2016年09月25日

名前についてのあれこれ

朝日新聞に連載されている伊藤理佐さんのコラム
「オトナになった女子たちへ」をたのしみにしている。
今回は「『あれ』につける名前」。

伊藤さんはこのごろ自分ではなしたあとに
すぐ自分で「ワハハ!」とわらう癖がついたことに気づく。
「この話おもしろいよね」
「はい、笑うところ」
と、感想を指示しているような、いや〜な感じの「ワハハ!」なのだが、どうして自分で「ワハハ!」と笑ったしまうのか、それに名前を付けるとしたらどんな名前だろうか

デイリーポータルZにはクリハラタカシ氏による
「名前はマダない」という連載があり、
今回の記事では
「ミゾの暗渠のフタの上を走った時の音」と
「室内で見失った携帯に電話をかけて探すこと」という
2つのお題について、それぞれにぶじ名前がついた。
http://portal.nifty.com/kiji/160923197501_1.htm
わたしはとくに名前が気にならないほうで、
「あの、ほら、ミゾの上を自転車でとおったときにでる音」
ですませるとおもう。
いまからあたらしい名前をおぼえるのはめんどくさいので、
ベーシックイングリッシュみたいに、
かぎられたことばだけでやりくりするほうがすきだ。
いっぽうで、クリハラ氏や伊藤さんみたいに
自分のわらいにまで名前をつけたくなるひともいる。
アン=シャーリーも、きっとそのうちのひとりだ。
とはいえ、名前が大切なのもよくわかる。
もし自分に名前がなければ、
自分がだれかをどうやってしるだろう。

香港では おおくのひとが ほんとうの名前とはべつに
「ロナウド」みたいに洋風な名前ももっていて、
これはサッカーのロナウド選手がすきだから、
みたいなノリで かなりてきとーにつけられると
テレビ番組でいっていた。

日本人は名前を神聖にとりあつかう。
まちがえると かなり失礼にあたる。
発音だけでなく、よくにた漢字をとりまちがえても
あいての機嫌をそこねてしまいがちだ。
ものの名前をしるのがどれだけ大切か、という発言もよくきく。
名前をおぼえるのがすべての基本である、
みたいに位置づけているひともいる。
このまえみた映画『君の名は。』でも
名前がひとつのキーワードだった。
相手の名前をわすれ、どうしてもおもいだせないかなしみ。

河合隼雄さんは、名前をしることと、
そのものの本質をしることをわけてとらえていた。
たとえば「バラ」という名前をあたらしくおぼえると、
そのものぜんぶについてしった気になるあやうさがある。
きれいにさいている花がバラだとしると、
そこで思考がストップしてしまいがちだ。
それよりさき、 花のうつくしさや不思議をかんがえなくなる。

『ゲド戦記』の世界では、名前はとても大切であり、
自分のほんとの名前を かんたんにはひとにおしえなかった。
しらない相手が自分の名前をしっているのはとても危険だ。

伊藤さんのコラムは、もともとむすこさんが
「目をつむった時に、目の中で見える模様に名前をつける」と
発表したのがマクラになっている。
伊藤さん夫婦は、むすこの発言をわらわなかった。
その、目をつむると出てくる白黒の模様、モヤモヤの雲みたいだったり、雨や光みたいなヤツのことを、わたしはよく知っている。今でも時々見ている。見えない(気づいていない?)人もいるらしい。

わたしもそういえばみたことがあるけど、
まったく気にしていなかった。
みえていないのとおなじだ。
伊藤さんのむすこさんは、目をつむったときにみえる現象の
本質をさぐろうとしているのだろう。

posted by カルピス at 21:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする