2016年11月30日

おおたかおるさんの「ドーナツが美味しくたべられるのは7個目まで」に感心する

デイリーポータルZに、おおたかおるさんの
「ドーナツが美味しくたべられるのは7個目まで」
がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/161116198081_1.htm
あのあまいミスドのドーナツを、
こがらなおおたさんが かるがるとたべていく。
ミスドには「ドーナツビュッフェ」という枠があり、
1200円(税ぬき)で
「あれも これも 食べ放題」なのだそうだ。
ルールは
・いちどにお皿にのせられるのは3個まで
・制限時間は1時間
・ラストオーダーは終了時間の5分前

あまさにたいして超人的なつよさをみせつけてくれる
こういう記事がわたしはだいすきだ。

ケーキやおかしなど、
わたしは あまりあまいたべものがすきではないけど、
ドーナツだけはべつで、ときどきはげしくほしくなる。
といっても、ミスドでいえば、
オールド・ファッションがせいぜいで、
それ以外の種類は さすがにあますぎる。
生地だけでじゅうぶんあまいのに、
そのうえからさらに砂糖やチョコレートがかけてあるわけで、
かんがえただけでも口のなかと頭が
どろっと砂糖でつまっていくようだ。
そんなドーナツを、7個目まで「美味しく」
たべられるというのだから、
女のひとのあまさへの欲求はおそろしい。
わたしだったら、1個目のとちゅうからすでに
あまさをもてあましている。
よほどのかくごをもってのぞめば、
7つくらい口にいれられないことはないだろうけど、
「美味しく」たべるのは ぜったいに無理だ。
1200円分なんて まずもとがとれない。

おおたさんは、ドーナツビュッフェにいどむにあたり、
作戦をたてている。
(1皿目として)まるで霞でも食べているかのような軽い食感のフレンチクルーラー、軽さを残しつつチョコレートとゴールデントッピングで食感にアクセントが加わったゴールデンフレンチ、クリームが軽さとボリュームに絶妙なバランスを与えているエンゼルフレンチ。
ドーナツビュッフェのオードブルにふさわしいラインナップのはずだ。
もちろん、1皿目はあっという間に完食した。

(2皿目として)ふわふわのパンのような生地が魅力のイースト系ドーナツから、シュガーレイズド、カスタードクリーム、エンゼルクリームの3つを選んだ。
2皿目も余裕の完食だった。

3皿目は、ストロベリーリング、チョコリング、きなこリング。
これは私にとっては冒険的メニューである。
まず、日頃フレンチクルーラーやしっとりした生地のケーキドーナツを食べることが多く、そんなにイースト系を食べない。そして、きなこリングは食べるの自体が初めてだ。
とはいえ、ストロベリーリングまでは何の問題ない。大変おいしゅうございました。
ちょっとした違和感を覚え始めたのはチョコリングからだ。

アップされている写真をみただけで
わたしはおなかと頭がいっぱいになるのに、
2皿目までをかるがるとかたづけるおおたさんは、
別世界にいるフードファイターだ。

そもそも世界の常識からいうと、
おかしとは、あまくつくらているからこそ おかしなのであり、
あまさをひかえたおかしなど形容矛盾だ。
材料にどっさり砂糖をいれ、
そのうえからシュガージュースをかけて
砂糖のかたまりができたようなおかしこそが、
世界的には標準といってよい。

たべものがでてくるテレビ番組では、
おかしをたべたレポーターが、
「あまさがおさえてあっておいしいです」
なんていうのをよく耳にする。
あまさのかんじ方はひとそれぞれなので、
とくに女のひとがいう「あまさがひかえてあって」は
信用しないほうがいいのでは。
それに、「あまくなくておいしい」は
ほめことばとして無理がある。
あくまでもあまさを追求したあげくに、
なおかつおいしいのが まことのおかしではないだろうか。

おおたさんの記事には、
あまさがおさえてあっておいしい、なんて
ひとこともかいてない。
ドーナツはあまいのがあたりまえと、
あまさをドーンとうけいれたうえでの
ドーナツ愛にあふれた記事をたかく評価したい。
けっきょくおおたさんは
ドーナツ10個とパイ1個を、
ドリンク2杯で胃袋へおくりこんだ。

おおたさんがくだした「結論」は、以下のとおりだ。
美味しい思い出を残したい人は7個まで。
これは私のみではなく、一緒に行った友人も8個あたりから苦しかったと言っていたので、一般的成人女性はそのあたりが限界なのではないかと思う。

一般的成人女性は、ミスドにはいると姿をかえるようだ。
男と女のあいだには、
あきらかになってない山や谷が
まだたくさんあるのかもしれない。

posted by カルピス at 22:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月29日

まるで福袋のような 配偶者への誕生日プレゼント

むすこの誕生日になにをおくるかを、
毎年ブログにかいてきたけど、
今回の対象はむすこではなく配偶者。
むすこが大学生になり、家からでたためで、
アパートでくらすむすこへプレゼントをおくるほど
わたしは親切な親ではない。

で、ことしの問題は、
配偶者になにをプレゼントするか、となった。
おたがいの誕生日に、ささやかなプレゼントをおくるのが、
アリバイ工作のように ほそぼそとつづいている。
わたしの誕生日には、パジャマとTシャツをくれるが定番で、
配偶者の誕生日は、日がせまってから
くるしまぎれのおもいつきで なんとかやりすごしている。
ずっとまえは花束とワインに固定されていた。
まだ保育園にかよっていたむすこが手わたすと、
それなりにプレゼントらしくなる。
そのあとになると、音楽のCDでごまかす手をおぼえる。
80年代のなつかしの曲ベスト、みたいな
おおざっぱなCDがおおい。
ちなみに、きょねんはビートルズの
『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブバンド』と、
ハーブのオイルバーナーをプレゼントした。
これは、コンセントにつけると、
ハーブオイルがあたためられて
いいかおりをたのしめるというもの。

ことしのプレゼントもにたような構成になった。
ハーブショップでかった2種類のせっけんと
ハーブティーのつめあわせ。
それだけではさみしい気がして、
こんや サザン・オールスターズの『稲村ジェーン』をかってきた。
福袋じゃないんだから、
もっとスマートにきめればいいとおもいつつ、
自信がないものだから 量(あるいは数)でごまかしてしまいがちだ。
いったいなにをおくられたら 彼女はよろこんでくれるだろう。
ながねんいっしょにくらしていながら、
配偶者にだれかすきなアーティストがいたのかさえ はっきりしない。
車を運転するときは、音楽をきくというよりも、
ボリュームをしぼり、BGMとして
これまでにわたしがおくったCDをきいているようだ。
稲村ジェーン.jpg
『稲村ジェーン』にしたのはジャケットがたのしそうだったから。
桑田佳祐がすきと、いっていたような いないような、
かすかな記憶が頭をかすめた。
いじわるなみかたをすれば、
せっけんは、お風呂でわたしもつかえるだろうし、
CDだってあとからかりれば わたしのiTunesにとりこめる。
そもそも配偶者は、鼻がまったくきかないので、
そういうひとにむけてかおりをたのしむプレゼントは
いったいなんの意味があるだろう。
わたしにしてみたら、ハーブショップでプレゼントをさがすのは、
いやがらせをしているわけでは もちろんなく、
そのつど彼女の鼻がきかないのをわすれているからだ(ほんとうに)。
鼻がきかないというと、残念な世界におもえるけど、
かんがえてみると へんなにおいをかがなくていいわけだから、
ハンディキャップとはきめつけられない。
たとえば家族のだれかがおならをしても、
音さえたてなければ配偶者にはばれないわけで、
いっしょにくらすわたしの 正直な感想としては、
たすかることのほうがおおい。

まるで福袋のようなしまらないプレゼントとはいえ、
ことしもなんとかきりぬけられそうだ。
内容はともかく、こうやって
相手を気にかけるのが大切なわけで、
しばらくは地雷をふまずにくらせるのではないか、たぶん。

posted by カルピス at 22:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 配偶者 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月28日

いまごろになって宅急便のたいへんさに気づく

クロネコヤマトの宅急便に「仮装」して
ボジョレー・ヌーボーをくばったと
しりあいにはなしたら、
「宅急便のたいへんさがわかったでしょう?」といわれた。
あそびとしての「仮装」にばかり気がとられ、
ほんものの宅急便の苦労を、かんがえてもみなかった。
たしかに ちょっと想像しただけで、
ゾロゾロとたいへんそうな問題がでてくる。

わたしがボジョレーをくばったのは 8件のお宅でしかないし、
あらかじめスマホで地図をしらべていたので、
1時間ちょっとでくばりおえている。
そもそも会員さんなのだから、
もともと家をしっているひとのほうがおおい。
でも、宅急便の仕事となると、せっかく家に配達しても、
だれもおられないときがめずらしくないだろうし、
不在通知をのこし、しばらくあとにまたとどけても、
それでもらえるお金がふえるわけでもない。
わたしがボジョレーをとどけたら、
どのお宅でもあたたかく歓迎してくれたけど、
ほんものの宅急便がこられたら、
いいとこ「おつかれさま」くらいで、
こころのふれあいなど 夢みたいなはなしだ。
いくら宅配便の会社が「まごころをとどける」
みたいなことをいっても、現場ではあたたかなできごとなど
ほとんどおきないのではないか。

宅急便をおくれば、つぎの日に荷物がとどくのを
あたりまえだとおもっているけど、
そんな国はきっとごくかぎられている。
時間を指定したり、生ものでも大丈夫だったりと、
いたりつくせりとは 日本の宅急便のことだ。
ゆるく生きているわたしは、
荷物が1週間さきにとどいても ぜんぜん問題ないけれど、
いまや日本の社会は、宅急便がつぎの日にとどけてくれるのを
前提としてなりたっている。
アマゾンやアスクルなどは、宅急便がちゃんと運営されていないと
まるで仕事にならないだろう。
わたしがアルバイトでやっている ハーブの苗の発送だって、
とどくのに1週間もかかったら、とちゅうで苗がかれてしまう。

かるい冗談としてクロネコヤマトに仮装したので、
ずっと冗談のまま貴重な体験をおえてしまった。
荷物をくばっているひとたちの苦労を
あらかじめ想像できたら、
もうすこし敬意をこめて「仮装」しただろう。
日本の社会をささえているのは、
宅急便のような仕事かもしれない。

posted by カルピス at 22:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月27日

「ピピちゃん、ずっと気になってました」にしびれる

ピピの写真をドコノコに公開しており、
https://www.dokonoko.jp/
きのうあたらしくフォローしてくれるひとがあらわれ
コメントをいただいた。
ピピちゃん、ずっと気になってました。フォローさせてください

とある。
胸があつくなることばだ。
自分にいわれるより うれしい。
というか、わたしだって 「ずっと気になってました」なんて
いわれてみたい。

からだがよわってきているピピは、
いちにちじゅうほとんどねてすごしているので、
アップする写真は自然とおなじようなポーズになる。
まるまってねているか、
むっくりおきあがって わたしのほうをみているか、だ。
病気と歳のせいで毛づやがわるく、
おしっこが毛にしみこんでいるせいで
ぜんたいに黄色っぽくて しょぼい姿だ。
それなのに、「ずっと気になってました」
なんていってもらえるとは。
ピピの写真をアップするたびに 近況を報告しており、
きっとあたらしくフォローしてくださった方は、
写真のようすから、ピピが不自由なからをもてあましながら
なんとか生きながらえていると
さっしてくれたのではないか。

すこしまえのブログに、
ピピはすでにむこうの世界へいってしまっており、
ときどきこっちにかえってきているのでは、とかいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/443372611.html?1480245225
さむくなってコタツが登場してからは、
ますますこの傾向がつよくなり、
ピピは日中ずっとコタツのなかですごしたあと、
夜中にやっと わたしのベッドによじのぼってくる。
わたしがピピの存在に気づくのは、
ごはんをねだられたり、パジャマのうえでオシッコをされたときで、
いずれにせよ わたしはねぼけており、まともな対応ができない。
目のまえにいるピピが、現実に生きているネコというよりも、
そういえば むかしいっしょにくらしていたピピ、みたいなかんじだ。

2年半まえに口内炎をわずらってから、もうながくはない命と
かくごをきめてつきあっているのに、
ピピはいっこうにむこうの世界へいく気配がない。
やせてボロ雑巾みたいになりながらも
まだ当分はいっしょにすごしてくれそうだ。
もちろんそれはうれしい誤算なわけだけど、
わたしとしても ずっと緊張をたもったままはしんどくなり、
このごろは「あんたもずいぶんがんばるねー」と
なげやりなことばがけがおおくなってきた。

あたらしくピピをフォローしてくれた方の、
「ピピちゃん、ずっと気になってました」は、
そんなわたしへのはげましともなった。
それにしても、
「ずっと気になってました」の威力はすごい。
わたしにはだれもいってくれそうにないので、
とっておきのころし文句として
いつか さりげなく口にしてみたい。

posted by カルピス at 20:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月26日

『ラオス 山の村に図書館ができた』(安井清子・福音館書店)

『ラオス 山の村に図書館ができた』
(安井清子・福音館書店)

ラオスの難民キャンプで、子どもたちに
人形劇をみてもらうNGOにかかわっていた安井さんは、
その仕事がおわったあとも、図書館支援の活動をつづける。
いくつかの偶然のであいをへて、
安井さんは山のなかにあるゲオバトゥ村に
図書館をつくろうときめた。
人形劇を公演した経験から、
子どもたちにはものがたりが必要なんだと
安井さんは確信している。
安井さんが図書館づくりにとりくむのも、
夢中でものがたりにひたれる場所を提供し、
子どもならでの時間をすごしてほしいからだ。

きれいな図書館をつくり、贈呈式をして感謝され、
でもじっさいにはそのあとだれもつかわないという
「箱モノ」援助におわらないよう、
安井さんは村のひとといっしょに材料となる木を調達し、
大工しごとにも参加してもらい図書館をたてていく。
また、たてものをプレゼントするだけでは
図書館の活動がつづかないので、
図書館にかかわる村の人をそだて、
村のひとたちによる図書館運営をめざす。

図書館とはなにか、がしられていない村で、
ゼロから図書館をつくっていくのは
どれだけたいへんだっただろう。
安井さんはしかし、たいへんさよりも
じゅうじつした時間をすごせたよろこびについて
おおくをかたっている。
でなければ、電気・ガス・水道のない村でのくらしを
ながくつづけられなかっただろう。
安井さんは国際援助のノウハウをよく理解されており、
やりたいことをしながらも けして無理はしていない。
村にとどまりつづけるだけでなく、ビエンチャンへでかけたり、
日本にもどったりしながら 息のながい活動としてとりくみ、
数年かけてこの図書館づくりを成功させた。

ゲオバトゥ村は、こんな地域がまだのこっているのかと
感心するぐらい むかしながらの生活をいとなんでいる。
女性は家の仕事だけでなく、畑や家畜の世話にいそがしい。
ひとがあつまる場所ではたらくのは タブーとなっている 。
ちいさな子どもたちでさえ、おとながいわなくても、
自分からすすんで家の手つだいにたずさわる。
そんな村に図書館ができたことで、
世界にはいろいろな国と さまざまなくらしがあると
村のひとたちがしり、おおきな刺激となったにちがいない。

安井さんは大学生のころから難民支援にたずさわり、
それいらい夢を実現させるために、地道な活動をつづけてきた。
ゲオバトゥ村のひとたちが 自慢におもえる
すてきな図書館をつくったあとも
安井さんはラオスにとどまって、
子どもたちへの支援にとりくんでいる。
国際援助の成功例というよりも、
自分がやりたかった夢を、すこしずつ実現させていった
貴重な記録として 興味ぶかくよんだ。

posted by カルピス at 19:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月25日

わたしが冬ごもりまえのリスだったら

さむくなってきたので、
ガソリンスタンドへ灯油をかいにいく。
ガソリンも3000円分いれた。
畑にもよって 大豆をほすのにつかっていた柵をかたづける。
なんだか冬をむかえる準備がはかどったようで気もちいい。
わたしがもしリスなら、冬ごもりの準備については優等生のはずだ。
秋になると おおすぎるぐらいのドングリをあつめて
秘密のかくし穴へしまいこむだろう。

そういえば、動物はタスク管理なんてしなくても、
ちゃんと冬をむかえる準備にとりかかる。
そもそも野性動物は、生きるというだけでも大変なのに、
タスク管理やチェックリストをつかわなくても
クマやリスは冬をまえにすると脂肪をためこむそうだし、
わたり鳥は南へとびたつための準備をはじめる。
人間は、やらなければならないとわかっていても、
さきおくりしたい誘惑にまけて
なかなかうごきだせなかったりする。
人類が自然からはなれ、人間へと進化する過程のどこかで、
グズグズしたままでいる快感をおぼえた。

わたしはきょうのところでは すんなり腰をあげられた。
ほかの仕事だとこうはいかないのに、
「ためこむ」ことについてだけは、
リスでなくても わたしは優秀なのではないか。
冬の準備としては、安直に灯油をかうのではなく、
家のまわりにずらーっとマキをつみあげたいところだ。
わたしが農業に関心をむけるのも、
きっと「ためこむ」ことと関係している。

ひと冬ぶんのマキでは なんだか心配なので、
2年分くらいためこむと やっと安心できる。
お金もたくさんあるのがすきだけど、
すきだからといって
お金がわたしのちかくにとどまってくれるとはかぎらない。
マキなら 骨おしみせずにオノをふりおろせば、
だんだんとふえていくのが目でみてわかる。

倉庫に食糧がたんまりたくわっている安心感を、
わたしはたぶん
『ロビンソン・クルーソー』の読書によって意識しだした。
ロビンソンは、猟で獲物をとらえる不安定なくらしよりも、
ヤギを牧場ではなしがいにし、
いつでも肉が手にはいる生活をのぞんだ。
わたしがもし無人島へながされたら、
きっとロビンソンのように、勤勉なくらしぶりで日々をすごしながら、
すこしずつものをためこんで なにかのときにそなえただろう。
そんな生活をつづけると、結果として資本がたまり、
資本があつまると資本主義経済がめばえるらしい。
わたしは自分が勤勉だとおもったことはないけれど、
ためこみについてだけは素質があるような気がする。
産業革命まえのイギリスにうまれたら、
わたしは主流派として いきいきとくらしていただろう。

posted by カルピス at 21:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月24日

短歌の世界がおもしろそう

車のラジオからながれてくる「初級ドイツ語講座」をきいていたら
(もちろん きいているだけ)、
男性の講師が、授業ですべった体験をかたっていた。
ドイツ語の知識がなくても、日本語のだじゃれなので
わたしにもわかる。
たとえば、と講師が2つほど例をあげると、
かわいらしい声の女性講師が、
ちいさな声で「さむ」ときりすてたのがおかしかった。
うちあわせしても できないような
絶妙なタイミングでの「さむ」がうまい。
こんなにたのしいのなら、まじめにドイツ語を勉強したくなる
(もちろん 一瞬そうおもうだけ)。
ドイツ語でなにか感想をいったのを、
わたしの耳が「さむ」と
ききまちがえただけかもしれないけど。

林雄司さんがブログに
「間違っただじゃれ」というタイトルで
子どものころのおもいでをかたっている。
http://yaginome.jp/?p=1293
子どもだからかわいいけど、
にたようなことをわたしもしていそうで
素直にわらえない。
たとえば まえのブログにかいたことがあるけど、
「口説く」をずっと「くちとく」とよんでいた。
いかに「くどく」からはずれた人生だったかを
告白しているようではずかしい。

web本の雑誌で、目黒考二さんが
「新聞歌壇のいま」を紹介している。
新聞歌壇のおもしろさを紹介している。
http://www.webdoku.jp/column/meguro_n/
朝日歌壇に松田梨子・わこという姉妹がいて、
アイドルのように人気があるのだという。
短歌というと、わたしは俵万智さんしかしらず、
歌壇に投稿するような中高年の方を、
ちまちまと自分たちだけの世界でくらすひとたち、
みたいにきめつけていた。
目黒さんの文をよむと、
自分のことばで生活をかたるわかい歌人が
なんにんもでてきている。
ねえちゃんの大事な人が家に来るそうじ買い物緊張笑顔
松田わこ 2015年10月26日朝日新聞朝刊

朝日歌壇のおじさん・おばさんたちが、
松田姉妹を孫のようにかわいがっているようだ。

わたしは自分が短歌をよめないものだから、
短歌というジャンルじたいを否定していたけど、
彼女たちのセンスをみせつけられると、
短歌もまたおもしろそうにおもえてくる。
みじかいから 小説をかくよりかんたんそうだし、
活発な精神活動はボケ防止にも効果がありそうだ。
仲間づくりにも役にたってくれるだろう。
じっさいに、短歌はむかしから
おおくの愛好者に生きがいをあたえており、
いまもまた高齢者だけでなく
松田姉妹のようなわかいちからをえて
独特の世界をたもちつづけている。
SNSにむりしてついていこうとするより、
方向をかえて短歌をはじめるほうが
わたしにむいているような気がしてきた。

わたしはだじゃれがすきでない以上に 川柳をきらっており、
ひとりよがりな おもしろがりかたを「さむ」とおもう。
わらいをとろうという こざかしい精神がよろしくない。
サラリーマン川柳なんかに応募するひとの気がしれないし、
ラジオから川柳のコーナーがながれてくると
すぐにちがう番組にかえる。
無知からくる偏見で短歌をとおざけてきたように、
川柳もまたくわずぎらいなのだろうか。
自分のいやな面をみせつけられるから、
川柳をきらっているだけかもしれない。
「さむ」といわれたいのが わたしの本性だったりして。

posted by カルピス at 22:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月23日

『何者』(三浦大輔)自分は何者なのか

『何者』(三浦大輔:監督・2016年・日本)

朝井リョウ原作の作品では、
『桐島、部活やめるってよ』がおもしろかったので、
『何者』もおいかけてみる。
就活がテーマの作品と、あらかじめネタはわかっている。
そこに朝井リョウ氏、そして三浦大輔監督がなにをこめたか。

そういえば、わたしも「就活」をしたものだ。
大学4年生の夏に、大阪のスイミングスクールの試験をうけた。
会社側の担当者として、合否の判断や、
「まことに残念ですが」の通知をおくったこともある。
もっとも、スイミングスクールは ちいさな会社だったので、
『何者』にでてくるような
おおぜいのリクルートスーツの学生には縁がなかった。
採用する側のときは、もっとちいさな事業所なので、
面接といってもおたがいに普段着だった。

たいして熱心に「就活」したわけでもなく、
なかなか「内定」がもらえずに
じわじわあせりはじめる心理状態は理解できない。
ただ、就活がうまくいかなければ、
全人格を否定されたような気がするだろうし、
たとえ第一希望の会社でなくても、
内定をもらえたら 理屈なしでうれしいのはわかる。

ものがたりにでてくる4人の学生は、
それぞれ筋のとおったことをいっているようでも、
じっさいには 行動のともなわない くちさきだけの発言であり、
したしい友人としてふるまいながらも、
お腹のなかはよくわからなかったりする。
冷静な観察者にみえる主人公の二宮拓人は、
ものがたりが終盤にさしかかると、
4人のなかでじつはいちばん問題のある就活者にみえてくる。
他人への拓人の批判は、そのまま自分にふりかかる。

最後の場面で拓人は、
1分間で自分をアピールしてくださいと面接官にうながされ、
とぎれとぎれに自分のことばではなしだす。
就活者がよく口にする 耳ざわりのいいアピールではない。
おもいがあふれてきた拓人は、
1分をこえても はなしをおえられない。
拓人は、演劇にうちこんだギンジとの時間が、
どれだけ意味をもっていたのかをふりかえる。
就活とひきかえに「なかったこと」になどできない 大切な体験であり、
それこそが自分のスタートであったと拓人は気づく。

就活にとりこまれると、しだいに自分をみうしなってゆき、
身もこころも会社にうりわたしてしまいそうになる。
就活のなかで、自分は自分であり、「何者」であるかをしるのが
どれだけたいへんかを この作品はえがいている。
そんな状況だからこそ、ベースとなる 自分は「何者」かを
どうかみうしなわないで、とねがう。

4人とも、ギリギリの心理状態で就活をつづけている。
しだいに自分がなにをしたいのかわからなくなり、
ひとをおもいやる余裕もない。
おいこまれ、あとがなくなってくると、
なりふりかまわず かっこわるさをさらけだすようになる。
かっこわるくしか生きられない。
それでいい。それしかない。

posted by カルピス at 22:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月22日

業務日誌のようなブログがすき

わたしがすきなブログに、
日記というか 業務日誌みたいに、

・朝おきたときの体調
・自家用車による通勤のようす(まわりの景色・渋滞など)
・昼ごはんにコンビニでなにをかったか
・夕方のジョギングの距離とタイム
・夕ごはんのメニューと酒の量

など、日々のようすをこまかく記録しているブログがある。
ときどき個人的な意見がはいるものの、
基本的には「なにをしたか」の記述が延々とつづく。
仕事がきらいなのもわたしとにていて、
あとなんにちでやすみだ、なんて週末にちかづくとかいてあるし、
月曜日はたいていげんなりした気分の告白からはじまっている。
読書量や音楽についての知識、そもそも一般常識も
ふかくわきまえたひとだからこそ、
ただの日記なのにじゅうぶんおもしろいのかもしれない。

わたしはひとがなにをかんがえているかより、
なにをしたか、なにをたべたかに興味をそそられるようだ。
ひとの日記なんて、どうでもよさそうなのに、
どこへいってなにをかい、なにをたべたかを
ずっとつきあってよんでいる。
すこしまえの『本の雑誌』で、日記の特集があったけど、
たしかに日記はよみものとして魅力がある。

この方は、こまめに記録をとるぐらいだから、
自動車の燃費にもけっこうやかましく、
渋滞で燃費がのびないときなど、さも残念そうにかいている。
かとおもうと、まいにちコンビニで
お昼ごはんのおにぎりや缶コーヒーをかっているので、
燃費をうるさくいうのは、
けしてわずかなお金をけちってのことではない。
本来あるべき数字(燃費やランニングのスピード)からとおざかると
おもしろくないひとのようだ。
原理・原則に忠実でありたいひとなのだろう。

わたしもときどきコンビニでコーヒーをかっていたけど、
わたしの場合はただのケチンボだから、
このごろは身の程にあった場所で かいものをするようになった。
たとえばフタをしめるボトルタイプのコーヒーが、
コンビニでは130円くらいするのに、スーパーでは100円をきっている。
おなじものなのに、これだけ値段がちがと わたしには抵抗がつよい。

缶コーヒーはめちゃくちゃ種類がおおく、
かうお店によっても値段がずいぶんちがう。
自動販売機・コンビニ・スーパー・業務用スーパーなど、
とてもおなじ商品とはおもえないほど値段に差がある。
すこしぐらいたかくても、ほしいときにさっとかえるから
コンビニはありがたいのであり、
単純に値段だけでくらべてはお店の「価値」をあやまってしまう。
わたしがコンビニでの缶コーヒーをとりあげたのは、
ただたんに、自動車の燃費にうるさいひとが、
コンビニでのかいものには抵抗がないのを
おもしろいとおもうからだ。

業務日誌なのだから、ネタにこまったりしない。
おなじような日がつづいても、
おなじような日がつづいたとかけばいい。
おなじような日がつづいたという事実が大切だから。
わたしが無理やりネタをいじくりまわす日でも、
このひとは いつものように 業務日誌的な内容を記録する。
そのいさぎよさが うらやましいのかもしれない。

posted by カルピス at 22:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月21日

『おいぼれミック』(バリ=ライ) 岡崎選手の本拠地 レスターが舞台

『おいぼれミック』(バリ=ライ・あすなろ書房)

児童文学の評論家である清水真砂子さんが、
朝日新聞の書評欄で紹介していた。
昨シーズンのイングランド1部リーグで
奇跡とよばれる優勝をはたしたレスターの本拠地がこの本の舞台だ。
レスターはインドからの移民がおおい町で、ホームゲームでは、
ターバンをまいた観客がたくさんうつっていたという。
日本代表の岡崎慎司選手の名前をださず、
移民の町としてのレスターに注目するあたり、
清水さんの斬新な目のつけどころにいつも感心する。

もっとも、本の内容はサッカーと関係なく、
主人公の少年ハーヴェイが、「おいぼれミック」と
いい関係をつくっていくはなしだ。
ミックは 移民がふえたために、
レスターの町がすみにくくなったとおもっている頑固な老人で、
ハーヴェイは、そんなミックと はじめのうちは対立しながらも、
しだいにミックのかかえるさみしさに気づいてゆく。

さきほど、ターバンをまいた観客についてふれたけど、
ターバンは、シーク教徒だけが頭にまくもので、
「訳者あとがき」によると
インドにおけるシーク教徒の比率はわずか2%にすぎない。
インド人といえばターバンだとおもっているのは
かなりかたよったイメージだ。
もっとも、
「現在、海外にいるインド人の3分の1が、なんと、シク教徒」
というから、
日本人がインド人=ターバンとおもいこむのもしかたない。

主人公のハーヴェイがかたるには、
インドでは、人口の大半を占めるヒンドゥー教徒達が、今もカーストというきびしい身分制度にしばられている。そのカースト制度を完全に否定したのがシク教で、身分に関係なく、だれもがみな平等という理念を持っているんだ。

おっかなそうにみえるシーク教徒たちが、
そんなすばらしいおしえにみちびかれるひとたちだったとは。
よみながら、はなしがスムーズにながれすぎる気がしたけど、
ミックとさいごにはいい関係がむすべたのも、
シーク教のおしえをいかす、
ハーヴェイと彼の家族ならではかもしれない。

清水さんは、ロンドンに ムスリムの市長が誕生したと紹介している。
イギリスというと、EUからの離脱をえらんだことから、
保守的なながれをイメージしがたいだけど、
『おいぼれミック』にみるように、
そしてムスリムの市長が生まれるように、
あらたなうごきが着実におきている。
この本をよんでいると、
異文化をうけいれるのがにがてな日本の将来を、
どうしてもおもいうかべる。

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2016年11月20日

一畑電車の無料 感謝デー

松江と出雲を一畑電車という私鉄がむすんでいる。
とちゅうでのりかえると、出雲大社へもいける。
1時間に1本程度、2両編成で宍道湖ぞいを各駅停車ではしる。
きょうはこの一畑電車が、のり・おり自由で無料という
ありえないサービスを、感謝デーとして提供してくれた。

86年ぶりに新造車両を導入する記念だという。
86年まえといえば昭和5年であり、
わたしの母が生まれる1年まえだ。
いまはしっている電車が、
どれも86年以上まえのわけはないのだから、
いったい新造車両とは なにを意味するのか よくわからない。
それにしても、感謝デーとして無料にするのはすごい。
86年ぶりに車両をあたらしくするような会社は、
けしてらくな経営状態ではないとおもうけど、
それをあえて無料にするのは ずいぶんおもいきったサービスだ。
おもわず 倒産まえのヤケクソ企画を連想してしまった。
あたらしく車輌をかうのだから、
しばらくは廃線の心配はないのだろう。
(島根県の江津市と広島県の三次市をむすぶ三江線が
来年度いっぱいで廃線となった。
廃線は、島根県民にとって、ありえないニュースではない)。

きょうは、余暇支援として、事業所を利用する方といっしょに
この一畑電車にのってきた。
「無料」にひかれて お客さんがたくさんつめかけている。
いつもだと、土日でも楽にすわれる のんびりした車内なのに、
きょうはいきもかえりもたったまますごした。
つり革につかまったことなんて、一畑電車では はじめてだ。
都会のひとなら満員電車になれ、すこしぐらい車輌がゆれても
お客さんは無意識のうちにバランスをとっているけど、
島根の人間は 満員電車にたったままのるのになれていない。
高校生ぐらいの女の子が、ちょっとしたゆれに
「オットット」と姿勢をくずしていた。
きょうの感謝デーは、島根県民に、
まさかの満員電車状態を体験させてくれた めずらしい日となる。

この一畑電車のウリは、窓のそとにひろがる景色と、
のんびりした車内の雰囲気にある。
宍道湖をながめながら 電車のゆれに身をまかせていると、
旅行でも、ただの移動でもない、
一畑電車でしか味わえない時間をすごすことになる。
通勤・通学につかう人をのぞけば、
利用者のおおくが出雲大社への観光を目的にしており、
でもあまり華やいだ雰囲気はないのが 一畑電車の特徴ではないか。
もうひとつ、車内に自転車をそのままもちこめるのも
ほかの路線にはないサービスなのだという。
それだけお客さんがすくないのだろう。
もっとも、きょうの感謝デーは、どの電車も満席のため、
自転車はもちこめなかったようだ。

きょうは とにかく一畑電車にのるのが目的だったため、
松江と出雲大社のあいだにある平田までの「おでかけ」とし、
そこで電車をおりて、松江にひきかえした。
松江の始発駅であるしんじ湖温泉駅につくと、
無料の電車をめがけてきた たくさんのお客さんがならんでいた。
無料はそれほど魅力なんだろうけど、
こんなに満員になるのなら、お金をはらってでも
いつものゆったりした一畑電車のほうがいごこちがいいようにおもう。
きょうあつまったひとたちは、無料にひかれただけでなく、
一畑電車ではめずらしい、
おまつり気分をたのしみたかったのかもしれない。

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2016年11月19日

タクシー運転手へのあこがれ

録画しておいた『パルプフィクション』をみる。
すきなシーンだらけのこの作品は、
わたしのオールタイム・ベストだ。
八百長試合なのに かってしまったブッチが
会場ちかくにとまっていたタクシーにのりこむと、
女性の運転手(エスメラルダ)がいろいろたずねてくる。
汗まみれのボクサーを車にのせても
ぜんぜんビビらずに、独特の雰囲気をだしている。
彼女みたいに自分の世界を車にもちこめるのなら、
タクシーの運転手もわるくないとおもいながらこの場面をみる。
そうおもわせるだけのリアリティがすばらしいのか、
わたしが影響をうけやすいだけなのか。
日本のタクシー運転手は、制服をきているせいか、
いかにも仕事ちゅう、というかんじだけど、
外国映画にでてくるタクシーの運転手は普段着のままだ。
気らくな仕事におもえ、わたしもやってみたいとおもう。
この作品にかぎらず、わたしはタクシーの運転手に
無意識のあこがれがあるのかもしれない。

ジム=ジャームッシュ監督の『ナイト・オン・ザ・プラネット』は、
全編がタクシーの運転手と客とのやりとりだ。
ロサンゼルスでは、ウィノナ=ライダーがキュートだった。
映画関係者である客が、運転手のウィノナ=ライダーに
映画にでてみないかとさそうのだけど、
ちょっとかんがえたあとで、ウィノナ=ライダーはことわってしまう。
自分の夢をかなえるためには、
ここで女優をめざすわけにはいかないと、
きっぱりとことわる彼女がすてきだ。
パリでは目のみえない女性をベアトリス=ダルがえんじている。
目がみえないのだから、運転手ではなく、もちろん客の役だ。
運転手が気のどくがってお金をすくなくうけとろうとしても、
そんな同情はうけつけない。
自立したおとなでありたいと、この場面をみるとおもう。
ローマでは、ロベルト=ベニーニが調子のいい運転手としてでてくる。
このひとは、ぜんぜん仕事のことをかんがえてない、
というのがすぐにわかるテキトーな運転ぶりだ。
お客の神父さんにむかって、ただもう世間ばなしを延々とつづける。
これもまた、気らくな商売のようで、わたしむきにおもえる。

映画にでてくるタクシー運転手は、
ほとんど仕事をしているかんじがしない。
会社の車というよりも、自分の車にお客をのせているようにみえる。
もちろん会社の方針はいろいろあるだろうけど、
彼らはひとのいうことなどききそうにない。
きかなくてもいいからタクシーの運転手をえらんだのではないか。
てっとりばやくお金をかせげる仕事として
だれでもはじめやすいのだろう。

タクシーの運転手がでてくる作品といえば
『タクシー・ドライバー』だ。
だれにも干渉されない仕事として
ロバート=デ=ニーロはタクシー運転手の職をえる。
この作品でのデ=ニーロは、タクシーの運転手くらしか
つとまる仕事がなかったのではないか。
それほど孤独で生きづまった雰囲気がたちこめており、
自由で気らくな仕事としてのタクシードライバーにはみえない。

日本映画では『月はどっちに出ている』に
タクシー会社がでてくる。
こちらは日本が舞台だけに 自由さよりも
会社に就職するしがらみのほうがつよい。
こんな仕事をやってみたいとは、この作品をみても おもわない。

このごろは自動運転の車が急速に発展してきており、
あと数年で実用になりそうだ。
山あいの不便な地域では、老人の足として
どうしても車が必要だけど、
わたしが運転手をしなくても、
自動運転の車が配置されていくだろう。
アメリカではスマホのアプリとして
タクシーにかわるサービスが発達しているそうで、
運転手はますます自由にお客を自分の車にのせている。
わたしもウーバーをはじめたいとおもうぐらい、
彼らはたのしく運転しているだろうか。

posted by カルピス at 22:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

林雄司さんの「事実なんて書くな」

自由ポータルZへのコメントで、
林雄司さんがウェブ記事をかくコツについてのべている。
http://portal.nifty.com/cs/fpz/detail/161111198040/1.htm
先日、大学生にウェブ記事の書きかたを教える機会がありました。事実なんて書くな、タイトルは情報でも自分の話を無理やり入れろ、工作が失敗したら落胆を描いてエッセイにしろ、などのテクニックを伝授してきました。
あとから聞いたのですが、その前の講師と言ったことが真逆だったらしいです。

「事実なんて書くな」がおもしろい。
わたしが文章をかくときに気をつけるのは、
わかりやすさはもちろんとして、
「事実をかく」
「ウソはかかない」
がある。
おなじみたいだけど、わたしのなかではビミョーにべつのことだ。
「事実をかく」は、やってないことをかかない。
「ウソはかかない」は、おもってもないことを
もっともらしくかかない、という意味をこめている。
ウケをねらったおおげさな表現は なんとしてもさけたい。

林さんがいう「事実なんて書くな」は、
よむひとをひきつけるためなら なんでもとりいれろ、
という意味ではないか。
事実を淡々とのべていては、
たとえ正確な事実であっても よむひとを退屈させる。
どうやってよむひとを こちらの土俵にひきずりこむかについて、
過激な表現であらわしたのだとおもう。
講義でこんなに刺激的ないい方をされたら、
きいている学生たちはきき耳をたてるにちがいない。

サッカーずきなわたしは、代表戦があると
いろんな記事をネットでさがしてよむ。
活字でも信頼できる記事ならよみたいので、
以前は『サッカー批評』をかっていた
(いまは製作会社がかわり、つまらなくなったので かうのをやめた)。
スポーツ誌では「Number」がよくサッカーの特集をくむけれど、
いくらサッカーについての記事がおおいとはいえ、
この雑誌に独特の文体が気になるのでかわない。
なんとなくもったいぶっているというか、
ちいさなことをつつきまわすセコさが鼻につく。
「Number」がすきになれないのは、
林さんのいう「事実なんて書くな」と関係しているのではないか。
よむひとをおもしろがらせるサービス精神が、
「Number」の記事にはかけている。
うえから目線のかき方がどことなくエリートくさく、
よんでもらう文章になっていない。

posted by カルピス at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月17日

地味な仮装によるボジョレーヌーボー配達

ボジョレーヌーボーの解禁日であるきょう、
わたしがつとめる事業所で、利用者宅へプレゼントをとどけた。
プレゼントのなかみは、
ボジョレーヌーボーとアロマキャンドル、それにローストチキン。
なによりも、おとどけする職員には、
仮装というしばりが かせられている。
先日のブログで予告したとおり、
わたしのペアは「地味な仮装」をコンセプトとし、
クロネコヤマトの宅急便と、ティッシュくばりに「仮装」して
8件の利用者宅をまわった。
もっとも、この「地味な仮装」は
デイリーポータルZによる企画をパクっただけなので、
そのむねをチラシにことわっている。
http://portal.nifty.com/kiji/161101197952_1.htm

わたしたち以外のペアがなににばけたかというと、
芸能界にうといわたしにはよくわからないものの、
意気ごみとケバさだけはじゅうぶんにつたわってくる。
どのペアも手がこんでいて、
手間とお金をかけて準備してきたみたいだ。
仮装.jpg
【優勝ペアの仮装】

わたしのパートナーは、ティッシュくばりに「仮装」しようと、
ひざうえのスカートをあたらしくかい、
ハッピをはおってきた。
どこの駅まえにだしても ティッシュくばりにしかみえない。
わたしは、まえからもっていた黒のウィンドブレーカーに
帽子をかぶっただけ。
ただ、帽子と胸にはクロネコヤマトのトレードマークである
親子のネコをはりつける。
あとは、それっぽくみえるように アマゾンの小箱を用意して、
宅急便の荷物らしくボジョレーとチキンをいれた。

あまりにも地味な仮装に、配達さきの方を
がっかりさせないかすこし心配だったけど、
どのお宅でも好意的な感想をいただいた。
わたしが玄関のベルをならし、
「こんにちはー、宅急便です!」と声をかけると、
たいていのお宅で ほんものの宅急便だとおもい
ドアをあけてくれた(あたりまえか)。
あるお宅では、気の毒に わたしたちよりもハデな仮装で
にぎやかな配達をまってくれていた子がいた。
わたしたちのおもいがけない「地味な仮装」は、
技ありのヒザうらカックンだったみたいだ。
わたしがアマゾンの箱にはいったプレゼントをわたし、
パートナーがティッシュといっしょに「地味な仮装」の
コンセプトをかいた説明書を手わたす。
こうして8件の利用者宅を1時間半でまわり、
事業所へもどった。

事業所では、配達をすませたペアがあつまって、
記念撮影のさいちゅうだった。
仮装にあわせた動作としゃべり方になるようで、
ハイ状態の職員たちが にぎやかに感想をつたえあっている。
わたしたちの仮装は、このときはじめて
ほかの職員へのお披露目となる。
地味すぎる仮装がヒンシュクをかうかとおもったのに、
利用者宅につづき 職員たちも、わたしたちの仮装に感心してくれる。
わたしは「ほんものの宅急便のひとみたい」と
なんにんもの職員から声をかけられた。
「地味な仮装」は、おもいがけない角度からの仮装だったみたいだ。

最後に職員の拍手によって印象的なペアをえらぶ。
わたしたちは、ありがたいことに
準優勝という名誉ある賞をいただいた。
ハデなペアをおしのけて、わたしたちのような
地味な仮装が評価されたのは まことによろこばしい。
このようにして、準備30分、費用ゼロ円のわたしの仮装は無事おわり、
職員にも用意されていた新酒のボジョレーをおいしくいただいた。

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2016年11月16日

音楽を志したわかものたち

利用者を自宅におくって職場にもどるとちゅう
車でラジオ番組をきいていると、
若手のバンドが自己紹介をしたあとで(録音)、
彼らの曲がながれてくるコーナーによく時間がかさなる。
まったくのペーペーではないにしろ、
そこまで有名ではないバンド
(わたしがしっているバンドは、いちども登場したことがない)。
わたしが名前をしらないだけで、
そこそこファンがついているグループもあるみたいだけど、
それにしても「メジャー」とはよべないレベルではないか。
わたしにしてみれば、どの曲もにたりよったりで、
ほとんどグッとくることはないけれど、
たくさんのグループが、メジャーデビューをめざして
ライブやアルバムづくりにうちこんでいるのにおどろいている。

彼らは自分の生きかたとして、音楽をえらんだひとたちだ。
芽をだすのは、だれがかんがえてもむつかしそうなのに、
就活などしないで、自分たちの音楽センスにかけた。
夢をおいもとめる、というとかっこよくきこえるけど、
じっさいにバイトでくいつないだり、
ビンボー生活にたえて音楽をつづけるのは
そうかんたんな人生ではないはずだ。
親や学校の先生はとめただろうに、
それでも音楽をつづけずにおれなかった
彼らの「青春」に、陰ながら拍手をおくっている。
日がわりのコーナーで毎日紹介しても、
きいたことのない名前ばかりがならぶほど、
音楽をやりながらも、まだそれほど有名でないバンドが
こんなにたくさん活動しているのだ。
おなじような意味で、マンガ家や小説家をめざしたり、
演劇にうちこんでいるわかもの
(もうあまりわかくはないひとたちもふくめ)や、
スポーツで人生をきりひらこうとするひとたちもいる。

冒頭にかいたラジオ番組では、
自己紹介にからめて「ガッツのみなもと」を
それぞれがかたっている。
お客さんのよろこぶすがた、という正統派がいれば、
お肉とかお米とか、
文字どおりエネルギーの「みなもと」にふれるひともいる。
ふかくかんがえているひとや、きわめてチャラいひとも。
彼らのはなしをきいていると、わかさのいきおいだけで
いまの活動をつづけているみたいだ。
それができるのも、わかいからであり、
けしてかるくてつまらないとはおもわない。
数年後にどれだけのグループが生きのこっているだろうか。
それでも手をぬかないでつづけていけば、
きっとなにかがひらけるから、と応援したくなる。
たとえながくはつづかなくても、一生懸命に生きた時間は
貴重な財産になるだろう。
もしもむすこが音楽や演劇をやりたいといいだしたら、
たべていくむつかしさをおもいながらも、
わたしには、自分の責任でしっかりやれ、としかいえない。

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2016年11月15日

Wカップアジア最終予選、対サウジアラビア戦。よわい代表だからこそチームがまとまった

Wカップアジア最終予選、対サウジアラビア戦。
ことしさいごの代表戦であり、
最終予選のおりかえし点でもあるこの試合に、
日本はなんとか2-1で勝利をおさめる。
もしまければ、Wカップへの道が
かなりあぶなくなったろうし、
選手(と監督)たちは かなり自信をうしなっただろう。
とにかく かててよかった。

ハリルホジッチ監督が就任したてのころは、
球際のつよさとたてにはやい攻撃をキーワードに、
さっそうと日本代表にあたらしい風をふきこんだ。
それが、いつのころかボタンがかけちがえられたみたいに、
すっきりかてない試合がおおくなる。
あっという間に 監督の魔法がとけてしまったかんじだ。
格下のチームが相手でも、
シュートを何十回もけりながら点がはいらない。
いまさらながら かなり重症な決定力不足があきらかになる。
代表チームは、こんなによわかったのかとがっかりしたけれど、
ファン心理とはへんなもので、
かえって応援に熱がはいるようになった。
こんなよわい代表は、わたしがささえないと どうにもならない。
今夜もそわそわと7時半をまつ。

先月おこなわれたイラク戦の日は、
たまたま仲間3人で鍋をかこもうとしていた。
ときにはほかのひとといっしょに
代表戦を応援するのもわるくないだろう。
でも しりあいの家につくと、そこのテレビはBSがうつらなかった。
できれば民放はさけたかったけど(やたらうるさい解説なので)、
音をけしてみればいいかとおもったら、
朝日系はうつらないから けっきょくイラク戦はみられないという。
代表戦の日にのみ会を企画しておきながら、試合をみられないなんて、
なんてひどい「招待」かとわたしは逆上し、
のみ会をまさしくドタキャンして家にひきかえた。
よわい代表は、ときには友情にもヒビをいれてしまう。

今夜のサウジアラビア戦は、
どうしてもまけられない試合であり、ハリルホジッチ監督は
これまで常連だった香川・本田・岡崎をベンチスタートさせている。
かわりにはいったのが清武・原口・大迫・久保で、
とくに久保は、4日前のオマーン戦がデビューであり、
世代交代をかんじさせる試合だ。

いまの日本の選手と監督は、アジアにおいてさえ、
自分たちがつよいチームなんて まちがってもおもってないので、
真剣に相手にぶつかっていき、どろくさくボールをまえにはこぶ。
すこしまえの代表が、きれいにパスをまわし
完全にディフェンスをくずしてゴールをねらっていたのと
ずいぶんちがう。
前半の終了間際にPKを獲得し、清武がおちついてきめる。
まず1点。
清武はベンチにかけより、
ひかえ選手たちとだきあってよろこんでいる。
ハリルホジッチ監督もうれしそうだ。
だれもが今夜の試合をおもくうけとめているので、
とにかく1点とれたことを率直によろこんでいる。
アジアではトップクラス、なんてうぬぼれていない代表チームは、
それだけ謙虚さも身についたようで、
その貧乏くささがわたしには好感がもてる。
2点目は、古株の本田→長友→香川がつないで、
うりだしちゅうの原口がきめた。
チームがひとつにならないと、
いまの代表にはかちぬくだけの実力がない。
余裕がないところが、かえってチームづくりに
いい影響をあたえているようにみえる。
よわさを自覚したからこそ たてなおしがうまくいった。

posted by カルピス at 23:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月14日

『泣いたの、バレた?』酒井順子さんによる 男たちを対象にした女性学講座

『泣いたの、バレた?』(酒井順子・講談社文庫)

酒井さんは以前、気のよわい女はいない、と
男たちにおしえてくれた。
今回の『泣いたの、バレた?』では、さらにつっこんで、
男にはわかりにくい女性の気もちをあかしてくれる。
この本のタイトルから想像されるのは、
小保方さんの釈明会見だろう。
酒井さんは小保方さんがひらいたこの会見を
「失敗だった」とみている。
オボちゃん(小保方春子さん)というのは、ヤワラちゃん以來、久しぶりに登場した「女に嫌われる女」であるわけですが、彼女達は何故そうなのかというと、女子校的環境にいたことがないせいで「女性の視線管理」に慣れていないためではないかと思われる。(中略)
対してオボちゃんはまた、泣き方も「メイクを崩さずに泣く」という女ウケしないもの。天に向かい、思いを噴出させるように泣いた真央ちゃんとの印象は、かなり違いましょう。

卵子老化の項では、
「(妊娠)したいのは山々!啓蒙するなら男性をしてほしい!」
というのが、多くの女性達の意見かと思います。何せ女性は、役割としてはキャッチャー側であるわけで、ピッチャーが「投げる気ないっす」「面倒臭いっす」といっているのに、
「さあ来い!」
とミットを叩いても、虚しいだけなのですから。

女性にミットをたたかせるなんて、
いまのわかい男たちはなにをやっているのか。

ロンブー淳さんをしとめた女性について、
酒井さんならではの視線で分析をくわえている。
様々な浮名を流したロンブー淳さんが結婚したお相手は、今時珍しい貞女。夫が何時に帰ってきても起きて待っているし、もしも夫が浮気をしたら「一緒に反省する」というのです。
その話を聞いて、男女の反応は分かれることでしょう。(中略)そして女性の場合は、「すごいテクニックだ!」と思うのです。
それはすなわち、嫁テク。(中略)
ぼーっとしているだけでは決して結婚できない現代において、テクニックを隠さずに嫁の座を獲得しようとする女性というのは、むしろスポーツマンのようで清々しい、と。
「確かにそうね。それも、ロンブー淳のように、結婚しても幸せになれるかどうかわからない人とあえて結婚するというのは、相当な猛者なのかもしれない」
「ていうかさ、色々な人が挑んでも結婚までいかなかった男性を前にした時、彼女のアスリート魂に火がついたんじゃないの?」

わたしだったら、おそくまでまってくれるのは、
うれしいよりもプレッシャーだし、
浮気を「一緒に反省」されたら
ギャーッとさけんでしまいそうだ。
酒井さんは「すごいテクニック!」と
まったくこころをうごかさないで、
嫁の座をいとめた女性のテクニックを、冷静にみやぶり、
アスリート魂と位置づける。

酒井さんによる女性心理の解説がなければ、
女うけしない泣き方がどのように失敗だったかとか、
ロンブー淳さんをしとめた女性を
「すごいテクニックだ!」
というふかいよみは、わたしにはとうていできなかっただろう。
週刊現代に連載されている酒井さんのこのエッセイは、
男たちが気づかない女性の心理を 親切におしえてくれる。
中年のおじさんよりも、わかい男たちにこそ
このシリーズに目をとおしてほしい。

posted by カルピス at 22:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 酒井順子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月13日

おとこ親とむすことの関係はむつかしいらしい

職場の同僚とはなしていて、
おとこ親とむすことの関係はむつかしい、
というはなしになった。
そのひとの家では、むすこさんがお父さんを
ただうるさい存在としかおもってないそうだ。
わたしの家はどうだろう。
むすこはよくはなすタイプではないけれど、
かといってわたしをうっとうしがってはいないのではないか。

「うちは あんがい いいかんじですよ」と
その場からはなれたあとで、
よくかんがえたら ぜんぜんひとごとでないのに気づいた。
「うちは いいかんじ」どころか、
わたしと父親こそが、まったくうまくいってない例ではないか。
父親はうるさい存在というよりも、ただイヤなやつときらってしまい、
はなからみくだして、あいてにしなかった。
いつからそんな関係がはじまり、
どうしてそうなったのかはわからない。
わたしが小学生のときすでに、
つまらんことをいうやつだ、とだいきらいだった。

わたしの父親は中学校の教師をしており
(10年まえになくなった)、
よくしられているように、
教師の子どもはうまくそだちにくいらしい。
わたしは、父親が教師であることなど関係なく
どんな職業についていようが断固として
父親を否定してきたつもりだ。
父親は、頭ごなしにどなりつけるタイプではなく、
でも わかったようなことをいうのがよけいに腹だたしい。
ちからでおさえつけられたら、わたしはさっさと家をでて
ひとりでいきる道をさがしただろうに、
へんにあまいものだから むすこ(わたし)がつけあがって
家でいいようにふるまってしまう。
もうすこしで家庭内暴力へとすすんだケースかもしれない。
心理学的にはどういうのかしらないけど、
むすこにとって父親は、のりこえていく対象であり、
うまくいかなくてあたりまえと、容赦なくきらっていた。

子どもがちいさいころは、
ただかわいがればいいので対応はむつかしくない。
ややこしくなるのは 思春期のころだろう。
わたしが仕事でときどき中高生とせっすると、
どうはなしていいのか まったくわからなくて おてあげになる。
理屈をきいていると、中高生のいいぶんがただしそうだけど、
かといって、わかったような顔をすると
いいようにふりまわされてしまう。
相手の気もちを尊重しつつ、
こちらの都合もちゃんとつたえるのは とてもむつかしい。
親たちにすれば はじめての子そだてであり、
自分の子どもと どうせっしていいかわからない。
子どものほうは、そんな事情などさっしてくれないし、
あゆみよるつもりはまったくない。

わたしは、失敗だった父親との関係からなにかをまなび、
むすことは わるくない関係をきずけたとおもっているけれど、
修羅場はこれからやってくるのかもしれない。
わたしが父親をあまりひどくいうので、それをきいていたひとが、
そんなことをいっていると、
あなたがむすこさんに おなじような対応をうけるよ、
とおどかされたことがある。
わたしとむすことの関係は、
まだ結論がでていないと みたほうがいいだろう。

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2016年11月12日

『おなかのすくさんぽ』(片山健)山のどうぶつたちに からだをなめてもらえたら

『おなかのすくさんぽ』
(片山健・福音館書店)

図書館の子ども室をあるいていたら、
『この本読んで!』という よみきかせの情報誌があり、
片山健さんを特集していた。
片山さんの絵本といえば
『どんどん どんどん』や「こっこさんシリーズ」を
むすこによみきかせたもので、
この特集では『おなかのすくさんぽ』が紹介されていた。
いつもながら迫力のある絵に、よんでみたくなる。
『おなかのすくさんぽ』にでてくる男の子は、
『どんどん どんどん』とおなじ子なのだそうで、
片山さんのむすこさんがモデルだという。
おなかのすくさんぽ.jpg
男の子がどろだらけになって くまやいのししなど
山の動物とあそびまくる。
さんざん山や洞窟を探検したあと、
さいごには、川でみずあそびになり、
からだをきれいにしたところで、
「ちょっとだけ なめていーい?」と
男の子は動物たちにせがまれる。
「ちょっとだけだよ」と
くまやいのししになめさせてやると、
はじめはペロリだったのが、だんだんあまがみにうつり、
へんな雰囲気になってきた。
やがてみんなのおなかがグーグーなりだす。
野性のどうぶつたちと、男の子の関係が
なんだかあやういかんじになるのがたのしい。

『おなかのすくさんぽ』をよんでもらった子は、
おとなからの愛情をたっぷりうけとった満足感から、
おなかがいっぱいになるのではないか。
大冒険のあと、家にもどって
お母さんとお父さんにだっこされ、
安心しきってあまえられたらすてきだ。

むすこがまだちいさかったころ、
『どんどん どんどん』をよみきかせしたら、
なきだしてしまった。
男の子がすさまじいいきおいで
どんどんあるいていくエネルギーに圧倒されたのだとおもう。
ゴジラみたいな怪獣があばれたり、
核戦争がはじまったみたいな荒野を
男の子がどんどんあるきつづけたるのだから、
あの絵本をよんでもらってよろこぶには、
そうとうなちからが必要かもしれない。

ほかにもむすこがなきだした例では、
『千と千尋の神隠し』がある。
むすこにせがまれ ふたりでみにいったら
(わたしはすでにみおえていた)、
はじまってまもなくの場面で 千尋の両親が豚にかわっていき、
それがむくすこはこわくてなきだしてしまった。
この場面は、町ぜんたいがあやしげな雰囲気になり、
いかにもおっかないものがたりに 千尋がふみこんでいきそうだ。
むすこでなくても なきだすのがただしい反応かもしれない。
とてもこのままみつづけられるようすではないので、
ほんの15分か20分みただけで席をたつ。
いちどみていたとはいえ、
ふたり分のチケット代はやすくはなく、
かなり残念なおもいで映画館をあとにした。

すぐれた作品は、ときには子どもをなきださせてしまう。
絵本や映画に なきだすほどの
ゆたかな感受性をそなえていたむすこは大学生となり、
たっぷりと親からの愛情をうけとったせいか、
大器晩成型らしい おだやかな人生をあゆんでいる。

posted by カルピス at 21:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月11日

地味な仮装での訪問に、ご理解・ご協力を

わたしがつとめる職場では 10年ぐらいまえから
ボジョレーヌーボーの解禁日に
利用者の家へプレゼントをとどけている。
プレゼントは、ボジョレーと、
事業所でつくっている小物類だ。
ことしもまた、職員ふたりが組になって、
利用者のおうちをまわることになった。

問題は、ただボジョレーをとどけるのではなく、
なにかの仮装をして、というひねりがもとめられる点にある。
全員がサンタさんのかっこをした年もあったけど、
いつしか仮装にかわってしまった。
仮装はだんだんハデになり、こったペアになると、
衣装や化粧を工夫して、とにかくわらいをとろうとする。
わたしの相棒は、吉田くんとレオナルド博士、
という案をしめしてくれたけど、
いくらしまねの吉田をなのっているわたしとはいえ、
吉田くんの仮装なんてしたくない(にくらしいだけだから)。
ここはくるしまぎれに「デイリーポータルZ」をパクって、
「地味な仮装」でごまかすことにする。
http://portal.nifty.com/kiji/161101197952_1.htm

「地味な仮装」とはなにか。
魔女やマリオなど、ハデは仮装だけが仮装ではない。
というか、すなおに仮装できない めんどくさい人間のために
デイリーポータルZが提案している ちょっとひねった仮装だ。
いまさら魔女やマリオ、
それに血をながしたリアルなゾンビなんて ひとさわがせなだけだ。
いまこそおとなの仮装をじっくり味わってもらおうではないか。
というわけで、
わたしのペアは、クロネコヤマトの宅配便と、
ティッシュくばりの「仮装」をえらんだ。

デイリーポータルZがひらいた地味な仮装のパーティーでは、

・キャバクラのチラシくばり
・無印のカタログにのってる家族
・美容院の客
・つけ麺屋の主人
・バスケ部のコーチ
・ヤンキー
・妻の出産につきそう男性
・駐車場の誘導係
・ティッシュくばり
・爆買いする中国人にインタビューするひと

などに仮装したひとがあつまったそうだ。
地味な仮装なのだから、
わたしがいつもの服をきて玄関ぐちにあらわれて、
「介護事業所の職員に仮装しました」
といってもいいわけだけど、
あんまり手をぬくと せっかくの企画に水をさして
ほかのペアからヒンシュクをかってしまう。
地味ながら いちおう仮装だけはちゃんとするよ、と
理論に武装されながら、あくまでも弱気なペアが誕生しそうだ。
クロネコヤマトのユニフォームをしらべると、
みどりのジャンパーとうすい茶色のズボンがおおい。
みどりのジャンパーはもってないので、
青のウィンドブレーカーで代用する。
みどりの帽子もないけど、
帽子にクロネコヤマトのワッペンをはりつけたら
なんとかごまかせるのではないか。

ことしのボジョレーヌーボーの解禁日は11月17日だそうで、
のこされた時間は わずかしかない。
あと1週間でもうすこし準備をすすめ、本番にいどみたい。
おとどけ先の利用者宅では、
プレゼントをもってきたペアの仮装が採点され、
いい点をあつめたペアには
理事長賞として 豪華食事券のごほうびがある。
「地味な仮装」という変化球は どううけとめられるだろうか。
うまくいったら 来年もこの手でごまかしたい。
そうやって だんだんとおとなの仮装が主流になるよう ねがっている。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする