2017年02月01日

日本の日記はクール?

「クールジャパン」で、日本人がつける日記をとりあげていた。
外国人ゲストによると、彼らは日本人の日記ずきにおどろくらしい。
こんなにいろんなタイプの日記帳がうっていたり、
なかにその日の天気までかきこむのは、
きわめて日本的な日記のつかい方のようだ。
ほかの国では そんなにこまかく日記をつけないという。
また、3年とか5年にわたって一冊にかきこむ日記帳は
日本からはじまったそうで、
なかには200年日記なんてのも紹介されていた。
そんなのが家にあり、家訓によって孫子の代までかきつづけたら
時代による風俗のちがいがよくわかりそうだ。

ソバやトレーニングの記録に特化した日記帳もうっているという。
日記というよりも、記録帳だとおもうけど、
番組では、日記・手帳・部活のノート・絵日記を、
ぜんぶいっしょくたに「日記」としてあつかっていた。
この番組をみていると、いつもおもうのだけど、
スタジオにきているひとは たしかに外国人とはいえ、
出身国の状況を正確につかんでいるひとばかりではない。
どこまで日本の特殊事情なのか、
彼らのはなしだけではたしかめられない。

ゲストたちは、日本人の友人が、
すぐに日記をひらいてスケジュールを確認したり、
みたりきいたりしたことを メモするといっていた。
わたしの印象とはずいぶんちがう。
日記をこまかくつけているひとはごくいちぶだし、
メモにしても、すぐにメモ帳にかきこむひとはいないのに、
日本人が日記ずき(記録ずき)というのは ほんとうなのか。
外国人が日記帳になにをかくかしらないので、
日本人の日記がどれだけ独特なものか
相対的にかんがえたことがなかった。

わたしがかいてるこのブログも、
「日記みたいなもの」と ときどき自虐的にいうけれど、
では、これはほんとうに日記なのか。
「日記のようなもの」としてかく場合もあるし、
世間でおきていることに、ひとこといいたいときもある。
自分でかいていても、日記なのか そうでないのか よくわからない。
日本でブログがさかんなのは、
むかしから俳句や短歌が人気をあつめてきたように、
ひとがよもうがよむまいが、
自分のためだけに文章をかく文化が成熟していた。
ツイッターやブログはその延長に位置づけられるだろう。
「クールジャパン」が日記をとりあげたのは、
日記・手帳・メモなど、あんまりこまかくジャンルわけするよりも、
わざと境界線をぼやかして、記録するものすべてを
「日記」としてあつかったのかもしれない。
自家消費文化の代表として日記をもちだしている。

番組で紹介していた絵日記は、
きれいな絵とうつくしい文字による作品であり、
あれだけのものがかけたら、さぞかし気分がいいだろう。
もはや実用としての日記からはなれ、芸術の域にたっしている。
わたしがマネをしてへたな絵ときたない字による
「絵日記」をつけたところで、満足感にはつながらない。
ヘタウマでなく、ただヘタなだけの絵では
文字どおり絵にならない。
うつくしくかくからこその絵日記だ。
極端なことをいうと、デジタル化されない日記のおおくは、
実用よりも趣味や芸術として
達成感をもとめ かかれているようにおもった。
実用をはなれたところに、日本の日記文化の特徴がある。

はなしがずれるけど、チームワークをたかめようと、
部活動で部員たちがかいている日記をみると、
内容はともかく漢字がおおいのにおどろいた。
ひとにみられてもはずかしくないように、
ちゃんと漢字をつかおうとすうのだろうか。
スマホをいじってばかりの高校生が
あんなに漢字をつかった文章をかけるのはなぜか。
漢字がかけなかったらはずかしいと、
しらべてでも漢字をかきこむ心理は わたしにもわかる。
日記をつけることで、漢字かなまじりの表記法が
これからもひきつがれていくのだろうか。

posted by カルピス at 23:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする