2016年12月31日

『フロム・ダスク・ティル・ドーン』

『フロム・ダスク・ティル・ドーン』
(ロバート=ロドリゲス:監督・1996年・アメリカ)

タランティーノ作品がすき、としりあいにはなしたら、
『フロム・ダスク・ティル・ドーン』をおしえてくれた。
監督はちがうひとだけど、
タランティーノがちょこちょこでてくるという。

みてみると、ちょこちょこどころではなかった。
兄弟の強盗犯の弟やくで、かなりいかれた性犯罪者だ。
弟の気もちわるさにくらべたら、
残虐な兄(ジョージ=クルーニー)のほうが、
よっぽどまともな人間におもえてくる。
脚本はタランティーノで、自分がえんじる役を
めちゃくちゃな人間に設定して たのしんでいるみたいだ。
(以下ネタバレあり)

兄弟は にげながらさらに犯行をかさね
トレーラーハウスで旅行する牧師一家をまきこんで
メキシコへにげこんだ。
国境ちかくの店で仲間とまちあわせ、金を山わけする手はずだ。
その店がまたとんでもない店で、
いかがわしさ てんこもりの性風俗のデパートになっている。
兄弟はそこでもあいかわらずむちゃをつづけ
さわぎをひきおこすうちに、
その店全体がバンパイヤの巣窟なのをしる。
そこからはじまる映画の後半は、
前半とまったく雰囲気をかえ、
バンパイヤとのたたかいがえが延々とえがかれる。

牧師(ただしくは元牧師)役がハーヴェイ=カイテルで、
牧師の正義感からか、悪人をまえにしても あんがいつよい。
あのきちんとした仕事をするひと(をえんじるひと)が、
まじめな顔でバンパイヤ退治にのりだして、
即席でつくった十字架をふりまわすのが なんだか気のどくになる。

バンパイヤとのたたかいはきびしく、
けっきょく生きのこったのは
犯罪者兄弟の兄(セス)と、牧師一家の女の子だけだ。
みよりのなくなった女の子は、あろうことか、セスに
「わたしもつれていって」といいだす。
セスはめちゃくちゃな人間だけど、筋をとおすひとでもあり、
女の子のもうしでをことわって、かわりにまとまった金をわたす。
どろぼうにむかって「わたしもつれていって」は、
『カリオストロの城』をおもいださせる。
ラストだけ、ほんのすこしさわやかさをかんじる、
でも全体としてはみおわったあとヘトヘトになる
クセのつよい作品だ。

ランニング仲間に『パルプ・フィクション』をすすめたら、
あの世界にはいれなかった、といわれたことがある。
たしかにみるひとをえらぶ作品だけど、
わたしはだいすきなので その評価はすこし残念だった。
でも、『フロム・ダスク・ティル・ドーン』のあとでは、
そうした感想もよくわかる。
『フロム・ダスク・ティル・ドーン』は、
おもしろい作品ではあるものの、評価はかなりわかれるだろう。
自分でみた体験にとどめ、ひとにすすめるのはやめておこう。

posted by カルピス at 09:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月30日

ピピからのプレゼント

朝7時にピピのこえで目をさます。
このごろコタツのなかですごす時間がおおく、
わたしのベッドにきてくれなくなった。
口内炎がよくないのか、ごはんをたべる量がへっている。
これまでなんどもむかえてきた危機的な状況を、
いままたむかえているようだ。

げんきにすごしているときは、
2時間おきのおしっこにおこされるのを
ブツブツいっていたけれど、
まったくいっしょにねてくれなくなると、
それはそれですごくさみしい。
パジャマにしみこんでくる おしっこのつめたさで目をさまし、
さむいなか きがえたことさえなつかしくなる。
ピピがげんきでいてくれたら、
パジャマのうえでのおしっこがなんだというのだ。

今朝のピピは、ないてわたしをおこしたあと、
ふとんにもぐりこんできた。
ノドをならし、わたしの顔にはなをすりよせてくれる。
ごはんをすませてきたようで、
くちもとからモンプチのにおいがする。
いつもといっしょがいちばんうれしい。
ピピといっしょに しばらく2どねする。
2年半まえに口内炎をわずらってから、
なんどもおわかれを覚悟したのに、
ヘロヘロになりながら
いまもこうしていっしょにいてくれるピピ。
いちばんのプレゼントは、ピピの健康をふくめた
平凡な日常生活だとおしえてくれる。

posted by カルピス at 10:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月29日

『予言者 梅棹忠夫』(東谷暁)

『予言者 梅棹忠夫』(東谷暁・文春新書)

本書の広告をみたときは、
梅棹さんが予言者とよばれるのにひっかかった。
梅棹さんとしたら、予言が目的ではなく、
世界のうごきを観察し、自分の論理とてらしあわせ、
みちびきだされた結果としての 歴史的必然だったはずだ。

でも、とおしてよんでみると、一冊の評伝として
梅棹さん像が、よくまとめられている。
著者の東谷さんは、梅棹さんが設立した事務局につとめた経験があり、
世間でいう「予言者」とちがうのは よくわかっているひとだ。
梅棹さんについて、つけやき刃でまとめた本ではなく、
とおすぎず、ちかすぎもしない距離から、
梅棹さんの仕事をみてきた 編集者としての視点がいかされている。
こ梅棹さんについてかかれた本のおおくは、
文化人類学や知的生産にかんするもので、
東谷さんがいう
この本で試みたのは、言論人としての梅棹忠夫、思想家としての梅棹忠夫、文化行政プランナーとしての梅棹忠夫について

は、あまり目にする機会がない。
梅棹さんが、文化行政の主導者として 人脈や権力をいかしながら
どのように政治家や行政へ はたらきかけたかにもふれてあり
これまでの評伝にはない梅棹さんがしるされている。
梅棹さんは、おおくのプロジェクトにかかわりながら、
関係者にたすけられ、非常にスムーズに
ものごとがはこんだようにかくけれど、
いつもそんなときばかりではないはずだ。
この本には、編集者からみた梅棹さんの一面が紹介されており
かなり強引な発言もあって興味ぶかい。

わたしがすきな『わたしの生きがい論』からの引用がおおく、
日本の将来をかんがえるうえでのヒントとなっている。
エアコンのきいたいごこちのいい小屋でねむる豚が、
ふたたびキバをとりもどすかどうか、
こたえはあと数年のうちにあきらかになるだろう。

わたしは、漢字をつかわない文章など、
梅棹さんの影響をつよくうけたけれど、
この本をよむと、ひとりの梅棹ファンにすぎないのだとわかった。
ファンでしかない。
わたしからみると、梅棹さんなしで(「生きがい論」・知的生産など)
生きていけるひとが不思議におもえるけど、
そんなのはいちファンとしての心情であり、
客観的にいえば、世間一般での「梅棹忠夫」は、
もはやわすれられている存在なのかもしれない。
そんな梅棹さんを、本書はいままたとりあげ、
これまでの仕事をとらえなおす機会となった。
ひとりの梅棹ファンとして、
おおくのひとによまれるようねがっている。

posted by カルピス at 21:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月28日

グルテンフリー

本屋さんで『ジョコビッチの生まれ変わる食事』を
ペラペラめくっていたら、
グルテンフリーについてかかれていた。
小麦粉のはいったものをたべない食事だ。

何年かまえから「低炭水化物食」がもてはやされているけど、
いまはそれをさらにすすめて
「日本人はパンをたべるな」みたいな本を
みかけるようになった。
高炭水化物なうえに、小麦粉にふくまれるグルテンが
からだによくないらしい。
むかしから米をたべてきた日本人には、
遺伝的な体質から、とくに小麦粉があわないという。

ジョコビッチの本によると、
グルテンフリーにかえてから、からだの調子がよくなり、
2週間目からはさらに乳製品をやめたら
もっとキレキレにうごけるようになったとある。
パンやパスタなど、小麦を原料したものがたべないで、
良質の肉と油からカロリーをとる。

お金があるひとは、良質の肉を、なんていってられるけど、
一般人はそんなぜいたくをいってられない。
やすくてかんたんに手にはいる材料で
なんとかするしかない。
「ジョコビッチの食事」は
ジョコビッチの経済力があって はじめて可能となる。
やすい肉やあぶらが、どんな環境で生産されているかをかんがえると、
グルテンフリーだからといって、
かんたんにはすすめられないのでは。

わたしがつとめている介護事業所ではクッキーをつくっており、
その材料に小麦粉ではなく米粉をつかっている。
ジョコビッチがグルテンフリーの概念をひろめてくれたので、
ことばだけでもグルテンフリーを おおくのひとがしっている。
グルテンフリーの食事、というとめんどくさそうだけど、
グルテンフリーのクッキーは あんがいクールにひびく。

きょうは、毎週でかけている市役所へ、
クッキー販売におじゃました。
クッキーのはいったカゴをもって ひと部屋ごとにたずねると、
いつもよりお客さんの反応がいい。
まってました、というかんじで
クッキーのまわりにあつまってこられる。
グルテンフリーのおかげ、ではなく、
仕事おさめの12月28日なのがよかったみたいだ。
ことしさいごのクッキー販売なので、
まとめて数袋をかってくれるひとがおおかった。
グルテンフリーだから米粉のクッキーをえらばれたら、
ゆれうごく栄養学の 限定的な解釈につけこむみたいで
あんまりいい気がしないかもしれない。
たんじゅんに、おいしいからかってもらえたほうがうれしい。

posted by カルピス at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月27日

二股はただしいというネッシーあやこ氏に共感する

デイリーポータルZに
2016年「ライター」記事総集編がのっていた。
よくおぼえている記事もあるし、みおとしていたものもある。
ネッシーあやこ氏の
「それ、迷ってるのなら2個たのんでみよう」は、
http://portal.nifty.com/kiji/160218195759_1.htm
まえによんだ記憶がないけど、
きっとよんだ当時は 設問のふかさに気がつかなかったのだろう。
いまわたしがかかえている問題意識に ぴったりくる記事であり、
自由とはなにかをかんがえさせてくれる。

たとえばスタバのコーヒーとフラペチーノの
どちらにするかまよっているのなら、
両方たのんじゃえば、という提案だ。
よくばりなようでいて、
あんがいおもいつきにくい盲点をついている。

おとながいは、わたしの定義によると、
あるシリーズをぜんぶまとめてかうことであり、
いっぽう「2個たのんでみよう」は
どちらかひとつをえらばなければならないと
おもいこんでいるけど、
ほんとうにわたしたちは「1つだけ」しか選べないのだろうか。

という疑問がベースにあり、
おとながいよりも もうすこしささやかなかいものだ。
わたしたちは、
「二兎追うものは一兎をも得ず」のことわざを
たいしてためさないうちから
リスペクトしすぎているのではないか。
人生はみじかく、のこされた時間はどんどんすくなくなる。
ちまちました選択になやむくらいなら、
両方をえらぶのが あんがいただしいのでは。

AとBしか選択肢がないかとおもっていたとき、
あんがいどちらでもないCが正解という場合がある。
どちらかしかないとおもうから、
かんがえがせまくなるのであり、
がらっと発想をかえると すんなりおちついたりする。
フランスへいくか、タイへいくかなやんでいたけど、
旅行へいかない手があった、というときだ。
ところが、ネッシー氏の記事は、AかBかではなく
AとBの両方をえらぶ手があるというのだから、
欲望への忠実さにわくわくしてくる。
まよいは不自由な精神をあらわしており、
まよいからこころをときはなてば、
そのまま自由へとつながっていく。

もっとも、この企画はたべものでやるから
おもしろいのであり、
たとえばマックエアーの11インチにするか13インチにするか
まよったあげく両方かうのは ただ下品なだけだ。

ネッシー氏がえた教訓は、
「飲食物にならば、二股をかけてもだいじょうぶだ」
である。
両方を注文しながらネッシー氏は
「うわあ、世界を手に入れたぞ、手に入れてしまった!」
とおもったそうだ。
ほんのすこしお金をうわのせするだけで、
世界まで手にいれられるのだから、
わたしもぜひネッシー氏の二股主義をみならいたい。

posted by カルピス at 22:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月26日

『頑張って生きるのが嫌な人のための本』(海猫沢めろん)自由とは

『頑張って生きるのが嫌な人のための本』
(海猫沢めろん・大和書房)

サブタイトルは「ゆるく自由に生きるレッスン」。
自由についてかかれた本。
そういえばわたしは、「自由」がいつも頭のかたすみにある。
本にかかれていることが、ビシバシわたしの胸にささってくるので、
引用しだしたら、海猫沢さんの文章ばかりになってしまいそうだ。
かんじたままに、さらっとかこう。

わたしがなにかを「いいな」とおもうのは、
たいてい自由をかんじるときだ。
自由そうなひと・発想・ふるまい・しぐさに
わたしのなにかが反応する。
旅行もトレーニングも仕事をするのも、
仕事をやめるのも、自由のためだ。
野宿がたのしそうにみえるのも、
スーパーカブにのって旅行にいきたくなるのも、
自由につながっていそうだから。
町を自転車でいく女の子がすてきにみえたとしたら、
それはその子が自由にみえたからで、
はんたいに、かっこわるいとおもえるのは
不自由さをかんじるからみたいだ。

カリオストロの城にしのびこもうと失敗した
わかいころのルパンは、
カジノではでにあそび、美女をはべらせ
豪華なクラシックカーのベンツSSKにのっていた。
2どめにカリオストロをめざしたときのルパンは、
イタリア製の大衆車、フィアット500にのりかえ、
野宿しながら どん兵衛をすすっていた。
自由になり、こだわりをすてたから
ルパンはらくに生きられるようになった。
ゆるい自由とは、そういうものだ。

海猫沢さんは、ブログを宗教みたいなものだという。
自分がここにいた痕跡を、少しでものこしたいっていうことでしょう。
その「存在の不確かさ」みたいなことをなんとかするために、宗教に行くわけだけど、ブログって、そういうのに近いと思いますよ。祈りみたいなものです。
「僕は存在する」みたいなことを、延々、毎日、「何を食べた」、「美味しかった」って刻んでいる。

自分の存在をかんじたいから、かく。
そんな一面が たしかにある。

posted by カルピス at 21:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月25日

ひとりがふつうになったクリスマスイブ

ほぼ日の「今日のダーリン」に糸井さんがかいている。
 若いとき、いつぐらいまでだったかなぁ。
 クリスマスイブは、ほんとうにいやだった。

 そういう気持ちは、日本中の、
 かなりたくさんの人たちが持っているはずなのだけれど、
 「苦しいほどさみしい」とか感じている当人にとっては、
 じぶん以外ほとんどの人のことが、幸せに見えてしまう。
 ふだんの日には、あんまり感じてなかった
 「じぶんのさみしさ」というやつが、
 他人たちみんなの幸せそうな明るさによって、
 格別に暗く重く目立ちはじめるわけだ。

わたしが20代のなかごろ、
ことしみたいにクリスマスイブが土曜日にあたった年があり、
さすがにそのときはさみしさが身にしみた。
もういい歳なのに、いきさきはバイトしかない。
「苦しいほどさみしい」という
たかい精神性をかんじさせるなやみではなく、
自分だけが、ひとりとりのこされているようで
さみしいというより はずかしかった。

あれから幾星霜。
わが家のイブは、クリスマスを意識せず、
いつものようなメニューで 淡々とした夕食となった。
ケーキもないし、サンタさんもこない。
広島からむすこがかえってきたけど、
友だちとすごすでもなく、
家でいっしょに夕ごはんをたべた。
イブに親といっしょがいやじゃないのは
いまのわかものに共通した感覚なのだろうか。
わたしだったら、用がなくても おそく家にかえり、
時間をずらして食事をとりそうだ。

「おひとりさま」ということばが定着し、
コンビニでもひとりむけの商品がならび、
ひとりですごすのは けして特別でなくなっている。
だからこその非婚化・晩婚化なんだろうけど。
ひとりですごす時間が ひとを成長させると
いまは肯定的にとらえられてもいる。
わたしだって、配偶者に同行をことわられ、
ひとりでセブ島へいくのだから、
しらずしらずのうちに、自分たちもまた
時代のながれにのっかっている。
ひとりをおそれなくなった日本で、
これからどんな文化が発展していくのだろう。
メリークリスマス。

posted by カルピス at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月24日

『ブルース・ブラザース』サイコーにごきげんな映画

『ブルース・ブラザース』
(ジョン=ランディス:監督・1980年・アメリカ)

兄が刑務所を3年で仮出所となった。
はらいさげのポンコツパトカーにのって弟がむかえにくる。
ふたりとも、帽子からスーツまですべて黒ずくめで
むかしながらのブルースミュージシャンでありつづけている。
ふたりが世話になった養護施設にかおをだすと、
5000ドルの固定資産税をはらわなければ つぶされるはなしをきく。
ふたりはバンドを再結成してコンサートをひらき、
税金分の5000ドルをかせごうとする。
シンプルなストーリーで、たいした事件はおこらないのに、
ロックンロールにのせて
2時間半をごきげんにひっぱってくれた。

アメリカ映画のカーチェイスというと、
やたらとパトカーがこわれるけれど、
この作品は桁がちがう。
あんなにたくさんのパトカーがでてきて、
あんなにたくさんこわれる映画は はじめてみた。
ショッピングモールにつっこむ場面では、
パトカーはブルドーザーかとおもうくらい、
まえにあるすべてのものを きれいになぎたおしていく。
でかいだけでのろまなアメ車が、
気のきかない警察にぴったりだ。
ホテルからの逃亡シーンでは、
ふたりののった車を100台以上のパトカーがおいかける。
パトカーは、まるで紙の箱みたいに、
かんたんにつぶれていく。
工事中の道路からはみだしてしまい、
車にのったまま たかいところからおちる場面では、
空中でなすすべもなく助手席にすわる部下が
ボスにむかってポツリと
「まえからすきでした」。
すごくおかしい。

カーチェイスだけでなく、はでな爆発もたくさんある。
ガレキの山にうもれても、電話ボックスごとふきとばされても、
よろよろとおきあがり、服についたほこりをおとすだけ。
あれだけたくさんの爆発とカークラッシュがありながら、
けっきょくだれも死なないしケガさえしない。
まるでトムとジェリーの世界だ。

ラストシーンでは、パトカーだけでは気がすまず、
騎馬隊・ヘリコプター・消防隊・特殊部隊、軍隊に
戦車までを総動員してふたりをおいかける。
凶悪犯じゃないのだから、ここまでくると完全におふざけだ。
ふたりをおいかける警察のほうが暴徒となっている。
あんなにたくさんの政府関係者をわずらわせたら、
いくらひとをキズつけてなくても
つかまったとき どれだけしかられるのだろう。
懲役200年ぐらいになるのではないか。
なにかといえば「神の使命をおびている」をくちにして、
ふたりにはこわいものがない。
『紅の豚』のポルコがかっこいいのとおなじ意味で、
あのふたりは きっちり粋をつらぬいている。

エンディングは、刑務所にいれられたふたりが、
即席のステージで『監獄ロック』をうたいまくる。
最高にごきげんな映画だ。
出演してるのが豪華なミュージシャンなのに、
自己主張せず、あそびごころいっぱいで 脇役をたのしんでいる。
息のぴったりあった作品にしあがったのは、ひとつの奇跡だ。

posted by カルピス at 09:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月23日

配偶者に4泊5日のセブ旅行をもちかける

4泊5日のセブ旅行を配偶者にもちかける。
外国を旅行していると、
結婚しているのなら、なんで奥さんをさそわないんだ、
とよくたずねられる。
おたがいのやすみがあわないので、
なかなかふたりいっしょの旅行ができないんだ、と
ある程度ほんとうの理由をはなす。
わたしとしても、できればつれがいたほうが旅行はたのしい。
でも、配偶者の都合でながくはやすめないのだから しかたがない。
けっきょくいつもひとりででかけることになる。

しかし、今回はたった5日間だ。
これぐらいなら、ゆるされる範囲内ではないか。
配偶者にたずねると、月をまたいだら
やすみをとりやすいというので、
来年の2月27日から3月3日までの日程を提案する。

はじめは配偶者もいきたそうにしていたけど、
なんどか決心をせまるうちに
「ひとりでいって」といわれてしまった。
実家のお父さんの調子がいまひとつなので、
旅行にでるのは気がひけるらしい。

ビーチリゾートのセブ島へ、ひとりでいっても
たのしくないだろう。
旅行にでるなら、目的地をかえたほうがいいかもしれない。
とくにセブ島へいきたくてたまらなかったわけでもないので、
どこでもいいのだけど、
そうなると、こんどはどこへいくのか なかなかきまらない。

たとえば 5日間の旅行にいってもいいですよ、と
まったく自由な提案をされたとき、
すぐにいきさきをきめられるひとが どれだけいるだろう。
どこでもいけるとなると、
台湾でもいいような気がしてくるし、
だったらまだいったことのない沖縄だろう、とか、
金沢の友だちをたずねる手もあるな、とか、
旅行にでかけたつもりで、貯金しておこうとか、
わけがわからなくなって
旅行さきがぜんぜんしぼれない。

旅行作家の宮田さんは、『だいたい四国八十八カ所』(本の雑誌社)に
なんのために、なんて考えていると、旅はいつまでたっても始まらない。意味を考える前に計画を立て、結論が出る前に出発してしまう。これが大切である。

とかいている。
ながい旅はもちろん、たった5日間でも
かんがえだすとわけがわからなくなる。
旅行にでたいのなら、かんがえてはだめだ。
わたしの配偶者は、かんがえたから でかけられなくなった。
わたしにだって、母親の通院やピピの病気など、
それどころの状況ではないような気もしてくる。
心配ごとはいくつもあるけれど、かんがえないことにして、
とにかくセブ島へでかける計画をたて、出発しよう。

posted by カルピス at 10:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月22日

永田氏が大隅良典氏の受賞にかんじたふかい友情

けさの朝日新聞に、ノーベル賞授賞式に出席した体験を、
永田和宏氏がよせている。
生理学・医学賞で大隅良典氏が受賞されており、
永田氏は友人として招待者枠にいれてもらえたという。
壇上の友を見ながら、大隅良典という友を誇りに思うことはもちろんだが、サイエンスを通じて、こんな友人を持つことのできた自分自身を誇らしくも思ったことだった。大隅さんの晴れ姿を見つつ、私自身をも誇らしく思えたのである。

ほんとうの友人とは、このように相手の受賞を
こころからよろこべる あいだがらをいうのだろう。
それにしても、
「こんな友人を持つことのできた自分自身を誇らしくも思った」
というよろこびは、あまりきいたことがない。

『未来少年コナン』をみてショックをうけたわたしは、
いったいこの作品のなにがわたしをとらえたのだろうと
不思議におもった。
監督の宮ア駿さんが、
「コナンは、だいすきなラナにあたいするだけの
 りっぱな人間でありたいとおもった」
みたいなことをどこかではなしていたのをよんで
自分もそうした人間なのだと すごく腑におちた。

すてきな女の子がいて、
その子はかわいいだけでなく、高貴な精神をもつ。
その子にみあう人間であるよう 自分をたかめていきたい。
そうした関係が、わたしの琴線にふれたようだ。
コナンはラナのことをつよくおもい、
ラナもまたコナンを絶対的にしんじている。
わたしもだれかとそんなあいだがらになりたかったから、
『未来少年コナン』をみて どうしようもなく
気もちがたかぶったのだろう。

永田氏が大隅氏によせる友情は、
コナンとラナの関係に、すこしちかいようにおもった。
大隅氏のような、りっぱな成果をあげた研究者と
自分は友人でいられるほどに 自分をたかめてきたから、
こころの底から大隅氏の受賞をよろこび、
自分をもほこりにおもえた。
男が女性によせるあこがれだけでなく、
友情でもおなじような感情がわいてくるようだ。
そういえば、わかいころのわたしは、
仕事についても、おなじような気もちを経験した。
尊敬する上司にたいし、
そのひとといっしょにはたらけるだけの
まともな人間でありたいとおもっていたのだから、
なかなかみどころのあるわかものだったのかも。

すきなひとに値するだけの りっぱな人間でありたい、
というねがいは、宮崎さんのアニメではすてきだけど、
わたしはながくつづけられなかった。
わたしの価値観とは なにかが微妙にちがったのだろう。
そうした生きかたでむくわれるタイプだと
自分を分析していたのに、
いまは はるかにひくいところで生きている。
ずっとわすれていた気もちを、
永田氏の記事をよんで、ひさしぶりにおもいだした。

posted by カルピス at 22:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月21日

シェムリアップだけがカンボジアではない

デイリーポータルZにのった木村岳人さんの
「カンボジアの車窓から」をよむ。
http://portal.nifty.com/kiji/161219198351_1.htm
カンボジアとタイの国境ちかくにある
プレアヴィヒア遺跡をたずねたときの記録だ。

わたしもアンコールワットをみようと、
5年まえにカンボジアへでかけたことがある。
アンコールワットの門前町であるシェムリアップにとまり、
3日間トゥクトゥクや自転車で遺跡へかよった。
アンコールワットは観光客がたくさんおとずれており、
5年まえでさえ、これが限界なのでは
とおもえるくらいざわつきがひどかった。
アンコールワットは、しずけさがにあっている遺跡なのに、
どこに視線をうつしても、ツアーでやってきた集団が目にはいる。
わたしも観光客のひとりなのだから、
文句をいうのはへんなはなしとはいえ、
アンコールワットとシェムリアップには、
いきすぎた観光地の弊害がすでにあらわれていた。

シェムリアップの町では、たくさんのホテルが
たてられているさいちゅうで、
中国語とハングル文字の看板がそこらじゅうにたっていた。
アンコールワットをみようとやってくる観光客むけに、
シェムリアップの町がどんどんひろがっているのが
はじめてたずねたわたしの目にもよくわかった。
5年まえでさえ、あきれるほどのホテルラッシュだったから、
いまでは木村さんが指摘しているように
ほかの町とはぜんぜんちがう姿になっているのだろう。

木村さんの記事には
カンボジア旅行というと、どうしてもアンコール・ワットを始めとするアンコール遺跡群は外せない。となると、自由度の高い個人旅行以外では、シェムリアップの周辺だけを見て帰る人がほとんどだろう。
だがしかし、世界中からの観光客が極端に集中するシェムリアップは、カンボジアの中では極めて特異な存在だ。その町での暮らしぶりは、一般的なカンボジアの人々の生活とは乖離しているのではないかと思う。

とある。
わたしの旅行もアンコールワットを中心にした
典型的な遺跡めぐりであり、
シェムリアップ以外は バスののりかえで
プノンペンをとおったくらいだ。
それでいて、カンボジアのことをすっかりわかった気になり、
アンコールワットのすごさを ひとにいいふらした。
たしかにアンコールワットは いくだけの価値があるけど、
遺跡はそればかりではなく、
カンボジア各地に点在している。
カンボジアの魅力にどっぷりつかりたいなら、
シェムリアップだけでなく、
ほかの町へもまた でかけたほうがよかった。
パリをもって すべてのフランスがそうだとは
おもわないほうがいいのとおなじように、
シェムリアップだけがカンボジアではないようだ。

アンコールの遺跡はどこもすごかったけど、
旅行でいちばん印象にのこったのは、
バイクタクシーをチャーターして
一ノ瀬泰造さんのお墓をたずねた数時間の移動だ。
雨のなか、カッパをきて運転手の背中にしがみつく。
運転手はホンダドリーム125をたくみにあやつって、
道路にできたおおきな水たまりをさける。
雨期のため、そこらじゅうに水があふれているので、
車やトゥクトゥクではとおれないところは、
バイクがたよりだ。
地雷博物館を見学し、カフェでお茶をのみ、
あちこちで道をたずねながら、タイゾーさんのお墓をさがす。

わたしとしては、ずいぶんながい時間
バイクにまたがっていた気がしてたのに、
シェムリアップにもどると、まだお昼すぎだった。
バイクタクシーの運転手が
いっしょにお昼ごはんをたべようとさそってくれるので、
彼がおすすめのやすい食堂(というか屋台)へでかけ、
彼に注文をまかせる。
いいかんじだなーと、旅行の充実感にひたっていたら、
当然というかんじで、食事代は全額わたしもちだった
(といっても2人分で2ドル)。
おごってくれたり、招待してくれたりは
旅行番組のなかだけなので、期待しないほうがいい。

posted by カルピス at 22:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月20日

クラブワールドカップの決勝を録画でふりかえる

クラブワールドカップの決勝、
レアル・マドリーと鹿島の試合をみる(録画)。
Jリーグ年間3位の鹿島(1位の浦和と15点差)が、
チャンピオンシップでかちあがり、
日本の優勝チームとなったのは、
なんともあとあじがわるい。
すなおに日本代表チームとして
応援する気になれなかった。
ニュースをみると、延長戦までもつれ、
2-4でやぶれたという。
結果をしってから、録画しておいた試合をひっぱりだした。

柴崎がいれた2点は、ボテボテとはいえないまでも、
コースがよかったからはいった
ラッキーなシュートだったけど、
とにかくいちじはレアル・マドリーにかちこしていた。
延長戦はともかくとして、後半に鹿島がせめていた時間帯もあり、
あのときにきめておけば(タラレバをいってもしょうがないけど)
鹿島はかてた試合だ。
この試合の曽ヶ端はファインセーブを連発しており、
どれだけシュートをうたれても いれられる気がしなかった。
後半終了間際にファブリシオがはなった強烈なミドルシュートが
もしきまっていたら。
セルヒオ=ラモスが2枚目のイエローカードで退場になっていたら
(審判がいちどは胸のカードをとりだそうとしたのに、
 なぜかとりやめてしまった)、どうなっていたかわからない。

どうなっていたかわからない、なんていったら
サッカーの試合はきりがないわけで、
こんなタラレバをいったみたところでしょうがないけれど、
それぐらいあの試合は鹿島の歯車がピッタリあっていたし、
ながれも鹿島にかたむいていた。
後半終了間際の鹿島は、レアルと対等にわたりあっていた。
あとは点をきめきる決定力の差か。

鹿島のいいところばかりめだち、
年間で1位の浦和があっというまにかすんでしまった。
クラブワールドカップに出場したのは鹿島だけど、
年間かち点では浦和が1位だったことを
記憶にとどめておきたい。
でないと、いいところをぜんぶもっていかれた
浦和の選手・サポーターがあまりにも気のどくだ。

posted by カルピス at 21:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月19日

『レナードの朝』すべてのひとに こころがある

『レナードの朝』(ペニー=マーシャル:監督・1990年・アメリカ)

(ネタバレあり)
車いすにすわったまま、石のようにかたまっている脳炎の患者たち。
表情もなく、ただ生きているだけの存在にみえる。
そんな患者たちにも 反射神経がのこっていると気づいたセイヤー医師
(ロビン=ウィリアムズ)は、
ボールをなげたり、床に模様をかいて
自分でうごけるちからを回復させようとこころみる。
セイヤーは、彼らのこころは生きつづけており、
彼らがただの植物人間ではないとしんじている。
パーキンソン病にドーパミンが有効だという報告から、
セイヤーは自分の患者であるレナード(ロバート=デ=ニーロ)に
ドーパミンをためしてみた。

レナードは劇的な回復をみせ、
ひとりでうごき、はなし、
健常者とかわらない状態まで機能をとりもどす。
セイヤーがほかの患者にもドーパミンをつかってみると、
全員におなじような効果があらわれた。
これまで植物人間としてあつかわれていた患者たちの部屋が、
町の社交クラブのように にぎやかな場所へとかわっていく。

自分でうごけるようになった彼らは、
とうぜん健常者のような意識をもちはじめる。
人間は、なにかの能力を獲得すると、
さらにそのさきをもとめがちだ。
ほかのひとたちと おなじことがしたくなる。
彼らは町にでかけ、ダンスをおどり、自由に散歩したりと、
ひとりの人間としてあつかわれたい。
しかし、彼らには はたらく場所があるわけではないし、
家にかえることもできない。
彼らがねむりつづけていたあいだに、
ある患者の両親は離婚し、配偶者は施設にはいっていた。
せっかく機能をとりもどしても、彼らがいる場所は病院しかない。
ドーパミンによる劇的な回復は、いったいなにをもたらしたのか。
回復は、しあわせとむすびつくのか。

ドーパミンの効果はながくはつづかなかった。
はじめにレナードが、そのあとほかの患者たちも、
またもとのように表情をうしない、
麻痺したからだへともどってしまう。
病室は、また以前とおなじように
しずかでうごきのすくない場所になった。

しかしセイヤーは、彼らとすごすうちに、
生きているよろこびについて かんがえるようになった。
いったんはもとのからだにもどり、
そしてまた機能をうしなってしまった患者たち。
そんな彼らにはずかしくない生きかたとは。
内気な性格をいいわけにして、
ひとにこころをひらけなかったセイヤーが、
女性スタッフのエレノアをはじめてお茶にさそう。
たったそれだけのことが、どれだけのよろこびをもたらすか。

植物人間だとおもっていた患者たちに
知性がそなわっているとおどろく 病院のスタッフたちは、
重度の自閉症者である 東田直樹さんをしったわたしとおなじだ。
ピョンピョンとびはねる東田さんが
内面では知性にあふれ ゆたかな世界をもっている。
障害があったり、認知症だったりで、
まわりのひとから理解されず
つらいおもいをしているひとがどれだけいるだろう。
どんなにうごきがなくても、
すべてのひとにこころがある。
『レナードの朝』をみておもったのは、
そんなあたりまえのことだ。

posted by カルピス at 22:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月18日

NHK特集「自閉症の君が教えてくれたこと」の衝撃

NHK特集「自閉症の君が教えてくれたこと」をみる。
東田直樹さんは22歳の自閉症で、
ひとと会話ができない。
パソコンや、紙にかいた文字盤をおしながら、
自分のかんがえをまとめ、あいてにつたえている。
おちつかなくなったときの動作や、
帽子をかんでイライラをこらえたりする
自閉症者によくみられるしぐさをみると、
重度の障害者にしかみえない。
文字盤をつかってはなす 東田さんのことばによって、
自閉症のひとたちが、内面では複雑な思考をくりひろげていると、
わたしは はじめてしった。

東田さんは、取材におとずれた丸山さん(NHKのディレクター)が、
がんをわずらっていることをきき、
がん患者になることで、価値観がかわりましたか?とたずねる。
ディレクターが、
「やはりいろいろかわりました」とはなしだしたら、
東田さんは
「僕は人の価値観はそんなに簡単に変わらない、
(価値観は)つみかさねた人格のようなものだからです」
と自分のかんがえをつたえる。
また、丸山さんが生きるうえで大切なこととして、
命のバトンをつなげることをあげると、
東田さんは、
「僕は人の一生は、つなげるものではなく、
 一人ずつが完結するものだと思っています」
と自分のかんがえをのべる。
命がつなぐものであるなら、
つなげなくなった人はどうしたらいいのか。
一人ひとりが人生を生ききることで、
残されたひとたちは その姿をみて
自分の人生を生きつづける。

13歳の自分になにかアドバイスするとしたら、
という問いかけには、
いったんかいた「ありのままでいい」をけして、
「人生は短い」にかえている。
「アドバイスできるものがあるなら
 それははげましのことばではありません。
 つらすぎる毎日をおくっている僕の耳には
 とどかないとおもいます。
 僕は人生は短いという事実を伝えたいです」

東田さんのコメントをかきとめると、
ひじょうに独特なみかたをしているようにみえる。
しかし、それはきゅうにピョンピョンとびはねたり、
いらいらすると帽子をかじったりする東田さんが、
そうした発言をするからおどろくのであり、
はなしている内容じたいは、あんがいあたりまえだ。
平凡といっているのではない。
とてもまともなのにおどろかされる。
東田さんは、自閉症者でないものにもわかるいい方で、
自分のかんがえをつたえてくれる。
重度の自閉症者が、
内面ではこんなゆたかな精神活動をおこなっていると、
わたしは想像したことがなかった。
東田さんがくちにするまっとうなかんがえに、
わたしはつよい衝撃をうけた。
自閉症ならでは、というよりも、
ごくふつうの人間としてとらえられる 貴重な発言だ。

posted by カルピス at 19:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月17日

おすすめ本の情報がほしい

本屋さんにでかけたら、土曜日のせいかお客さんでいっぱいだ。
レジにも行列ができ なかなかとぎれない。
クリスマスむけなのか、プレゼント包装をまつひとがおおい。
本がうれなくなってる、というのが
しんじられない光景だけど、
ほかに本屋さんがないから このお店にお客さんがくるともいえる。
たしかに本屋さんの数はこの数年でいっきにすくなくなった。

杉江由次さんが、web本の雑誌に連載ちゅうの
「帰ってきた炎の営業日誌」に、本がうれない状況をかいている。
 
通勤時の京浜東北線で本や雑誌を広げている人なんてほとんどいない。ホームにいるときからみんな手に持っているのはスマホだ。(中略)
 持ち運べなかったものが持ち運べるようになり、新たなエンターテイメントも現れ、でも時間は24時間しなかく、そして東京でも本は売れなくなった。スマホの中に入るか、スマホの中で購買意欲を煽るか、スマホでは味わえないものを作り出すか、スマホを使わない層に向けて作るか、スマホに飽きるのを待つか。
 毎日電車に乗るとついついひとり会議を開いてしまうが、いくら考えたって本が売れるわけではない。カバンから本を取り出す。この世に本という存在があることをみんなに思い出してもらうために。

わたしはスマホをほとんどつかわないものの、
アマゾンに本を注文するし、ブックオフへもよくでかけている。
本がうれないのは スマホのせいばかりではなく、
いろんな条件がかさなっての現象だろう。
自民党がこの世の春にひたっているように、
アメリカの次期大統領にトランプ氏がえらばれたように、
本がうれないのは、おおくのひとがそれをのぞんだからだ。

本のちからをしんじ、本をとりまく世界がすきで、
本の業界にはいった杉江さんは、
自分たちがいい仕事をすることで
本がうれない状況をかえたいとねがっている。
本の雑誌の年間ベストテンや、
おすすめ文庫王国のベストテンをきめる座談会で、
いちばん迫力のある発言をするのは営業の杉江さんだ。
その本のよさを、ちからづよくかたられると、
読者としては ぜひよんでみたくなる。
わたしがほしいのは、おもしろい本についての
信頼できる情報だ。
本づくりを企画するだけでなく、
すきな本、おすすめ本を杉江さん個人が発表していけば、
参考にしたい読者はおおいのではないか。
本の雑誌社につとめながら、自分の雑誌をつくるのはどうだろう。
40年まえ本の雑誌をたちあげた
目黒さんや椎名さんがそうしてきたように。

posted by カルピス at 20:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月16日

地主氏の「海を割る奇跡の写真」をたかく評価する

デイリーポータルZに地主恵亮氏の
「モーセのように海を割る奇跡の写真を撮る方法」
がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/161215198316_1.htm
海をわったといわれるモーセの奇跡を
簡単に再現できるという。
地主氏は、ロスタイムでの奇跡の逆転など、
「世界は奇跡で溢れている」と力説する。
そうか、奇跡はかんたんにおこせるのだと
その気にさせておいて、
道ができたようにみえる海のまんなかをあるきだすと、
とうぜん地主氏はずぶぬれになる。
びっくりするくらい寒かった。寒くて驚いた。冬の海は寒いのだ。奇跡はなんだったのだろう、と思うけれど、奇跡なんて起きないのだ。これを覚えて欲しい。奇跡は起きない、これが教訓である。

「世界は奇跡に溢れている」と はじめははりきっていたのに。
記事のタイトルに、「奇跡の写真を撮る方法」とあるので、
はじめからこたえはあかされていた。
「奇跡の写真」であり、奇跡のように海がわれたとはかいてない。
記事をよむうちに、ただ黒い板を三脚にとりつけて
写真をとったにすぎないのがわかる。
海を割りたい、奇跡の人になりたい、と思ってやったこの写真だったけれど、パッと見は奇跡が起きたように見える。奇跡とはそのようなものなのだ。奇跡ではなく、真の努力で素晴らしい人になるべきだとわかった。

とってつけたようなこのむすびは、
地主氏の本心というよりも、
まとめがいるからかいただけで なんの意味もない。
そもそも、このなんの意味もない「奇跡の写真」を、
地主氏はなぜさむい海につかってまで
記事にしたのだろう。

どうでもよさそうなこの地主氏の記事は、
まったく意味がなく 役にたたないという点において
デイリーポータルZの王道をいくものであり、
ほかのライターたちの おなじように意味のない記事を
わたしはたかく評価する。

きのうのデイリーポータルZには、
水曜どうでしょうの藤村ディレクターが、
デイリーポータルのライターを説教する記事がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/161215198310_1.htm
説教にはもちろんふかい愛がひめられているのだけど、
藤村氏がたびたびくちにする「意味がない」では
デイリーポータルの記事はすくわれない。
「意味がない」「役にたたない」から
デイリーポータルはすばらしいのであり、
おとなたちが知恵をしぼり、
全力でどうでもいいことを記事にしていくすがたに
人類のあかるい未来がみえる。
役には立ってない。けど、世界的にはこういう人類がいないとダメだと思う。あなたたちが死なない世界が一番いいんだろうなと。 渋谷の真ん中で、こんな体たらくなサラリーマンたちが集まって、わりかし笑ってる。まだ日本は平和だな、って思えるよね。

と、藤村氏もほんとうはデイリーポータルの精神をわかっているのだ。
地主氏の記事は、意味のなさにおいて あたまひとつぬけている。

posted by カルピス at 17:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月15日

ドコノコにみるネコずきの団結力

ひさしぶりにドコノコへピピの写真をアップした。
トイレシートのうえにまるまったまま
ピピはあまりうごかないので、
しぜんとおなじポーズの写真になりがちだ。
おなじだったら ま、いいかと、1週間ほったらかしていた。
きょうとった写真は、ベッドにのぼったピピが
はやくベッドにくるようにと、
わたしに催促している場面だ。
ピピとしてはめずらしく正面からとらせてくれたので、
つぶらな瞳がかわいい、とまではいえないものの、
あまりこまかいところをみなければ
まるで子ネコのように無垢な表情にみえる。
161215ピピ.jpg
おどろいたことに、写真をアップしたとたん、
ドコノコ版「いいね!」のハートマークが
はげしくよせられた(30分で13人)。
ピピをフォローしていない方からの♡もおおい。
わたしのしりあいでドコノコに参加しているひとも、
何匹もいるネコのうち、イケメンの子の写真は、
アップしたとたんにダダダッと「いいね!」が
殺到したらしい。
ピピのように無名の老猫でさえ
こんなにすばやい反応がかえってくるのだから、
有名なネコたちには どれだけのフォロワーがついているのだろう。
わたしがしこしこブログをかいても、
なんにんのひとがこころしてよんでくれているのか
ほとんど手ごたえがないのにくらべ、
ピピの写真の効果は絶大で、ひがみさえおぼえる。

熱心なフォロワーにひきかえ、
わたしのむすこはまったくなってない。
むすこも何人目かのフォロワーなのに、
はじめのころ 2,3ど反応をしめしただけで、
あとはナシのつぶてだ。
ちかくの親子より、とおくのネコずき、
ということわざをおもいついた。

おしっこのついたトイレシートのうえで
まるまった時間がながいためか、
ピピのおなかにたくさんの毛玉ができている。
根本のところがかたく くっついてしまい、
手でほぐそうとしてもうけつけない。
白い粉がみえるので、シャンプーとおしっこが
複雑な化学反応した結果の毛玉かもしれないし、
ただの老化現象かもしれない。
きょうはその毛玉をハサミで注意ぶかくきりとった。
ふかくハサミをいれると 皮膚がやぶれそうなので、
しんちょうに、でも大胆さもわすれずに かたまりをきりとる。
ピピとしては あまりたのしいサービスではないようで、
もぞもぞからだをうごかしながら、
それでもハサミいれをつづけさせてくれた。

けさおきたとき、ノドのいたみに気づいた。
カゼをひいたみたいだ。
ピピが夜中じゅうわたしにからだをおしつけており、
ふとんにおしっこをかけられないよう
微妙な配慮が必要となる。
快適な睡眠の確保は二の次になりがちだ。
ふとんからからだがはみでる日もおおく、
さむい夜だと体調をくずしやすい。
そんなつきあいをしているから、
ピピはわたしをベッドによんでくれるし、
いやがりながらも毛玉をとらせてくれる。
そして、第三者からのごほうびが、
13個もの「いいね!」だとうけとめている。
おたがいに依存した関係がながくつづき、
すてきなピピとであえたしあわせをかみしめる。

posted by カルピス at 21:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月14日

『おすすめ文庫王国 2017』

『おすすめ文庫王国 2017』

総合ベストテンの発表だけでなく、
10部門にわかれての ジャンル別ベストテンが
文庫えらびの参考になる。
紹介されている文庫を、冬やすみまえにもとめて
やすみちゅうによむのが年末年始のたのしみだ。

ベストテンのほかにもよませる特集がいくつもある。
出版社をJリーグならぬBリーグ(文庫本リーグ)にみたて、
出版社べつに いちねんをふりかえる企画が 5年目をむかえた。
チーム(出版社)ごとにつけられている総評をみると、
どこがどんな本をどんな戦略のもとに
うろうとしたのかがわかる。
はじめはBリーグなんて冗談にすぎないとおもっていたけど、
こまかくよんでいくと、シーズン前半は好調だったのに、
終盤にはちからつきてガタガタになるなど、
出版社とサッカークラブは、かなりにかよった体質の組織だ。
というよりも、サッカーのシンプルなおもしろさが、
人間のいとなみのおおくでアナロジーをなりたたせるのだろう。

もうひとつわたしがすきな企画は、
都内大型2書店の文庫担当者が、
店の文庫うりあげベスト100をあげて
その年のうごきをふりかえるページだ。
うり場の工夫やしかけでずいぶんうりあげがちがうらしい。
書店員の熱意に世相がからまって、
そのとしのうりあげに反映される。
◯一ヶ月に一回書店に来る人ってなかなかいないですからね。
△僕らの当たり前が当たり前じゃありません。
◯本当の本好きじゃないとそうは書店に来ない。(中略)
△そこをどう掘り起こしていくかってところが書店員の腕の見せどころなんだけど(中略)

◯この新刊置くんだったら、売れる既刊本をいい場所に置いた方が絶対売れるだろうっていうのが・・・。
△ありますよね。
◯だからやっぱり新刊を絞ってほしいんです。
△ただ点数を揃えただけっていう版元の方がまだ多いですよね。

△一番安易にやっちゃうのは、売れている本を棚差しにしちゃう。(中略)
◯それやられると一番頭に来ます。部数少ないから棚差ししましたとか。(中略)
△そうすると売れない本がぶあーっと並んだ絶望的な平台が出来上がる。

あたらしくでた本を ただならべたらいいわけではないらしい。
本屋さんをぶらつくたのしさは、
こうした書店員さんの熱意にささえられている。

posted by カルピス at 22:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月13日

わたしがえらぶ椎名誠のベスト10

webサイト「椎名誠 旅する文学館」に
椎名さんがかいてきた本について、
目黒さんがはなしをきくコンテンツがある。
1979年にだされた『さらば国分寺書店のオババ』にはじまって、
2016年7月の『ケレスの龍』まで、
椎名さんの膨大な著書を
目黒さんがもういちどよみかえしたのち、
椎名さん本人からはなしをききだしている。
そのまとめというか、番外編として、
「椎名誠のベスト10」を、まず目黒さんが、
そして次回は椎名さんがえらんでいく。
http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/11977

目黒さんは、たとえばSFは『アド・バード』、
青春記は『新橋烏森口青春編』に代表させたりと、
おなじようなジャンルの本がかさならないよう、
バランスに気をくばって10冊をえらんでいる。
とはいえ、たとえば『絵本たんけん隊』は、わたしもよんだけど、
それほどの本とはおもえないのに 目黒さんは絶賛している。
わたしのこのみとは かなりちがった10冊になっており、
どうせならと、わたしも便乗して
椎名さんのベスト10をえらんでみた。

1『わしらは怪しい探検隊』
2『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』
3『シベリア追跡』
4『本の雑誌血風録』
5『パタゴニア』
6『哀愁の町に霧が降るのだ』
7『さらば国分寺書店のオババ』
8『麦の道』
9『砂の海』楼蘭・タクラマカン砂漠探検記
10『風にころがる映画もあった』


1『わしらは怪しい探検隊』
 昭和軽薄体とよばれる椎名さんならではの文体が
 ページのあちこちを自由自在にとびまわる。
 子どものころ探検家にあこがれながら
 気がつけば つまらないおとなになってしまったわたしだけど、
 おとなになっても まだこうやってあそんでるひとがいる、
 文章はこんなに自由でもいいんだと、
 おどろきの椎名さん本とのであいだった。

2『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』
 初期の「本の雑誌」にのせられた記事があつめられている。
 権威的なものにむかって、つまらないものは
 はっきりつまらないとかく姿勢がすばらしい。
 わかいころの椎名さんのするどい観察力と、
 だめなものはだめといいきる ただしい批判精神がすきだ。

3『シベリア追跡』
 旧ソビエト時代に、マイナス57℃のシベリアをおとずれ
 町のようすやひとびとのくらしを紹介している。
 その時代の旧ソビエトを取材するのが
 どれだけたいへんだったか、
 マイナス57℃のさむさとは、など
 格闘技できたえ、あやしい探検隊であそんできた
 椎名さんならではの取材力がひかる。

5『パタゴニア』
 南米のさきっぽにあるパタゴニアをたずねる。
 日本にのこる奥さんが精神的に心配な症状をしめしており、
 でも椎名さんは日本ととおくはなれたチリにいて、
 かんたんには連絡がとれない。
 パタゴニアの自然におどろきながらも、
 奥さんを心配しながらのつらい時間をすごす。

6『哀愁の町に霧が降るのだ』
 わかいころは、これぐらいおろかで
 まずしくて テキトーくらいがちょうどいいのだと、
 ただしい青春のすごし方を再確認できる。
 
7『さらば国分寺書店のオババ』
 椎名誠の実質的なデビュー作として、
 この本をあげないわけにはいかないだろう。

8『麦の道』
 椎名誠の高校時代をえがいた自伝的な小説。
 以前わたしはブログにこの本をとりあげており、
 そこからかきだしてみると、
おもいっきりこの小説を簡略化すると、

 けんか
 柔道
 けんか
 けんか
 女子高生
 けんか
 柔道
 けんか
 けんか
 柔道
 女子高生
 けんか

というかんじで、
けんかのあいまに柔道部での練習や試合、
ときたまあこがれの女子高生についてかたられる。
けんかにあけくれていたという椎名誠が
じっさいに体験したことをかいているので、
けんかのシーンはなまなましい迫力がある。

9『砂の海』楼蘭・タクラマカン砂漠探検記
 楼蘭探検へ、ルポライター枠で参加した椎名さんの記録。
 むかしからあこがれてきた地域への探検であり、
 体力的なアドバンテージをいかして
 ジワジワと目的地へせまっていく。

10『風にころがる映画もあった』
 椎名さんの映画ずきが、
 いちばん素直に文章化されている。
 子どものころからカメラや映写機がすきで、
 その興味関心をひきずったまま
 おおきくなったのが椎名誠だ。
 やがて映画監督にもなる椎名誠の原点は、
 子どものころの映写機あそびにみいだせる。

次回に椎名さん本人がえらぶ「椎名誠のベスト10」は、
どんな10冊になるのだろう。

posted by カルピス at 22:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月12日

なぜ日本と中国だけが おわんをもってたべるのか

きのうのブログに
「日本にはスプーンがないので
 おわんにくちをつけてたべる」
という説をそのままうけいれて、
日本(と中国)だけが食事のときに
おわんをもってたべるのは
スプーンがないせいだと かんたんに納得してしまった。
われながらのみこみがはやすぎる。
こんなことでは あっさりサギにひっかかりそうだ。

すこしかんがえてみると、
スプーンがなくてこまるのなら、スプーンにかわるなにかを
つくりだせばいいわけで、
「スプーンがないから」と
「おわんにくちをつけてたべる」は
あくまでも理由のひとつでしかない。
なぜ日本はスプーンなしですませてきたかの
説明がほしいところだ。
なぜ日本(と中国だけ)がおわんを手にもって食事をするのか。

食事をするのにスプーン的な道具がどうしても必要なら、
竹や木をけずっていくらでもつくれる。
「(日本には)スプーンがないから
 おわんにくちをつけてたべる」と
かんたんにきめつけるまえに、
なぜ日本人はスプーンを必要としなかったかを、
不思議におもったほうがいい。
おわんとハシのコンビは完璧であり、
ほかの道具を必要としなかったのだろうか。
そもそも 日本にスプーンなかったから、
というのはほんとうなのか。
日本には「さじ」ということばがあるのだから、
スプーン的なものがいっさい発達しなかったわけではないだろう。

日本と中国にあって韓国にないものはなにか。
ねばりけのあるお米をたべる文化圏では
おわんとハシですべてことたりるので、
スプーンが必要ではなかったのだろうか。
でも、韓国のお米だって 日本ほどではないにしろ、
インディカ米よりもねばりけがある。

わからないことばかりで、
想像でしかものがいえない。
なぜ日本(と中国だけ)がおわんをもってたべるのかは、
けっきょく謎のままだ。

posted by カルピス at 21:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする