テレビ番組で、韓国の礼儀作法をとりあげていた。
韓国では、食事のときにおわんをもちあげないで、
テーブルにおいたままたべるそうだ。
中国はおわんをもちながら、ハシでわしわしと
おかずをのせたごはんをかきこんでいく。
極東に位置するご近所の国として、
ましてやハシの文化を共有する国どうしとして、
日本・中国・韓国は、おなじように
おわんをもってたべるかとおもっていたのに、
韓国だけちがっていた。
タイやカンボジアとおなじように、
韓国でも おわんをもちあげてたべるのは
無作法なふるまいとなる。
なぜ日本と中国だけが世界のほかの国と
ちがうたべ方をするのかを、
まえにブログでとりあげたことがある。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/231356877.html?1481455043
食事だけでなく、なにかの起源をかんがえるのはたのしい。
なぜおわんをもってたべる文化と、
もたない文化にわかれるのだろう。
このまえ「クールジャパン」で和食器をとりあげたとき、
「日本にはスプーンがないので
おわんにくちをつけてたべる」
ということを、女性のゲストがはなしていた。
そうなのか。そんなことが理由だったのか。
中国にはレンゲがありながら、おわんをもってたべる。
レンゲはスプーンににているけど、
もともとはべつの機能を目的に うまれたのかもしれない。
スプーンがないから、うつわに直接くちをつけてたべる
という指摘には 説得力がある。
ものすごくふかい精神性のもとに、
ややこしい作法ができあがったわけではなく、
いまあるしきたりのおおくは、
「スプーンがなかったから」みたいに、
物理的な必然からうまれたにすぎないのではないか。
なにかで無作法を指摘されたとしても、
その起源にどうせたいした理由はないので、
「スプーンがなかったから」と、
すましてこたえればいいみたいだ。
2016年12月11日
2016年12月10日
『本の雑誌 1月号』と『おすすめ文庫王国 2017』にうれしくなる
近所の本屋さんにいくと、
『本の雑誌 1月号』と『おすすめ文庫王国 2017』がおいてあった。
うれしくなって その両方と、
なんとなく『コンビニ人間』(村田沙耶香)、
それに『ぼくは原始人になった』をレジにもっていく。
『コンビニ人間』は、芥川賞をとったために
なにかと話題になっており、いつもならまずかわない本だ。
それに、わたしは「非コンビニ人間」がかけるぐらい
ほとんどコンビニへいかない。
発作的なかいものをしたくなるぐらい
『本の雑誌 1月号』と『おすすめ文庫王国』がならぶこの時期は
わたしのたのしみとなっている。
『本の雑誌 1月号』では、ことしのベスト10が発表されている。
いつもながら 厳正な審査というよりも、
職場のちから関係と、なりゆきによってきまる座談会で、
参考までに、という程度のベスト10でしかない。
ジャンル別のベスト10は、それぞれ担当者がえらんでいるため、
こちらのほうがわたしには意味のある情報となる。
わたしがよんでいる本でえらばれたのは、
ミステリー部門の『傷だらけのカミーユ』
(ピエール=ルメートル)だけだった。
『ミレニアム』3部作の2作目をよみだしたものの、
残念ながら1作目にくらべ おもしろさにとぼしい。
とちゅうでなげだして この『傷だらけのカミーユ』へうつった。
こちらはヴェルーヴェン警部シリーズの3作目にあたる。
ヴェルーヴェン警部や部下のルイへのしたしみがまし、
3作目らしい味わいで 常連客をよろこばせてくれる。
会話だけをとっても、ひとこと ひとことに意味がこめられ、
いわれた方は そのニュアンスを適切にかぎわける。
シリーズものならではたのしみを、再確認できる本だ。
『ぼくは原始人になった』は、
「20年にわたり原始的な狩猟採集生活をおく」るひとの記録らしい。
まったく存在をしらなかった本だけど、
アフリカから世界各地へちらばった先祖たちや、
縄文時代のくらしに関心があるので期待したい。
税こみ1944円もしたので、はずれ本でないことをいのる。
うれしくなったついでに、
本屋さんのつづきにある文具店で
2Bのえんぴつとジェットストリームを2本ずつ、
それにロディアを2つもとめる。
こまごまとしたかいものをかたづけるのも、
いかにも師走らしくていいかんじだ。
『本の雑誌 1月号』と『おすすめ文庫王国 2017』がおいてあった。
うれしくなって その両方と、
なんとなく『コンビニ人間』(村田沙耶香)、
それに『ぼくは原始人になった』をレジにもっていく。
『コンビニ人間』は、芥川賞をとったために
なにかと話題になっており、いつもならまずかわない本だ。
それに、わたしは「非コンビニ人間」がかけるぐらい
ほとんどコンビニへいかない。
発作的なかいものをしたくなるぐらい
『本の雑誌 1月号』と『おすすめ文庫王国』がならぶこの時期は
わたしのたのしみとなっている。
『本の雑誌 1月号』では、ことしのベスト10が発表されている。
いつもながら 厳正な審査というよりも、
職場のちから関係と、なりゆきによってきまる座談会で、
参考までに、という程度のベスト10でしかない。
ジャンル別のベスト10は、それぞれ担当者がえらんでいるため、
こちらのほうがわたしには意味のある情報となる。
わたしがよんでいる本でえらばれたのは、
ミステリー部門の『傷だらけのカミーユ』
(ピエール=ルメートル)だけだった。
『ミレニアム』3部作の2作目をよみだしたものの、
残念ながら1作目にくらべ おもしろさにとぼしい。
とちゅうでなげだして この『傷だらけのカミーユ』へうつった。
こちらはヴェルーヴェン警部シリーズの3作目にあたる。
ヴェルーヴェン警部や部下のルイへのしたしみがまし、
3作目らしい味わいで 常連客をよろこばせてくれる。
会話だけをとっても、ひとこと ひとことに意味がこめられ、
いわれた方は そのニュアンスを適切にかぎわける。
シリーズものならではたのしみを、再確認できる本だ。
『ぼくは原始人になった』は、
「20年にわたり原始的な狩猟採集生活をおく」るひとの記録らしい。
まったく存在をしらなかった本だけど、
アフリカから世界各地へちらばった先祖たちや、
縄文時代のくらしに関心があるので期待したい。
税こみ1944円もしたので、はずれ本でないことをいのる。
うれしくなったついでに、
本屋さんのつづきにある文具店で
2Bのえんぴつとジェットストリームを2本ずつ、
それにロディアを2つもとめる。
こまごまとしたかいものをかたづけるのも、
いかにも師走らしくていいかんじだ。
2016年12月09日
電子書籍版「野宿野郎」の再スタートをのぞむ
かとうちあきさんがツイッターに
とかきこんでいた。
女性がナメクジをおもわぬところでみかけたら、
演技でなくても「ギャー!」とさわぎそうなのに、
かとうさんは まったくそうではない。
アップされた写真をみると、
けしてきれいとはいえない洗面台のじゃぐちに
りっぱなナメクジがくっついている。
ナメクジへのいたわりもすばらしいけど、
よくこの洗面台を公開したものだと
かとうさんのふところのふかさに感心した。
すごいなー、かとうさん。
でも、洗面台はともかくとして、
もしかしたらカネゴンずきなかとうさんが、
カネゴンに似たナメクジにたいし、
ひいきめな感情をもっているから
ためらわずに公開されたのかもしれない。
かとうちあきさんは、
人生をより低迷させる旅コミ誌、「野宿野郎」の編集長だ。
「野宿野郎」は 2010年3月に7号がでたきり
もう6年半もあたらしい号がでていない。
そのあいだグループでの野宿をよびかけたり、
かとうさんが野宿と旅がらみの本をだしたりと、
まったくの休止状態ではないものの、
本筋の活動からはとおざかっている。
このごろでは、まえにつくられた「野宿野郎」を
増刷するのさえ めんどうになったようで、
在庫ぎれの号がではじめている。
いよいよ「野宿野郎」はさいごのときをむかえるのかと、
残念におもっていたところ、
ことしの10月から「野宿野郎」を
電子書籍化するうごきがでてきた。
ためしに1号を電子書籍化したところ、
たいしてうれなかったものの、
1冊だけより2冊をと、2号も電子書籍化された。
そのあとも順調に電子書籍化がすすみ、
12月2日に電子書籍化された第5号が発売されている。
きゅうに勤勉なうごきをみせたのもおもしろいけど、
ふるい「野宿野郎」を電子書籍化するだけでなく、
あたらしい「野宿野郎」を
電子書籍として つくってくれないだろうか。
まえの出版から6年半もあいだがあくと、
いまさら紙版の「野宿野郎」をつくるのは
かなり腰がおもいことだろう。
あっさり電子書籍にきりかえたら
またあたらしい気分でとりくめるのではないか。
かとうさんのアパートにすみついたナメクジの報告は、
ぜひ電子書籍版の「野宿野郎」でよみたい。
今夜また、帰ったら洗面所にナメクジいた。どうかほかのひとたちに見つかってやっつけられず、長く住みついてくれますよーに。
とかきこんでいた。
女性がナメクジをおもわぬところでみかけたら、
演技でなくても「ギャー!」とさわぎそうなのに、
かとうさんは まったくそうではない。
アップされた写真をみると、
けしてきれいとはいえない洗面台のじゃぐちに
りっぱなナメクジがくっついている。
ナメクジへのいたわりもすばらしいけど、
よくこの洗面台を公開したものだと
かとうさんのふところのふかさに感心した。
すごいなー、かとうさん。
でも、洗面台はともかくとして、
もしかしたらカネゴンずきなかとうさんが、
カネゴンに似たナメクジにたいし、
ひいきめな感情をもっているから
ためらわずに公開されたのかもしれない。
かとうちあきさんは、
人生をより低迷させる旅コミ誌、「野宿野郎」の編集長だ。
「野宿野郎」は 2010年3月に7号がでたきり
もう6年半もあたらしい号がでていない。
そのあいだグループでの野宿をよびかけたり、
かとうさんが野宿と旅がらみの本をだしたりと、
まったくの休止状態ではないものの、
本筋の活動からはとおざかっている。
このごろでは、まえにつくられた「野宿野郎」を
増刷するのさえ めんどうになったようで、
在庫ぎれの号がではじめている。
いよいよ「野宿野郎」はさいごのときをむかえるのかと、
残念におもっていたところ、
ことしの10月から「野宿野郎」を
電子書籍化するうごきがでてきた。
ためしに1号を電子書籍化したところ、
たいしてうれなかったものの、
1冊だけより2冊をと、2号も電子書籍化された。
そのあとも順調に電子書籍化がすすみ、
12月2日に電子書籍化された第5号が発売されている。
きゅうに勤勉なうごきをみせたのもおもしろいけど、
ふるい「野宿野郎」を電子書籍化するだけでなく、
あたらしい「野宿野郎」を
電子書籍として つくってくれないだろうか。
まえの出版から6年半もあいだがあくと、
いまさら紙版の「野宿野郎」をつくるのは
かなり腰がおもいことだろう。
あっさり電子書籍にきりかえたら
またあたらしい気分でとりくめるのではないか。
かとうさんのアパートにすみついたナメクジの報告は、
ぜひ電子書籍版の「野宿野郎」でよみたい。
2016年12月08日
ふつうがえらい
職場で将来的な事業展開が話題にのぼったとき、
いまのかたちをつづけるだけでも
どれだけたいへんか、というはなしになった。
職員がなんにんかあつまって仕事にとりくむ場合
(会社はたいていそうだ)、
職員や、職員の家族が病気でたおれたら、
仕事はおもわくどおりすすまなくなる。
きょうとおなじ日が、これからもつづいてくれるのが
いちばんありがたい。
スーパーエリートが短期間に集中してちからを発揮するよりも、
あたりまえの職員が、あたりまえに
コツコツと仕事をすすめることが どれだけとうといか。
ずいぶんこころざしのひくいはなしみたいだけど、
「ふつうがえらい」「あたりまえがどれだけたいへんか」
というはなしは、
「がんばらない」がすきなわたしに ぴったりの話題だった。
たいていのことは、ふつうにつづけるだけで
じゅうぶんえらいのではないか。
よく、◯◯はできてあたりまえ、なんていうけど、
そのあたりまえのことでさえ、
つづけるのはあんがいたいへんだ。
1回や2回だけなら、なんてことなくても、
それを毎回かかさずやりのは それなりにちからがいる。
あたりまえのことを、あたりまえにこなせば、
それだけであるていどの仕事をしたといえる。
そんな日をながくつづけたら、
全体としては着実に成果があがってくる。
けっきょく大切なのは、健康でどれだけ仕事にとりくんだかになる。
「生きてるだけで丸もうけ」とだれかがいってたけど、
仕事にしてもそんなかんじだ。
健康なからだで職場にかよい、
あたりまえの仕事をこなすだけでも
8割がたの責任を りっぱにはたしている。
わたしのまいにちは、きわめて平凡 かつたいくつなので、
はなばなしい成果をあげるひとをみると がっかりしがちだ。
このあたりまえな生活に、
もうすこし自信をもってもいいかもしれない。
規則ただしく くらし、仕事にまいにちかよう。
人畜無害で 波風をたてず、あたりさわりのない日々をおくっている。
ただそれだけでも それなりの人生であり、
ふつうがじゅうぶんちからをもつというとらえ方は、
わたしの価値観とかさなり、ストンとおなかにおちた。
いまのかたちをつづけるだけでも
どれだけたいへんか、というはなしになった。
職員がなんにんかあつまって仕事にとりくむ場合
(会社はたいていそうだ)、
職員や、職員の家族が病気でたおれたら、
仕事はおもわくどおりすすまなくなる。
きょうとおなじ日が、これからもつづいてくれるのが
いちばんありがたい。
スーパーエリートが短期間に集中してちからを発揮するよりも、
あたりまえの職員が、あたりまえに
コツコツと仕事をすすめることが どれだけとうといか。
ずいぶんこころざしのひくいはなしみたいだけど、
「ふつうがえらい」「あたりまえがどれだけたいへんか」
というはなしは、
「がんばらない」がすきなわたしに ぴったりの話題だった。
たいていのことは、ふつうにつづけるだけで
じゅうぶんえらいのではないか。
よく、◯◯はできてあたりまえ、なんていうけど、
そのあたりまえのことでさえ、
つづけるのはあんがいたいへんだ。
1回や2回だけなら、なんてことなくても、
それを毎回かかさずやりのは それなりにちからがいる。
あたりまえのことを、あたりまえにこなせば、
それだけであるていどの仕事をしたといえる。
そんな日をながくつづけたら、
全体としては着実に成果があがってくる。
けっきょく大切なのは、健康でどれだけ仕事にとりくんだかになる。
「生きてるだけで丸もうけ」とだれかがいってたけど、
仕事にしてもそんなかんじだ。
健康なからだで職場にかよい、
あたりまえの仕事をこなすだけでも
8割がたの責任を りっぱにはたしている。
わたしのまいにちは、きわめて平凡 かつたいくつなので、
はなばなしい成果をあげるひとをみると がっかりしがちだ。
このあたりまえな生活に、
もうすこし自信をもってもいいかもしれない。
規則ただしく くらし、仕事にまいにちかよう。
人畜無害で 波風をたてず、あたりさわりのない日々をおくっている。
ただそれだけでも それなりの人生であり、
ふつうがじゅうぶんちからをもつというとらえ方は、
わたしの価値観とかさなり、ストンとおなかにおちた。
2016年12月07日
なによりも睡眠時間が大切みたいだ
荻原魚雷氏の「日常学事始」第42回(web本の雑誌)は
「睡眠を優先する生活」。
http://www.webdoku.jp/column/gyorai/2016/1130_125049.html
水木しげるさんのエッセイを紹介しながら
睡眠の大切さが力説されている。
たしかにカゼをひいたときなど、
とにかくねていれば からだがなおしてくれるのを実感する。
動物だって、まるくなってただねむるだけで
病気やケガをなおしている
(とくに野性動物はそうするしかない)。
すこしまえのAERAには、
糸井重里さんの
「ちゃんとメシ食って、風呂入って、寝てる人にはかなわない」
という発言が みだしにつかわれていた。
糸井さんは、ことばのセンスで勝負しているようにおもっていたけど、
その糸井さんが
「(ちゃんとした生活をおくっているひとには)かなわない」
というのだから、説得力がある。
むかしのいいかたでは「快食快眠快便」こそが生活の基本だ。
いそがしいとき なにをけずるかといえば、
まず睡眠時間であり、それを当然とおもっていたけど、
そんなことをするから質のひくい仕事になってしまう。
睡眠時間をなによりも優先させるのが
トータルでみるといい仕事につながる。
自分のことでいうと、
睡眠時間は6〜7時間とすこしすくないものの、
あとの快食快便について、
おおむねいい線をたもっている。
ただしい習慣をつづけてきたおかげと、
自慢してよさそうだけど、
実感としては そんなに健康ではない。
つかれてヘロヘロなときがおおく、
糸井さんに「かなわない」といってもらえるほどの
ねばりづよく安定したちからはとてもない。
このまえひさしぶりに酒をのまずにねたら
(二日よいで、夜になってもあまりほしくなかった)、
つぎの朝の目ざめが ものすごくすっきりしていた。
酒をのまないとこんなに楽なのかとおどろき、
6日間ほど禁酒がつづいた。
酒は、睡眠時間をけずるし、
ねむりの質をおとしてしまう。
それがわかっていてのんでしまうのが
酒の魔力であり、人間のよわさだ。
わたしみたいに 酒がよわい人間でも
「酒をのまないのは つまらなくない?」
とわりに本気でおもったりする。
わかっていながら酒をのんでしまうし、
そのけっか睡眠時間がすくなくなる。
などといいながら、いちばん睡眠時間をへらしているのは
このブログなのだと うすうす気づいている。
ブログをかかなくなったとき、
こんなにもすっきりした生活だったのかと
おどろくかもしれない。
「睡眠を優先する生活」。
http://www.webdoku.jp/column/gyorai/2016/1130_125049.html
水木しげるさんのエッセイを紹介しながら
睡眠の大切さが力説されている。
人間は寝ることによってかなりの病気が治る。私は"睡眠力"によって傷とか病気を秘かに治し、今日まで"無病"である(水木しげるの『カランコロン漂泊記』)
たしかにカゼをひいたときなど、
とにかくねていれば からだがなおしてくれるのを実感する。
動物だって、まるくなってただねむるだけで
病気やケガをなおしている
(とくに野性動物はそうするしかない)。
すこしまえのAERAには、
糸井重里さんの
「ちゃんとメシ食って、風呂入って、寝てる人にはかなわない」
という発言が みだしにつかわれていた。
糸井さんは、ことばのセンスで勝負しているようにおもっていたけど、
その糸井さんが
「(ちゃんとした生活をおくっているひとには)かなわない」
というのだから、説得力がある。
むかしのいいかたでは「快食快眠快便」こそが生活の基本だ。
いそがしいとき なにをけずるかといえば、
まず睡眠時間であり、それを当然とおもっていたけど、
そんなことをするから質のひくい仕事になってしまう。
睡眠時間をなによりも優先させるのが
トータルでみるといい仕事につながる。
自分のことでいうと、
睡眠時間は6〜7時間とすこしすくないものの、
あとの快食快便について、
おおむねいい線をたもっている。
ただしい習慣をつづけてきたおかげと、
自慢してよさそうだけど、
実感としては そんなに健康ではない。
つかれてヘロヘロなときがおおく、
糸井さんに「かなわない」といってもらえるほどの
ねばりづよく安定したちからはとてもない。
このまえひさしぶりに酒をのまずにねたら
(二日よいで、夜になってもあまりほしくなかった)、
つぎの朝の目ざめが ものすごくすっきりしていた。
酒をのまないとこんなに楽なのかとおどろき、
6日間ほど禁酒がつづいた。
酒は、睡眠時間をけずるし、
ねむりの質をおとしてしまう。
それがわかっていてのんでしまうのが
酒の魔力であり、人間のよわさだ。
わたしみたいに 酒がよわい人間でも
「酒をのまないのは つまらなくない?」
とわりに本気でおもったりする。
わかっていながら酒をのんでしまうし、
そのけっか睡眠時間がすくなくなる。
などといいながら、いちばん睡眠時間をへらしているのは
このブログなのだと うすうす気づいている。
ブログをかかなくなったとき、
こんなにもすっきりした生活だったのかと
おどろくかもしれない。
2016年12月06日
ほかの動物の いのちをうばう覚悟
イノシシやシカの被害が新聞にのっていた。
「駆除」したイノシシの肉をたべた、
というはなしもよんだことがある。
農作物に被害をおよぼすとはいえ、
ただころすだけでは もうしわけないので、
そうやってどんどんたべればいいとおもう。
流通にのせにくいのだろうけど、
ころしたまますてるのは、もうしわけないし、もったいない。
もしやすく手にはいるのなら、
わたしもうりあげに協力したいくらいだ。
しばらくまえに『僕は漁師になった』(千松信也)
をよんだら、いちばんうまいのがイノシシで、
シカはぐっとおちる、とかいてあった。
ワナをしかけて猟をするひとのはなしだ。
イノシシを1頭しとめれば、何十キロもの肉が手にはいる。
おいしいうえに、お金もかからないのだから、
ものをもたないシンプルな生活に漁師はむいていそうだ。
ワナにかかった動物を千松さんはどうするのかというと、
トンカチで頭をたたいてとどめをさすのだという。
イノシシの肉はほしいけど、とどめをさすのは
とてもわたしにはできそうにない。
小学生などの子どもたちが、自分がたべている肉は、
じつは牛や豚、それにニワトリなどをころしたものだとしり、
もう肉はたべない、といいだして
親がこまっているはなしを新聞の投書欄でよんだ。
親としては、子どもの気もちもわかるけど、
でも肉をこのさきずっとたべないのは
発育のうえで問題となるのでは、とこまっている。
自分がたべるために、ほかの動物のいのちをうばうのは
かわいそうだから できない、という気もちはよくわかる。
わたしもそうおもうけど、おなかをすかせ、
おいしそうな食事をまえにすると、
ついどうでもよくなって ありがたくいただいてしまう。
動物をころすのはかわいそう、という小学生はただしい。
親は心配するだろうけど、いい機会なので
いっしょにいのちについて かんがえればいいとおもう。
それでもなお、かわいそうだからたべない、というのなら、
その子の気もちを尊重して、肉なしの食事をみとめたらいいのでは。
そのうち なりゆきで またたべはじめるとおもうけど、
ずっとたべないのなら、それもまたそれでいい。
わたしは、スーパーでうっているおかげで、
肉やさかなをなんとかたべさせてもらっている人間だ。
自分で動物のいのちをうばえるかというと、
それだけの根性はない。
豚なんてとてもころせないし、ニワトリだって無理だ。
魚なら、なんとかできそうな気がするけど、
生きている魚をまな板にのせたとき、
もし目があったりしたら、とても包丁をさしこめないだろう。
自分の覚悟と責任において、いのちをうばえないのなら、
たべる権利はない、といわれると
そのとおりだとおもう。
ほかのひとのちからをかりて、いのちをいただくのは、ずるい。
ずるいとしりながら、肉やさかなをおいしくいただくのは
まちでくらす人間のあまえであり、
なにもいいわけできない。
「駆除」された イノシシやシカにしても、
自分ではころせないのだから
肉になったところを いいとこどりしていただくのは
いのちを尊重する原理原則からただしくない。
自分でころすだけのつよいこころがあってこそ、
はじめてイノシシの肉をいただく権利をえる。
「駆除」した肉をすてるのは もったいないけれど、
もったいないからたべる、というだけではおさまらない
つよい気もちで生きる覚悟がもとめられる。
「駆除」したイノシシの肉をたべた、
というはなしもよんだことがある。
農作物に被害をおよぼすとはいえ、
ただころすだけでは もうしわけないので、
そうやってどんどんたべればいいとおもう。
流通にのせにくいのだろうけど、
ころしたまますてるのは、もうしわけないし、もったいない。
もしやすく手にはいるのなら、
わたしもうりあげに協力したいくらいだ。
しばらくまえに『僕は漁師になった』(千松信也)
をよんだら、いちばんうまいのがイノシシで、
シカはぐっとおちる、とかいてあった。
ワナをしかけて猟をするひとのはなしだ。
イノシシを1頭しとめれば、何十キロもの肉が手にはいる。
おいしいうえに、お金もかからないのだから、
ものをもたないシンプルな生活に漁師はむいていそうだ。
ワナにかかった動物を千松さんはどうするのかというと、
トンカチで頭をたたいてとどめをさすのだという。
イノシシの肉はほしいけど、とどめをさすのは
とてもわたしにはできそうにない。
小学生などの子どもたちが、自分がたべている肉は、
じつは牛や豚、それにニワトリなどをころしたものだとしり、
もう肉はたべない、といいだして
親がこまっているはなしを新聞の投書欄でよんだ。
親としては、子どもの気もちもわかるけど、
でも肉をこのさきずっとたべないのは
発育のうえで問題となるのでは、とこまっている。
自分がたべるために、ほかの動物のいのちをうばうのは
かわいそうだから できない、という気もちはよくわかる。
わたしもそうおもうけど、おなかをすかせ、
おいしそうな食事をまえにすると、
ついどうでもよくなって ありがたくいただいてしまう。
動物をころすのはかわいそう、という小学生はただしい。
親は心配するだろうけど、いい機会なので
いっしょにいのちについて かんがえればいいとおもう。
それでもなお、かわいそうだからたべない、というのなら、
その子の気もちを尊重して、肉なしの食事をみとめたらいいのでは。
そのうち なりゆきで またたべはじめるとおもうけど、
ずっとたべないのなら、それもまたそれでいい。
わたしは、スーパーでうっているおかげで、
肉やさかなをなんとかたべさせてもらっている人間だ。
自分で動物のいのちをうばえるかというと、
それだけの根性はない。
豚なんてとてもころせないし、ニワトリだって無理だ。
魚なら、なんとかできそうな気がするけど、
生きている魚をまな板にのせたとき、
もし目があったりしたら、とても包丁をさしこめないだろう。
自分の覚悟と責任において、いのちをうばえないのなら、
たべる権利はない、といわれると
そのとおりだとおもう。
ほかのひとのちからをかりて、いのちをいただくのは、ずるい。
ずるいとしりながら、肉やさかなをおいしくいただくのは
まちでくらす人間のあまえであり、
なにもいいわけできない。
「駆除」された イノシシやシカにしても、
自分ではころせないのだから
肉になったところを いいとこどりしていただくのは
いのちを尊重する原理原則からただしくない。
自分でころすだけのつよいこころがあってこそ、
はじめてイノシシの肉をいただく権利をえる。
「駆除」した肉をすてるのは もったいないけれど、
もったいないからたべる、というだけではおさまらない
つよい気もちで生きる覚悟がもとめられる。
2016年12月05日
『ギルバート・グレイブ』田舎まちでのかわらない生活にひかれる
『ギルバート・グレイブ』
(ラッセ=ハルストレム:監督・1993年・アメリカ)
評判をききながらも、なんとなくみていなかった作品だ。
すばらしかった。
(以下、ネタバレあり)
アメリカの田舎まちでくらす 家族のものがたり。
これまでもたいしたことはおきなかったし、
これからさきも、ずっとかわらない生活がつづくだろう。
すんでいるひとにとっては
たまらない閉塞感かもしれないけど、
こういう舞台設定がわたしはだいすきだ。
たべつづけて巨大なかたまりになった母親と、
知的障害をもつ弟のめんどうをみるのは
ギルバート(ジョニー=デップ)しかいない。
そんな境遇がながくつづくと、ギルバートはあきらめから
なげやりな生きかたにかたむきがちになる。
ギルバートは、田舎まちにうもれている
しがないわかものでしかない。
それでいいとひらきなおりつつ、
このままではたまらないというおもいもまた もっている。
そんなときに、キャンピングカーで旅をつづけるベッキーが登場して
ギルバートに変化をおよぼす。
家族のきずなとか、
障害児をかかえた家族と、
まちのひとたちとの交流などといった いかにもなドラマに、
作品のよさをもとめる必要はない。
どこにでもある家族の、
どこにでもあるはなしであり、
だからこそ 作品の世界をリアルにかんじる。
お父さんはなぜ死んでしまったのか。
ベッキーはなぜ旅をつづけるのか。
お母さんは なぜかわろうとしないのか。
この作品をみているうちに、
それらのことはどうでもよくなってくる。
そういう人生もありだし、
変化をもとめるよりも、状況をうけいれる道もある。
あのふるくさい町に、ずっとくらしつづけるのも
わるくない人生ではないか。
生活は、かわるようでかわらない。
かわらないようで、かわっていく。
18歳の誕生日から1年たてば、
アーニーはすこしだけ歳をとって19歳となり、
ベッキーはことしもまたキャンピングカーで町をおとずれてくれる。
はなばなしいことはなにもおこらないけど、
あの町にとどまるのも それはそれでひとつのいき方だ。
アーニーをえんじたディカプリオがうまい。
指のうごかし方、ちからがはいらないはしり方、
さけび声、わらい方。
ディカプリオとしらなかったら、
えんじているのではなく、
知的障害者が出演しているのかとおもっただろう。
『レインマン』で自閉症の男性をえんじた
ダスティン・ホフマンもうまかったけど、
『ギルバート・グレイブ』のディカプリオもすばらしい。
じっさいに、アーニーみたいな子がいたら、
親も兄弟もたいへんだろう。
ときにはたまらなく いやなやつにおもえるだろに、
ふかいところで家族が(まちのひともまた)
アーニーをうけいれている。
こんな作品がなぜつくられたのか不思議におもえた。
たしかにすばらしい作品ではあるけれど、
なにか特別な事件がおこるわけではないこのものがたりが、
なぜおおくのひとのこころをとらえたのか。
この作品をみるうちに、
かわるものとかわらないものの対比を どうしてもかんがえる。
アーニーはかわろうとおもっても かわれない。
ギルバートは、かわろうとおもえばかわれるけど、
あえてこのまま まちでくらそうときめた。
ふるくさいまちにとどまりつづけるギルバートを
肯定したい気もちがわたしにはある。
おおくのひともまた、
そこにこの作品の魅力をかんじるのではないか。
ギルバートは、アーニーといっしょにまちでくらしつづける。
あきらめではなく、肯定的な選択として。
(ラッセ=ハルストレム:監督・1993年・アメリカ)
評判をききながらも、なんとなくみていなかった作品だ。
すばらしかった。
(以下、ネタバレあり)
アメリカの田舎まちでくらす 家族のものがたり。
これまでもたいしたことはおきなかったし、
これからさきも、ずっとかわらない生活がつづくだろう。
すんでいるひとにとっては
たまらない閉塞感かもしれないけど、
こういう舞台設定がわたしはだいすきだ。
たべつづけて巨大なかたまりになった母親と、
知的障害をもつ弟のめんどうをみるのは
ギルバート(ジョニー=デップ)しかいない。
そんな境遇がながくつづくと、ギルバートはあきらめから
なげやりな生きかたにかたむきがちになる。
ギルバートは、田舎まちにうもれている
しがないわかものでしかない。
それでいいとひらきなおりつつ、
このままではたまらないというおもいもまた もっている。
そんなときに、キャンピングカーで旅をつづけるベッキーが登場して
ギルバートに変化をおよぼす。
家族のきずなとか、
障害児をかかえた家族と、
まちのひとたちとの交流などといった いかにもなドラマに、
作品のよさをもとめる必要はない。
どこにでもある家族の、
どこにでもあるはなしであり、
だからこそ 作品の世界をリアルにかんじる。
お父さんはなぜ死んでしまったのか。
ベッキーはなぜ旅をつづけるのか。
お母さんは なぜかわろうとしないのか。
この作品をみているうちに、
それらのことはどうでもよくなってくる。
そういう人生もありだし、
変化をもとめるよりも、状況をうけいれる道もある。
あのふるくさい町に、ずっとくらしつづけるのも
わるくない人生ではないか。
生活は、かわるようでかわらない。
かわらないようで、かわっていく。
18歳の誕生日から1年たてば、
アーニーはすこしだけ歳をとって19歳となり、
ベッキーはことしもまたキャンピングカーで町をおとずれてくれる。
はなばなしいことはなにもおこらないけど、
あの町にとどまるのも それはそれでひとつのいき方だ。
アーニーをえんじたディカプリオがうまい。
指のうごかし方、ちからがはいらないはしり方、
さけび声、わらい方。
ディカプリオとしらなかったら、
えんじているのではなく、
知的障害者が出演しているのかとおもっただろう。
『レインマン』で自閉症の男性をえんじた
ダスティン・ホフマンもうまかったけど、
『ギルバート・グレイブ』のディカプリオもすばらしい。
じっさいに、アーニーみたいな子がいたら、
親も兄弟もたいへんだろう。
ときにはたまらなく いやなやつにおもえるだろに、
ふかいところで家族が(まちのひともまた)
アーニーをうけいれている。
こんな作品がなぜつくられたのか不思議におもえた。
たしかにすばらしい作品ではあるけれど、
なにか特別な事件がおこるわけではないこのものがたりが、
なぜおおくのひとのこころをとらえたのか。
この作品をみるうちに、
かわるものとかわらないものの対比を どうしてもかんがえる。
アーニーはかわろうとおもっても かわれない。
ギルバートは、かわろうとおもえばかわれるけど、
あえてこのまま まちでくらそうときめた。
ふるくさいまちにとどまりつづけるギルバートを
肯定したい気もちがわたしにはある。
おおくのひともまた、
そこにこの作品の魅力をかんじるのではないか。
ギルバートは、アーニーといっしょにまちでくらしつづける。
あきらめではなく、肯定的な選択として。
2016年12月04日
ややこしい大会規定をいかして 優勝をきめた 鹿島のしたたかさ
ことしのJリーグは、鹿島がチャンピオンシップで結果をのこし、
みごとに優勝をいとめた。
決勝の第1戦目に0-1でやぶれ、アウェーでの第2戦目は、
2点以上いれてかたなければ 鹿島の優勝はないという
ややこしい条件のもとにJリーグさいごの試合がおこなわれた。
チャンピオンシップに導入されたレギュレーションには、
アウェーゴールと年間かち点のおおいチームが
有利になるようさだめられている。
結果として このルールを最大限にいかしたのが鹿島だ。
第2戦目に先取点をいれても 優勝に直接は意味がないなんて、
浦和としてはせっかくいれた得点なのに、
肩すかしをくったかんじだ。
反対に鹿島は、点をいれられても しょげこまずにすんだ。
鹿島としては、1-1のひきわけではだめで、
1-2、あるいは2-3と、
2点以上をいれて浦和にかつのが 優勝への条件だった。
浦和はアウェーでおこなわれた1戦目に
1点をあげてかったことから、
2戦目はひきわけでもよかったし、
たとえ0-1でまけたとしても
年間かち点が1位だった浦和の優勝となる。
こうしたルール上の有利さは、
あんがい試合はこびによけいな計算をもちこんでしまいがちだ。
ちからがはいりすぎたり、まもりに意識がまわったりする。
かんがえることがおおければ、鹿島の伝統がいきてくる。
前半7分に、浦和の興梠が先取点をあげる。
1点をいれた浦和が、これでだんぜん有利になったかというと、
それがホーム・アンド・アウェー・ルールのおもしろいところで、
浦和の先取点は、試合のうえでいうと、
直接かちにつながる点ではない。
鹿島としては、2点いれてかたなければならないことにかわりはなく、
そして、じっさいに2点をいれてかちこした鹿島の
試合はこびのうまさがひかった。
試合後のインタビューで、鹿島の小笠原選手が、
「(チャンピオンシップの規定を)
おかしいというひともいるとおもうけど、
勝ちは勝ちなわけで」
みたいな発言をしていた。
0-1でまけても優勝、とか
先取点をいれても 直接には意味がない、みたいに
試合の結果にいろんな意味がくっついているので、
すっきりと応援しにくいレギュレーションだ。
優勝をにがした浦和としては、選手もサポーターも、
くやしさをどこにぶつけたらいいのか
気もちの整理がつかないのではないか。
ここ数年、もうすこしで優勝というボジションにつけながら、
さいごのところで手がとどかずに
くやしいおもいをかさねてきた。
かたちはちがえども、結果としては、
ことしもまたさいごのさいごでやられてしまった。
心情的に浦和を応援しながらみていたわたしは、
どうしてもすっきり鹿島の優勝をたたえられない。
2017年のシーズンから、
Jリーグはまた1シーズン制にもどる。
チャンピオンシップはことしでうちきられるわけで、
浦和はさいごまで大会規定に運をよびこめなかった。
みごとに優勝をいとめた。
決勝の第1戦目に0-1でやぶれ、アウェーでの第2戦目は、
2点以上いれてかたなければ 鹿島の優勝はないという
ややこしい条件のもとにJリーグさいごの試合がおこなわれた。
チャンピオンシップに導入されたレギュレーションには、
アウェーゴールと年間かち点のおおいチームが
有利になるようさだめられている。
結果として このルールを最大限にいかしたのが鹿島だ。
第2戦目に先取点をいれても 優勝に直接は意味がないなんて、
浦和としてはせっかくいれた得点なのに、
肩すかしをくったかんじだ。
反対に鹿島は、点をいれられても しょげこまずにすんだ。
鹿島としては、1-1のひきわけではだめで、
1-2、あるいは2-3と、
2点以上をいれて浦和にかつのが 優勝への条件だった。
浦和はアウェーでおこなわれた1戦目に
1点をあげてかったことから、
2戦目はひきわけでもよかったし、
たとえ0-1でまけたとしても
年間かち点が1位だった浦和の優勝となる。
こうしたルール上の有利さは、
あんがい試合はこびによけいな計算をもちこんでしまいがちだ。
ちからがはいりすぎたり、まもりに意識がまわったりする。
かんがえることがおおければ、鹿島の伝統がいきてくる。
前半7分に、浦和の興梠が先取点をあげる。
1点をいれた浦和が、これでだんぜん有利になったかというと、
それがホーム・アンド・アウェー・ルールのおもしろいところで、
浦和の先取点は、試合のうえでいうと、
直接かちにつながる点ではない。
鹿島としては、2点いれてかたなければならないことにかわりはなく、
そして、じっさいに2点をいれてかちこした鹿島の
試合はこびのうまさがひかった。
試合後のインタビューで、鹿島の小笠原選手が、
「(チャンピオンシップの規定を)
おかしいというひともいるとおもうけど、
勝ちは勝ちなわけで」
みたいな発言をしていた。
0-1でまけても優勝、とか
先取点をいれても 直接には意味がない、みたいに
試合の結果にいろんな意味がくっついているので、
すっきりと応援しにくいレギュレーションだ。
優勝をにがした浦和としては、選手もサポーターも、
くやしさをどこにぶつけたらいいのか
気もちの整理がつかないのではないか。
ここ数年、もうすこしで優勝というボジションにつけながら、
さいごのところで手がとどかずに
くやしいおもいをかさねてきた。
かたちはちがえども、結果としては、
ことしもまたさいごのさいごでやられてしまった。
心情的に浦和を応援しながらみていたわたしは、
どうしてもすっきり鹿島の優勝をたたえられない。
2017年のシーズンから、
Jリーグはまた1シーズン制にもどる。
チャンピオンシップはことしでうちきられるわけで、
浦和はさいごまで大会規定に運をよびこめなかった。
2016年12月03日
MacBook ProのハードディスクをSSDにかえる
MacBook Proがきゅうに起動しなくなった。
リンゴのマークがでたあと、
カーソルがくるくるまわりつづける。
システムをさがしているみたいだ。
ハードディスクがおかしくなったのだろう。
自分でいくつかの方法をためしても うまくいかないので、
パソコンの師匠にみてもらった。
やはり問題はハードディスクだといわれる。
それならせっかくの機会なので、
ハードディスクをSSDに とりかえることにする。
11インチのMacBook Airをつかっているので、
SSDのはやさはよくわかっている。
キビキビとすばやい反応をしめし、
起動もすごくはやい。
MacBook Proとくらべると、
巨大な戦艦と駆逐艦ぐらいの差がある。
エアーをかった4年まえは、
まだSSDの値段がたかかったので、
128ギガのSSDをえらんだ。
いまなら、240ギガのSSDが8000円ほどで手にはいる。
わたしには、SSDへの交換は手にあまるので、
師匠におねがいした。
パソコンをもちこんだつぎの日に、
もうできあがったと連絡がある。
きょうさっそくうけとりにいき、
SSDになったMacBook Proと対面する。
起動ボタンをおすと、
カーソルがまわる間もなくたちあがった。
どのソフトをひらいても、
すごいチューンナップをほどこした車みたいにうごいてくれる。
MacBook Airがはやくうごくぶんには、
ちいさいからはやいのだろう、みたいなかんじだったけど
(ちいさなメッシがはやくうごくみたいに)、
15インチのMacBook Proがスイスイ仕事するのは
想像していた以上にここちいい。
問題は、MacBook Proの出番がさほどないことで、
メインのiMacとおでかけ用のエアーがあると、
MacBook Proは微妙な位置づけになる。
それでもぜひ手元におきたかったほど、
当時のMacBook Proは特別な存在だった。
用がないパソコンはかわない、
なんて教訓になるとおもしろくないので、
おでかけにはMacBook Proをもってゆき、
エアーはタブレットのかわり、という線でつかっていきたい。
リンゴのマークがでたあと、
カーソルがくるくるまわりつづける。
システムをさがしているみたいだ。
ハードディスクがおかしくなったのだろう。
自分でいくつかの方法をためしても うまくいかないので、
パソコンの師匠にみてもらった。
やはり問題はハードディスクだといわれる。
それならせっかくの機会なので、
ハードディスクをSSDに とりかえることにする。
11インチのMacBook Airをつかっているので、
SSDのはやさはよくわかっている。
キビキビとすばやい反応をしめし、
起動もすごくはやい。
MacBook Proとくらべると、
巨大な戦艦と駆逐艦ぐらいの差がある。
エアーをかった4年まえは、
まだSSDの値段がたかかったので、
128ギガのSSDをえらんだ。
いまなら、240ギガのSSDが8000円ほどで手にはいる。
わたしには、SSDへの交換は手にあまるので、
師匠におねがいした。
パソコンをもちこんだつぎの日に、
もうできあがったと連絡がある。
きょうさっそくうけとりにいき、
SSDになったMacBook Proと対面する。
起動ボタンをおすと、
カーソルがまわる間もなくたちあがった。
どのソフトをひらいても、
すごいチューンナップをほどこした車みたいにうごいてくれる。
MacBook Airがはやくうごくぶんには、
ちいさいからはやいのだろう、みたいなかんじだったけど
(ちいさなメッシがはやくうごくみたいに)、
15インチのMacBook Proがスイスイ仕事するのは
想像していた以上にここちいい。
問題は、MacBook Proの出番がさほどないことで、
メインのiMacとおでかけ用のエアーがあると、
MacBook Proは微妙な位置づけになる。
それでもぜひ手元におきたかったほど、
当時のMacBook Proは特別な存在だった。
用がないパソコンはかわない、
なんて教訓になるとおもしろくないので、
おでかけにはMacBook Proをもってゆき、
エアーはタブレットのかわり、という線でつかっていきたい。
2016年12月02日
伊藤理佐が気づいた おばさん化の完成
けさ朝日新聞にのった伊藤理佐さんの
「オトナになった女子たちへ」がすばらしかった。
いい習慣がついたのだな、と感心してよんでいると、
「ちゃんとしたおばさんになった」というオチがまっている。
さきまわりしてラクをしたがるのは、
かしこくなったというよりも おばさんへの道であり、
ゆくゆくはおばさん化の完成へとつながっていく。
わかいころは しらないことだらけだ。
なにもしらないからできるし、
なにもしらなくてもこわくない。
それがわかさの特徴であり 特権ともいえる。
わたしにもおぼえがある。
わかいころは さきの心配なんてしないので、
かんたんに仕事をやめた。
なんとかなるだろうとおもっていたし、
たしかになんとかなった。
なんとかなったけど、「わかくてよかった」と
かんたんにはいいきれない。
伊藤さんは「そんな頃に戻りたくない」そうだ。
伊藤さんの記事をよんで気になってきたのは、
おばさんの完成を40代にむかえるのだとしたら、
「老人になった」と気づくのは、
どんな習慣を身につけたときだろう。
老人といっても幅がひろいので、
うっかりしていると、どっぷり老人になっていながら
自分はまだ「おじさん」なのだと
ごまかしてしまうかもしれない。
前期高齢者のうちから、用心しておいたほうがいいような気がする。
わたしが自覚している変化としては、
このごろくつしたをはくのに
無意識で壁によりかかっている。
1500メートルをおよぐと、まえよりも2分おそくなった。
そうした、目にみえる変化だけではなく、
ちいさなラクをするために
なにかさきまわりをするように なっていないだろうか。
それらの工夫を、老化の信号ではなくて、
生活の知恵の獲得とおもいこんでいるのなら いたい。
伊藤さんが「そんな頃に戻りたくない」という裏には、
「ちゃんとしたおばさんになった」ほこりがある。
年齢をかさねただけではなく、さきまわりして、
ちいさなラクをするテクニックも身につけた。
そうなれた自分は、
お金をつまれてもわかいころにもどりたくないほど、
「ちゃんとしたおばさん」なのであり、
伊藤さんは 「ちゃんとしたおばさん」になれた自信がある。
わかさにしがみつきなひとがおおいなかで、
伊藤さんの自覚は すこしさきをいっている。
それができるのも、ちゃんとしたおばさんだからだ。
「オトナになった女子たちへ」がすばらしかった。
今、自分の中で
「今やらなくてもいい、ちょっとしたことをやっておく」
が、はやっている。(中略)
大きなラクじゃなくて、小さなラク。たとえば、「履いていく靴を出しておく」みたいなことだ。
いい習慣がついたのだな、と感心してよんでいると、
「ちゃんとしたおばさんになった」というオチがまっている。
さきまわりしてラクをしたがるのは、
かしこくなったというよりも おばさんへの道であり、
ゆくゆくはおばさん化の完成へとつながっていく。
わたしは昔、履く靴も決めないで、早朝、海外にでかけて靴ずれしていた。若いってすごい。でも、そんな頃に戻りたくない。
わかいころは しらないことだらけだ。
なにもしらないからできるし、
なにもしらなくてもこわくない。
それがわかさの特徴であり 特権ともいえる。
わたしにもおぼえがある。
わかいころは さきの心配なんてしないので、
かんたんに仕事をやめた。
なんとかなるだろうとおもっていたし、
たしかになんとかなった。
なんとかなったけど、「わかくてよかった」と
かんたんにはいいきれない。
伊藤さんは「そんな頃に戻りたくない」そうだ。
伊藤さんの記事をよんで気になってきたのは、
おばさんの完成を40代にむかえるのだとしたら、
「老人になった」と気づくのは、
どんな習慣を身につけたときだろう。
老人といっても幅がひろいので、
うっかりしていると、どっぷり老人になっていながら
自分はまだ「おじさん」なのだと
ごまかしてしまうかもしれない。
前期高齢者のうちから、用心しておいたほうがいいような気がする。
わたしが自覚している変化としては、
このごろくつしたをはくのに
無意識で壁によりかかっている。
1500メートルをおよぐと、まえよりも2分おそくなった。
そうした、目にみえる変化だけではなく、
ちいさなラクをするために
なにかさきまわりをするように なっていないだろうか。
それらの工夫を、老化の信号ではなくて、
生活の知恵の獲得とおもいこんでいるのなら いたい。
伊藤さんが「そんな頃に戻りたくない」という裏には、
「ちゃんとしたおばさんになった」ほこりがある。
年齢をかさねただけではなく、さきまわりして、
ちいさなラクをするテクニックも身につけた。
そうなれた自分は、
お金をつまれてもわかいころにもどりたくないほど、
「ちゃんとしたおばさん」なのであり、
伊藤さんは 「ちゃんとしたおばさん」になれた自信がある。
わかさにしがみつきなひとがおおいなかで、
伊藤さんの自覚は すこしさきをいっている。
それができるのも、ちゃんとしたおばさんだからだ。
2016年12月01日
「クラシックカヘ」と、ただしく発音するアナウンサーがすてきだ
ラジオをきいていたら、「クラシックカヘ」と、
番組名を紹介していた。
カフェでなく「カヘ」。
さすがのNHKだから、日本語にない音を口にするわけにいかず、
おそらくアナウンサーに「F」の発音をきんじているのだと
すごく感心してしまった。
下くちびるをかんで「V」を発音するのもきっとご法度だ。
うつくしそうな女性が、やさしい声で「クラシックカヘ」というのは
色っぽくてなかなか風情がある。
坊っちゃんの時代にタイムスリップしたような。
梅棹さんがなにかの本で、
日本人はフェスティバルがうまくいえず、
つい「ヘステバル」になってしまう、とかいていた。
日本語にないいくつもの音が、
外来語としてはいってきたために、
それをむかしからの日本語でやりくりすると
「ヘステバル」になる。
NHKのアナウンサーはフェスティバルでなく
ちゃんと「ヘステバル」と発音しているだろうか。
学校の授業で英語をならうときに、
いかにも英語っぽい発音をこころみるのは
かなり抵抗をかんじるものだ。
クラス全員をまえに、ひとりだけで朗読すると、
知識としては「f」や「th」が
「フ」や「ス」でないことをしっていても、
はずかしさから どうしても「コーヒー」や「サンキュウ」と
やってしまいがちだ。
これらの発音は、英語としてきくと
問題があるかもしれないけど、
日本語としては「カヘ」がただしいのだと、
ラジオのアナウンサーが気づかせてくれた。
すこしまえの「今日のダーリン」(ほぼ日)に、
「アボカド刑事」が紹介されていた。
なのだという。
「アボカド」がただしいのに、あいかわらず「アボガド」というひとが
あとをたたないために、そんな「おしごと」がもとめられるのだろう。
それにならって「カへポリス」というのはどうか。
「カフェ」なんてすかした発音をしたり、紙にかいたりしたひとに
注意をよびかけるボランティア警察だ。
英語を否定しているのではなく、
ただしい日本語をまもろうとするうごきなわけで、
「ストライク」を「いいたまいっぽん」なんて
いいかえるのとは わけがちがう。
わたしたちがはなしているのは日本語なのだから、
英語っぽく発音するのはおかしなはなしで、
「カヘ」でじゅうぶんだし、「カヘ」がただしい。
番組名を紹介していた。
カフェでなく「カヘ」。
さすがのNHKだから、日本語にない音を口にするわけにいかず、
おそらくアナウンサーに「F」の発音をきんじているのだと
すごく感心してしまった。
下くちびるをかんで「V」を発音するのもきっとご法度だ。
うつくしそうな女性が、やさしい声で「クラシックカヘ」というのは
色っぽくてなかなか風情がある。
坊っちゃんの時代にタイムスリップしたような。
梅棹さんがなにかの本で、
日本人はフェスティバルがうまくいえず、
つい「ヘステバル」になってしまう、とかいていた。
日本語にないいくつもの音が、
外来語としてはいってきたために、
それをむかしからの日本語でやりくりすると
「ヘステバル」になる。
NHKのアナウンサーはフェスティバルでなく
ちゃんと「ヘステバル」と発音しているだろうか。
学校の授業で英語をならうときに、
いかにも英語っぽい発音をこころみるのは
かなり抵抗をかんじるものだ。
クラス全員をまえに、ひとりだけで朗読すると、
知識としては「f」や「th」が
「フ」や「ス」でないことをしっていても、
はずかしさから どうしても「コーヒー」や「サンキュウ」と
やってしまいがちだ。
これらの発音は、英語としてきくと
問題があるかもしれないけど、
日本語としては「カヘ」がただしいのだと、
ラジオのアナウンサーが気づかせてくれた。
すこしまえの「今日のダーリン」(ほぼ日)に、
「アボカド刑事」が紹介されていた。
社会の「アボガド」という表記を見つけては、
厳重に注意するという「おしごと」
なのだという。
「アボカド」がただしいのに、あいかわらず「アボガド」というひとが
あとをたたないために、そんな「おしごと」がもとめられるのだろう。
それにならって「カへポリス」というのはどうか。
「カフェ」なんてすかした発音をしたり、紙にかいたりしたひとに
注意をよびかけるボランティア警察だ。
英語を否定しているのではなく、
ただしい日本語をまもろうとするうごきなわけで、
「ストライク」を「いいたまいっぽん」なんて
いいかえるのとは わけがちがう。
わたしたちがはなしているのは日本語なのだから、
英語っぽく発音するのはおかしなはなしで、
「カヘ」でじゅうぶんだし、「カヘ」がただしい。