『レナードの朝』(ペニー=マーシャル:監督・1990年・アメリカ)
(ネタバレあり)
車いすにすわったまま、石のようにかたまっている脳炎の患者たち。
表情もなく、ただ生きているだけの存在にみえる。
そんな患者たちにも 反射神経がのこっていると気づいたセイヤー医師
(ロビン=ウィリアムズ)は、
ボールをなげたり、床に模様をかいて
自分でうごけるちからを回復させようとこころみる。
セイヤーは、彼らのこころは生きつづけており、
彼らがただの植物人間ではないとしんじている。
パーキンソン病にドーパミンが有効だという報告から、
セイヤーは自分の患者であるレナード(ロバート=デ=ニーロ)に
ドーパミンをためしてみた。
レナードは劇的な回復をみせ、
ひとりでうごき、はなし、
健常者とかわらない状態まで機能をとりもどす。
セイヤーがほかの患者にもドーパミンをつかってみると、
全員におなじような効果があらわれた。
これまで植物人間としてあつかわれていた患者たちの部屋が、
町の社交クラブのように にぎやかな場所へとかわっていく。
自分でうごけるようになった彼らは、
とうぜん健常者のような意識をもちはじめる。
人間は、なにかの能力を獲得すると、
さらにそのさきをもとめがちだ。
ほかのひとたちと おなじことがしたくなる。
彼らは町にでかけ、ダンスをおどり、自由に散歩したりと、
ひとりの人間としてあつかわれたい。
しかし、彼らには はたらく場所があるわけではないし、
家にかえることもできない。
彼らがねむりつづけていたあいだに、
ある患者の両親は離婚し、配偶者は施設にはいっていた。
せっかく機能をとりもどしても、彼らがいる場所は病院しかない。
ドーパミンによる劇的な回復は、いったいなにをもたらしたのか。
回復は、しあわせとむすびつくのか。
ドーパミンの効果はながくはつづかなかった。
はじめにレナードが、そのあとほかの患者たちも、
またもとのように表情をうしない、
麻痺したからだへともどってしまう。
病室は、また以前とおなじように
しずかでうごきのすくない場所になった。
しかしセイヤーは、彼らとすごすうちに、
生きているよろこびについて かんがえるようになった。
いったんはもとのからだにもどり、
そしてまた機能をうしなってしまった患者たち。
そんな彼らにはずかしくない生きかたとは。
内気な性格をいいわけにして、
ひとにこころをひらけなかったセイヤーが、
女性スタッフのエレノアをはじめてお茶にさそう。
たったそれだけのことが、どれだけのよろこびをもたらすか。
植物人間だとおもっていた患者たちに
知性がそなわっているとおどろく 病院のスタッフたちは、
重度の自閉症者である 東田直樹さんをしったわたしとおなじだ。
ピョンピョンとびはねる東田さんが
内面では知性にあふれ ゆたかな世界をもっている。
障害があったり、認知症だったりで、
まわりのひとから理解されず
つらいおもいをしているひとがどれだけいるだろう。
どんなにうごきがなくても、
すべてのひとにこころがある。
『レナードの朝』をみておもったのは、
そんなあたりまえのことだ。