2016年12月06日

ほかの動物の いのちをうばう覚悟

イノシシやシカの被害が新聞にのっていた。
「駆除」したイノシシの肉をたべた、
というはなしもよんだことがある。
農作物に被害をおよぼすとはいえ、
ただころすだけでは もうしわけないので、
そうやってどんどんたべればいいとおもう。
流通にのせにくいのだろうけど、
ころしたまますてるのは、もうしわけないし、もったいない。
もしやすく手にはいるのなら、
わたしもうりあげに協力したいくらいだ。

しばらくまえに『僕は漁師になった』(千松信也)
をよんだら、いちばんうまいのがイノシシで、
シカはぐっとおちる、とかいてあった。
ワナをしかけて猟をするひとのはなしだ。
イノシシを1頭しとめれば、何十キロもの肉が手にはいる。
おいしいうえに、お金もかからないのだから、
ものをもたないシンプルな生活に漁師はむいていそうだ。
ワナにかかった動物を千松さんはどうするのかというと、
トンカチで頭をたたいてとどめをさすのだという。
イノシシの肉はほしいけど、とどめをさすのは
とてもわたしにはできそうにない。

小学生などの子どもたちが、自分がたべている肉は、
じつは牛や豚、それにニワトリなどをころしたものだとしり、
もう肉はたべない、といいだして
親がこまっているはなしを新聞の投書欄でよんだ。
親としては、子どもの気もちもわかるけど、
でも肉をこのさきずっとたべないのは
発育のうえで問題となるのでは、とこまっている。

自分がたべるために、ほかの動物のいのちをうばうのは
かわいそうだから できない、という気もちはよくわかる。
わたしもそうおもうけど、おなかをすかせ、
おいしそうな食事をまえにすると、
ついどうでもよくなって ありがたくいただいてしまう。
動物をころすのはかわいそう、という小学生はただしい。
親は心配するだろうけど、いい機会なので
いっしょにいのちについて かんがえればいいとおもう。
それでもなお、かわいそうだからたべない、というのなら、
その子の気もちを尊重して、肉なしの食事をみとめたらいいのでは。
そのうち なりゆきで またたべはじめるとおもうけど、
ずっとたべないのなら、それもまたそれでいい。

わたしは、スーパーでうっているおかげで、
肉やさかなをなんとかたべさせてもらっている人間だ。
自分で動物のいのちをうばえるかというと、
それだけの根性はない。
豚なんてとてもころせないし、ニワトリだって無理だ。
魚なら、なんとかできそうな気がするけど、
生きている魚をまな板にのせたとき、
もし目があったりしたら、とても包丁をさしこめないだろう。
自分の覚悟と責任において、いのちをうばえないのなら、
たべる権利はない、といわれると
そのとおりだとおもう。
ほかのひとのちからをかりて、いのちをいただくのは、ずるい。
ずるいとしりながら、肉やさかなをおいしくいただくのは
まちでくらす人間のあまえであり、
なにもいいわけできない。

「駆除」された イノシシやシカにしても、
自分ではころせないのだから
肉になったところを いいとこどりしていただくのは
いのちを尊重する原理原則からただしくない。
自分でころすだけのつよいこころがあってこそ、
はじめてイノシシの肉をいただく権利をえる。
「駆除」した肉をすてるのは もったいないけれど、
もったいないからたべる、というだけではおさまらない
つよい気もちで生きる覚悟がもとめられる。

posted by カルピス at 22:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする