先史学を専門にする山田康弘氏のかんがえ
「『縄文時代』はつくられた幻想にすぎない」
が紹介されている。
なにをもって「縄文時代」とするかは
あんがいとらえようがないらしく、
時期や地域によってかなりちがいがあるという。
1950年代には、縄文時代は
おくれた時代ととらえられていたのにたいし、
70年代には日本の原点として
平等で自然と共生していた ユートピアの時代としてえがかれる。
90年代になると、こんどは平等社会というイメージに
疑問符がなげかけられるようになった。
縄文のイメージは、考古学的な発見とそれぞれの時代の空気があいまってつくられてきたものです。見たい歴史を見た、いわば日本人の共同幻想だったんです
わたしは縄文時代に自由をイメージしていた。
農耕がすでにはじまっていたし、
海や山からの収穫物にめぐまれ、
いちにち3時間もはたらけば、
たべものにこまらなかった時代。
王様や地主のためにはたらくのではなく、
集落にすむものどおしで協力しあいながら、
農耕や狩猟にたずさわる日々。
わたしもまた、縄文時代に「見たい歴史を見」ていたひとりだ。
いろんなしくみがかっちりできあがっていそうな弥生時代より、
縄文時代は自由にくらすイメージをかきたてられる。
わたしがすきな照葉樹林文化が
縄文時代の西日本に根をおろし、
日本文化の原点となった時代ととらえていた。
山田氏は、縄文時代がつまらない時代だったと
否定しているわけではなく、
かんたんに「おくれていた」「すばらしい時代だった」と
とらえるあやうさを指摘している。
山田氏によると、縄文時代と弥生時代のちがいさえ、
あきらかではないという。
縄文時代は、ひとびとがなにをしていた時代なのだろう。
縄文時代に稲作がおこなわれていたのかどうか。
わかったような気がしていた縄文時代も弥生時代も、
地域と時期によってさまざまというのだから、
けっきょく はっきりとはなにもいえないみたいだ。
ひとによって「見たい歴史を見」てしまうのは当然ではないか。