思えば、アフリカに行かなかった。
むろん地球を飛び出すこともなかったし、
とにかく特別変わったことはなんにもしなかった。
こんなに、あえて宣言して休みをつくったつもりなのに、
行ったことのある場所に出かけて行って、
知っている人に会っていつものようなことをして、
ひとりで行くとしても、公園、美術館みたいな場所で、
あとは、本を読んだり、なにか考えごとをしたり、
目に入る景色や、あたりのなにやらを見ていただけだ。
糸井重里さんが、「今日のダーリン」で
5月の休暇をふりかえっている。
糸井さんはことしの5月を、
まるまる自由になる ながい休暇としてすごされた。
いそがしいひとだから、あちこちに「宣言」しての
はじめてともいえる スペシャルイベントだ。
いろいろおもうところがあったものの、
けっきょく この記事にあるように、
「行ったことのある場所に出かけて行って、
知っている人に会っていつものようなことをして」
休日をすごされたらしい。
糸井さんの「宣言」をしったときには、
どんな休暇をすごすのだろうと、期待していただけに、
なんだかもったいない気がした。
でも、わたしもまた
そんな休暇をもとめているのかもしれない。
自分へのスペシャルイベントといえば、
わたしは人生のさいごのさいごを
ながめの旅行でしめくくろうときめているけど、
「さいごのさいご」に そううまく
旅行にでかけられるとはかぎらない。
それまでになにかのアクシデントで死ぬかもしれないし、
病気になって とても旅行どころじゃないかもしれない。
だから「さいごのさいごに」とっておくのではなく、
糸井さんみたいに、人生のとちゅうに
スペシャルイベントを設定するのはいいアイデアだ。
いちどきりではなく、
そんな機会を何回もつくれたらもっといい。
わたしはこれまで なんどか職場をやめたときに、
そのつどスペシャルな時期をもった。
わかいころは、特別な休暇という自覚はなく、
ただのながい失業期間であり、
活発にあちこちへでかけるよりも、
だらだらと なにもなさずにすごしている。
そんな経験から、自由な時間をいかにたくさんもてても、
時間ができたら やりたいとおもっていたことは
あんがいできないのをしる。
漠然とおもっているだけでは、うごけない。
たっぷりな自由時間をつかいこなすには、
なれと経験が必要かもしれない。
糸井さんのいう
「行ったことのある場所に出かけて行って、
知っている人に会っていつものようなことをして」
に共感し、それもまたわるくないすごしかただだとおもう。