2016年12月05日

『ギルバート・グレイブ』田舎まちでのかわらない生活にひかれる

『ギルバート・グレイブ』
(ラッセ=ハルストレム:監督・1993年・アメリカ)

評判をききながらも、なんとなくみていなかった作品だ。
すばらしかった。
(以下、ネタバレあり)

アメリカの田舎まちでくらす 家族のものがたり。
これまでもたいしたことはおきなかったし、
これからさきも、ずっとかわらない生活がつづくだろう。
すんでいるひとにとっては
たまらない閉塞感かもしれないけど、
こういう舞台設定がわたしはだいすきだ。

たべつづけて巨大なかたまりになった母親と、
知的障害をもつ弟のめんどうをみるのは
ギルバート(ジョニー=デップ)しかいない。
そんな境遇がながくつづくと、ギルバートはあきらめから
なげやりな生きかたにかたむきがちになる。
ギルバートは、田舎まちにうもれている
しがないわかものでしかない。
それでいいとひらきなおりつつ、
このままではたまらないというおもいもまた もっている。
そんなときに、キャンピングカーで旅をつづけるベッキーが登場して
ギルバートに変化をおよぼす。

家族のきずなとか、
障害児をかかえた家族と、
まちのひとたちとの交流などといった いかにもなドラマに、
作品のよさをもとめる必要はない。
どこにでもある家族の、
どこにでもあるはなしであり、
だからこそ 作品の世界をリアルにかんじる。
お父さんはなぜ死んでしまったのか。
ベッキーはなぜ旅をつづけるのか。
お母さんは なぜかわろうとしないのか。
この作品をみているうちに、
それらのことはどうでもよくなってくる。
そういう人生もありだし、
変化をもとめるよりも、状況をうけいれる道もある。
あのふるくさい町に、ずっとくらしつづけるのも
わるくない人生ではないか。
生活は、かわるようでかわらない。
かわらないようで、かわっていく。
18歳の誕生日から1年たてば、
アーニーはすこしだけ歳をとって19歳となり、
ベッキーはことしもまたキャンピングカーで町をおとずれてくれる。
はなばなしいことはなにもおこらないけど、
あの町にとどまるのも それはそれでひとつのいき方だ。

アーニーをえんじたディカプリオがうまい。
指のうごかし方、ちからがはいらないはしり方、
さけび声、わらい方。
ディカプリオとしらなかったら、
えんじているのではなく、
知的障害者が出演しているのかとおもっただろう。
『レインマン』で自閉症の男性をえんじた
ダスティン・ホフマンもうまかったけど、
『ギルバート・グレイブ』のディカプリオもすばらしい。
じっさいに、アーニーみたいな子がいたら、
親も兄弟もたいへんだろう。
ときにはたまらなく いやなやつにおもえるだろに、
ふかいところで家族が(まちのひともまた)
アーニーをうけいれている。

こんな作品がなぜつくられたのか不思議におもえた。
たしかにすばらしい作品ではあるけれど、
なにか特別な事件がおこるわけではないこのものがたりが、
なぜおおくのひとのこころをとらえたのか。
この作品をみるうちに、
かわるものとかわらないものの対比を どうしてもかんがえる。
アーニーはかわろうとおもっても かわれない。
ギルバートは、かわろうとおもえばかわれるけど、
あえてこのまま まちでくらそうときめた。
ふるくさいまちにとどまりつづけるギルバートを
肯定したい気もちがわたしにはある。
おおくのひともまた、
そこにこの作品の魅力をかんじるのではないか。
ギルバートは、アーニーといっしょにまちでくらしつづける。
あきらめではなく、肯定的な選択として。

posted by カルピス at 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする