2017年02月08日

はじめてかったパソコンは パフォーマ5210

わたしがはじめてパソコンをかったのは1995年だ。
その年に旅行さきのカナダで『ザ・ネット』
(邦題『ザ・インターネット』)
をみたのがきっかけとなった。
字幕がないので、筋をよく理解したとはいえないけど、
これからくるであろうネット社会は、
パソコンをもってなければ、どうにもならないとかんじた。
というのはウソで、
きっとパソコンほしさに、『ザ・ネット』からつよい印象をうけたと、
記憶をねじまげたのだ。
わたしの英語力で、『ザ・ネット』のストーリーを
理解できたとはおもえない。

『ザ・ネット』はサンドラ=プロック主演のアクション映画で、
ネット上で ある個人の情報がけされてしまうと、
実在する人物なのに、存在しないものとみなされてしまう。
『ザ・ネット』でえがかれた社会は現実となったけど、
わたしは映画の危機感とは無縁の空間で、のんきにくらしている。
日本では、まだインターネットが一般的でなく、
パソコンは事務処理機としてつかわれていた。

以前から、パソコンをかうならマックときめていた。
当時のアップルは経営があやしくなっており、
初心者むけの一体型パソコンを、18万円ほどでうりだしていた。
1995年ごろの入門機、パフォーマシリーズだ。
18万円と、当時のパソコンとしてはやすくても
わたしのおこづかいだけではたりず、
配偶者もつかうだろうからと、共同利用者にまつりあげて
お金をだしてもらった。
わたしがかったPerforma5210は、
ハードディスクが500メガ、メモリーは16メガと、
最小限の貧弱な環境に、ゲームやらお絵かきやらのソフトが
たくさんついていた。
この時期のパソコンは、性能よりも、
ついてるソフトの数を各社がきそっていた。
1995年は、パソコンをはじめるのに
けしてはやくはないけど、まだわたしのまわりは
ワープロ専用機でじゅうぶん、というひとのほうがおおかった。
パソコンをかってなにをするのかというと、
「パーティーの案内状」みたいなのが
さかんに宣伝されていたし、
アップルではハイパーカードが人気をあつめていた。

動画をあつかわないとしても、500メガのハードディスクは
すぐにデーターがいっぱいになってしまう容量だ。
16メガのメモリーは、ソフトをいくつか同時につかうと、
うごきがおそくなり、とまったりする。
メモリーを倍の32メガにふやそうとすると、
わずか16メガでも1万円くらいした。
わずか20年まえのはなしなのに、
おおむかしの時代を紹介しているみたいだ。
おおむかしなのだろう。

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2017年02月07日

林雄司さんの「伏線は回収されない」が かっこいい

林雄司さんがブログに
「伏線は回収されない」という題で、
世の不条理をときあかしている。
http://yaginome.jp/?p=1444
タイトルがものすごくきまっているし、
紹介してある事例もわたしごのみだ。
宮城さんの髪型がちょんまげなのも北村さんがいつもサンダルを履いているのも回収されない。
そういうものだと思うしかない。
むかし見た山手線の車内モニターのクイズ「ペットボトル入りの牛乳はなぜないのでしょう」の答えが「そういうものだから」だった。

しかし、よくかんがえてみると、
これらのはなしを「伏線は回収されない」と
まとめてしまっていいものかどうか。

「そういうものだから」は
とっておきのきりふだ的セリフであり、
「そういうものだから」といわれたらそれでおわりだ。
かえしようがない。
「伏線は回収されない」と林さんが名づけた状況を
すこし冷静になって整理してみれば、
「なぜなら 伏線ではないから」となる。
ちょんまげだったりサンダルをはくのは
べつに伏線とよべるほどのしかけではない。
ただそうだったのであり、まさしく「そういうものだから」だ。
ただ、それを承知のうえ むりやり
「伏線は回収されない」と すてきなタイトルにしたてた
林さんの目のつけどころはさすがだとおもう。

林さんはそのつぎの記事で「理屈」についてふれている。
http://yaginome.jp/?p=1447
寒いからおでんにした、という話は理屈が通っているが、ホットヨガに行くとか南国に引っ越すという選択肢を選ばなかったのはなぜかが分からない。
実はたいていはなんとなくなんだけど、説明しやすいように理屈を作っているのかもしれない。理由を聞かれたら堂々と「なんとなくです!」と言っていこう。

これもまた「伏線」とおなじで
おでんと南国へのひっこしを同等の選択肢としてあつかうほうが
そもそも無理だ。
でもおもしろい。
林さんの功績は、「理屈」をときあかしたことではなく、
「なんとなく」の発見にある。

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2017年02月06日

なぜカバンをもつのか

「クールジャパン」で日本のカバンをとりあげていた。
カバンになにか問題があるのか?
番組をみて、カバンほど日本が
孤高の道をあゆんでいるジャンルはあまりないようにおもった。
クールというよりも、純粋にカルチャーショックをうける。
なぜそんなにカバンがいるのか、
外国人には ほんとうにわからないらしい。
荷物にたいするかんがえ方が ぜんぜんちがう。

そもそも、外国の男たちはカバンをもたないのだそうだ。
カバンをもつ男は、よわよわしくみえ、ゲイだとおもわれるという。
まえにこの番組で、トートバッグを肩にかけている男性について、
「ゲイかとおもった」といっていた。
わたしがよくやるもちかたなので、
ちょっとおどろいたものだ。
ゲイがわるいという意味ではなく、
一般的にはそううけとめられる、というのが「常識」らしい。
カバンを背中にまわし、指さきでひっかけるようにもてば
男らしいからOKだという。
ぜんぜんわからない。
女性がヒジにカバンをかけるのも、日本ならではの景色で、
日本以外の国では、肩にかけている。
もっとも、アメリカ人のゲストは、
アメリカでも女らしいひとはやってる、というから
けしてまちがいではないけど、
それをやるのは上流階級のレディだけなのだそうだ。
女性ならだれでも、というのは日本だけだ。
外国人がするから(あるいは しないから)ただしいとは
ぜんぜんおもわないけど、
世界的にみると 日本人だけ特別というのがおもしろい。

男がカバンをもたないのは、どんな起源によるものなのか。
荷物をもたないで、両手をあけておかないと、
なにか不都合な事態をまねきやすかったのだろう。
それだけぶっそうな社会だったのかもしれない。
どこかふかいところで カバンにたいする意識が
はっきりとわかれてしまったみたいだ。
日本は便利さを優先にかんがえ、
ほかの国は荷物をもたない原則を大切にする。
ゲストがいうには、カバンをもって外にでると、
なんでカバンをもっているのか、
まわりが不思議におもい、すぐにたずねられるという。
日本では、会社でつかうものでも
まいにち家にもってかえるし、
なにかがおきたときに こまらないよう
万全の準備をするのが おとならしいふるまいだとおもわれている。
オーストラリア人のゲストは、
パソコンやタブレットをもちあるくのも必要ないといっていた。
なんでそんなものを もってあるかなければならないのか、
ぜんぜんピンとこないらしい。
ランドセルにしても、まわりがもっているから、というのが、
日本ではやっているいちばんの理由では、と
いいにくそうにはなしていた。

わたしは仕事がら、いっしょにあるいているひとが、
きゅうにトイレにいきたくなっても、
そしておもらししてもこまらないように、
リュックにはゴムの手袋とウェットティッシュがはいっているし、
余分のビニール袋をかかさずもっている。
まち時間にたいくつしないよう、文庫本もいれているし、
タオルやらカッパのズボンが用心のためはいっている。
いつ・なにがおきてもいいように、
その日の荷物をいれるまえから
カバンのなかはあるていどうまっている。

もっともらしく「仕事がら」とかいたけれど、
ほんとうは、仕事がからまなくても
わたしは荷物がおおくなりがちな人間だ。
旅行では、期間がみじかくても ながくても、
おなじカバンに おなじような荷物をつめる。
心配性なのだ。
いつも身のまわりに なれしたしんだものがないとおちつかない。
あると便利、というよりも、なければ不安だ。
荷物を極力へらした旅行にわたしはあこがれる。
番組で、カバンをもたないとはなしたオーストラリア人ゲストは、
どんなカバンで旅行しているのだろう。

20代のころネパールでトレッキングしたときは、
20リットルのデイパックで1週間すごした。
寝袋もはぶいたし、もちろんパジャマもいれない。
最小限のきがえと、数冊の文庫本だけだったはずだ。
それでもたいして不便をかんじなかったのだから、
いつのまにか わたしは荷物をもつ人間へとかわったらしい。
カバン、というか もちあるく荷物について、
なにがほんとうに必要なのかをかんがえたい。

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2017年02月05日

『ボビー・フィッシャーを探して』ジョシュのやさしさがさわやか

『ボビー・フィッシャーを探して』
(スティーブン=ザイリアン:監督・1993年・アメリカ)

伝説のチェスプレイヤー、
ボビー=フィッシャーがすがたをけして10年がたつ。
チェス界は、永遠につぎのボビー=フィッシャーを
まちのぞんでいるかのようだ。
彼のような天才が、ふたたびあらわれるのだろうか。
(以下ネタバレあり)

7歳のむすこジョシュに、チェスの才能があると両親が気づく。
子どもむけの大会に参加してみると、レベルがちがいすぎ、
ジョシュはかんたんにかちつづけ、優勝をかさねる。
父親はジョシュの才能をのばそうと、
かつてはマスター級のプレーヤーだったブルースに
ジョシュのコーチをたのむ。
ブルースの指導は、ストリートチェスとちがい、
セオリーを大切にする正攻法のチェスだ。
さらにちからをのばしたジョシュは、
おおきな大会でもかちすすみ、名前がしられるようになる。
わが子が有名になるにつれ、父親はしだいに自分をみうしない、
相手のプレイヤーをさして
「あいつはヘボだ」とこきおろすようになる。
ジョシュへおおくをもとめ、
かちつづけるようプレッシャーをかける。
ジョシュはチェスのたのしさをみうしないながらも、
父親の期待をうらぎらないよう、チェスをつづける。
あたたかかった 以前のくらしは、
気もちのゆとりをうしない ギスギスした関係になる。
父親と母親のあいだでも、いいあいがたえなくなる。

ベタなはなしともいえる。
よくありがちなストーリーだ。
けっきょく父親は自分のあやまちに気づき、
ジョシュがのびのびとチェスをたのしめるよう
かんがえ方をあらためる。
ベタなはなしをきれいにひっぱるのは、
ジョシュのかわいさだ。
演技しているのではなく、
ふつうにふるまってるだけにみえる。
『追憶』にでてきたふたりの子役もうまかったけど、
ジョシュのふるまいは、ほんとに自然だ。
コーチがゲームの相手を軽蔑しろ、にくむんだ、
とアドバイスしても、
「ぼくはにくまない。
 ぼくはボビー=フィッシャーじゃない」
とジョシュは自分の気もちをまげない。

相手をにくむようなチェスでは
いいとこいまのトップレベルのプレーしかできない。
ジョシュの人生観は、そんなちいさな世界におさまらない。
だれにたいしてもやさしいジョシュだから、
かつことだけにこだわるほかの子や親たちよりも、
ずっとさきのプレーにたどりついた。
つよさだけをもとめがちな社会に、
ジョシュのつきぬけたやさしさは、
だれもたどりつけなかった さわやかさをもたらしてくれる。

posted by カルピス at 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月04日

義父につきそい なんちゃって親孝行

義理の父を近所の神社へ
つれていってほしいと配偶者にたのまれる。
きのう節分だったので、ぜひおまいりしたいらしい。
配偶者の実家は、わたしの家から車で1時間ほどはなれていて、
そうとおくはないとはいえ、わたしはめったにたずねない。
このところ義父は調子がわるいらしく、
できるときに親孝行をしておこうと、
すんなりひきうける。

85歳になる義父は、4年まえに義母をなくし、
ひとりいなか町でくらしている。
義父は 自分の一生をどうふりかえるだろうかと気になった。
わかいころは、山仕事や農業ではたらきづめだったという。
ようやくそだてた2人のむすめは家をでて、
それぞれ家族とくらしている。
義母がなくなったのは4年まえでも、
そのまえから入院や入所型の施設にはいっており、
もうながいあいだ義父はひとりぐらしだ。
わたしの配偶者は長女なので、
できれば家をついでほしかっただろうけど、
わけのわからない男(わたしだ)とくっついてしまった。
結納をせず、まともな結婚式もあげずに
長女をさらっていったわたしにも、
義父はずっとおだやかにせっしてくれる。
ひろい家でのひとりぐらしはさみしそうだ。
冬はかなりさむくなる地方なので、よけいにつらいだろう。
でも、むすめふたりは家族をつれてお盆や正月にかえってくるし、
かわいい孫の顔もみられた。
トータルとしてはしあわせな人生なのだろうか。

わたしの配偶者は、義父をひとり家にのこすのが心配なので、
老人ホームをすすめようとしている。
いくらあたたかくすごせ、ごはんの心配がないといっても、
わたしだったら すみなれた家をはなれたくない。
子どもがむりに入所させようとしたら、絶対に反抗するだろう。
よく家の老人がデイサービスにいきたがらなくて、と
家族の方がたいへんそうにはなされるけど、
自分がその立場だとしたら、
いやがるところへいかされるほうが災難だ。

職場の上司にそんなはなしをもっていくと、
在宅介護をしようとヘルパーでつなぐより、
環境のととのったホームが いい場合もある、といわれた。
ひとりぐらしをのぞむひとだけではないので、
もし本人が気にいるのなら、
たしかにホームという選択も ありかもしれない。
わたしが義父くらいの歳になったときは、
貯金もなく、年金だけではとてもホームにはいれないので、
ひとり家でくらすしかない。
心配すべきは自分の将来のほうかもしれない。

きょうは 義父と神社へでかけたかえりに、
ちかくの温泉で昼ごはんをいっしょにたべた。
気になっていた節分のおまいりができ、義父は満足そうだ。
かえりの車のなかで、
いくら不便ないなかでも、すみなれた家がいい、と
義父がポツリとくちにする。
せっかく85歳までながいきをして、
さいごがのぞまないくらしになれば 義父は不本意だろう。
といって、わたしにできることは ほとんどない。
義父の人生は、どんなかたちでのしめくくりがしわせなのか。

posted by カルピス at 21:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月03日

ゆったりした渡辺一平選手のおよぎに感心する

渡辺一平選手が200m平泳ぎで世界新記録をだした。
わたしはむかし水泳部に所属し、平およぎを専門にしていた。
渡辺選手とタイムはくらぶべくもないが、
200メートルが2分6秒代というのは
新聞にあるとおり まさしく「驚速」だ。
むかしから日本は平およぎを得意種目としていたけど、
わたしが20代のころは ちからでおしとおすスタイルがはやっていた。
100メートルの世界記録として アメリカ人のルンドクイスト選手が
平およぎで1分1秒台をだしたとき、
あまりの筋肉質なからだに、
もう日本人は世界のながれについていけないと
わたしはあっさり白旗をあげた。
体格がちがいすぎ、テクニックでどうにかなる差ではないとおもった。
世界レベルとのそんな差を、すこしずつうめていった日本の水泳界に
はげしく拍手をおくりたい。

世界新記録をつたえる映像をみると、
渡辺選手のおよぎはすごくゆっくりだ。
フォームのはやり すたりがあるとはいえ、
渡辺選手はピッチ数のすくないおよぎ方をえらんだのだ。
ひとかきであんなにすすめるなんて、
水のなかでいったいなにがおこっているのだろうか。
50代となったわたしは、クロールや背およぎでさえ、
いまや回転をあげておよげない。
自分では風車のように すごいスピードで
手足をうごかしているつもりでも、
はたからは、ゆっくりLSDをたのしんでいるとしかみえないだろう。
でも、渡辺選手のおよぎなら、わたしもマネができる。
ひとかきしただけで ぐいぐいすすむのだから、
ほんとうはマネなどとてもできないけれど、
すくなくともピッチ数だけはおなじおよぎができる。

渡辺選手は、193センチの身長をいかしているとはいえ、
おおくの平およぎのレースで、ああしたフォームを目にする。
世界のトップレベルがあんなにゆっくりうごく種目は
ほかの競技をみても例がないのではないか。
ほとんどスポーツが、回転をあげてスピードをたかめようとする。
水泳は重力が関係なく、水の抵抗をどれだけすくなくして、
推進力にむすびつけるかが大切となる。
海をおよぐ魚やクジラのなかまだって、
回転数ではなく、流線型をどうやってたもつかにより
およぐスピードを調節している。
人間のおよぎが海の動物にちかくなるにつれ、
回転にたよらないで、流線型をもとめるフォームになるのは
自然なながれかもしれない。
将来は、クロールやバタフライも、
渡辺選手のような ゆったりしたおよぎが主流になるとおもしろい。

posted by カルピス at 17:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月02日

あんがいたいしたはなしをしてない

ラジオをきいていたら、
名前のうれている司会者が、ゲストを相手に
わかいころのおもいでをたずねていた。
もうすぐバレンタインデーなので、
話題は どんなチョコをつくったか。
なにをいっても司会者は感心してきいている。
ラジオをきくほうは、有名人だとおもうからか、
なんとなくめずらしいはなしだと ありがたがるけど、
よくきいてみたら、たいしたこといってない。

まったく無名の一般人を有名人にみたて、
もっともらしくインタビューする番組をおもいついた。
テレビ局のスタジオみたいな部屋を用意し、
マイクをいくつも机にならべて
きかざった有名人(じつは一般人)に
子どものころのおもいでをたずね、
一般人は、自分の体験をありのままにはなす。
無名の一般人であることをふせていたら、
きっとほとんどのひとが
ふつうのテレビ番組だとおもうのではないか。
ようするに、はなしの内容ではなく、
だれがはなしているかが問題なのだ。
名前がうれているひとのはなしだから
きくほうは耳をかたむけるのであり、
内容はあんがいからっぽだ。
有名人っぽくよそおえば、どこかの大人物だとかんちがいして
まわりはきいてくれる。
有名人であることが、なによりも ものをいう。

林雄司さんが「歌の下手なさだまさし」というはなしを
ブログにかいていた。
http://yaginome.jp/?p=641
歌がうまいから さだまさしさんのはなしをまわりはきくけど、
これで歌がへただったら だれも相手にしない、
という趣旨だ。
さだまさしだって歌がうまいからトーク番組をやっているのだ。いや、しゃべりはうまいんだけど。でも、あの人、歌うたってなかったらこいつ誰だってことになるじゃん。

なので、わたしの発見とはすこしちがう。
有名人だからきいてもらえる、まではいっしょでも、
有名人でなければ つまらないはなしをしたら
「こいつだれだ?」になると林さんはいうのだ。
それはまあ、たしかにそうだろう。
わたしのおもいつきは、
もっともらしさだけでいかに視聴者をだますか、なのだから、
いかにもデイリーポータルZむきの企画だ。
よくきいてみると、テレビやラジオの番組は
たいしたことをはなしていない。
芸能人っぽい雰囲気にごまかされているだけかもしれないので、
そこに焦点をあて、一般人にそれっぽくよそおってもらったら、
おもしろいかも、というだけのはなしだ。
ほんとは有名人も、「それだけのはなし」しか してないのだけど。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年02月01日

日本の日記はクール?

「クールジャパン」で、日本人がつける日記をとりあげていた。
外国人ゲストによると、彼らは日本人の日記ずきにおどろくらしい。
こんなにいろんなタイプの日記帳がうっていたり、
なかにその日の天気までかきこむのは、
きわめて日本的な日記のつかい方のようだ。
ほかの国では そんなにこまかく日記をつけないという。
また、3年とか5年にわたって一冊にかきこむ日記帳は
日本からはじまったそうで、
なかには200年日記なんてのも紹介されていた。
そんなのが家にあり、家訓によって孫子の代までかきつづけたら
時代による風俗のちがいがよくわかりそうだ。

ソバやトレーニングの記録に特化した日記帳もうっているという。
日記というよりも、記録帳だとおもうけど、
番組では、日記・手帳・部活のノート・絵日記を、
ぜんぶいっしょくたに「日記」としてあつかっていた。
この番組をみていると、いつもおもうのだけど、
スタジオにきているひとは たしかに外国人とはいえ、
出身国の状況を正確につかんでいるひとばかりではない。
どこまで日本の特殊事情なのか、
彼らのはなしだけではたしかめられない。

ゲストたちは、日本人の友人が、
すぐに日記をひらいてスケジュールを確認したり、
みたりきいたりしたことを メモするといっていた。
わたしの印象とはずいぶんちがう。
日記をこまかくつけているひとはごくいちぶだし、
メモにしても、すぐにメモ帳にかきこむひとはいないのに、
日本人が日記ずき(記録ずき)というのは ほんとうなのか。
外国人が日記帳になにをかくかしらないので、
日本人の日記がどれだけ独特なものか
相対的にかんがえたことがなかった。

わたしがかいてるこのブログも、
「日記みたいなもの」と ときどき自虐的にいうけれど、
では、これはほんとうに日記なのか。
「日記のようなもの」としてかく場合もあるし、
世間でおきていることに、ひとこといいたいときもある。
自分でかいていても、日記なのか そうでないのか よくわからない。
日本でブログがさかんなのは、
むかしから俳句や短歌が人気をあつめてきたように、
ひとがよもうがよむまいが、
自分のためだけに文章をかく文化が成熟していた。
ツイッターやブログはその延長に位置づけられるだろう。
「クールジャパン」が日記をとりあげたのは、
日記・手帳・メモなど、あんまりこまかくジャンルわけするよりも、
わざと境界線をぼやかして、記録するものすべてを
「日記」としてあつかったのかもしれない。
自家消費文化の代表として日記をもちだしている。

番組で紹介していた絵日記は、
きれいな絵とうつくしい文字による作品であり、
あれだけのものがかけたら、さぞかし気分がいいだろう。
もはや実用としての日記からはなれ、芸術の域にたっしている。
わたしがマネをしてへたな絵ときたない字による
「絵日記」をつけたところで、満足感にはつながらない。
ヘタウマでなく、ただヘタなだけの絵では
文字どおり絵にならない。
うつくしくかくからこその絵日記だ。
極端なことをいうと、デジタル化されない日記のおおくは、
実用よりも趣味や芸術として
達成感をもとめ かかれているようにおもった。
実用をはなれたところに、日本の日記文化の特徴がある。

はなしがずれるけど、チームワークをたかめようと、
部活動で部員たちがかいている日記をみると、
内容はともかく漢字がおおいのにおどろいた。
ひとにみられてもはずかしくないように、
ちゃんと漢字をつかおうとすうのだろうか。
スマホをいじってばかりの高校生が
あんなに漢字をつかった文章をかけるのはなぜか。
漢字がかけなかったらはずかしいと、
しらべてでも漢字をかきこむ心理は わたしにもわかる。
日記をつけることで、漢字かなまじりの表記法が
これからもひきつがれていくのだろうか。

posted by カルピス at 23:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする