ラジオで「音のある風景」という番組をきいていたら、
和紙をすく風景を紹介していた。
「全神経をつかう仕事です」とナレーションがはいる。
情緒にうったえているようで
すこしおしつけがましさをかんじる。
よくかんがえてみると、「全神経をつかう」は
あんがい意味不明なことばだ。
神経をつかう仕事、ならわかる。
でも、すべての神経をつかっているのか、
1/3の神経だけをつかっている場面なのかが、
本人にも、もちろん他人にもわかるわけがない。
「全神経」って、ひとのからだには
いったい何メートルあるのだろう。
「神経をつかう仕事、ならわかる」とかいた。
でも、これまたちょっとかんがえたら、
そのとき自分は神経をつかってると、
なぜひとはかんじるのだろう。
さらにいえば、神経をつかうとは、どんな状態なのか。
日常生活において、わたしはわりと
いろんなことがどうでもいい人間なのに、
ときどきこんなかんじで
ふつうにつかっていることばにつまずくときがある。
そんな重箱の隅をつつくようなマネは、とかいて、
じっさいに重箱の隅をつついたことがないのに、
この表現をつかっていいのかどうか さっそくひっかかる。
こうなると神経質というか子どもっぽいというか、
かんがえがなかなかさきにすすまない。
よくきく表現で、
「まるで戦場のようでした」もどうかとおもう。
戦場をじっさいに体験したひとにしか
つかえないことばではないだろうか。
正確さをたかめるには、
「映画でみた戦場のようでした」とすれば
わたしみたいな 人間でもひっかからない。
できれば作品名まであかすと完璧だ。
ほんとうにその作品とぴったりいっしょな状況でなくても、
あるおそろしい場面を体験したひとが
そのときにどうかんじたかを、きく側が想像できる。
だんだんと、ことばをつかうむつかしさに
がんじがらめになってくる。
そんなことをいいだしたら、
いろんなことばが問題をかかえている。
「一生懸命はしる」の一生懸命って、
よくかんがえると意味がわからない。
一生懸命って、いったいなんだ。
だんだん病的なこだわりになっていき、
究極には、ひらがなの「あ」は、
なぜこのような形をしながら「あ」とよむのか、
なんてイチャモンをつけるようになるかもしれない。
自分がなににつまずいているか、秘密にしておかないと、
あやういところまできているのかも。