『セブン』(デヴィッド=フィンチャー:監督・1995年・アメリカ)
レースなかまとジョギングしながら映画のはなしをしていたら、
『セブン』をすすめられた。
たしかずいぶんまえに いちどみている。
でも、すごくいいといわれるので、
またみてみるか、という気になった。
雨がはげしくふる場面のおおい作品だ。
帽子とコートで雨をしのぐ
ベテラン刑事のサマセット(モーガン=フリーガン)と、
雨にぬれっぱなしのわかいミルズ(ブラッド=ピット)。
ストーリーのほとんどをわすれていたけれど、
とんでもないラストだけは はっきりおぼえていた。
なにかといたらない ヘボな刑事役の
ブラッド=ピットがいいかんじだし、
モーガン=フリーガンのしぶさも
作品におちつきをもたらしている。
ミルズの家に夕ごはんを招待されたサマセットは、
初対面であるミルズの奥さんに気をつかいながらも
くつろいだようすですごす。
地下鉄がとおるたびにゆれる ミルズたちのアパートを、
いやみなく わらいにかえるフリーガン。
軽口をたたき、こらえきれずにふきだすようすがとても自然だった。
そして、なんといっても ケヴィン=スペイシーのうまさがひかる。
つるりとした表情で、さとりきった冷静さが不気味だ。
まさか『ペイフォワード』にでてきた
誠実なシモネット先生だったなんて。
あと味はわるいけど、ささやかな場面でも手をぬかず、
細部をよくねり、じょうずにつくられた作品だ。
ストーリーのおもしろさにくわえ、
すべての登場人物が自分の役を適切にこなしきっており、
リアリティのたかさから 安心してみていられる。
『羊たちの沈黙』にひけをとらない傑作といってよい。
このまえ「クールジャパン」で
外国の男たちは基本的にカバンをもたない、といっていた。
映画をよくみているつもりなのに、
カバン問題には、まったく気がまわらなかった。
『セブン』をみているとき、男たちの手もとに注意していると、
たしかにカバンをもってない。
まあ、アクション映画の主役クラスが
手にカバンをもっていたら、
もしものときに あやしいやつを おいかけられないし、
そもそもカバンをかかえる主人公は絵にならない。
わたしが観察したところ、『セブン』では 警察関係者だけでなく、
町をゆく通行人も、男たちは手ぶらであるいている。
ほかの映画でも、その国の社会とカバンとの関係が気になるところだ。
映画をみるたのしみが ひとつふえた。
アニメーションはどうか。
ルパンたちは、カバンをもってない。
ルパンにも次元にも、カバンはにあわない。
「三千里」のマルコはショルダーバッグをさげていたけど、
彼の場合は旅行者なのだから 手ぶらであるけというほうが無理だ。
日本でつくられたほかのアニメのキャラクターたちは、
どんなカバンをもって(あるいはもたないで)
画面に登場しているのだろう。
むすこにカバンをもつかどうか きいてみると、
スマホとサイフくらいしかもたない、という。
手ぶらでのおでかけは、自由がかんじられて すこしうらやましい。