2017年04月30日

小確幸を世界運動に

2時間20分そとをはしる。
お天気のなか、おもっていたよりからだがよくうごき、
たのしいジョギングとなった。
家にもどるとすぐシャワーをあび、冷蔵庫から缶ビールをとりだす。
はしりながら ずっとビールがあたまにちらついていた。
至福のとき。
原則として、6時よりまえの飲酒をきんじているけど、
ときにはきまりをやぶるから人生はたのしくなる。

ささやかだけど たしかなしあわせといえば、
村上春樹さんの「小確幸」が有名だ。
村上さんは、日常をここちよくいきるるコツとして
小確幸のたいせつさをときどきかいている。
スペシャルなイベントではなく、
ちいさなしあわせであるところがミソだ。
たとえばわたしにも・・・、とかきだそうとしたけど、
ビールとかお風呂とか、からだが直接かんじる快楽ばかりだ。
あまりにもあたりまえすぎて 気がひける。

デイリーポータルZには、ひろく読者にアイデアをつのる企画がある。
最近では、エレベーターとエスカレーターを
どうやってつかいわけるかのコツをもとめていた。
区別がつかなくて、なやんでいるひとが
あんがいおおいらしい。
いまは「ゴールデンウィークの予定を教えてください」
http://portal.nifty.com/kiji/170428199467_1.htm
をやっている。
リアルな計画ではなく、「あくまで予定」でいい、
というのがおもしろい。
たとえば
「バイクで北海道1周(バイクを買うところから)」
予定や計画、それに目標というと、実現しなければ意味がない、
みたいなかたぐるしさが きゅうくつになりがちだけど、
「あくまで予定」でよければ なんでもいえる。
なにか気のきいたことをいおうとするから
ちからがはいったり、口にだすのをためらってしまう。
デイリーポータルZぐらい敷居をひくくしたら、
たくさんのアイデアがあつまりそうだ。
「予定にしばられる」という言葉があるが、たまには予定は未定であるという余裕を胸に抱いてもいいのではないか。
予定は自由だ。未来のできごとは誰にもわからない。ならばでかいことを言おうじゃないか。

小確幸も、ひろく全国民によびかければ、
さまざまなテクニックがあがってきそうだ。
そうやって、ここちよく日常をすごせれば、
日本はもっと平和になるのでは。
はなしを世界へひろげると、日本だけのアイデアにとどめず、
全世界から「小確幸」をつのれば、しあわせはもっと盤石となる。

posted by カルピス at 21:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月29日

まだつかってないけど、Scrapboxにかんじる可能性

先週は、ブログにいつもの倍のアクセス数があった。
いぜんかいた記事へのアクセスが集中したためで、
3日するといつもの数におちついいている。
ながくブログをつづけていると、ときどきこんなうごきがある。
ほんの瞬間的な変化だとわかっているので、
アクセス数にのぼせたりはしない。
すぐにまた、あいかわらず地味なブログにあともどりだ。

まえにかいた記事には、かいたことさえおぼえていないものもある。
管理者であるわたしでさえそうなのだから、
ブログにおとずれてくれたひとにすると、
さいきんかかれた記事だけがすべてだろう。
カテゴリーわけが徹底してないので、
たとえば「日記」としてくくられた記事は
ふるくなるほど うもれたままになる。

このごろScrapboxについての記事をよく目にする。
まだつかってないのでよくわからないけど、
ブログの記事をうもれさせないための工夫が
なにかできるような気がする。
そうおもったのは、倉下忠憲さんの記事をよんでからだ。
もし、R-styleをScrapboxで書いていたら、4700もの記事がリンクやタグによってつながり、読者をコンテンツの迷宮へと誘ってくれるに違 いない。一度入り込んだらなかなか抜け出ることがかなわない、千夜千冊のようなウェブサイトになっていたはずである。少なくとも、それくらいのボリューム だけはこのブログにはあるのだ。そして、それぞれの記事は独立しているというよりもむしろ文脈を共有している。リンクが発生する余地は多分にある。
http://rashita.net/blog/?p=19974

エバーノートは便利だけど、ただのおき場所になりがちで、
ノート同士をむすびつける機能はあまり期待できない。
Scrapboxがリンクをはりめぐらしてくれたら、
自分でかいたブログに もっと陽の目をあてられるし、
ほかのひとのScrapboxをよんだときも、
こまかな関連づけがなされて おもしろそうだ。
倉下さんがR-styleにかいた記事は、4700にものぼるので、
いまからScrapboxにいかすのはたいへんかもしれないけど、
わたしの場合はまだ2000ほどなのだから、
なんとかなるような気がする。
とにかく、まだつかってもいないのだから、なにもわからない。
漠然とだけど、はじめてエバーノートをしったときのような可能性を、
Scrapboxにかんじている。

posted by カルピス at 16:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月28日

たいていのものは あらわなくてもだいじょうぶ

「web本の雑誌」に連載されている
荻原雷魚さんの「日常学事始」が4ヶ月以上更新されていない。
http://www.webdoku.jp/column/gyorai/list.html
すきなサイトなので、かわりにわたしが、とおもったけど、
たいした「日常学」をうちたててるわけではない。
第12回の「洗うか洗わないか」に便乗して、
わたしの日常をかいておきたい。

まず、やさいをあらうかあらわないか。
まえは、もやしにさっと水をかけてからつかっていたけど、やめた。
いまは そのまま料理にくわえる。
キャベツもしっかりまいているのを
1枚1枚はがしてあらうのはめんどうなので、
たいていそのまま包丁をいれる。
わたしが子どものころにみたCMでは、
やさいを洗剤であらっていた。
なかにはお米も洗剤であらうひとがいるのだそうだ。
潔癖症というより、そういうもんだと
はじめにおもいこんでしまったのではないだろうか。

国によっては、洗剤でお皿をあらったあと、
ゆすがないで そのままかわかすところもあるらしい。
水を節約するためらしいけど、わたしにはかなり抵抗がある。
レタスはあらう。
農薬がたくさんつかってあるような気がするから。
レタスはたいていサラダにつかうので、
あらうと水をきるのがたいへんだけど、それでもあらう。
キャベツはあらわず、レタスはあらうのだから、
けっきょくめんどうかどうかが わたしは問題なのだろう。

ごぼうはタワシでこするだけだ。
まえは包丁の背の部分でしごいていたけど、
タワシでじゅうぶんと、なにかでよんだ。
タワシだけでもじゅうぶんに皮がとれるので、
アクのつよさにこまったりしない。

やさいだけでなく、自分のからだも
せっけんをつけてあらわないほうがいいそうだ。
ゴシゴシたおるであらうと、
いかにもよごれがとれたような気がするけど、
とらないほうがいいものまで おとしてしまうらしい。
わたしもためしにせっけんをやめてみたけど、
からだのヌルヌルが気になって、1週間しかつづかなかった。
シャンプーは、週に1、2回しかつかわない。
毎日シャンプーをつけてあらわないと、
頭がかゆくてたまらない、とわたしがいったら、
毎日シャンプーするからかゆくなるんだ、としりあいにいわれた。
それ以來、シャンプーの回数をへらし、
お湯だけで髪をあらうようにしたら、
たしかに頭のかゆさがとまった。

洗濯は、下着とシャツだけ毎日かえる。
ズボンとアウターにあたるフリースは、よごれるまであらわない。
冬には1ヶ月以上おなじズボンとフリースのことがある。
職場のわかい女性が、ジーンズは夏でも1ヶ月以上つづけてはく、
というのをきいて、すっかり感心したのがきっかけだ。
彼女をみならって、あらわないでいたら、
冬だったら何ヶ月でも おなじズボンで大丈夫になった。
ただ、夏はにおいが気になるので、毎日あらっている。
夏でも1ヶ月おなじジーンズをはく女性は、
どんなかおりに到達してるのか興味がわく。
彼女の対極には、いちどぬいだ服は(ズボンもだろう)
かならず洗濯する、というひともいた。
つまり、夜ぬいだら、つぎの日は かならずべつの服をきる。
そんなことをしたら、洗濯がたいへんだ。
おどろきよりも ごうまんさをかんじたものだけど、
かんがえてみれば 彼女のほうが主流なのだろう。
おなじアウターをきつづけるわたしのほうが
遠慮して生きたほうがいい。

ざっとまとめてみると、やさいにしても からだにしても、
あらうかあらわないかは、クセみたいなもので、
なれたら あらわなくても なんてことはない。
ただ、自分のからだからでるにおいは、気づかないことがある。
汗くささをふりまいて、まわりをこまらせていないか
気をくばったうえで、あらわない生活をたのしんだほうがいい。

posted by カルピス at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月27日

ハックルベリー・フィンにでてきた「12リットルのウィスキー」をみてみたい

『ハックルベリー・フィンの冒険』には、
出発のまえに食糧を用意する場面がときどきあり、
たとえばボートにつみこむ食糧を、
ベーコンやコーヒーなど、ひとつひとつおしえてくれる。
こういうのは小説のたいせつなテクニックで、
たとえば「ごちそうをたべました」よりも、
具体的になにをたべたのかが かきだしてあるほうが、
よむほうは安心する。

「ハックルベリー」のなかに、
「12リットルいりのウィスキー」がでてきた。
日本にも、4リットルいりの焼酎やウィスキーがうれているけど、
12リットルはさすがにないのでは。
12リットルもはいったビンや樽がでまわっていたのだから、
ウィスキーは、男たちがただよっぱらうためにのむ、
雑な酒だったのだろうと推測する。
そんな大量のウィスキーが家にあれば、
酒をたしなむ程度ではおさまらず、
のみすぎて仕事にならないにきまっている。
12リットルのウィスキーが、
あたりまえに流通していた当時のアメリカは、
いったいどんな社会だったのだろう。

朝日新聞の島根版に、お弁当にいれるおかずの数が、
島根は全国でいちばんおおい、とのっていた。
全国平均が4.5品のところ、島根は5.8品らしい。
ニチレイフーズのアンケートの結果であり、
じっさいにうれた商品からわりだした数字ではなく、
5.8品といわれてもピンとこない。

・江戸時代の藩主は食通として知られており、
 県民にそのDNAが引き継がれている
・冬の寒さが厳しく、いつでも食べられるように、
 冷蔵庫につくだ煮や漬物などを常備する家庭がおおい。
・島根は米も魚介類も野菜も本当においしい。
・大家族が多く、食卓に並ぶおかずや作りおきが多いことが
 影響しているのかも

など、いくつかの憶測がかかれているけど、
どれもたいした根拠にはおもえない。
「島根は米も魚介類も野菜も本当においしい」なんて、
ただのおもいこみであり、
だれもが自分たちの県は「米も魚介類も野菜も本当においしい」
とおもっているのでは。

わたしは毎朝 自分のお弁当を自分でつくっている。
のこりものをいれるだけだったり、
タマゴやきでスペースをうめたりがおおく、
品かずをかぞえたことはない。
冷凍食品をつかったり、色どりをかんがえたりはせず、
おなじようなおかずが毎日くりかえされる。
島根県民のお弁当としては、ふさわしくない内容だ。
キャラ弁などからは、対極に位置するお弁当といえる。
といっても、コンビニ弁当を
お弁当箱にただうつしただけでは さすがにさみしい。
雑ななかにも、なにかひかるところのあるお弁当をめざしている。
お酒だって、いくらやすくても
4リットルいりのペットボトルウィスキーをかおうとはおもわない。
なんだかんだいっても、わたしには
島根県民のDNAがながれているのだろうか。

posted by カルピス at 21:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月26日

どこまでもつづく乾燥地帯の大平原に 胸をあつくする

『梅棹忠夫著作集 第4巻』におさめられている
「トルキスタンの旅」をよんでいたら、
『モゴール族探検記』にあたる部分をおえたあと、
カーブルへかえるまでの旅行がしるされていた。
土地はしだいに平坦になり、中央アジアの大平原の様相を呈してくる。まったいらな地平線があらわれてくる。(中略)わたしは、十数年ぶりに、びょうびょうたるアジア大陸の地平線をたのしむ。あの地平線は、そのままモンゴリアまでつらなっている。あのラクダのふみあとがそのまま北京までつづいている。(梅棹忠夫著作集 第4巻P268)

梅棹さんは、アジア大陸の内部につらなるこの大平原をみて、
『文明の生態史観』の着想をえている。
東北アジアから、西南アジアのアラビアまで、ユーラシア大陸を斜めに横断して走る大乾燥地帯がある。それは、際限もなくひろがる砂漠と草原の世界であり、それをつらぬいて点々と連なるオアシスの世界である。その大乾燥地帯の一角にとりつけば、あとは一しゃ千里である。三蔵法師もマルコ・ポーロも、みんなこの大乾燥地帯を利用して旅行したのであった。(『モゴール族探検記』P8)

わたしはまえにモロッコを旅行したとき、
この大乾燥地帯のはしっこをみたようにおもった。
マラケシュからアトラス山脈をこえると
それまで緑のおおかった植生にかわり、乾燥した土地があらわれる。
アトラス山脈にそって車が東へはしると、
右手には延々と大平原がひろがっている。
『文明の生態史観』をよんでいたわたしは、
この大平原がずっと東のはて、モンゴルまでつづいているのだと、
ひそかに興奮したものだ。
目のまえにあらわれた大平原をみて、
梅棹さんのいう「一しゃ千里」の意味がよくわかった。
機動力のある騎馬隊がこの一角にとりつけば、
なにもさえぎるものがないので、かんたんに距離をかせぐだろう。
乾燥地帯は悪魔の巣だ。(中略)昔から、何べんでも、ものすごく無茶苦茶な連中が、この乾燥した地帯の中からでてきて、文明の世界を嵐のようにふきぬけていった。そのあと、文明はしばしばいやすことのむつかしい打撃をうける。『文明の生態史観』(中公文庫P102)

夜ねむむるまえ、
お酒をすすりながらの読書にぴったりなのが探検記だ。
よいがまわるにつれ、こまかな描写には頭がついていかないので、
たいていは、いちどよんだ本をひっぱりだす。
このごろわたしがよくひらくのは、
冒頭にもかいた『梅棹忠夫著作集 第4巻』で、
この巻は「中洋の国ぐに」として『モゴール族探検記』など、
「中洋」を舞台にしたはなしがおさめられている。
わたしがすきな「カイバル峠からカルカッタまで」もこの巻にあり、
よいにまかせて適当にページをひらく。
梅棹さんは、このときの旅行で、
タイプライターをたたきながら、まどのそとにひろがる
風景を記録している。
みじかくきられたリズム感のある文章に、
まるで自分もいっしょに旅行している気がしてくる。
たとえば出発のようす。
 4時30分。用意はできた。江商バンガローの人たちは、懐中電灯をもって、門まで見おくってくれる。わたしは、みんなにさようならをいう。わたしたちは、車にのりこむ。シュルマン博士は、エンジンをかけ、ハンドブレーキをはずす。わたしは、ながいあいだ行動をともにしてきた友人、山崎さんに、最後のごきげんようをいう。そして、出発する。(梅棹忠夫著作集 第4巻P282)

梅棹さんのここちよい文体にひたり、
つい寝酒がすぎてしまいがちだ。

posted by カルピス at 21:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

このさき のこされた初体験はどれだけあるか

椎名誠さんがなにかのエッセイで
70歳になったいま、一生 体験しそうにないことが
たくさんのこっているのに気づいた、とかいていた。
人妻とややこしい関係になったり、
なにかをはじめて体験する可能性は、
これからさき きわめてひくい、というはなしだ。
椎名さんが達観をかたりたかったのか、
ジタバタしたいのかは、わすれてしまった。
人妻うんぬんは、椎名さんがたしかに具体的な例としてあげていた。
しっかり記憶にのこっているあたり、
わたしにもおなじような願望があるのかもしれない。

「一生 体験しそうにない」は、
わたしもこのごろ よくあたまをかすめる。
わかいころは、その気になれば
すべてが実現可能だと のんきにかまえていたけど、
55歳となれば、のこされた時間・体力からいって、
初体験は あまりおとずれないだろう。
だからといって、やたらと「はじめて」にこだわるのもへんだ。
中年になってから やりのこしがないように気をつけても もうおそく、
わかいころのすごし方で 勝負はすでについている。
といって、つよい後悔になやむわけではなく、
たいした人生ではなかったけど、それなりにおもしろかったと、
しめくくりをまえに、ぼんやりと総括しているかんじだ。
歳をとると、あんがいかんたんにあきらめがつく。

とはいえ、かんたんに体験できる「はじめて」は、
いまのうちに できるだけあじわっておきたい。
のんだことのないお酒、シングルモルトやテキーラをかったり、
ガールズバンドについていこうとするのは、
さいごをむかえようとするときに、
生物的な本能がはたらくのだろうか。
そんなこといったって、お金もちではないのだから、
ほしいものをぜんぶお金で解決するわけにはいかないけど、
基本的な方針として、体験できるのは いましかないと
自分にいいきかせている。

これからやりたいことを具体的にあげたら、
ずいぶんながいリストになるかとおもっていたのに、
いまのところ
・サンティアゴ巡礼
・スーパーカブでの旅行
のふたつしかおもいつかない。
アジアへの旅行はいつでもいけるので、
リストにあげるまでもないだろう。
ずいぶんささやかな終活になりそうだ。
いまの小市民的日常生活に
わたしはたいして不満をもたず、
あんがいしあわせにくらしているのだろう。
あやしい人妻とのややこしい関係は、
まだ可能性があるような気がする。

posted by カルピス at 22:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月24日

津村記久子さんの『ディス・イズ・ザ・デイ』から、「窮屈なところ」にいる自分をしる

朝日新聞の日曜日に連載されている
津村記久子さんの『ディス・イズ・ザ・デイ』第3話がよかった。
これまでとおなじように、Jリーグの、
ただし2部や3部にぞくするするチームのはなしだ。
バイトさきがいっしょだけど、
ほとんどはなしをしたことがない学生の松下と、
貴志はスタジアムでたまたまいっしょになる。
松下は、出身地のチームである
ネプタドーレ弘前を応援しにきていた。
サッカーのサポーターというと、
あついおもいを自分のチームにかたむけるとともに、
サッカーについてもルールや戦術にくわしそうだ。
でも、松下は おどろくほどなにもしらなかった。
「アディショナルタイム」や「PK」がわかってないし、
自分が応援するチームの順位さえしらない。

「三鷹は17位だよ。強くないよ」
「へー。もっと上かと思ってた」
 こいつ順位表見てないのか、という驚きと、それでも弘前のアウェイの試合の行けるところには行っている、という事実の落差に、貴志は、自分はなんだか窮屈なところにいたのではないか、という疑いが胸を衝くのを感じた。

「降格?やばかったってこと?」
「そうだよ。よそのチームの結果にもよるけど、負けたら21位で入れ替え戦に回るか、22位で自動降格のどっちかだった」
 そんなことも知らないでこいつは試合を見ていたのか、と貴志は少し呆れるのだが、それ以上に驚く。そんなことを知らなくても、好きなチームの応援はできるのだということに。

 席を外していた松下は、熱燗を買ってきて、おでんをあてに呑んでいた。その様子があまりにも幸せそうで、外でめし食うのはうまいよな、とつい貴志が言うと、松下は、うんうんと何回も大きくうなずいて、おれ大根好きじゃないから食うか?と訊いてきた。

わたしもサッカーがすきで、Jリーグや代表戦をよくみるし、
本棚には何段もサッカー関係の本がならんでいる。
だれにいわれたわけではなく、
すきだから試合をみるし、サッカーについてしりたくて
有名なチームや戦術についての本をもとめた。
サッカーファンならあたりまえだとおもったし、
オフサイドのルールや、リーグ戦のとりきめを理解していなければ
サッカーをしらないひとときめつけていた。

「しらないこと」と「サッカーをたのしむこと」は、
まったく関係ないと 松下におしえられる。
わたしも貴志とおなじで「窮屈なところにい」るのではないか。
サッカーをみはじめたころのわたしは、
松下みたいに なにもしらなかったけど、
サッカーのおもしろさに胸をおどらせていた。
なにもしらなかったわたしのようなファンでも、
おおきなよろこびにひたらせる魅力がサッカーにはある。

試合がおわり、貴志は松下といっしょにスタジアムをでて駅へむかう。
 松下の話にうなずきながら、自分は何かを自分自身から取り返したのだということを貴志は知った。(中略)次の春が待ち遠しかった。

貴志がなにかをとりかえせたのは 松下のおかげだ。
なにもしらないにひとしい松下が、
サッカーをこころからたのしんでいるのをみて
(だから松下は「あまりにも幸せそう」におでんをたべる)、
地元チームの三鷹ロドリゲスに素直な気もちでむきあえるようになる。
いいやつだなー、松下。
それに気づいた貴志もなかなかだ。

posted by カルピス at 21:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

メイキング=オブ『ブルース・ブラザーズ』

録画でみた『ブルース・ブラザーズ』は劇場版であり、
いくつかのシーンがカットされていた。
DVDにはオリジナルフィルムのほうがおさめられているので、
手もとにおいておきたくなり、アマゾンに注文する。
いくらいい作品でも、DVDをかう気になるなんて、
わたしにしてはきわめてめずらしい(3作目)。
それほどこの作品はわたしの琴線にふれた。

DVDには48分のメイキング=オブ『ブルース・ブラザーズ』
がついていたので さっそくみてみる。
DVD作品によくある2次的な情報であり
(メニューに「ボーナス資料」とかいてある)、
関係者へのインタビューからなっている。
ジョン=ベルーシはすでになくなっているので、
ダン=エイクロイドと監督のジョン=ランディスを中心に、
出演したミュージシャンや作品のスタッフが
当時をふりかえっている。

自分たちが関係した作品は、だれにとっても特別なものだろう。
どんな作品にもそれなりの苦労はあるだろうし、
自分たちがどんなおもいをその作品にぶつけたのかをかたりたい。
でも作品は、あくまでもその本編によって評価されるべき、
というのがわたしの基本的なかんがえだけど、
すきな作品となると、またはなしがちがってくる。
どんな情報でもしりたい。
もっとも、たいていのはなしは
ウィキペディアですでに紹介されている。

インタビューをうけているミュージシャンの
スティーブ=クロッパーとドナルド=ダック=ダンは、
清志郎が以前いっしょにうたっていたひとだ。
ブルースとメンフィス、それに清志郎がつながっていたのがうれしい。

ランディス監督は、1980年だからつくれた作品であり、
いまでは金がかかりすぎると、くりかえし強調していた。
映画のなかでいい曲をつかえば、
当時とはくらべものにならないほど たかくつく。
シカゴ市内であんなカーチェイスの撮影は、
とても市が協力してくれない。
実力のあるミュージシャンの参加にくわえ、
いくつかの偶然と幸運のおかげで
『ブルース・ブラザーズ』はできあがった。

それにしても、税務署のビルにつっこむラストはみごたえがある。
川からは警備艇、空からはヘリコプター、
地上では騎馬隊に特殊部隊、さらに装甲車と戦車までが
ふたりをマジでおいまわす。
あれだけ世間をさわがしたら、
18年の懲役をいいわたされても文句はいえない。

レイ=チャールズの楽器店で、
エルウッドがトースターに目をとめるのがすごくおかしい。
「ん?なんでこんなところにトースターが?」
と、気になったエルウッドは
白いパンを上着の内ポケットからとりだし、
そっとのっけてみる。
この場面には伏線があって、エルウッドは自分のアパートで
ハンガーみたいな形の針金にパンをのせてやいている。
エルウッドにとって白パンは、
そうやってやくのがあたりまえなのに、
楽器店には ほんもののトースターがあったので、
ついためさずにはおれなかった。
本筋からはなれて 脇のものに関心をむけがちな
エルウッドのかるさとこだわりがうかがえるし、
この作品の雰囲気をあらわしていて、わたしのすきな場面だ。

posted by カルピス at 22:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月22日

江戸時代をいまの子どもたちはどうイメージするのか

朝日新聞の土曜日版に、
「時代劇は好きですか?」
の記事がのった。
それによると、約6割のひとが「すき」とこたえ、
いちばん人気は「鬼平犯科帳」で、
「大岡越前」「水戸黄門」とつづく。
2011年に「水戸黄門」がおわってから
時代劇の放送はなくなっている。
今年の秋から、武田鉄矢氏を主演に再開する「水戸黄門」は、
6年ぶりの時代劇となる。

わたしが小学生のころ、家族で「水戸黄門」や「大岡越前」、
それに「銭形平次」をみるのが習慣となっており、
マンネリともおもわずに けっこうたのしんでいた。
いまおもえば、わたしが江戸時代にイメージする風景は、
時代劇がベースになっている。
悪代官がいて、越後屋とつるむ ありがちなストーリーや、
お奉行や家老などの役職を、時代劇にまなんだ。
かならずしも事実をつたえているわけではないかもしれないけど、
わたしは時代小説がにがてなので、
江戸時代の情報は、ほとんどテレビからのみもたらされている。
弥生時代や平安時代をリアルにイメージできないのは、
テレビでみたことがないからではないか。

「水戸黄門」で、米俵のうえに腰をおろした黄門さまが、
お百姓さんにしかられる場面をみると、
苦労してつくったお米にのっかったりしてはいけないとまなんだし、
ながい道のりを黄門さまご一行があるいていくと、
ところどころに茶店があって、
みたらし団子がおいしい、とかの風景があたまにうかんでくる。
わたしが江戸時代についてしっている情報のおおくは、
時代劇によってもたらされている。
テレビで時代劇をやらなくなってから、
子どもたちはどうやって江戸時代をイメージしているのだろう。
そもそも子どもはテレビをみなくなっているらしく、
「水戸黄門」が再開しても、
子どもたちへあたえる影響としては
あまり期待できない。
まったくみたことがない時代を、
子どもたちは教科書だけでどうくみたてるのか。
時代劇がはたしていた役わりは、あんがい重要だったのでは。

朝日新聞の記事には、
だれも見たことのない世界を再現する時代劇は、極論すれば、なんでもありのファンタジー

というペリー荻野さんのことばを紹介している。
もっともらしいはなし方や、
庶民のくらしぶりなど、
ほんまかいなと、うそくささをかんじていたけれど、
「なんでもありのファンタジー」なら それもわかる。
すこしまえに映画館でみた
『十三人の刺客』(三池崇史:監督・2010年)は、
1963年につくられた同名の作品をリメイクしたものだった。
かなり大胆につくりかえたといい、
いまどきの時代劇としてたのしめる作品となっている。
わたしはおもしろければそれでよく、
あたらしい時代劇として好感がもてた。

秋からはじまる「水戸黄門」では、
革新的な解釈がもちこまれ、
だれもみたことのない黄門さまとなればおもしろい。
「なんでもありのファンタジー」なのだから、
史実がどうのこうのは関係ない。
これまでの「水戸黄門」シリーズをひっくりかえし、
あたらしい黄門さまをみせてほしい。

posted by カルピス at 14:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月21日

田んぼでは、レンゲが花をさかす

ひさしぶりに畑と田んぼへでかける。
畑では、キャベツの苗が草にうもれていたので、
まわりの草をかりとる。
べつのウネでは エンドウのツルがのびていたので、
そこらへんにあった木の枝をさして支柱にする。
さいごに、あまり草がはえてないウネに、落花生の種をうえる。
ほんの10粒しかはいっていないのに、200円もするたかい種だ。
40分ほどで
・草とり
・支柱たて
・種まき
と、3つの用事がおわり、
なんだかすごく仕事がはかどった気になる。
すべては自然農法のおかげだ。
苗が草にまけない程度 ちょこちょこっと、
草をかりとればいいし、
種まきも、土をたがやさず、
移植ゴテで穴をあけるだけだから かんたんだ。
肥料もつかわないので、種をうえたらそれでおわり。
もっとも、うまくいかないときのほうがおおい。
そだちにくい野菜は ほとんど収穫がゼロだったりする。

おなじ区画で野菜をつくっているおばあさんが
わたしにはなしかけてきた。
「なにをうえなさる?」
「あんたはすごいやり方をするね」
ろくに手をくわえないで野菜をつくろうとするのを、
このおばあさんは「すごいやり方」と もちあげてくれる。
そんなので うまくいくわけない、ときめつけず、
すきにやらせてくれるのがありがたい。
もっとも、ほんとに「すごい」とおもっているわけではなく、
わたしが「ぜんぜん苗がおおきくなりません」というと、
「これからおおきくなるわね。
 肥料をやればおおきくなる」
といいながら 自分の畑へもどられた。
レンゲ.jpg
そのあと田んぼをみてまわる。
秋にまいたレンゲが花をさかせている。
福岡正信さんの自然農法では、
レンゲが雑草をおさえてくれる(はず)。
まだ春があさく、草のいきおいはそれほどでもない。
やわらかく下草がはえた状態の田んぼは、
雑草がたけだけしくそだつ夏の風景とは べつの顔だ。
連休に種まきをする予定。
レンゲのなかで、たくさんの苗がそだってくれたらいいけど。

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2017年04月20日

しりあいの女性がスパイラルパーマに

ひさしぶりにであったしりあいの女性が
レゲエのひとみたいな髪型にしていた。
スパイラルパーマというそうだ。
わたしの目には、アフロがほどけてきた段階にみえる。
彼女は集団のはじっこで しずかにほほえんでるタイプの女性だけど、
今回の髪型はずいぶん大胆なイメチェンにおもえた。
CDのジャケットにのった レディ=キムの髪型をみたとたん、
スパイラルパーマをかけたくなったのだそうだ。
自分をみうしないたくないから その髪型をえらんだという。

わたしはヘアスタイルをおおきくかえた体験がない。
水泳部だったので、いちどすごくみじかくしたくらいだ。
髪型によって自分をみうしなわないのは可能だろうか。
スパイラルパーマやアフロにすれば、
自分の内面に はたらきかけるかどうかはともかく、
自分をとりまくひとたちへ、覚悟や意志の表明にはなりそうだ。

元朝日新聞記者の稲垣えみ子さんが、
アフロにしたとたん ものすごくモテはじめた、
と記事にかいておられる。
スパイラルパーマをえらんだしりあいに
モテるようになったか たずねたら、
「ぜんぜん」なのだそうだ。
まるい顔の稲垣さんだから、アフロにしたら
したしみやすくみえたのかもしれない。
わたしのしりあいは わりあい美形なので、
きれいなひとが 奇抜な髪型をすると、
よほどの人物かとおもわれて敬遠されるのではないか。
わたしには、ろくでもない男がよってこないように
虫よけとしてえらんだ髪型におもえた。

髪型つながりで、むりやり旅行のはなし。
タイをまわっているとき、ボブ・マーリーみたいなひとにであった。
ほそくて 髪がながくて、まだわかそうなのに、仙人みたいな風格だ。
ドレッド・ヘアだったかどうかはおぼえていない。
バンコクからバスで4時間ほどの近場にある
サメット島へわたる船でいっしょになった。
船をあやつる手つだいをしてるので、
わたしはてっきり船の関係者かとおもっていたら、
ひとりの旅行者であり、ただ気をきかせて手つだっていたのだった。
わたしはなぜかそのときイラついていて、
つまらぬことに いちいち腹をたてるなさけない旅行者だった。
おそらくひどい表情で いやな汁をたらしていたとおもう。
浜でその旅行者といっしょになり、すこしはなしをする。
わたしがたった1日で島をはなれるとしったそのひとは、
かわいそうに、という目つきで、
なぜそんなにいそぐのかをたずねてきた。
わたしがそのとき なににイライラし、
どうこたえたか おぼえていないけど、
旅行をたのしめず、とんがっている自分がなさけなくなった。
島にはなんでもある、と
いごこちよさそうにすごすボブ・マーリーみたいな旅行者にひきかえ、
島になじめず、たった1日でバンコクへもどろうとするわたし。
がっかりしながらも わたしは予定をかえずバンコクへもどった。
意地のはりどころをかんちがいしている おろかなわかものだった。

posted by カルピス at 21:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月19日

『バー・リバーサイド』(吉村喜彦)〜食と音楽を巡る地球の旅〜の雰囲気をもとめて

『バー・リバーサイド』(吉村喜彦・ハルキ文庫)

吉村喜彦さんが担当していたラジオ番組
「音楽遊覧飛行〜食と音楽を巡る地球の旅〜」
の雰囲気にふれられればとよんでみる。
東京の多摩川ぞいにあるバー「リバーサイド」を舞台に、
人物と酒をえがいた短篇集で、
いちばんさいごの5話では、登場人物が全員あつまって、
ある老人のはなしに耳をかたむける。

「老師」と 仲間からしたわれているこの老人は、
妻をなくしたかなしみから、
かつてふたりで旅をした外国の町をたずねる。
妻は、すきだったツバメにすがたをかえ、
老人をキューバのサンルイスにみちびいたという。
ラム酒のよいに身をまかせるうちに、老人は自分もツバメとなって、
妻といっしょに川のうえをとびまわる体験をする。

この5話が、「食と音楽を巡る地球の旅」の雰囲気にいちばんちかい。
しらない町の風景や、土地の酒をおもいえがかせてくれる。
ラム酒がサトウキビからつくられていること、
おおくのカクテルのベースとしてつかわれていることを、
わたしはしらなかった。
酒がでてくる小説のこまるのは、ついのみすぎてしまうことで、
禁じている2杯めのロック(芋焼酎)を、
しかもついおおめにつくってしまった。

率直にいって、5つのはなしとも、
小説としてとくにすぐれているとはおもわないけど、
ところどころにでてくる 酒のはなしがアクセントとなり、
スラスラよみすすめられる。
わたしにはなじみのバーがなく、
ねるまえにチビチビと酒をすする程度だけど、
「リバーサイド」のような本格的なバーが身ぢかにあって、
したしみやすい雰囲気のなか、
ほんもののカクテルをのませてくれたら、
日常をささえてくれる ささやかなしあわせとなりそうだ。

posted by カルピス at 08:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月18日

『ブルース・ブラザーズ 2000』教訓にみちた壮大な失敗作

『ブルース・ブラザーズ 2000』
(ジョン=ランディス:監督・1998年・アメリカ)

『ブルース・ブラザーズ』の続編として
1998年に公開されている。
前作がすばらしければ、そのつづきをみたくなるのがファンの心理だ。
お手がるなヒットをみこんで おおくの続編がつくられる。
『ゴッドファーザー』や『エイリアン』など、
パート2にも、すぐれた作品はおおく、
ファンとしては ますます手をだしたくなる。
ただ、ずっこけてしまう作品もまたおおく、
『ロッキー』や『ジョーズ』のように、
がっかりさせられる続編は、ひとつのジャンルとなっている。

残念ながら、『ブルース・ブラザーズ 2000』は
さえない続編の典型だった。
すこしものたりないのではなく、徹頭徹尾、さえない。
おなじ監督がつくっているのに、
前作のよさを ひきついでいないのは、
どんな問題があったのだろう。
作品をけなすよりも、あまりのひどさに
かえってかんがえさせられる。
かなりたかいレベルの失敗作であり、
ここまでくるとまなぶ点がおおい。
以下、ネタバレあり。

「あれから18年」とオープニングでしめされ、
刑期をおえたエルウッドが、
刑務所からでてくる場面からはじまる。
18年分の脂肪により、デブとまではいえないものの、
エルウッドは全体に肉がつき、うごきがおもい。
18年たっているのに、18年まえを ふたたびめざしたのが
この作品のそもそもの失敗だった。
18年まえとおなじように、バンドを再結成しようと
エルウッドはむかしの仲間をたずねる。
18年まえとおなじような車をもとめ、
18年まえとおなじようにうたっておどろうとする。
でも、だめだった。
18年もたっているからだ。
前作のストーリーをなぞるだけなので、
かんじるのは なつかしさよりも、 腐敗臭だ。

わたしもまた、わかいころとおなじやり方をくりかえしがちだ。
体型を維持したいのはあたりまえとしても、
むかしとおなじように からだがうごいて当然とおもいこむ。
旅行にでかけても、わかいときの旅行とおなじスタイルをもちこみ、
なんとなく しっくりこないのに気づく。
からだや 家族構成など、状況は以前とことなっており、
おなじやり方をくりかしても、おなじ満足にはつながらない。

かつてうまくいった体験を、もういちどくりかえそうとする。
そのほうが 楽だからだろう。
むかしといっしょ、よりも、
なにかこれまでとはちがうやり方をとりいれるほうが、
とりくみ全体に健全な空気をもたらす。
うまくいかせようとするよりも、
あたらしい体験こそをもとめたほうがいい。

それにしても、ひとをあやめたわけではないのに、
18年は刑期としてかなりながい。
30歳のときに 懲役をスタートさせたら、18年後は48歳。
ふつうだったら はたらきざかりの期間を、
エルウッドはずっと刑務所ですごしており、
48歳になってシャバにでられても、
浦島太郎状態で、なかなか社会に適応できそうにない。
エルウッドが なんの違和感もかんじずに、
すぐにバンドを再結成しようとするのは
映画のなかでしか ありえない。
そんなエルウッドに、まわりのひとたちまで
かきまわされてしまった。
歳をとるにつれ、ふけこむのはしかたないとしても、
おろかに歳をかさね、わかいころの記憶にしがみつかないよう、
この作品の警告に耳をかたむけたい。

posted by カルピス at 21:32 | Comment(3) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月17日

予告編だけでじゅうぶんおそろしい老化

55歳のいま、もうこのさきはそんなにながくないと
なにかにつけて かんじるようになった。
中年となり、健康に自信をもてなくなったのがおおきい。
すこし調子をくずしただけで、
死ぬときはあんがいこんなふうに
おもってもいなかった角度から悪魔のつかいがやってきて、
かんたんにズルズルとむこうの世界へおちていくのだと
「おわり」をリアルにイメージできる。
あるいは、きゅうにアクシデントがおとずれたら
(ころぶとか脳梗塞とか心臓発作とか)、
もう家にかえってこれないんだ、みたいなことが
ふと頭にうかんでくる。
わかいころは、そんなことかんがえもしなかった。

職場の上司とはなしていたら、
なんだかこのごろうごきがおぼつかなくなった、といわれる。
わかいひとがいるまえでは 話題にあげにくくても、
55歳のわたしが相手だと 老化をはなしやすいらしく、
よくふたりで おたがいの変化を報告しあう。
上司によると、4月になってから自転車でころんだり、
家でもなにかにつまずきやすいそうだ。
おたがいに、記憶力のおとろえも よく話題にするけど、
からだのふらつきもまた、ひとごとではないリアルさがある。
60歳の上司は、わたしより5年はやく 老化を体験しているわけで、
55歳のいまでさえ、もうじゅうぶん
おそろしい予告編をみせられている気がするのに、
これからさらに 老化の本編がまっているのかとおもうと
ほんとうにおそろしい。
老人になるのはだれもがはじめてだから、
もっといたわってね、みたいなはなしをきいたことがある。
たしかに、老化について知識や覚悟をもっているつもりだったけど、
自分が老人の側にちかづくと、はなしはきわめて具体的になる。
いつかむかえる「老い」は、だれにとってもはじめての体験なので、
わからないことがおおい。
こんなはずではなかった、がわたしの実感だ。

歳をとって いいことのひとつは、なにかに失敗しても、
まあ そんなにさきはながくないからと、
深刻にうけとめず、かるくながせるようになった。
こんな失敗は、このさきそんなにやってこないだろうし、
やってきたところで 浮世はそうながくつづかないのだから、
生きてるあいだだけの 些細なできごとにすぎない。

もしわたしがながいきしたら、
自分のしりあいたちは、 どんな「おわり」をむかえたかをしりたい。
げんきだったあのひとが、オムツをつけるようになった、とか、
まさかあのひとがボケるとは、なんて
自分の心配は棚にあげといて、ひとのおわり方に興味がある。
ひとりでいきていたあのひとが、
理想的なさいごをむかえたり、
にぎやかに大家族でくらしていたあいつが、
さみしいおわりをむかえたりして。

わたしの「おわり」は?
愛するひとに手をにぎってもらいながら
むこうの世界へいきたいとねがう。
だれもそうしてくれるひとがいなければ、
ふかい森にはいり、うつろうつろしながら
さいごのひとときをむかえたい。

posted by カルピス at 20:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月16日

いまさらながら『シザーハンズ』

『シザーハンズ』(ティム=バートン:監督・1990年・アメリカ)

ずっとまえから気になっていた作品だ。
1990年に公開されているので、
27年ほったらかしているあいだに「古典」となってしまった。
こむずかしい解釈をもとめられるとおもいこみ
なんとなく 敬遠してきた。
おどろおどろしいのはオープニングまでで、
あとは霧がはれるように あかるい映像となる。
これはまあ、ティム=バートン監督の常套手段ともいえるのだけど、
その演出にすっかりだまされていた。

これはコメディだ。
深刻にみるひとがいてもいいけど、
一貫したドタバタというみかたをわたしはとりたい。
レタスを手のハサミでみじんぎりにしたり、
バカボンのパパみたいに植木をかりこんだり。
警察が「手をうえにあげろ」とエドワードをおいつめる。
エドワードがいわれたとおりに手をうえにあげると、
とうぜんながらややこしいハサミの手がうきぼりになる。
「ナイフをたててるぞ!」がおかしかった。
この警官は、のちにエドワードがかかえる
ややこしい状況に理解をしめし、
ふかい部分でエドワードのとまどいを理解する。
以下、ネタバレあり。

ある博士が「人間」をつくったとき、
手の部分だけがをつくりのこして死んでしまい、
あとには手がハサミのまま エドワードひとりがとりのこされた。
手がハサミの人間って、どんな姿なのだろう。
『シザーハンズ』がそのこたえだ。
ティム=バートン監督は、
いかにも もっともらしいハサミ人間として
エドワードに黒のジャケットをきせ、
表情があるような ないような、
うごきもどことなくぎくしゃくしていて、
でも あるいているとちゅうで
庭木にちょっかいをだしたりする好奇心はある。
ハサミはひとつではなく、なにやら複雑にこんがらがっている。
エドワードは、自分のややこしい手を、
けしてなげいたりはしなかった。
自分のからだをうけいれながら、あたらしい世界にもなじもうとする。
ハサミひとつのシンプルな手にしなかったのが、
エドワードのありえなさをきわだたたせ、
この作品を成功にみちびいた。

手がややこしい形なだけで、作品の内容そのものは、
ものすごくシンプルにつくられている。
お城みたいな家でひとりぐらしをしている青年
(しかも手がハサミなのに)を、
化粧品セールスの女性が かんたんに家につれてかえるはずがないし、
つれてかえった青年を、女性のご近所さんが
あんなに関心をよせるはずがない。
すべてがおとぎ話なのだ。
そこにどれだけのリアリティをもたせられるか。
ティム=バートン監督がつくる世界に、
わたしはここちよく身をゆだねた。

キム(ウィノナライダー)のボーイフレンドであるジムは、
あんなにバカな男でなければならなかったのか。
キムだって、ただかわいいだけの女の子にすぎず、
ウィノナライダーではすこしかわいそうだった。
エドワードがキムに恋するわけないような気がするけど、
恋にぜったいはないので 恋しちゃったわけだ。

posted by カルピス at 17:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月15日

『本の雑誌 5月号』国語の教科書を作ろう

今月号の特集は、国語の教科書。
「国語の教科書を作ろう!」の座談会がおもしろかった。
国語の教科書のせいで、本がきらいになる生徒がおおいらしく、
それなら自分たちでつくったら、という企画だ。
「前後ぶった切ってここだけ読んだって、面白いわけ」ないので、

・短編で読みきれるものを載せる
・基本的には全編読ませる

という提案がでている。
途中までがおもしろければ、
そのさきは自分でさがしてよめばいいので、
かならずしも全編まるごと とはおもわないけど、
ショートショートや短編だったら、たしかにできる。

わたしの記憶にのこっているのは、
中学の教科書にのっていた
『野生のエルザ』と『一切れのパン』だ。
エルザは、シリーズをとうじ夢中でよんでおり、
自分のすきな本が、教科書にのっているという、
それだけでうれしかった。
『一切れのパン』は、ナチスにとらえられたユダヤ人が、
収容所につれていかれるまえに にげだし、
家までもどるはなしだ。
ある老人から、布きれにつつんだひときれのパンをわたされ、
どうしても我慢できなくなるまで、
このパンに手をつけてはいけない、とおしえられる。
ポケットにいれた そのパンをささえに 男は冷静さをたもちつづけ、
無事に家にもどる。
布にくるんだパンをとりだしてみると、
それはパンではなく、板きれだった。

パソコンで検索すると、わたしの記憶はだいたいあっている。
たくさんの感想がよせられているので、わたしとおなじように、
つよく印象にのこっているひとがおおいのだろう。
ただ、高校の教科書にのっていたとおもっていたけど、
じっさいは中学のときによんだみたいだ。
高校の教科書に、なんの記憶もないのはなぜだろう。
本ずきだったわたしにはものたりなかったのか、
あるいは純文学的すぎたのか。

教科書で生徒が本をすきになるだろうか。
村上龍さんの『69』は、
単純に 本のおもしろさをわかってもらえるとおもう。
斎藤美奈子さんの『妊娠小説』をとりいれたら、
小説だけでなく評論にふれるきっかけになるし、
妊娠をめぐる男たちのテキトーさは、社会科の教材としてもつかえる。
村上春樹さんの初期のエッセイは、
ノーベル賞候補のえらい小説家、みたいな、
あやまったイメージをとりさってくれるはずだ。
教科書は、きびしい検査にとおらなければならないので、
教科書らしくない教科書は、なかなかつくれないのかもしれない。
それにしても、まったくおぼえていないというのは ひどい。
じっさいに高校で国語をおしえている先生のはなしをききたい。

posted by カルピス at 10:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月14日

『ブルース・ブラザーズ』ふたたび

BSプレミアムで放映された『ブルース・ブラザーズ』を録画する。
すこしまえのブログにかいたとおり、
http://parupisupipi.seesaa.net/article/445197530.html?1492171735
わたしはこの作品がだいすきなのだけど、
短縮版のようで、レンタルDVDと訳がすこしちがう。
カットされている部分もあり、いまひとつはいりこめない。
ひとりでごはんをたべるときに、すこしずつみていた。

夜おそく、ピピがごはんをせがんで わたしのベッドにきた。
台所へいって、ピピのカンヅメをあける。
ピピがたべるのをまつあいだ、中途半端な時間ができたので、
『ブルース・ブラザーズ』を再生する。
ちょうどホテルでのコンサートがはじまるところで、
ここまでくれば 訳がどうこうはなく、
ごきげんにのっけてくれる。
ピピにみちびかれるかたちで、
2どめの『ブルース・ブラザーズ』をたのしめた。

この作品は、全編にブルースのかおりがただよっている。
ブルースとはなにかが、この作品をみればわかる。
主役の2人だけでなく、2人にくどかれて
バンドにくわわる仲間も、警察も、ネオナチも、
だれもがブルースの精神で生きている。

コンサートをぬけだし、警察の包囲網をやぶって
シカゴの税務署へむかう場面では、
エルウッドがポンコツのダッジにのりこむと、
以下のことばをつぶやく。
シカゴまで170キロ。
ガソリンは満タン。
タバコは半箱。
闇夜にサングラス。

ブルースだ。

パトカーが何十台もへしゃげていく
めちゃくちゃなカーチェイス。
ブルース=ブラザーズたちの、
ふとくてみじかい(おそらく)人生に一票をいれたくなった。
ブルースに生きようとすると、人生80年はながすぎる。

映画のラストにごきげんになったわたしは、
ズブロッカで祝杯をあげる。
ピピがおこしにこなかったら、はやめにやすんでいた夜なのに、
余計な酒のおかげで あしたはきっとふつかよいだ。
それもまたブルースなのでしかたない。

posted by カルピス at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月13日

余計なものを過剰にくわえる 松本圭司氏の料理法にしびれる

デイリーポータルZに松本圭司氏の
「シャトルシェフで肉を煮れば人類は救われる」がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/170411199303_1.htm
シャトルシェフは、保温調理器の一種らしい。
煮こむ時間はみじかくても、そのあとながい時間 保温することで、
材料がトロトロにやわらかく、おいしくなるそうだ。
わたしがすきな(やすいので)豚バラ軟骨と鶏肉の手羽を材料に、
煮こみ料理がつくられている。

松本氏は、「揚げ物に油をかけると、すっげーウマい」の記事で、
ポテトチップスにオリーブオイルをかけたり、
テンプラに豚バラ肉からとった油をかけたりと、
常識にさからう過剰な摂取で わたしが注目している食の冒険家だ。
http://portal.nifty.com/kiji/170314199029_1.htm
テキトーさと大胆さ(おなじことか)により、
食材のいきおいを最大限にひきだす手法は、
他の料理人の追随をゆるさない。
たとえば豚バラ軟骨の料理では、
煮込むとアクが出ますがもったいないので取りません。アクだって豚の一部です。

とたのもしい。
われわれは、料理人であるまえに
地球人としての良識をわきまえるべきで、
あたりまえに 材料をまるごと とりいれる姿勢に 好感がもてる。
鶏肉の手羽をつかったカレーでは、
・表面を焼きます。うま味を閉じめるとかそういう効果は特にありませんが茶色はおいしそうなので茶色くします。そういう儀式です。
・カレールウは使っても使わなくてもいいのですが、カレー粉を買うより安いので経済的理由でルウを使います。
・「カレールウの味は完成しているので隠し味は要らない」なんてつまんない事を言う人がいます。が、どんどん余計なものを入れていきます。むしろ隠さず余計なものだけでカレーを作る。するとハレになります。
・『ごちそう』とはつまり普段とは違う味の事ですから、ふだんと違う味付けにすればそれすなわちごちそうです。レシピなんかに従っていたらごちそうなんて出来ません。魔改造していきましょう。

と、筋のとおったコンセプトにしびれる。
トマト・おろしショウ・、おろしニンニクをくわえ、
カレールウをいれたのちも、
「余計なもの」をつぎつぎに つけたしていく。
添付のカレー粉・S&Bのカレー粉・ヨーグルト、
梅ジュースをつけたあとの梅。
一般的にはシンプルが善とされ、
「余計なもの」をくわえるのはダサいと 評判がわるいけど、
松本氏は一般常識にとらわれず、
「余計なもの」を過剰にくわえる手法で
料理のあたらしい大陸を発見した。

わたしは、なにかをくわえるより、
いまあるものから すこしずつひいていく過程に
価値をみいだしている。
肥料をやったり、土をたがやしたりと、
よさそうな方法はなんでもとりいれ、世話をやきたがる米つくりより、
自然農法のように、肥料はいらないのではないか、
草もとらなくてもいいのではないか、
というかんがえ方のほうがただしいとおもっていた。
しかし松本氏は、わたしと逆な方向に、ひとつの真理をみつけている。
くりかえして強調したい。
「隠し味は要らない」なんてつまんない事を言う人がいます。が、どんどん余計なものを入れていきます。

しごく名言である。
これこそが松本流処世術の真髄であり、
おそらく料理はそのうちの ごく一部にすぎない。
まちがったほうがおもしろい、
うまくいかなくても心配ない、など、
わたしの琴線にふれる大雑把な美意識に、
松本氏の「余計なものを過剰にくわえる」をあらたに くわえたい。

posted by カルピス at 21:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月12日

タンスを部屋からおっぱらう方法は?

ジブリの宮ア駿さんは、わかいころからシトロエン2CVにのっている。
『カリオストロの城』で クラリスが伯爵からにげるときにつかった
フランス製の自動車だ。
子どもを保育園におくりむかえするのに 自動車が必要となり、
でも自動車らしい自動車に関心のなかった宮アさんは、
映画にでてきたシトロエンが よたよたとはしる姿に、
これだったら自動車じゃない、と
自動車らしくないところが気にいって えらんだという。

外国の車といっても、シトロエン2CVは
「ブリキのおもちゃ」「みにくいアヒルの子」などの
ありがたくない通称からわかるとおり、
最低限の機能だけをそなえた 庶民向けの大衆車だ。
宮アさんが手にいれたのは 中古のシトロエンで、
ろくに坂道をのぼらないような
ちからのないポンコツ自動車だった。
すぐにあちこちがいかれ、
いったんこわれると部品が手にはいらないので
なかなか修理がすすまない。
宮アさんは、頭のなかがシトロエン2CVでいっぱいになり、
家族さえいなければ、もっとあいつをかまってやれるのにと、
だんだん本末転倒な意識にかたむいていった。
家族のためにかったはずの自動車なのに、
家族さえいなければ、と悪魔がささやくようになるのだから、
人間の願望は おそろしい一面をひめている。

というはなしをもちだしたのは、
気がよわいわたしの ながいまえふりだ。
わたしの部屋にある配偶者のタンスが邪魔でしょうがなく、
でも あからさまなことはいいにくいので、
わざわざ宮アさんまでひっぱりだした。
わたしは 4畳半のせまい部屋を 書斎としてつかっており、
ただでさえきゅうくつなのに、
ここには配偶者のおおきなタンスも おいてある。
もともとタンスがあった部屋を
わたしが書斎につかいはじめたのだから、
正面きっての文句はいいにくいけど、
書斎とタンスは たいへんに相性がわるい。
機能がちがうこのふたつを おなじ部屋におこうとするのが
そもそも無理なのだ。
もしこのタンスがなければ、本棚を2つならべて
すっきりと機能的な部屋につくりかえられる。
わたしのこの数年は、このタンスさえなければ・・・を
延々とあたまのなかでいじくりまわした年月といってよい。
配置がえをかんがえても、かならずタンスの存在に計画がいきづまる。

そもそも、タンスって、ほんとに必要なものだろうか。
ただ服がしまってあるだけなのに、
なぜタンスは無駄にスペースを主張しつづけるのか。
すべてのタンスが悪におもえてくる。
人間関係において、◯◯さえいなければ、という発想は、
たいてい自分のいたらなさをあらわしている。
タンスにしたって、それがなくなったとしても、
どれだけわたしの生産性がたかまるかは きわめてあやしい。
もちろん、そんなことはわかったうえで ダダをこねているのだ。
あー、タンスがにくたらしい。

タンスを排除するには、いくつかの方法がかんがえられる。
宮アさんのように、◯◯さえいなければ、なんて
だいそれた案までがあたまにうかぶ。
たかだかタンスごときに、
なにもそこまで極端にはしらなくてもよさそうなのに、
あるべき部屋の姿をおもいえがいて モンモンとする。
合理的かつ合法的に、
タンスがわたしの部屋からなくなるシナリオを募集したい。
完全犯罪のように、ぬけぬけと、当然のなりゆきとして、
このタンスをべつの部屋におっぱらう方法はないものか。
わたしには夢がある。
いつの日か、タンスがわたしの部屋からなくなり、
本棚が機能的にならべられた書斎らしい空間を。

posted by カルピス at 23:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月11日

『とにかく散歩いたしましょう』小川洋子さんによる壮大なよみちがえ

『とにかく散歩いたしましょう』(小川洋子・文春文庫)

小川洋子さんのエッセイ集で、愛犬のラブとのくらしや、
本についての話題がおおい。
「本の模様替え」では、いぜんよんだ本をよみかえすと、
まるでちがった印象をもっていたのにおどろくとかいてある。
『走れメロス』は「気の毒なお話」として記憶していたのに、
ところが三十年振りに読み返してみれば、なんと『走れメロス』はハッピーエンドではないか。メロスは死んでなどいなかった。ちゃんと約束の時間に間に合って、親友と二人抱き合ってうれし泣きをしている。それを見た暴君までが改心し、群衆からは「王様万歳」の歓声が上がる。気の毒な気配などどこにも見当たらない。

『異邦人』も、ムルソーがころしたのは、
アラブ人ではなく、恋人のマリイだったと
小川さんは かってによみかえている。
たぶん高校生の私には、殺す必要のない人間を手に掛け、動機を太陽になすりつけるような展開がどうしても腑に落ちず(中略)、分かりやすいストーリーを、自分なりにこしらえたのだろう。

というのが小川さんの分析である。

3冊目に紹介してあるのが『おなかのすくさんぽ』で、
著者はかいていないけれど、これは片山健さんの絵本だ。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/443855365.html
最近よんだ本が こんなところでとりあげられて わたしはうれしくなる。
小川さんの記憶によると、『おなかのすくさんぽ』は、
下記のように ものすごい本らしい。
小さな男の子がクマとライオンに出会って、仲良く一緒に散歩をします。そのうちお腹の空いてきた男の子が、とうとう我慢しきれずに、クマとライオンを食べちゃうんです。すごい絵本です。一度読んだら忘れられません。

よみかえしてみると、
ところが1ページめから早くも雲行きが怪しくなった。クマの姿はあるが、ライオンはいない。代わりにイノシシ、山猫、ネズミ、モグラ、コウモリ、蛙、蛇、と案外大勢登場する。(中略)私はそっと最後のページをめくった。
「おなかが なくから かーえろ」
動物たちは森に、男の子はお家に、彼らはさよならも言わずにお別れしていた。
それでおしまいだった。

べつの章では、
夏目漱石の『こころ』が話題に上がった時、一世代下の若い友人が、「ああ、あの散歩ばかりしている小説ね」と見事に一言で言い切った。

というのがおかしかった。
たしかに漱石の小説は、散歩ばかりしている印象がある。
ここから小川さんは
「もし散歩文学というジャンルがあるなら」
と、ほかの小説にでてくる散歩の場面におもいをはせる。
「散歩小説」の発見である。
貧乏小説や結核小説があるように、
散歩がものがたりの中核をなす小説もある。
それらの本を、これからは「散歩小説」として
あたらしいジャンルにいれてあげよう。
『ノルウェイの森』で主人公と直子さんが体を寄せ合って散歩する、ただそれだけのデートを繰り返す場面も忘れがたい。

斎藤美奈子さんは、妊娠小説として
『ノルウェイの森』をとりあげていた。
『ノルウェイの森』はまた、散歩小説でもあったのだ。
本をよむよろこびのひとつは、このように
だれかと話題を共有し、ふかく共感したり、
おもいがけないよみかたを おしえられるときではないか。
小川さんによる壮大なよみちがえのおかげで、
かえってその本の特徴がうきぼりにされる。
わたしまで まつがったあらすじのまま おぼえてしまいそうだ。

posted by カルピス at 21:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする