2016年08月11日

「錦織」問題

朝日新聞の島根版で、
錦織問題がとりあげられた。
テニスの錦織圭選手は松江市出身なので、
地方版によく名前があがる。
リオデジャネイオリンピックに出場している
女子ホッケーの錦織えみ選手もおなじ名字だ。

問題は、「錦織」をどうよむのがただしいかで、
島根県におおい「錦織」姓は、
ニシコリ・ニシコオリ・ニシキオリ・ニシゴオリ・ニシゴリと、
いくとおりのよみ方ができるそうだ。
テニスの錦織選手は「ニシコリ」で、
ホッケーの錦織選手は「ニシコオリ」とよむ。

わたしも中学校のときの同級生に
錦織さんがいて、彼女はニシコリさんだったけど、
ときどきわけがわからなくなった。
にしきをおるから ニシキオリがただしそうなのに、
彼女はニシコリさんなのだ。
ニシコリさんだけど、ニシコオリとよばれても
自分の名前と認識してくれたようにおもう。
いちいちわたしは「ニシコリ」です、と
訂正するのがめんどくさかったのではないか。

漢字をできるだけつかわない主義のわたしにとって、
錦織問題は、漢字の問題点を指摘する かっこうの話題だ。
日本語における漢字問題のおおくは、

・いろいろなよみ方ができる
・おくりがながきめられない、

という点にある。
たとえば「おくる」は、
「送る」なのか「送くる」なのか、
どっちがただしいのかわからない。
「送る」がただしい、といったって、
じっさいに「送る」と「送くる」の両方がつかわれていて、
どちらでもいいのが現状だ。

錦織問題は、よみ方がさまざまという点において、
漢字のとりあつかいが、
いかにややこしいかをしめしている。
はじめからひらがなやカタカナ、
あるいはローマ字でかいていたら、
まちがいようがないのに、
漢字をつかうと、いちいち
自分の名字はどうよむのがただしいかを
説明しなければならないなんて
かんがえてみると すごく不思議なはなしだ。
漢字をつかうかぎり、錦織問題はなくならない。
おおくの錦織さんは、まちがってよばれたとしても、
よむほうがまちがっているわけではないのだから、
がんばって訂正しつづけるしかない。

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2016年08月10日

アマゾンの電子書籍よみ放題と 旅行にもっていく本

アマゾンの電子書籍よみ放題(1ヶ月980円)がはじまった。
いまのところ洋書以外のコンテンツは、
書籍が8万点しかないそうなので、
まだ「よみ放題」したくなるほどの魅力はない。
でも、これからどんどん内容を充実させていくだろから、
実用的なサービスにそだっていくだろう。

わたしはこれまで30冊ほどを専門の会社へ「自炊」にだした。
旅行ちゅうに、くりかえしよみたいお気にいりの本を、
タブレットでよみたかったからだ。
旅行にでてまで、本の心配をしたくてもよさそうだけど、
わたしのスタイルでは、旅行ちゅう あんがいひまな時間がおおく、
旅行における読書のニーズがたかい。
旅行の準備として、いつも10冊程度の本をえらぶのだけど、
ガイドブックとあわせれば かなりのおもさとなるので、
もっていくのは10冊が限度だった。

そこへ電子書籍が登場し、紙の本をもっていかなくても、
お金をはらえば 旅行さきでダウンロードできるようになった。
ただ、コンテンツには あらゆる本がならんでいるわけではない。
たいしてよみたくない本にお金をかけるより、
自炊して、気にいった本をくりかえしてよむほうが
わたしの旅行と読書のスタイルにあっていた。

アマゾンのはじめた「よみ放題」により、
このさきコンテンツがじゅうじつしていけば、
自炊しなくても よみたい本にこまらないで旅行できるだろう。
魅力的な新刊や、再読したいふるい本を、
月に980円でいくらでもよめるようになれば、
わざわざ自炊するまでもない。
再読だけでなく、旅行のときによむのにふさわしい本、
たとえば旅行している国についての本などを
アマゾンからダウンロードすればいい。

なんだかこうなってくると、
おもたい荷物をかかえての旅行が
はやくもなつかしくなってきた。
なにもかもが 軽量化にむけてスムーズにすすむと、
ふるいタイプの人間は、それまでの習慣がなつかしくなってくる。
つぎの旅行には、「よみ放題」と契約しつつ、
ヒーヒーいいながら おもたい10冊の文庫本を
カバンにつめこむような気がする。

posted by カルピス at 21:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月09日

はじめてサプライズパーティーに参加する

職場の理事長が還暦をむかえるにあたり、
若手職員が中心になって サプライズパーティーを企画した。
いま、その会がおわったところだ。

はなしにはきいたことがあるサプライズパーティーだけど、
自分が参加するのは はじめてだ。
うまくもっていかないと、
よろこんでくれないおそれもあるなか、
100名の関係者があつまり
盛大であたたかな おいわいの会となった。

理事長だからそれだけのひとがあつまったのではなく、
これはもう、人徳というしかない。
ほんとうに、自分のことなど いちばんあとまわしにして、
利用者やその家族のことばかりをかんがえてきたひとだ。
職員も、わたしをふくめ、
この理事長でなければつかってもらえないような、
よわくて問題のある人間がおおい。
とてもほかの職場ではつとまらないわれわれなのに、
理事長は そうしたダメ人間をじょうずに再生させる。
わたしが仕事のやり方・たのしさをまなべたのも
すべてがこの理事長のおかげであり、
おおかれすくなかれ、
ほかの職員たちも おなじようにかんじている。

サプライズパーティーといっても、
拍手をうけながら 花道をあるいてもらい、
あとは感謝のことばをささげ、
ご本人からも 感想をいただくという会だ。
おくるころばは、よくきいていると
「なさけない」ともいえる内容がおおかった。

「還暦、そしてお誕生日おめでとうございます。
 まだまだわたしたちは未熟なので、
 これからもみすてないで、はたらきつづけてください」

みたいな、発言がおおかった。
「60歳になったのを機会に、
 あとは安心してわれわれにまかせてください」
くらい いえないものか。

ふだんは自分がもちあげられるのをきらい、こうした会を
よろこんでくれそうにない理事長なのに、
今夜はすなおにみんなからの好意をうけて、
「ほんとうにびっくりしました」と、
おどろいてみせてくれた。
半分くらいは こっちに気をつかって
いってくれたのではないか。

おどろかす、という意味でのサプライズパーティーは
成功したかもしれないけど、
これからどうしてほしいか、という
内容については、すこし残念な会にとどまった。

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2016年08月08日

「鷹の爪団の吉田くんはなぜいつもおこったような顔をしているのか」 の謎があきらかとなる

先日かったムック本『クソアニメと呼ばれて10年』
〜『秘密結社鷹の爪』10年史〜
をこまかくよみこむ(というほどの本ではないけど)。
おもなキャラクターがうまれたいきさつがのっていて、
それによると吉田くんのあのおこったような表情について、
「何であんなしかめっ面をしているのか」とよく聞かれます。当時は、一癖あったほうがいいかなと思ったんですよ。しかめっ面だけど、かわいい。そんな造形にできたらとデザインしました。ただ、もう少し柔らかい表情にしたほうが、より多くの方に受け入れられたかもしれません(苦笑)。

と作者のフロッグマン氏がコメントしている。

国語の試験なんかで、
「作者の意図するところはつぎのうちどれか」
みたいな質問があり、
学生は真剣にかんがえるものの、
作者だって 自分がなにをかんがえて
そんなことをかいたのか、よくわからない、
なんてはなしをときどき耳にする。
今回の場合、
フロッグマン氏がはっきりと
「しかめっ面」の理由をのべているのだから
まちがいないだろう。
あっけなく「なぜ」が あきらかになった。

わたしのブログのタイトルは、
「鷹の爪団の吉田くんはなぜいつもおこったような顔をしているのか」
としており、
アニメのキャラクターらしくない「しかめっ面」に、
わたしは吉田くんをはじめてみたときから疑問をかんじていた。
それがこうして作者みずから「謎」をあかしてくれたのは
さいわいといえるだろう。
とはいえ、作者が「誕生秘話」をあかしても、
長年の謎がとけ、すっきりしたわけではない。
やっぱりその程度のことだったのかと、
すこし残念におもうくらいだ。

こたえがわかった以上、
いつまでもタイトルに疑問文をかかげるのはおかしいので、
「鷹の爪団の吉田くんはいつもおこったような顔をしている」
と修正したいところだけど、
それもまたへんなかんじだ。

この本でいちばんよみごたえがあるのは
フロッグマン氏への2本のインタビューだ。
奥さんの地元である島根の田舎にひっこんで、
フラッシュアニメをつくりはじめたころの貧乏ばなしは
胸にせまる。
どうかんがえても税別1400円はたかいけど、
10年間、よくつづけましたね、という
ごほうびの意味をこめて
ファンなら手にとりたくなるだろう。

posted by カルピス at 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月07日

スイムラン本番

いよいよスイムランの本番をむかえる。
ゆうべは10時半にベッドにはいり、
4時半までよくねむれた。
ひさしぶりに酒ものまなかった。
朝ごはんもいいかんじでたべれたし、
トイレもスムーズにこなした。
われながらいいかんじでレースにのぞめたとおもう。
でも、結果からいうと、これまではしった10回のレースで
2番めにわるいタイムだった。
きょねんとくらべると14分もおそい。

わたしとしては 35℃という
あつさのせいにしたいけど、
いっしょに参加したひとは
きょねんもあつかったといっていたので、
ことしだけが特別なあつさだったわけではないみたいだ。

2.4キロのスイムは、団子状態からぬけだすのがたいへんで、
とくに1周めは、ほかのスイマーにのっかられたりして
おもったようにおよげなかった。
およぎじたいは わるくはなく、
集団でおよぐときにできる水のながれに
ひっぱられるようにして
ひとりでおよぐよりも よくすすんだ気がする。
でも、タイムは52分で、いつもとかわらない。
みごとにひくく安定したタイムで、
50分前後が毎年のお約束だ。

ランにはいっても、自分の足ではしれており、
とくにあつさのダメージはかんじなかった。
レース仲間が、ほんのすこしまえをはしっていたので、
なんとかついていこうと
彼女の背中ばかりをみていた。

あと2キロちょっと、というところに小学校があり、
壁にかけてある時計でだいたいの到着タイムがよめる。
ことしは、小学校に12時ちょうどにさしかかった。
そこからあとどうしても15分はかかるわけで、
いつもめざしている3時間以内のゴールは
ことしもまたかなわぬ夢となった。
その時計をみてからは、がっくりして
気もちがきれかかる。
なんとかゴールにたどりつけたときは
ほんとうに ほっとした。
わたしのような年齢になると、
生きて完走しただけで立派な成果だと
わりかし本気でおもっている。
タイムはたいしたことなかったけど、
じゅうじつした気分ではしれただけでよしとしたい。

ヘロヘロになって家にもどると、
ここしばらく我慢していたジン・トニックを
完走できたごほうびにつくろうと、
ローソンへ自転車でむかう。
ギルビージンと、ロックアイスがほしかったけど、
ロックアイスはうりきれだった。
しっかりした氷ならなんでもいいと、
板状のブロックアイスをもってかえる。
グラスにジンとおおきなかたまりの氷をいれ、
炭酸水をそそいだあとレモンをしぼり、
キリッとひえたジン・トニックが完成。
なんとか完走できたレースに、とにかく乾杯する

(追記)
2杯目をつくったあとで、ジンではなく
ギルビーウォッカだったことに気づく。
ジンなのか、ウォッカなのか、わからないぐらい
むこうの世界にいってたみたいだ。

posted by カルピス at 18:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月06日

レースにむけての最終調整

あすのスイムラン本番にむけて準備をすすめている。
準備といっても、この時期はテーパー(調整)が目的であり、
それまでのトレーニングによるつかれをとり、
レースへの気もちをたかめていく。
わたしは、たいしたトレーニングをしたわけではないけど、
気もちとしてはテーパーをしゅくしゅくとすすめている。

テーパーで気をつけるのは、
つい練習しすぎてしまうことで、
練習をへらしすぎよりも、
やりすぎて失敗することがおおい。
これまでつみあげてきた練習が
むだになるような気がして、
ついがんばってしまうのだ。
わたしは、わかいころからテーパーが得意だった。
やりすぎるより、やりすぎない、
というのが いかにもわたしむきだ。

今週は、10キロをいちどはしり、
水泳は1.5キロおよいだだけだ。
きょう、さいごのトレーニングとして
30分ほどかるくはしって、さいごのしあげとする。
マッサージをうけるのもかんがえたけど、
なんとなく今回はみあわせようとおもう。
ここらへんのかんじは、
はっきりときまりをもうけているわけではなく、
テキトーだ。

すこしまえだと、カーボローディングといって、
レースまえの1週間から 低炭水化物の食事にきりかえ、
週の後半になると、こんどは高炭水化物の食事をとることで、
筋肉中にたくさんのグリコーゲンをたくわえる食事法が
おすすめとされていた。
いまでは、あまり極端な低炭水化物食は
おこなわれないそうで、
わたしは いつもの食事をつづけるだけだ。
こんかい はじめてのこころみとして、
レースのとちゅうでカロリーをおぎなえるように、
チューブ式のジェルをウエストポーチにしのばせる。
あすの予想最高気温は35℃となっており、
あつさにどう対応するかのレースになりそうだ。

きのうはスーパーで丸ごと1個のスイカを
980円(税べつ)でかう。
水分補給にはスイカがいちばんだ。
きりわけてないスイカをかうのはひさしぶりで、
さいわい おいしいスイカだった。
レースへのいい予感がたかまってくる。
たかだかスイカでも、レースにむけて
まえむきなイメージをふくらませるのが
調整期ではたいせつになってくる。
スイカがこんなにおいしかったのだから、
レースがうまくいかないわけがない、みたいに。

あと、わたしにできるのは、ひるねと
今夜はやくベッドにはいることだ。
ピピにとちゅうでおこされても、
今夜だけはつきあわず、ほかの家族にまかせよう。

posted by カルピス at 21:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月05日

別冊「鷹の爪」〜『秘密結社鷹の爪』10年史〜

本屋さんをぶらついていたら、
『クソアニメと呼ばれて10年』
〜『秘密結社鷹の爪』10年史〜が目についた。
A4サイズのムック本で、
税別1400円とたかいけど、鷹の爪ファンとしては
かわないわけにはいかない。
「思い出の発明品」には、わたしのすきな怪人、
ゴギファップンゴロッパンベレラもおさめられているし。

本のなかをのぞいてみると、
フロッグマン氏へのインタビューがあるとはいえ、
全体としてはすごくやすっぽい。
でも、くりかえすけど、ファンとしてはしょうがないのだ。
しょうがないというよりも、
まったく別の次元でわたしはハイ状態となり、
まえに図書館でかりてよんだコーマック=マッカーシーの
『すべての美しい馬』や、
ドストエフスキーの『罪と罰』(光文社文庫・亀山郁夫:訳)全3冊、
そのほかにも新書2冊と、ふだんならかわないような本を手にとった。
あきらかにあぶない脳内物質が分泌され、
脳が正常な機能をうしなっている。
いったいわたしのからだになにをしたのだ、鷹の爪団。

本をひらくと、レオナルド博士の白衣をきせかえよう、とか、
「あらゆる謝罪の場面で活躍」する吉田くんの反省文など、
どーでもいい付録がついている。
コアなファンからとぼしいおこづかいをむしりとろうとする
意図がみえみえの別冊形式なのに、
わかっていながらファンとしてはどうしようもない。
本屋さんで7000円以上しらはったのは ひさしぶりだ。
さらにまだわたしの血はおらまらず、
ちかくをあるいているひとに、
「調子いいですか?」と声をかけたくなってくる。
すごい鷹の爪効果だ。逆上といっていい。
家にもどり、かった本を机につみあげ、
しばしわたしは しあわせにひたった。
瞬間でわたしをべつの世界につれていった「鷹の爪」。
であってから、もう10年になるのか。

posted by カルピス at 20:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月04日

アメリカ以外の国にとっては、トランプ氏も「あり」

アメリカの大統領選挙の候補者である
トランプ氏に話題があつまっている。
まともな政策がなく、ただ「敵」をこきおろすだけの人物が
とうとう共和党を代表する候補となった。
あんなめちゃくちゃな候補者が、
よくまあ大統領選挙にいきのこったものだ。
わたしはアメリカという国の
わけのわからなさにおどろいている。

なぜトランプ氏がえらばれたのかを、いろんなひとが分析し、
トランプ氏が票をのばした背景を説明している。
良識あるひとは、だれもがトランプの言動に
マユをひそめていながらも、
トランプ氏の人気はあいかわらずたかい。
もしトランプ氏が本選挙で大統領にえらばれたら、
「おわりのはじまり」みたいで
アメリカのひとにとってあまりいい選択ではないようにおもう。

ただ、ではほかの国にとってどうかをかんがえると、
クリントン氏のほうがいいのかは、
かんたんにはいえないのではないか。
たとえば沖縄のひとにとって、
いくら米軍基地をなくせと日本政府やアメリカにもとめても、
これまでまったく相手にされなかったけど、
トランプ氏にかわったら 日本は自分で自分の国をまもれと
いいだすかもしれない。
あらゆる面で世界につよい影響力をおよぼしてきたアメリカを、
だれもがありがたくおもっているわけではなく、
そんなひとたちにとって、
クリントン氏がえらばれるより、
トランプ氏のほうが はるかに変化を期待できる。
トランプ氏が 核ミサイルの発射ボタンをおしたりしないかが
いちばん心配なところで、
それさえなければアメリカの没落は(ときめてかかるのは失礼だけど)
ほかの国にとって そうわるくないようにおもえる。

わたしは経済や政治について ほとんどなにもしらず、
アメリカでおこる変化が 世界にどんな影響をおよぼすか
まったくわかっていない。
ただ、現状に満足していない おおくのひとにとって、
これまでもっともらしい顔で
国や世界をあやつってきた政治家よりも、
トランプ氏をえらびたくなる気もちは理解できる。
あまりにも反知性的で、マイノリティへの差別を
公然と口にするトランプ氏だけど、
アメリカのやり方や、いまの世界のしくみに
我慢できないひとたちには、
クリントン氏がえらばれるよりも、
トランプ氏のほうが まだましかもしれない。

まさかわたしがトランプ氏を支持したくなるとは
自分でもおどろいているけれど、
自分たちの土地でありながら、自分たちできめられない
沖縄のひとたちのいかりをみると、
アメリカの主流派がつづくのを
なにも わたしがのぞまなくてもいいとおもった。
トランプ氏みたいに高圧的で
つよいアメリカを、なんていうひとはだいきらいだけど、
クリントン氏がえらばれても きっとなにもかわらない
という意味において、
トランプ氏のほうが、まだましな選択となる。
それにしても、アメリカには、
もっとまともな候補者がいなかったのか。

posted by カルピス at 22:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月03日

いい薬はやすい

胃がんになったとき、薬についていろいろしらべた。
胃がんには、よくきく抗癌剤がないと
たいていの本・ネットにかいてある(すくなくとも当時は)。
それでも病院の先生は、念のため、みたいに
抗癌剤を処方したがる。
まっ黒な薬をみただけで気もちわるくなったので、
1,2回のんだだけでやめた。

薬についての記述で印象にのこったのは、
「いい薬はやすい」という達観だ。
だれの、どんな本だかわすれたけど、
大切なかんがえ方だとおもう。
1錠が何千円もする薬にお金をはらうよりも、
たかい薬にいいものはないとわりきったほうが
やすらかに生きられる(死ねる)。

ジェネリックだからやすい、という意味だけでなく、
やすい薬は それだけ時間と経験をつみかさねており、
いわゆる「こなれてきた」実力があって、効果が期待できる。
いっぽう、たかい薬にはそれなりのウラがある場合がおおく、
たかいからといって、かならずしも効果があるとはかぎらない。

じっさいに、命とひきかえるようにして
たかい薬をのんでいる患者さんもいるわけで、
どんな薬にたよるかは、
ひとそれぞれのかんがえ方しだいだ。
もしわたしが ものすごくたかい薬をのみなさい、といわれたら
それよりも さいごの◯◯日をたのしむために、
どこかへ旅行にいったり、おいしいものをたべたりして、
おもいでづくりにお金をかけたい。

薬以外でも、特殊なサプリメントや民間療法に
たかいお金をはらうつもりもない。
できるだけやすい薬をさがし、
やすさこそが実力をあらわすとしんじ、
やすい薬がなければ それまでの人生だった、とわりきたい。

ほかのことにも「いい薬はやすい」は適応できる。
すべてにおいて、いいものはやすい。
たかいものにはウラがある。
たとえば、数万円もする高級品のシューズは
どこかおかしいのだ
たかい料金設定のウラには、
どこかへんなからくるがあるとかんがえる。
できるだけ薬はのまないで、
のむとしたら、やすい薬と心中するのがわたしの基本方針だ。

posted by カルピス at 22:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月02日

なぜIT能力は 地域や民族による差があらわれないのだろう

5年まえにカンボジアとベトナムを旅行したとき、
どんなちいさな店でも
いちようにフリーWi-Fiがそなわっていておどろいた。
フリーWi-Fiの設定は、
非常にむつかしくはないかもしれないけど、
まったくネットやパソコンの知識がなければ
できないのではないか。
それが、ちいさな店にも お約束であるのは、
事業所などが代行するにしても、それぞれの国に
いってい量のIT専門家がいなければ こうはならない。

国民性や地域性をこえ、
世界中にいまのようなネットがはりめぐさられ、
アルカイダやイスラム国であろうと
ネットを効果的につかって戦略をたてている。
ひとつぐらい、おれたちはITにうとくて、
という国があってもよさそうなのに、
なぜ全世界がおなじようなネット環境に整備されたのか。

うえの年代になるほど、パソコンやネットにうとい層が存在する。
でも、地域性や民族性によるばらつきはなく、
いちようにおなじネット環境がつくられたのは
よくかんがえると不自然だ。
文学性にとむ国民が、ITに関心をもたなかったり、
一般的といわれるレベルよりも
したのIT能力しかもたなかったとしても不思議はないのに、
世界はまことに均一にIT化されている。

これが、かつてのテレビみたいに、
スイッチをひねれば画像がうつる、という機械なら
だれもがつかえて当然だ。
掃除機だって、とりあつかい説明書をみなくても、
たいていのひとは はじめからうごかせるだろう。
でも、パソコンやネット環境はそうではない。
設定に手間がかかり、あるていどの知識がいる。
パソコンがでまわった当時にくらべると
ネットにつなぐのはかんたんになったけど、
たとえばフリーWi-Fiのしくみをよく理解したうえで
店のいたるところに設置できるほど わかりやすくはない。
ユーザーになるには デバイスをかえばいいけど、
設定にかかわれるひとが どの民族にも
一定量存在する状況に わたしはいつまでもなじめない。

日本においても、◯◯県民はネットにうとい、
という県民性があってもおかしくはないのに、
これだけ「県民性あるある」がいわれるなか、
ネット環境は各県が横ならびになっているようにみえる。
ポケモンGOが世界的にはやるのも
ネットやパソコンに関する興味関心の
世界的均一化があらわれている。
わたしには、それが不思議でしかたがない。
わたしの母は、パソコンやスマホに
なんの関心もしめさない。
自分とはべつの世界のものと、はなからきめてかかっているので、
ひとがつかっていても うらやましいとはおもわないらしい。
世代別の こうした断絶は、
民族や国民性よりも ずっとおおきくITへの距離をきめている。

どこかに凶悪な犯罪組織があって、
でもIT知識にうといために、
いまひとつ世界からなんの注目もあびず のびなやんでいる、
みたいなひとたちがいないものか。
アジトにひきこもって よその組織がとりいれている
すすんだネット戦略を うややましいとおもいつつ
自分たちには歯がたたないと はなからあきらめているアナログな組織。
犯罪ですらIT知識がいる状況を、彼らにひっくりかえしてほしい。

posted by カルピス at 21:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月01日

『私をくいとめて』(綿矢りさ)の比喩がたのしい

日曜日の朝日新聞に、
綿矢りさが『私をくいとめて』を連載している。
わたしはこれまで綿矢さんの本をよんだことがなく、
週に1どという変則的な連載に、はじめはなじめず
はなれそうになったけど、
綿矢さんの比喩のうまさに気づいてからは
するするとよめるようになった。
三島由紀夫が克明に描写したがりそうな外見をしている。
なかなかふつうの発想ではおもいつかないいいまわしだ。

連載18回目のきのうは、
主人公の女性がマッサージをうけるはなし。
上手な整体師にほぐされているようすが
ものすごく気もちよさそうだ。
初めての身体を前にしたとは思えない、確信のあるさっぱりした手つき、肩を少し揉んだだけで分かる力の強さ、顔を伏せていてもよく分かる、彼女の直立不動を支えるがっしりとした下半身。マグロの解体ショーに似た活気がふつふつと腹の底からわいてくる。

鎖骨周りの血行を流し、最後に首の付け根を三角に強くつまんだ。肩の筋肉の全部がそこに集まっていて、息も止まりそうなほど痺れて、このまま持ち上げられてハンガーに吊るされるんじゃないかくらいの強い力。そして、開放。

すごく気もちよさそうだ。
これだけのゴッドハンドにであっただけで、
彼女の人生はラッキーだったと祝福される。

わたしはマッサージがすきで、
でも国内は料金がたかく、気やすく施術をたのめない。
そのかわりに、海外旅行ちゅうは たいしてつかれてもないのに
まいにちのようにマッサージをもとめる。
観光でつかれたとか、あしたはハードな日だからなど、
理由はいくらでもつけられる。
ほかにたいした用事があるわけでもないし、
てっとりばやいおでかけさきは
わたしにとってマッサージ店になる。
ベトナムとカンボジア、それにラオスにも
古典マッサージがあるけど、
なんといっても頭ひとつぬけているのはタイのマッサージだ。
プロレス技のように、関節をのばしたり まげたりして、
また、相手と自分の体重をうまくつかって
ツボに刺激をあたえる。
ただ、店によってマッサージの技術はさまざまで、
おなじ店でもひとによって腕にちがいがある。
もんだりさすったりされると、たしかに気もちはいいけれど、
『私をくいとめて』にでてきた
完璧な快感は味わったことがない。

マッサージをうける主人公のからがだが
それだけ施術をもとめていたから
気もちがよかった、ともいえる。
どこへいっても、「それなり」のここちよさしか味わえないわたしは、
マッサージをうける必要がもともとないのかもしれない。

連載の1回分をつかってマッサージについてくわしくふれたからには、
これからの展開で、マッサージにまた焦点があたるときがくるだろう。
「私」がかよう整体院の ゴッドハンドぶりをたのしみにしている。

posted by カルピス at 21:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする