『わたしに会うまでの1600キロ』
(ジャン=マルク=ヴァレ監督・2014年・アメリカ)
わかい女性がバックパックをせおったDVDの表紙にひかれ、
まえからみようとおもっていた。
1600キロもあるくのだから、
おそらく自分さがしの旅なのだろう。
ひとの「自分さがし」に関心はないけれど、
このわかい女性は、いったいどんな旅をしたのだろうか。
バックパックでの世界旅行ではなく、
パシフィック・クレスト・トレイルという
アメリカ西海岸にあるトレイルコースをあるく旅だった。
なぜ彼女がこのトレイルをえらんだのかの説明はなく、
足の親指の爪をいため、登山靴をなげすてたり、
フレームパックに荷物をつめこむ場面から映画ははじまる。
山や砂漠をあるくのだから、水と食糧をせおっての旅になるのに、
女性はバックパッキングになれていないようすで、
あれもこれもとリュックにつめこみすぎ、
出発しようとしても おもすぎてリュックをかつげない。
ようやく旅をスタートさせ、テントをはってみたものの、
用意したガソリバーナーは、無鉛ガソリンしかつかえないタイプで、
料理ができず シリアルに水をかけてむりやり口におしこむ。
困難な旅にいどむわかい女性(シェリル)への共感はなく、
ろくな準備もせず、知識もなしに
ひとをたよってあるきつづけるシェリルに反発をおぼえる。
かわいげのない、いやな人間にみえる。
旅をつづけながら、シェリルはそれまでの生活をおもいうかべる。
愛する母親をめぐりおもいだす いくつもの場面。
腫瘍がみつかり きゅうにおとずれた母親の看病と死。
母親への反発と、そんなことしかできなかった自分への後悔。
母親の死をうけいれられず、麻薬におぼれた時期。
トレイルをあるきながら それらの場面が
なんどもフラッシュバックされる。
母親がおくってきた人生は、シェリルからみると、
ひどい男にだまされつづけた
ろくでもない最低の生活におもえるのに、
母親はそれでも「生きたい」とわらってはなす。
こんなすばらしい子どもたちにめぐまれたのだからと、
すこしも後悔せず、ずっと笑顔で生きてきたし、
病気をわずらっても笑顔をたやさやい。
トレイルをあるくうちに、
はじめは初心者だったシェリルも旅になれ、
おなじコースをあるく旅行者たちから
いちもくおかれる存在になってゆく。
旅のテクニックはつたなくても、
ぜったいにあきらめないガッツが
まわりからみとめられる。
トレイルでの旅は、道具やテクニックでするものではなく、
自分との対話によっていとなまれるものだった。
バックパック旅行による自分さがし
みたいな映画だろうと予想してたけど、
シェリルの1600キロをみおえたあとでは、
「自分さがし」と かんたんにくくりたくない。
つらい記憶を旅でふりはらってきた彼女のつよさに
ふかく共感していた。
シェリルには、1600キロのひとり旅が どうしても必要だった。
彼女はゴールしたのちに、あらたな生活を再スタートさせる。
結婚し、子どもをもうけ、
自分の母親がそうしてきたように、
人生を、家族を愛する生活をおくっている。