『真夜中のカーボーイ』
(ジョン=シュレシンジャー:監督・1969年・アメリカ)
図書館にDVDがあったのでかりる。
一般教養として、いちどみなければ、とまえからおもっていた。
以下、ネタバレあり。
成功を夢みてテキサスからニューヨークへでてきたジョー
(ジョン=ボイド)だけど、
おもっていたようにうまくはいかない。
もってきた金がとぼしくなったころ、
町のチンピラ、ラッツォ(ダスティン=ホフマン)にだまされて
すっからかんになる。
どうにもならなくなったジョーは、
ラッツォがくらすスラム街のビルにころがりこみ、
とことんさえないコンビがスタートする。
だめな男のトホホなはなしがわたしはだいすきで、
ふたりの「どうにもならなさ」に胸をうたれる。
ラッツォは 底辺でながく くらしてきたので、
しょぼさが身にしみついている。
町で公衆電話をみかけると、
反射的におつりがのこっていないか かならずたしかめるし、
豪勢なパーティーにまぎれこんでも、
ついサラミをポケットにかくして もってかえろうとする。
電気のないビルでの冬のニューヨークはきびしそうだった。
さむさをしのぐ手だてはコートだけ。
自由でいられる代償は、けして楽なくらしではない
ラッツォのつくる料理がすごくまずそうだ。
ピーマンをいいかげんにナイフでけずっていき、
塩コショーもこれまたテキトーにふりかける。
できあがった豆の煮こみみたいな料理を
ジョーがスプーンでかきまぜると、
邪悪なかたまりがべったりくっついてくる。
とてもたべものにはみえない。
ラッツォは ニューヨークをぬけだしてフロリダへゆき、
ひともうけする夢にしがみついている。
あたたかなフロリダでくつろぎ、
たくさんのひとに得意の料理をふるまう場面をラッツォは妄想する。
だれからもバカにされるニューヨークでのくらしとちがい、
フロリダでは みんなが彼にやさしい。
しかし、正気にもどると、そこは あいかわらず冬のニューヨークで、
さむくて 腹をすかせた現実にひきもどされる。
アメリカン・ニューシネマというと、
体制からはずれて自由にいきるわかものたちをおもいうかべる。
『イージーライダー』みたいに。
『真夜中のカーボーイ』のふたりは、
そんなスマートさとは まるで縁がなく、
どの時代にうまれても けしてうまくはいきられなかったのではないか。
どこまでもトホホなくらしなのに、
この作品をみていると それもまたありかなとおもえるのは、
ふたりとも自分のスタイルをくずさないからだ。
まわりの人間がふたりをどうみようとも、
ジョーとラッツォは、おたがいに理解しあっており、
それだけで満足できた。
トホホなくらしとあわさって、わたしにはとてもしっくりくる作品だ。