことばにスピードはあるけど、
 けっきょくなにもきめられない。
・はじめに姿をみせた「巨大不明生物」は、ゴジラじゃなかった。
 えっ?この映画はゴジラ以外にも怪獣がでるの?
・命令をくだすのに、いちいち首相に最終確認をせまる。
 日本だなーと身につまされる。
・ありえない現実をまえにすると、機能しなくなる日本社会。
・もともと海のいきものなので、
 地上にあがると おもすぎる体重をもてあます「巨大不明生物」。
 グニャグニャぶりがリアルだ。
・「巨大不明生物」は、ただ都内をはったり あるいたりしただけ。
 それでも日本は膨大な被害をうける。
・たちあがった「巨大不明生物」。
 これはナウシカにでてくる巨神兵だ。
 まだからだができあがってない。成長しつづけている。
・子どものように、イノセントな表情の「巨大不明生物」。
・ここらあたりで、ようやく「巨大不明生物」を
 ゴジラとよぶと、政府がきめる。
・いったん海にひきあげ、なんにちかあとに再上陸したゴジラは、
 2倍以上におおきくなっている。「巨大不明生物」ではなく、
 いまや ほんもののゴジラだ。
・ビルがたおれるようすがなまなましい。どうやって撮影したのか。
・自衛隊がゴジラに攻撃をしかける。
 日本の軍事力を披露するかのような一連の攻撃。
 戦車の性能も紹介される。軍需産業のCMみたいだ。
・大量のけむりを口からだしたあと、ついに火をはくゴジラ。
・米軍の攻撃にも、背びれから光線をだして迎撃するゴジラ。
 本能的に攻撃から身をまもるちからがある。
・めちゃくちゃつよいゴジラ。
 口からだす光線のきれあじがすごい。
 ビルをすぱっときりさいてしまう。
・アメリカによる核兵器の使用が決定され、
 360万人が疎開する。360万人!
・「わが国の最大のちからはこの現場」
 というセリフに庵野監督のおもいをみる。
・血液凝固剤を建設重機でゴジラの口にながしこむ。
 特殊なうごきができる重機は 日本のとくい技だ。

さすがに メモをられつするだけでは、
なんのことかわからない。
「ほぼ日」の永田さんみたいに、
じょうずに交通整理をしてくれるひとがいたら、
これはこれで、リアルな「にわかファン」の声のはずだけど。
どうやって撮影したのだろうと、ずっと感心しつづけていた。

映画の前半では、日本はだめだなーとがっくりした。
でも ねばりづよく交渉にあたったり、
責任をもって指示をだせる、
すぐれた人材もそだっている。
日本のいいところと 残念なところを、
じょうずにかきわけた作品だ。

予告映画で、『鷹の爪8』がながれた。
ファンとしてみても、かなり問題のある画質だ。
「クソアニメと呼ばれて10年」と、
いわれてもしかたのないヘタクソさだった。
あの予告編では、みることが
かえってマイナスにはたらくのではないか。
わたしほどのファンでも、
お金をだしてまでみるのを ためらってしまう。

posted by カルピス at 23:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月23日

『ジブリの仲間たち』(鈴木敏夫)

『ジブリの仲間たち』(鈴木敏夫・新潮新書)

鈴木さんがかいたこの手の本を
すでに何冊かよんだような気がしてたけど、
オビのコピーにあるとおり、
この本は「宣伝と広告」だけにマトがしぼられていた。
鈴木さんがプロデューサーとして
どのようにジブリ作品とかかわり、
それぞれを どう評価しているかがかかれている。
鈴木さんはヒットしたから成功とか、
あたらなかったから失敗とはかんがえていない。
どんなねらいでつくった作品で、
宣伝と広告をどのようにおこなったかにより、
いろいろなまとめ方ができる。
『おもひでぽろぽろ』は想定外の大ヒット。『紅の豚』も予想を超えるヒット。『ぽんぽこ』は「当たる」という期待があって、いい映画館を用意した上での結果なので、順当なヒット。その意味では『耳をすませば』も大ヒットなんです。よくマスコミは単純な興行成績ランキングでヒットを論じていますけど、プロの味方というのは違います。予想のラインを超えてどこまで伸びるかで、成功か失敗かを判断しているんです。

「ナウシカ」のころは、宣伝にまったく興味のなかった鈴木さんが、
企業とのタイアップのやり方とか、キャンペーンのうち方を身につけ、
しだいにスタイルがかたまり、
勝利の方程式みたいなのができあがってきた。
タイトルの『ジブリの仲間たち』の「仲間たち」とは、
宣伝にかかわってくれたひとたちのことだ。
「宣伝とは仲間を増やすこと」と鈴木さんはとらえており、
作品ごとにあたらしい宣伝のやり方を工夫しながら
「仲間」をふやしている。

基本的に鈴木さんは、宮ア駿監督と、高畑勲監督が、
仕事をしやすい環境をととのえるために映画をつくってきた。
作品をつくるときだけアニメーターをやとうのではなく、
ジブリという会社をたちあげ、
正社員として スタッフの身分を保障する。
とうぜんそれまでよりも経費がおおくかかるのだから、
つぎの作品をつくるためには ヒットさせなければ
経費を回収できない。
ジブリに鈴木さんがいたおかげで、
わたしたちは宮崎さんと高畑さんの作品を
これだけみられたと、感謝したほうがいい。

わたしとしては、どのように映画を「売ってきた」かよりも、
作品づくりについてのはなしのほうに関心がある。
それにもかかわらず、1冊の本として おもしろくよめたのは、
もうけた自慢ばなしではなく、
作品ごとにどうやってあたらしいひとをまきこみ、
チームとしてのちからをたかめていったかが
かかれているからだ。
鈴木さんは、ヒットしたからいい「仲間」とはおもっていない。
そのときどきにおいて、いいつきあいができたから「仲間」になり、
「仲間」がふえたから作品がヒットした。
プロデューサーという仕事柄、多くの人と付き合いますが、単なるビジネスというふうには捉えません。会社対会社じゃなくて、人対人なんです。だから電通と博報堂、ローソンとセブンイレブンといった、ふつうなら競合する企業といっしょに付き合える。逆にいうと、人がいなくなれば、その企業との関係がどうなるか、わからない。(『仕事道楽』岩波新書)

つくり手の「なぜ」については、まわりがいろいろ気をまわして
資料がまとめられるけど、
鈴木さんのようなプロデューサーが
どう作品とかかわってきたかは
なかなかおもてにでてこない。
ジブリに鈴木さんがいた幸運をありがたくおもう。

posted by カルピス at 21:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月22日

50キロ競歩の ダンフィー選手の発言にしびれる

ほぼ日の「観たぞ リオオリンピック!」に、
カナダのダンフィー選手の
コメントが紹介されていた。
50キロ競歩で日本の新井選手につぎ4位となったひとだ。
新井選手は、いったんは接触による失格となったものの、
日本陸連の抗議がみとめられ、
最終的には新井選手が3位、ダンフィー選手は4位となった。
ダンフィー選手にも抗議する権利はあったのに、
審判の判断を そのままうけいれている。

「わたしの抗議が受け入れられたとしても、
 (今回の最終判断が正しいと信じている)」とし、
わたしは自分自身を、
外部からの賞賛によってではなく、
自分の誠実性によって定義したいのだ

競歩競技のルールや、
レースにおける一般的な常識を
わたしはなにもしらないけれど、
ダンフィー選手の発言にしびれた。
やるだけやったひとだから、
結果だけに執着しないで、
客観的に競技と自分をとらえられるのだろう。

がんばった結果としての金メダルや、
もういっぽとどかなかった銀メダルなど、
メダルをめぐってドラマがかたられやすいなかで、
3位になる可能性を手ばなしても
ダンフィー選手は自分の誠実性を大切にした。
日本人的な価値観では、
だめもとで とりあえず抗議してみて、
うまくみとめられたらもうけもの、
みたいなところがある。
自分の主張とはしないで、状況や場に判断をあずける。
ダンフィー選手は、あくまでも
「個」としての自分の判断をとおしている。
いいわるいではなく、文化のちがいともいえるだろう。
自分のよさはまわりがきめるのではなく、
自分が自分らしくあることを大切にする。

2週間以上にわたってたのしませてくれた
「観たぞリオオリンピック!」も、
あすがとうとう最終日だ。
夏のオリンピックは種目がおおすぎて、
とてもぜんぶの競技には目をくばれなかった。
だからこそ、「観たぞ」のありがたさがひかる。
選手たちの真剣さのまえに、
あーおもしろかった、というよりも、
いいものをみさせてもらったという感謝の気もちがつよい。
ただ、そればかりいってると、
がんばりばかりをおいもとめてしまう。
かざとおしのいい、自由な雰囲気をわすれないために、
「観たぞ」のやわらかさがバランスをとってくれる。

posted by カルピス at 22:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月21日

梅棹さんのまねをして、「いまはなにもしないことにきめる」

ものすごくからだがだるい。
貧血なのか、血圧がひくいのか、
あんがい男の更年期というやつかもしれない。
ほかにもおもいあたることがあるけど、
よくかんがえてみると、これは
ただ単純につかれなのでは。

2週間まえにスイムランのレースをおえ、
そのあとゆっくりやすみをいれないまま、
11日から連続6日からだをうごかし、
いちにちあいだをおいて18日に
1時間のジョギングをしたところでちからつきた。
いまはもう足にちからがはいらない。
これではとてもトレーニングなどできないので、
きのうは完全休養の日とする。
つかれきってしまうと、からだはなかなか
もとにもどらない。
そうなるまえに シーズンオフとして、しっかりやすもう。

梅棹忠夫さんの『モゴール族探検記』で、
荷物をつんだ一行をまつあいだ、
体調をととのえるために、
梅棹さんがあえてなにもせず、
たべて ねるだけに専念する場面がすきだ。
もうなんどかこのブログで紹介したけど、
すきなのでまたかきうつす。
 わたしは、なにをする気もしない。したらようとおもうことはたくさんある。日記の整理も必要だ。植物採集もしなければならない。(中略)時間はある。やればよいことはわかっている。わたしはいま、馬力がない。いまはなにもしないことにきめる。みんなあとまわしだ。また機会があるだろう。いまは、「スリーピング・アンド・イーティング」だ。

梅棹さんでさえ、探検中においても、
こんな時期をすごすのだから、
わたしがすこしぐらい「なにもしないことにきめ」ても
ゆるされるだろう。

わたしの「スリーピング・アンド・イーティング」は、
まだ1日半だけだけど、だいぶからだがらくになった。
きょうは水泳の練習につきそう仕事がはいり、
50メートルを10本×3セットほどおよぐ。
いつもなら仕事で水泳の練習ができる
おいしい依頼だけど、
いまのわたしには はやくおよげぐのは負担がおもく、
おわったころにはまたヘロヘロになってしまった。
まあいい。原因がつかれなのはたしかなようだ。
今月はおやすみの月として、気もちがトレーニングにむくまで
罪悪感などもたずに からだをやすめよう。
『シン・ゴジラ』をみたいし、
かりてきたDVDの『パシフィック』シリーズもある。
2016年の8月は、
「スリーピング・アンド・イーティング」の月だったと、
いいおもいでになるだろう。

posted by カルピス at 18:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月20日

うもれた記事にひかりをあてるには どうしたらいいんだ?

きのうブログで
これまでにみた映画とその原作についてかいた。
作品名をならべるだけでは不親切なので、
記事がよめるようにリンクをはろうとするけど、
それだけですら けっこうな手間だ。
ブログ管理者のわたしでさえ、
まえの記事をさがすのはたいへんなのだから、
ブログをよみにきてくれるひとが
ふるい記事をよんでくれるチャンスは
あまり期待できない。
かきっぱなしのブログでは、
まえにかいた記事がうもれてしまい、
陽の目をみないことを実感する。
ブログをかくひとのおおくが
おなじ問題になやんでいるのではないか。

日記みたいなブログだから、
ページビューなんかは気にしないと ひらきなおりつつ、
たくさんの記事がたまってきたために
せっかくかいた記事が うもれてしまうのは残念だ。
映画や本をとりあげた記事なら、
ジャンルや作家別、そしてタイトルを
あいうえお順で一覧表示できれば
ふるい記事にもひかりをあてられる。
とくによんでほしいおすすめ記事もまとめておきたい。

ただ、そうやってサイトをととのえるのには、
どれだけの労力が必要なのだろう。
それをかなえてくれるお手軽アプリがあればいいけど、
きっとひとりでシコシコとりくむしかないのだろう。
じっさいのところ、それほどたくさんのひとが
のぞきにきてくれるブログではないわけで、
そうしたサイトにつくりかえるのは、
けっきょく自分のため だけかもしれない。

5年ちかくブログをかいてきて、
ようやくながくつづけたためのジレンマに気づいた。
とりあえずかんがえられる改善策は
関連記事のリストアップだけど、
根本的にはサイトをあらたにたちあげないと
むつかしいのではないか。
ほかのひとはどう対応しているのだろうか。

posted by カルピス at 17:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月19日

原作と、映画化された作品の印象

『本の雑誌 9月号』の特集は「映画天国!」。
原作と映画化された作品だけでなく、
映画についてかかれた本だって
「本の雑誌」の守備範囲なのだから、
映画と本とは あんがい関係がふかい。

わたしがこのブログでとりあげた映画のうち、
原作をよんだものにかぎると、

『シンドラーのリスト』
『きょうのできごと』
『イントゥ・ザ・ワイルド』(原作は『荒野へ』)
『ノーカントリー』(原作の邦題は『血と暴力の国』)
『ザ・ロード』
『桐島、部活やめるってよ』
『マディソン郡の橋』
『ハンニバル』
『思い出のマーニー』
『華麗なるギャツビー』
『WOOD JOB』(原作は『神去なあなあ日常』)
『テルマエ・ロマエ』
『探偵はBARにいる』(原作は『バーにかかってきた電話』)
『羊たちの沈黙』
『スタンド・バイ・ミー』
『スティング』
『ゴッド・ファーザー』

だいたい どの作品もじょうずに映画化されていて、
原作と映画の両方をたのしめるのだけど、
『テルマエ・ロマエ』と『探偵はBARにいる』には
なじめなかった。
とくに『探偵はBARにいる』はとちゅうでやめてしまったほど
わたしの解釈とちがう「ススキノ探偵」だった。
映画化は監督しだいだ。

よんでからみるか、
みてからよむかについては、
とくにきめてないけれど、
原作をよみ、もっとその作品にひたりたくて
映画をかりてくるほうがおおい。

印象にのこっているのが
『桐島、部活やめるってよ』で、
原作にでてくる高校生たちから
いくつもの日本映画、たとえば
『ジョゼと虎と魚たち』をおしえられた。
映画もまた原作とはちがう味があり、両方とも傑作だ。

posted by カルピス at 20:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月18日

リオオリンピックでのオープンウォータースイミング

リオオリンピックでのオープンウォータースイミングをみる。
2.5キロのコースを4周する。
マラソンスイムといわれているように、
水泳の10キロは、陸上の40キロと
ほぼおなじ競技時間(2時間)なので、
まさしく海でおこなわれる水のマラソンだ。
オリンピック競技になって3度めということで、
まだ競技としての歴史があさいことから
ルールや運営方法がまだ洗練されておらず、
それだけちからくらべのレースとなる。
そと海でおよぐのだから、波の影響もつよいし、
最短距離でおよぐためのコースどりも、
水のなかでは そう簡単ではない。
いろんなことが、これからととのっていくのだろう。
ほかの競技だと、用具やトレーニング方法、
戦術などができあがっており、選手強化やレースでの作戦も、
そんなに奇抜なものはあらわれないけれど、
オープンウォータースイミングは、まだこれからの競技だ。

25人がスタートをきった。
トライアスロンでは、もっと人数がおおいので、
とおくからみるとイケスの魚みたいだけど、
25人ではそれほどの団子状態はできない。
選手たちのまわりを船やカヌーがとりまいている。
なんだかかこいこみの漁をしてるみたいだ。
スタートしてすぐに、ひとりの選手が集団をぬけだした。

水温が21℃。競泳のプールは26〜27℃なので、
わたしにとって21℃はめちゃくちゃつめたい水温だ。
選手たちは、きびしい環境になれているひとたちなので、
競泳の選手よりも脂肪をたくわえたごつい体格のひとがおおい。

給水ポイントでは、つりざおみたいな棒に
ボトルをつけて選手にわたしていた。
選手はそれを、背およぎの姿勢になってのみ、
からっぽになったボトルをなげすてる。
どうみても 水族館で調教ちゅうのラッコやアザラシのしぐさだ。

海をまっすぐおよぐのは かなりむつかしく、
わたしなんかだと、なんども顔をあげてコースを確認しなければ
いつのまにか左にそれてしまう。
オープンウォータースイミングの選手たちも、
ときどき顔をまえにむけて、位置を確認しているとはいえ、
自信をもってコースどりしているのがすごい。
コースロープや 水のなかの目じるしなしで、
よくまっすぐにおよげるものだと感心する。
今回のレースでは、2時間およぎながら
さいごまで集団がくずれず、
かたまりとなってゴールになだれこみ
板をタッチしていた。

はじめてみるオープンウォータースイミングは、
しらないだけに すべてが新鮮だった。
冬のオリンピックもそうだけど、
マイナーな種目は オリンピックでないと
なかなかテレビでみられない。
4年後の東京オリンピックでは、
給水方法やゴールのやり方がかわらないだろうか。
かんがえたすえに きまった方法とはいえ、
いくらなんでもつりざおでの給水はむつかしすぎる。
板をタッチしてのゴールにもおどろいた。

posted by カルピス at 22:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月17日

『シンドラーのリスト』(映画)

『シンドラーのリスト』
(スティーブン=スピルバーグ監督・1993年・アメリカ)

せんじつよみおえた『シンドラーのリスト』の映画版をみる。
とてもじょうずにつくってあり、本のイメージが
そのまま映像となっているのにおどろかされる。
主演のリーアム=ニーソンは、
まさしくオスカー=シンドラー氏だ。

原作についてかいたブログでは、
なぜシンドラーが膨大なお金と労力をかけて
ユダヤ人をすくおうとしたのかの説明はない、と
くりかえし強調した。
映画では ここのところがうまくつたわるようにつくってある。
ユダヤ人のゲットー(ユダヤ人居住区)に
ナチスの部隊が突然なだれこみ、
無抵抗のユダヤ人をつぎつぎにうちころす。
シンドラーは、丘のうえからこの光景を目にやきつける。
ナチスへのいかりがかきたてられ、
ユダヤ人の側にたとうときめた場面だ。

とはいえ、シンドラーは金もうけのため、
ビジネスとして、ユダヤ人をやとい
軍需工場を経営しているというたてまえをくずさない。
ユダヤ人ひとりを工員としてやとうと、
いちにちに7マルクをナチスにしはらうきまりがあり、
それでもドイツ人をやとうより はるかにやすいので、
ビジネスとしては たしかに「あり」なのだ。
日本でも、第二次大戦のときに
軍とじょうずにつきあって、
戦争成金として富をえたひとがいる。
シンドラーは、そうしてかせいだ巨額の金を、
すべてユダヤ人をすくうためにつかった。

シンドラーが自宅で愛人とすごしているときに、
彼の妻が故郷の町からたずねてきた場面がおかしかった。
シンドラーはまったくあわてない。
おおいそぎで身じたくしている愛人のようすを
あろうことか妻にしめし、
「あわててる」と おかしそうに同意をもとめる。
そのうえに「(愛人である女性は)君と気があうよ」とまでいうのだ。
もしわたしがそんな場面をむかえたら、
シンドラー氏をみならいたい。
でどころを説明すれば、修羅場にならないはずだ。

ある場面で雪がふりはじめ、
シンドラーが愛車のメルセデスのグリルをなでると、
黒い灰が雪にまじっていた。
この灰こそが、ユダヤ人をやいたときにでたもので、
そのとき強制収容所では、
いぜんころしてそこらじゅうにうめたユダヤ人の死体を、
またほりおこしてもやしていた。
戦争にまけるのがみえてきて、
ソ連軍が収容所を開放したときに、
死体がみつからないための処置だ。

わたしはふだん映画をみながら酒はのまないけど、
この作品だけは やたらとコニャックやウォッカをあおる
シンドラーをみならって、酒にたよった。
こころをとざさなければ、
とてもみていられない場面がいくつもある。

シンドラーの経営する工場にいくはずのユダヤ人女性たちが、
手ちがいでアウシュビッツへおくられてしまった。
女性たちは髪の毛をはさみできられ、
服をぬがされて、殺菌室へおしこめられる。
シャワーからでてきたのは、さいわいつめたい水だった。
ひえきったからだに水のシャワーをあびながら、
彼女たちがよろこびの声をあげたのは、
もちろんシャワーからでたのが 毒ガスでなかったからだ。
アウシュビッツでは、ユダヤ人のいのちが
ほんのささいな偶然にもてあそばれ、
なにが原因で どっちへかたむくかわからない。
ただ、家畜用の列車におしこめられ、
糞尿にまみれての「旅」については
リアルな描写がさけられている。

映画のラストでは、私設の収容所をさるシンドラーが
ユダヤ人たちから金の指輪をプレゼントされる。
ユダヤ人にとってふかい意味のある宗教的な指輪だ。
シンドラーはとつぜん「もっとすくえた!」と
なきくずれる。
自分はできるかぎりの労力をはらったわけではなく、
本気でことにあたれば
もっとたくさんのユダヤ人をすくえたという後悔だ。
原作でのシンドラーは、
もっとおさえた感謝の意をしめしており、
その解釈のほうがシンドラー氏のこころのうちを
より正確にあらわしているとおもう。
「もっとすくえた!」は、
シンドラー氏のセリフとして唐突すぎる。
このさいごの場面をのぞいては、
ひじょうによくできた作品であり、
このような人間がいた事実をつたえる
貴重な記録となっている。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月16日

『わたしに会うまでの1600キロ』

『わたしに会うまでの1600キロ』
(ジャン=マルク=ヴァレ監督・2014年・アメリカ)

わかい女性がバックパックをせおったDVDの表紙にひかれ、
まえからみようとおもっていた。
1600キロもあるくのだから、
おそらく自分さがしの旅なのだろう。
ひとの「自分さがし」に関心はないけれど、
このわかい女性は、いったいどんな旅をしたのだろうか。

バックパックでの世界旅行ではなく、
パシフィック・クレスト・トレイルという
アメリカ西海岸にあるトレイルコースをあるく旅だった。
なぜ彼女がこのトレイルをえらんだのかの説明はなく、
足の親指の爪をいため、登山靴をなげすてたり、
フレームパックに荷物をつめこむ場面から映画ははじまる。
山や砂漠をあるくのだから、水と食糧をせおっての旅になるのに、
女性はバックパッキングになれていないようすで、
あれもこれもとリュックにつめこみすぎ、
出発しようとしても おもすぎてリュックをかつげない。
ようやく旅をスタートさせ、テントをはってみたものの、
用意したガソリバーナーは、無鉛ガソリンしかつかえないタイプで、
料理ができず シリアルに水をかけてむりやり口におしこむ。

困難な旅にいどむわかい女性(シェリル)への共感はなく、
ろくな準備もせず、知識もなしに
ひとをたよってあるきつづけるシェリルに反発をおぼえる。
かわいげのない、いやな人間にみえる。

旅をつづけながら、シェリルはそれまでの生活をおもいうかべる。
愛する母親をめぐりおもいだす いくつもの場面。
腫瘍がみつかり きゅうにおとずれた母親の看病と死。
母親への反発と、そんなことしかできなかった自分への後悔。
母親の死をうけいれられず、麻薬におぼれた時期。
トレイルをあるきながら それらの場面が
なんどもフラッシュバックされる。

母親がおくってきた人生は、シェリルからみると、
ひどい男にだまされつづけた
ろくでもない最低の生活におもえるのに、
母親はそれでも「生きたい」とわらってはなす。
こんなすばらしい子どもたちにめぐまれたのだからと、
すこしも後悔せず、ずっと笑顔で生きてきたし、
病気をわずらっても笑顔をたやさやい。

トレイルをあるくうちに、
はじめは初心者だったシェリルも旅になれ、
おなじコースをあるく旅行者たちから
いちもくおかれる存在になってゆく。
旅のテクニックはつたなくても、
ぜったいにあきらめないガッツが
まわりからみとめられる。
トレイルでの旅は、道具やテクニックでするものではなく、
自分との対話によっていとなまれるものだった。

バックパック旅行による自分さがし
みたいな映画だろうと予想してたけど、
シェリルの1600キロをみおえたあとでは、
「自分さがし」と かんたんにくくりたくない。
つらい記憶を旅でふりはらってきた彼女のつよさに
ふかく共感していた。
シェリルには、1600キロのひとり旅が どうしても必要だった。
彼女はゴールしたのちに、あらたな生活を再スタートさせる。
結婚し、子どもをもうけ、
自分の母親がそうしてきたように、
人生を、家族を愛する生活をおくっている。

posted by カルピス at 22:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月15日

錦織圭選手とモンフィース選手の熱戦を 冷静にながめていたアホなわたし

お盆を配偶者の実家ですごしていたとき、
テレビをつけると男子テニスの準々決勝、
錦織圭選手とモンフィース選手の試合をやっていた。
1-1で3セットにすすみ、その3セットめも
タイブレークにさしかかっている。
あぶなげなく錦織選手が点をかさね、
さいごにモンフィース選手がからだをなげだして
ボールをおったけど、ほんのすこし とどかなかった。
そのまま錦織選手のかち。

わたしは、タイブレーク、
しかも錦織選手が連続で点をいれたときからみたので、
じょうずにボールをちらす頭脳的な錦織選手のまえには、
ちからばかりの相手選手はかてっこないな、
なんてえらそうに分析していた。
でも、あとで「観たぞ、リオオリンピック!」をみると、
この試合はものすごい接戦で、タイブレークにしても
3−6でモンフィース選手に マッチポイントまでせまられてから
錦織選手が5ポイントを連続できめるという
ありえないほど感動的なかち方だった。
だから試合がおわったときに、
錦織選手がタオルに顔をうずめ、
しばらくうごけなかったんだ。

「観たぞ」をよんでたときには、
そんなすごい試合だったら ぜひみたかったな、とおもい、
いくつもよせられている あつい投稿をよむうちに、
これはわたしが配偶者の家でみた試合だと気づいた。
すばらしい試合をみているのに、
まったく内容についていけず、
淡々と「かち・まけ」だけに反応していた
自分のひくい観戦力にがっかりする。
こんなわたしだから、「観たぞ」のたすけが必要なのか。
おおくの「観たぞファン」が 胸をあつくした試合に、
まったくこころをうごかされなかったわたしは なんなのだ。

「観たぞ」にのっていたいいはなしで、
(読者)永田さん。
十年以上片想いしてる彼から
    「オリンピックがおわったら会えるよ」
と言われました。

     このオリンピック、いつまであるんですか?
(ぷにこ)
(永田)ええと、8月22日ですね。
    
    23日の夜に約束してください。

ひとによって、いろんなオリンピックがある。

錦織圭選手は、そのあとの準決勝をおとしたものの、
3位決定戦でナダルをやぶっての銅メダル。
メダルがとれてうれしいというよりも、
しっかり応援できなかった準々決勝が記憶にのこる。
あの試合にのめりこめなければ、テニスをみる意味なんてない。

posted by カルピス at 16:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月14日

『シンドラーのリスト』(トマス=キリーニー)ユダヤ人虐殺から生きのびる唯一のリスト

『シンドラーのリスト』
(トマス=キリーニー・磯野宏:訳・新潮文庫)

強制収容所からおおくのユダヤ人をすくった
シンドラー氏についてのノンフェクション。

第二次大戦ちゅう、ナチスの政策により、
ポーランドでもユダヤ人にたいする迫害が
エスカレートするいっぽうだった。
ドイツ人の実業家であるシンドラー氏は、
軍需工場を経営し、
工員としてユダヤ人をやといいれていた。

やがて、シンドラー氏のすむ町にも
ゲットー(ユダヤ人隔離居住区)がつくられ、
強制的に劣悪な環境へとうつされる。
さらに町に強制収容所ができると、
ゲットーにすむユダヤ人は全員そこへ移動させられる。
支給されるはずの衣服や食事は闇市にながされ、
さむさから身をまもれない囚人服と、
うすいスープしか提供されない。
収容所の所長の気分しだいで
囚人たちはかんたんにうちころされてしまう。
希望がなく、死をまつだけの収容所での生活。

シンドラー氏は、施設の収容所をつくり、
そこの工場に、いぜん自分の工場ではたらいていたユダヤ人を
うけいれようとする。
軍需工場での兵器づくりには
熟練工としてきたえあげた工員が、
どうしても必要だというのがおもてむきの理由だ。
シンドラー氏による私設の収容所では、
氏のポケットマネーにより
2000カロリーの食事が保障され、
親衛隊員の監視はとどかず、
男女の隔離も形だけにとどまり、
人間的な生活がいとなまれていた。

「シンドラーのリスト」とは、
シンドラー氏の収容所へ移動する
ユダヤ人の名前をのせたリストであり、
そこに名をつらねることが、
生きのびる唯一の道だった。

シンドラー氏は、ナチスと正式に交渉し、
軍需工場として自分の事業をみとめさせる。
ただ正面からおねがいしても
ききいれられっこないので、
膨大なワイロで親衛隊幹部を買収するのが
シンドラー氏のやり方だ。
影響力のある人物をディナーでもてなし、
酒や食糧をワイロに手わたして コネクションをつくる。

シンドラー氏が、身の危険をおかしてまで
なぜユダヤ人をすくおうとしたのか
ほんとうのところ よくわからない。
だれかにたのまれたわけではない。
ひととして当然のこととはいえ、
それをあの時代に実行できたドイツ人が
はたしてどれくらい いただろう。
自分にできる範囲でやったとはいえ、
当時の状況でユダヤ人をすくおうとするのは
自分の命とひきかえでもあった
(じっさい、シンドラー氏は3どゲシュタボに逮捕されている)。

自分の工場ではたらくユダヤ人が、
強制収容所につれさられようとしたら、
シンドラー氏はその熟練工が
兵器の生産にかかせない人員であるとつよく主張する。
あのなかにはかけがえのない兵器想像の熟練工がいます。わたしが自分で何年もかかって仕込んだんです。代わりの人間にその技術を教えろと言われても、急には無理な話です。わたしに必要なのは、このリストに載っている女たちなんです。

10歳にみたない子どもが
なぜ工場に必要なのかと たずれられたら、
砲弾の内側をみがくには
ちいさな子どもの手でなければとどかないと
シンドラー氏はためらいなく はったりをかませる。
秘密兵器にかかわっているはずの
シンドラー氏の工場は、じっさいには
なにも生産していない。
工場での仕事のおおくは偽装であり、
親衛隊といえども シンドラー氏の工場に
かんたんには たちいれないほどの権限を
シンドラー氏はおおくのコネによって かちえていた。

シンドラー氏は倫理感のつよい道徳家だったわけではなく、
美食と酒をこのみ、つねに複数の愛人との関係をもち、
魅力的であれば親衛隊の女性隊員ともねてしまう。
このような世なれたあそび人であるシンドラー氏が、
なぜユダヤ人をすくうのに、
あれだけの金と労力と、危険をおかしたのかは
なんどもくりかえすように理由を説明できない。
シンドラー氏によってすくわれたユダヤ人たちが、
どれだけ氏の行為に感謝したかについて 本の最後にふれてある。
戦争がおわり、収容所にいたユダヤ人たちが開放されると、
シンドラー氏は それまでのかがやきをうしなっている。
シンドラー氏は 虐殺へのいかりにもえながら、
迫害からユダヤ人たちをまもるのに
生きがいをかんじていたようにもみえる。

posted by カルピス at 21:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月13日

ケンカぱやかったという 椎名誠さんについて

「椎名誠 旅する文学館」のなかに、
目黒考二さんが椎名さんから著作について
はなしをききだすコンテンツがあり、
わかいころの椎名さんが
いかにケンカぱやかったかがのっていた。
http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/11218
「ずっとずっとむかし、娘や息子、それに妻と一緒にタクシーに乗ったりするとき、父親が怖くて仕方がなかった、と三人が口を揃えていうのである」

「タクシーに乗るとぼくがいつその運転手と喧嘩するかわからなかった、と三人は口を揃えていうのだった」

椎名さんのエッセーに、タクシーがらみで
ヤクザとケンカしたはなしもでていたので、
ほんとうに、椎名さんがタクシーにのると、
たかい確率でなにかがおきたのだろう。
だいたい、家族や目黒さんが、
椎名さんとタクシーにのるのをいやがるくらいだから、
椎名さんの記憶がどうであれ、
じっさいにおおくのケンカがあったのはまちがいない。

ただ、わかいころの椎名さんが
いくらけんかぱっやかったといっても、
みさかいなくけんかしていたわけではないはずだから、
椎名さんの側にたてば、タクシーにのったときにかぎって
ケンカがおおかったといえるかもしれない。
ほかの作家のエッセーにも、
タクシーにのって不愉快な目にあった体験がよくのっている。
タクシーの運転手は、よほど問題のあるひとがおおいのか。
椎名さんがケンカをしたくても、
相手がうけなければケンカにはならないのだから、
けして椎名さんだけがケンカぱやかったのではないだろう。

タクシーと椎名さんの記事をよんで、
わたしも父親とタクシーにのるのが
いやだったのをおもいだした。
わたしの父親は、タクシーにのると
やたら運転手さんとはなしをはじめ、
それがまた自分がいかに世なれた人間かを
自慢するようなはなしばかりだったので、
子どもながらに きいていてはずかしかった。
子どもというのは、おおかれすくなかれ、
自分の父親を否定したくなるのかもしれない。
もっとも、椎名さんの場合は、奥さんも目黒さんも
「怖かった」とはなしているので、
なんどもくりかえすけど、まちがいなく
かなりの頻度でケンカをしていたのだろうけど。

わたしは ちいさな子どものころをのぞき、
なぐりあいのケンカをしたおぼえがない。
平和主義者というよりも、気がちいさくて、臆病なのだ。
そんな人間からすると、
まわりがひやひやするぐらい ケンカぱやいのは
うらやましくもおもえる。
すくなくとも わかいころは、
それぐらいの自信といきおいをもって生きたい。
まあ、こういうのは性格なので、
そうなろうとおもっても かわれるものではないけど、
もしもこれから ケンカのおおい人生をめざしたくなったら、
相手には、タクシーの運転手さんをえらびたい。

posted by カルピス at 22:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月12日

リオデジャネイオリンピックにからめての日記

ほぼ日で「観たぞ、リオデジャネイオリンピック!」がはじまり、
http://www.1101.com/rio2016/2016-08-12.html
まいにちたのしみにチェックしている。
「観たぞ、ソチオリンピック!」が
わたしにとってはじめての「観たぞ」で、
にわかファンたちの にわかならではの言動に
ふかく共感したものだ。
あれから2年がすぎ、また「観たぞ」の年がやってきた。
基本的にオリンピックはすきではないのに、
「観たぞ」でのにわかファンと永田さんのやりとりをよむと、
ややこしいことはいわないで、
スポーツのすばらしさをたのしめばいいのだと
わりきれるようになる。
「観たぞ」のよさのひとつは、
「みんなで応援する」ところだ。
ひとりでテレビをみていても、
ひとりじゃないって、うれしい。

これまでおもしろかった投稿は、
男子200メートルバタフライで
フェルブス選手が通算20個めの金メダルをとったときのもの。
金のメダル20個集めたら、
何か景品と交換できそうです。(ぴよぴよ氏)

ほんとに、こんなにかんたんに金メダルをあつめられると、
「そのさき」があるみたいにおもえてくる。

いいはなしとしては、
(卓球の福原愛選手を熱狂的に応援していた「夫」が)
突然「はっ」と起き上がり、
「この人は、もう、愛ちゃんではない!!
・・・愛さんだ!!!!」
と天に向かって叫びました。(なななんな氏)

残念ながらグループリーグでの敗退がきまったサッカーは、
ごくかんたんなあつかいになってしまった。
パスをつないでのスピードのある攻撃が
じゅうぶん通用していただけに、
これからの活躍をもっとみたかった。

ラグビーもニュースですこしみた。
Wカップでは15人制なのに、
オリンピックは7人制ラグビーだ。
15人とくらべ、スペースがありすぎるので、
点がどんどんはいるのかとおもっていたら、
これがあんがいはいらない。
15人制とはまたちがった迫力があった。

朝日新聞に連載ちゅうの『吾輩は猫である』が
おもしろくなってきたので、
iPadにダウンロードする。
100年まえの小説を、「ダウンロードする」というのが
なんだかすごくへんなかんじだ。

お盆やすみにはいり、しばらくオリンピック観戦にひたれそう。

posted by カルピス at 17:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする