2016年10月31日

ゴギファップンゴロッパンベレラがいえたからといって 得意がってはならない

デイリーポータルZに
「身体が覚えている動きや言葉を教えて!」
http://portal.nifty.com/kiji/161027197911_1.htm
とよびかけた企画がある。
なぜだか理由はわからないのに、
なにかのはずみで ながいことばや複雑な動作を
記憶してしまったひとが、
さまざまな「動きや言葉」をよせている。

わたしは以前「鷹の爪」にでてくる怪人の名前、
「ゴギファップンゴロッパンベレラ」を苦労しておぼえ、
職場にくる子どもたちのまえで
さりげなく口にしておどろかせたものだ。
ゴギファップンゴロッパンベレラは
レオナルド博士が開発した戦闘ロボで、
敵に悪用されるのをふせぐため、
音声認識機能によって命令をききわける。
ただしく名前をよばなければ、起動すらしないのだ。
よくにた怪人名に、
 ・ゴギファッペンゴロッパンベレラ
 (目からビームのかわりに、耳からナルトをだす)
 ・ゴギホッパンゴロッパンベレラ
 (とてもはきごこちのいいスリッパをつくる)
 ・ゴギファップンヌルッパンベレラ
 (よごれた金魚の水槽をかってにそうじしてくれる)
 ・ギゴファッペンゴロッパンベレラ
 (ぜったいに失敗しない恋人えらびをすすめてくれる)
などがあるため、うっかりいいまちがえないで、
正確に「ゴギファップンゴロッパンベレラ」とよびかけられるのは、
わたしをふくめ おそらく日本に3人ぐらいしかいないだろう。

なんて得意がっていたら、
デイリーポータルZの記事をみるうちに、
ゴギファップンゴロッパンベレラなんて、
ぜんぜんたいしたことないとおもいしらされた。

幼稚園に通っていたころ、年長組の全員でマーチングをやりました。
私はタムトリオという3連のドラムを叩いていて、
その3音の順番を30年以上経った今でも覚えています。
音は右から「どん」「ぱん」「たん」と呼んでいて、
「ぱぱっぱどたぱた、ぱぱっぱどたぱた、
どんたんぱーぱぱたーたた、どんは、さんし、
どたっぱたんぱんどんつたぱんは、
どたぱたどたぱたどたっぱさんし、
どたぱたどんたんどんたんぱたどん、
どんたんぱたどん、ぱたぱたどんたん、
どたっぱたんぱんどんつたぱんは、
どたぱたどたぱたどたっぱさんし、
どたぱたどんたんどんたんぱたどん、どんたんぱたどん、
ばんは、ばんぱ、ばばっばばんは!」
が1曲分です。
促音と「つ」が間で、
「は」でスティックを立てて顔を横に向ける、
「さんし」で腕を前に伸ばして引く、
「ばん」は「どん」と「たん」を同時に叩くという意味です。
ここまで覚えているのに、曲名はうろ覚えです。
azaya

まるで筒井康隆の狂気小説みたいだ。
ここまでくると、もはや なんのことかわからない。
わからないけど、30年以上むかしにやったドラムの音を
こんなにスラスラおもいだせるなんて、
ふつうの感覚ではない。
世のなかには、ものすごいひとが
ひっそりかくれてくらしている。
身のほどをわきまえて
ゴギファップンゴロッパンベレラくらいが
スラスラいえたからといって、
調子にのらないよう いましめたい。

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2016年10月30日

健康のキーワードは、ほんのちょっと

朝日新聞の投稿に、
食事をすこしみなおしたら
健康診断の数値が すっかりよくなった、と
50代の男性読者のおどろきがのっていた。

この方は、人間ドックの結果、
コレステロールと尿酸の値がたかかったので、
お酒をやめ、もっと運動しなさいと、
お医者さんにいわれたという。
酒をやめるのはいやなので、運動してみたけれど、
週に数回ではまったく効果がでない。
どうしようかとこまっていたら、
同僚が食事のとり方をアドバイスしてくれたそうだ。

それまでおにぎり3つだったのを2つに、
ラーメンはおおもりをやめる。
発泡酒はできるだけ2本におさえ、それ以上のむときは、
ノンアルコールにきりかえる。
そんな食事を4ヶ月つづけたら、体重が2.5キロへり、
検査の数値はぜんぶ正常範囲におさまったという。

いいはなしだなーとおもった。
「(発泡酒)はできるだけ2缶にとどめ」
に人間味があふれている。
たったこれぐらい食事に気をつけるだけで、
こんなに効果があらわれるのなのだ。
ゆるやかな制限だから これからもつづけやすいだろう。
きわめてゆるやな制限にとどめても、
からだは変化をあらわしてくれる。
キーワードは、ほんのちょっと、だ。
ガラッとかえては ながくつづけられないから。

いろいろなダイエットにとりくむと、
炭水化物をぜんぶやめるとか、
バナナばっかりたべるみたいに、
つい極端にはしりすぎてしまいがちだ。
ながくつづけるにはストレスがおおきすぎて、
いったんは効果があらわれても、じきにリバウンドしたりする。

よく短期間で劇的な効果がえられたなんて
雑誌のみだしにかかれているけれど、
1ヶ月で10キロやせました、なんて劇的な変化は、
それまでとちがう人間になるようなものだ。
体重がおちたからといって いい面ばかりではなく、
からだがおもうようにうごかなかったり、
精神的におちつかなくなったりする。
自分らしい精神と体調をとりもどすのには、
ながい時間がかかるだろう。
10キロやせておわりではなく、
そのあとも日常生活がつづくのだから、
極端な食事は、たいへんなストレスをかかえることになる。

生活はずっとつづくわけだから、
食事のとり方も つづけられるものでないと意味がない。
炭水化物をごっそりへらすのはたいへんでも、
おにぎり3つを2つにするのは わたしにもできそうだ。
ビールをやめるのはいやだけれど、
3本めからノンアルコールビールだったら
我慢するストレスはない。
厳密にいどみすぎると つづけられない。
このすばらしい成功例は、
きわめてゆるやかな みなおしでも、
つづければ効果をうみだすとおしえてくれる。
たいせつなのは、よい習慣をつづけることだ。
この方は、自分にできる範囲で
じょうずに制限のルールをきめている。
お医者さんのアドバイスなんかをうのみにしないで、
自分にあったやり方をあみだした。
きゅうな変化をもとめずに、
気をながくしてのとりくみがすばらしい。

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2016年10月29日

電子図書館というサービス

けさの朝日新聞で、
電子図書館を普及させるうごきがとりあげられていた。
電子図書館を使うと、住民はパソコンやスマートフォンで電子書籍を借りて読書できる。ただ、図書館を持つ全国の自治体のうち4%ほどにあたる約50自治体しか開設していない。

そんな図書館があるなんてしらなかった。
すごく便利そうだ。
普及していない最大の理由は
「借りられる電子書籍の種類が少ない」ことだという。
電子書籍がひろまらないのと
おなじところでつまづいているのだろうか。

問題点とか課題とかはたくさんあるだろうけど、
図書館で電子書籍をかりられたらすごくありがたい。
外国へ旅行にいっているときも、
電子図書館でかりられたら、よむ本にこまらない。
貸出期限がくると、自動的によめなくなるというから、
かえしわすれや、わざわざ旅行先から
日本にもどって返したりしなくてすむ(あたりまえ)。

電子図書館は、それぞれの自治体が運営するという。
極端なはなし、ととのった電子図書館が
日本にひとつあればいいのでは、なんておもった。
それを有料でやろうとしているのがアマゾンなのだろうか。
電子図書館は日本にひとつでもいい、という発想は、
わたしが法律をまったくしらないからいえることで、
じっさいにひとつの電子図書館が、
日本じゅうのひとに電子書籍をかしたりすれば、
著作権がめちゃくちゃになりそうだ。
出版社や作家にお金がはいらなくなり、
本の文化がすたれてしまう。

電子書籍も、図書館が1冊ずつかってそろえるのだから、
電子図書館といえども 運営のしくみは
紙の本をあつかうふつうの図書館とおなじなのかもしれない。
あつかう本が 紙かデーターか、という ちがいだけだ。
といいつつも、そこらへんがどうもすっきりイメージできない。
電子図書館は、すごくいいサービスだけど、
ややこしい問題をたくさんふくんでいそうだ。
わたしに理解できる域こえて 複雑すぎる。
パンドラの箱みたいに、あけたがさいご、
どうにもおさまりがつかなくならなければいいけど。
将来的に、電子図書館は どんなサービスにおちつくのだろうか。

posted by カルピス at 20:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月28日

検査の結果をきくまえに ビクついて血圧があがる

病院で血圧をはかると150もあった。
前回は122/70なので すごくたかい。
もういちどはかると、こんどは151になった。
なぜこんなにたかい数字がでたかというと、
血圧をはかったあとで
血液検査の結果をきくながれになっていたからだ。
心配してもしょうがないとおもいながら、
血圧というかたちではっきりからだの動揺があらわれた。
血圧が150と意識するからか、脈拍もはやくなり、
いまにもたおれそうな気がしてきた。

血液検査の結果は、さいわい まあまあの数字だった。
肝機能がへんな数字をしめしていたけど、
それはまあ あまり気にしないことにする。
すべてをおいもとめるのは よくばりというものだ。

看護婦さんに血圧をはかられたときに
たかい数字がでるのを「白衣高血圧」というそうだけど、
まさか自分がこんなに
検査からストレスをうけるとはおもわなかった。
なんねんかまえに、
血圧が147でも問題ないというとらえ方がしめされ、
おどろいたものだ。
それまでは130をこえると高血圧ときいていたのに、
いったいまえの基準はなんだったのだろう。
でも、いざ自分が150の値になると、
147とたいしてちがいがないから大丈夫、とはおもえない。

おもしろかったのは、
看護婦さんがまったく気にしなかったことで、
いつになくたかい数字とみとめつつも、
「まあこれからようすをみていきましょうね」と
あっさりスルーされた。
たかめの数字がでる血圧計、と まえにいわれたことがある。
ほかの機械にくらべ、10くらいたかい数字がでるそうだ。
だから高血圧をしめす数字がでても
看護婦さんは気にしないようで、
だったらなんのための血圧測定かわからなくなってくる。
でた数字があてにならないのなら、
べつに血圧をはからなくても よさそうなものだけど。

健康にかんする数字は、ひとごとだと
おおざっぱでいいじゃないか、なんていえるけど、
自分のこととなると わたしはすごく気がちいさい人間だ。
だからこそ健康診断はうけず、血液検査だけにとどめている。
死ぬときがきたら死ねばいい、という基本方針をとるのは、
健康診断にふりまわされたくないからだ。
こまかな検査をしたばっかりに よくない数字がでたりすると、
ずっと気にしそうだし、そこからあたらしい病名がわかって
検査だらけの生活になるのをさけたかった。

とはいえ、血液検査だけでも
結果をきくストレスから血圧があがるのだから
けっきょく健康診断をうけるのとおなじことだ。
かといって、血液検査までやめてしまうほどの勇気はない。
歳をとるにつれ、健康にしがみつこうとするのが
わたしらしい小市民的なジタバタ人生とうけいれたい。

病院からのかえり、
まあまあの結果だったおいわいとして
イオンによって テキーラと箱いりの赤ワイン(3リットル)、
それにウィスキーをかった。
肝機能うんぬんの数字は 気にしないでおこう。
結果をきくまえは あれだけビクビクしてたのに、
すこし時間がたつと もうわすれようとしている。
くちさきだけで つよがりをいいたがる
こりない中学生みたいだ。

posted by カルピス at 21:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月27日

いまさらながら『ミレニアム 1 ドラゴン・タトゥーの女』

『ミレニアム 1 ドラゴン・タトゥーの女』
(スティーグ=ラーソン・早川書房)

いまさらながらだけど、
『ミレニアム 1』をよみはじめる。
はいりこむのにすこし時間がかかったものの、
サランデル、つまり「ドラゴン・タトゥーの女」がでてくると、
ぐっとおもしろくなってきた。
みしらぬ依頼人の家(あるいは事務所)にまねかれ、
複雑な事情を説明されたあとに
めちゃくちゃハードルのたかい課題をつきつけられる。
そんなふうに、いやおうなしに事件にまきこまれていくのが、
わたしがこのむ ものがたりのパターンだ
(『羊をめぐる冒険』をみよ)。

サランデルのオフィスの描写にひかれた。
彼女のオフィスは2×3メートルの長方形で、ガラスの仕切りに囲まれている。中には、少々古いデル社のデスクトップパソコンを置いた机、椅子、くず籠、電話、本棚がある。本棚には電話帳が数種類と、白紙のメモ帳三冊が置いてある。

2×3メートルは、わたしがベッドをおいている
部屋のサイズといっしょだ
(寝室とはよびたくない)。
このせまい部屋とおなじスペースのオフィスを
仕事のできるサランデルがつかっていると、
わたしまで いけてるおとなのような気がしてきた。
この部屋は、むすこが小学生のときにつかっていた
勉強部屋のつづきにあり、
むすこがおおきくなり 2階へうつったあとで
わたしが両方の部屋をぶんどった。
はじめはパソコン部屋につかっていたけど、
やがてベッドをもちこんで、かくれがみたいにつかいはじめる。
ただ、ここを寝室といってしまうのは、
いい歳こいたおとなとして あまりにも残念なので、
ややこしいけど 寝室ではなく
どうしても「ベッドをおいてある部屋」という表現にとどめたい。

そうか、サランデルもこのスペースがすきなのか、と
よろこんでいたら、
「彼女がこのオフィスで仕事をすることはめったになく」
とつづいていた。
やはり2×3メートルでは、たいした仕事ができないのか。

ここまでで、まだ上巻の半分にもたっしていない。
事件にまきこまれてしまったミカエルと、
彼にからんでいきそうなサランデルのこれからがたのしみだ。
そして サランデルのオフィスは これからどれだけ活躍するだろう。
秋の夜長には、おもしろさまちがいなしの
海外ミステリーがぴったりくる。

posted by カルピス at 22:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月26日

同居でおきる波しぶきは 道徳の問題ではない

仕事をしながらのおしゃべりで、
なんとなく家族構成のはなしになる。
わたしは母親の家で三世代の同居をしており
(むすこが大学へでたので、いまは二世代)、
いわゆる嫁・姑問題をひしひしとかんじている。
露骨な対立が表面化はしていないものの、
けしてうまくいっているわけではない。
おたがいに、いいたいことをいえず、
活発なコミュニケーションもなく、
おなじ家でくらしていながら たのしい関係とはいいがたい。
わたしがじょうずにあいだにはいればいいのだろうけど、
そもそも同居じたいが諸悪の根源であり、
そこをいじらなければ どうにもらない。
ものすごい修羅場を体験したわけではないけれど、
なんとなくへんな雰囲気というだけでも
じゅうぶんストレスなくらしとなる。
同居をはじめたのがまちがいだったと 同僚にはなしたら、
おなじく配偶者の親と同居している同僚は
ふかく共感してくれた。

梅棹忠夫さんが『モゴール族探検記』のなかで、
ひとりひとりの隊員が個人用テントをもつのは
「現代の探検技術における一つの常識」とかいている。
1956年、つまり60年もまえに出版された本に、
すでに「常識」とかかれているくらい、
プライベートな空間を確保するのが
探検では当然もとめられる配慮なのだ。
(一人ひとりが個人用テントをもつことは)個人の精神衛生を保つためにも、隊員間の平和を維持するためにも、経験的にいって最も有効な方法である。(中略)共同生活が長くなれば、波と波がぶつかりあって、しぶきを散らす機会も出てくる。そんなことは、探検心理学の対象となる自然現象であって、道徳の問題ではない。自然現象に対しては、技術的な処理が可能であり、かつ必要なのである。

異文化にとびこんでおこなう探検と家庭生活は
比較できないようにみえて じつはおなじ問題をはらんでいる。
「しぶきを散らす機会」がおきるのは、
嫁と姑のどちらかがわるいわけではなく自然現象であり、
「技術的な処理が可能であり、かつ必要なの」だ。
愛や道徳の問題ではない。

いっしょにくらす母はことしで85歳をむかえる。
まだひとりでたべたりおふろにはいったりはできるものの、
かいものや料理はすでに負担がおもすぎて 毎日はむつかしい。
はじめからべつべつにくらしていたら、
介護サービスにはいってもらい、
ひとりぐらしを支援してもらえたけど、
いまからではもうおそい。
『モゴール族探検記』をなんどもよみかえしていながら、
なぜ個人用テントのはなしを
自分への教訓としなかったのかとくやむ。

posted by カルピス at 22:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月25日

『罪と罰』全3巻をよみおえる

『罪と罰』
(ドストエフスキー・亀山郁夫:訳・光文社古典新訳文庫)

『罪と罰』全3巻をよみおえる。
よみおえたといっても、
なんとなくうしろめたさがぬけきらない。
とにかくよみおえたのはたしかだ。
今回が2ど目。1ど目はもうずいぶんまえにさかのぼる。

わかいころ、ネパールを旅行していたとき、
ゲストハウスでのおしゃべりで、この本が話題にのぼった。
わたしよりすこし年上の旅行者が、
仕事のあとで毎日この本をよむのがすごくたのしみだったと
『罪と罰』体験をはなしてくれた。
日本にかえってからわたしもよんでみたけど、
それほどのときめきはかんじず、退屈な印象しかのこっていない。
「よんだ」という実績づくりのための読書だった。

今回だって そうたいしてかわりはない。
どれだけ内容を理解できただろう。
だから『読んでいない本について堂々と語る本』
http://rashita.net/blog/?p=19158
なんてタイトルをきくと、ついビクッと反応してしまう。
ただ、ふかく理解したというつもりはないけど、
おもしろくよめたのはたしかだ。

今回は、光文社古典新訳文庫からだされた
亀山郁夫氏による訳で、
1回目の『罪と罰』とちがって すらすらとよめた。
やらわかすぎるとかんじたくらいだ。
亀山氏の訳による『カラマーゾフの兄弟』を
きょねんよんだおもしろさから、
『罪と罰』にも手をのばしたくなった。
亀山氏の訳なら わたしでもついていけるだろう。
古典にイメージしがちなかたぐるしさがなく、
なんだかつい最近かかれた本のような気がしてくる。
各巻ごとに読書ガイドがついていて、
ストーリーを整理してくれるし、
もしその気があれば ふかよみする手だすけもしてくれる。

主人公のラスコールニコフが
やたらとなやんだり なんにちもベッドにふせったりするので、
2ヶ月くらいのながい期間にわたるものがたり、
といった印象があったけど、
エピローグをのぞけば
わずか10日ばかりのできごとにすぎない。
亀山郁夫氏の訳にたすけられなかったら、
もっと時間をかけた読書になり、
もっともっとおぼろげな印象しかのこらなかったはずだ。

1巻をよむのに、それぞれ1ヶ月くらいかかったし、
訳が現代的にととのえられているので、
まるで新聞や週刊誌に連載ちゅうのものがたりを
毎日、あるいは毎週 すこしずつよみすすめているみたいだった。
『罪と罰』をゆるぎない古典としてあがめるよりも、
週刊誌の連載小説とかんじるほうが、
きっとただしいせっし方だ。
亀山氏のおかげで、ドストエフスキーの名前にビビることなく、
大衆小説としておもしろくよめた。

posted by カルピス at 22:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月24日

豚軟骨でおでんをつくる

しりあいとはなしていたら おでんが話題にのぼった。
そのひとは、もう2回もおでんをしこんだという。
ちょっとすずしくなってきたので、
わたしもきゅうにおでんがたべたくなった。

やすみの日に業務用スーパーへでかける。
おでんにかかせないのが牛すじであり、
ふつうのスーパーでかうと わずかな量でもかなりの値段になる。
ここは業務用スーパーのでばんだ。
でも、業務用スーパーといえども
あてにしていたほど牛すじはやすくない。
400グラムが800円以上もする。
これでは牛すじがたくさんはいった
わたしの理想とするおでんにならないので、
なにかほかにかわる肉はないかと うり場をまわった。
牛すじみたいな肉がたっぷりはいったパックがある。
800グラムが500円ほどと、かなりやすい。
豚軟骨だ。
貧乏性のわたしは たかい牛すじにすごく抵抗をかんじる。
今回は豚軟骨でおでんをしこんでみよう。
サーロインのかわりに
豚もも肉のステーキでじゅうぶん満足するし、
ササミがなければ胸肉でごまかしてしまうわたしなので、
豚軟骨は たかくなった牛すじにかわるおでんとして、
必然のであいだったかもしれない。

おおきな鍋に1/3ほどの水をはり、
ダシとしてコンブをテキトーにいれる。
醤油と塩でうす味のだし汁をつくり、
そこへゆでただいこん・豚軟骨・里芋・コンニャクをいれた。
すこしにこんでからドテラにくるみ、
保温しながら味をしみこませる。
半日おいたあと、もういちど鍋を火にかけて、
ごぼ天などのねりものと、トーフをいれてからまたドテラで保温。
これでできあがりだ。
あとはたべるときにあたためたらいい。
春菊をいれるとおいしくなるけど、
この時期の春菊はまだかなりたかいので、
青菜としてはほうれん草で手をうった。

結果からいうと、豚軟骨のおでんは正解だった。
おおきな鍋をつかったのに、
それでもゴロゴロはいった豚軟骨がじゃまになるくらい
肉たっぷりのおでんができあがる。
牛すじみたいにながい時間コトコト煮なくても
すぐやわらかくなるのであつかいやすかった。
問題は味だけど、チャーシューによくにた食感で
わたしにはじゅうぶんおいしい。
和風ビーフシチューとでもいおうか(どこがビーフだ?)、
焼酎よりもワインがほしくなるおでんだ。
あっさりしたおでんがすきなひとには、
こってりしすぎているかもしれない。
きょうで3日間、今シーズン第1回目のおでんを
たっぷり味わった。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月23日

リアルな生活で感動のないひと

金曜日に鳥取県中部を震源とする地震がおきた。
その日の夜には、親戚や友人が安否を気づかう電話をくれている。
地震がおきたとき、わたしは外で仕事をしており、
つよい風がふいて たてものがゆれているのだとおもった。
ほかのスタッフが いまのは地震だとおしえてくれなかったら
わたしは気づかないまま仕事をつづけていただろう。
2000年の鳥取県西部地震のときは、車を運転している最中で、
かなりゆれたはずなのに
自分のハンドル操作がおかしいのだとおもいこんでいた。
製品の配達に酒屋さんをたずねると、
店のいたるところに酒ビンがたおれていて、
いまのは地震だったのだと やっと気づく。
気づいたけど、どう行動していいのかまでは気がまわらず、
さっさと自分の用件をはたそうと いつもとおなじうごきをとっている。
呆然としているお店のひとに もってきた商品を確認してもらい、
納品書を手わたして、
「ありがとうございました。またおねがいします」と、
まちがってはいないけど、ずれている挨拶をして
あたりまえのように店をでた。
もしわたしの身に 深刻な地震の被害がおよんでも、
わたしはたいしてこころをうごかさないで
やれやれめんどくさいなー、と
ごうまんな反応をするのではないか。

なにかの小説をよんでいたら、
関東大震災がおきたとき 自転車にのっていたので、
まわりのさわぎに気づかなかったひとがでてきた。
地震にかぎらず万事がそんなかんじで
なにがおきても平然としていたひとなのだという。
ずぶとい神経というのでなく、
なんとなくすべてにおいてタイミングのわるいひとなのだ。
「感動のないひと」みたいにあらわされていたと記憶している。

わたしもまた、そのひととおなじタイプなのかもしれない。
生活しているうえで、なにがおきても
たいしてこころをうごかされないような気がする。
本をよんだり映画をみたときには
もちろんそれなりにこころのときめきがある。
ものがたりにたいしては
できごとをリアルにかんじるのに、
じっさいの生活でおきた事件には 血がさわがない。
トランプ氏が大統領にえらばれても、
ジャイアンツがセリーグで優勝しても、
わたしの心拍数はいつもとかわらないはずだ。
わたしがすむ町で地震や津波、
あるいは原発事故がおきても、
深刻にうけとめるよりも、
心理的にスルーしてしまう反応をとるかもしれない。

そんなわたしだから、
しりあいの町に自然災害がおきたときに、
安否を気づかって連絡したことがない。
想像力の欠如から、たいへんさに気がまわらないからだ。
つめたいやつだとおもわれているかもしれない。

posted by カルピス at 21:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月22日

秋の田舎みちを、シクロクロスでポタリング

レースなかまにさそわれて、自転車で田舎みちをはしる。
相棒はロードレーサー、わたしはシクロクロスだ。
スピードをもとめない、というか
スピードがこわいビビリのわたしには、
国道をとばしてはしるこのみはない。
かといって、マウンテンバイクをほそくしたようなクロスバイクは
ドロップハンドルでないのがものたりない。
そうなると、のこる選択肢はシクロクロスということになり、
2年まえの春に7万円ほどの初心者バイクをかった。
35ミリのふといタイヤで、パンクにもつよい。
と、かきながら、ひさしぶりに愛車をひっぱりだしたら
前輪がパンクしていた。
時間がなかったので(いいわけ)
前輪をはずして自転車屋さんにもっていく。

きょうはふたりだけのポタリング(ゆるい散歩)だ。
市内をぬけて、ちょっとうらみちにはいると、
ぐっと景色が野性味をましてくる。
きょうは3時間しか時間がなかったので、
峠をのぼるだけにとどめ、そこからひきかえすコースをえらぶ。
日本の道路をはしっていたら坂はつきもので、
すこし足をのばそうとすると、峠をこえなければどこへもいけない。
NHK-BSでやっている「チャリダー」には、
坂バカがよく登場し、坂をせめる快感がひとつのテーマになっている。
いい自転車でなら きついのぼり坂もたのしいだろうが、
わたしのそこそこバイクとヨレヨレの足で
てっぺんにたどりつけるだろうか。

峠にさしかかると、
不自然なほど急角度に山をのぼっていく道路が目にはいる。
観念して とにかく足をとめないようにリズムをまもり、
ななめまえだけに意識を集中してこいでいると、
あんがいはやくてっぺんについた。
みかけは急角度でも、距離がたいしたことないぶん、
わたしにも坂をかけあがる快感をたのしめた。
自分の足でたどりつけた達成感がいいかんじだ。
坂をのぼりきれば、かえりはくだり坂をたのしめる。
ビビリのわたしはブレーキをかけて こわごわと峠をおりる。
急な坂がおわり、なだらかなくだりになってから、
ようやくブレーキから手をはなして、
くだり坂のスピードにからだをまかせた。

島根にかぎらず、ポタリングはどこでもできるあそびだ。
日本の秋のうつくしさを はだでかんじる3時間となった。

posted by カルピス at 21:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月21日

がっかりしたくないから月見そばかシーフードドリアにきめている佐藤さんはおとななのか

『本の雑誌』の連載に「そばですよ」というのがあり、
特色のあるたちくいそば屋さんが
毎月紹介されている。
『本の雑誌』なのに、本のことはいっさいかかれていない。
どんな経緯でこの連載がはじまったのかが
1回目で説明してあるだろうと
ひっぱりだしてみたけど、とくになにもかいてない。
あたりまえのようにたちくいそばのはなしでスタートし、
11月号で連載18回目をかぞえている。
そばのはなしも、それはそれでおもしろいのだけど、
かわった連載なのはまちがいなく、 なんとなく気になる。
スポーツ誌にたちくいそば屋さんがのるよりも、
「本」のほうが なんとなく距離がちかいような気もするから、
『本の雑誌』にのる記事としては そばもありなのかもしれない。

11月号には
「立ち食いそば屋では月見そば、ファミレスではシーフードドリア」
という佐藤恵さんの方針が紹介されている。
この佐藤恵さんがなぜ登場するかの説明はなく、
いきなり「佐藤恵さん」で記事がはじまるのが、
いかにもこの連載らしい。
よむひとが、どこまでついてくるかは関係なく、
ただ著者である平松洋子さんが
かきたいことを そのままかいているようにみえる。

佐藤さんは、がっかりしたくないから
月見そばとシーフードドリアにきめているのだそうだ。
月見だったら玉子を割るだけでしょ、誰がつくっても同じです。シーフードドリアも、おいしくもまずくもないという意味で、がっかりしないところがありがたい。

すきだからおなじ品を注文するのではなく、
がっかりしたくないから、というとらえ方におどろいた。
いかにも「おとな」をかんじさせる発言だ。
わたしだったら いろんな商品をためしてみたくなるだろうに、
佐藤さんは「お昼ごはんに意識を向ける余裕も時間もない」と
わりきっている。
10日とか1ヶ月ではなく、
延々と毎日つづくひるごはんだから、
がっかりしなければそれでいい、
という意識になるのだろうか。
これまでに どれだけ「がっかり」したかの
うらがえしともいえる。

日本のたべもの屋さんはどこもおいしいと
旅行者からもてはやされたり、
日本のパンは世界いち、なんて本までみかける。
コーヒーのレベルもたかい水準にあるそうだし、
パスタやおかしにしても、
日本にはおいしい店がおおいという。
そんな日本で、しかも東京で仕事をしていながら、
「がっかりしたくない」という理由で
月見そばかシーフードドリアにきめているなんて
なんだかもったいない。
好奇心のとぼしい かわいた精神で生活するのは
あまりたのしくなさそうだ。

記事のおわりのほうで、
「大のビール党で、ビールさえ飲んでいれば幸福」
という佐藤さんのべつな顔が紹介されている。
「がっかり」したくないは、
ひるごはんにかぎった態度みたいだ。
おとなの女性は、佐藤さんみたいなやり方で、
こころのバランスをたもっているのであり、
いつまでもなにかに期待しつづけるわたしは、
成熟がたりないのかもしれない。

posted by カルピス at 21:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月20日

「60歳を超えると、みんな終わる」はほんとうなのか

10月18日の朝日新聞で
「第二の人生の歩き方」がとりあげられていた。
そのなかで内館牧子さんは、
定年をむかえるひとを「終わった」と とらえている。
内館さんが同窓会にでて気づくのは、
あんなに秀才だった男の子も、あれだけきれいだった女の子も、横一列。60歳を超えると、みんな終わるし、これから先も見えてくる。着地点は一緒なんです。

55歳のわたしは、60まであと5年しかない。
ずいぶんまえから競争や成功からおりた人生を
あるいている自覚があるので、
「終わった」ひとといわれても、
そうだろうなというしかない。
でも、ほかのひともみんな「横一列」になるのだろうか。
「60歳を超えると、みんな終わるし、これから先もみえてくる」
はほんとうなのか。

内館さんは
「終わった」と認め、思い出とも戦わないと決めることが、すべてのスタート

とまとめている。
「まだ終わっていない若い人たちも、しょせん、残る桜も散る桜」
が胸にささる。

はなやかに活躍した時期をわすれられないひとは、
自分の人生のおもな部分が
「終わった」とみとめるのはつらいだろう。
仕事にうちこむ充実感や、
目的をはたしたときの達成感を
わたしもいくらかはしっている。
おおきな目標にむかって ちからをかたむけたり、
仲間といっしょに協力しあった体験は
たしかにかけがえのない財産だ。

いっぽう、定年をむかえるまえから
自分の時間をたいせつにして、
ささやかなしあわせにひたるのだって
けして質のおとったすごし方ではない。
それはそれで、ひとつの生きかたとして
みとめられてもいい。
要はそのひとがどう とらえるかであり、
お金にはめぐまれないかもしれないけど、
地位や権力をめざしてたいへんなおもいをするよりも、
そのひとなりのよろこびがあれば それでいいではないか。
きらびやかな体験がないぶん、
定年をすんなりうけいれられそうだ。

内館さんは、エリートか、そうでないかに関係なく、
どちらをえらぶとしても「着地点は一緒」と観察している。
主観的にはそうであっても、
客観的にもまた「横一列」というのが
よくできた昔ばなしみたいでおもしろい。
60にすこしとどかないからか、
わたしには すんなりしんじられないので、
60歳になったときの同窓会にでてみたくなった。
横一列に枯れたひとたちが ほんとうにあつまるのだろうか。

posted by カルピス at 22:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月19日

林雄司さんの「新発見」、「ネットは続けようと思ったらずっと続けられる」

林雄司さんがブログ「やぎの目」のなかで
「ネットは続けようと思ったらずっと続けられる」という
「発見」をかたっている。
http://yaginome.jp/?p=1244
雑誌やテレビでときどきみかける
「消えた芸能人」ネタでわかるように、
芸能界でいきるひとはたいへんだ。
テレビの世界では 仕事がなくなると
「本人のやる気と関係なく、活動できなくなってしまう」のだから。
その点ネットは、自分がやめなければずっとつづけられる。
だれもやめなさいというひとはいないし、
つづけるのにお金はかからない。
やる気さえあれば、いつまでもつづけられるのは、
たしかに林さんがいうとおり
たいへんありがたいはなしではないか。

サッカーの世界も、芸能界とおなじようにきびしい。
いまヨーロッパのサッカークラブに所属する
日本人選手はたくさんいるものの、
レギュラーあらそいにかちのこり、
スタメンとして試合にでられる選手はそうおおくない。
イングランドのレスターに所属し、
昨シーズンはプレミアムリーグの優勝に貢献した岡崎選手でさえ、
このところ出場する機会をうしなっている。
じゅうぶんな実績があり、本人はやる気にみちていても、
監督がかわったり、あたらしい選手がくわわったり、
あるいはケガや体調をくずしたりすれば、
とたんに選手としての立場があやうくなるきびしい世界だ。
有力なリーグでいきのこれなければ、
したのリーグにおちるか、べつの国にうつるなどして、
じぶんの能力がいかせる現場をさがさなければならない。

ひるがえって、ブログをかんがえると、
林さんがいうように、
「続けようと思ったらずっと続けられる」。
それがどれだけありがたい環境かを
わたしは気づかずにいた。
本格的にネットやブログを利用できるようになって、
たかだかまだ20年の歴史しかない。
こんなおもしろい道具を
ただみたいにやすい値段でつかえるなんて
かんがえてみたらすごい。
林さんは、つづけるだけでなく、おもしろくなるように
いろいろあたらしいこころみをためしている。
わたしもただブログをつづけるだけでなく、
もっとあそばなければ。

posted by カルピス at 21:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月18日

『旅人の表現術』(角幡唯介)

『旅人の表現術』(角幡唯介・集英社)

本書には、あとがきや対談をふくめ、
角幡さんがこれまでかいてきた
探検・冒険についての文章がまとめられている。
「表現術」というだけあって、表現者としての視点から
探検・冒険を論じたものがおおい。
わたしの関心は、梅棹忠夫さんと本多勝一さんについての章にあった。
このふたりを、角幡さんはどうとりあげているのだろう。

冒険ライターとしての角幡さんを
わたしは率直にいって あまり評価していない。
なんだかんだいってたいした冒険をしてないじゃないか、
というのがわたしのみかただ。
『雪男は向こうからやってきた』などは、
おもわせぶりにひっぱっておいて、
さいごがアレはないだろうと、批判的にみている。

しかし、文章家としての角幡さんは ほんとうにうまい。
わかりやすく理論をくみたて、
ややこしい状況をきれいに整理してみせる。
新聞社に就職するまで
まともに文章をかいたことがないというから、
よほど素質にめぐまれたひとなのだろう。
本書でも、梅棹さんと本多さんについて、
たくみな分析がこころみられている。

早稲田大学探検部に所属していた角幡さんは、
わたしがすきな高野秀行さんの後輩にあたる。
高野さんが怪獣さがしなど 脱力系探検にいそしむのにひきかえ、
角幡さんはきっちりした2枚目探検家の印象がある。
正統派よりも ついわき道にそれてしまう 亜流がすきなわたしは、
角幡さんの「ただしさ」をやっかんでいるのかもしれない。

とはいえ、角幡さんは
安全な場所から すきかってなことをいっているのではない。
ちゃんとつとめていた新聞社をやめ、
宿題としてかかえていたツァンポー渓谷での
地理的探検をやりとげた。
安定した新聞社での仕事をぼうにふり、
アパートにひっこして間がないころ、
これからさきのことが不安でしかたなかった。
まだダンボール箱の山がそのままの部屋にひきこもり、
頭をかかえてすごした日々を告白している。
わたしがすきなエピソードだ。

角幡さんには、オリジナリティにあふれた冒険にとりくんでほしい。
北極をあるくような冒険は、
それはそれで意味があるかもしれないけど、
パイオニアワークとはとらえにくい。
本多勝一さんが『パイオニアワークとはなにか』で
冒険の本質をあきらかにしている。
この本多さんの本に解説をこころみたのが角幡さんであり、
なにが「パイオニアワーク」かを
角幡さんほど論理的におさえられる冒険家は
そうおおくないのではないか。
角幡さんがつぎの段階にすすみ、
だれがどうみても「冒険」な行為にとりくむよう ねがっている。

posted by カルピス at 22:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月17日

鷹の爪卓上型自虐カレンダーをかったら、ふるい自虐ゴミ袋カレンダーをもらえた

10月にはいり、本屋さんに
来年のカレンダーがならぶ時期となった。
鷹の爪の自虐カレンダーも、卓上型と壁かけ型の両方がうられている。
ファンだから つきあうよりしょうがないかと、
卓上型と、ほかに2冊の本をレジへもっていく。
(ちなみに、壁かけ型はもったいなくて
ビリビリとやぶれないのがわかり、
何年かまえにかうのをやめた)。

会計をすませ、たちさろうとしたとき、
「自虐カレンダーをおかいあげの方にさしあげてます」と、
店員さんがA4くらいの箱をだしてきた。
あてくじかなにかかとおもい、
「どうすればいいんですか?」
とたずねると、
「これまでに発売されたカレンダー」
なので、ただうけとればいいようだ。
お礼をいって ありがたくちょうだいした。
きょねんまでの卓上型カレンダーを
こうやってくばっているのだろう。
とはいえ、もうなんねんもまえから卓上型をかっているので、
とうぜんわたしがもっている自虐ネタばかりのはずだ。

家にかえって箱をあけてみると、
全国53都道府県の自虐ネタがかかれたビニール袋だった。
「ゴミ袋カレンダー」なのだそうだ。
わたしはてっきり店員さんがまちがってわたしにくれたのかとおもい、
ラッキー!とよろこびながら、
あの店員さんがしかられなければいいが、とも心配した。
でも、よくみると2015年とかいてある。
店員さんがいっていた「ふるくなったカレンダー」
という説明は まちがいではなかった。
2015年のカレンダーがいまさらうれるわけがないし、
そもそも2149円もするので 人気商品とはならなかったみたいだ。
1年かぎりでつくられなくなったものなら、
ファン心理をくすぐるプレミアムな商品となる。

各都道府県についての自虐ギャグが
1枚ずつゴミ袋に印刷されており
(島根だけ6枚わりあてられている)、
おもしろいアイデアだとはおもうけど、
ゴミ袋として あまりつかいがってはよくなさそうだ。
こんなカレンダーを、どれだけのひとが
2149円もはらってもとめるだろうか。
自虐ギャグを紹介すると、
北海道は「コンビニまで110キロという看板がある」で、
山口県は「特産品は総理大臣」。
あまりキレあじはよくない。
ゴミ袋カレンダー.jpg
かんじんの2017年卓上型カレンダーは、
ますますカレンダー部分の数字がよみにくくなり、
カレンダーの用をはたさなくなっている。
祝日の色がかえてないために、
どの日が祝日なのかわからなのもあいかわらずだ。
こうやって、すこしずつカレンダーからはなれていくのが
この自虐カレンダーの特徴であり、
あと10年もしたら、カレンダーなのか 自虐ネタのカードなのか
わからなくなっているだろう。

気にいった自虐ギャグは、
「お掛けになった電話は 電波の届かないところにあるか
 島根にあるため掛かりません」

島根についてはさんざんいいつくしてきただろうに、
ゴミ袋にかかれたよその県むけの自虐ギャグよりもいいできだ。

posted by カルピス at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月16日

ペットにも介護保険制度を

ピピのおしっこがたいへんだー、
という記事をかいたあと、いろいろかんがえていたら
ネコには介護保険がなぜないのか 不思議になってきた。

人間の介護保険制度は、家族介護をあてにしつつ
2000年にスタートした。
その後サービスの内容が
すこしずつ家族への負担をかるくする方向でみなおされている。
いくら大切な家族だからといって、
介護のおおくを家族でかかえてしまっては、
負担がおおきすぎて家族がつぶれてしまう。
ペットについても、基本的にはおなじことがいえる。
かわいくてたまらないペットでも、
いやおうなく老いをむかえる。
歳をとれば排泄がおもうようにできないし、認知症にもなる。
時間をえらばず介護が必要なのは、
人間もペットもおなじわけで、
それを家族だけでまかなうのは あまりにもたいへんだ。
ペットの介護のために、介護離職者がふえるよりも、
ここは制度として いまのうちにととのえておいたほうがいい。

ペットより、子どもへの支援がさきだろう、
という意見もあろうかとはおもいうが、
数からいえば 子どもよりも
犬とネコをあわせたほうがおおい。
歳をとったかいぬしが、歳おいたペットのお世話をする老老介護は
人間だけのはなしではない。
健康をくずしたかいぬしでは、ペットの介護はできない。
ペットよりもさきにかいぬしのほうがなくなるケースだって
すでにたくさんでてきている。
事態は人間とおなじなのだから、
老ネコホームやネコのグループホームへの需要が
これからはたかまるだろうし、
在宅の老ネコにはヘルパーさんが訪問してのサービスがほしい。
将来のはなしではなく、いますでに需要がある現実の問題だ。

私的なサービスとして、都会の一部では
こうしたサービスを提供する事業所があるかもしれない。
しかし、サービスを民間事業所にまるなげだしてしまっては、
支援の質がたしかでなくなる。
ここはどうしても 国がある程度のりだす覚悟がもとめられる。

そんな財源がどこにあるのかと、
国は責任をもちたがらないだろうけど、
けずれるところはいろいろあると、だれもがしっている。
家族同様に大切なペットなのだから、
介護保険や健康保険制度が
これまでなかったほうがどうかしている。

posted by カルピス at 20:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月15日

「ハーモニカがスティービー・ワンダーより下手だから?」もいいとおもうけど

けさの天声人語(朝日新聞のコラム)に、
村上春樹さんの『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
からの引用がのっていた。
ボブ=ディラン氏について
「まるで小さな子が窓に立って雨ふりをじっと見つめているような声なんです」

とわかい女性がはなす。

状況をもうすこしくわしく説明すると、
「私」がレンタカー店で
カリーナ1800GT・ツインカムターボをかりたとき、
車のデッキにボブ=ディランのカセットテープをいれ、
『ウォッチング・ザ・リヴァー・フロー』をききながら
パネルのスイッチを確認していた。
車をかりる手つづきで
「私」に対応してくれたレンタカー店の女性が
「何かお困りのことがございますか」とはなしかけてくる。
それをきっかけにふたりがおしゃべりをするなかで、
「これボブ・ディランでしょ?」
「そう」と私は言った。ボブ・ディランは『ポジティヴ・フォース・ストリート』を唄っていた。二十年経っても良い唄というのは良い唄なのだ。
「ボブ・ディランってすこし聴くとすぐにわかるんです」と彼女は言った。

そのあとで、天声人語氏がとりあげた
「まるで小さな子が窓に立って・・・」と
レンタカー店の女性がいうのだけど、
そのまえに「私」は
「ハーモニカがスティービー・ワンダーより下手だから?」と
冗談をいっている。
ここの部分を引用せず、「まるで小さな子が窓に立って・・・」
にしたところがいかにも朝日新聞であり、天声人語氏だ。

『世界の終わり・・』がかかれた当時すでに、
「でも君みたいに若い女の子がボブ・ディランを聴くなんて珍しいね」
という存在だったボブ=ディラン氏が、
今回のノーベル賞で注目をあつめている。
小説がかかれた1985年から30年すぎたいま、
村上春樹さんとボブ=ディラン氏が
いっしょに話題となる日がくるとは。

小説のおわりに、もういちどボブ=ディラン氏の名前がでてくる。
「ボブ・ディランって何?」とたずねられたときに、
「雨の日にー」と私は言いかけたが説明するのが面倒になってやめた。「かすれた声の歌手だよ」

『世界の終わりとハードボイルド・・・』は
村上さんの作品のなかで、わたしがいちばんすきな小説だ。

posted by カルピス at 17:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月14日

ピピの介護にともなうおしっこ対策

ピピがトイレでおしっこをしなくなって1年半がたつ。
ほぼ2時間おきにおしっこがでるので、
そのころにトイレにつれていくと
なんとか腰をおろしておしっこをする。
でも、いつも2時間ごとにトイレにつれていけるわけがなく、
たいていはトイレシートや、
トイレシートのうえにしいたバスタオルに
うずくまったまま ピピはおしっこをする。
ふとんのうえでおしっこをされると被害がおおきいので
(クリーニング店にもっていけば4000円くらいかかる)、
ベッドのうえにすきまなくトイレシートをしきつめた。
そのうえにバスタオル(夏はゴザ)をかける。

すこしまえまでは、おしっこをしたら
その場をはなれていたのに、
このごろはずっとそのうえにまるまったままだ。
おしっこのしみこんだバスタオルのうえに
いちにちじゅううごかずにいると、
ピピのからだはとうぜんおしっこまみれになる。
毛がきいろくなり、おしっこのにおいもしっかりついている。
タオルでからだをふくぐらいでは とれそうにないので、
このまえはじめてお風呂場につれていき、
シャワーでピピのからだをあらった。
はげしくいやがるかとおもっていたのに、
ピピはあんがい協力的で、
おとなしくシャンプーさせてくれたし、
タオルでふくときも されるがままになっている。
ドライヤーさえまったくいやがらず、
むしろからだをよこたえて
ドライヤーの風をうけやすい姿勢をとってくれた。
お風呂があんがいすきなネコなのかも。
シャンプー.jpg
今朝は、あれほど厳重にしいたトイレシートのかいもなく、
バスタオルがおしっこでぬれていた。
4時にベッドからおきだし、よごれたところだけ水であらって
洗濯ほし場のさおにかけておく。
夜なかになんどもおこされて、
ごはんやおしっこのあとしまつをするのは
あまりたのしい時間ではない。
わたしの睡眠は、ピピのおしっこに左右される日が
もうずいぶんつづいている。

夏のあいだは、バスタオルでつくったピピ用のベッドでねていたけど、
このごろは朝・晩がすずしくなり、
ピピはわたしにからだをしっかりくっつける。
その姿勢で、2時間ごとにおしっこをするから、
わたしのパジャマはかなりの確率でおしっこの被害にあう。
いくらだいすきなピピのためとはいえ
正直なところ、できればまともなベッドで
おしっこの心配なしにねむりたい。
これだけペットブームなのだから、
介護につかれている人間だって そうとうおおいにちがいない。
介護をかたりあうオフ会があればでてみたい。

posted by カルピス at 22:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月13日

ブログをふりかえる

すこしまえの「ほぼ日『今日のダーリン』」に
なんのことかよくわからない内容の日があった
(わたしがわからないだけで、あんがいふかい文章だったのかも)。
わたしは、ひくくながれるのがすきなので、
こういう記事をよむとうれしくなる。
糸井さんほどのひとでも、ときにはこんなふうに
パッとしない文章をかく。
だったら わたしごときがスカ記事をかいても
まあしょうがないし あたりまえなので
気らくにとりくめばいい。
糸井さんが ときどきこんな記事をのせるのは、
あんがいわざとスキをつくって
よむひと(かくひとも)を安心させようとしているのかもしれない。

このまえのブログに、
Wカップアジア最終予選のオーストラリアとの試合についてかいた。
わたしのみるところ世紀の凡戦であり、
ひきわけたとはいえ このさきの予選をかんがえると
あかるいきざしをかんじなかった。
それなのに、わたしが信頼するサッカーライターはこの試合について、
だれもがわりあいにたかい評価をあたえている。
テレビに背をむけて 夕ごはんをつくりながら
実況に耳をかたむけていたので、
あやまった判断をくだしたのだろうか。
というのはいいわけで、
サッカーをよく理解していないわたしは、
おおくの試合で 的をはずしたみかたしかできない。

といって、しょんぼり反省するわけではない。
にわかファンもわたしくらいベテランになると、これでいいのだ。
なんにでも反対ばかりする野党みたいなもので、
まけた試合ではエラソーに分析してみせるし、
かてばころっと態度をかえて、
「いまの日本はほんとにつよいぞ」
なんて本気でおもいこむ。
おもったとおりにかけるのは
「にわか」ならではの気らくさだ。

なんで週のとちゅうに「ふりかえり」をいれたかというと、
これがわたしの生きる道だと、
いまさらながら確認したからだ。
個人的な日記でしかないつまらない記事や、
はずれてばかりのろくでもない感想でも、
わたしは自分のおもったとおりにかける。
スカ記事をかける自由、とでもいおうか。

posted by カルピス at 23:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月12日

あたらしくできた窯でピザをやく

わたしがつとめる事業所に、最近ピザ窯ができた。
理事長が事務所の敷地につくったものだ。
なんとなくちゃんとした窯っぽいけど、
とくになにかを参考にしたわけではなく、
自分でテキトーにくみあげたらしい。
このひとは、たいていのものを こうして
たのしみながらオリジナルな作品としてつくってしまう。

きょうは、このピザ窯をつかい、
クッキー班のメンバーで ピザとやきいもをつくってみる。
まず廃材を盛大にもやして窯をあたためた。
火がよくまわり、あつかいやすい窯だ。
エントツがないのに、煙はすきまからうまくにげていく。
火をおこすときはいつもそうだけど、
いきおいよくもえる火とむきあっていると それだけでたのしい。
わかいころにやったお風呂のかまたきで、
わたしのたき火力はきたえられた。
きょうもいっぱつで火おこしに成功して気をよくする。
最小限の火力にたもつほど わたしはおちついた人間ではなく、
すきまをみつけては ふとい材木をつっこんでいく。
そのうち窯は 文字どおり 手のつけられないほどあつくなる。
ちかくにいるのが たえられないくらいの もうれつな火力だ。
おだやかなあたたかい火ではなく、
凶暴で やばいあつさまで窯がやけたら、
ピザをいれる準備がととのった印だ。
温度をはからなくても、
あつくてたまらなくなるのですぐわかる。
トッピングしたピザ生地をいれると、
5分もかからず いいかんじでこんがりやけてきた。
ピザ窯.jpg
ピザ生地も、小麦粉をねってつくればさらにいいのだけど、
今回は業務用のスーパーでかった1枚100円のうすい生地だ。
やきたてをたべてみると、わるくはないけど、
せっかくピザ窯でやくのだったら、
もっとちゃんとした生地のピザのほうがむいている。
ペラペラの生地では せっかくの窯がもったいないかんじだ。
ピザは生地だけでなく窯がおおきな役割をはたしている。
いくらいい生地でも、オーブントースターや
よくやけてない窯では、おいしいピザはまずやけない。
高温にやけた窯さえ準備できたら、
それだけでおいしいピザが約束されたようなものだ。

やきいもは、わたしの畑でとれたサツマイモをつかった。
アルミホイールでくるみ、オキビのうえにのせる。
オキビといえども ものすごくあついので、
20分もあれば ホクホクのやきいもができあがった。

きょうはいつもたべている事業所内のお弁当ではなく、
できあがったピザとやきいもが おひるごはんだ。
ピザがやきあがり、テーブルにならべると、
たべるよりさきに おかわりがあるかどうかたずねられた。
ひとり1枚半(直径17センチ)のピザで、
そのうえにやきいもがつくのだから 満足してもらえたとおもう。
クッキーづくりの仕事ばかりのなかに、
きょうみたいなピザつくりがはいると たのしいイベントとなる。
火をたいてのあそびみたいなものだし、
自分でトッピングすれば、いかにも自分でつくったピザになる。
これが仕事だとはおもえないほど スムーズにピザづくりがすすんだ。
こういうのを仕事にしたら、
わたしは こまめにはたらけるということなのか。

posted by カルピス at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする