朝おきたら5センチくらい雪がつもっていた。
ゆうべの予報では、平野部で30センチ、
つぎの日もそれくらい、なんていっていたけど、
いまのところわずかな雪だ。
30センチときいたときから、たいして心配してなかった。
たくさんつもるような予報が、
そのまま現実となる日はあまりない。
雨の場合も、はじめ大雨注意報がでて、
ちょとあぶないぞ、となると
それが大雨警報にかわるのが よくあるながれだ。
いったい、あの◯◯注意報に、
注意をむけるだけの効果があるのだろうか。
わたしの父は、注意報が警報にかわると
とたんにはりきりだした。
「注意報が警報になったぞ」と、
警報への進化を得意そうにいいふらす。
きっと父のようにさわいでもらうのが気象庁のねらいで、
たいしたことのない段階から 注意報を連発するのだ。
父は、気象庁がイメージする
典型的な一般人の反応を しめしたのだろう。
でも、おおすぎる注意報は油断をまねく。
やたらと耳にする注意報に なれてしまったわたしは、
注意報レベルのよびかけを ききながすようになった。
警報にかわれば、はじめて事態が深刻になる、
と学習しつづけたからだ。
ものには順序があるとはいえ、注意する気にならない注意報に
なにか意味があるのだろうか。
どれだけたくさんの注意報を発表しても、
きいているほうは「まだ警報じゃないのね」と
かえって油断してしまう。
そんなことになるくらいなら、
かえって注意報なんて ださないほうがいいのでは。
にたような例では、道路工事のわきなどで、
交通誘導のかたがゆらす「徐行」の看板も そのひとつだ。
「徐行」とは、すぐにでもとまれる
時速10キロ程度のスピードを意味するのではなかったか。
じっさいには「注意してほしい」
くらいの意味で「徐行」がつかわれており、
車はほとんどスピードをゆるめない。
ほんらいの意味をうしなっているにもかかわらず、
看板をゆらしつづける交通誘導のかたがすごく気のどくだ。
ほんとうに「徐行」してほしいときは、
どんな看板をふるつもりなのだろう。
注意報と徐行の おおすぎるつかい方は、かえって油断をまねく。
みなおしたほうがいい。