「オトナになった女子たちへ」のコラムがあり、
伊藤理佐さんと益田ミリさんが交代で記事をかいている。
まえはちがう曜日で、べつのひともまじえた企画だったとおもうけど、
正確な記憶はない。
とにかく、いまは伊藤さんと益田さんのふたりによるコーナーであり、
伊藤理佐さんの回をわたしはたのしみにしている。
とかくと、益田さんのはどうでもいいみたいだけど、
とくにそうした意味はなく、「どちらかというと」というはなしだ。
しかし、おふたりにとったら、どちらに人気があるかは
たいへん気になるところだろう。
たとえ「どちらかというと」のレベルにしても、
自分の記事のほうが「どちらかというと」
よまれてほしいとねがうのは当然だ。
益田さんは、ときどき伊藤さんへのライバル心をちらつかせる。
気になってしかたがないと、正直に胸のうちをあかされる。
伊藤さんは、そうした益田さんへの返答として、
「会わなくてもわかるひと」を先週かいている。
会おうと思えば会えるけど会わなくてもいい人。会ったら楽しいだろうなあ、でも会わなくてもわかる、というか。いつかどこかで会えると、なぜか思っていて、親戚の集まりで「あの人も来るよ」と聞くとホットするような。でも連絡先は知らないみたいな。
それが益田ミリさんなのだそうだ。うまい。
伊藤さんだって、益田さんへのおもいがあるだろうに、
こんなふうにかけるのは 生活者としての
ゆたかな経験をかんじさせる。
かぞえてみると、わたしは伊藤理佐さんの記事を
この3年間でエバーノートに43とっている。
マンガ家としてよりも、おもしろいエッセイとして、
目のつけどころにいつも感心してきた。
身のまわりでおきた なんでもなさそうなことが話題だ。
伊藤さんがはなしをすすめるうちに、
裏にかくされていた ふかい意味にようやく気づく。
人生は、たとえささやかなできごとでも
みかたをかえれば含蓄にみちている。
たとえば、「雪の朝、私は艦長になった」は、
日常生活にとつぜんおとずれる緊張がテーマだ。
雪がつもった日の朝、幼稚園からはおやすみのメールがとどかない。
幼稚園は、やる気だ。
先生たちの「幼稚園、やります」を裏切れない、と思った時には、地球を出発するヤマトの船員のようになってしまった。(中略)
・・・と、このようにですね、雪が降ると刑事っぽくなって、ボスになって艦長になって、船員になってしまう。
ご自分でかかれたさしえには、
防寒着に身をかためた親子とすれちがう伊藤さんが、
雪とたたかう同士として
キリッとあいさつをかわす場面がえがかれている。
雪をイベントにしてしまう きりだしかたが、
雪の朝あるあるで、すごくたのしい。
宮ア駿さんが、作品にとりあげるのは
身のまわり3メートルの範囲でおきたできごと、
となにかでかたっていた。
伊藤さんのエッセイも そんなかんじ。
おおきな問題はあつかわれない。
目のまえでおきている ささやかなあれやこれにも
とりあげかたによって こんな味がかくされていたとは。
ゆるい人間をよそおいながら、伊藤さんは人生の高段者であり、
どんなものでも行間をふかくよみ、
裏にかくされた秘密をあきらかにする。