『セブン・イヤーズ・イン・チベット』
(ジャン=ジャック=アノー:監督・1997年・アメリカ)
いまさらながら『セブン・イヤーズ・イン・チベット』。
1997年というから、20年ちかくまえとの作品だ。
カゼをひいたので予定していたジョギングをとりやめ、
かわりにDVDをかりてきた。
とくにかりたい作品をきめていたわけではなく、
なんとなく『セブン・イヤーズ・イン・チベット』をえらぶ。
カゼですっきりしない頭は、
おもいがけない作品に目をむけたりするから、
ときには体調をくずすのもわるくない。
こんなことをかいてもしょうがないとおもいつつ、
登場人物が英語をはなしたときから
ストーリーよりも英語にばかり意識がむかってしまった。
主人公のハラーはオーストラリア人なのに、
妻との会話だけでなく、
ドイツ人がたくさんいる駅のみおくり風景も、ぜんぶ英語だ。
ナンガ=パルバットをめざすドイツの登山隊なのに、
隊員がはなすのは英語。
ものがたりはどんどんすすんでいき、
捕虜収容所から脱走したハラー(ブラッド=ピット)は
ようやくチベットのみやこラサにたどりつく。
なんということか、そこでも英語をはなすひとがあらわれ、
ハラーたちをたすけてくれる。
そして、ポタラ宮にまねかれると、
そこでの公用語はどうやら英語のようで、
会議や大臣への報告が英語でおこなわれている。
おさないダライ=ラマさえ英語をはなす。
チベットの文化やラサの町のようすなど、
興味ぶかい映像があるものの、
わたしはずっと英語にひっかかりつづけた。
英語だろうが、チベット語だろうが、
わたしが理解できないという点では
何語でも関係ないともいえる。
しかし、わたしがもとめるのは ようするにリアリティであり、
チベットの庶民たちが主人公にあわせて英語をはなす状況を
すんなりうけいれるわけにはいかない。
アメリカ製映画のご都合主義には
いつもうんざりさせられており、
その典型がこの『セブン・イヤーズ・イン・チベット』だ。
この作品がつくられてから20年がたち、
状況はなにかかわったのだろうか。