2017年02月28日

セブ島旅行2日目 散髪とマッサージの日

きのうはセブ島についたのが夜9時になっていた。
イミグレと税関をでたところに
プリペイドのSIMカードをあつかっているブース
(というより机)があり、
5日有効のカードが1000円ほどで手にはいる。
わたしのスマホをわたして「セットしてね」とたのむと、
スイスイとスマホをひらいてバッテリーをはずし、
SIMカードをとりつける。
日本語表示にもかかわらず設定もすませてくれた。
なんであんなにすべてを承知しているのだろう。
ホテルについたのが11時になっており、
ちかくの食堂はぜんぶしまっている。
ホテルのバーでサン・ミゲルを1本のみ、
旅行の1日目をしめくくる。

セブ島は、おもっていたよりずっとおおきな島で、
いったん町にはいってしまうと、島にいる実感がない。
リゾートホテルだったら
それなりのロケーションをたのしめるだろうけど、
わたしが予約したホテルはゴミゴミした地域にあり、
ぜんぜんリゾート地にいる気がしない。
この地域がゴミゴミしているというより、
セブ島全体が雑踏のなかにあるといってよい。
だからくつろげない、というわけではなく、
あかるくて親切なひとたちにばかりであうので
ひとりでの旅行にはいい場所だったようだ。
ホテルでは、なにかというと「イエス、サー」「OK サー」と、
もちあげられるので てれくさくなる。

もともときょうはゆっくりしようとおもっていた日なので、
散髪とマッサージだけを予定にいれていた。
旅行にいくと、わたしはよく地元の散髪店にはいる。
髪型をうまく説明できないので
悲惨な結果になる場合もあるけど、
日本みたいに予約がいったり、何千円もかかったりしないし、
地元にとけこむ意味でわるくないすごし方だとおもう。
セブ島での散髪は、水で髪をあらったりせず、
テンカフンをブラシにつけて、くっついた髪の毛をとるやり方だった。
120円ほどの散髪代だから、文句はいえない。
マッサージは、スウェーデン式をすすめられ、
ほかのスタイルよりもちょっとたかいけど、
やってことがないのでそれにきめた(たかいといっても600円)。
アロマオイルをたっぷりぬって、
からだじゅうをていねいにもみほぐしてくれる。
よくリゾート地を紹介するガイドブックに、
女性がうつぶせになって マッサージされる写真がのっており、
なにをそんなにうっとりしてるんだと、しらけた目でみていたけど、
きょうのマッサージは まさにあんなかんじだった。
わたしがアジアのおおくの国でマッサージをためしてきたなかでも
いちばんのマッサージだ。タイ式よりも気もちよかった。
もういちどおなじ店のおなじ女性にやってもらいたくなる。
1時間もみほぐされているうちに、
意識がとんで べつの世界へいっていた。

そのあとジープニーにのって、
庶民のマーケットとして有名なカルボン=マーケットへ。
ジープニーは、どこでおりても20円ほどはらえばいい。
ただ、いきさきがわかってないとつかいにくく、
カルボン=マーケットからのかえりは、
どのジープニーにもことわられたので、
けっきょくホテルまでの道のりをぜんぶあるいた。
カルボン=マーケットには、屋台に毛のはえたような
安食堂が何軒もあり、パットにもられた料理をみながら
すきなおかずをえらぶ。
その店だけではたりなかったので、ホテルのちかくにあるべつの店でも
おなじように料理をゆびさしてえらんだ。
どれもみかけどおりの味で、日本人にあっている。
170228昼ごはん2DSCN2152.jpg
1時間ほど昼寝してから「トップス」とよばれる
山のうえにでかける。
観光地なのに交通の便がわるく、タクシーでいくしかない。
ホテルのひとがタクシードライバーと交渉しても、
かなりたかいことをいうので、なかなか車がつかまらなかった。
けっきょく、往復で900ペソ
(日本円で2000円くらい)のタクシーにきめる。
車がはしりだすと、運転手がいろいろとはなしかけてくる。
そのうち、奥さんが彼とは25歳もはなれた20歳だとわかった。
そっちの方面をいろいろつっこんできいていると話題がつきず、
なかなかたのしいドライブとなった。
45分ほどで「トップス」につく。
たしかに景色はいいけど、観光名所というほどにぎわってない。
わたしはサン・ミゲル、運転手はソーダをのでからホテルにもどった。
あすは、セブ島から船で2時間いったところにある
ボホール島へいこうとおもう。

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2017年02月27日

セブ島旅行へ

きょうから4泊のセブ島旅行へ。
ひとりの旅行がおおいから、
今回は配偶者の都合をまずたずね、
彼女がうごける日程を優先させて計画をたてる。
でも、旅行がちかづいてくると、
「やっぱりやめた」と配偶者がいいだした。
実家の父親が心配なのだそうだ。
リゾートにひとりでいったってしかたないし、
ツアーのほうがいいホテルにとまれるのに。
はしごをはずされたとは、こういうかんじなのだろう。
でも、とにかくひとりでも でかけることにした。
セブは はじめてだし、外国旅行は2年ぶりだから。

こんかいのテーマは、荷物の軽量化にどこまでこだわれるか、とした。
スマホをもっていくので、電子辞書はやめた。
カサはもっていかない。
めざまし時計と裁縫道具もおいていく。
空港でねるわけじゃないから、寝袋もなしだ。
本も、いつもなら10冊の文庫本をカバンにいれるけど、
こんかいは3冊だけだ。あとはキンドルにいれた
『ハックルベリー・フィンの冒険』が
ありあまる時間を なんとかしてくれるだろう。
カバンだって いつものスリーウェイバッグではなく、
30リットルのバックパックにする。

そうとうな覚悟でいどんだはずなのに、
軽量化の夢は、いつもながら失敗におわる。
カバンに荷物をつめてみると、
必要なものばかりをえらんだつもりでも、
それだけですでにぎゅうぎゅうづめだ。
逆上してしまい、電子辞書とスマホの充電池もカバンにいれる。
出発の時点ですでに荷物でいっぱいだから、
防寒用のフリースやウィンドブレーカーは、
関空についた時点ですでによけいな荷物でしかない。

関空には、発売されて間のない
村上春樹さんの『騎士団長殺し』がツタヤにならんでいた。
話題作をもっていけば、それなりのおもいでになるだろうけど、
きっとセブ旅行イコール『騎士団長殺し』になり、
ごちゃまぜなへんな記憶がのこるだろう。
それに、これ以上 荷物をふやしたくない。

島根からセブ島へいくのは、おもってたよりたいへんだ。
自宅から出雲空港まで車で。
プロペラ機にのって伊丹につくと、リムジンバスで関空へ。
つくのがはやすぎたため、チェックインまでしばらくまつ。
荷物検査にはながい列ができている。
さいわい出国検査はすぐにおわる。
フィリピンエアラインの出発ゲートまで、
航空内をはしる電車にのった。
心理的には、空港の奥ふかくにはいりこんだ気がする。

そのうえ、予定しているセブ島ゆきの便は、
2時間おくれての出発になり、現地には夜9時の到着といわれた。
イミグレや空港からのタクシーに手間どると、
ホテルにつくのは夜おそくになりそうだ。
バタバタしてるうちに、ブログがかけないといけないので、
空港内でブログをアップしておくことにする。
待合室のFreeWi-Fi環境はもうしぶんない。
セブ島についての豪華な晩ごはんをたのしみに、
あと3時間のまち時間をなんとか有意義にすごそう。
旅行では、あいた時間をどうするか、がつねについてまわる。
移動だけでなく、まち時間こそが旅行の真髄かもしれない。

posted by カルピス at 14:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月26日

『自閉症の僕が跳びはねる理由』(東田直樹)

『自閉症の僕が跳びはねる理由』
(東田直樹・角川文庫)

すこしまえにNHK特集「自閉症の君が教えてくれたこと」をみた。
会話ができない東田さんなのに、
しっかりした文章をパソコンにうちこむようすにおどろいた。
重度の自閉症であり、おちつかないと
あたりをピョンピョンとびまわる東田さんが、
パソコンにむかうと 高度に知的な論理をくみたてていく。

この本は、
「いつも同じことを尋ねるのはなぜですか?」
「自閉症の人はどうして耳をふさぐのですか?」
といった、
「なぜ◯◯なのですか?」という質問にこたえるかたちで
自閉症のひとが どうかんがえ
なににこまっているのかがまとめられている。
わたしは仕事として日常的に
自閉症の方とせっしているけれど、
なぜ◯◯なのか、わからないことばかりだ。
ほんとうに、なぜおなじことをなんどもたずねるのだろう。

ここにあげられた回答は、
東田が自分についてかたったもので、
ほかの自閉症のひとにはあてはまらないかもしれない。
それでも、自閉症の方が この本のように
自分のかんがえをかたってくれたのは、とても参考になる。
どうか、僕たちが努力するのを最後まで手伝って下さい。

僕たちの勉強を手伝ってくれる人は、僕たち以上に忍耐力がいります。その上、どう見ても勉強好きには見えない僕たちの、本当の気持ちを理解できないといけません。
 僕たちだって成長したいのです。

など、そばにいてほしい、よりそってほしい、
そっとみまもってほしい、というねがいが
なんどもくりかえしかかれている。
自閉症だから特別な対応が必要なのだけど、
本人によりそい みまもるのは、
どんなひととのかかわりでもかかせない。
おなじことをくりかえしたり、
ピョンピョンとびはねたりする自閉症の方が、
もっと成長したいというねがいをもっているのを、
わたしはまったく想像できずにいた。

東田さんは、質問にこたえながら、
「僕たち」と、自閉症者の代表としておおくをかたっている。
東田さん個人のかんがえなのに、あえて「僕たち」として、
自分では声をあげられない仲間たちのおもいを
代弁しているのではないか。
東田さんがこの本をかいたのは13歳のときで、
13歳の東田さんでなければかけなかった気もちが
素直に表現されているからこそ、貴重な意見だ。

自閉症のかたには、視覚的につたわりやすいよう、
よくカードをつかってスケジュールをしめしたりする。
東田さんは、そうされるのがすきではないという。
なぜかというと、やる内容と時間が記憶に強く残りすぎて、今やっていることが、スケジュールの時間通りに行われているのかどうかが、ずっと気になるからです。

わたしの職場にも、カードをしめすと
その刺激につよくひっぱられてしまい、
うごきにくくなるひとがいる。
また、わかりやすく予定をしらせるのが、
支援者として当然の役わりだとおもい、
たとえば、まえの日に予定をつたえたりすると、
その記憶がつよくのこりすぎて、
ほかの活動に気がまわらないくなるひとがいる。
東田さんがこの本にはっきりかいてくれたから、
自閉症のなかには視覚的な情報に
むかないひとがいるのをしった。
ただ、東田さんが、視覚的な支援を否定されているからといって、
すべての自閉症のかたもおなじとは、かんがえないほうがいい。
ひとによって支援の方法に ちがいがあるだけのはなしだ。

この本のおわりに短編小説「側にいるから」がおさめられている。
東田さんでなければかけない不思議なはなしであり、
13歳がかいたとはおもえないほど ととのった文章だ。
会話ができず、文字をうつのにも
ひとことひとことしぼりだすように
キーボードをたたく東田さんが、
こんな「ふつう」な小説をかけるとは。
いや、13歳の少年なのだから、ほかの子どもたちのなかにも
このようにたくみな小説をかく子がいるだろう。
東田さんは 自閉症ではあるけれど、
内面にはおおくのおもいをかかえている「ふつう」の13歳だ。

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2017年02月25日

ないものをみようとする デイリーポータルZの記事をたかく評価する

このなんにちかのデイリーポータルZは、
べつの次元にはいりこんだように、
ちからのこもった作品がおおかった。

デイリーポータルZのおもしろさは、
ありえないもののくみあわせであったり、
ふつうだとみおとしてしまいがちな物件に
ひかりをあてるところにある。
あるいは、常識的にとらえると ばかばかしくてやらない
実験めいた作品もよくみかける。
それらのおもしろさは たかく評価するとして、
さいきんは、べつの段階へと
急ハンドルをきる作品が目につくようになった。

・「牛焼肉定食で学ぶチームマネジメント」(江ノ島茂道)
http://portal.nifty.com/kiji/170221198857_1.htm
・「ゴリラを見逃すな!」(大北栄人)
http://portal.nifty.com/kiji/170221198855_1.htm
・「田んぼをスタバと見なす」(ヨシダプロ)
http://portal.nifty.com/kiji/170223198873_1.htm

それぞれ、さっとよんでいては
なにがいいたいのか まるでみえない。
世の古典となっている問題作、
たとえば『資本論』や『種の起源』があらわれたときは、
きっとこんなかんじで 世間の理解をえるのに
しばらく時間がかかったのではないか。

うえにあげた3つの記事について、
かんたんに説明すると、
・「牛焼肉定食で学ぶチームマネジメント」は
牛焼肉定食についているそれぞれの品、
肉やごはん、それにタレなどを 会社のメンバーにみたて、
おたがいが ちからを最大限に発揮できる環境をかんがえていく、
とかいても、おそらく なんのことかわからないだろう。
記事をよんでも よくわからないのだから、
かんたんに説明など、できっこないのだ。
しかし この記事には、これからおおばけしそうな
あやしいかおりがたちこめている。

・「田んぼをスタバと見なす」は、
犬の散歩でとおりがかった田んぼをスタバにみたて、
ちからずくで田んぼにひそむスタバ的な要素をあぶりだしていく。
といっても、もともと共通の要素などなく、むちゃな設定なのだけど、
それをいかにもっともらしく「見な」していくかに
ヨシダプロ氏の力量が発揮される怪作だ。

・「ゴリラを見逃すな!」は、
4人がボールまわしをしている場面で、
何回パスがまわされたかを、観察者がかぞえるテストだ。
そこに仮装した(たとえばパイロットになった)
ゴリラがあらわれたとき、
ひとはどれだけゴリラの存在をみとめられるか、と
人間の錯覚に焦点をあてようとしている。
ゴリラがパイロットのかっこうをしたり、
そのゴリラがフライトにおくれそうになり
絶望してドラミングする意味がよくわからない。
わからないけど、なにかとんでもないところへ
わたしをつれていってくれそうな予感がある。

これら3つの記事は、ふだんわたしたちの目にはいらない。
想像力をゆたかにはたらかせているのでもない。
特殊な目と、ねじまがった思考回路により
ありえない方向にくみたてられた論理がベースにあり、
ていねいに解説されないと、なんのことかまったくわからない。
いわば、そこにないものをみようとする、
あたらしいこころみであり、
その革新的な内容におおきな拍手をおくりたい。

posted by カルピス at 14:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月24日

祝 ブログ2000記事

ブログ更新1000回目をおいわいしたのが
ついこのまえみたいなのに、もう2000回目がきた。
まことにめでたい。
めでたいけど、なにがかわるわけでもない。
10年連続更新をめざしてかくようになり、
おりかえし点はすぎたものの、
10年目はゴールでないと、なんとなくわかってきた。
テープをくぐったあとも、しこしこかきつづける気がする。
ブログをかきかじめたころは、
死期をさとりつつあるときに ブログをよみかえして、
「そういえば、そんなこともあった」と
なつかしむのだろうとおもっていた。
でも、そのころには きっとすべてをわすれてしまい、
「つまらんことをかくやつがいる」などと、
ポツリとつぶやきそうだ。

2000回目にきたとはいえ、
PVと訪問者数はみごとにかわらない。
自業自得とはこのブログのことで、
記事のタイトルはテキトーだし、SNSにもながしてない。
そもそもブログ名からしてめちゃくちゃなので、
SEO対策からみると 自分からずっこけている自爆ブログだ。
わるいことばかりではないと、つよがりもする。
よまれる数がすくないので、いやなコメントだってこないし、
だれにも遠慮せずにかける。
これもまあひとつのスタイルだと 達観の域にたっした。

これだけよまれないと、
反対に、わたしのブログとは逆のやり方をすれば、
すくなくともこれほどひどいPVにはならないので、
反面教師として参考になるはずだ。
ブログ名と記事のタイトルにキーワードをちりばめ、
内容も、いまふうな話題をとりあげたらいい。
まちがっても、個人的な日記のようなことをかかない。
とつぜん自分の家のネコをとりあげても、
よむひとにとっては「しらんがな」でしかないので要注意だ。
漢字がすくないかき方がよくすすめられているけど、
あまりすくないと かえってよみにくかもしれない。
これはまあ、主義主張からの表記法なので、
こだわりのないひとは、常識的な範囲でひらがなをおおくしたらいい。

まえに、「フルマラソンを完走したらどれだけえばれるか?」
という記事をかいたことがある。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/240994889.html
いまは、たとえブログを2000回更新したからといって、
すこしも得意がろうとおもわない。
2000回がどうしたというのだ。
この達観こそが ひとつの成果である(とえばったりして)。

キリストがうまれてから2000年たったのが西暦2000年なのだから、
わたしの記事が2000にたっするまでに、
世界史にかかれるできごとを
いちにちごとにきざんできたともいえる。
1000回ぐらいでは、西暦との関係をぜんぜんかんがえなかったけど、
2000回にちかづくにつれ、
歴史的なできごとや、個人のおもいでが
数字にからんで チラチラするようになった。
「1986」は、わたしが仕事をやめて旅行にでた年だ。
「2000」はミレニアム問題がささやかれて、
水や食糧の備蓄にはげんだりした。
そして、もうすぐ「2017」のことしをこえ、未来へと舞台をうつす。
まことにめでたい。

posted by カルピス at 09:23 | Comment(2) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月23日

「ゆうがたパラダイス」での異文化理解

夕方に利用者をおうちにとどけたかえり道、
きょねんまではNHK-FMの番組
「音楽遊覧飛行」をきく日がおおかった。
週ごとに担当者がかわり、
民族音楽や映画音楽にテーマをしぼられる。
吉村信彦さんの「食と音楽で巡る地球の旅」が
わたしはとくにすきで、音楽もたのしいけれど、
吉村さんのはなしをきいていると、
旅行への気もちをかきたてられた。

それが、4月から放送時間がはやくなり、
それまでの時間帯は「ゆうがたパラダイス」へとかわった。
こちらは、曜日ごとに担当者と内容がわかれており、
「音楽遊覧飛行」よりも、ずっとわかものむけのはなしがおおい。
ながされる曲も、わたしがしらないものばかりで、
50代のおじさんとしては、疎外感をつよくあじわう番組となる。

月曜日と火曜日の番組内容は、
わたしの関心とまるでかさならないのであきらめた。
でも、水曜日と木曜日については、
きいているうちに、ときどきピクッとくる曲がかかるようになった。
水曜日担当の津野米咲さん、木曜日の高田秋さんのはなしは、
自分がすきなことに没頭しているひと特有の、
なにやらつきぬけたところがある。
紹介される曲は、わたしがきいたことのないものばかりだけど、
メジャーなミュージシャンよりも ちからづよさをかんじる。
決定的だったのは、高田秋さんがとりあげた
「SHISHAMO(ししゃも)」の「明日も」で、
ラジオからながれるこの曲をきいていると、
ただもう とにかくいいかんじになってきた。
ユーチューブでなんでもきいていたら
頭のなかであのリズムがずっとぐるぐるまわっている。
ことしいちばんの曲として、話題になるのではないか。

いまはやりの曲をきいても、
わたしはまったくこころをうごかされないけれど、
おふたりが紹介する曲は、それらにはない魅力がある。
この番組をきいていなかったら、
ぜったいにわたしはであわなかった世界だ。
わたしは、津野さんと高田さんの感性に、
ついていきたくなった。

「音楽遊覧飛行」をきいていたら、
なじみの世界にここちよくすごせるけど、
あたらしい刺激はあまりうけない。
「ゆうがたパラダイス」に番組がかわり、
わたしには関係ないときめつけていたゲストや曲が、
ちがう世界をおしえてくれるのを ありがたくおもうようになった。
おじさんとしては、べつの人種とおもっていたひとたちに、
なんとかついていけてるようで、わるくない気分だ。
異文化とであい、すこし理解できたときは、
こんなよろこびをかんじるのではないか。

posted by カルピス at 23:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月22日

島根で2月22日は なんの日が正解か

2月22日はネコの日なのだそうで、
ラジオでもさかんにとりあげていた。
とはいえ、わたしがつとめる介護事業所では、
ネコの日にちなんだ活動はとくになく、
いつもとおなじ日課を粛々とこなした。
わたしだってネコがすきだけど、
ではネコの日になにをすればいいのかとなると、
まったくアイデアがうかばない。
ネコの日って、なんの日なのだろう。

ネコの日が話題にのぼったとき、
職員のお子さんが小学校のテストで
「ネコの日」とかいたはなしをきいた。
なにかの授業でだされた
「2月22日はなんの日?」という問題に、
すなおに「ネコの日」とかきこんだら
マルをもらえなかったそうだ。
自信満々で「ネコの日」とかいたのに、
まちがっていたなんて、気のどくなはなしだ。
それくらい いまや「ネコの日」はよくしられている。
あるいは、島根には「しまねっこ」というゆるキャラがいて、
名前のとおり それがネコなので、
職員のお子さんは 島根県民として、
つい「しまねっこ」にひっぱられたのかもしれない。

2月22日の正解は「竹島の日」なのだそうだ。
そんな問題を小学生にだすほうが よっぽどどうかしている。
「ネコの日」とこたえた すなおな子が、
がっかりしないよう いのりたい。

ネコの日がいったいなにをする日なのかわからないように、
竹島の日も、なんのことかわからない。
きょうのおひるごろ、たまたま市内の中心部を車でとおったら、
警察官が交差点ごとになんにんもたっていて、
そういえば竹島の日なのをおもいだした。
この日 松江市では、竹島についての式典がもよおされる。
右翼の宣伝車や、韓国の活動家による混乱を警戒して
たくさんの警官が 会場のちかくをかためている。
何年かまえには、何分もとぎれないほどの宣伝車が、
軍歌をながしながら 市内を威圧的にはしりまわっていた。
それにくらべると、きょうはまだしずかなほうだろう。

朝日新聞には、読者に「どう思いますか」と
といかけるコーナーがあり、
先日は「元号をやめてはどうか」という読者からの投稿を
「どう思いますか」がテーマだった。
この手のコーナーは、
賛成・反対・中立を、バランスよくならべるだけで、
はっとする意見はまずのらない。
元号についても、
・廃止してもデメリットはない(つまり賛成)
・現代まで続く歴史的遺産を守ろう
・欧米に追従する必要はない
・実用性が大事な場合は西暦で
と、とりあげた投書の数で元号を支持しつつ、
形としては 意見の多様性を紹介したようにみせている。

「どう思いますか」のあたりさわりのなさにうんざりしつつ、
でもまあ なにがなんでも自分の意見がただしいと
ひたすら いいはるひとよりも ましかなとおもう。
竹島の日にあつまる右翼のひとたちは、
もちろん元号をつかっているのだろう。
年のかぞえかたぐらいなら、つかいたい方法をどうぞ。
それ以上の問題になると、ながい時間をかけて
気ながにむきあっていくしかない。
ひとによって大切にする価値観はいろいろで、
かんたんに決定的なこたえはみつからない。

posted by カルピス at 20:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月21日

内容をぼやかすいいかたが気になる

ラジオをきいていたら、
デジモンがなぜながいあいだ人気をたもっているかについて、
なんにんかではなしていた。
デジモンがなにかわたしはしらないいけれど、
はなしている女性のことばが気になった。

・やっぱり
・〜とか
・ほんとに
・えっと、なんだろーな
・どういったらいいか

など、内容をぼやかすことばが連発される。
これらのことばをくりかえし口にしているだけで、
実質的には なにもいってないようなものだ。
かんがえをまとめて スラスラはなしたほうがいい、
とまではもとめないけど、
これらのことばがおおくつかわれていると、
いかにも自信のない発言にきこえてしまう。
たくさんはなしていても、内容がとぼしくおもえる。
その女性は、いっしょうけんめいはなしているのに、
わたしは 内容よりもつかうことばに気をとられてしまい、
説得力をかんじなかった。

この女性がとくに、というわけではなく、
こうした断定をさけるいい方をよく耳にする。
文章とちがい、はなしことばでは
ことばひとつひとつにたいし、厳密な意味をとわないので、
つい無意識につかってしまいがちだ。
ぼやかしたいいまわしをしないと、
きつい表現にうけとめられやすいとも、きいたことがある。
場の雰囲気もかかわってくるだろうから、
はなすときにつかうことばは 意外とむつかしい。
とはいえ、あんまりぼやかしすぎていたら、
いったいなにがいいたいのかが つたわってこない。

文章のかき方がよくとりあげられるけど、
はなすときにつかうことばは、
あんがい自由に、つまりチェックされないまま
ひとりひとりにまかされている。
べつにラジオやテレビでなくても、
ぼやかさない表現のほうが、わたしにはうつくしくきこえる。

posted by カルピス at 23:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月20日

BSスペシャル「中国・激変するトラック業界」

BSスペシャルで、おおきくかわるる
中国のトラック業界をとりあげていた。
国内に高速道路網がはりめぐらされてから、
中国の物流は、いまや完全にトラックが主役になっている。
番組は、中国でいちばんおおきな貨物トラック集積場である
「成都公路港」をひとつの典型的な例として、
中国トラック業界の「いま」を紹介している。

トラックがあれば とりあえず仕事につけるので、
いまや中国全土で3000万人が
トラックド運転手としてはたらいているという。
成都には、いちにちに1万人の運転手が
仕事をもとめてあつまってくる。
彼らのおおくが個人経営の事業者だ。
これからは、おおきな運送会社が
スマートに物流をしきっていくのだろうが、
いまはまだおおくの個人事業者が 仕事をうけおっている。
すこしでもいい値段で荷物をはこぼうと、
集積所は個人のトラック事業者や仲介業者でごったがえしている。
彼らのおおくは、はげしい価格競争にさらされ、
満足に仕事にありつけない日もある。
トラック運輸の仕事は、以前ほど
もうかる仕事では なくなっている。

「成都公路港」から、3台のトラックが出発する。
1台は、運送の仕事をはじめてまだ3ヶ月の男性とその家族。
1台は、父親と、ふたりのむすこによるチーム。
もう1台は、トラック運転手歴25年のベテランと、
その相棒によるコンビ。
いきさきは1000キロ以上はなれている場合がおおい。
取材班は3台のトラックにカメラをもちこみ、
ドライバーたちの仕事ぶりが紹介される。
経験のあるドライバーが いい仕事にありつきやすいとはいえ、
高速料金や燃料代は、日本とあまりかわらない。
経験のとぼしい男性がうけおった仕事は、
必要経費をさしひくと、赤字になってしまった。
ねる時間をおしんで運転する運転手たち。
ゆっくりからだをのばせないようなくらしをつづけ、
彼らの健康は大丈夫なのだろうか。

トラック運送がもうかる時代には、
月に50万円のうりあげがあり、家をたてたりもできた。
いまはもう、この業界のさきゆきは
そうあかるくはなさそうだ。
お父さんの仕事をつぎたいか、と、
トラック運転手の息子にたずねると、
いかにも一人っ子政策の申し子みたいな
ひよわそうな男の子(中学生くらいか)が、
「ぼくは車酔いするので、トラックにはのりたくないな。
 学校にもいかなくちゃならないし」
とこたえていた。IT業界へすすみたいのだという。
過酷な状況のもと、25年もトラック運転手をつとめてきた父親に、
あのような子がそだったのが印象にのこる。
巨大すぎる人口は、なにをするにもコントロールがむつかしい。
国の政策がかわれば おおくのトラック運転手は
仕事にあぶれるだろう。
仕事はおさきまっくらで、家ではグニャグニャしたむすこが
ふやけたことをいう。
トラック業界の変動というよりも、
中国社会の変化をまのあたりにする番組だった。

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2017年02月19日

歯間ブラシへの抵抗感

歯石をとってもらうために歯医者さんをたずねたら、
歯石のほかにもわるいところがみつかった。
つめものが歯にあわなくなっているのと、
歯のすきまにブラシがとどいていないので、
よごれがおちていないそうだ。
つめものは、あたらしく型をとってもらい、
歯石をぜんぶとってから つけかえましょう、といわれる。
歯のすきまにたまるカスについては、
ふつうの歯ブラシでは限界があるので、
歯間ブラシをすすめられた。
歯間ブラシは、エントツそうじのブラシを
歯のサイズにあうくらいちいさくしたもので
(これではかえってイメージできないか)、
歯医者さんでなくても ドラッグストアで手にはいる。

家でも歯間ブラシをつかいはじめると、
いかにもくまなく歯がきれいになるようで
あんがいおもしろくとりくめるし、
こころなしか 口のなかがすっきりする。
でも、ちょこちょこと、歯間ブラシで歯のすきまをせめていると、
こんな不自然な行為はないような気がしてきた。
ながい人類の歴史で、歯間ブラシをつかうようになったのは、
ほんのごく最近のできごとだろう。
歯みがきは、ちがう。
おおむかしから(いつからかはしらない)、
人類は木の枝をしゃぶったり かじったりして、
歯のそうじをこころみてきた。
虫歯予防というよりも、心理的な爽快感だったかもしれないし、
歯になにかがはさまったのをとるために、
必要な「歯みがき」だったかもしれない。
動物と人間とのおおきなちがいは、
歯をみがくか、みがかないかだ
(いまおもいついた格言)。

しかし、歯間ブラシとなると、
かなりこまかな技術がなければつくれないし、
そんなところのゴミをとろうなんて発想を、
むかしのひとはもたなかったとおもう。
そもそも歯にすきまができるのは、
老化にともないハグキがやせるのが原因であり、
50歳をこえてまで生きつづけようとするから
歯間ブラシなんてものが必要になる。
歯みがきのさいごに、しあげとして、
歯間ブラシをつかいながら、
こんなちょこざいな行為をしてまで
わたしはながいきしたいのかと、
なんだかさみしくなってきた。
歯にすきまができるまで生きたんだから、
すみやかに死ぬ時期をむかえているのではないか。

ゾウやネコが、死期をさっすると、
死に場所をもとめて むれからはなれたり、
家からでたり、というのはどうやら俗説らしいけど、
人間もまた、生物としてのやくわりをおえた50歳になれば、
ながいきばかりをもとめずに、
さいごの形づくり(まけをさとった棋士のように)を頭におき、
おだやかなさいごを演出したほうがいいのではないか。

わたしがいいたいのは、お化粧と整形の関係のように、
歯みがきまでは当然としても、歯間ブラシは整形、
つまりいきすぎた行為なのでは、という疑問だ。
たとえばローマ法王に歯間ブラシの是非をたずねたら、
どんな判断をくだされるのか興味がある。
ながいきをもとめ、人間には どこまでの行為がゆるされるのだろう。
臓器移植やガンの克服などとおなじ問題意識として、
歯間ブラシへの欲望は、はたして ときはなしてもいいものかどうか。

歯間ブラシは ブラシがおれるまでつかえるから、
8本いり300円で しばらくわたしの歯のすきまをきれいにしてくれる。
やってみると、ぜんぜんめんどくさくないので、
そのうち習慣になるかもしれない。
こざかしく歯間ブラシをうごかしながら、
悪魔に魂をうりわたしたようで、
しばらくモンモンとなる日がつづきそうだ。

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2017年02月18日

『最高の人生の見つけ方』人生のおわりに必要なもの

『最高の人生の見つけ方』
(ロブ=ライナー:監督・2007年・アメリカ)

余命数ヶ月を宣告されたふたりが、
人生のさいごをかがやかせようと、
死ぬまでにやってみたいリストをつくり 旅にでる。
だれにとっても関心のある話題だろうし、
まさにわたしがねがっている人生のくくり方でもある。
ひとは、ながらく生きているうちに、
いくつかの こみいった問題をかかえるようになる。
ふたりの旅は、その精算でもあった。

死ぬまでにやっておきたいリストは、
映画でときどきみかけるテーマだ。
のこされた時間の関係から、
あまりあとからつけたせないので、
よくかんがえてリストをととのえたい。
といって、あんまり実現可能なものばかりでも
なんだかおもしろくない。
多少の無理をふくみつつ、たのしめるリストとは
どんな内容になるだろう。
いまから準備できないことはないけれど、
ほんとうにそれが 自分を「最高の人生」へみちびいてくれるかは、
わりとギリギリにならなければわからない。
わたしだったらどうするか、とかんがえながら、
どこか気らくにみられるのも 映画としては都合がいい。

主演のジャック=ニコルソンとモーガン=フリーマンは、
死期がせまっているにしては げんきすぎた。
あんまり病気がおもてにでると、
映画のおもしろみに水をさすとはいえ、
いまのわたしよりもげんきにうごきまわるふたりは、
いささかリアリティにかける。
ねがわくば、わたしがさいごの旅にでるときにも
あれくらいの体力がのこっていますように。
ふたりはお金をかけけた贅沢なやり方で
世界各地をまわったけど、
べつにお金もちでないと できない旅ではない。
あまりみじめな滞在にならない程度のお金があれば、
だれにでも実現可能だ。

よくありがちなストーリーで、
たとえばフリーマンが妻とひさしぶりにベッドへむかう場面では、
それからの展開がわたしにも予想できた。
でも、そもそも人生はベタなものなのだ。
死ぬすこしまえに必要なのは、あるていどの体力とお金、
そしてなによりも いっしょにわらってすごせる仲間だと、
この作品はおしえてくれる。
ああ、たのしかったと、ふたりのように
こころがみたされた死をむかえたい。

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2017年02月17日

しろうとに、読書スランプはおとずれない

『本の雑誌 3月号』の特集で、
読書スランプ克服法がとりあげられている。
文章をかくのにスランプはよくきくけど、
本をよむのにも スランプなんてあるのか?
特集は、読書にスランプなんてない、という立場と、
正面から読書スランプをかんがえたものと、
2つの立場にはっきりわかれた。
完璧なフォームでホームランを打っちゃうと、そのあとはその振りにこだわっちゃって、どんなフォームだろうが当ててヒット打てばいいのに、それができなくなっちゃうんです。

そういわれると、仕事としての読書でなくても
スランプはありえるような気がしてくる。
理想がたかいと現実はむつかしくなる。
A (運動とおなじで)ちょっと読むのを怠ると
 読めなくなっていっちゃうじゃないですか。
D だって元々よまなくてもいいものだからね(笑)
C 読まなくても生きていけることに気づいちゃうんだよね。

「元々よまなくてもいいものだから」に
スランプ克服法のこたえがひそんでいるのでは。

「読まないのが一番だ!」と、
読者からの投稿が紹介されている。
プロじゃないおおくの読者にとって、
本はむりしてよむものではないし、
よめなくてもとくにこまらない。
わたしの場合、小説に集中できないときは、
エッセイや旅行記をめくるのがおおくなる。
そもそもわたしはふだんからそんなに本をよんでいるわけではなく、
小説を月に2、3冊、あとはかるい本が中心の読書なので、
スランプをこれまで意識したことがない。

ときどきぶあつい本にむきあいたくなったり、
日本の小説ではなく 海外ミステリーがよみたいときがある。
調子のいい・わるいでいうと、
ながい小説を手にとる気になるのは
あきらかにいい調子のときだ。
でも、なんどもくりかえすけど、
調子がわるいからといって べつにこまらない。
プロだけがスランプにこまるのであり、
すきなペースで本とむきあっているものにとって、
読書スランプは 切実な問題とはいえない。

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2017年02月16日

ランナーより はやくはしらないでくれるとうれしい

仕事のあと、宍道湖岸をはしる。
だいぶ日がおちるのがおそくなり、
夕日をながめながらのジョギングとなった。
あともうすこしでおわり、というころ、
「とるぱ」と名づけられた 夕日のスポットにさしかかったら、
写真をとってと、旅行者に声をかけられた。
カップルの韓国人旅行者だ。
夕日が写真の中央にくるようにとって、とたのまれる。
1枚目はうまくいかず、2枚目でOKをもらう。
それにしても、はしっているランナーをとめて 写真をたのむのは、
韓国では常識なのだろうか。
まさかジョギングとおもわなかった、なんてことは ないはずだけど。
それほどわたしがゆっくりとリラックスしてはしっていたのか。

そのすぐあとで、こんどは絶好のシャッターチャンスをのがすまいと、
わたしをおいぬいてはしっていく旅行者が3名いた。
男性がすごいスピードでさきをゆき、
そのあとから女性2人が彼をおいかける。
いくら夕日がすばらしいからといって、
ランナーよりはやくはしらないでほしい。

外をはしっていて、がっくりくるのは、
なにげないはやあしの通行人にぬかれたり、
宅配便のおにいさんのバネをきかせたはしりに
ぜんぜんおいつけないときだ。
たとえスピードがにたようなものであったにせよ、
余裕をもった身のこなしなのか、
わたしみたいに、ギリギリの体力で
なんとか足をうごかしているのかは、
みていてすぐにわかる。
つかれてくるしくなったころに、
ランナーですらないひとにあっさりぬかれるのは、
どれだけこころをきたえても かなりこたえる。

なんだか自分中心に夕日のスポットについてかいたけど、
宍道湖におちる夕日は たしかにうつくしく、
練習ちゅうのランナーをとめたり、
そのランナーをおいぬいてでも、
写真をとりたくなる気もちはわかる。
日韓の友好関係にひとやくかったような気もするし、
夕日のうつくしさと、旅行者の笑顔が、
印象にのこるジョギングとなった。

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2017年02月15日

『わたしのワンピース』この絵本の魅力がやっとわかった

『わたしのワンピース』(にしまきかやこ・こぐま社)
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まいにちかよう職場に(あたりまえか)
『わたしのワンピース』をよんでくれと、
しょっちゅうわたしにもとめてくるひとがいる。
ご期待にこたえ、できるだけ よませてもらうのだけど、
わたしにはこの絵本のよさがまったくわからなかった。
絵がそんなにうまいとはおもえないし、
ストーリーだってたいした起伏があるわけではない。
よんで、といわれるから いわれるままによむわけだけど、
自分からすすんでとりだしたくなる絵本ではない。

なぜこの絵本がこんなにこのまれるのか、
ずっと不思議におもっていた。
なにしろ、1969年の12月に第1刷がでてから、
職場にある本は2006年11月に第140刷されたものだ。
定番の絵本がどれくらいすられているかよくしらないけれど、
140刷はたいへんな人気といっていいのではないか。

本にかかれているのは、うさぎの女の子がワンピースをつくるはなし。
女の子のうえに、まっしろなきれが、ふわふわっとおちてくるのが
ものがたりのスタートとなる。
その子はそのきれでワンピースをつくろうときめた。
女の子は自分ひとりで(登場人物は この女の子だけ)
ミシンをカタカタうごかしながら、ワンピースをつくる。
ワンピースのもようは、女の子がでかけるさきの景色をとりいれて
とりや くさのみに かわっていく。
雨がふってきたり、夕やけをみているうちに、
なんだかねむたくなってきて、
目がさめたときは 朝になっていた。
女の子は、おひさまにおはようをいう。

最近になって気づいたのは、女の子が安心しきって
景色がかわるのを たのしんでいるようすだ。
雨がふり、虹がでてきて、夜空をとんだりと、
まわりの景色とともに、
ワンピースのがらが どんどんかわっていく。
やがて女の子は つかれてねむってしまう。
目をさますと、またおひさがのぼり、
まっさらなつぎの日がはじまっている。
みじかいものがたりのなかに、
いろんなできごとがもりだくさんで、
さいごは あたらしい いちにちをむかえておわる。
この絵本をよんでもらった子どもたちは、
にぎやかなできごとにわくわくしながら、
つかれてねむったあと、またいちにちがはじまる展開に、
みちたりた気分になるのではないか。
絵がうまくないなんて、絵本をみている子にとって、
たいして重要ではないのだろう。

というようなはなしを、
いぜん幼稚園の先生をしていた同僚にはなすと、
いまの子は、『わたしのワンピース』より
うごきのあるものがたりを このむ傾向にあるとおしえてくれた。
かつての定番だからといって、
いまも絶大な人気をたもっているわけではないようだ。
どんな本にも賞味期限があるだろうから、
1969年にだされた『わたしのワンピース』が、
まえとはちがうよまれ方をするのは あたりまえだ。
ただ、わたしに「よんで」とせがむ方のように、
すきなひとからは いまも絶大な支持をあつめている。
ひとによって、なんどもよみたくなる この本の魅力に、
わたしはやっとちかづけた気がする。

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2017年02月14日

犬だけじゃない 人間とのアイコンタクト

なんにちかまえの朝日新聞に、
犬についてのちょっとした特集がのっていた。
犬を「最古の家畜」として、
ひととのあゆみがまとめられている。
犬は飼い主と目線をあわせる。すると、双方で愛情や信頼に関わるホルモン「オキシトシン」の濃度が上昇する

オオカミは、かいならされても、
人間と目をあわせないそうだ。

なんてかかれると、
犬だけが人間と信頼関係をむすべる動物みたいだけど、
ネコだってひとと目をあわせる。
じっとみつめあい、まばたきするときのネコは、
すべてをうけいれたかのような
ふところのふかさをかんじさせる。
『となりのトトロ』で
メイがトトロのねぐらにまよいこんだ場面は
まさしくネコ族のまばたきがえがかれている。
メイはトトロのおなかにのっかり、
トトロはねぼけまなこで とつぜんやってきた
人間の女の子をボーっとながめる。
トトロはいちどゆっくり目をつむったあとで、
ふたたび目をあけてメイをじっとみつめる。
あのときのまばたきは、ネコ族に特有なうごきだ。
「信頼」とはちょっとちがう。
トトロはメイの存在をまるごとうけいれ、
それでいて自分のペースもみだしていない。
くるものをこばまず、心配なんてなにもないから、と
こちらの気もちをおちつかせてくれる。

ピピもまた、わたしと目をあわせ、
ゆっくりまばたきをする。
ひざのうえによじのぼり、
わたしの胸に両手をおいて、
なにかをまっているみたいに
じっとわたしの顔をみつめながらノドをならす。
おしっこまみれで、やせほそりながら、
そんな自分のからだをうけいれて、
死ぬまで生きつづけようとする。
わたしがはなしかけると、ピピはゆっくりまばたきをする。
それがわたしへの返事らしい。

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2017年02月13日

ネコはこたつでまるくなる

ときどきピピのようすをブログで紹介しているとおり、
このごろピピは いちにちのほとんどをねてすごしている。
さむいので、どうしてもこたつのなかで まるまりがちだ。
「雪やコンコ」のうたに、
「ネコはこたつでまるくなる」とあるのは、
さむがりのネコを 極端にディフォルメした
おおげさな歌詞かとおもっていたら、
あれはほんとうのはなしだった。

イヌがよろこんで庭をかけまわるかどうかはしらないが、
あるていど歳をとったネコについて、
「雪やコンコ」は事実をそのままうたっている。
いちにち24時間のうち、20時間以上を
ピピはこたつでまるくなっているのだから、
うたになっても文句はいえない。
あまりにも うたのとおりなので、
いまさらなにをいっているのかと、
ネコたちは ひらきなおりたくなるのではないか。

わたしが子どもだったころ、
おとなはげんきにそとであそぶ子どもをこのみ、
部屋のなかでさむそうにしている子がいると、
「子どもは風の子」だから外であそびなさいと、よくいわれた。
「雪やコンコ」のうたは、さむくてもそとであそぶイヌをほめ、
ねてばかりいるネコを なまけものだと
きめつけているようにきこえ、あまりすきではない。
子どもながらに 道徳的なにおいを かぎつけていたのではないか。

ちがったとらえかたもある。
ネコだってすきでまるまっているわけではなく、
それなりの事情があるのかもしれない。
そんなネコたちの側にたってものごとを観察し、
背景にかくれているなにがしかを
想像できる子にそだってほしい。
むかしのひとは「雪やコンコ」のうたに
そんなねがいをこめたという説だ。

有名な「北風と太陽」では、
ちからづくで男のコートをぬがせようとした北風が、
知恵のたりない乱暴者のようにあつかわれている。
でも だからといって 北風になにができる?
ときりかえしたひとがいて、わたしはすごく感心した。
たしかに北風ができる工夫はかぎられている。
おなじ意味あいで、冬をなんとかのりきろうとするネコは、
まるまる以外になにができるというのか。
ネコの側にたつと、ふつうにきいているぶんには、
理不尽なうたでしかない。
うらがわにかくれているはずの真理を
まなぼうとする姿勢がとわれている。

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2017年02月12日

工夫や改良は そんなにえらいのか

これをいったら 身もフタもないけど、
ものごとを工夫したり改良したりするのは、
そんなにほめられたことなのか。
テレビでおいしい料理の店を紹介するときなど、
いかにふつうではない工夫をほどこし、
ありえないほど手間をかけてますと、
お店の方が自慢し、取材するひとは感心してみせる。
テレビだからしょうがないとはいえ、
手間をかけたからといって、
それだけおいしくなる場合ばかりではないだろうに。

そんなに労力をかけないで なんとなくできたものを
そのままお客さんにだしてますと、
さらっとうちあけるのはどうだろう。
なにもしてないのに すごくおいしいかもしれないし、
これぐらいだったらじゅうぶん合格点、
みたいな味におさまっているかもしれない。
工夫や改良をかさねる店だけを わたしはもちあげたくない。
根本的に、わたしは工夫や改良を否定して、
すくなくともたかく評価せずに生きている。

そんなかんがえにかたむいたのは、
梅棹忠夫さんの『私の生きがい論』をよんでからだ。
梅棹さんは、老子のおしえを引用しながら、
目的を設定せず、勇気ももたず、
創造からはなれた生きかたもあるという。
努力や進歩を否定する人生論に、わたしはつよい刺激をうけた。
工夫や改良をかさねた結果、世界はこんなふうに、
つまり どうにもならない問題を
かかえるようになってしまったのではないか。

人生にさえ目的はいらないのだから、
たとえばおいしいラーメンをつくるのに
おおさわぎしなくてもよさそうなものだ。
あつい情熱をかたむけるひとがいてもいいけど、
それはすきでやってるだけなので、
そんなにもちあげなくてもいい。
テキトーにつくっていながら おいしい店があれば、
それはそれでりっぱな方針ではないか。
おいしくないのに、改良しないで
おいしくないまま つくりつづける店は さらにみどころがある。

わたしはデイリーポータルZのサイトがすきで、
ほぼ毎日チェックしている。
工夫を否定した店の紹介は、いかにもデイリーポータルZむきだ。
工夫を否定する店特集がくまれたら、
あんがい共感するひとがたくさんでてくるような気がする。

農作業など、おなじ手順をくりかえす仕事をしていると、
よりはやく、よりたくさんできるやり方を工夫したくなる。
工夫するひとのほうがほめられるし、
まえむきな姿勢をまわりがたかく評価するだろう。
でも、そんな工夫や改善にあたまをなやまさず、
おなじやり方をずっとつづけるひとのほうが
わたしはこのましくおもうようになった。
こんなはなしを わかいひとのまえですれば、
職場にわるい雰囲気をもたらしそうなので、
くちにはださないけれど、わたしがひっそり実践している。
残念ながら、日本は工夫と改良がすきな国だけど、
そうでないひとたちが多数をしめる国だって あるかもしれない。
地球規模でかんがえると、
そっちのほうが地球、それに人類にたいして いい存在といえる。

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2017年02月11日

『セブン』たしかにカバンをもたない登場人物たち

『セブン』(デヴィッド=フィンチャー:監督・1995年・アメリカ)

レースなかまとジョギングしながら映画のはなしをしていたら、
『セブン』をすすめられた。
たしかずいぶんまえに いちどみている。
でも、すごくいいといわれるので、
またみてみるか、という気になった。

雨がはげしくふる場面のおおい作品だ。
帽子とコートで雨をしのぐ
ベテラン刑事のサマセット(モーガン=フリーガン)と、
雨にぬれっぱなしのわかいミルズ(ブラッド=ピット)。
ストーリーのほとんどをわすれていたけれど、
とんでもないラストだけは はっきりおぼえていた。
なにかといたらない ヘボな刑事役の
ブラッド=ピットがいいかんじだし、
モーガン=フリーガンのしぶさも
作品におちつきをもたらしている。
ミルズの家に夕ごはんを招待されたサマセットは、
初対面であるミルズの奥さんに気をつかいながらも
くつろいだようすですごす。
地下鉄がとおるたびにゆれる ミルズたちのアパートを、
いやみなく わらいにかえるフリーガン。
軽口をたたき、こらえきれずにふきだすようすがとても自然だった。

そして、なんといっても ケヴィン=スペイシーのうまさがひかる。
つるりとした表情で、さとりきった冷静さが不気味だ。
まさか『ペイフォワード』にでてきた
誠実なシモネット先生だったなんて。
あと味はわるいけど、ささやかな場面でも手をぬかず、
細部をよくねり、じょうずにつくられた作品だ。
ストーリーのおもしろさにくわえ、
すべての登場人物が自分の役を適切にこなしきっており、
リアリティのたかさから 安心してみていられる。
『羊たちの沈黙』にひけをとらない傑作といってよい。

このまえ「クールジャパン」で
外国の男たちは基本的にカバンをもたない、といっていた。
映画をよくみているつもりなのに、
カバン問題には、まったく気がまわらなかった。
『セブン』をみているとき、男たちの手もとに注意していると、
たしかにカバンをもってない。
まあ、アクション映画の主役クラスが
手にカバンをもっていたら、
もしものときに あやしいやつを おいかけられないし、
そもそもカバンをかかえる主人公は絵にならない。
わたしが観察したところ、『セブン』では 警察関係者だけでなく、
町をゆく通行人も、男たちは手ぶらであるいている。
ほかの映画でも、その国の社会とカバンとの関係が気になるところだ。
映画をみるたのしみが ひとつふえた。

アニメーションはどうか。
ルパンたちは、カバンをもってない。
ルパンにも次元にも、カバンはにあわない。
「三千里」のマルコはショルダーバッグをさげていたけど、
彼の場合は旅行者なのだから 手ぶらであるけというほうが無理だ。
日本でつくられたほかのアニメのキャラクターたちは、
どんなカバンをもって(あるいはもたないで)
画面に登場しているのだろう。

むすこにカバンをもつかどうか きいてみると、
スマホとサイフくらいしかもたない、という。
手ぶらでのおでかけは、自由がかんじられて すこしうらやましい。

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2017年02月10日

おおすぎる注意報への疑問

朝おきたら5センチくらい雪がつもっていた。
ゆうべの予報では、平野部で30センチ、
つぎの日もそれくらい、なんていっていたけど、
いまのところわずかな雪だ。
30センチときいたときから、たいして心配してなかった。
たくさんつもるような予報が、
そのまま現実となる日はあまりない。
雨の場合も、はじめ大雨注意報がでて、
ちょとあぶないぞ、となると
それが大雨警報にかわるのが よくあるながれだ。
いったい、あの◯◯注意報に、
注意をむけるだけの効果があるのだろうか。

わたしの父は、注意報が警報にかわると
とたんにはりきりだした。
「注意報が警報になったぞ」と、
警報への進化を得意そうにいいふらす。
きっと父のようにさわいでもらうのが気象庁のねらいで、
たいしたことのない段階から 注意報を連発するのだ。
父は、気象庁がイメージする
典型的な一般人の反応を しめしたのだろう。
でも、おおすぎる注意報は油断をまねく。

やたらと耳にする注意報に なれてしまったわたしは、
注意報レベルのよびかけを ききながすようになった。
警報にかわれば、はじめて事態が深刻になる、
と学習しつづけたからだ。
ものには順序があるとはいえ、注意する気にならない注意報に
なにか意味があるのだろうか。
どれだけたくさんの注意報を発表しても、
きいているほうは「まだ警報じゃないのね」と
かえって油断してしまう。
そんなことになるくらいなら、
かえって注意報なんて ださないほうがいいのでは。

にたような例では、道路工事のわきなどで、
交通誘導のかたがゆらす「徐行」の看板も そのひとつだ。
「徐行」とは、すぐにでもとまれる
時速10キロ程度のスピードを意味するのではなかったか。
じっさいには「注意してほしい」
くらいの意味で「徐行」がつかわれており、
車はほとんどスピードをゆるめない。
ほんらいの意味をうしなっているにもかかわらず、
看板をゆらしつづける交通誘導のかたがすごく気のどくだ。
ほんとうに「徐行」してほしいときは、
どんな看板をふるつもりなのだろう。
注意報と徐行の おおすぎるつかい方は、かえって油断をまねく。
みなおしたほうがいい。

posted by カルピス at 09:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月09日

のみものは、さゆにかぎる

家で食事をとるときは、いつもお茶をいれてのむ。
八宝爽健茶という名前のお茶で、
はと麦やどくだみなど、8種類の材料がはいっている。
健康のためとういうよりも、番茶ではなんだから、
くらいの消極的なつきあい方だ。
急須に熱湯をそそぎ、2分ほどしてから湯のみにいれる。
うまくはいると、しみじみおいしいとおもうときがある。
といっても、味におおくをもとめるわけではなく、
食事のときに、のどをうるおしてくれたら それでいいと、
10年くらいのあいだ、惰性で八宝爽健茶をのみつづけてきた。

すこしまえから、さゆをのむようになった。
八宝爽健茶がなくなったわけではなく、
ほんとうに 「なんとなく」のんでみたのがきっかけだ。
それにからだがピンと反応した。
朝おきがけの1杯として、
つめたい水よりも、さゆのほうがのみやすい。
家での食事にも、さゆでじゅうぶんだ。
我慢してさゆをのむのではなく、
さゆのほうが食事のじゃまをしない。
職場でたべるお弁当でも さゆをのむ。
これまでは八宝爽健茶をペットボトルにいれ
職場へもっていっていたけど、
さゆでいいなら職場にあるポットのお湯を、そのままつかえばいい。
朝いそがしいときに、お弁当用として お茶の用意をしなくていいのは
あんがいたすかる。
お弁当にもさゆはよくあい、おいしくて何杯もおかわりをするほどだ。
さゆに味なんてあるものか、とおもわれがちだけど、
あついさゆはからだがもとめるのか スイスイのめる。
夜ねるまえも、さゆがピッタリくる。
これまではハーブティ(カモミールやバラ)をいれていたけど、
カフェインがはいっていないだけがとりえで、
とりわけおいしいわけではない。
さゆのほうがずっとのみやすい。

ネットをみると、さゆにもいろいろ作法があるようで、
からだにいいのみ方や、おいしくさゆをつくる方法がのっている。
わたしはめんどくさいのがいやなので、
いちどわかしたお湯をさましてのんでいるだけだ。
お茶は、お茶っ葉をきらさないように、気をつけないといけないけど、
さゆならいつでもつくれる。
あたりまえながら、お金もかからない。
職場の同僚に、さゆをのむようになった、とはなしたら、
「なんだか病人をイメージしてしまう」と
だいぶひかれてしまった。
きっと こころしてさゆをのんだ体験がないからだろう。
わたしだって、最近まで、
さゆなどという 中途半端なのみものが、
こんなに手がるでおいしいとは おもわなかった。
まさか、さゆをおかわりするようになるとは。

おきがけにも、食事ちゅうにも、ねるまえにも、
どんな場面でもさゆはからだにやさしい。
すぐにつくれるし、材料をきらす心配もない。
さゆこそ灯台もとくらしの 万能飲料ではないか。
のみものは、さゆにかぎる。

posted by カルピス at 22:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする