2017年01月11日

『愛と追憶の日々』おとなよりも、子役の演技がひかる

『愛と追憶の日々』
(ジェームズ=L=ブルックス:監督・1983年・アメリカ)

「愛となんとか」というタイトルがおおすぎて
わけがわからなくなる、と、
だれもがつっこみたくなる まぎらわしいタイトルで、
わたしも すでにみたことがあるのか ないのか
タイトルをきいただけではわからなかった。
しりあいからこの作品名をきいても ピンとこなかったので、
あらすじを簡単にきかせてもらったら、
どうもわたしはまだみてないようだ。
すでにみていたのは『愛と青春の旅立ち』と『愛と哀しみの果て』で、
わたしがかんちがいしてたのは、ロバート=レッドフォードと
バーブラ=ストライサンド主演の『追憶』だった。

『愛と追憶の日々』にでているのは、
シャーリー=マクレーンとデブラ=ウィンガー。
デブラ=ウィンガーは、『デブラ・ウィンガーを探して』はみたけど、
映画ははじめてだ。
どうやらすごく有名な作品らしい。
わたしがいまさらもっともらしいことをかこうとしても
ちからがおよびそうにないので、雑感をならべてみる。
すこしネタバレあり。

ジャック=ニコルソンがいい味をだしている。
不良中年のさきがけみたいなかんじか。
おなかがでて、どうみてもおっさんなのに、
自信満々な表情に魅力がある。
わたしみたいに人畜無害なだけがとりえの中年おやじからみると、
あんなふうに歳をとれるのは ひとつの理想といえる。

この作品では、いくつもの部門でアカデミー賞を受賞したり、
ノミネートされているけれど、
わたしがうまいとおもったのは おとなよりも 2人の子役だ。
おにいちゃんのほうは母親のエマ(デブラ=ウィンガー)に
にくまれぐちをたたくけど、ほんとうは母親をふかく愛している。
だいすきなのに、つい反抗してしまう さみしそうな表情がたまらない。
おとうとくんは、おにいちゃんにいつもくっつきながら、
お母さんとおにいちゃんがけんかをしだすと
おにいちゃんをいさめようとする。
まだおさないせいもあり、お母さんが入院すると
さみしくて すっかりしょげてしまう。
病院のベッドでよこになるエマへのせっしかたは、
とても演技とはおもえない。
この作品にかぎらず、アメリカ映画は
子どもたちの自然なふるまいに感心する。

映画のラストでは、エマの葬儀がおわり、
オーロラ(シャーリー=マクレーン)の家に
したしい友人たちがあつまっている。
母親が亡くなり、かなしみにしずむ男の子(おにいちゃんのほう)は
みんなからはなれて すべてをもてあましていた。
ギャレット(ニコルスン)は、
男の子のスーツをほめたあと、自分の家の庭にあるプールへさそう。
男の子は常識をわきまえているので、
こんなときにプールなんて、と いったんことわるけど、
ギャレットが「いいって いいって」
みたいにうながすと その気になり、
ふたりはそっと家をぬけだした。
なにごとにおいても、こんなふうな さりげないおわり方がすきだ。

よろこびとかなしみをよくしっている
ギャレットみたいなおとながちかくにいるのだから、
男の子はきっとたちなおって つよい人間にそだつだろう。
そうした人間関係をのこせたのは、エマとオーロラの
ストレートな生きかただった。

みどころのおおい作品であり、
とくにニコルスンとふたりの子役に注目するよう おすすめしたい。

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2017年01月10日

わたしがよみたい書評

綿矢りさ氏と金原ひとみ氏について、
なにかかいてないかと書評集をひっぱりだす。
北上次郎氏と大森望氏による、対談形式の書評だ。
「SIGHT」誌に連載された対談を本にまとめたもので、
『読むのが怖い!』シリーズとして、
これまで3冊が出版されている。
編集部と、北上氏・大森氏が、
それぞれ数冊ずつ課題図書をだしあい、
対談として よんできた本の感想をはなしあう。
これまでなんどか目をとおしているのに、
よみだすと またおもしろい。
さがしている記事がみつからないので、
ページをめくるうちに かなりの量をよみなおした。

そのうちに、わたしがよみたいのは こういう書評なのだと気づく。
本についてかいてあれば なんでもいいわけではなく、
あらすじの紹介や、レベルのひくい感想では満足できない。
これまでに本をたくさんよんできたひとが
自分のこのみをはっきりうちだした書評がすきだ。

すきな作家が 本を話題にかいた文章もこのんでよむ。
その文章じたいをたのしめるし、紹介された本もよんでみたくなる。
影響をうけているせいか、このみがよくにており、
本の選択を信頼できる。
たとえば、村上春樹さんが紹介する本なら、
かなりの確率でわたしはよもうとするだろう。

斎藤美奈子氏のデビュー作、『妊娠小説』がわたしはだいすきで、
この本によって、評論のおもしろさをはじめてしる。
『妊娠小説』は、貧乏や病気をとりあげた小説
(貧乏小説・病気小説というジャンルができている)のように、
妊娠もまたひとつのおおきなカテゴリーであると「発見」した。
妊娠が話題となっている本はたくさんあるのに、
斎藤氏が発見するまでは、
そんなカテゴリーがあるのを だれも気づかなかった。
『太陽の季節』も『風の歌を聴け』も、
『暗室』(吉行淳之介)も『テニスボーイの憂鬱』(村上龍)も、
ある角度からみれば、みーんな妊娠小説で、
作者の意図からはなれ、妊娠に焦点をさだめると、
男のいいかげんさがあぶりだされる。

『妊娠小説』をよんでいるときのたのしさ、
よみおえたあとの満足感を
いまでもわたしはおぼえている。
あの刺激を またあじわいたいけれど、
なかなかそれだけの本(ひと)にであえない。
本のおもしろさをおしえてくれる本がよみたい。

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2017年01月09日

成人をいわう会

わたしのつとめる介護事業所で、
4人の新成人をいわう会がもよおされた。
おいわいのことば、エンタテイメント、など、
10ほどのプログラムにそって、2時間の会となる。
2時間もつだろうかと、心配していたけど、
ひとつひとつのプログラムにゆっくり時間をかけると、
たいくつせずに、むりなく2時間をすごせた。

高等学校でかかわった先生がたもまねき、
おいわいのことばをいただくと、
なかにはことばにつまり、なきだした先生がおられた。
そんな先生にならえたら しあわせだ。
この先生が雰囲気をととのえてくれたおかげで、
会の雰囲気が、いい方向にむいたような気がする。

保護者からの手紙では、
「生まれてきてくれてありがとう」
とよまれたお父さんがおられた。
わたしもひとりの親として、
こころをこめて そうむすこにかたりかけた
お父さんのしあわせをおもった。
生まれたときから集中治療室だったので、
とても成人をむかえられるとはおもわなかった、
とはなされたお母さんがおられた。
4組の保護者のうち、2人のお母さんには
新成人への手紙を用意してほしいと、つたわってなく、
でも、そんなぬけたところも、
適度なゆるさにおもえるいい会だった。

会がおわり、特注のお弁当をたべながら、
なんねんもまえに 成人式をすませた利用者の方に
きょうの感想をたずねた。
「すでに成人をむかえた先輩として、
 なにかアドバイスはありませんか?」
20歳をむかえても、なにか目標をもたなくては、
ただ毎日をすごすだけの生活になってしまいがちだ。
そうならないための、なにかいい方法はないだろうか。
わたしがたずねた32歳の男性は、
まいにちを げんきにすごせるだけでしあわせです

とこたえられた。
きれいごとをいわれたのではなく、
20歳のころからそうかんがえていたそうだ。
わたしがたどりつきたい達観を、
すでに身につけておられるのにおどろいた。

20歳になったら酒やタバコをたのしめる、
というのも「いまさら」っぽくてリアリティがないし、
20歳なったら責任をもって、といわれてもこまる。
そだててもらった両親に親孝行を、もピンとこない。
なにが成人式だと、わたしはへんにソフィスティケートされ、
自分が成人をむかえたときは、すなおによろこべなかった。
きょうのように、この日をむかえられただけでありがたい、
というはなしをきくと、エリをただされるおもいになる。
障害をかかえて生き、きょうをむかえられた4人とその家族は、
ほんとうにしあわせをかんじておられるようにみえた。

20歳はたしかにひとつのくぎりだけど、
まだそのさきの人生はながく、
じっさいには20歳をむかえたからといって、
なにかがおおきくかわったりしない。
それでも、ひとつのくぎりをつけて、
これからのすごし方を あらためてかんがえるのは
わるくないこころみだとおもうようになった。

posted by カルピス at 17:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月08日

金原ひとみと綿矢りさが、つい ごちゃまぜになってしまう

すこしまえまで、綿矢りさ氏と金原ひとみ氏の小説が
朝日新聞に連載されており、
どちらもはなしが完結したので 1月ちゅうに単行本として出版される。
おふたりは、なんねんかまえの芥川賞を
いっしょに受賞して話題になった。
わたしはまだおふたりの作品にふれたことがなく、
新聞の連載が、はじめてよむ機会となった。

同時受賞の印象がつよく、そしてよんでいないため、
おふたりの名前と作品を すぐにわすれてしまう。
『蹴りたい背中』をかいたのはどっちだっけ?
『インストール』はだれの作品だ?
(どっちも綿矢りさ氏だった)。
朝日新聞に連載されたのは、
綿矢氏が『わたしをくいとめて』で、
日曜日に1ページをまるごとつかって 小説がのる形式だった。
金原ひとみ氏の作品は『クラウドガール』で、
こちらはふつうの連載小説のように 毎日のっていた。

『わたしをくいとめて』は、
企業ではたらく30代、未婚の女性が主人公で、
ひとりでいごこちよく くらしている。
恋愛したいけど、どうしても、というほどではなく、
なかなかもう一歩をふみだせない。
小説にでてくる比喩が独特で、たとえば
三島由紀夫が克明に描写したがりそうな外見をしている

といういい方をおもしろろいとおもったし、
小説全体にもいい印象をもった。
こころのおくを、じょうずに表現する作家だ。

金原ひとみ氏は『クラウドガール』の連載にあたり、
SNSでつながるわかものたちをかきたい、みたいなことを、
抱負としてはなしておられた。
よんでみると それほどSNSに特化したはなしではなく
(全国紙に連載されるのだから、あたりまえか)、
わかい姉妹が なくなった母親への感情を
整理しかねている状況が背景にあり、
わたしにはすこしややこしかった。

たしか目黒考二さんと大森望さんによる書評で、
綿矢氏と金原氏のどちらかが、受賞したのちにおおきくのびた、
みたいなことをはなしていた。
それがどちらかだったのかおもいだせなので、
掲載された本をさがしたけど みあたらない。
おふたりの小説をよみくらべてみると、
綿矢氏のほうが、わたしにはおもしろくよめた。
小説をよんだあとでも、おふたりの名前がおぼえられないのは
さすがによくないので、決定的な記憶法をしりたいところだ。

金原ひとみ氏は、翻訳でしられる金原瑞人氏のお子さんで、
綿矢りさ氏は最年少で芥川賞を受賞した。
そこまで頭にはいっているのに、作風となると
いまだに金原ひとみ氏と綿矢りさ氏がごちゃまぜになる。
よんだあともそうなのだから、
これはたんにわたしの記憶力の問題かもしれない。
アイドルの顔と名前がおぼえられないのとおなじように、
わかい女性という ただそれだけで、
わたしの脳がうけいれないのかもしれない。
たくみな比喩は綿矢りさ、と
いいところまで識別できたきたので、
あともう1作よめば 名前と作風が定着しそうだ。

posted by カルピス at 20:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月07日

『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』

『レニングラード・カウボーイズ・ゴー・アメリカ』
(アキ=カウリスマキ:監督・1989年・フィンランド)

ウィキペディアによると、レニングラード・カウボーイズは、
カウリスマキ監督がでっちあげたバンドとなっている。
べつの名前で活動していたフィンランドのバンドが
映画が有名になったあとで
「レニングラード・カウボーイズ」をなのり、いまも実存するらしい。
バンドのトレードマークは、冗談みたいに(冗談なのだろう)
ながいリーゼントヘアーと、極端にながくとがったクツだ。
黒のスーツできめた8人が、全員おなじヘアスタイルなので、
いったいなんの記号なのかと はじめのうちはとまどった。
彼らは、仲間があつまってできたバンドではなく、
どうも おなじ血族でないと メンバーになれないようだ。
アーミッシュが黒い服と のばしたヒゲをまもるように、
リーゼントと とがったクツにより
「レニングラード・カウボーイズ」となる。
映画のなかで なんの説明もされないので、
ほんとうのところは よくわからない。

映画の冒頭は、シベリアの畑にたつ作業所みたいな小屋で、
レニングラード・カウボーイズがオーディションをうけている。
外見は奇抜でも、演奏するのはふるい民族音楽で
いかにもはやりそうにない。
ロシアではうけないので、アメリカへいったら、と
音楽プロデューサーにすすめられ、一行はニューヨークへむかう。
でも、彼らのふるくさいスタイルがアメリカで通用するはずもなく、
プロデューサーにダメをだされて
こんどはメキシコゆきをすすめられる。
一種のロードムービーで、メキシコへ移動するあいだのできごとが
そのまま作品になっている。
パブやレストランでアルバイトの演奏をしてこづかいをかせぐ。
客のもとめるがままに、ロックやウェスタンにきりかえるから、
基本的に器用なバンドなのだろう。

音楽もののコメディとしては、
このまえみた『ブルース・ブラザース』のほうが
わたしにはしっくりきたけど、
まったく雰囲気がちがう作品なのに、
バンドメンバーの底にながれる魂が
2作品とも なんとなくにている。
不自由な生活をおくりながら 演奏への熱意はいつまでもたもたれる。
ブルースに生きるひとたちなのだ。
理屈ぬきにはなしがすすむのもいっしょで、
なんでリーゼントなのか、なんでとがったクツなのかは
さいごまでしらされない。
ジム・ジャームッシュの世界を、
コメディにしたような作品といえば
雰囲気をわかってもらえるだろうか。

からだがカチンカチンにこおりつき、棺桶にいれられたメンバーは、
リーゼントと とがったクツのさきをだすために、
棺桶のフタの3ヶ所に穴があけられている。
車を運転するメンバーは、アクセルをふみやすいように
クツのさきをそりかえしてクギでうちつける。
そんなことをするのなら、クツをぬげばよさそうだけど、
作品のリアリティはクツをぬがないことでまもられている。
みおわったあとでも、
いったいこの作品はなんだったのかと不思議におもう。
こんな不可解な作品がつくられ、
おおくのひとにうけいれられる世界をよろこびたい。

posted by カルピス at 14:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月06日

「良き習慣は熱狂的に維持する必要がある」とジギーはいった

『熊を放つ』(ジョン=アーヴィング・中公文庫)

『熊を放つ』をひっぱりだしてよみかえす。
映画『アンダーグラウンド』をみていたら、
この本がよみたくなった。
理由ははっきりしている。
映画の冒頭で、動物園がドイツ軍の空襲にあい、
動物たちがオリからぬけだして そこらじゅうをあるきまわる。
もうひとつは、ユーゴスラビアが舞台だったこと。
『熊を放つ』もたしかユーゴに関係するはなしだった。
そして、ラストでは動物園の動物たちが「開放」されたはずだ。
よみかえしてみると、ものがたりがかたられて間がないころ、
ジギーが
「良き習慣は熱狂的に維持する必要がある」
とメモし、
このことばはのちに
「良き習慣は狂信的になされるだけの価値がある」
と手なおしされる。

ちょっとしたおもいつきを極端にあらわしただけだと
まえはあまり気にとめなかったけど、
中年になったいまよむと、
とても大切なことばなのがわかる。
まだ20歳そこそこだったジギーが、
なぜこの真理に気づいたのか不思議だ。

しばらく歯医者さんにいってなかったので、
整備点検のつもりでみてもらったら歯石がだいぶついていた。
年をとると、歯ブラシだけではよごれがおちにくくなるので、
糸ようじもつかってくださいといわれる。
3年まえにもおなじ注意をうけたのに、
めんどくさいので歯ブラシだけですませてきた。

めんどくさいからといって、
やらなければならないことをはぶいたら、
年をとったときに たかいツケをはらわないといけなくなる。
時間をかけて ていねいに歯をみがいたり、
昼ごはんのあとの歯みがきを
めんどくさくてやらない日がおおかったけど、
まさしくジギーがいったとおり、
「良き習慣は熱狂的に維持する必要がある」。
習慣にするまで、そして習慣になってからもつづけないと、
ツケをはらうのはけっきょく自分だ。

連続100回をめざし、まいにちうでたてふせをしている。
いまはまだ80回しかできない。
朝でも、夜ねるまえでも、とにかくいちにちにいちど、
80回うでたてふせをする。
それにあわせ、きょねんの12月から
ヒンズースクワット300回にもとりくんでいる。
それと腹筋をすこし。
椎名誠さんが、うでたて・スクワット・腹筋などを
30代のころから毎日かかさない、とかいており、
ときどきマネしていたのを いまは意識して習慣にしようとしている。
「熱狂的に維持」すれば、70歳になったら
たっぷり利子がついた財産として かえってくるのではないか。
「人生はトータル」と、オシムさんがいっていた。
健康も人間関係も家族も、そのひとの一生は、
どんな習慣をつづけてきたかが、さいごにトータルとしてとわれる。
ジギーのように、わかいころ気づけばよかったけど、
わたしは いまからでも意識して「習慣」にするしかない。

ジギーはたくさんのハチにさされ、わかくして死んでしまった。
年をとればとったなりの問題がでてくるのとはまたべつに、
わかいころは わかさゆえのあやうさをかかえた時期だ。
あとさきをかんがえないあやうさが 中年にはまぶしい。
習慣だの健康だのとはまだ縁どおい青春期。
年をとると 青春をあつかった本や映画に ふたたびひかれる。

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2017年01月05日

『ゴッド・ファーザー』のあとに湯たんぽはまちがえだった

冬やすみに『ゴッド・ファーザー』パート1と2を つづけてみる。
ゴッド・ファーザーといえば、
おおくのひとがみとめる大作なので、
なにか気にきいた感想をかかなくてはかっこがつかない。
とくにパート1は、
ファミリーを大切にするビトー=コルレオーネがかっこよく、
みていたわたしは けっこうその気になった。
ひとは、なんだかんだいったところで
家族のきずなこそがすべての基盤となる。

そういいながら、作品をみおわったすぐあとで
わたしはストーブにかけてあったヤカンのお湯を 湯たんぽにそそいだ。
そそぎながら、おれはドンのうつわじゃないなと、しみじみおもう。
どれだけ『ゴッド・ファーザー』に感激しても、
そのあとに湯たんはひどい。
こんな人間は、なんど『ゴッド・ファーザー』をみたところで、
ドン・コルレオーネみたいにファミリーをまもれない。

もうひとつ、1作目でわたしがひかれるのは、
日常にとけこんでいるやすっぽい赤ワインだ。
ちびちびグラスをかたむけてこの作品をみると、
作品の世界にてっとりばやくひたれる。
もっとも、そういいながら そのあとで湯たんぽだったので、
本質的なふかい影響ではないみたいだ。

パート2では、三男のマイケルが 父親からファミリーをひきつぐ。
彼がマフィアの世界をどうおよいでいくか、というはなしと、
わかき日のビトーが、アメリカに移民としてやってきて、
しだいにちからをつけながら、イタリア人社会で
のしあがっていく過程が 交互にえがかれる。
マイケルのはなしは、ややこしい内容なので、
なんどもみなおさないとよく理解できない。
そんなはなしのあとで 時代がビトーのころにもどり
むかしのイタリア人街に場面がうつるとホッとした。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/311819620.html

この作品では、なんといってもビトーが自宅でたべる
スパゲッティの存在感がおおきい。
サスペンダーを肩からはずし、
スパゲッティをたべる場面が作品世界をあらわしている。
テーブルいっぱいにごちそうがならぶのではなく、
かたいパンとスパゲッティ、それに肉の煮こみだけ。
ゆたかすぎる食卓よりも、
わかくまずしかったビトーにふさわしい夕食といえる。
土地のチンピラに仕事をうばわれたビトーは、
梨ひとつを家にもってかえり、奥さんにみせる。
奥さんは「おいしそうな梨ね」と ほかのことはたずねない。
ビトーは仕事をうしなったにもかかわらず、
奥さんにただニッコリほほえんだ。
そんな人物だからこそ、自然とまわりからたよられるようになる。
わたしがすきな場面だ。

posted by カルピス at 22:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月04日

そば屋さんでの不思議な体験

仕事はじめは出雲大社への初もうで。
島根にただひとつはしっている私鉄で 出雲大社へでかける。
1月4日は、お正月のような お正月でないような ビミョーな時期だ。
参拝客でにぎわっていたら、
お昼ごはんにありつけないかも、と心配になり、
大社駅につくと おまいりのまえに
いちばんちかくのそば屋さんにはいった。
出雲といえばそばが名物で、
大社はとくにそばどころといわれている。

おひるの12時なのに、だれもお客さんがはいってない。
なにかワケありのようで、気もちわるかったけど、
食事のために行列するのはいやなので、
おもいきってその店にはいる。
えらぶものがかぎられていても、親子どんぶりくらいはあるだろう。
いよいよとなれば、どんぶりものできりぬける作戦だ。

でも、だめだった。ごはんものはなく、そばしかおいてない。
メニューは「あたたかいそば」と
「つめたいそば」のふたつにわけてあり、
それぞれ「とろろそば」「月見そば」「わりご」
(3段にかさねたもりそば)の3種類しかない。
天ぷらそばとか、ほかの料理とあわせたそばセットもない。
すこしたじろぎながらも気をとりなおして とにかく注文する。
選択がかぎられているので、4人がとろろそば、1人がわりごだ。

注文しても、すぐくるわけでもないし、
味もとくにみるべきところがない
(スーパーでかったゆでそばとおなじ味)。
量はふつうのお店の8割程度しかなく、
わりご750円、とろろそばが800円と、
値段だけはほかの店よりもすこしたかい。
そんなお店なのに、わたしたちがいるあいだに
つぎつぎとお客さんがはいってきた。
なんでこの程度のそばをだす店が、
営業をつづけられるのか、すごく不思議だ。
グチをいっているのではなく、
めずらしい体験として報告したい。
(そばポリスにとりしまってほしいけど)。

あいそがわるいとはいわないまでも、
お客さんにいいサービスをしようと、
とくにやる気にあふれてはいない。
お客さん商売というよりも、
地区の行事のうちあげを
自分たちの模擬店でやってるところに
まちがってまぎれこんだかんじだ。
生きのこるのがむつかしいといわれているこの時代に、
たった3種類のそばしかださず、味もたいしたレベルにない店が、
なぜいまもあたりまえのように商売をつづけられるのか。

出雲大社の参道は、
いまでこそこじゃれた店がのきをつらねているけど、
ほんの5年まえは みるべきところのない さびれたとおりだった。
商店街の方たちが、さまざまな工夫をかさね、
ようやくお客さんのにぎわいをとりもどした。
そんなとおりに、時代からおきざりにされたような店が
いまもまだあり、なんのひねりもないまま
平気で営業しているのがしんじられない。
観光客をよびこんだ ほかのお店の
おこぼれにあずかっているのだろうか。

SNSの時代といわれているのは
ただのかんちがなのではないか。
おいしくもなく、とくに特徴もない店が
こうしてちゃんといきのこっている。
ソーシャルネットワークからとりのこされても、
生きのこるヒントが この店にはかくされているのでは。
なんのへんてつもないお店が
なんのひねりもないそばをだしている。
おいしくもなく、値段だけはいちにんまえで、
それでもお客さんでにぎわうのはなぜか。
なにもひねるな、ということなのか、
それで自分たちのプライドはたもてるのか。
自分の目と舌がとりこんだ事実と、
客商売はきびしいという 一般論が一致せず、
どう解釈していいのか理解にくるしむ。
あのお店だけ、なんだかちがう空気がながれていた。
そばとしてはたかい800円ながら、
不思議な体験代とかんがえれば、
得がたいサービスだったのかも。

posted by カルピス at 22:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月03日

『ブラス!』

『ブラス!』(マーク=ハーマン:監督・1996年・イギリス)

炭鉱の危機をめぐってゆれる ちいさな町の、ブラスバンドが舞台。
いまさら石炭でもないだろうに、とさめた目でみていたら、
30年まえの作品だった。当時としてはホットな話題だったのだ。
いまごろみて文句をいうわたしのほうがわるい。
(以下ネタバレあり)

映画の前半はほとんど起伏がない。
失業におびえる坑夫たちと その家族が淡々とえがかれ、
そのあいまにブラスバンドの大会がはさまれる。
さきゆきの心配から、夫婦関係はギスギスしたものになり、
演奏もおざなりになっている。
音楽ものによくありがちな、猛練習のすえ
たかいレベルにたどりつくといったドラマは存在せず、
もりあがりにかけたままさいごの大会まですすむ。

バンドリーダーのダニーは、炭鉱夫のなやみをまったく気にとめない。
炭鉱が閉鎖されようが、そんなことはたいした問題ではなく、
質のたかい演奏だけが 彼にとって人生の目的であり、
ほかのものもまた 音楽をこころざすのなら
そうでなければならないときめつけている。
そのまえには たとえ廃坑になって仕事をうしなおうとも
日常の生活など とるにたらぬものだ。

でも、決勝大会で 彼らが演奏する魂のこもった曲をきいて、
ダニーはやっと自分のまちがいに目がさめる。
収入のあてがなく、希望もない生活のなかでは
演奏になんの意味があるのか。
安定したくらしがあってこその音楽なのに、
いまのバンドメンバーからは その保障がすべてうばわれている。
ダニーはトロフィーをうけとらないと宣言し、
炭鉱産業をほろびるにまかせ、
はたらくものの尊厳を ないがしろにしてきた政府を批判する。
この10年間、政府は産業を破壊してきた。産業だけでなく、共同体や家庭をも。
職だけでなく、生きる意志までも奪っている

決勝へすすむために必要な資金を、
会社側にぞくしていた女性が提供したり、
ダニーがおもい病気をわずらい、
それでも病院をぬけだして大会にかけつけたりと、
つくりはかなりベタだ。
そのひくくおさえられたぶん、ダニーのスピーチがいきてくる。

サッチャーを批判するセリフがあったのでおどろいたけど、
1996年は、そんな時代だったのだろう。
EUから脱退したいまのイギリスなら、
この作品は再評価されるのではないか。

posted by カルピス at 10:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月02日

光文社古典新訳文庫『ハックルベリー・フィンの冒険』(電子書籍版)

よんでないのにブログにとりあげるなんて、
まるでバーナード嬢の町田さんみたいだけど、
ことしはじめてかった本として
無理やり意味をもたせてかいておきたい。

光文社の電子書籍が1月5日まで50%わりびきになっており、
古典新訳文庫も35作品が対象だ。
http://www.kotensinyaku.jp/archives/2016/12/006642.html?utm_content=buffer0b7f4&utm_medium=social&utm_source=twitter.com&utm_campaign=buffer
そのなかから『ハックルベリー・フィンの冒険』を注文した。
訳は土屋京子氏。

きょねんの秋に、「カルチャーラジオ 文学の世界」で
マーク=トウェインをとりあげていた。
早稲田大学の石原剛氏が講師をつとめられ、
作品にこめられている少年たちの気もちを
言葉をえらびながら ていねいにはなされるのが
きいていてとてもここちよかった。
石原先生によるアカデミックなかおりにひたっていると、
「ハックルベリー・フィン」をおさえておくのは、
アメリカという国の理解にもかかせないようにおもえてきた。
そんなときの50%オフなので、さっそくポチッとする。

子どもむけにあまれた『トム・ソーヤーの冒険』で
マーク=トウェインをよんだ気になっているけど、
「ハックルベリー・フィン」と「トム・ソーヤー」は
なにがどうちがうのだろう。そんなことさえ わたしはしらない。
しらないのになんとなく敷居がたかかったけど、
古典新訳文庫ならスラスラよませてくれるだろう。
新潮文庫から柴田元幸さんの訳で
『トム・ソーヤーの冒険』がだされており、
「ハックルベリー・フィン」と どちらにするかすこしまよった。
50%オフにつよく背中をおされた形となる。

アマゾンのページには、おすすめ商品として
スーパーカブでの旅行本が99円でのっており、そちらもポチッ。
100円をきると、サイフのひもはかなりゆるくなる。
自分でもKDPをしたくなってくるけど、
この本は紙版で830ページというから、
かなりの分量が一冊にまとめられている。
わたしがやろうとしているブログのよせあつめより
はるかにしっかりした本にしあがっているみたいだ。
KDPへの道として、なにか参考になればいいけど。

posted by カルピス at 10:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月01日

KDPにくじけて ブログのカテゴリーをみなおす

ブログにかいた記事がふえると、むかしかいた記事は
どうしてどこかわからない空間に うもれてしまいがちだ。
せっかくかいたのだから、できるだけ陽の目にだしてあげたい。
いちばんいいのは、たとえば
村上春樹さんについてかいた記事をあつめ、
KDPで本にすることだろう。
この冬やすみは、その作業にあてるつもりでいた。
でも、いざ村上さん関連の記事をよみなおしてみると、
やたらと引用がおおく、オリジナリティがとぼしい。
こんな文章をわざわざまとめてもしかたないような気がしてきた。

かわりに、記事のカテゴリーをこまかくしてみる。
これまでは20ほどのカテゴリーだったものを、
もういちどみなおして、必要なものには固有名詞をあたえる。
これまでは「本」のなかに村上さんをいれていたけど、
これからは独立させて「村上春樹」とした。
ほかにも梅棹忠夫・酒井順子・椎名誠などを
独立したカテゴリーとする。
やりだすとあんがいたのしくて、
きのう・きょうとでぜんぶをふりわける。
かんがえてみれば、「日記」なんてカテゴリーは
よむ側にたってみると、なんのことかわからない。
こまかくカテゴリーをわけたら、
このひとは、野宿とシーナマコトに興味があるんだと、
いっぺんでわかってもらえる。
わたしという人間を表現するうえで
こまかなカテゴリーはすごく有効なのではないか。
わたしは、ジャンルにあらわれたとおりの人間なのだ。

家族のことも、ただ「家族」とするより
「むすこ」と「配偶者」にわける。
配偶者についての記事は、
配偶者がよむとさしさわりがありそうだけど、
ただしいカテゴリーの原則にそって あえてべつにする。

カテゴリーには限界がある。
サッカーについてかかれた本は、
「サッカー」と「本」のうち、どちらにいれたらいいだろう。
分類ですべての問題は解決できないので、
こまかくわけていくしかない。
「スポーツ」なんてカテゴリーは不親切なので、
ジョギングや水泳にわけたほうがいいかもしれない。
鷹の爪も、吉田くんと総統は
べつのカテゴリーのほうがわかりやすい。
なんてやっていると、めちゃくちゃこまかくなりすぎて、
それはそれでわけがわからなくなってくる。
まあ、だれがこまるわけでもないので
そこらへんはテキトーにやるつもりだ。

ジャンルわけしていると、角田光代さんについて
まえはよくかいていたのをおもいだした。
このごろはさっぱりよまなくなっている。
わたしのなかでの はやり・すたりによって、
2017年はどんなラインナップのブログになるだろうか。
意識して こまかくカテゴリーをわけていきたい。

posted by カルピス at 11:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする