2017年01月31日

異文化コミュニケーションの達人

出雲市から松江にもどるときに、私鉄の一畑電車にのろうと
駅の待合室でつぎの電車をまっていた。
ローカル電車なので、1時間に1本くらいしかはしっていない。
もうすぐでつぎの電車が出発するというギリギリのとき、
ひとりの外国人女性が待合室にあらわれた。
どうしたらいいのかわからず こまっているようすだ。
駅の職員さんが、ためらいなくはなしかけた。
「出雲大社?OK、大丈夫」と安心させ、
券売機までつれていく。
その女性は、機械のあつかいがわからないまま
テキトーにボタンをおすと、
「まずお金をいれてね」と
駅員さんはお金をいれる場所と、
いきさきのボタンを手ぶりでおしえる。
出雲大社へは、とちゅうの駅で、いちどのりかえる必要があり、
「川跡でチェンジだよ」と
なんどか念をおして 女性を改札へおくりだした。
女性は安心しきって駅員さんの指示をうけいれ、
かるい足どりで階段をのぼっていく。

駅員さんは60代くらいの男性で、
英語は はなせないようだけど、
すこしもためらわず まよっている女性にはなしかけた。
英文をこねくりまわすうちに、頭のなかがまっしろになり、
けっきょく しらん顔をきめこむ、
という日本人的な対応ではなく、
こまっているひとをほっておけない
親切な田舎のおじさん的な態度だった。
駅員さんなのだから、仕事としてあたりまえ、
というのはかんたんだけど、
みていてとてもいい気もちになる。
英語っぽいのは「OK」と「チェンジ」だけなのに、
ちゃんと女性にいいたいことがつたわっており、
これぞコミュニケーションだとおもった。

やさしい日本語の研修会が出雲市でひらかれたと
朝日新聞の地方版にのっていた。
外国にはなしかけるのだからといって、
英語や中国語で説明するのではなく、
外国人にもつたわりやすい日本語をかんがえよう、
というこころみだ。
阪神大震災のとき、「たきだし」や「土足厳禁」などの表現では
避難所の外国人につたわりにくかったのがきっかけだという。
日本にいる外国人がこまらないよう、
それぞれのことばで対応しようとすると、
たくさんの外国語をつかわなくてはならない。
日本語でつたえようとすれば、日本語だけでたりるので、
この方針にわたしも賛成だ。

一畑電車の駅員さんがつかったのは、
「やさしい日本語」と、相手を安心させようとするこころづかいだ。
とにかく、まよわず声をかけたのがよかった。
こまっているのは相手なのだから、
こちらがはなすことばを なんとかしてききとろうとする。
英語でなくても、つたえようとするこちらの態度に相手は安心するし、
ジェスチャーをまじえたらもっとわかりやすくなる。
日本語がよくわからないお客さんへの対応として、
駅員さんの堂々とした仕事ぶりに すっかり感心した。

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2017年01月30日

「アニメ100年史」波動砲用のゴーグルは進化しない

「クリエーターたちのDNA
〜ニッポンアニメ100年史〜」をみる。
日本でアニメーションがはじめてつくられてから、
ことしで100年になるらしい。
これまでに、なんどかアニメブームがおこり、
いま アニメは、いちぶのファンだけのものではなく、
『君の名は。』のように、だれもがふつうにみている。
東映動画が ディズニーアニメのような作品を 日本でもつくろうとし、
手塚治虫が「鉄腕アトム」で
週1回のテレビ放映をアニメ界にもちこみ、
マジンガーZが巨大ロボットアニメをきりひらき、というふうに、
これまでにいくつもの さきがけとなる作品がうまれ、
あらたな転換期をむかえてきた。

わたしも「オタク」とまではいかなくても、
ずいぶん熱中してアニメをみたものだ。
もっとも、むかしは「アニメ」なんていわなかった。
ただたんに「マンガ」、よくて「マンガ映画」か。
おさないころは「鉄腕アトム」・「鉄人28号」・
「ハクション大魔王」「マッハゴーゴーゴー」・「魔法使いサリー」、
いまならたかが野球だろうときりすてそうな
「巨人の星」にも あたりまえに熱中した。
子どもながらに画期的だとかんじたのが『ルパン三世』で、
深刻がらずにかるがると生きるルパンたちに
ずいぶんいかれたものだ。
そして、18歳のときにみた『未来少年コナン』に、
決定的な影響をうけた(ような気がする)。

番組では、なんにんものクリエーターが
アニメとのであいやおもいでをかたっている。
「宇宙戦艦ヤマト」がみじかい時間ながれると、
波動砲をうつとき 乗組員たちがつけるゴーグルが
やけにチャチなのを発見した。
「宇宙戦艦ヤマト」といえば、
第二次世界大戦のときにつくられたふるい戦艦を修繕し、
14万8千光年のかなたまで旅だたせようという計画なのに、
さいごのきりふだ的な波動砲をうつ準備にはいると、
きゅうに時代をさかのぼって 太平洋戦争でつかっていたような
ふるめかしいゴーグルですべての乗組員が目をまもる。
もちろん強力な波動砲の光線をあび、目をいためてはならないので、
とうぜんの用心なのだけど、
科学の粋をあつめた宇宙戦艦ヤマトにおいて、
あのようなゴーグルがつかわれていたのがすごく新鮮だった。
作品がつくられた当時は、
そのチープさを だれもがよしとしたのだ。
用をはたせばそれでいいという、究極の合理主義なのかもしれない。
重箱の隅をつついているのではなく、
だれもが納得して あのちゃちなゴーグルを登場させたのがおもしろい。

もうひとつ、つよく共感したのが、
出崎統作品の最高傑作は、映画版の『エースをねらえ!』だと
庵野秀明さんがはなしていたこと。
ほかの出演者も、この作品をたかく評価していた。
TV版ではなく、映画版というのが、この作品においては重要だ。
わたしの記憶では、なんどか◯◯ロードショーで放映されたものの、
そのあとはまったくみかけなくなっている。
1979年と、つくられたのは『カリオストロの城』とおなじ年なのに、
そのあとのあつかいは ずいぶん差をつけられてしまった。
青春映画の傑作である映画版『エースをねらえ!』に
ふたたび光をあてたところが、
「アニメ100年史」ならではの功績といえる。

残念ながら、わたしがすきなフラッシュアニメ、
『秘密結社 鷹の爪』については なにもふれられなかった。
『エヴァンゲリオン』と『君の名は。』のあいだに
『秘密結社 鷹の爪』をおくと、
日本のアニメーションが どこへむかおうとしているかについて、
理解がうんとたやすくなるのでは。

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2017年01月29日

健康問題

職場の健康診断をうけないかわりに、
漢方薬を処方してもらっている病院で、
年にいちど血液検査をおねがいしている。
健康診断をうけないのは、
どこかわるいところがみつかって、
再検査なんていわれるのがいやだから。
再検査して、たとえばガンがみつかりました、となった場合、
わたしのよわいこころは のりこえられそうにない。
だったら、なにもしらずに、そのまま死のう、という
よわいんだか つよいんだか わからない論理にすがっている。
病名がわかっても なおしようがないのなら、
しらないほうがいいという論理武装だ。

でも、この武装はとてもよわく、
歳をとるにつれ、血液検査の数値に自信がもてなくなると、
検査の結果をきくたびに ものすごくストレスをうける。
死ぬときがきたら 死ねばいいという趣旨からはなれ、
数値に一喜一憂する自分がかなしい。
健康に自信がもてない心理につけこんで、
中年たちの不安をかきたてる ネットや雑誌にはらをたてる。

自分の健康が盤石でなくなると、
健康そうにみえるまわりのひとも、
あんがい いろいろな問題をかかえているのでは、
とおもうようになった。
元気そうなあのひとも、
じつはコレステロールの値を気にしているかもしれないし、
ほっそりとかっこいいあのひとは、ダイエット商品にたより、
必死の努力で維持しているのかもしれない。
健康そのもののにみえるおじさんだって、
動脈硬化におびえ、血液サラサラの薬を手ばなせないでいるのかも。
確率からいって、40歳をすぎたら、おおくのひとが
なんらかの健康問題をかかえているはずだ。
健康こそが、だれにもしられたくない
最大のプライバシーかもしれない。

ながいきしたところで、
いいことばかりでないのは よくわかっている。
いつまでも生きられるわけではないし、
ながいきするほど したしいひとがポツリポツリと死んでいく。
認知症になれば よほど達観したひとでなければ
かなしみから たちなおれないだろう。
歳をとるほどガンのリスクはたかくなる。
健康面でも経済的にも、
いまのくらしを いつまでつづけられるかはわからない。

それでも健康への不安からのがれられないのは、
こころのよわさが問題なのだろう。
もうじゅうぶん生きたとおもえたら、
そんなにジタバタしないで
からだの異常をうけいれられるだろうに、
つい もうすこしこのまま生きたいと、よくばってしまう。
つよい精神力の人物がでるはなし、
たとえばコーマック=マッカーシーの小説をよむと、
運命をうけいれ、あるがままに生きようと さとった気になるのに、
なにも症状がでないうちから、血液検査の数値ぐらいで
一喜一憂するのはなさけない。
自分がしあわせとおもえたら、それでいいわけで、
どんな病気になろうとも、これまでの人生に感謝して
ニッコリほほえみながら三途の川をわたりたい。

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2017年01月28日

『探検家、40歳の事情』(角幡唯介)探検記よりエッセイがおすすめ

『探検家、40歳の事情』(角幡唯介・文藝春秋)

まえにこのブログで、角幡さんの探検ものに
ケチをつけたことがある。
なにかおこりそうな気配をふりまいて、
ながいあいだ読者をひっぱっておきながら、
けっきょく肩すかしにおわるからだ。
文章がたくみで、よませるだけに、
さいごまでよんで 結果をしったときにガクッとくる。
デビュー作の『空白の五マイル』は
迫力のある探検記としてみとめるけど、
あとの作品、たとえば『雪男は向こうからやって来た』は
とくに針小棒大の印象がつよい。

角幡さんの文章は、ひとつひとつのセンテンスがながく、
こみいっているようでいて、
前後のつながりがよくかんがえられており、
ことばえらびが適切なせいか とてもわかりやすい。
語彙がほうふで、たいしたことのない内容でも、
なんだか高尚なはなしを よんでいるような気がしてくる。
探検記では よみおえたあとに不満がわいてくるけど、
はじめからエッセイなら、角幡さんの文章力がぞんぶんにいかされる。
あるいは妻は以前のママトモと会うために毎日自転車で四十分かけて落合・高田馬方面の児童館に通わなくてはならなくなったので、その疲れが槍の矛先のようにとがって、横でアザラシのようにゴロゴロしている私に向かってイヌイットみたいに突き刺したくなったのかもしれない。

事実をありのままつたえる探検記やルポルタージュよりも、
エッセイにむいている文体ではないか。

『探検家、40歳の事情』は、探検にまつわるエッセイであり、
エッセイなので 事実にどれだけ主観をまじえ
グチャグチャにこねくりまわしても、おもしろければそれでいい。
この本におさめられたできごとは、
角幡さんでなければ体験できないような
辺境での探検がもとになっている。
どの話題も、角幡さんのたくみな文章力によって
効果的に味つけされており、おもしろくよめる。
探検記よりもエッセイむき、というと、
角幡さんはおもしろくないだろうけど、
めずらしい素材を用意し、たくみな文章力で
コテコテに味つけされた文章は、
いわば読書版のヌーベル・キュイジーヌであり、
娯楽を目的としたよみものとして たかいレベルにたっしている。
エッセイだけでなく、メインの探検記でも、
これぐらいよませてくれないだろうか。

posted by カルピス at 14:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月27日

『ジャンゴ 繋がれざる者』タランティーノがつくる復讐劇

『ジャンゴ 繋がれざる者』
(タランティーノ:監督・2012年・アメリカ)

タランティーノ作品では、
ひきがねがいつだってとてもかるい。
まさかこのタイミングで、と
気もちの準備ができていないうちに銃がうたれる。
タマが発射されると、ひとのからだは
かんたんに穴があいてしまうし、
血や内蔵がどばっとあふれでる。
それでいて、あと味がわるくないのがこの作品の特徴だ。
なにしろ壮大な復讐の映画だから。

黒人が奴隷として人権をうばわれている時代。
白人に善意を期待しても、なにもかわらないと絶望し、
自分と妻をつらい目にあわせてきた白人たちへ
ジャンゴがいかりを爆発させるラストが圧巻だ。

わたしは『ヘイトフル・エイト』のあとにこの作品をみた。
共通点がいくつか目につくので、
どうしてもふたつの作品をくらべてしまう。
作品の舞台が、アメリカ南北戦争の前後
(『ジャンゴ』は2年まえで、『ヘイトフル・エイト』は
 戦争がおわってから数年後)と
ほぼおなじ時代設定になっている。
どちらも賞金かせぎが重要な存在で、
どちらも黒人への差別意識がふかくからんでいる。
上映時間も165分と167分と、だいたいおなじ。
つづきものでないのが不思議なくらいだ。

もちろん、共通点があるからといって
内容がにているわけではない。
まったくちがうおもむきの作品であり、
どちらもそれぞれにおもしろかった。
銃の暴力性で秩序がなんとか維持されている社会に
黒人差別がからむ。
『ジャンゴ』はとくに奴隷制時代の白人が、
どれだけひどい存在だったかがえがかれている。
史実そのままではないとはいえ、
白人への復讐にむかうジャンゴが
正義のヒーローにみえてくる。

サミュエル=L=ジャクソンは、
タランティーノ作品の常連さんのようだ。
『ジャンゴ』では、白人にべったりよりそい、
あたまがからっぽで、白人以上に黒人を軽蔑している
たまらなくいやなタイプの農場監督なのが、
『ヘイトフル・エイト』では、黒人への差別をゆるさない
たたかう黒人としての登場だ。
もうひとり、『イングロリアス・バスターズ』に
いくつものことばをはなすドイツ人将校の役ででていた
クシルトフ=ヴァルツがいい演技をみせている。

posted by カルピス at 17:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月26日

根源的な疑問。どうやってみんな生活しているのか

ラジオをきいていたら、
番組の担当者とゲストがなにかの話題でもりあがっている。
すごくたのしそうだ。
お金のはなしがでたわけではないけど、
彼女たちだって、給料をもらい、家賃をしはらって生活している。
ほとんどのひとたちは、お金と無関係ではくらしていない。
わかくて、人気があり、なんの苦労もしらずに
スイスイ生きているようにおもえる歌手や芸能人たちも、
なんらかの方法でお金をかせいでいる。
芸能事務所に所属してるのかもしれないし、
個人経営で、自分だけ、あるいは自分とマネージャーだけの
ちいさな単位でうごいているとしても、
生活にはとうぜんお金がからんでくる。
お金がなければごはんをたべられない。
なにをいまさらあたりまえのことを、
とおもわれるかもしれないけど、
わたしは、まちでみかけるそれぞれのひとが、
それぞれのかたちで生活しているのを不思議におもう。
テレビやラジオにでているひとたちばかりでなく、
あらゆるひとが どうやってくらしているのか。

サラリーマンは会社からお金をもらうからわかりやすいけど、
芸能人もにたようなしくみで給料をえているのか。
たとえばバレリーナは、どうやってくらしをなりたたせている?
バレエだけでたべていくのはたいへんだ、と
このまえみた番組でいっていた。
バレエだけでなく、マイナーな職種のおおくは、
トップにいる ほんのわずかなひとしか
生活できない収入なのではないか。
マイナーな音楽を専門にしているひとや、
いちぶの関係者にしかしられていない
抽象画をかくアーティスト、
まずあたりそうにない記録映画の監督さん。
役者やミュージシャン、スポーツ選手にしても、
サラリーマンほど安定してお金をかせげないはずだ。
生活がくるしいかもしれないけど、
そうした仕事をえらんだひとだって生きつづけている。
サラリーマンだから、らくなくらしとはきめられない。
家のローンや子どもの教育費、親の介護もからんでくる。
それぞれが、頭をなやましているにちがいないのに、
それでもなんとか生活できている。

もしかしたら親のすねをかじったり、
ヒモみたいなかたちで
同居人に依存しているひともいるかもしれない。
とにかく、だれもがそのひとなりの経済基盤をもち、
まがりなりにも生きつづけている。
そんなひとやこんなひとが
町をあるくひとのなかにはまじっていて、
そのすべてが かたちはどうあれ
なんとかごはんをたべているって、すごくないか。

べつに、だから日本はえらいとか、
平和が第一だ、といいたいわけではない。
まるでブラウン運動のように、
ほっておいてもひとは生きつづける、
みたいにみえるのを おもしろいとおもう。
人間の社会を、ずっとたかいところから宇宙人が観察したら、
ゴチャゴチャと無秩序にうごきながら
全員がなんとかたべていっているのに感心するのではないか。
だまっていても明日がくるように、つよさやしぶとさとは関係なく、
ポンとなげだされても、ひとはなんとかくらしていく。
人類は、だからわずかなあいだに
70億以上もの人口にふえたのかもしれない。

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2017年01月25日

「不安」や「心配」を味わうために 旅行へいきたくなるのかも

すこしまえの「今日のダーリン」で
糸井重里さんが不安についてかいていた。 

 あの「不安」やら「心配」やらって、
 いいもんなんだよなぁと、あらためてぼくは思っている。
 (中略)
 じぶんにとっての未知の世界という見通しのなさ。
 ほんとうは、人は、そういうものが大好きなのだと思う。
 そのせいで、毎日がおもしろくなったりするからね。
 いやなんだけど好きで、逃げたいけどたのしみ。

旅行といっしょだ。
旅行にでかけたくなるのは
「じぶんにとっての未知の世界という見通しのなさ」
を味わいたいからかもしれない。

ネットでホテルを予約したら、安心だけど おもしろみはない。
もちろん、旅行になにをもとめるかは ひとによってそれぞれだ。
めずらしい風景をみにいくひとにとって、
ハプニングはおこらないほうがいい。
わかものが、自分だめしにいくのなら、
予約はないほうがいいかもしれない。
ただ、旅行の目的がはっきりしていたり、
ひとつにしぼれるひとばかりではない。
あれもしたいし これもみたい。
名物料理をたべたいけど、できるだけおいしいほうがいい。
みしらぬひとについていくのはこわいけど、
土地のひととおしゃべりをしたい。
どちらの希望もみたしながら、印象にのこる旅行がしたい。

2月に予定しているセブ島旅行では、
ついた日と、そのつぎの日はネットでホテルを確保し、
のこりの日は あちこちまわりながら
よさそうなホテルをさがす予定だ。
われながら中途半端で、腰がさだまらないけど、
しらない町に夜ついて、ホテルをさがすのは
わたしにとって「心配」がつよすぎる。
まんなかへんで手をうって、2泊を予約にした。
心配といえば、リゾートで男ひとりがそもそも不自然だ。
たのしそうにあるく家族づれやカップルに
呆然となっている自分を想像できる。

わたしがすきな番組「地球バス紀行」では、
土地のひとにおもしろそうな場所をたずね、
そこまでバスにのってでかけ、ホテルをさがす。
ひとつの旅行スタイルであり、
わたしもわかいころは にたようなやり方で
外国をまわっていた。
このスタイルでは、とうぜん荷物はすくないほうがいいし、
あるていど時間をかけないと おもしろくない。
お金を節約すれば ながいあいだ旅行できるので、
やすいホテルにとまり、屋台での食事が中心になる。
そんなに極端な節約でなければ、
55歳のわたしでも まだこうした旅行ができるだろう。
セブ島旅行では、「不安」や「心配」をたのしんでこよう。

posted by カルピス at 20:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月24日

雪あそびのつづき〜備蓄ゴッコ〜

きのうのつづきで雪のはなし。
松江ではゆうべも雪がふり、まえの日とあわせると
積雪が38センチになった。
朝のおむかえがおそくなり、かえりは はやくおくるので、
ほとんど活動できないのは きのうとおなじ。
2日目となると、わくわく感だけでなく、
めんどくささがまじってきながらも、
わたしの雪あそびはまだつづく。備蓄ゴッコだ。
ほんとうに雪でこまったいるひとは、
ゴッコなんていうと 腹がたつかもしれないけど、
非日常の体験は、ステージを備蓄へとうつした。

きのうのわたしは、食料品の備蓄について、
いくらかの こころのこりをかんじていた。
お米は10キロ以上あるし、インスタントラーメンや
スパゲッティもいくらかはダンボールにはいっている。
だから、たべものにこまっているわけではないのに、
ちょっと雪がつづいただけで、
陸の孤島にとりのこされた気分がわいてくる。
あたりまえにスーパーでかいものができた
とおい日々をなつかしくおもいだす。

わたしは小学生のときによんだ『ロビンソン漂流記』の影響で、
なにかをためこむのがすきだと、まえの記事にかいたことがある。
ロビンソンが小麦をたくわえ、
牧場でヤギをふやす場面がだいすきだった。
おおきくなってからは、現金よりも現物、
たとえばドラム缶いっぱいの灯油や
家のまわりにつみあげたマキの山に
ふかい安心をおぼえる。
西暦2000年をむかえるにあたり、
コンピューターがくるい 混乱がおこるのでは、といわれたときや、
新型インフルエンザがはやりそうだから、
そとにであるかず、しばらく家にこもれるだけの
水とたべものを準備したほうがいい、なんていうときは
おおっぴらに備蓄のかいものができるので はりきったものだ。

今回の大雪で、ほんとうに肉や野菜がかえなくなったらいやだから、
きょうは仕事のかえりにあるいてスーパーへいく。
スカスカの棚に、しなびた野菜がちょっぴり、
みたいな品ぞろえになっているかも、と
心配(たのしみ?)していたけど、
店のなかはいつもとあまりかわらない雰囲気だ。
雪のため、ながぐつをはいた女性がおおい。
あんがい彼女たちも、いまのうちに
備蓄を確保したいのかもしれない。
同好の士をえたようで、連帯感がわく。

お店のようすを報告すると、
いつもにくらべ 品うすになっている棚がいくつかある。
おそうざいはぜんぶうりきれていた。
肉ものこりがすくなくなっており、
ミンチの棚は、鶏肉のミンチがすこしだけならんでいる。
野菜はあんがいのこっているし、値段もいつもどおりだった。
わたしはまずキャベツひと玉をカゴにいれる。
春キャベツが158円だった。ほかには ばらうりのニンジン3本。
それに豆腐と納豆。水煮の大豆を2つ。
ほしたイワシに豚モモのきりおとし。
備蓄というよりも、これでは 夕ごはんのかいものだ。

緊急じたいでは、缶詰や乾めんよりも、
生鮮食品がなつかしくなるだろうから、
日常的にかっているたべものを中心にえらんだ、
というのはいいわけで、ほしいものを ただカゴにいれただけ。
それでもわたしは頭のなかで、
大雪にとざされた町を舞台に、かぎられた食糧をやりくりしながら
寒波をのりきるひとびと、というストーリーにそい、
なんちゃって備蓄の充実をよろこぶ。
あすの朝はひえこみがきびしくなり、
道路がこおるかもしれないと心配されている。
大雪も3日目にはいれば、わたしの想像力はネタがつき、
いよいよほんとうにトホホな心境になるかもしれない。

posted by カルピス at 22:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月23日

突然の雪をたのしむ

朝おきると雪がつもっている。
気象台の発表によると、28センチの積雪だ。
山陰という名前にかかわらず、
わたしがすむ町には いつもだとそんなに雪がつもらない。
10センチ程度の積雪が、ひと冬にあるかないか。
28センチもつもるのはあんがいめずらしい。

朝は、いつもなら事業所を8時半に出発して
利用する方の自宅までおむかえにいく。
いわゆる送迎というやつで、
しかし いきなりふりだした雪の日は、車のながれがわるいので、
1時間おくれて むかえにいくことになった。
はやく事務所をでても、渋滞につかまって、
けっきょくもどってくるのがおそくなってしまう。
いそいでも、ゆっくりでも、どっちみち
きょうはたいした活動はできないので、
安全に気をつけてゆっくりうごく方針だ。

子どもだけが雪をよろこぶわけではなく、
おとなだって これだけつもるとなんだかハイ状態になる。
駐車場と車のうえにつもっている雪をどかし、
出陣式みたいに輪になってコーヒーをのんでから 事務所を出発した。
どんな渋滞にはまっても大丈夫なように、
トイレをすませ、車内にもコーヒーをもちこむ。
市内に車をのりいれると、あんがいスムーズに車がながれている。
いつもの通勤ラッシュと おなじくらいの混雑だ。
混雑というより、雪のため車がスピードをおとしているだけで、
交通量じたいはたいしたことない。
準備万端なときほど、こんなふうに拍子ぬけしがちだ。

午前の活動は、お弁当の配達をちょっと手つだっただけで、
雪のおおさもイベントみたいにおもえ あんがいたのしい。
いつもの時間にみんなでお弁当をたべられたから、
大雪といっても、たいして日常のリズムがくるったわけではない。
午後の仕事は 4ヶ所をまわってお弁当箱をあつめるだけだ。
夕方になるとまた渋滞が予想されるので、
利用者を自宅へおくるのも1時間はやくする。
雪のおかげで なかなかたのしい いちにちとなった。

たのしくなかったのは、家にもどってからだ。
玄関さきの雪かきをしたあとで、
ついでに配偶者が車をとめている場所も、
彼女がかえってきたときのためをおもって雪をどかす。
車1台のスペースをあけるのはけっこうたいへんだけど、
きっとよろこんでくれるだろう。

ところが、配偶者は家にもどってきても
雪かきについてなんの反応もしめさなかった。
雪かきがしてあってもあたりまえ、
あるいは、雪かきなんてわたしには余計なお世話、
もしかしたら、それぐらい夫として当然の義務、
くらいにかんがえているみたいだ。
クールジャパンによると、
日本の常識は世界の非常識らしい。
お礼もいえない配偶者、では 腹がたつので、
便宜的に外国人が同居している家とおもいこむ。
ものすごく日本人的な 気のよわい対処方法だ。
むこうが外国人なら、こっちはバリバリの日本人なのが
ちょっとかなしい。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月22日

錦織圭選手の準備運動がかっこよかった

20日におこなわれたテニスの全豪オープン3回戦、
錦織圭選手とラッコ選手(スロバキア)の試合をすこしみる。
試合のだいぶまえから放送がはじまり、
錦織圭選手の準備運動からずっとカメラがおっていた。
試合まえに、コートでかるくうちあう場面はよくみるけど、
会場の通路で ひとり準備運動にとりくむ映像はめずらしい。
ひとりでのストレッチのあと、コーチが補助して負荷をつよめる。
準備運動をみてるだけですごくかっこよかった。
もうすぐはじまる試合にむけて、
からだをほぐし 気もちをたかめていく。
緊張ではなく集中をかんじる いい準備運動だ。

テニスは、プレーごとに全力でラケットをふるい、
コートじゅうをかけめぐって あいてのゆさぶりについていく。
パワーとスタミナと、そして集中をきらさない
つよい精神力がないと試合をコントロールできない。
錦織選手は178センチと、そんなにおおきくはないけれど、
まえにくらべると、ずいぶんたくましいからだつきになった。

きょう錦織選手は、フェデラー選手と4回戦であたっている。
1ゲームをとるのもたいへんで、やっとこさキープしたとおもったら、
フェデラー選手のサーブ権では
かんたんにラブゲームでかたづけられてしまう。
そのつぎのゲームでブレイクされたりすると、
気もちがおれてしまいそうだ。
この試合のなかで、ブチきれた錦織選手が
ラケットをなげだす場面があった。
それでも そのあとは冷静さをとりもどし、
けっきょくそのセットをとったからかっこよかった。
あのままガタガタっとくずれないのが
錦織選手のつよさなのだろう。

錦織選手は島根県松江市出身なので、
地元ではずいぶんまえからなにかにつけてとりあげられていた。
そのときは、ローカルな話題だったけど、
いまでは世界ランキング5位となり、名実ともに世界の錦織だ。
松江だけでなく、日本じゅうが
テニスといえば錦織圭だけにそまっている。
テレビ・新聞、それにスポーツ雑誌でも、
錦織圭の名前ばかりめだつ。

フェデラー選手との試合は、5セットまでもつれたものの、
けっきょくは錦織選手はやぶれベスト16どまりとなる。
波にのったときのフェデラー選手は手がつけられない。
ランキング5位の錦織選手なのに、まるで100位以下の格下みたいに
もてあそばれている時間帯もあり、
フェデラー選手の復活を印象づける試合となった。
錦織選手にとっては、あらたな課題を
つきつけられた大会になったのではないか。

それに、たとえグランドスラムで優勝する日がきても、
錦織選手のテニスがそれでおわるわけではない。
ひとつの大会、ひとつの試合ごとに、
充実した時間をすごしてほしいとねがう。
圧倒的なつよさをみせるフェデラー選手に、
もっているちからをだしきって
必死にくいついていくきょうの錦織選手は、
応援したくなる魅力があった。

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2017年01月21日

本屋大賞に、『コンビニ人間』がノミネートされていた

本屋大賞のノミネート作品が発表された。
10冊のうちに、芥川賞を受賞した
『コンビニ人間』(村田沙耶香)もはいっている。
まえから村田沙耶香さんの作品に関心があったので、
話題作をもとめる小市民性に抵抗をおぼえながら
わたしも『コンビニ人間』をよんでみた。
このごろのいい方であらわせば、「ふつうに」おもしろい。
わたしは文学にうとい人間であり、
この作品にひめられているであろう
なんらかのメッセージはよみとれなかった。
かいてあるとおりにストーリーをおいかけて、
そこにある具体的な事象が おもしろいか おもしろくないか、だけだ。
『コンビニ人間』の特徴は、わたしがみるところ、
コメディのおもしろさだ。
おもてむきはごくフツーの女性が、
コンビニ・ゾンビへとかわっていく過程を
丁寧にえがいた小説、とだれかが評価したら、
わたしはおおきくうなずいただろう。
芥川賞というので、かたい本かと身がまえていたのに、
そっちかい!みたいなかんじ。
ものすごくあさいよみ方なのだろうけど、率直な感想だ。

本屋大賞は、全国の本屋さんにつとめるひとたちが、
お客さんにいちばんうりたい本をえらぶ賞だという。
選考委員ではなく、現場で本とお客さんにせっしている
書店員の投票というやり方がおもしろい。
とはいえ、残念なことに わたしとこの賞はあまり相性がよくない。
これまでに受賞した13作をみると、
よみおえたのは
第1回目の受賞作『博士の愛した数式』(小川洋子)
第4回(2007年)『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子)
第9回(2012年『舟を編む』(三浦しをん)
の3作品にとどまっている。
『夜のピクニック』(恩田陸)、
『東京タワー〜オカンとボクと、時々オトン〜』(リリー・フランキー)、
『天地明察』(沖方丁)は、とちゅうでなげだしてしまった。

どちらかというと、ノミネートされたものの、
大賞にはとどかなかった作品のほうが
わたしにはおもしろくよめる傾向がある
(『東京タワー』の次点だった『サウスバウンド』(奥田英朗)、
『天地明察』がえらばれた年の『神去なあなあ日常』(三浦しをん)と
『猫を抱いて像と泳ぐ』(小川洋子)など)。
ただ、どの本も、本屋大賞だから、あるいは
ノミネートされたからよんだのではなく、
すきな作家の本だから手をだしたにすぎない。
そうした事実からみると、本屋大賞うんぬんは、
わたしにとってほとんど意味をもたない。

10冊のノミネート作品すべてに目をとおしていたら、
わたし個人のはっきりした感想がかけるれど
(まさに「個人の感想です」)、
よんだ数冊のみで◯◯がいちばん、とは断定できない。
書店員さんのこのみはさまざまと、おもうしかない。
ほかの賞だったら、芥川賞をとった作品を
わざわざ大賞にえらんだりしないだろう。
ただ、本屋大賞は あくまでも投票による順位づけなので、
あんがい『コンビニ人間』がさいごまでのこるかもしれない。
ほかの9冊に、『コンビニ人間』をこえる作品がないとはおもえないし、
どうせなら賞に縁のなかった方が受賞したほうが
わたし個人の感想としては よろこばしい。

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2017年01月20日

「認知症とともに よく生きる旅へ」残酷な認知症に希望がほしい

ETV特集「認知症とともに よく生きる旅へ〜丹野智文42歳〜」をみる。
丹野智文さんは39歳のときに認知症を発症した。
アルツハイマー病と診断されてからも、
職場の理解をえて仕事をつづけている。
認知症になったらおしまい、ではなくて、
まえむきに生きつづけるためには
どうしたらいいのだろう。
丹野さんは、すすんだとりくみでしられるスコットランドをたずねる。

スコットランドでは、認知症と診断されたかたを、
リンクワーカーとよばれる専門家が支援している。
そのしくみをおしえてもらったり、当事者団体との交流など、
丹野さんは充実した取材をつづける。
日本でも当事者の声をとりいれたしくみづくりにとりくみたいと、
はりきっておられた丹野さん。
でも、日本にかえり、取材でのメモをとりだすと、
かなりの記憶をすでにうしなっていた。
大丈夫、これがあればふりかえられるからと、
まえむきな姿勢をみせながらも、丹野さんはなきだしてしまった。
取材のときにかんじた希望、そして興奮を、
こんなふうにわすれてしまうなんて、認知症はなんて残酷なのだろう。

番組の意図は、認知症になってもまえむきに生きられる社会を、
であったのだろうけど、
わたしは、あすへの希望よりも、
認知症の残酷さをよりつよくかんじた。
こんなふうにとりくめば、まえとおなじようにくらせる、という
しくみが日本ではととのっていないだけに、
丹野さんはひとりで問題をかかえているようにみえる。
認知症のひとが 旅行にでかけ、
取材した内容をメモするのはすばらしい体験だけど、
それを日本にかえってから文章におこす、
というながれに問題があったのではないか。
わすれやすいのだから、その日のできごとを、
その日のうちにブログなり文章におこしたほうがいい。

そんなことはわかっている、と丹野さんはいわれるだろう。
わかっていてもわすれてしまうから たいへんなのだ。
わたしだって、いつ認知症を発症するかわからない。
認知症のこわさにおびえるのではなく、
希望をかんじるにはどうしたらいいのか。
残念ながら、番組をみるかぎり、
発症してもなんとかなると
まえむきに気もちにはなれなかった。

スコットランドに滞在ちゅうの丹野さんは、
とてもいきいきとした表情をされていた。
それは、スコットランドにくらす認知症の方々が、
自分の人生を いまもたしかにいきつづけていると、
丹野さんがかんじたからだろう。
そうしたすすんだとりくみが 日本にも必要であり、
とりいれるにあたり、丹野さんには、当事者としての意見を
これからどんどん発信していただきたい。
認知症の発症や進行におびえたり、自分がなさけなくなって
なきだしたりしないですむ社会であってほしい。

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2017年01月19日

『吾輩は猫である』にでてきた「金より愛の方が大事」におどろく

朝日新聞に連載ちゅうの『吾輩は猫である』をよんでいたら、
叔母さんは、じきに金、金って品がわるいのね。金より愛の方が大事じゃありませんか。愛がなければ夫婦の関係は成立しないわ

とかいてあった。
だからといって、漱石が「金よりも愛」と
ほんとうにおもっていたとはかぎらないけれど、
とにかく当時(およそ110年まえ・明治38年)の日本には、
すでに こうした論理を口にしても
おかしくない雰囲気があったのはたしかだろう。

わたしもわかいころは 当然そのようにかんがえ
なんのうたがいももたなかったけど、
いまの率直なわたしの気もちはというと、
愛がなければはなしにならない、とまではおもわない。
そんなことをかくと、まるでわたしが
「愛」もないのに結婚したみたいだけど、
もちろんけしてそんなはずはなく、
じゅうぶんな「愛」のもとにいっしょになった(はず)。
でも、歳をとったせいか、結婚は「愛」だけともいえないのも
たしかだとおもう。
家をつぐための結婚でもかまわないし、
なんとなく、でもいいとおもう。
熱烈な恋愛をへなければ、ただしい結婚ではないというのは、
ただのおもいこみであり、
ながい目でみると、結婚生活は
「愛」以外の要素がおおくの比重をしめる。

まったく愛がないのはさみしいので、
かくし味というか、かざりというか、
いちおう象徴としての愛があったほうが
ないよりもいいけれど、必須ではない。
以前はたとえば時代劇をみていているときなど、
庄屋のアホむすことむりやり結婚させられる
水のみ百姓のむすめ、なんてシチュエーションでは、
純粋な気もちで反対していたのに、
まさかわたしがこんな達観にいたるとは
自分でもしんじがたいけど事実だ。

小倉千加子さんは名著『結婚の条件』で、
たしか愛についてはそんなにふれていなかった。
たかのぞみするな、身のほどをわきまえよと、
くりかえしさとしてあったのではなかったか。
結婚の条件なんてかんがえるから結婚できないのであり、
いいかげんなところで手をうてば
だれでも結婚できる、という本であり、
それこそが結婚への道の核心となる。
中年になったわたしは、小倉さんの説に
なんのうたがいももたない。

明治38年というはるかむかし、
「愛がなければ夫婦の関係は成立しないわ」を
都会の女性が口にしていた事実(小説だけど)。
晩婚化と少子化をはぐくむ土壌が
すでに都会では はぐくまれていたのにおどろいている。

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2017年01月18日

『書斎の王様』むかしから「書斎」って、あんがいかわらないみたい

『書斎の王様』(「図書」編集部 編・岩波新書)

電車のまちあい室に、100円均一の本としておいてあった。
1985年発行とふるいし、
目次をみると、かいているのは
わたしがしらないひとがほとんどだ。
かなり退屈していたのと、椎名誠さんの文がのっていたので、
あまり期待しないで100円を料金箱にいれる。

ふるい時代の書斎術なんて、まず参考にはならないだろう、
とおもっていたのに、あんがいおもしろくよめる。
むかしもいまも、「書斎」へよせる知的生産者のおもいは
あんがいかわらないのかもしれない。
喫茶店をつかったノマドスタイルや、
図書館を自分の書斎と とらえるかんがえ方が、
この本にもかかれている。
ワープロを中心にすえた書斎づくりだって
すでに報告されている。
紙の本をいかに処理するか、という点はかわらないのだから、
書斎はむかしからほとんど変化していない。
ネットが本格化した現代こそ、
書斎のあり方が根本的にみなおされるのだろう。

おめあての椎名誠さんは、
ひとりの通勤者からまなんだ書斎術を紹介している。
そのひとは、毎朝おなじ電車のおなじ席にすわり、
数センチのでっぱりにシャープペンをおくなど、
せまい座席まわりを 仕事がはかどる完璧な空間にかえていたそうだ。
椎名さんはその通勤者を参考にして、
のりものでの移動ちゅうでも 仕事にとりくめるコツを身につける。

わたしは、たまに電車にのったときなど、
文庫本をひらくのがせいぜいで、
とても仕事にとりくむ気はしない。
毎朝やってくる通勤時間だからこそできる
知的生産というのがあるのだろう。
スマホ時代の通勤者は、電車のなかでどうすごしているのだろう。

ラジオで「クラシックカフェ」をきいていたら、
おおきな仕事をのこした19世紀の大作曲家たちは、
判でおしたようにヨーロッパじゅうを旅行したり、
しずかな田舎町でゆっくりやすみながら
作曲にとりくんでいるのに気づいた。
そうした気分転換が、いい作品づくりにつながったのではないか。
いい作品へのプレッシャーはあっただろうが、
お金もちのパトロンに 支援してもらっていた彼らは、
毎朝きゅうくつな通勤列車にもまれるサラリーマンとは対極の
優雅ななくらしをおくっていたようにみえる。
パトロンはついてないし、個人の資産もないけれど、
わたしだって 旅行しながら作品をのこした
作曲家たちのスタイルのほうがいい。

「書斎」とは、まったくはなしがずれてしまった。
わたしの頭のなかは、19世紀的な時間感覚が支配しており、
分きざみのスケジュール管理になじめそうにない。
大作曲家たちは、どんな書斎で作曲にはげんだのかが気になる。
あんがい旅行こそ、そして田舎での散歩こそが
そのまま作曲に直結していたのではないか。
天才たちに必要だったのは、書斎ではなく気分転換だった。
作曲にむかう気もちになるのが最大の関門で、
いったんそうなれば、完成まで一気につっぱしる。
天才たちの優雅なくらしにあこがれるけど、
知的生産法は、参考にならないかも。

posted by カルピス at 21:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月17日

『ヘイトフル・エイト』タランティーノずきにはおすすめ

『ヘイトフル・エイト』(タランティーノ:監督・2015年・アメリカ)

南北戦争がおわったばかりのワイオミング州が舞台。
猛吹雪がおそってきたため、街道ぞいの店に避難した旅人8人が、
おたがいの腹をさぐりあいながら いっときをすごす。
旅人のうちひとりは賞金かせぎで、
獲物である女性の盗賊をつれている。
盗賊のなかまが彼女をうばいかえしにくるだろうと警戒しながら
だれが敵かわからない小屋で吹雪がやむのをまつ。

南北戦争がおわったばかり、という時代設定も
はなしをややこしくしている。
もと北軍の少佐と南軍の将軍がまじっており、
そんなふたりが すんなりなかよくすごせるわけがない。
また、銃がいまよりもずっとかんたんにつかわれていた時代であり、
必要ならば ためらわずバンバン銃がうたれる。
もと北軍の少佐をえんじているのがサミュエル=J=ジャクソン。
あいてをにらむギョロ目と、特徴のある彼の声をきいていると、
『パルプ・フィクション』での聖書の朗読がおもいだされる。
あのときのジュールスのように、
この作品でも かんたんにひきがねがひかれる。

猛吹雪をやりすごす、という設定だけに、
外も 小屋のなかも、ものすごくさむそうだ。
でも、どんな吹雪であろうとも、馬にエサと水をあたえ、
ゆっくりやすませないと そのさきの旅をつづけられない。
吹雪におわれ、ようやく馬車で店にたどりついた一行が、
馬の世話をおろそかにしないのがリアルだった。
こういうシーンに手をぬかない作品がわたしはすきだ。
小屋にたどりついた一行は、
あたたかいコーヒーをのんでひといきつく。
つくりおきのシチューもあった。
これがまたまずそうなシチューで、
さむい小屋なのに お皿によそったとき 湯気もたたない。
コーヒーとシチューは、小道具として あとでいきてくる。

密室で、腹をさぐりあい、どんどんころされていくのは
タランティーノのデビュー作、『レザボア・ドッグス』みたいだ。
ひとことで乱暴にいうと、『レザボア・ドッグス』を
もっと複雑かつゴージャスにしたが『ヘイトフル・エイト』だ。
上映時間は167分。ながすぎるというレビューを目にしたけど、
わたしはみているときにまったくながさが気にならなかった。
演技をみているというよりも、タランティーノ作品らしく
なにげない日常のおしゃべりを 耳にしている気がするからではないか。
タランティーノがすきなわたしは、
独特のいかれた世界にどっぷりとひたり 満足した。

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2017年01月16日

斎藤光博さんの「薬剤師に論破されたい」

デイリーポータルZにのった斎藤光博さんの
「薬剤師に論破されたい」がおもしろかった。
http://portal.nifty.com/kiji/170114198558_1.htm
なんの記事かというと、
ふつうなら失礼できけないような質問を専門職にぶつけ、
豊富な知識と経験によって論破してもらう、というものだ。
すっきり論破されるのは、あんがい気もちのいい体験かもしれない。

薬剤師の池田さんをまねき、
斎藤さんがまえからかかえていた疑問をぶつけている。
挑発したいというよりも、
すでに常識となっていて、いまさらたずねにくい質問を
この機会にぜんぶ口にしてしまおう、というかんじだ。

「薬局ってなんで病院と別なの?」は、
わたしもまえからかんじていた疑問だ。
たずねても失礼ではないかもしれないけど、
ストレートにきいたら なんだかバカにされそうだ。
池田さんは、医薬分業のかんがえ方を、斎藤さんにきちんと説明する。
ドクター、看護師、薬剤師、ケアマネジャーさん、いろんな人が対等に話し合って患者様中心の医療にしていこうっていうのが、今一番の流れになっています。医薬分業はその一環です。

そんなふうに説明されると 「はい、わかりました」というしかない。

つぎに斎藤さんがたずねたのは、
「薬局ってめちゃ儲かっていますよね?」
今やたらと薬局多くないですか? この間うちのすぐ近所に調剤薬局ができたんですが、そんな使わないし、別に要らないです。それよりコンビニを建ててほしい。うちの近くにコンビニがないんです。

と、無理難題をふっかける。
そんなことをいわれたって、池田さんもこまるけど、
薬局の経営はあんがいたいへんで、
つぶれる薬局だっていくらでもあるそうだ。

つぎに、
「そもそも薬を使うなんて発想がおかしい!」と
斎藤さんが 極論であり、正論でもある私見をのべる。
池田さんに論破されるかとおもったら、
「それは本当にそうです」とすんなり肯定された。
決めるのは本人なので、そういう考え方もアリです。人生をかけて「薬を飲まない」って方針を貫く方は実際いるんですよ。それはその人の人生だから「貫いたんだな……」って思いますね。

このごろセルフネグレクトということばをときどき耳にする。
薬を否定するかんがえ方と どうちがうかというと、
信念で医者にかからないのか、
やけっぱちで自分をそこなうのかの差ではないだろうか。
とはいえ、はっきり線がひけないややこしい問題だ。

斎藤さんは、論破されて腹がたったのではなく、
ここちよく かんじたのだから、
質問におちついてこたえた 池田さんをたたえたい。
病院関係者のだれもが 池田さんみたいに
率直な意見をきかせてくれるなら、
もんもんと疑問をかかえたりしないだろう。
説明のうまさは、薬剤師という 池田さんの仕事と、
なにか関係あるのだろうか。
病院の先生になにかたずねても、
池田さんのようには すっきり論破してはくれない。
医者と患者の関係そのままに、
ちからずくで、あたまごなしに きめかかるひとがおおい。
専門バカではなく、専門性をいかしながら、
あいての気もちをかんがえたうえで論破しようとする
池田さんの誠実な説明がここちよかった。

posted by カルピス at 22:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月15日

津村記久子さんによる『ディス・イズ・ザ・デイ』の連載がはじまった

津村記久子さんによる『ディス・イズ・ザ・デイ』が
先週の日曜日から朝日新聞ではじまった。
前任者の綿矢りさ さんとおなじように、
1ページ全部をつかって日曜日にだけのせられる。
サッカーのサポーターをえがいた作品のようで、
連載1回めには、J2リーグに所属するチームの概況が説明された。
サッカーがすきなわたしは 興味ぶかくよめるけど、
「順位は5位の昇格プレーオフ圏内を确保しており」
なんて状況説明を、サッカーに関心のないひとがよんだとき
すんなりついてきてくれるか 気になった。
新聞の連載小説は、はじめの数回が勝負のような気がする。
どうやって読者の関心をつなぎとめるか、
作者としてはむつかしいところだろう。

朝日新聞のもうひとつの連載小説は、
金原ひとみさんの後釜として、
吉田修一さんの『国宝』が元旦からはじまっている。
歌舞伎界が舞台なのだそうで、
時代小説がにが手なわたしは、
歌舞伎もなんとなく時代小説っぽい気がして、
初回をスルーしてしまった。
そのあとの回もよんでいないので、もうはなしについていけない。
吉田修一さんがまえに『悪人』を連載したときは、
おわりごろになって ときどき目をとおしたていどで、
よい読者ではなかった。
わたしは吉田修一さんの作品と相性がわるいのか、
なんとなく気もちがつづかない。

朝日新聞では、夏目漱石の『吾輩は猫である』も連載ちゅうだ。
いつでも本をよめるとおもうからか、
ごくかんたんに目をとおすだけなので、
ぜんたいのながれが わからなくなってしまった。
おもしろそうなときだけ あとからよみかえしている。
この小説は、けっこう退屈な描写がつづくときがあるし、
そうかとおもえば 夏目漱石ならではのユーモアに感心することもあり、
すっかりよむのをやめるのは もったいないので
ダラダラとへんなつきあい方になってしまった。

連載小説は、はじめの数回が勝負、というのは
かならずしも絶対ではない。
新聞にのるのだから、よまれるチャンスは毎日あるわけで、
かきだしできまるのは、連載小説よりも むしろ単行本かもしれない。
よくしっている作家がかいた本ならともかくとして、
はじめて手にとる作家の本は、
そんなに忍耐づよくつきあったりしない。
はじめがおもしろくなければ それでおわる。
そして、いくらかきだしに気をくばっても、
なかみがとぼしければ すぐ読者ははなれてしまうからおそろしい。
スタートで読者をひきつけるのに成功しながら
まんなかへんでにげられては、かなり残念だろう。
気まぐれな読者によんでいただくのは たいへんだ。

『ディス・イズ・ザ・デイ』の2回めまでをよむかぎり、
じわじわと おもしろくなりそうな気配がする。
サッカーファンとして、あたらしくはじまった津村さんの連載が、
たくさんのひとによまれるようねがっている。

posted by カルピス at 18:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月14日

うがいをするのは日本だけ?

クールジャパンで人気の動画ランキングをやっていた。
日本人だけでなく、外国のひとが
日本についておもしろいとおもった動画をよせている。
日本人のわたしからみると、
どこがすごいのかわからない投稿がいくつもあった。
たとえばファーストフード店の風景がアップされていて、
ごくふつうの場面にみえるのに、
何万回も再生されている。
スタジオにあつまっている外国人にたずねると、
店員さんが笑顔なのがすごいし、
列をつくってならぶのが 日本ならでは なのだそうだ。

そんな動画のひとつとして、
洗面所でうがいをしている光景があった。
なんでこれが日本的なのだろうと、
わたしはまったくわからなかったけど、
おどろいたことに、うがいは日本人だけの風習だった。
カゼの予防といえば、うがいと手あらいが
黄金のセットのようにすすめられたので、
なんのうたがいももたずに わたしはうがいをしていた。
それが日本だけだったとは、どういうことだ。

とっさにあたまにうかんだのは、
日本の医学界にだまされた、というもの。
血圧やコレステロール値がそうだったように、
日本のお医者さんはまったく信用できない。
生活習慣病にならないためには、
バランスのとれた食事を、なんてよく耳にするけど、
科学的にどれだけ立証されているのかは わからない。
何十年も、根拠なしでうがいを奨励するなんて、
いったいどんな神経をしているのか。
ほんとのところ うがいにはどんな効果があるのか、
外国の常識と はっきり決着をつけてほしい。

もうひとつの反応として、うがいをする日本の習慣のほうが
もしかしたらただしいのかもしれない、ともおもった。
外国人がしないからといって、
日本のうがいがまちがっているとはきめられない。
それに、もう習慣になってしまったためか、
うがいをすると すごく気もちがよくなる。
うがいをしたらすっきりするのに、
やらない外国人のほうがどうかしている。

ほかにも、消防隊員の訓練風景が人気をあつめていた。
ものすごいスピードでロープをあつかって 救助にむかう。
忍者みたい、と外国のひとがいっていたけど、
日本人はトレーニングがすきなので、
実践よりも、こうした訓練が得意なのだろう。
まったく関係がないようでいて、
うがいと消防の訓練は、あんがいおなじ根っこかもしれない。
きめられたことをきちんとまもるのが 日本人はすきなので、
目的とか効果に問題意識をはさまずにとりくめる。

うがいとおなじように、
あたりまえとおもいこんでいる「常識」が、
きっとほかにもあるはずだ。
荒俣さんがご意見番としてまとめていたように、
携帯電話だけでなく、日本全体がガラパゴスなのかもしれない。
世界のなかで日本だけ、特殊な文化がうまれ、まもられている。
外国人におしえてもらわないと、
日本がガラパゴスなことさえ気づかない。
あたりまえだとおもっているいくつもの行動が、
世界的には特殊なのをしり おどろいた。


posted by カルピス at 15:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月13日

「とりかえしのつかないこと」とは なにか

林雄司さんのブログで
「取り返しのつかないことへの衝動」をよんだ。
http://yaginome.jp/?p=1399
試着室で全裸になったとき、このまま飛び出したら終わりだなと思う不思議な感じ
20年以上まえに、名前はわすれたけど、わかい歌手が
「とりかえしのつかないことをしようよ」とうたっていて、
奇をてらった歌詞に反発をおぼえた。
自分をおとしめているようで、じつは自己憐憫のにおいがする。
なにが「とりかえしのつかない」だ。
「とりかえしのつかないこと」なんて
あるわけないだろう。

でも、その反発は おそらくわかさへのシットで、
「とりかえしのつかないこと」はたしかにある。
そして、それが衝動とセットでやってくるからこまる。
わたしの場合は、自動車を運転していて、
たかいところをはしっているときなど、
ちょっとハンドルをきればおわりだな、
という衝動があたまをかすめる。
あらがいがたいつよさの衝動ではないものの、
どうしようかなーと、しばらく検討してしまうくらいの魅力がある。

ハンドル操作はいのちにかかわる衝動だけど、
「とりかえしのつかないこと」のおおくは、
社会的な地位にとどめをさしてしまう行為ではないか。
こんなことをしたら、もういまの職場におれない、
みたいな衝動を林さんがブログにかいている。
でもまあこれは、本人にとって
「とりかえしのつかないこと」で あるにせよ、
まわりからすれば どうでもいい衝動だ。
そのうち時間が解決して 世間はわすれくれてくれる。
ほんとうに「とりかえしのつかないこと」とはなんだろう。

極端なことをいえば、たとえ人類がほろびたとしても、
地球が爆発するまで世界はつづくだろうし、
地球がなくなっても、宇宙からみたら
たいしたできごとではない。
そこまではなしをひろげると、わけがわからなくなるので、
ここでいう「とりかえしのつかないこと」は、
人類にかかわる範囲としたい。

トランプ氏を次期大統領にえらんだアメリカ人は、
「とりかえしのつかないこと」をしたと、
後悔しているのではないか。
アメリカだけでなく、地球環境からみたときにも、
かなりのリスクをせおったのかもしれない。
いまさらとりかえしはつかないけど。

posted by カルピス at 10:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月12日

ゾウを例にした 動物園改革のうごき

夕ごはんのとき、なにげなくテレビをみていたら、
ゾウの飼育を例に、動物園の改革が紹介されていた。
札幌の円山動物園では、アジアゾウをあたらしくむかえるにあたり、
スマトラ島の自然公園を、スタッフが研修にたずねている。
その自然公園のリーダーは、ゾウの生態にくわしく、
繁殖も成功させており、ゾウを保護する中心的な存在だ。
そのひとが、円山動物園では、どんな環境でゾウをかうのかとたずね、
円山動物園のスタッフが
オスとメスにわけるたてものだとこたえると、
それがそもそもまちがいで、ゾウの自由にまかせるべきだ、
とアドバイスしていた。
自然環境にできるだけちかづけ、ゾウが自分の判断で
いっしょにすごすあいてをえらべたほうがいいそうだ。

番組によると、いま 世界の動物園は、
ゾウやホッキョクグマをかわない方向へ
かんがえ方がかわってきているという。
ひとことでいえば、人間には野生動物を
不適切な環境にとじこめる権利はないからで、
これまでの飼育がみなおされているらしい。
動物園というと、野性の環境とは
まるでちがう空間に動物たちをとじこめるので、
見物していても、たのしむよりもまず、
「かわいそう」とおもってしまう。
それが、ようやく動物の側にたった飼育へと
状況がかわってきた。

アメリカの動物園では、
ゾウが自然環境によりちかい状態ですごせるよう、
エサのあたえ方をくふうし、ゾウが自分でうごかなければ
エサをたべられない方法がとられている。
たかいところにエサをおいたり、
材木をくみあわせたところにエサをまき、
ゾウがかんたんにはエサをたべられないようにする。
ゾウの足に負担をかけないために
地面はコンクリートではなく砂をしき、
運動不足にならないよう、敷地には傾斜をつくり、
自然と筋力をきたえられる環境にする。

円山動物園は、ゾウが快適にすごせる環境を準備でき、
おとずれたひとが、ゾウの生態をしる機会になるだろうか。
動物園という存在そのものに
疑問がなげかけられている時代であり、
飼育や展示は 社会的にもハードルがたかくなっている。
そもそも、冬のさむさがきびしい札幌に
熱帯の動物であるゾウをつれてくることからして どうなんだろう。
こんな快適な場所でくらせてしあわせだとおもえるような
適切なゾウの飼育環境になればいいけど。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする