これをいったら 身もフタもないけど、
ものごとを工夫したり改良したりするのは、
そんなにほめられたことなのか。
テレビでおいしい料理の店を紹介するときなど、
いかにふつうではない工夫をほどこし、
ありえないほど手間をかけてますと、
お店の方が自慢し、取材するひとは感心してみせる。
テレビだからしょうがないとはいえ、
手間をかけたからといって、
それだけおいしくなる場合ばかりではないだろうに。
そんなに労力をかけないで なんとなくできたものを
そのままお客さんにだしてますと、
さらっとうちあけるのはどうだろう。
なにもしてないのに すごくおいしいかもしれないし、
これぐらいだったらじゅうぶん合格点、
みたいな味におさまっているかもしれない。
工夫や改良をかさねる店だけを わたしはもちあげたくない。
根本的に、わたしは工夫や改良を否定して、
すくなくともたかく評価せずに生きている。
そんなかんがえにかたむいたのは、
梅棹忠夫さんの『私の生きがい論』をよんでからだ。
梅棹さんは、老子のおしえを引用しながら、
目的を設定せず、勇気ももたず、
創造からはなれた生きかたもあるという。
努力や進歩を否定する人生論に、わたしはつよい刺激をうけた。
工夫や改良をかさねた結果、世界はこんなふうに、
つまり どうにもならない問題を
かかえるようになってしまったのではないか。
人生にさえ目的はいらないのだから、
たとえばおいしいラーメンをつくるのに
おおさわぎしなくてもよさそうなものだ。
あつい情熱をかたむけるひとがいてもいいけど、
それはすきでやってるだけなので、
そんなにもちあげなくてもいい。
テキトーにつくっていながら おいしい店があれば、
それはそれでりっぱな方針ではないか。
おいしくないのに、改良しないで
おいしくないまま つくりつづける店は さらにみどころがある。
わたしはデイリーポータルZのサイトがすきで、
ほぼ毎日チェックしている。
工夫を否定した店の紹介は、いかにもデイリーポータルZむきだ。
工夫を否定する店特集がくまれたら、
あんがい共感するひとがたくさんでてくるような気がする。
農作業など、おなじ手順をくりかえす仕事をしていると、
よりはやく、よりたくさんできるやり方を工夫したくなる。
工夫するひとのほうがほめられるし、
まえむきな姿勢をまわりがたかく評価するだろう。
でも、そんな工夫や改善にあたまをなやまさず、
おなじやり方をずっとつづけるひとのほうが
わたしはこのましくおもうようになった。
こんなはなしを わかいひとのまえですれば、
職場にわるい雰囲気をもたらしそうなので、
くちにはださないけれど、わたしがひっそり実践している。
残念ながら、日本は工夫と改良がすきな国だけど、
そうでないひとたちが多数をしめる国だって あるかもしれない。
地球規模でかんがえると、
そっちのほうが地球、それに人類にたいして いい存在といえる。