本書の広告をみたときは、
梅棹さんが予言者とよばれるのにひっかかった。
梅棹さんとしたら、予言が目的ではなく、
世界のうごきを観察し、自分の論理とてらしあわせ、
みちびきだされた結果としての 歴史的必然だったはずだ。
でも、とおしてよんでみると、一冊の評伝として
梅棹さん像が、よくまとめられている。
著者の東谷さんは、梅棹さんが設立した事務局につとめた経験があり、
世間でいう「予言者」とちがうのは よくわかっているひとだ。
梅棹さんについて、つけやき刃でまとめた本ではなく、
とおすぎず、ちかすぎもしない距離から、
梅棹さんの仕事をみてきた 編集者としての視点がいかされている。
こ梅棹さんについてかかれた本のおおくは、
文化人類学や知的生産にかんするもので、
東谷さんがいう
この本で試みたのは、言論人としての梅棹忠夫、思想家としての梅棹忠夫、文化行政プランナーとしての梅棹忠夫について
は、あまり目にする機会がない。
梅棹さんが、文化行政の主導者として 人脈や権力をいかしながら
どのように政治家や行政へ はたらきかけたかにもふれてあり
これまでの評伝にはない梅棹さんがしるされている。
梅棹さんは、おおくのプロジェクトにかかわりながら、
関係者にたすけられ、非常にスムーズに
ものごとがはこんだようにかくけれど、
いつもそんなときばかりではないはずだ。
この本には、編集者からみた梅棹さんの一面が紹介されており
かなり強引な発言もあって興味ぶかい。
わたしがすきな『わたしの生きがい論』からの引用がおおく、
日本の将来をかんがえるうえでのヒントとなっている。
エアコンのきいたいごこちのいい小屋でねむる豚が、
ふたたびキバをとりもどすかどうか、
こたえはあと数年のうちにあきらかになるだろう。
わたしは、漢字をつかわない文章など、
梅棹さんの影響をつよくうけたけれど、
この本をよむと、ひとりの梅棹ファンにすぎないのだとわかった。
ファンでしかない。
わたしからみると、梅棹さんなしで(「生きがい論」・知的生産など)
生きていけるひとが不思議におもえるけど、
そんなのはいちファンとしての心情であり、
客観的にいえば、世間一般での「梅棹忠夫」は、
もはやわすれられている存在なのかもしれない。
そんな梅棹さんを、本書はいままたとりあげ、
これまでの仕事をとらえなおす機会となった。
ひとりの梅棹ファンとして、
おおくのひとによまれるようねがっている。