永田和宏氏がよせている。
生理学・医学賞で大隅良典氏が受賞されており、
永田氏は友人として招待者枠にいれてもらえたという。
壇上の友を見ながら、大隅良典という友を誇りに思うことはもちろんだが、サイエンスを通じて、こんな友人を持つことのできた自分自身を誇らしくも思ったことだった。大隅さんの晴れ姿を見つつ、私自身をも誇らしく思えたのである。
ほんとうの友人とは、このように相手の受賞を
こころからよろこべる あいだがらをいうのだろう。
それにしても、
「こんな友人を持つことのできた自分自身を誇らしくも思った」
というよろこびは、あまりきいたことがない。
『未来少年コナン』をみてショックをうけたわたしは、
いったいこの作品のなにがわたしをとらえたのだろうと
不思議におもった。
監督の宮ア駿さんが、
「コナンは、だいすきなラナにあたいするだけの
りっぱな人間でありたいとおもった」
みたいなことをどこかではなしていたのをよんで
自分もそうした人間なのだと すごく腑におちた。
すてきな女の子がいて、
その子はかわいいだけでなく、高貴な精神をもつ。
その子にみあう人間であるよう 自分をたかめていきたい。
そうした関係が、わたしの琴線にふれたようだ。
コナンはラナのことをつよくおもい、
ラナもまたコナンを絶対的にしんじている。
わたしもだれかとそんなあいだがらになりたかったから、
『未来少年コナン』をみて どうしようもなく
気もちがたかぶったのだろう。
永田氏が大隅氏によせる友情は、
コナンとラナの関係に、すこしちかいようにおもった。
大隅氏のような、りっぱな成果をあげた研究者と
自分は友人でいられるほどに 自分をたかめてきたから、
こころの底から大隅氏の受賞をよろこび、
自分をもほこりにおもえた。
男が女性によせるあこがれだけでなく、
友情でもおなじような感情がわいてくるようだ。
そういえば、わかいころのわたしは、
仕事についても、おなじような気もちを経験した。
尊敬する上司にたいし、
そのひとといっしょにはたらけるだけの
まともな人間でありたいとおもっていたのだから、
なかなかみどころのあるわかものだったのかも。
すきなひとに値するだけの りっぱな人間でありたい、
というねがいは、宮崎さんのアニメではすてきだけど、
わたしはながくつづけられなかった。
わたしの価値観とは なにかが微妙にちがったのだろう。
そうした生きかたでむくわれるタイプだと
自分を分析していたのに、
いまは はるかにひくいところで生きている。
ずっとわすれていた気もちを、
永田氏の記事をよんで、ひさしぶりにおもいだした。