雨や風をしのげたら機能としてはじゅうぶんなのに、
なんでこんなに資材や労力をつかったのか 不思議におもえてくる。
お寺や寺院、教会など、ちいさくても用をたしたはずなのに、
世界各地に文化遺産レベルのたてものがある。
文化遺産までいかなくても、技工をこらした建築物は
そこらじゅうにあるといってよい。
どんな欲求のもとに これらはたてられたのか。
アンコールワットの巨大な寺院やピラミッドなど、
機能としてはお墓にすぎないのに、
なぜこんな立派でなければならなかったのか。
そういえば、タージマハルも たしかお墓だ。
お金をかけてでも、自分の存在をみとめさせたいというのが、
人間の潜在的な欲求として あるのだろうか。
音楽や美術にしても、当時のお金もちであるパトロンが、
すぐれた音楽家や芸術家たちにお金をかけて
自由に創作活動ができるよう 支援したからこそ、
いまの世に古典的な名作がのこっている。
大工さんや料理人をやとうのは、実質的なみかえりがあるけど、
音楽家のパトロンになっても、いいおもいができる機会は、
さほどおおくないのでは。
自分のために演奏させようと、有名な作曲家をかこうのは、
当時としては 最高のぜいたくだったのかもしれない。
わたしみたいにケチで貧乏な小市民は、
おおきな建築物で権力をしめしたいという発想はない。
音楽家のパトロンになりたいともおもわないし なれない。
小市民がいくらたくさんいても、
文化遺産はのちの世にのこらなかったはずで、
コツコツ生きる人間とは まったくべつの価値観によって
お金をつかえるひとたちがいたから
りっぱな建物や芸術がのこされている。
あるていどのお金を手にしたとき、
これ以上あってもしょうがないから、
もうかせがなくてもいいや、というかんがえ方と、
あるものはどんどんつかって、
りっぱなものをのこしたい、かこまれたいというおもいは、
おおもとのところで発想がちがっている。
ゼイをつくした建築物をみると、
ためこんだ資本を発散するときの心理が理解できず、
わたしはいつもとまどってしまう。
現代のおおがねもちたちは、
どんなお金のつかい方をしているのかも気になるところだ。
歴史に名がのこるような社会貢献や、
いっけんムダにみえても、ものすごくりっぱな建築物だろうか。
といっても、国境につくる柵ていどでは さみしいけど。
必要にしてじゅうぶん、ということばがわたしはすきで、
自動車だったら中古車でいいし、
家だって新築でなく やすい家をかりてすめばいい。
ということをかいていると、
なんとなく演歌の歌詞があたまにうかんできた。
お酒はぬるめの燗がいい
さかなはあぶったイカでいい
わたしは演歌がきらいなのに、
からだにしみついている価値観はあんがい演歌なのかも。