おたがいの勤務表をみて、都合のつくほうが夕ごはんをうけもつ。
月に15〜20回はわたしがつくるので、
できぐあいについてこまかいことをいわなければ、
わるくないパートナーだと 自分ではおもっている。
夕ごはんをつくる日のかいものは、
あらかじめメニューがきまっているときもあるけど、
スーパーにならんでいる商品をみながら
なんとなく 献立案がまとまっていくときもおおい。
いずれにしても、夕ごはんをつくるたびにかいものをする。
かしこい主婦は、こんな非効率な家事をしないかもしれない。
1週間の献立をきめ、それにそってかいものをすませておくと、
夕ごはんをつくるたびに スーパーへでかけなくてもすむ。
わたしにはとてもそんなまねはできないので、
あまり上等でない主夫と わりきっていた。
なににかいてあったかわすれたけど、
まとめてかいものするのは、合理的にみえて、
それはそれでストレスなのだそうだ。
材料があまらないように なにかと気をつかうし、
計画にそって材料をつかっていくのは
自由に料理をするたのしみがない。
そのひとは、けっきょく食事をつくるたびに
かいものにでかけるようになり、
そっちのほうがずっと気らくなのにおどろいていた。
村上春樹さんの小説には、かいものの場面がときどきでてくる。
『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では、
駅の近くのスーパーマーケットで食料品を手あたり次第に買いこみ、それから酒屋に寄って赤ワインと炭酸水とオレンジ・ジュースを買った。
とある。
酒屋でなければ、アルコール飲料をかえなかった時代の小説、
ということはこのさいどうでもよく、
肝心なのは、献立をきめたり、かいものリストをつくるのではなく、
「手あたり次第」にかうところだ。
てきとうにかっておいて、
あとは冷蔵庫にはいっている材料でやりくりする。
のこりがすくなくなれば、つくるメニューはおのずとかぎられるし、
ときには 「パン屋再襲撃」のときみたいに、
なにもつくる材料がなくて、
しめったクッキーを2枚ずつわけあったりする。
村上作品のかいものと料理は、いつもこんなかんじだ。
たべたくなった料理を 冷蔵庫にあるものでつくる。
ありあわせの材料で、まにあわせる。
ないからといって わざわざかいにでかけない。
1週間ぶんの献立をきめ、
それにそったかいものなんて、わたしにはとてもできないと
はなからあきらめていた。
かといって、毎回かいものするのも時間のむだだ。
できれば村上さんの小説みたいに、
手あたりしだいに材料をかいこんでおき、
のこされた材料をみながら テキトーにつくりたい。
いまはまだ、家族のために夕ごはんを用意しているし、
配偶者と交代でつくっているうちは、
自分だけのスタイルはもちこめない。
台所にふたりが共存できない原則をかみしめる。