ちょっとした確認のためにスマホで電話をかけた。
仕事が一段落ついたところで、
スマホがまだ通話ちゅうの状態なのに気づく。
70分のあいだ、はなしつづけていたことになる。
イオンモバイルの通話料は、30秒あたり20円なので、
70分は2800円だ。
まえによんだ短編小説で、男にすてられた女性が
電話をつかってしかえしするはなしがのっていた。
海外の天気予報だか時刻のおしらせだかに
あいての部屋から電話をかけ、
つながったところで 受話器をそっと机のうえにおく。
ながい出張から男がもどったときには、
おそろしい金額の通話料になっている、という復讐だ。
むかしのはなしだから、外国への通話料はたかかったろうし、
それが何日分にもなると かんがえただけでもおそろしい。
男がいくら電話会社にいいわけしても みとめられないだろうし。
わたしが70分の通話に気づいたとき、
このはなしをすぐにおもいだした。
それにくらべれば、2800円なんてたかがしれている。
たかがしれているけど、わたしはケチで貧乏だから、
なかなか気もちをきりかえられない。
ふだんは、1ヶ月に500円ほどしか通話しないわたしが、
不注意から70分もはなしつづけていたとみなされるなんて、
なんどおもいかえしてもくやしい。
生きていると、こうした おもいがけない出来事が
いたるところにころがっている。
自動車を運転しているときに事故をおこせば、
いろんなややこしい状況になり お金がかかる。
仕事でちょっとしたミスをすれば 職場に迷惑がかかる。
健康をくずすと、医療費が必要になるし、
家族になにかあっても いつもとはちがうお金がでていってしまう。
つなわたりみたいに あぶないところを
気づかないうち まいにちやりすごしている。
わたしの70分通話なんて、ほんのささいな不幸にすぎない。
そういいきかそうとしても、ついなんどもおもいだして
しみじみとかなしみにくれた。
2016年09月30日
2016年09月29日
音楽遊覧飛行「旅のおともの食べ物」
NHK-FM音楽遊覧飛行で
吉村喜彦さんが担当する回をきいていたら、
「旅のおともの食べ物」をテーマにすえていた。
この日は、日本国内をめぐりながら、
吉村さんがむかしの記憶をさぐり
おもいでのたべもののはなしをする。
はじめてのったブルートレインや、
むかしよく利用した食堂車など、
いまではみられなくなった風景がおおい。
おどろいたのは、選曲のはばが ものすごくひろいことで、
・「ロング・トレイン・ランニン」
ザ・ドゥービー・ブラザーズ
・「津軽海峡冬景色」石川さゆり
・「修学旅行」舟木一夫
・「長い髪の少女」ザ・ゴールデン・カップス
・「ミッドナイト・トレイン・トゥ・ジョージア」
グラディスナイト&ザ・ピップス
・「そこは青い空だった」橋幸夫&吉永小百合
・「ぼくは特急の機関士で(東海道の巻)」
三木鶏郎、丹下キヨ子、森繁久弥
はじめにのりのいい曲をきかせておいて、
つぎがひとむかしまえの演歌、
そのあとで舟木一夫にとんだときは かなりがくっときた。
吉村さんのはなしと選曲には、関連のないときがおおく、
とくに今回はものすごいこじつけだ。
けなしているのではなく、はなしと選曲とのギャップが
たのしみになってくる。
この番組は、いつもだと世界各地をめぐり、
土地のたべものやのみものを紹介する。
今回は、テーマが「旅のおともの食べ物」なので、
旅をするときに ぴったりくるたべもののはなしとなった。
カツサンドやワンカップなどが話題にのぼる。
わたしは、駅や電車でかうたべものは
たかいわりにおいしくない印象があり、
あらかじめかっておいたたべものをひろげている。
外国を旅行するときは、節約よりも体験が大切になり、
のりもののなかで たべものをかうことがおおい。
バンコクからマレーシアにむかう列車では、
食事時間になるとメニューをわたされて
注文した料理を席までもってきてくれる。
自分だけはこばれてきた料理だと気まずいけど、
まわりの席のひとも ちらほら注文しているので、
そんなに意識しなくてもすむ。
ベトナムの列車では、お弁当をうりにきた。
機内食のレベルを2段階さげた 給食みたいなお弁当で、
いくつかくぼみのあるプラスチック製の容器に
ごはんとおかずがもられている。
これならなにかもちこんだほうがいいとおもったし、
まわりのお客さんはたいていそうしていた。
スペインで列車にのったとき、
30代の女性がサンドイッチをたべはじめた。
ものすごくおおきなバゲットに、
はみでるほどたくさんのハムがはさんである。
こんなおおきなサンドイッチを、
女性ひとりでたべられるはずがない、
とおもってみていると、あんのじょう
半分くらいたべたところで サンドイッチをカバンにしまった。
そりゃそうだ、ひとり分としては あまりにもおおきすぎる。
でも、しばらくすると その女性はまたサンドイッチをとりだして、
こんどはのこり全部を胃袋におさめてしまった。
わりとこがらな女性だったのに、すごい食欲をまのあたりにして
わたしはびっくりしてしまった。
ハムでもチーズでも、スペインのサンドイッチは
あふれるほど具をつめるのは、
それだけの量をたべるのが 常識だからだろう。
スペインのサンドイッチというと、
あのこがらな女性の旺盛な食欲をおもいだす。
吉村喜彦さんが担当する回をきいていたら、
「旅のおともの食べ物」をテーマにすえていた。
この日は、日本国内をめぐりながら、
吉村さんがむかしの記憶をさぐり
おもいでのたべもののはなしをする。
はじめてのったブルートレインや、
むかしよく利用した食堂車など、
いまではみられなくなった風景がおおい。
おどろいたのは、選曲のはばが ものすごくひろいことで、
・「ロング・トレイン・ランニン」
ザ・ドゥービー・ブラザーズ
・「津軽海峡冬景色」石川さゆり
・「修学旅行」舟木一夫
・「長い髪の少女」ザ・ゴールデン・カップス
・「ミッドナイト・トレイン・トゥ・ジョージア」
グラディスナイト&ザ・ピップス
・「そこは青い空だった」橋幸夫&吉永小百合
・「ぼくは特急の機関士で(東海道の巻)」
三木鶏郎、丹下キヨ子、森繁久弥
はじめにのりのいい曲をきかせておいて、
つぎがひとむかしまえの演歌、
そのあとで舟木一夫にとんだときは かなりがくっときた。
吉村さんのはなしと選曲には、関連のないときがおおく、
とくに今回はものすごいこじつけだ。
けなしているのではなく、はなしと選曲とのギャップが
たのしみになってくる。
この番組は、いつもだと世界各地をめぐり、
土地のたべものやのみものを紹介する。
今回は、テーマが「旅のおともの食べ物」なので、
旅をするときに ぴったりくるたべもののはなしとなった。
カツサンドやワンカップなどが話題にのぼる。
わたしは、駅や電車でかうたべものは
たかいわりにおいしくない印象があり、
あらかじめかっておいたたべものをひろげている。
外国を旅行するときは、節約よりも体験が大切になり、
のりもののなかで たべものをかうことがおおい。
バンコクからマレーシアにむかう列車では、
食事時間になるとメニューをわたされて
注文した料理を席までもってきてくれる。
自分だけはこばれてきた料理だと気まずいけど、
まわりの席のひとも ちらほら注文しているので、
そんなに意識しなくてもすむ。
ベトナムの列車では、お弁当をうりにきた。
機内食のレベルを2段階さげた 給食みたいなお弁当で、
いくつかくぼみのあるプラスチック製の容器に
ごはんとおかずがもられている。
これならなにかもちこんだほうがいいとおもったし、
まわりのお客さんはたいていそうしていた。
スペインで列車にのったとき、
30代の女性がサンドイッチをたべはじめた。
ものすごくおおきなバゲットに、
はみでるほどたくさんのハムがはさんである。
こんなおおきなサンドイッチを、
女性ひとりでたべられるはずがない、
とおもってみていると、あんのじょう
半分くらいたべたところで サンドイッチをカバンにしまった。
そりゃそうだ、ひとり分としては あまりにもおおきすぎる。
でも、しばらくすると その女性はまたサンドイッチをとりだして、
こんどはのこり全部を胃袋におさめてしまった。
わりとこがらな女性だったのに、すごい食欲をまのあたりにして
わたしはびっくりしてしまった。
ハムでもチーズでも、スペインのサンドイッチは
あふれるほど具をつめるのは、
それだけの量をたべるのが 常識だからだろう。
スペインのサンドイッチというと、
あのこがらな女性の旺盛な食欲をおもいだす。
2016年09月28日
『家族の軌跡 〜3.11の記憶から〜』
『家族の軌跡 〜3.11の記憶から〜』(大西暢夫:監督)
大震災で家族をうしなったひとたちの
はなしをきいてまわった記録だ。
なにかテーマがあってマイクをむけるのではなく、
震災の日、そしてその後に、
どんなおもいをしているかを ひたすらききつづける。
インタビューとちがい、きき手は
自分のしりたい話題をたずねたりしない。
相手のはなしをひきだそうと
ときどきことばをはさむ程度で、
被災したたひとたちの気もちをしずかにきく。
映画としてのストーリーがあるわけではなく、
クライマックスもない。
はでさはなく、地味な仕事だけど、
こういうやり方でしかできない記録がある。
被災したひとの記憶を ひとつひとつたずねてまわると、
そのつみかさねが貴重な記録になっていく。
だれかがやらなければ うもれてしまい、
しだいにわすれられていく。
おおきなガレキの山を たくさんのひとびとが
手作業で分別していた。
気のとおくなるような仕事におもえるのに、
数年かけて、山はだんだんちいさくなり、
ついにはすべてのガレキがしわけられた。
仕事にあたった地元のひとたちは、
ガレキがただのゴミの山ではなく、
かつてはともに生活していた
おもいでの品々であるとしっている。
いっしょに仕事をしながら からだをうごかし
おしゃべりをたのしみ、いろんな情報をえる。
たくさんのボランティアが援助にかけつけたとはいえ、
こんなふうに地元のひとたちが、自分たちの手で復興をすすめたから、
震災から5年たったいま、かなりの程度
くらしぶりがもとにもどったようにみえる。
それでも ひとびとの胸のうちをきいてあるけば、
どうしようもないかなしみに
いまもくるしんでおられるのをしる。
今回の上映会は、わたしがつとめている職場が企画したものだ。
震災から5年たったいまだから、
なおさら意味をもつ作品であり、
タイムリーな上映会となった。
大震災で家族をうしなったひとたちの
はなしをきいてまわった記録だ。
なにかテーマがあってマイクをむけるのではなく、
震災の日、そしてその後に、
どんなおもいをしているかを ひたすらききつづける。
インタビューとちがい、きき手は
自分のしりたい話題をたずねたりしない。
相手のはなしをひきだそうと
ときどきことばをはさむ程度で、
被災したたひとたちの気もちをしずかにきく。
映画としてのストーリーがあるわけではなく、
クライマックスもない。
はでさはなく、地味な仕事だけど、
こういうやり方でしかできない記録がある。
被災したひとの記憶を ひとつひとつたずねてまわると、
そのつみかさねが貴重な記録になっていく。
だれかがやらなければ うもれてしまい、
しだいにわすれられていく。
おおきなガレキの山を たくさんのひとびとが
手作業で分別していた。
気のとおくなるような仕事におもえるのに、
数年かけて、山はだんだんちいさくなり、
ついにはすべてのガレキがしわけられた。
仕事にあたった地元のひとたちは、
ガレキがただのゴミの山ではなく、
かつてはともに生活していた
おもいでの品々であるとしっている。
いっしょに仕事をしながら からだをうごかし
おしゃべりをたのしみ、いろんな情報をえる。
たくさんのボランティアが援助にかけつけたとはいえ、
こんなふうに地元のひとたちが、自分たちの手で復興をすすめたから、
震災から5年たったいま、かなりの程度
くらしぶりがもとにもどったようにみえる。
それでも ひとびとの胸のうちをきいてあるけば、
どうしようもないかなしみに
いまもくるしんでおられるのをしる。
今回の上映会は、わたしがつとめている職場が企画したものだ。
震災から5年たったいまだから、
なおさら意味をもつ作品であり、
タイムリーな上映会となった。
2016年09月27日
朝井リョウ少年の日記がみたいような みたくないような
仕事のあと宍道湖岸をジョギングする。
いつもながらヘロヘロのはしりなので、
おいぬかれることはあっても、
まずわたしがおいぬくことはない。
いくらジョギングはひとと競争するものではなく、
自分のペースでたのしめばいいといっても、
いつもいつもおいぬかれてばかりでは
さすがにたのしくない。
わたしのジョギングにおける いくつかの法則を発見した。
1 あるいているひとなら たいていおいぬける。
2 ひとがはしっていると、まずわたしがぬくことはない。
3 あ、おいつけそうだとおもったひとのほとんどは、
わたしがおいつくまえに はしるのをやめたりコースをかえる。
つまり、わたしはおいぬけない。
なんでこんなしょうもないはなしを グダグダかくかというと、
けさの朝日新聞で朝井リョウさんが
小学生のときにまいにち日記をつけていたと、はなしていたからだ。
小学生の朝井少年がまいにち日記をかいていたのだから、
おとなのわたしだってまいにちブログをかけるはずだ。
おとなだってまいにちおなじことのくりかえしだから、
いかにわたしのジョギングがヘロヘロなはしりなのかを、
手をかえ品をかえ、くどいくらいに話題としてとりあげる。
朝井少年の日記をみたら、完成度のたかさに
きっとわたしはブログをかくのをやめるだろう。
ジョギングやブログも、やはり、競争ではなく、
自分との対話にとどめておいたほうがいいのかも。
これで400字くらいうまっただろうか。
いつもながらヘロヘロのはしりなので、
おいぬかれることはあっても、
まずわたしがおいぬくことはない。
いくらジョギングはひとと競争するものではなく、
自分のペースでたのしめばいいといっても、
いつもいつもおいぬかれてばかりでは
さすがにたのしくない。
わたしのジョギングにおける いくつかの法則を発見した。
1 あるいているひとなら たいていおいぬける。
2 ひとがはしっていると、まずわたしがぬくことはない。
3 あ、おいつけそうだとおもったひとのほとんどは、
わたしがおいつくまえに はしるのをやめたりコースをかえる。
つまり、わたしはおいぬけない。
なんでこんなしょうもないはなしを グダグダかくかというと、
けさの朝日新聞で朝井リョウさんが
小学生のときにまいにち日記をつけていたと、はなしていたからだ。
(「ことばの力」はどうすれば身につくかについて)
僕が一番効いたと思うのは、小学生時代に日記を書いていたことです。毎日400字を絶対に埋めなきゃいけないと、なぜか思っていたんですよ。小学生なんて、毎日同じことの繰り返しだから、書くこともなくなってくる。でも、先生が一言コメントをくれるのがうれしくて、読んで楽しいと思ってもらえるように同じことでも書き方を変えていました。
小学生の朝井少年がまいにち日記をかいていたのだから、
おとなのわたしだってまいにちブログをかけるはずだ。
おとなだってまいにちおなじことのくりかえしだから、
いかにわたしのジョギングがヘロヘロなはしりなのかを、
手をかえ品をかえ、くどいくらいに話題としてとりあげる。
朝井少年の日記をみたら、完成度のたかさに
きっとわたしはブログをかくのをやめるだろう。
ジョギングやブログも、やはり、競争ではなく、
自分との対話にとどめておいたほうがいいのかも。
これで400字くらいうまっただろうか。
2016年09月26日
スピードをこわがる心理と、はしるのがおそい関係は
職場から三次市にある平田農園へ くだものがりにでかける。
わたしはどちらかというと
運転手としてきょうの活動に参加した。
出発してから30分ほどで高速道路にのる。
のったとたん、わたしは高速道路での運転が
にがてなのをおもいだした。
スピードがだせないし、トンネルになると、
せまくて壁にぶつかりそうにおもえるし、
谷と谷をむすぶような たかいところをはしる道路は
高所恐怖症で こわくてしょうがない。
制限時間70キロの道路を、60〜70キロではしり、
わたしのうしろには、車がずいぶんつまっていた。
片側一車線しかない高速道路なので、
おいぬける区間はかぎられており、
さぞ迷惑な運転だったとおもう。
とはいえ、運転手としてついてきてるのに、
運転をかわってほしいとは いいにくく、
なんとか高速道路の部分をやりすごす。
手のひらにいやな汗をかき、
両足にずっとちからがはいっていた。
高速道路をおりても、かえり道をかんがえると
よろこんでばかりはおれなかった。
自分が高所恐怖症だと気づいたのは、
瀬戸内大橋をわたったときだ。
下をみるとすごくたかいところをはしっているのがみえ、
そうおもったとたん恐怖でからだがこわばった。
風で車体がゆれ、ものすごくこわい。
時速40キロくらいでゆっくりすすみ、
ようやく橋のまんなかにあるパーキングにたどりついた。
ひとの運転する車なら、たかいところをとおっても平気なので、
正確には高所恐怖症とはいわないかもしれない。
それに、高速道路をおりたら
ふつうに時速80キロではしったりするので、
あながちスピードがだせないわけではない。
高速道路というシチュエーションが わたしを緊張させるみたいだ。
こういう恐怖感は、おもいこみというか、
自分でかってにこわがっているだけだ。
それがわかっていても こわさはなくならない。
高所恐怖症にしても、閉所恐怖症にしても、
まわりからみれば なんていうことのない状況なのに、
脳が強力なマイナスイメージの指令をだしているのだろう。
わたしがはやくはしれないのは、
高速道路でのスピードがこわいのと
なにか関係があるのではないか。
そうでなければ、日ごろトレーニングをつみながら、
地区の運動会レベルの大会で
断トツのビリ(4人中4位)なんて、
ふつう なれるものではない。
力とスピードが発揮できない特殊な能力を
長年のゆっくりした練習のつみかさねにより
丁寧につくりあげたのが わたしのからだだ。
からだというよりも、
からだにブレーキをかける脳ができあがった、
といったほうがいい。
脳に重大な影響をあたえているのは、
恐怖感のような気がする。
いまのわたしに必要なのは、
愚直にトレーニングをかさねるよりも、
自分の能力がときはなたれた映像を脳にやきつける
イメージトレーニングなのかもしれない。
恐怖によるブレーキをなんとかしてはずさないと、
地区の運動会で またビリになってしまう。
わたしはどちらかというと
運転手としてきょうの活動に参加した。
出発してから30分ほどで高速道路にのる。
のったとたん、わたしは高速道路での運転が
にがてなのをおもいだした。
スピードがだせないし、トンネルになると、
せまくて壁にぶつかりそうにおもえるし、
谷と谷をむすぶような たかいところをはしる道路は
高所恐怖症で こわくてしょうがない。
制限時間70キロの道路を、60〜70キロではしり、
わたしのうしろには、車がずいぶんつまっていた。
片側一車線しかない高速道路なので、
おいぬける区間はかぎられており、
さぞ迷惑な運転だったとおもう。
とはいえ、運転手としてついてきてるのに、
運転をかわってほしいとは いいにくく、
なんとか高速道路の部分をやりすごす。
手のひらにいやな汗をかき、
両足にずっとちからがはいっていた。
高速道路をおりても、かえり道をかんがえると
よろこんでばかりはおれなかった。
自分が高所恐怖症だと気づいたのは、
瀬戸内大橋をわたったときだ。
下をみるとすごくたかいところをはしっているのがみえ、
そうおもったとたん恐怖でからだがこわばった。
風で車体がゆれ、ものすごくこわい。
時速40キロくらいでゆっくりすすみ、
ようやく橋のまんなかにあるパーキングにたどりついた。
ひとの運転する車なら、たかいところをとおっても平気なので、
正確には高所恐怖症とはいわないかもしれない。
それに、高速道路をおりたら
ふつうに時速80キロではしったりするので、
あながちスピードがだせないわけではない。
高速道路というシチュエーションが わたしを緊張させるみたいだ。
こういう恐怖感は、おもいこみというか、
自分でかってにこわがっているだけだ。
それがわかっていても こわさはなくならない。
高所恐怖症にしても、閉所恐怖症にしても、
まわりからみれば なんていうことのない状況なのに、
脳が強力なマイナスイメージの指令をだしているのだろう。
わたしがはやくはしれないのは、
高速道路でのスピードがこわいのと
なにか関係があるのではないか。
そうでなければ、日ごろトレーニングをつみながら、
地区の運動会レベルの大会で
断トツのビリ(4人中4位)なんて、
ふつう なれるものではない。
力とスピードが発揮できない特殊な能力を
長年のゆっくりした練習のつみかさねにより
丁寧につくりあげたのが わたしのからだだ。
からだというよりも、
からだにブレーキをかける脳ができあがった、
といったほうがいい。
脳に重大な影響をあたえているのは、
恐怖感のような気がする。
いまのわたしに必要なのは、
愚直にトレーニングをかさねるよりも、
自分の能力がときはなたれた映像を脳にやきつける
イメージトレーニングなのかもしれない。
恐怖によるブレーキをなんとかしてはずさないと、
地区の運動会で またビリになってしまう。
2016年09月25日
名前についてのあれこれ
朝日新聞に連載されている伊藤理佐さんのコラム
「オトナになった女子たちへ」をたのしみにしている。
今回は「『あれ』につける名前」。
伊藤さんはこのごろ自分ではなしたあとに
すぐ自分で「ワハハ!」とわらう癖がついたことに気づく。
デイリーポータルZにはクリハラタカシ氏による
「名前はマダない」という連載があり、
今回の記事では
「ミゾの暗渠のフタの上を走った時の音」と
「室内で見失った携帯に電話をかけて探すこと」という
2つのお題について、それぞれにぶじ名前がついた。
http://portal.nifty.com/kiji/160923197501_1.htm
わたしはとくに名前が気にならないほうで、
「あの、ほら、ミゾの上を自転車でとおったときにでる音」
ですませるとおもう。
いまからあたらしい名前をおぼえるのはめんどくさいので、
ベーシックイングリッシュみたいに、
かぎられたことばだけでやりくりするほうがすきだ。
いっぽうで、クリハラ氏や伊藤さんみたいに
自分のわらいにまで名前をつけたくなるひともいる。
アン=シャーリーも、きっとそのうちのひとりだ。
とはいえ、名前が大切なのもよくわかる。
もし自分に名前がなければ、
自分がだれかをどうやってしるだろう。
香港では おおくのひとが ほんとうの名前とはべつに
「ロナウド」みたいに洋風な名前ももっていて、
これはサッカーのロナウド選手がすきだから、
みたいなノリで かなりてきとーにつけられると
テレビ番組でいっていた。
日本人は名前を神聖にとりあつかう。
まちがえると かなり失礼にあたる。
発音だけでなく、よくにた漢字をとりまちがえても
あいての機嫌をそこねてしまいがちだ。
ものの名前をしるのがどれだけ大切か、という発言もよくきく。
名前をおぼえるのがすべての基本である、
みたいに位置づけているひともいる。
このまえみた映画『君の名は。』でも
名前がひとつのキーワードだった。
相手の名前をわすれ、どうしてもおもいだせないかなしみ。
河合隼雄さんは、名前をしることと、
そのものの本質をしることをわけてとらえていた。
たとえば「バラ」という名前をあたらしくおぼえると、
そのものぜんぶについてしった気になるあやうさがある。
きれいにさいている花がバラだとしると、
そこで思考がストップしてしまいがちだ。
それよりさき、 花のうつくしさや不思議をかんがえなくなる。
『ゲド戦記』の世界では、名前はとても大切であり、
自分のほんとの名前を かんたんにはひとにおしえなかった。
しらない相手が自分の名前をしっているのはとても危険だ。
伊藤さんのコラムは、もともとむすこさんが
「目をつむった時に、目の中で見える模様に名前をつける」と
発表したのがマクラになっている。
伊藤さん夫婦は、むすこの発言をわらわなかった。
わたしもそういえばみたことがあるけど、
まったく気にしていなかった。
みえていないのとおなじだ。
伊藤さんのむすこさんは、目をつむったときにみえる現象の
本質をさぐろうとしているのだろう。
「オトナになった女子たちへ」をたのしみにしている。
今回は「『あれ』につける名前」。
伊藤さんはこのごろ自分ではなしたあとに
すぐ自分で「ワハハ!」とわらう癖がついたことに気づく。
「この話おもしろいよね」
「はい、笑うところ」
と、感想を指示しているような、いや〜な感じの「ワハハ!」なのだが、どうして自分で「ワハハ!」と笑ったしまうのか、それに名前を付けるとしたらどんな名前だろうか
デイリーポータルZにはクリハラタカシ氏による
「名前はマダない」という連載があり、
今回の記事では
「ミゾの暗渠のフタの上を走った時の音」と
「室内で見失った携帯に電話をかけて探すこと」という
2つのお題について、それぞれにぶじ名前がついた。
http://portal.nifty.com/kiji/160923197501_1.htm
わたしはとくに名前が気にならないほうで、
「あの、ほら、ミゾの上を自転車でとおったときにでる音」
ですませるとおもう。
いまからあたらしい名前をおぼえるのはめんどくさいので、
ベーシックイングリッシュみたいに、
かぎられたことばだけでやりくりするほうがすきだ。
いっぽうで、クリハラ氏や伊藤さんみたいに
自分のわらいにまで名前をつけたくなるひともいる。
アン=シャーリーも、きっとそのうちのひとりだ。
とはいえ、名前が大切なのもよくわかる。
もし自分に名前がなければ、
自分がだれかをどうやってしるだろう。
香港では おおくのひとが ほんとうの名前とはべつに
「ロナウド」みたいに洋風な名前ももっていて、
これはサッカーのロナウド選手がすきだから、
みたいなノリで かなりてきとーにつけられると
テレビ番組でいっていた。
日本人は名前を神聖にとりあつかう。
まちがえると かなり失礼にあたる。
発音だけでなく、よくにた漢字をとりまちがえても
あいての機嫌をそこねてしまいがちだ。
ものの名前をしるのがどれだけ大切か、という発言もよくきく。
名前をおぼえるのがすべての基本である、
みたいに位置づけているひともいる。
このまえみた映画『君の名は。』でも
名前がひとつのキーワードだった。
相手の名前をわすれ、どうしてもおもいだせないかなしみ。
河合隼雄さんは、名前をしることと、
そのものの本質をしることをわけてとらえていた。
たとえば「バラ」という名前をあたらしくおぼえると、
そのものぜんぶについてしった気になるあやうさがある。
きれいにさいている花がバラだとしると、
そこで思考がストップしてしまいがちだ。
それよりさき、 花のうつくしさや不思議をかんがえなくなる。
『ゲド戦記』の世界では、名前はとても大切であり、
自分のほんとの名前を かんたんにはひとにおしえなかった。
しらない相手が自分の名前をしっているのはとても危険だ。
伊藤さんのコラムは、もともとむすこさんが
「目をつむった時に、目の中で見える模様に名前をつける」と
発表したのがマクラになっている。
伊藤さん夫婦は、むすこの発言をわらわなかった。
その、目をつむると出てくる白黒の模様、モヤモヤの雲みたいだったり、雨や光みたいなヤツのことを、わたしはよく知っている。今でも時々見ている。見えない(気づいていない?)人もいるらしい。
わたしもそういえばみたことがあるけど、
まったく気にしていなかった。
みえていないのとおなじだ。
伊藤さんのむすこさんは、目をつむったときにみえる現象の
本質をさぐろうとしているのだろう。
2016年09月24日
「ワードで招待状を作ってみよう」はすごい企画かも
朝日新聞の土曜日別冊版「be」に
「ワードで招待状を作ってみよう」
という記事がのっていた。
「てくの生活入門」という連載コラムだ。
すごい。
20年まえによくみかけた提案が いまもいきのこっている。
むかしは、ワープロ(ソフトではなくワープロ専用機)や
パソコンの宣伝に、
ホームパーティーの案内状が 実例としてつかわれていた。
ワープロをかいませんか?とさそうときに、
ワープロでできる具体的な提案が
こうした「案内状」くらいだったのだろう。
当時まだネットは一般的な利用法ではなかったし、
かといって手紙や日記をかきましょう、でははなやかさがない。
せっかく登場したワープロやパソコンを、
なかなかじっさいにいかせないのが ほんとうのところだった。
とはいえ、ホームパーティーがどれだけ具体的な提案だったろう。
ホームパーティーなんかひらくひとがいるのか。
もしいたとしても、案内状をつくるだろうか。
当時からうたがいの目をむけていた「ホームパーティーの案内状」を
まさか20年たった2016年に
ふたたびみかけるとはおもわなかった。
いよいよ日本でも日常的に
ホームパーティーがひらかれるようになったようだ。
できあがった案内状をみると、
むかしは「こんなこともできますよ」と
無理やりいろんな技をつかっていたのにくらべ
とてもシンプルだ。
チラシづくり文化は、20年をかけて、
すこしずつ洗練されてきたのだろう。
この記事がつたえたいのは、
編集専用ソフトをつかわなくても
ワードであるていどのチラシがつくれますよ、
という提案だ。
エディターでもチラシができる、では
おもしろそうだけど、かなりマニアックな企画になる。
ワードだったら それほどちからづくでなくてもできるだろう。
そして、よくよむと、マック版のワードをつかうとある。
なぜマック版なのかの説明はない。
2016年にマック版のワードでつくるホームパーティーの案内状。
世界がこれだけはげしくうごいている現代に、
こうした記事をみかけると あんがい平和におもえて安心する。
「ワードで招待状を作ってみよう」
という記事がのっていた。
「てくの生活入門」という連載コラムだ。
(ワードは)文章をきれいにまとめるのに便利ですが、イラストや写真の編集機のにも優れています。今回は、自宅で開くホームパーティーの案内状を作ってみます。
すごい。
20年まえによくみかけた提案が いまもいきのこっている。
むかしは、ワープロ(ソフトではなくワープロ専用機)や
パソコンの宣伝に、
ホームパーティーの案内状が 実例としてつかわれていた。
ワープロをかいませんか?とさそうときに、
ワープロでできる具体的な提案が
こうした「案内状」くらいだったのだろう。
当時まだネットは一般的な利用法ではなかったし、
かといって手紙や日記をかきましょう、でははなやかさがない。
せっかく登場したワープロやパソコンを、
なかなかじっさいにいかせないのが ほんとうのところだった。
とはいえ、ホームパーティーがどれだけ具体的な提案だったろう。
ホームパーティーなんかひらくひとがいるのか。
もしいたとしても、案内状をつくるだろうか。
当時からうたがいの目をむけていた「ホームパーティーの案内状」を
まさか20年たった2016年に
ふたたびみかけるとはおもわなかった。
いよいよ日本でも日常的に
ホームパーティーがひらかれるようになったようだ。
できあがった案内状をみると、
むかしは「こんなこともできますよ」と
無理やりいろんな技をつかっていたのにくらべ
とてもシンプルだ。
チラシづくり文化は、20年をかけて、
すこしずつ洗練されてきたのだろう。
この記事がつたえたいのは、
編集専用ソフトをつかわなくても
ワードであるていどのチラシがつくれますよ、
という提案だ。
エディターでもチラシができる、では
おもしろそうだけど、かなりマニアックな企画になる。
ワードだったら それほどちからづくでなくてもできるだろう。
そして、よくよむと、マック版のワードをつかうとある。
なぜマック版なのかの説明はない。
2016年にマック版のワードでつくるホームパーティーの案内状。
世界がこれだけはげしくうごいている現代に、
こうした記事をみかけると あんがい平和におもえて安心する。
2016年09月23日
もうすぐピピの誕生日
ドコノコにときどきピピの写真をアップする。
https://www.dokonoko.jp/
ピピはいちにちのほとんどを
ねてすごすようになっているので、
おおくの写真がベッドのうえでまるくなっている姿となる。
ネコの介護をよくしっているひとがみれば、
どれもトイレシートのうえだとわかるだろう。

ドコノコの「ひろば」には、
アップされた写真がすべて表示される。
あまりにも利用者がおおすぎて、
ピピの写真を投稿しても なかなかさがしだせない。
わたしよりもさきに 写真に気づきてくれるひとがいて、
アップしたとたんに「いいね!」がかえってきて うれしくなる。
「ひろば」にのっているどのコの写真もすごくかわいい。
このかわいさにはとてもあらがえない。
秋めいた気候になり、
夜や朝方は さむさ さえかんじるようになった。
こうなるとネコたちはひとはだが恋しくなるようで、
ピピはべたっとわたしのからだにひっついてねむる。
問題は、ピピが自分でトイレにいく気にならないことで、
ベッドのすぐちかくに砂をたっぷりしいたトイレがおいてあっても
まるくなった姿勢のままおしっこをする。
これがだいたい2時間にいちど。
ベッドにとびあがるちからはのこっているのだから、
ただめんどくさくてトイレにいかないような気もするし、
ほとんどねてすごす姿をみると、
もうトイレへいくげんきなど
のこってないようにもおもえる。
きょうの「ドコノコカメら」には
「はな」さんへのメッセージがのっていた。
誕生日ケーキをまえに
神妙な顔をしている犬の「はな」さんがうつっている。
ほんとにね。お誕生日はだれにもあるんだ。
あのコもこのコもよそのコも、
すべてのコの誕生日が おぼえていられますように。
ピピは9月30日で15歳の誕生日をむかえる。
2年まえに口内炎をわずらったとき、
まさかこんなに生きつづけるとはおもわなかった。
そばにいてくれるだけで
わたしへのありがたいプレゼントだと
いつもピピにはなしている。
https://www.dokonoko.jp/
ピピはいちにちのほとんどを
ねてすごすようになっているので、
おおくの写真がベッドのうえでまるくなっている姿となる。
ネコの介護をよくしっているひとがみれば、
どれもトイレシートのうえだとわかるだろう。

ドコノコの「ひろば」には、
アップされた写真がすべて表示される。
あまりにも利用者がおおすぎて、
ピピの写真を投稿しても なかなかさがしだせない。
わたしよりもさきに 写真に気づきてくれるひとがいて、
アップしたとたんに「いいね!」がかえってきて うれしくなる。
「ひろば」にのっているどのコの写真もすごくかわいい。
このかわいさにはとてもあらがえない。
秋めいた気候になり、
夜や朝方は さむさ さえかんじるようになった。
こうなるとネコたちはひとはだが恋しくなるようで、
ピピはべたっとわたしのからだにひっついてねむる。
問題は、ピピが自分でトイレにいく気にならないことで、
ベッドのすぐちかくに砂をたっぷりしいたトイレがおいてあっても
まるくなった姿勢のままおしっこをする。
これがだいたい2時間にいちど。
ベッドにとびあがるちからはのこっているのだから、
ただめんどくさくてトイレにいかないような気もするし、
ほとんどねてすごす姿をみると、
もうトイレへいくげんきなど
のこってないようにもおもえる。
きょうの「ドコノコカメら」には
「はな」さんへのメッセージがのっていた。
「はな」さん。
2歳になった。
お誕生日は、誰にもあります。
それが、知られていたり、
知られてなかったり、
覚えていられたり、
忘れられていたりするわけです。
誕生日ケーキをまえに
神妙な顔をしている犬の「はな」さんがうつっている。
ほんとにね。お誕生日はだれにもあるんだ。
あのコもこのコもよそのコも、
すべてのコの誕生日が おぼえていられますように。
ピピは9月30日で15歳の誕生日をむかえる。
2年まえに口内炎をわずらったとき、
まさかこんなに生きつづけるとはおもわなかった。
そばにいてくれるだけで
わたしへのありがたいプレゼントだと
いつもピピにはなしている。
2016年09月22日
『貧乏人の逆襲!』共感しつつも実践できそうにない
『貧乏人の逆襲』(松本哉・筑摩書房)
第1章では、お金をあまりつかわなくても
生きていける方法を延々とおしえてくれる。
アパートのさがし方や共同生活のススメ、ヒッチハイク講座など、
だんだんはなしが極端になり、
おもしろいかもしれないけど、
現実的にはムリそうな生活術がおおい。
第2章からは、そうして得たちからをつかい、
勝手にいきていく実践編となる。
そして第3章でいよいよ「反乱のすすめ」となる。
松本さんは、大学時代に
「法政の貧乏くささを守る会」をたちあげたり、
放置自転車撤去に反対する
「俺のチャリを返せデモ」を企画したりしている。
どうでもよさそうなことに
いちいち「こんなものはクソくらえだ」と
さわいでたのしむ。
この本がめざすのは、そうした反乱なのだけど、
わたしにはとてもそんなエネルギーはなく、
ひととつながるのもめんどくさいほうなので、
貧乏人といえども逆襲するまでにはいたらない。
「勝ち組」をめざすつもりはないので、
ひとりでひっそり生きる道をさぐりたい。
つながるとしたら、ひっそり生きたいひととのほうがいい。
この本では、「勝ち組」を目指して奴隷のようにくだらないことをして生きていかなくても、勝手に生きていく手段を身につけていく目論見をしていきたい。つまり!本書は我々貧乏人階級のサバイバル術実用書なのだ!どうだ、まいったか!
第1章では、お金をあまりつかわなくても
生きていける方法を延々とおしえてくれる。
アパートのさがし方や共同生活のススメ、ヒッチハイク講座など、
だんだんはなしが極端になり、
おもしろいかもしれないけど、
現実的にはムリそうな生活術がおおい。
第2章からは、そうして得たちからをつかい、
勝手にいきていく実践編となる。
そして第3章でいよいよ「反乱のすすめ」となる。
「おい、こりゃあちょっと生きづらいぞ!」という時は、むやみに反乱を起こしておいたほうがいい。(中略)
では何をやるか?そう、ひたすら街に打って出て遊ぶのだ!駅前で勝手に騒いでもいいし、制度で言えばデモや選挙なども使える。世の中のロクでもないことに対し「こんなものはクソくらえだ!」と要求しながら勝手に騒ぐのだ。
松本さんは、大学時代に
「法政の貧乏くささを守る会」をたちあげたり、
放置自転車撤去に反対する
「俺のチャリを返せデモ」を企画したりしている。
どうでもよさそうなことに
いちいち「こんなものはクソくらえだ」と
さわいでたのしむ。
この本がめざすのは、そうした反乱なのだけど、
わたしにはとてもそんなエネルギーはなく、
ひととつながるのもめんどくさいほうなので、
貧乏人といえども逆襲するまでにはいたらない。
「勝ち組」をめざすつもりはないので、
ひとりでひっそり生きる道をさぐりたい。
つながるとしたら、ひっそり生きたいひととのほうがいい。
2016年09月21日
『君の名は。』生理的快感をおぼえるうつくしい画像
『君の名は。』(新海誠:監督「・2016年・日本)
なんの情報も耳にいれず、『君の名は。』をみる。
アニメーションであることも、ちょっとまえにしったくらいだ。
新海誠監督の名前すらきいたことがない。
職場のスタッフとはなしているとき、
むすこさんがこの映画をみたいというので
映画館におくったら、ながい列ができていたそうだ。
話題になっているのが ほかからもちらほらきこえてきた。
わかもののこころをなにがとらえたのだろう。
おじさんも ひとつみておくとしよう、みたいなのりだ。
わたしみたいに男ひとりできているひともめずらしくない。
男ふたりとか、女ふたりもちらほらいる。
ほとんどがわかものだけど、しらが頭の男性がひとりいた。
オープニングから、うつくしい画像に圧倒される。
これまでみたことのない角度からの絵が新鮮だ。
男女がいれかわる よくありがちな作品かとおもったら、
ぜんぜんちがった。
はじめのころは内容についていけず、
なにがおきてるのかが さっぱりわからなかった。
でも、好感のもてるきれいな絵で、
うごきをみているだけでも生理的快感をおぼえる。
さいごまでみても、よく理解したとはいえないけど、
おもいがけず たのしくみることができた。
こんなはなしをおもいついた深海監督に感心する。
リアルな夢をみながら、おきたとたん
ほとんど瞬間に記憶がうしなわれてしまうことが
わたしにもよくある。
名前どころか、いったいなんの夢だったかさえおもいだせない。
認知症のひとが、日常的にむきあっている恐怖とたいへんさを、
そのたびに ほんのすこし共有する。
『君の名は。』では、夢はすぐにわすれることが前提になっている。
わかいひとでも、夢をわすれのがあたりまえなのかと
おじさんを安心させてくれた。
うつくしい画像、とかいた。
ところどころ絵があれるところもあるとはいえ(旅館の場面など)、
彗星などは、じっさいに目でみるよりもきれいにかいてある。
写真のように正確な絵なだけでは たいして感心しないけれど、
スマホの画面や 教室で先生が黒板にかいていく
字のうごき・うつくしさが新鮮だった。
この作品は、快感をおぼえるくらい、
作画のレベルがおそろしくたかい。
たかいレベルの作画が リアリティをささえている。
いい作品をみさせてもらった。
なんの情報も耳にいれず、『君の名は。』をみる。
アニメーションであることも、ちょっとまえにしったくらいだ。
新海誠監督の名前すらきいたことがない。
職場のスタッフとはなしているとき、
むすこさんがこの映画をみたいというので
映画館におくったら、ながい列ができていたそうだ。
話題になっているのが ほかからもちらほらきこえてきた。
わかもののこころをなにがとらえたのだろう。
おじさんも ひとつみておくとしよう、みたいなのりだ。
わたしみたいに男ひとりできているひともめずらしくない。
男ふたりとか、女ふたりもちらほらいる。
ほとんどがわかものだけど、しらが頭の男性がひとりいた。
オープニングから、うつくしい画像に圧倒される。
これまでみたことのない角度からの絵が新鮮だ。
男女がいれかわる よくありがちな作品かとおもったら、
ぜんぜんちがった。
はじめのころは内容についていけず、
なにがおきてるのかが さっぱりわからなかった。
でも、好感のもてるきれいな絵で、
うごきをみているだけでも生理的快感をおぼえる。
さいごまでみても、よく理解したとはいえないけど、
おもいがけず たのしくみることができた。
こんなはなしをおもいついた深海監督に感心する。
リアルな夢をみながら、おきたとたん
ほとんど瞬間に記憶がうしなわれてしまうことが
わたしにもよくある。
名前どころか、いったいなんの夢だったかさえおもいだせない。
認知症のひとが、日常的にむきあっている恐怖とたいへんさを、
そのたびに ほんのすこし共有する。
『君の名は。』では、夢はすぐにわすれることが前提になっている。
わかいひとでも、夢をわすれのがあたりまえなのかと
おじさんを安心させてくれた。
うつくしい画像、とかいた。
ところどころ絵があれるところもあるとはいえ(旅館の場面など)、
彗星などは、じっさいに目でみるよりもきれいにかいてある。
写真のように正確な絵なだけでは たいして感心しないけれど、
スマホの画面や 教室で先生が黒板にかいていく
字のうごき・うつくしさが新鮮だった。
この作品は、快感をおぼえるくらい、
作画のレベルがおそろしくたかい。
たかいレベルの作画が リアリティをささえている。
いい作品をみさせてもらった。
2016年09月20日
NHKスペシャルでとりあげていた健康格差
NHKスペシャルで、健康格差をとりあげていた。
収入やすんでいる地域によって、
健康に差がうまれるという。
常勤の仕事につかなければ健康診断をうけにくいし、
病気でやすむと すぐに首をきられそうなので、
どうしてもムリをしてはたらきがちになる。
血圧に気をつけましょう、
糖尿病に気をつけましょう、
野菜をたべましょう、
定期的に運動を、なんて行政がよびかけたたところで、
ターゲットになるひとにはとどきにくい。
東京都足立区のとりくみ
「健康になろうとおもわなくても
しらないあいだに健康になるしくみ」
が興味ぶかかった。
足立区は、糖尿病患者がおおい地域で、
これまでいくらよびかけても 受診してもらえなかった。
足立区の職員が、飲食店にあることをおねがいしてまわったら、
その効果がはっきり数字にあらわれたのだそうだ。
それは、何品かの注文があったときに、
野菜をつかった料理をさきにお客さんへとどけること。
炭水化物をたべたときに血糖値があがるのを
野菜の繊維質が、30%おさえてくれるという。
健康を意識してもらおうとしても
なかなかうまくいかないので、
「健康になろうとおもわなくても しらないあいだに」
という発想がおもしろい。
とはいえ、ある面ではおせっかいともいえる。
健康は個人の責任、という意識がつよいなか、
番組では社会問題としてとらえようとしていた。
おおくのひとが生活習慣病を悪化させて医療費を
おおくつかうようになれば、
「健康は個人の責任で」
とかんがえるひとがもしも病気になったとき、
すでに医療や介護が破綻しているかもしれない。
社会問題としての健康とは、そいいう意味だ。
健康をたもつには、社会とつながることが大切という
武富市のとりくみが紹介された。
武富市では、だれもが参加しやすいサロンを
市内のいろんな場所でひらいている。
家にとじこもりがちなひとは、要介護の対象となりやすく、
つながるちからが 健康格差をちいさくする鍵だという。
わたしもおそらくそうしたサロンには
参加しにくいタイプだ。
家にとじこもって すきな本をながめていたい。
わたしには、孤独死がまっている気がしてきた。
こうしたサロンにでかけてくるのは 女性のほうが圧倒的におおい。
男性をひっぱりだすには、役わりをあたえること、といっていた。
わたしがことしからかかわるようになった地区の自治会は、
役員のほとんどを男性がしめている。
役をあたえておけば、男の顔がたつというのはたしかだけど、
女性たちはつまらなくないだろうか。
男って、ほんとにめんどくさい生きものだ。
こんなことをいいだしたら
健康についてのはなしをぜんぶぶちこわしてしまうけど、
どれだけ健康をたもったところで
いつまでも生きられるわけではない。
減塩したら やすらかに死ねるのならいいけど、
どっちみちなんらかの形で死がせまってくる。
死ぬまで できるだけ健康に、という意味はみとめるけど、
それにしたって限度がある。
長寿社会になったのとひきかえに、
人類はややこしい問題をかかえこんでしまった。
たすかる可能性のある命に、どれだけお金をかけられるか。
国や自治体が健康にちからをいれるのは、
健康なほうがやすくつくからだ。
こうした番組がとりあげる「健康」は、
本人の尊厳というよりも、なにがなんでも「健康」に、
みたいなところがあって どこかすこしずれているとおもう。
ヒューマニズムだけでは おそらく解決がつかない。
収入やすんでいる地域によって、
健康に差がうまれるという。
常勤の仕事につかなければ健康診断をうけにくいし、
病気でやすむと すぐに首をきられそうなので、
どうしてもムリをしてはたらきがちになる。
血圧に気をつけましょう、
糖尿病に気をつけましょう、
野菜をたべましょう、
定期的に運動を、なんて行政がよびかけたたところで、
ターゲットになるひとにはとどきにくい。
東京都足立区のとりくみ
「健康になろうとおもわなくても
しらないあいだに健康になるしくみ」
が興味ぶかかった。
足立区は、糖尿病患者がおおい地域で、
これまでいくらよびかけても 受診してもらえなかった。
足立区の職員が、飲食店にあることをおねがいしてまわったら、
その効果がはっきり数字にあらわれたのだそうだ。
それは、何品かの注文があったときに、
野菜をつかった料理をさきにお客さんへとどけること。
炭水化物をたべたときに血糖値があがるのを
野菜の繊維質が、30%おさえてくれるという。
健康を意識してもらおうとしても
なかなかうまくいかないので、
「健康になろうとおもわなくても しらないあいだに」
という発想がおもしろい。
とはいえ、ある面ではおせっかいともいえる。
健康は個人の責任、という意識がつよいなか、
番組では社会問題としてとらえようとしていた。
おおくのひとが生活習慣病を悪化させて医療費を
おおくつかうようになれば、
「健康は個人の責任で」
とかんがえるひとがもしも病気になったとき、
すでに医療や介護が破綻しているかもしれない。
社会問題としての健康とは、そいいう意味だ。
健康をたもつには、社会とつながることが大切という
武富市のとりくみが紹介された。
武富市では、だれもが参加しやすいサロンを
市内のいろんな場所でひらいている。
家にとじこもりがちなひとは、要介護の対象となりやすく、
つながるちからが 健康格差をちいさくする鍵だという。
わたしもおそらくそうしたサロンには
参加しにくいタイプだ。
家にとじこもって すきな本をながめていたい。
わたしには、孤独死がまっている気がしてきた。
こうしたサロンにでかけてくるのは 女性のほうが圧倒的におおい。
男性をひっぱりだすには、役わりをあたえること、といっていた。
わたしがことしからかかわるようになった地区の自治会は、
役員のほとんどを男性がしめている。
役をあたえておけば、男の顔がたつというのはたしかだけど、
女性たちはつまらなくないだろうか。
男って、ほんとにめんどくさい生きものだ。
こんなことをいいだしたら
健康についてのはなしをぜんぶぶちこわしてしまうけど、
どれだけ健康をたもったところで
いつまでも生きられるわけではない。
減塩したら やすらかに死ねるのならいいけど、
どっちみちなんらかの形で死がせまってくる。
死ぬまで できるだけ健康に、という意味はみとめるけど、
それにしたって限度がある。
長寿社会になったのとひきかえに、
人類はややこしい問題をかかえこんでしまった。
たすかる可能性のある命に、どれだけお金をかけられるか。
国や自治体が健康にちからをいれるのは、
健康なほうがやすくつくからだ。
こうした番組がとりあげる「健康」は、
本人の尊厳というよりも、なにがなんでも「健康」に、
みたいなところがあって どこかすこしずれているとおもう。
ヒューマニズムだけでは おそらく解決がつかない。
2016年09月19日
あけたドアを自分でしめるネコ
『1Q84』のなかに、窓をあけてそとにでると、
自分でまたその窓をしめる かしこいネコがでてくる。
まえの日に ある仕事をおえた青豆は、
その成果がすでに発見されているかどうかを確認するために、
11時のニュース番組をみる(第1巻P120)。
金融市場開放のニュースなどにならんで
島根のネコが紹介されるなんて、
いくら自分で窓をしめるとはいえ ほんとうかなとおもう。
そもそもネコが窓をしめること事態にひっかかる。
一連のニュースのひとつとして、なぜ村上さんが
島根のネコのはなしをつくりだしたのか不思議だ。
そんなネコがいるわけないのに。
とおもっていたら、
伊藤理佐さんの『女いっぴき猫ふたり』に
ドアをしめるネコがでてきた。
伊藤さんの家にはクロとニャコという2匹のネコがいて、
ある日伊藤さんは彼らに「ねこ禁止令」をつげる。
毛だらけになるから 寝室にはいっちゃダメ!と
いいきかせてねたら、
クロがフツーにはいってきた。
伊藤さんは「はい、いけませんよ」とクロをつれだす。
それをみていたニャコは、
「ごくフツーに入ってきたあと
うしろ手にドアを閉めました」
そうまでしてわたしといっしょにねたいのかと
感激した伊藤さんは
「今日だけだからな」と
ネコたちをベッドにあげる。
クロとニャコは伊藤さんにしがみつき、
ゴロゴロとノドをならす。
いいはなしだ。
伊藤さんは身がってに「禁止令」を発令し、
ネコたちはぜんぜんうことをきかない。
でも伊藤さんはネコたちのかわいさにまけて
けっきょくいつものようにいっしょにねむる。
伊藤さんがネタにするぐらいだから、
ほんとにドアをしめるネコがいるのだろう。
ネコにスリスリされ、満足げなゴロゴロをきくのは
ネコとくらすしあわせのひとつだ。
なかまのネコのうごきからすぐに学習し、
自分の目的をはたそうとするのは
いかにもネコ的ないちずさがあらわれている。
ネコにしてみたら、伊藤さんがすきでたまらないというよりも、
いつもの習慣をまもりたいからにすぎない。
人間は、自分への愛だとかんちがいする。
そこらへんのズレがまたすごくかわいい。
自分でまたその窓をしめる かしこいネコがでてくる。
まえの日に ある仕事をおえた青豆は、
その成果がすでに発見されているかどうかを確認するために、
11時のニュース番組をみる(第1巻P120)。
アメリカが日本に金融市場開放の要求をつきつけていた。モルガン・スタンレーやメリル・リンチが政府をたきつきて、新たな金儲け口を探している。島根県にいる賢い猫が紹介された。ネコは自分で窓をあけて外に出て行くのだが、出たあと自分で窓を閉めた。飼い主がそうするように教え込んだのだ。
金融市場開放のニュースなどにならんで
島根のネコが紹介されるなんて、
いくら自分で窓をしめるとはいえ ほんとうかなとおもう。
そもそもネコが窓をしめること事態にひっかかる。
一連のニュースのひとつとして、なぜ村上さんが
島根のネコのはなしをつくりだしたのか不思議だ。
そんなネコがいるわけないのに。
とおもっていたら、
伊藤理佐さんの『女いっぴき猫ふたり』に
ドアをしめるネコがでてきた。
伊藤さんの家にはクロとニャコという2匹のネコがいて、
ある日伊藤さんは彼らに「ねこ禁止令」をつげる。
毛だらけになるから 寝室にはいっちゃダメ!と
いいきかせてねたら、
クロがフツーにはいってきた。
伊藤さんは「はい、いけませんよ」とクロをつれだす。
それをみていたニャコは、
「ごくフツーに入ってきたあと
うしろ手にドアを閉めました」
そうまでしてわたしといっしょにねたいのかと
感激した伊藤さんは
「今日だけだからな」と
ネコたちをベッドにあげる。
クロとニャコは伊藤さんにしがみつき、
ゴロゴロとノドをならす。
いいはなしだ。
伊藤さんは身がってに「禁止令」を発令し、
ネコたちはぜんぜんうことをきかない。
でも伊藤さんはネコたちのかわいさにまけて
けっきょくいつものようにいっしょにねむる。
伊藤さんがネタにするぐらいだから、
ほんとにドアをしめるネコがいるのだろう。
ネコにスリスリされ、満足げなゴロゴロをきくのは
ネコとくらすしあわせのひとつだ。
なかまのネコのうごきからすぐに学習し、
自分の目的をはたそうとするのは
いかにもネコ的ないちずさがあらわれている。
ネコにしてみたら、伊藤さんがすきでたまらないというよりも、
いつもの習慣をまもりたいからにすぎない。
人間は、自分への愛だとかんちがいする。
そこらへんのズレがまたすごくかわいい。
2016年09月18日
内気なひとでも旅行はできる
木村岳人さんのスペイン巡礼をよんでいると、
精神的な引きこもり体質だと、
ご自分を分析されている。
http://kankodori.net/travel/011/041/index.html
わたしも、まさしくおなじ性格で、
どうしてもひとの輪にはいりにくい。
外国を旅行していると、
日本にいるよりも かなり素直にふるまえるけど、
それでもひとめをさけたうごきをとりがちだ。
陽気なひとばかりにみえるアメリカ人でさえ、
自分はひとみしりというひとがおおいそうで、
ましてや日本人のほとんどは
自分がひとみしりのほうだとおもっている。
ひとみしりだろがなんだろうが、
ある程度のまじわりは 社交や礼儀として
だれもがはたさなければならない。
それがわかっていて できないのだから ストレスになる。
ときどきみんながあつまって
朝ごはんをたべるタイプのゲストハウスがあり、
お腹がすいているから わたしもすわるのだけど、
ことばの壁もあって うちとけた気もちになれずういてしまう。
ひとりでボソボソとたべてるほうが よほど気がらくだ。
根っから陽気なひとなんてごくわずかで、
旅行記や探検記をよむと、
内気な性格なひともおおい。
大切なのは、内気か陽気かではなく、
相手にたいし、どれだけこころをひらけるかであり、
口かずがすくなくても、はずかしがりやでも関係なく、
けっきょくは人間性にかかっている。
つまり、これまでどう生きてきたか、だ。
わたしの旅行がうすっぺらになりがちなのは、
それだけのつみあげしかないからという
身もフタもないはなしになってしまう。
でも、それがあたりまえだ。
旅行にでかけたからといって、
なにかがきゅうにかわるわけがない。
とはいえ、自分をころしてでも
まわりにあわせなければならないわけではない。
どうしても ひとといっしょにいたくないときは
だれだってあると、わりきればいい。
こうしたいじけた心理は わたしにもよくおとづれる。
腹をたてるのは、なにかをおそれるよりも、
前むきな姿勢ではないだろうか。
はじめはまわりにたいして腹をたてていても、
しだいに 自分のいたらなさに気づいてくる。
いかりは せめの気もちをおもいださせる。
まったく関係ないはなしだけど、
木村さんがときどき夕ごはんの写真をのせている。
自分でゆでたスパゲッティに、
缶詰のトマトソースをかけただけのもの。
カマンベールチーズがあったりなかったり、
といった質素な夕ごはんだ。
しかし、その量がすごい。
スパゲッティのお皿は、
乾燥メンで300グラムはあるだろう。
そしてワインを1本(寝酒もかねて)。
いちにちをとおしてよくあるいたのだから
お腹はすくだろうけど、
これだけの量をおさめる健康な胃袋がうらやましい。
精神的な引きこもり体質だと、
ご自分を分析されている。
http://kankodori.net/travel/011/041/index.html
雨脚が若干弱まったようなので教会からのっそり出てみると、ちょうどジャンさん達も出発する所であった。私が彼らを避けて休憩していたと彼らの目には写っ たのだろう、ジャンさんはやや悲しそうな、そして若干の非難を込めた感じの口調で「Join me」と言った。いやはや、返す言葉もありません。私は改めて、自分が精神的な引きこもり体質なのだなぁと実感した。どうも、なかなか人の懐に飛び込んで 行く事ができないのだ。まったく、困ったものである。
わたしも、まさしくおなじ性格で、
どうしてもひとの輪にはいりにくい。
外国を旅行していると、
日本にいるよりも かなり素直にふるまえるけど、
それでもひとめをさけたうごきをとりがちだ。
陽気なひとばかりにみえるアメリカ人でさえ、
自分はひとみしりというひとがおおいそうで、
ましてや日本人のほとんどは
自分がひとみしりのほうだとおもっている。
ひとみしりだろがなんだろうが、
ある程度のまじわりは 社交や礼儀として
だれもがはたさなければならない。
それがわかっていて できないのだから ストレスになる。
ときどきみんながあつまって
朝ごはんをたべるタイプのゲストハウスがあり、
お腹がすいているから わたしもすわるのだけど、
ことばの壁もあって うちとけた気もちになれずういてしまう。
ひとりでボソボソとたべてるほうが よほど気がらくだ。
根っから陽気なひとなんてごくわずかで、
旅行記や探検記をよむと、
内気な性格なひともおおい。
大切なのは、内気か陽気かではなく、
相手にたいし、どれだけこころをひらけるかであり、
口かずがすくなくても、はずかしがりやでも関係なく、
けっきょくは人間性にかかっている。
つまり、これまでどう生きてきたか、だ。
わたしの旅行がうすっぺらになりがちなのは、
それだけのつみあげしかないからという
身もフタもないはなしになってしまう。
でも、それがあたりまえだ。
旅行にでかけたからといって、
なにかがきゅうにかわるわけがない。
とはいえ、自分をころしてでも
まわりにあわせなければならないわけではない。
どうしても ひとといっしょにいたくないときは
だれだってあると、わりきればいい。
マダムは「あなたの分の食事も用意しているから食堂に来なさい」と言う。「みんな、あなたが到着するのを待っていたのよ」とも言っていた。しかし、私は食堂に行く気にも宿の食事を食べる気にもなれなかった。
こうしたいじけた心理は わたしにもよくおとづれる。
腹をたてるのは、なにかをおそれるよりも、
前むきな姿勢ではないだろうか。
はじめはまわりにたいして腹をたてていても、
しだいに 自分のいたらなさに気づいてくる。
いかりは せめの気もちをおもいださせる。
まったく関係ないはなしだけど、
木村さんがときどき夕ごはんの写真をのせている。
自分でゆでたスパゲッティに、
缶詰のトマトソースをかけただけのもの。
カマンベールチーズがあったりなかったり、
といった質素な夕ごはんだ。
しかし、その量がすごい。
スパゲッティのお皿は、
乾燥メンで300グラムはあるだろう。
そしてワインを1本(寝酒もかねて)。
いちにちをとおしてよくあるいたのだから
お腹はすくだろうけど、
これだけの量をおさめる健康な胃袋がうらやましい。
2016年09月17日
旅行熱をなだめる
スペイン巡礼のブログをよんでいるうちに、
はやく旅行へいきたくなってきた。
大学生のむすこが卒業するまでは、
しおくりのために はたらかなくてはならない。
とはいえ、2ヶ月のながい休暇をおもいえがくから、
仕事をやめないと 旅行できないような気がしてくるけど、
ほんの2泊3日くらいなら いつでもいける。
ひとばん野宿するだけでも、いっぺんに熱はさがるかもしれない。
スペイン巡礼だって、いなか道をおもいっきりあるくのが
おもな目的なのだから、
みじかいコースなら 日本でもできる。
おへんろさんみたいに 有名な道をあるくよりも、
自分で勝手にコースをきめるほうが、
より主体的な「旅」ともいえる。
要は、自分の気もちがみたされたらいいわけなので、
だれかにみとめられることと
充実感・達成感とは関係ない。
「野宿野郎」は、まいとし6月19日と、
9月19日を「野宿の日」として、
だれもが野宿をする大切な日にきめている
(「6」あるいは「9」を90度回転させると「の」になるから)。
むしあつい夜に野宿するガッツは わたしにはないので、
もうすこしすずしくなったころに、
ひとり(ふたりでもいいけど)で野宿をこころみよう。
「野宿野郎」から銭湯主任の名刺をいただいたこともあり、
ここらへんで野宿のカンをとりもどしておきたい。
旅行の本も、旅行熱への対症療法によさそうだ。
図書館で蔵前仁一さんの『各駅停車で行こう』をかりてきた。
旅のおもいでをエッセイにしたもので、
とくにおもしろいオチがあるわけではいけれど、
旅行にいっていたときの自分をおもいだす。
そうなのだ。
旅行とは、山あり谷ありの 激動の日々ではなく、
じっさいには たいしたことは なにもおこらない。
蔵前さんのエッセイのように、
それをあとからふりかえると、
なんだか妙になつかしかったりする。
桃源郷をさがしたり、ほんとうの自分をもとめたりするのは、
もはや ふるいタイプの旅行となった。
旅行のおもしろさとは、どれだけでかけたさきの日常に
身をまかせられるかがポイントとなる。
日本での平凡な日常が
いかにありがたいかをしるのも旅行の効用だ。
ほんのちょっと外にでただけで、
けっきょく家がいちばん、なんていうタイプは(わたしだ)、
旅行のイメージにかぶれてるだけで、
ほんのささいな疑似体験にふれると、すぐに熱はさがる。
はやく旅行へいきたくなってきた。
大学生のむすこが卒業するまでは、
しおくりのために はたらかなくてはならない。
とはいえ、2ヶ月のながい休暇をおもいえがくから、
仕事をやめないと 旅行できないような気がしてくるけど、
ほんの2泊3日くらいなら いつでもいける。
ひとばん野宿するだけでも、いっぺんに熱はさがるかもしれない。
スペイン巡礼だって、いなか道をおもいっきりあるくのが
おもな目的なのだから、
みじかいコースなら 日本でもできる。
おへんろさんみたいに 有名な道をあるくよりも、
自分で勝手にコースをきめるほうが、
より主体的な「旅」ともいえる。
要は、自分の気もちがみたされたらいいわけなので、
だれかにみとめられることと
充実感・達成感とは関係ない。
「野宿野郎」は、まいとし6月19日と、
9月19日を「野宿の日」として、
だれもが野宿をする大切な日にきめている
(「6」あるいは「9」を90度回転させると「の」になるから)。
むしあつい夜に野宿するガッツは わたしにはないので、
もうすこしすずしくなったころに、
ひとり(ふたりでもいいけど)で野宿をこころみよう。
「野宿野郎」から銭湯主任の名刺をいただいたこともあり、
ここらへんで野宿のカンをとりもどしておきたい。
旅行の本も、旅行熱への対症療法によさそうだ。
図書館で蔵前仁一さんの『各駅停車で行こう』をかりてきた。
旅のおもいでをエッセイにしたもので、
とくにおもしろいオチがあるわけではいけれど、
旅行にいっていたときの自分をおもいだす。
そうなのだ。
旅行とは、山あり谷ありの 激動の日々ではなく、
じっさいには たいしたことは なにもおこらない。
蔵前さんのエッセイのように、
それをあとからふりかえると、
なんだか妙になつかしかったりする。
桃源郷をさがしたり、ほんとうの自分をもとめたりするのは、
もはや ふるいタイプの旅行となった。
旅行のおもしろさとは、どれだけでかけたさきの日常に
身をまかせられるかがポイントとなる。
日本での平凡な日常が
いかにありがたいかをしるのも旅行の効用だ。
ほんのちょっと外にでただけで、
けっきょく家がいちばん、なんていうタイプは(わたしだ)、
旅行のイメージにかぶれてるだけで、
ほんのささいな疑似体験にふれると、すぐに熱はさがる。
2016年09月16日
米づくりがぜんぜんダメだったこと
春に土団子にした稲のモミを5キロ田んぼにまいた。
でも、ほとんど芽がでない。
田んぼのところどころに 数本の穂がみえるだけだ。
ことしの米づくりは、
まったくの失敗におわった。
きょねんできたモミをまいたのだけど、
それが原因で芽がでないとはおもえない。
なにがわるかったのかわからないと、
来年もまたおなじ失敗をくりかえすかもしれない。
直播栽培にくわしいひとの アドバイスをあおぎたいところだ。

お米はさっぱりだけど、
となりの畑では大豆がよくみのった。
夕ごはんに枝豆としてたべたら、
そんなにおおきな実ではないものの、
つまむ手が とまらないくらいおいしい。
大豆だからあたりまえとはいえ、
まったく肥料はつかってないし、薬もかけてない。
ただ、草かりはなんどもはいっているので、
「なんちゃって」な自然農法だ。

ほかによくできたのは 青じそとモロヘイヤで、
どちらもつよい野菜だから、できないほうが どうかしている。
ツルムラサキとトウガラシはかれてしまった。
トマトやナスといったほかの夏やさいは、
はじめからあきらめてつくらなかった。
肥料と農薬にたよらず、土もたがやさない自然農法は、
なまけもののわたしにぴったりだけど、
なにもしないで 野菜をつくるには
それなりの高度なテクニックが必要だ。
わたしがやっても ほとんどの野菜は
ごくちいさなものしかできない。
仕事でよくとおる場所に、
雑草がいきおいよくそだっている空地がある。
土地を管理するひとが なんどか草をかっているのに、
すぐにまたげんきな雑草がのびてくる。
あきれるほどつよく たくましい姿だ。
そうした光景をみると、
肥料なんかなくても 植物がそだつのがよくわかる。
よくわかるけど、わたしの畑は そうはならない。
あの空地に野菜の種をまいたら、すくすくそだつだろうか。
でも、ほとんど芽がでない。
田んぼのところどころに 数本の穂がみえるだけだ。
ことしの米づくりは、
まったくの失敗におわった。
きょねんできたモミをまいたのだけど、
それが原因で芽がでないとはおもえない。
なにがわるかったのかわからないと、
来年もまたおなじ失敗をくりかえすかもしれない。
直播栽培にくわしいひとの アドバイスをあおぎたいところだ。

お米はさっぱりだけど、
となりの畑では大豆がよくみのった。
夕ごはんに枝豆としてたべたら、
そんなにおおきな実ではないものの、
つまむ手が とまらないくらいおいしい。
大豆だからあたりまえとはいえ、
まったく肥料はつかってないし、薬もかけてない。
ただ、草かりはなんどもはいっているので、
「なんちゃって」な自然農法だ。

ほかによくできたのは 青じそとモロヘイヤで、
どちらもつよい野菜だから、できないほうが どうかしている。
ツルムラサキとトウガラシはかれてしまった。
トマトやナスといったほかの夏やさいは、
はじめからあきらめてつくらなかった。
肥料と農薬にたよらず、土もたがやさない自然農法は、
なまけもののわたしにぴったりだけど、
なにもしないで 野菜をつくるには
それなりの高度なテクニックが必要だ。
わたしがやっても ほとんどの野菜は
ごくちいさなものしかできない。
仕事でよくとおる場所に、
雑草がいきおいよくそだっている空地がある。
土地を管理するひとが なんどか草をかっているのに、
すぐにまたげんきな雑草がのびてくる。
あきれるほどつよく たくましい姿だ。
そうした光景をみると、
肥料なんかなくても 植物がそだつのがよくわかる。
よくわかるけど、わたしの畑は そうはならない。
あの空地に野菜の種をまいたら、すくすくそだつだろうか。
2016年09月15日
わたしがえらぶ梅棹忠夫さんのベスト10
『本の雑誌 10月号』の特集は、
「400号記念なんでもベスト10!」。
なんのことかとおもったら、
ほんとに、とにかくなんでもベスト10にしたててある。
・書店ベスト10
・図書館10傑
・古本屋ベスト10
・雑誌編集長ベスト10
などはあたりまえとして、
目黒考二さんによる
・椎名誠のベスト10
は、いかにも「本の雑誌」らしい。
椎名さんの本についてのベスト10ではなく、
・平気で日にちを間違える
・カツ丼を勝手に頼む
など、椎名誠個人についてのベスト10だ。
400号をだせたおいわいに、
いろいろなベスト10をかんがえてみるのは
おまつりらしくていい企画だ。
わたしも便乗してベスト10をあげてみる。
まえに村上春樹さんの10冊をとりあげたことがあるので、
今回は 梅棹忠夫さんのベスト10をえらんでみたい。
・『モゴール族探検記』
・『東南アジア紀行』
・『わたしの生きがい論』
・『カイバル峠からカルカッタまで』
・『文明の生態史観』
・『情報の文明学』
・『日本語の将来』
・『知的生産の技術』
・『女と文明』(妻無用論)
・『夜はまだあけぬか』
・『モゴール族探検記』
アフガニスタンの奥地にモゴール族をさがしにいく探検記。
なにもわからないところにでかけ、
現地の状況をみながら 方針をきめていく。
探検のおもしろさがつまっている本。
・『東南アジア紀行』
1957年に 日本からジープ3台をもちこんで、
タイ・カンボジア・ベトナム・ラオスをまわった旅行記。
移動のためにだけではなく、
研究の拠点として本格的に自動車をつかっている。
・『わたしの生きがい論』
この本により、人生に目的はないとしらされた。
がんばってはいけない、
役にたたないほうがいい、など、
進歩をうたがう発言が刺激的だ。
・『カイバル峠からカルカッタまで』
これだけは1冊の本ではなく、
著作集第4巻「中洋の国ぐに」におさめられている。
「モゴール族探検」のあと 梅棹さんは、
しりあいの人類学者と、フォルクスワーゲンにのって
カイバル峠からカルカッタへ
おもいがけない自動車旅行にでかけた。
ガタゴトの道でも、夜くらくなっても、
ひざにのせたタイプライターで
記録をとりつづけたはなしが よくしられている。
スピード感にあふれ、自分もいっしょに
旅行しているような気になってくる。
・『文明の生態史観』
地理的・生態的な必然により、
日本とヨーロッパは
ユーラシア大陸のはじっこで
平行に進化した。
・『情報の文明学』
この本のおかげで 情報とはなにかを、
わたしはわりあい正確に理解しているつもり。
・『日本語の将来』
漢字のもつ問題点と、
ローマ字でかく日本語の可能性。
・『知的生産の技術』
この本をよみ、わたしは京大型カードを
3000枚印刷屋さんに注文した。
・『女と文明』(妻無用論)
ひとりの人間としてみたときに、
「妻」という立場はおかしくないか。
「妻であることをやめよ」。
女性をおとしてめているのではなく、
男なんかにつくさなくても、
自分の人生を生きたようがいい、という本なのに、
女性から ものすごい反発をうけたそうだ。
妻の座にしがみつきたい女性が
なぜそんなにおおいのか よくわからない。
・『夜はまだあけぬか』
65歳で視力のほとんどをうしなった梅棹さんが
そのご どのように研究と執筆をつづけたか。
わたしにとっての梅棹さんは、
民族学研究者であるとともに 思想家でもある。
世界をひろくあるいた経験と観察から、
歴史的な必然による 方向性をしめしてくれる。
目的からの離脱や ローマ字による日本語表記は、
そうした観察からみちびきだされている。
「400号記念なんでもベスト10!」。
なんのことかとおもったら、
ほんとに、とにかくなんでもベスト10にしたててある。
・書店ベスト10
・図書館10傑
・古本屋ベスト10
・雑誌編集長ベスト10
などはあたりまえとして、
目黒考二さんによる
・椎名誠のベスト10
は、いかにも「本の雑誌」らしい。
椎名さんの本についてのベスト10ではなく、
・平気で日にちを間違える
・カツ丼を勝手に頼む
など、椎名誠個人についてのベスト10だ。
400号をだせたおいわいに、
いろいろなベスト10をかんがえてみるのは
おまつりらしくていい企画だ。
わたしも便乗してベスト10をあげてみる。
まえに村上春樹さんの10冊をとりあげたことがあるので、
今回は 梅棹忠夫さんのベスト10をえらんでみたい。
・『モゴール族探検記』
・『東南アジア紀行』
・『わたしの生きがい論』
・『カイバル峠からカルカッタまで』
・『文明の生態史観』
・『情報の文明学』
・『日本語の将来』
・『知的生産の技術』
・『女と文明』(妻無用論)
・『夜はまだあけぬか』
・『モゴール族探検記』
アフガニスタンの奥地にモゴール族をさがしにいく探検記。
なにもわからないところにでかけ、
現地の状況をみながら 方針をきめていく。
探検のおもしろさがつまっている本。
・『東南アジア紀行』
1957年に 日本からジープ3台をもちこんで、
タイ・カンボジア・ベトナム・ラオスをまわった旅行記。
移動のためにだけではなく、
研究の拠点として本格的に自動車をつかっている。
・『わたしの生きがい論』
この本により、人生に目的はないとしらされた。
がんばってはいけない、
役にたたないほうがいい、など、
進歩をうたがう発言が刺激的だ。
・『カイバル峠からカルカッタまで』
これだけは1冊の本ではなく、
著作集第4巻「中洋の国ぐに」におさめられている。
「モゴール族探検」のあと 梅棹さんは、
しりあいの人類学者と、フォルクスワーゲンにのって
カイバル峠からカルカッタへ
おもいがけない自動車旅行にでかけた。
ガタゴトの道でも、夜くらくなっても、
ひざにのせたタイプライターで
記録をとりつづけたはなしが よくしられている。
スピード感にあふれ、自分もいっしょに
旅行しているような気になってくる。
・『文明の生態史観』
地理的・生態的な必然により、
日本とヨーロッパは
ユーラシア大陸のはじっこで
平行に進化した。
・『情報の文明学』
この本のおかげで 情報とはなにかを、
わたしはわりあい正確に理解しているつもり。
・『日本語の将来』
漢字のもつ問題点と、
ローマ字でかく日本語の可能性。
・『知的生産の技術』
この本をよみ、わたしは京大型カードを
3000枚印刷屋さんに注文した。
・『女と文明』(妻無用論)
ひとりの人間としてみたときに、
「妻」という立場はおかしくないか。
「妻であることをやめよ」。
女性をおとしてめているのではなく、
男なんかにつくさなくても、
自分の人生を生きたようがいい、という本なのに、
女性から ものすごい反発をうけたそうだ。
妻の座にしがみつきたい女性が
なぜそんなにおおいのか よくわからない。
・『夜はまだあけぬか』
65歳で視力のほとんどをうしなった梅棹さんが
そのご どのように研究と執筆をつづけたか。
わたしにとっての梅棹さんは、
民族学研究者であるとともに 思想家でもある。
世界をひろくあるいた経験と観察から、
歴史的な必然による 方向性をしめしてくれる。
目的からの離脱や ローマ字による日本語表記は、
そうした観察からみちびきだされている。
2016年09月14日
友人からとどいた黄色の色鉛筆での手紙におどろく
金沢にすむ友人から手紙がとどいた。
郵便書簡(アエログラムみたいなタイプ)に
黄色の色鉛筆でかいてある。
いつも色鉛筆なわけではなく、今回がはじめてだ。
とくに意味もなく色鉛筆で手紙をかくようなひとなのだ。
郵便書簡にすると、82円かかるはずの手紙が
62円でだせるらしい。
節約にはなるけど、色鉛筆なんかでかいてあると
こまかい字でびっしり、というわけにいかず、
文字量としては ペンでかく手紙よりもすくなくなる。
なによりも、黄色の色鉛筆なんて、
手紙としてすごくよみにくい。
色鉛筆でかきなぐり、
誤字は青色のボールペンで訂正してある。
一般的にいえばかなり失礼な手紙といえるだろう。
いかにも 精神的にいかれた人間がかきそうな手紙だ。
手紙をひらいたときには、
友人が精神的においつめられた状態なのかとおもった。
よんでみると、ふつうに近況がかかれている。
この友人がまえにくれた手紙で、
親の世代は金をもっているのだから、
その子ども世代は むりしてはたらかずに
親に車をかってもらっても ぜんぜんかまわない、とあった。
地球全体をかんがえると、必要ないのにはたらくよりも
むしろ親のお金を積極的につかったほうがいい、
というかんがえだ。
かなり極端な論理であり、
わたしはすごい反発をおぼえた。
友人が個人的に親から車をかってもらうぶんにはいいとしても、
それを一般論にまではひろげられない。
わたしはそんなことをしたくないし、
しているひとを尊敬できない。
とはいえ、自分の生活や意識のなかに、
親の存在をあてにしているところもたしかにあり、
すっきりした返事をかけないまま グズグズしていた。
つよい反発をおぼえるのは、
いたいところをつかれた うらがえともいえる。
黄色の色鉛筆という非常識な手紙をかけるのは、
それだけ なにかにとらわたりせず、
自由な精神でいるのかもしれない。
4月からバスの運転手という職につき、
だんだん仕事になれたところだという。
わたしにとって かずすくない友人なので
できればすえながくつきあいたいけど、
メールや手紙でのやりとりは、
どうしても理屈がさきにたち いいあいになってしまう。
とおくにすむ友人なので、
かんたんに いったりきたりもできない。
こういう友人とは、電話でのつきあいが
あんがいすっきりする。
郵便書簡(アエログラムみたいなタイプ)に
黄色の色鉛筆でかいてある。
いつも色鉛筆なわけではなく、今回がはじめてだ。
とくに意味もなく色鉛筆で手紙をかくようなひとなのだ。
郵便書簡にすると、82円かかるはずの手紙が
62円でだせるらしい。
節約にはなるけど、色鉛筆なんかでかいてあると
こまかい字でびっしり、というわけにいかず、
文字量としては ペンでかく手紙よりもすくなくなる。
なによりも、黄色の色鉛筆なんて、
手紙としてすごくよみにくい。
色鉛筆でかきなぐり、
誤字は青色のボールペンで訂正してある。
一般的にいえばかなり失礼な手紙といえるだろう。
いかにも 精神的にいかれた人間がかきそうな手紙だ。
手紙をひらいたときには、
友人が精神的においつめられた状態なのかとおもった。
よんでみると、ふつうに近況がかかれている。
この友人がまえにくれた手紙で、
親の世代は金をもっているのだから、
その子ども世代は むりしてはたらかずに
親に車をかってもらっても ぜんぜんかまわない、とあった。
地球全体をかんがえると、必要ないのにはたらくよりも
むしろ親のお金を積極的につかったほうがいい、
というかんがえだ。
かなり極端な論理であり、
わたしはすごい反発をおぼえた。
友人が個人的に親から車をかってもらうぶんにはいいとしても、
それを一般論にまではひろげられない。
わたしはそんなことをしたくないし、
しているひとを尊敬できない。
とはいえ、自分の生活や意識のなかに、
親の存在をあてにしているところもたしかにあり、
すっきりした返事をかけないまま グズグズしていた。
つよい反発をおぼえるのは、
いたいところをつかれた うらがえともいえる。
黄色の色鉛筆という非常識な手紙をかけるのは、
それだけ なにかにとらわたりせず、
自由な精神でいるのかもしれない。
4月からバスの運転手という職につき、
だんだん仕事になれたところだという。
わたしにとって かずすくない友人なので
できればすえながくつきあいたいけど、
メールや手紙でのやりとりは、
どうしても理屈がさきにたち いいあいになってしまう。
とおくにすむ友人なので、
かんたんに いったりきたりもできない。
こういう友人とは、電話でのつきあいが
あんがいすっきりする。
2016年09月13日
シングル・モルトのボウモア体験
夏のあいだは ほぼ毎晩ジン・トニックをのんでいた。
あれほどゆるぎなく、鉄壁な存在だった夏が、
いつのまにか あつさにおとろえがみえはじめ、
エアコンなしでもねむれるようになり、
寝酒がジン・トニックから焼酎のロックや
ウィスキーの水わりにかわりつつある。
寝酒になにがほしくなるかで、季節のうつりかわりが
かなりの程度わかる。
わたしのからだが寝酒としてもとめる焼酎のロックは、
もう夏がおわったとつげている。
すこしまえにシングル・モルトのボウモアをかった。
アイラ島でつくられるシングル・モルトのうわさは
かねがねきいていたので、
まえからいちどためしたいとおもっていた。
村上春樹さんによると、
でも、いつもは1500円もしないウィスキーをのんでいるわたしなので、
4000円以上するボウモアをまえにすると、
なかなかふんぎれないまま、いつもの安酒をかってしまう。
はじめてのむボウモアはどうだったか。
つよい個性を正当に評価するだけの舌と経験が
残念ながらわたしにはたりないようで、
「いったいなんだ?」とはおもわなかったし、
三くち目にもファンにはならなかった。
おいしいけれど、とくにつよくはひかれない。
せっかくはじめたシングル・モルト体験なので、
もういっぽ足をふみいれ、
おなじ酒屋の棚にならべてあった
ラフロイグをつぎはためしてみたい。
ぜんぜんはなしはちがうけど、
わたしがすきな軽ハードボイルドに
カーター=ブラウンのアル=ウィラー警部シリーズがあり、
この警部は捜査中でもしょっちゅうスコッチをのんでいる。
のみものを あいてからたずねられると、
「スコッチのオンザロック、ソーダをちょっぴりいれて」
ときまってこたえる。
このいい方がすきで、わかいころはよくマネしたものだ。
でも、だんだんとハイボールがすきではなくなり、
水をちょっぴりいれて、と水わりをこのむようになった。
シングルモルトも ただしいのみ方としては、
水で半分ほどわってのむのだという。
氷はいれない。
わたしがボウモアになじめなかったのは、
氷をいれないのみ方かもしれない。
スコットランドそだちのボウモアにとって、
日本の夏は あまりにも野蛮な季節だ。
あれほどゆるぎなく、鉄壁な存在だった夏が、
いつのまにか あつさにおとろえがみえはじめ、
エアコンなしでもねむれるようになり、
寝酒がジン・トニックから焼酎のロックや
ウィスキーの水わりにかわりつつある。
寝酒になにがほしくなるかで、季節のうつりかわりが
かなりの程度わかる。
わたしのからだが寝酒としてもとめる焼酎のロックは、
もう夏がおわったとつげている。
すこしまえにシングル・モルトのボウモアをかった。
アイラ島でつくられるシングル・モルトのうわさは
かねがねきいていたので、
まえからいちどためしたいとおもっていた。
村上春樹さんによると、
一くち飲んだらあなたは、「これはいったいなんだ?」とあるいは驚かれるかもしれない。でも二くち目には「うん、ちょっと変わってるけど、悪くないじゃないか」とおもわれるかもしれない。もしそうだとしたら、あなたは(かなりの確率で断言できることだけれど)三くち目にはきっと、アイラ・シングル・モルトのファンになってしまうだろう。僕もまさにそのとおりの手順を踏んだ。
『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』p46
でも、いつもは1500円もしないウィスキーをのんでいるわたしなので、
4000円以上するボウモアをまえにすると、
なかなかふんぎれないまま、いつもの安酒をかってしまう。
はじめてのむボウモアはどうだったか。
つよい個性を正当に評価するだけの舌と経験が
残念ながらわたしにはたりないようで、
「いったいなんだ?」とはおもわなかったし、
三くち目にもファンにはならなかった。
おいしいけれど、とくにつよくはひかれない。
せっかくはじめたシングル・モルト体験なので、
もういっぽ足をふみいれ、
おなじ酒屋の棚にならべてあった
ラフロイグをつぎはためしてみたい。
ぜんぜんはなしはちがうけど、
わたしがすきな軽ハードボイルドに
カーター=ブラウンのアル=ウィラー警部シリーズがあり、
この警部は捜査中でもしょっちゅうスコッチをのんでいる。
のみものを あいてからたずねられると、
「スコッチのオンザロック、ソーダをちょっぴりいれて」
ときまってこたえる。
このいい方がすきで、わかいころはよくマネしたものだ。
でも、だんだんとハイボールがすきではなくなり、
水をちょっぴりいれて、と水わりをこのむようになった。
シングルモルトも ただしいのみ方としては、
水で半分ほどわってのむのだという。
氷はいれない。
わたしがボウモアになじめなかったのは、
氷をいれないのみ方かもしれない。
スコットランドそだちのボウモアにとって、
日本の夏は あまりにも野蛮な季節だ。
2016年09月12日
木村岳人さんのサイトをよみ、サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼へいきたくなる
デイリーポータルZに
『我が家の猫が20歳を迎えました』
http://portal.nifty.com/kiji/160831197311_1.htm
をかいた木村岳人さんは、
ほかにもスーパーカブによる旅行記や、
日本各地をめぐる記事でしられており、
ていねいな文章がわたしごのみのライターだ。
デイリーポータルZのなかで、
木村さんは 異質な存在といえるだろう。
お金をつかわずに旅行するスタイルに共感でき、
スーパーカブで日本をまわりたくなってくる。
いま木村さんによる
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の日記を
すこしずつよみすすめている。
http://kankodori.net/travel/011/index.html
とてもよく整理されたサイトで、
全行程や、あるいた距離と地図が
いちにちにごとに わかりやすくまとめられている。
ひたすらあるく記録がすきなわたしには
木村さんのこまかな日記がたまらない。
何時におきて、なにをたべ、何時にあるきだし、
まわりのけしき、道にまよったこと、
宿のようす、夕ごはんのメニューなど、
たくさんのうつくしい写真とともに、
事実と感想がこまかく記録されている。
お金を節約するために、
食事はフランスパンにはちみつをぬったものが基本だそうで、
あとは宿でスパゲッティをつくり、
ときどき土地の名物料理を体験したり、
ひとからの親切でごちそうになったり。
たくさんあるいてお腹をすかせ、
ワインとチーズをたのしめるのが、
徒歩旅行ならではのだいごみのような気がしてきた。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の
宗教的な意味はよくわからないけど、
フランスとスペインのいなか道を
ただひたすらあるくのがおもしろそうだ。
ジッド(巡礼宿)にとまり、
パンとチーズやハムをたべていたら、
お金はそんなにかからないだろう。
ぜひこのコースをあるいてみたくなった。
木村さんはフランスのル・ピュイからスタートし、
2ヶ月半かけてサンティアゴまであるいている。
合計で1600キロ。
わたしはよむものに影響をうけやすく、
たいていのところへはすぐにいってみたくなる。
そのくせあつさ・さむさによわく、毎日のお風呂がかかせないし、
お腹がすけばすぐにいらつくようなヘタレだけど、
この巡礼についてはまえから関心をもっていた。
わかいころとちがい 健康に自信がなくなり、
のこされた時間が 無尽蔵でないと
自覚したのもあとおししている。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼。
さいごの旅、とまではおもいつめないけど、
ちかい将来のおおきな目標として計画したい。
『我が家の猫が20歳を迎えました』
http://portal.nifty.com/kiji/160831197311_1.htm
をかいた木村岳人さんは、
ほかにもスーパーカブによる旅行記や、
日本各地をめぐる記事でしられており、
ていねいな文章がわたしごのみのライターだ。
デイリーポータルZのなかで、
木村さんは 異質な存在といえるだろう。
お金をつかわずに旅行するスタイルに共感でき、
スーパーカブで日本をまわりたくなってくる。
いま木村さんによる
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の日記を
すこしずつよみすすめている。
http://kankodori.net/travel/011/index.html
とてもよく整理されたサイトで、
全行程や、あるいた距離と地図が
いちにちにごとに わかりやすくまとめられている。
ひたすらあるく記録がすきなわたしには
木村さんのこまかな日記がたまらない。
何時におきて、なにをたべ、何時にあるきだし、
まわりのけしき、道にまよったこと、
宿のようす、夕ごはんのメニューなど、
たくさんのうつくしい写真とともに、
事実と感想がこまかく記録されている。
お金を節約するために、
食事はフランスパンにはちみつをぬったものが基本だそうで、
あとは宿でスパゲッティをつくり、
ときどき土地の名物料理を体験したり、
ひとからの親切でごちそうになったり。
たくさんあるいてお腹をすかせ、
ワインとチーズをたのしめるのが、
徒歩旅行ならではのだいごみのような気がしてきた。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼の
宗教的な意味はよくわからないけど、
フランスとスペインのいなか道を
ただひたすらあるくのがおもしろそうだ。
ジッド(巡礼宿)にとまり、
パンとチーズやハムをたべていたら、
お金はそんなにかからないだろう。
ぜひこのコースをあるいてみたくなった。
木村さんはフランスのル・ピュイからスタートし、
2ヶ月半かけてサンティアゴまであるいている。
合計で1600キロ。
わたしはよむものに影響をうけやすく、
たいていのところへはすぐにいってみたくなる。
そのくせあつさ・さむさによわく、毎日のお風呂がかかせないし、
お腹がすけばすぐにいらつくようなヘタレだけど、
この巡礼についてはまえから関心をもっていた。
わかいころとちがい 健康に自信がなくなり、
のこされた時間が 無尽蔵でないと
自覚したのもあとおししている。
サンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼。
さいごの旅、とまではおもいつめないけど、
ちかい将来のおおきな目標として計画したい。
2016年09月11日
地区の運動会でビリの4位
地区の運動会に参加する。
最初の競技が100メートル競争で、
結果からいえば、4人ではしって4位だった。
レースの1時間まえからアップをはじめ、
はやい足の回転にからだをならし、
じっくりストレッチもして ケガを予防したのに。
いっしょにはしる顔ぶれをみると、
いかにもおじさんふうなひとがいて、
きのうたてた作戦どおり、
あきらめないで 100メートルをさいごまで
はしりつづければ、おいぬけるのではないかと
懸命にはしった。
もしかしたら、とおもったのに、
もしかしなかった。4位。
ほかの競技でも、おじさんたちはつよかった。
リレーでも全力疾走して、それでケガもしない。
いったい、あのひとたちは
ふだんどんな生活をおくっているのだろう。
わたしは ゆっくりとはいえ
わかいころから つねにからだをうごかし、
毎日ストレッチもかかさないのに、4位。
わたしぐらい丹念にウォーミングアップをした選手は
絶対にいないはずなのに、4位。
わたしほどふだんからだをうごかしている人間が、
たかだか地区の運動会で断トツのビリになるのは、
これはもうすごいことではないか。
よほど特殊なトレーニングを
ながい期間にわたり 地道につみあげたとしかおもえない。
ゆっくり力とでもいおうか。
球いれ競争の招集がおわり、
地区ごとにならんで出場をまっているひとたちの会話がおかしかった。
あるおじさんは、ネコなで声で子どもたちにはなしかけていた。
「ねえねえきみたち、玉をいれたい?
もしなんだったら、したにおちた玉を
おじさんやおばさんにわたしてくれない?」
子どものちからでは 玉をなげても
たかい場所にあるカゴまでとどきにくいので、
子どもが玉をひろい、おとながなげるという分業を提案したのだ。
おとなはずるいなー。
「風はあっちからか」と
風むきを気にしているおじさんもいた。
玉いれ競争じたいが もともと
けっこう真剣勝負につくられている。
30秒ずつ、2回おこなうのに、2回目は対角線の場所に移動して
できるだけ公平な条件できそうルールだ。
テニスやサッカーじゃないのだから、
サイドをかえるのにどれだけ意味があるのだろう。
地区の運動会のディープさが、玉いれ競争によくあらわれている。
「おしどり二人三脚」もみていておもしろかった。
招集所でたのしそうにはなすカップルと、
ふたりがぜんぜんべつのことをかんがえていそうなカップル。
すごく仲のいいカップルは、がっちりと肩をくみ
すごいスピードではしりぬけていく。
わたしひとりがはしるよりもあきらかにはやい。
仲のわるい夫婦よりも、まったくの他人のほうが
はしりやすそうにおもえるけど、
二人三脚がきっかけに、ふたりの仲が
すこしはもとにもどるかもしれないので、
やっぱり夫婦がいいかも。
なかなか微妙な競技だ。
開会式では来賓のあいさつがながかったし、
閉会式は、競技別の表彰があり、
30分くらいグランドにたたされた。
地区の運動会は、もう67回もつづいているそうで、
親睦をふかめるはたらきが それなりにあるとしても、
わたしは これをさいごに できればもう参加したくない。
あれほどねんいりにアップしながら、
断トツでビリの4位だったのをぬきにしても、
わたしには なじみにくいもよおしだった。
最初の競技が100メートル競争で、
結果からいえば、4人ではしって4位だった。
レースの1時間まえからアップをはじめ、
はやい足の回転にからだをならし、
じっくりストレッチもして ケガを予防したのに。
いっしょにはしる顔ぶれをみると、
いかにもおじさんふうなひとがいて、
きのうたてた作戦どおり、
あきらめないで 100メートルをさいごまで
はしりつづければ、おいぬけるのではないかと
懸命にはしった。
もしかしたら、とおもったのに、
もしかしなかった。4位。
ほかの競技でも、おじさんたちはつよかった。
リレーでも全力疾走して、それでケガもしない。
いったい、あのひとたちは
ふだんどんな生活をおくっているのだろう。
わたしは ゆっくりとはいえ
わかいころから つねにからだをうごかし、
毎日ストレッチもかかさないのに、4位。
わたしぐらい丹念にウォーミングアップをした選手は
絶対にいないはずなのに、4位。
わたしほどふだんからだをうごかしている人間が、
たかだか地区の運動会で断トツのビリになるのは、
これはもうすごいことではないか。
よほど特殊なトレーニングを
ながい期間にわたり 地道につみあげたとしかおもえない。
ゆっくり力とでもいおうか。
球いれ競争の招集がおわり、
地区ごとにならんで出場をまっているひとたちの会話がおかしかった。
あるおじさんは、ネコなで声で子どもたちにはなしかけていた。
「ねえねえきみたち、玉をいれたい?
もしなんだったら、したにおちた玉を
おじさんやおばさんにわたしてくれない?」
子どものちからでは 玉をなげても
たかい場所にあるカゴまでとどきにくいので、
子どもが玉をひろい、おとながなげるという分業を提案したのだ。
おとなはずるいなー。
「風はあっちからか」と
風むきを気にしているおじさんもいた。
玉いれ競争じたいが もともと
けっこう真剣勝負につくられている。
30秒ずつ、2回おこなうのに、2回目は対角線の場所に移動して
できるだけ公平な条件できそうルールだ。
テニスやサッカーじゃないのだから、
サイドをかえるのにどれだけ意味があるのだろう。
地区の運動会のディープさが、玉いれ競争によくあらわれている。
「おしどり二人三脚」もみていておもしろかった。
招集所でたのしそうにはなすカップルと、
ふたりがぜんぜんべつのことをかんがえていそうなカップル。
すごく仲のいいカップルは、がっちりと肩をくみ
すごいスピードではしりぬけていく。
わたしひとりがはしるよりもあきらかにはやい。
仲のわるい夫婦よりも、まったくの他人のほうが
はしりやすそうにおもえるけど、
二人三脚がきっかけに、ふたりの仲が
すこしはもとにもどるかもしれないので、
やっぱり夫婦がいいかも。
なかなか微妙な競技だ。
開会式では来賓のあいさつがながかったし、
閉会式は、競技別の表彰があり、
30分くらいグランドにたたされた。
地区の運動会は、もう67回もつづいているそうで、
親睦をふかめるはたらきが それなりにあるとしても、
わたしは これをさいごに できればもう参加したくない。
あれほどねんいりにアップしながら、
断トツでビリの4位だったのをぬきにしても、
わたしには なじみにくいもよおしだった。