本屋さんへ『村上春樹 翻訳(ほとんど)全仕事』をかいにいく。
もう発売されているはずなのにみあたらない。
『騎士団長殺し』はいまでも山づみになっているし、
新刊コーナーには、ほかの作家の話題作が
目をひく配置でおかれているのに、この本はみつからない。
島根には、まだものがとどいてないのだろうか。
店内のパソコンで「村上春樹」を検索すると、
38ページのまんなかくらいにちゃんとあった。
本の情報をプリントアウトして しめしてある棚番号にいくと、
翻訳本がならんでいる棚に ひっそりと数冊おかれていた。
予想していたのより、はるかにささやかなあつかいで、
パソコンのたすけをかりなければ、
なかなかみつけられなかっただろう。
村上さんの新刊というと、一大イベントになるかとおもっていたのに、
小説でない本は、ずいぶん地味なあつかいとなる。
構成は、半分くらいが これまでに出版された
翻訳本をふりかえったもので、
のこりの半分は柴田元幸さんとの対談、
「翻訳について語るときに僕たちの語ること」
になっている。
文春新書からだされている『翻訳夜話』のつづきみたいな本だ。
村上さんが手がけた70冊にものぼる翻訳のうち、
わたしがよんだのは20冊ほどだった。
手もとにあるのによんでない本がいくつかあるし、
そもそもわたしはフィッツジェラルドとカーヴァーの
よい読者ではない。
印象にのこっているのは アーヴィングの『熊を放つ』と、
C.D.B.ブライアンの『偉大なるデスリフ』で、
最近の本ではマーセル=セローの『極北』が力作だった。
本文には目をとおさず、訳者あとがきだけをよむときもある。
村上さんのかく解説や訳者あとがきは とてもおもしろいので。
村上さんと柴田さんがはじめてチームをくんだのは
『熊を放つ』のときで、それ以降、
村上さんのよき相棒として柴田さんの存在はおおきい。
村上さんは 翻訳にかぎらず、文章についてなにか指摘されると、
なおすのにためらいがないという。
文章というのは基本的に、直せばなおすほどよくなってくるものなんです。悪くなることはほとんどありません。
自分の文章について ひとになにかいわれると、
まず反発をかんじるわたしとは 人間のできがちがう。
村上さんでさえ ひとの指摘をうけいれるのだからと、
それをよんでから すこしは謙虚にふるまえるようになった。
村上さんは翻訳によって自分が形づくられてきたという。
翻訳というのは一語一語を手で拾い上げていく「究極の精読」なのだ。そういう地道で丁寧な手作業が、そのように費やされた時間が、人に影響を及ぼさずにいられるわけはない。
翻訳についてはなす村上さんは とてもあけっぴろげだ。
翻訳についてかかれた村上さんの本は どれもおもしろい。