2017年05月31日

スペシャルイベントに わたしはなにをするだろう

思えば、アフリカに行かなかった。
むろん地球を飛び出すこともなかったし、
とにかく特別変わったことはなんにもしなかった。
こんなに、あえて宣言して休みをつくったつもりなのに、
行ったことのある場所に出かけて行って、
知っている人に会っていつものようなことをして、
ひとりで行くとしても、公園、美術館みたいな場所で、
あとは、本を読んだり、なにか考えごとをしたり、
目に入る景色や、あたりのなにやらを見ていただけだ。

糸井重里さんが、「今日のダーリン」で
5月の休暇をふりかえっている。
糸井さんはことしの5月を、
まるまる自由になる ながい休暇としてすごされた。
いそがしいひとだから、あちこちに「宣言」しての
はじめてともいえる スペシャルイベントだ。

いろいろおもうところがあったものの、
けっきょく この記事にあるように、
「行ったことのある場所に出かけて行って、
知っている人に会っていつものようなことをして」
休日をすごされたらしい。
糸井さんの「宣言」をしったときには、
どんな休暇をすごすのだろうと、期待していただけに、
なんだかもったいない気がした。
でも、わたしもまた
そんな休暇をもとめているのかもしれない。

自分へのスペシャルイベントといえば、
わたしは人生のさいごのさいごを
ながめの旅行でしめくくろうときめているけど、
「さいごのさいご」に そううまく
旅行にでかけられるとはかぎらない。
それまでになにかのアクシデントで死ぬかもしれないし、
病気になって とても旅行どころじゃないかもしれない。
だから「さいごのさいごに」とっておくのではなく、
糸井さんみたいに、人生のとちゅうに
スペシャルイベントを設定するのはいいアイデアだ。
いちどきりではなく、
そんな機会を何回もつくれたらもっといい。

わたしはこれまで なんどか職場をやめたときに、
そのつどスペシャルな時期をもった。
わかいころは、特別な休暇という自覚はなく、
ただのながい失業期間であり、
活発にあちこちへでかけるよりも、
だらだらと なにもなさずにすごしている。
そんな経験から、自由な時間をいかにたくさんもてても、
時間ができたら やりたいとおもっていたことは
あんがいできないのをしる。
漠然とおもっているだけでは、うごけない。
たっぷりな自由時間をつかいこなすには、
なれと経験が必要かもしれない。
糸井さんのいう
「行ったことのある場所に出かけて行って、
 知っている人に会っていつものようなことをして」
に共感し、それもまたわるくないすごしかただだとおもう。

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2017年05月30日

災害時にペットをどうまもるか

きのうの朝日新聞に、災害時のペットと避難について
環境省のガイドラインがのっていた。
これまでは
「同行避難」を基本として、飼い主にペットを入れるケージなどの準備を促し、自治体には避難所や仮設住宅で可能な限りペットを受け入れるよう求めた。

しかし、きょねんおきた熊本地震では、
避難所にはいったペットへの苦情がでたことから、
環境省がこれまでの指針をあらためている。
自治体に対し、避難所でペットを保護する場合はほかの被災者と分けるよう求める。また、避難所で保護できない場合に備え、飼い主や自治体などには預け先を確保しておくよう促す方針。

だれもが避難できる場所を
「避難所」というのかとおもっていたけど、
ペットはあまり歓迎されないみたいだ。
「人間第一主義」が避難所の基本であると、
今回のみなおしであきらかになった。
ということは、赤ちゃんや老人・障害者、そしておそらく外国人も
避難所で肩身のせまいおもいをするのではないか。

ほぼ日がつくったアプリ「ドコノコ」は、
自分の家にいるネコや犬を登録するときに、
避難所の場所をペットの住所として指定する。
https://www.dokonoko.jp/
ただ、あくまでも「指定」するだけで、
そこにいけばかならずペットをうけいれてもらえる
という意味ではない。
災害時にペットをどうあつかうかは、
さけてとおれない問題として、
ようやく自治体の意識にのぼったところだ。

ドコノコの機能として、
迷子になったイヌやネコを登録すれば
ドコノコからさがしだせる。
みんながヨソノコもドコノコも、
ウチノコとおなじように気にしたら、
迷子のペットが道をあるいていたときに、
「みかけないコがいます」とドコノコにしらせ、
かいぬしまでつながるかもしれない。

きょうは職場のクッキー工房で避難訓練があった。
冗談みたいな避難訓練とはいえ、
職員が意識のどこかに 避難する場面をおもいえがくのは
いい体験になるだろう。
職場での避難訓練に、ペットはもちろんふくまれない。
けっきょくペットの避難については、
それぞれが、自分の問題として 対応するしかない。
もし災害にあったとしたら、もちろん状況にもよるけど、
おそらくわたしは ピピといっしょに家にとどまる。
覚悟をきめたような 動物のいきかたは、
わたしにいろいろな道を おしえてくれるのではないか。

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2017年05月29日

にわかでミーハーなわたしの興味

ショパンやベートーベン、メンデルスゾーンなど
クラシックの大御所たちは、
わたしのあたまのなかで、
「むかし活躍した有名な作曲家」として
ひとかたまりに処理されていた。
いろんな名前をきいたことがあるけど、
だれがどんな曲をつくり、それがどんなメロディーなのか、
なんどきいてもおぼえられない。
そんなわたしが、まがりなりにも
「ベートーベンの7番」とか、
「チャイコフスキーのバイオリン協奏曲」
なんていえるようになったのは、
まちがいなく『のだめカンタービレ』のおかげであり、
「のだめ」が出発点だ。

「のだめ」のCDをかり、気にいった曲をきいて満足していたら、
ラジオ番組「クラシックカフェ」で
「ベートーベンの7番」がかかったとき、
「ほんもの」は ずいぶんながいのにおどろいた。
かんがえてみれば、「のだめ」のドラマや映画で
曲ぜんぶをながすとおもうほうがどうかしている。
クラシックの森にたどりついたとおもってよろこんでいたら、
ぜんぜんそこまでいっていなかった。
まだとおくから森をみて
「おおきいなー、ひろいなー」と感心している段階みたいだ。

「のだめ」をみてすぐCDをかりたのは、
わたしのミーハー精神のあらわれであり、
よくいえば好奇心にとんでいるのかもしれない
(「ミーハー」って、ひょっとして死語?)。
ジャズだって、『スウィングガールズ』をみたとき
にわかジャズファンになり、何枚かCDをかりたぐらいだ。
ふるくは『フラッシュダンス』に影響をうけた。
ダンサーをめざす主人公のアレックス(ジェニファー=ビールス)が
ドロップハンドルの自転車にのっているのをみて、
それまでフラットタイプだった自分の自転車を、
自転車店にいってドロップハンドルにかえてもらっている。
夢をあきらめないのを みならえばいいのに、
わたしがまねしたのは ハンドルの変更だけだ。

いまわたしが「にわか」をかましているのはブルースで、
『ブルース・ブラザーズ』のCDにはいっている
「スウィート・ホーム・シカゴ」と「監獄ロック」を
寝酒をのみながら毎晩きくようになった。
『ブルース・ブラザーズ2000』に出演している
B.B.キングのCDも、きいてみたら なんとなくいいかんじだ。
『ブルース・ブラザーズ』をとっかかりにして
こんどこそ ブルースのふかい森をさまよえたらうれしい。

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2017年05月28日

このさき何年いきても、あんがい いっしょかも

わかいころ、外国のまちでくらす 友だちの家をたずねた。
いいお天気があぶなげなくつづき、あつくもさむくもない。
家のちかくにはビーチがひろがっている。
なにもかも、あまりにも快適なので、
なんにちくらいこのまちにとどまったら、
おもうぞんぶんあそんだ気になるだろうかと、
ともだちとはなしあう。
わたしは「一週間かな」といった。
ともだちは、「なんにちいても、いっしょかも」といった。

たしかにそうだ。
こんな快適さをあじわえば、
なんにちいても 気がすむわけない。
ずっとこのまますごしたいと おもうにきまっている。
いごこちのいいゲストハウスをみつけたときも、
おなじようなかんじになる。
いつまでもグズグズとその宿にとどまっていたい。
特別なことをしなくても、ちゃんといちにちがすぎていく。
充実とはいえないかもしれないけど、
それはそれでみちたりた時間だ。

いまのくらしも、そうしたときの気分と
あまりかわらないのかもしれない。
ひととおり、ほしいものにかこまれ、
よみたい本、みたい映画がたくさんある。
家と職場ですごす時間に、とくに不満はなく
そこそこ機嫌よく くらしている。
そんななかで、
「あとなんにち生きたいですか?」
とたずねられたとき、
正確な日数をこたえられるわけがない。
ずーっと、生きたい。

そのいっぽうで、人生なにがおこるかわからないのもしっている。
きゅうな病気や事故で いつ死ぬかわからない。
そのときは、じたばたせずに、自分の運命をうけいれたい。
いつまでも生きられるとおもうから
なにかと欲がでて、まちがえるのだ。
ちかぢかおむかえがきますよと、お医者さんにいわれたら、
かなりのショックをうけながらも、
どこかでホッとする部分があるような気がする。
このさき何年いきても いっしょかもしれないから。

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2017年05月27日

田んぼと畑へ

田んぼと畑へ。
田んぼでは、用水路から田んぼに水がはいっているかを確認する。
ほんのすこしの水が田んぼにながれており、
これからじばらくお天気がつづきそうなので、
このままでいいだろうと、ほっておく。
5月3日にまいた種もみは、芽をだしただろうか。
田んぼにはいろんな草がはえており、
稲のようなのもあるけど、雑草かもしれず、と
けっきょくよくわからない。
そうならないように、ことしは一定の間隔で
種いりの粘土団子をまいたつもりなのに、
これではきょねんとかわりない。
170527田んぼ.jpg
【草をほったらかしている田んぼ】

畑では、ズッキーニ・ナス・ピーマン・ミニトマトの苗を
1本ずつうえる。それとサツマイモの苗(紅あずま)を10本。
ごくささやかな数しかうえないのは、
田んぼに手をとられて、畑にはあまり時間をかけられないのが
わかっているからだ。
畑は(田んぼも)自宅から10キロの場所にあり、
週にいちどくらいしか顔をだせない。
こまめに世話をし、毎日収穫しなければならない野菜は、
はじめからあきらめた。
畑のウネは、雑草がおいしげっていたので、
カマをつかっておおざっぱにとりのぞく。
苗をうえるのに、ウネをたがやしたり、
肥料をいれたりはしない。
移植ゴテで穴をあけ、そこにかってきた苗をいれるだけだ。
げんきよくそだっている草をみると、
野菜の苗だけ肥料が必要なのは おかしいとおもえてくる。
その野菜にピッタリの環境であれば、
肥料や草とりをしなくても 雑草のように
おおきくそだってくれるはずだ。
170527ズッキーニ.jpg
【草でおおったズッキーニの苗】

苗をうえたあと、ジョウロで水をやる。
そのままほっておくと 苗がかれてしまうので、
かりとった雑草をあつめて苗のまわりをおおう。
草マルチといって、雑草がはえたり 土が乾燥するのをふせぐためだ。
しょっちゅう水やりにくるわけにいかないので、
基本的には このまま収穫までほっておく。
こんなやり方で野菜がうまくそだつだろうか。

わたしがみるところ、野菜づくりをするひとのおおくは、
手をかけるのがすきで なにかと世話をやきたがるひとがおおい。
わたしは反対に、できるだけなにもせず、
野菜や土地のちからでそだってほしいとおもっている。
まだみきわめがうまくいかず、野菜のちからをひきだせないので、
ほとんどの野菜は わずかな量しか収穫がない。

きょうは日中の気温が22℃と、まだすずしかったけど、
これからあつくなると 夕方しか畑しごとができない。
田んぼはともかく、畑はできるだけ家のちかくにあったほうがいい。

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2017年05月26日

ドコノコをはじめていちねん

ほぼ日がつくったアプリ「ドコノコ」に
https://www.dokonoko.jp/
ピピの写真をのせるようになってから 一年たつ。
「ドコノコ」は、うちのコもよそのコも、どのコも気にかけて
すべての動物がしあわせに、というイマジンみたいなアプリで、
写真をアップすると、ピピを気にしてくれるひとたちから
「いいね!」がすぐにおくられてくる。

3年前にピピが口内炎になったときは、
いっしょにすごせるのは、もうながくないと覚悟したのに、
それからもピピはしぶとく生きつづけた。
一年まえにアップした写真をみると、
いまよりも毛づやがよく、あんがいげんきそうだ。
一年後のいま、ずいぶんやせたし、
毛の色がトラネコみたいに茶色になっている。
トイレシートのうえでおしっこをし、そのままねてしまうので、
毛におしっこがしみついてしまった。
タオルでふいたり、シャンプーすればいいけど、
ほったらかしたままがおおいので、
いまでは あらっても茶色のままだ。

ときどきごはんをたべなくなり、
いよいよおわかれかと、しんみりした気分でいると、
「な〜んちゃって」といってるかのように、
ピピはふたたびげんきをとりもどしてきた。
むこうの世界へ、しばらくいくつもりはなさそうなので、
ながいきしてね、のメッセージをこめ、
ピピがすきなモンプチを72個×2箱注文した。
ピピ2.jpg
このごろは、わたしがねる時間になると
ピピもベッドにきて わたしのうえによじのぼってくる。
ピピの寝場所を気にしながらの睡眠となり、
きゅうくつな姿勢のせいか、首と肩がいたくなった。
1ヶ月たってもなおらないので、きょうは整体の治療院へいっている。
ピピとしては、いちにちのほとんどをねてすごしているだけでも、
いっしょにくらすわたしたちにとって、存在感はかわらない。
ピピの終活につきそっているつもりだったけど、
もうしばらくは、お世話をさせてもらえそうだ。
わたしのからだにしがみつき、ノドをならしてくれるピピ。
どのネコも、ピピのようにあまえてくれるわけではない。
ピピとすごせて わたしは幸運だった。

ほぼ日のトップページに、まえはブイヨンの写真がのっていたけど、
いまは「ドコノコカメら」として、
ひがわりでネコや犬の写真がのるようになった。
被写体として、ネコはしばしば味のある表情をみせる。
どのネコもすごくかわいい。
世界じゅうのネコたちが しあわせでありますように。

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2017年05月25日

現金おことわりの社会へ

きのうの朝日新聞に、「キャッシュレス」という記事がのった。
たとえばスウェーデンでは、
「現金おことわり」のお店がすくなくないという。
おみやげなどの一部の店にかぎったはなしではなく、
パン屋さんなどの小売店でさえカードばらいなのだそうだ。
日本はまだなにか かうときに、
現金をだしても ことわられたりしないけど、
スーパーでカードをだすひとは すでにあたりまえの存在だ。
現金をもちあるかなければ、
おとしたり、とられたりして なくすことがないし、
うけとる側も、おつりを用意しなくてもすむ。
現金でないほうが、ずっとスムーズに商売できるのだそうだ。

すこしまえのブログに、お金が いかに便利かをかいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/436579164.html?1495714947
お金があれば、なんとでも交換してくれるのは、
かんがえてみると ものすごくありがたい。
10キロのお米を手にいれるのに、3000円ほどしはらえば
なんとかかいものができる。
お金がなかったら、お米10キロ分の労働をしたり、
それにかわるものをさしださなければならない。
1万円は、だれにとっても1万円で、日本だけでなく、
外国へもっていっても その価値は一定だ。

お金とともに、サイフの便利さにも そのときに気づいた。
ズボンのポケットに、現金をむきだしでいれると おさまりがわるい。
お札をクリップでとめて上着の内ポケットにいれるのも、
かっこいいけど、小銭のあつかいにこまる。
サイフはお金のいれ場所として特化したものなので、
つかってみるとわかるけど、ものすごく便利だ。
サイフのつかいがってのよさに おどろいていたけれど、
現金をもちはこばなくていいのなら、
そもそもサイフはいらない。

お金の便利さを、いまさらながらかんじていたので、
きのうの記事にはおどろいた。
もうしばらくすると、お金はすべて概念としてのみ存在し、
だれもみたことがない社会になるのかもしれない。
すくなくとも、だんだんと なくなる方向にうごきそうだ。

旅行するとき、むかしは飛行機のチケットをなくさないように
気をくばったものだけど、
eチケットになってから、パスポートさえもっていたら
チェックインできるようになり、
チケットの心配をしなくてもいいぶん すごく気がらくになった。
このごろは、電車にのるときスイカだかイコカだかのカードや、
携帯で改札をとおれるそうで、
わざわざカードをかうなんてめんどくさいと
ふるいタイプの人間であるわたしは おもっていた。
でも、いちいち切符売場にならばなくてもすむので
なれたらきっと便利なのだろう。
コンビニでかいものをするとき「カードは?」と
かならずたずねられるのを、わずらわしくおもっていたけど、
これにしても カードやスマホでかえたほうが 便利にきまっている。

お金がなくなると、数字をあつかうのは あたまのなかだけになる。
数字をどうやって子どもたちにおしえるのだろう。
算数の宿題で、くだものをかう問題をつくるときは、
なかなかリアルなはなしにもっていけないのではないか。
わたしはビットコインのことが、ぜんぜん理解できないけれど、
しくみがわからなくても、つかえればいいわけで、
現金がなくなっても あんがいこまらないような気がしてきた。
よろこぶのは「おれおれサギ」のひとたちで、
わたしなんかは、あっという間に被害にあって、
スッカラカンになるのでは。
とおもったら、ATMもなくなるそうだから、
サギたちは、あたらしいやり方を研究ちゅうだろう。
お金は概念としてだけの存在となる。
だれもお金をみたことのない社会。
わたしの想像力ではついていけない。

posted by カルピス at 21:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月24日

「おしっこでぬれた新聞はよめない」さいきんメモした3つの発見

完璧な夜のはずだった。
いつもよりはやめにすべての雑用がかたづく。
寝酒といっしょにたのしめるよう、
新聞の連載小説『ディス・イズ・ザ・デイ』
(津村記久子)がのったページをマクラもとにおいてから、
台所で しっかりひやしたウォッカのソーダわりをつくる。
ベッドへもどるわずかないあだいに、
ピピが、新聞のきりぬきのうえで おしっこをしていた。
おしっこがベッドにしみこまないよう、手ばやく新聞紙をかたづける。
さいわい、ふとんに被害はない。
それだけ新聞紙がたくさんのおしっこをすっていた。
きょうの新発見は、
「おしっこで新聞がぬれると、まったく文字がよめなくなる」。
目のまえまで しあわせをたぐりよせていたのに、
ピピのおしっこは、おもいもよらない方向からの
どうしようもない妨害だった。
ピピをおこるわけにいかないし、かたづけるあいだに酒はぬるくなる。
わたしの完璧だったはずの夜は、あっという間にとおざかっていった。

ラジオ番組「クラシックカフェ」で
ベートーベンの交響曲7番を紹介していた。
ナポレオンひきいるフランス軍がウィーンにせめてきたため、
ベートーベンを支援していた貴族たちは国外へにげだした。
財政基盤をうしなったベートーベンは、
余裕がなくなり、作曲にうちこめない時期をすごす。
戦争がおわり、ふたたび年金をうけられるようになると、
ベートーベンは気もちをとりなおし、
3年がかりで交響曲7番をつくりあげたのだという。
ベートーベンほどのひとでも、
お金の心配をしながらでは、作曲にうちこめなかったというのが、
なんだかチープさがただよってきて 自分の仲間のようにおもえてくる。
お金やナポレオンなんかに左右されず、
ただわが道をつきすすんで作曲にうちこむひとよりも、
お金の心配や戦争の不安に
くよくよするベートーベンのほうがすきだ。
ケチくさいかんがえが頭にうかんだとき、
みえをはったりせず、すなおにベートーベンをみならって、
等身大な判断に身をまかせよう。
あんがい気のちいさなベートーベンによって
交響曲7番が無事に完成し、壮大なメロディーは
世界じゅうのひとからたかく評価された。
めでたしめでたし。

映画『マイガール』をみていたら、
したしくなりはじめた男女のカップルが、
うちあげられた花火を いっしょにながめていた。
そのときの会話で、
「庭でみてもいい?」
「もちろん!」

がいいかんじだ。
こたえが「イエス」にきまっていることを
あえてたずねるのは、恋愛関係において
重要なテクニックではないか。
はたからみれば「勝手にやってろ!」みたいな
ふやけたやりとりかもしれないけど、
当事者のふたりにとっては、相手にあまえ、
そのあまえをうけいれと、
あたりまえの提案をめぐっていいことずくめだ。
機会をとらえて わたしもためしてみたい。

posted by カルピス at 21:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月23日

『本の雑誌 6月号』での「山の本ベスト30」

『本の雑誌 6月号』は山の本を特集しており、
「山の本ベスト30」がえらばれている。
3人による座談会で、それぞれが5冊ずつ推薦するほかに、
3人が合意する15冊をはなしあう。それで合計30冊。
ひろく・ふかく目をくばられるので、
ベスト30をえらぶのに いいやり方だ。
山についての本にくわしくないわたしには
おすすめ本として ありがたいリストになっている。
この30作をおさえれば、日本と世界における、
それぞれの「山」がつかめるのではないか。

わたしとしては、本多勝一さんの『山を考える』をいれてほしかった。
この本におさめられている「パイオニア=ワークとはなにか」は、
なぜ山をのぼるかについて、ひとつのこたえとなっている。
山であれば なんでもいいわけではなく、
世界でいちばんたかく、だれものぼってないからこそ とうとい。
ヘリコプターをつかってでも山頂をめざせ。
酸素ボンベだろうがなんだろうが、
役にたつならなんでもつかえ、に
わかいころのわたしはしびれた。
「パイオニア=ワークとはなにか」が議論された1955年当時、
世界最高峰のチョモランマは
すでにイギリス隊によってのぼられていた。
そんな状況だからこそ「パイオニア=ワークとはなにか」を
論理的におさえる必要があった。
最高の目標が制覇されたあとで、登山家たちは
いったいなにをめざせばいいのか。

「山の本ベスト30」には、
純粋な登山をあつかった小説だけではなく、
旅行記や探検記もランクインしているので、
冒険論である『山を考える』がはいってもおかしくない。
おかしくはないけど、探検や冒険のベスト30は、
別の企画としてとりくんだほうが
それぞれがめざす目標を、よりはっきりさせられる。
「山の本ベスト30」に『山を考える』が顔をださなかったことで、
探検や冒険のベスト30企画が必要におもえてきた。

探検・冒険、それに旅行は、
どれもがおおきなかたまりを形づくっている。
そのなかでさらに海もの・山もの・空ものと
いくつかのジャンルにわかれているので、
全体をとらえるのはかなりむつかしそうだ。
ベスト30などのこころみは、ひとつのあそびとはいえ、
やるからには全力をかたむけて状況を整理してほしい。
冒険と探検を対象にした それぞれのベスト30を たのしみにしている。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

ながいきするために生きているわけではない、が基本方針

鍼灸の先生がかいた健康法の本に、
ながいきするために生きているわけではないので、
みたいなことがかいてあった。
そのさきがどうつづくのか、正確にはおぼえていないけど、
たしか、たまには夜ふかししたり、
おそい時間に夕ごはんをたべる日があっても大丈夫と、
自分をゆるす例があげられていたとおもう。
なにごとも 原則は大切だけど、
あまり厳密にかんがえすぎると たのしくないですよ、というたとえだ。

「ながいきするために生きているわけではない」を、
なにかにつけてわたしはいいわけにつかい、
余計な寝酒のおかわりや、夜おそくまでの読書を ときどきたのしむ。
寝酒のほうは、ときどきよりも「しばしば」が適切なほど、
便利につかわせてもらっている。
つぎの日につらいおもいをするのがわかっていながら、
そのときのここちよさにまけるのは、
ただアルコールに脳が支配されているだけかもしれないけど、
おおげさにいえば、生きているよろこびをかみしめるひとときだ。
この一杯を我慢したり、ときどきの夜ふかしをやめれば、
すこしはながいきできるかもしれないけど、
そうまでして生きたところで なんの人生かとおもう。

「ながいきするために生きて」いるのでなければ、
わたしはなにを目的に生きているのか。
そこらへんはあまり深刻にかんがえず、
頭とからだがここちよければ それでよしとする。
もちろん ながいきはしたいけれど、
そのためにいろいろしばられるのは かなわない。
それに、ハメをはずすのは、ほんのときたまであり、
基本的にわたしの生活は、きわめて禁欲的だ。
これぐらいつつましく くらしながら、
ながいきできなかったとしても、
それはそれでしかたがないとわりきれる。

人生の目的については、梅棹忠夫さんの
『わたしの人生論』でしっかりまなばせてもらったので、
基本方針はさだまっている。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/394704571.html
人生の目的は、あったほうが生きやすいかもしれないけど、
なくてもどうということはない。
地球規模でとらえた場合、
目的がないほうがうまくいくかもしれない。
ながいきは、人生の目的に なりえない。

posted by カルピス at 21:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月21日

30分以内の昼寝は ほんとうに効果的か

昼寝の効果がよくかたられるけど、
たいていの場合、30分以内できりあげるよう、条件がつく。
それよりながくねると、
午後の仕事や夜の睡眠にわるい影響をあたえるそうだ。
そんなことしったことかと、
わたしはやすみの日にいつもたっぷりと昼寝をしている。
1時間から1時間半くらい。
せっかくのひるねを30分できりあげるなんて
いかにも効率のために生きてるみたいでかなしい。
やすみの日ぐらい、目ざまし時計の音はききたくないし。

1時間半ねると、目がさめたときは
ボーっとして、なにがなんやらわからない。
しばらくベッドに横になったまま、
よみかけの本を手にとってながめる。
この時間がまたわたしはすきで、
本をめくっているうちに だんだんと意識がもどり、
そろそろおきるか、という気になる。

午後は、一杯の紅茶からはじめることがおおい。
そんなことをしていると、午後はすぐに夕方となり、
いちにちがあっという間におわってしまう。
なにしろ、半日しかうごいていないのだから あたりまえだ。
でも、昼寝とはそういうものだとおもっていた。
スペインのシエスタだって、たった30分ではないはずだ。
まえにスペインを旅行したとき、おおくのお店が
夕方まで営業をやすむので、かなり不便だった。
旅行者としてはありがたくない習慣だけど、
自分が昼寝する側となれば、はなしはべつだ。

なんとなく、たまにはちがう昼寝をしてみようと、
きのうは30分のアラームをセットした。
ひかえめな音なので、目ざまし時計のベルほどいやらしくない。
すぐねむれるのはいつものことだけど、目ざめがちがった。
アラームの音で目がさめると、すぐにベッドからおりる。
ながくねたときのような、べつの世界からもどったかんじはない。
シエスタというよりも、うたた寝なのだろう。

その日の午後は、やっておきたい用事がいくつもあった。
いつものみじかい午後では、とても無理だったのに、
昼寝に30分しか かかっていないぶん、時間に余裕がある。
ころもがえやら田んぼの水管理、それに大豆の種まきなど、
リストにあげていた用事をぜんぶかたづける。
すべてがスムーズにすすんだせいか、夜もゆったりとすごせ、
ついお酒をのみすぎたけど、昼寝のせいにはできないだろう。
とはいえ、きゅうに30分の昼寝をみとめるのは残念なので、
ながい目でみた場合、あんがい効果はトントンかもしれないと、
元シエスタ推進派としてかいておく。
からだによすぎて、トータルでは負担になる、という意味だ。
まけおしみだけど。

posted by カルピス at 20:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月20日

北上次郎さんの海外ミステリー書評集がとどく

先日のブログにもかいたように、
http://parupisupipi.seesaa.net/article/449916738.html
北上次郎さんの3部作を注文し、
きょうそれがそろった。
ミステリー三部作.jpg
『冒険小説の時代』
『ベストミステリー10年』
『極私的ミステリー年代記』(上下巻)

「小説推理」に連載されているミステリーの書評をまとめたもので、
3部作で35年間がカバーされている。

北上次郎さんの『勝手に!文庫解説』をよんだら、
そこに紹介されている海外ミステリーが
どれもすごくおもしろそうだった。
ちかい将来ぜんぶ目をとおそうときめる。
北上次郎さんの書評は、これまで対談形式のものをよんでおり、
1冊の本については それほどふれられていない。
『勝手に!文庫解説』のように、じっくりとかたった書評を
もっとよみたくなった。

この本でとりあげられている16冊と、
その作家がかいたほかの作品もあわせると、
数十冊のおもしろ本を確保できた。
『勝手に!文庫解説』だけでこんなぐあいなのだから、
ほかの書評集も参考にすれば、
そうとうな数の必読ミステリーをリストアップできる。
それはすなわち わたしの老後をかがやかせてくれる
宝箱とのであいにひとしい。
きょうそろった三部作は、わたしの老後の質をきめかねない
あるいは終活をおおきく左右する、たいせつなガイドブックだ。

4冊とも中古品を注文したので、クロネコヤマトの方を
なんどもわずらわせてしまった。
配達だけでなく、集配所もふくめると、
どれだけたくさんの方にお世話になったことか。
宅配便にあまえすぎてきた反省をしていたのに、
ダメおしのように、4ども配達してもらい、
ありがたいけど もうしわけなかった。
人生のおわりをかがやかせるためだからと、
自分でいいわけをする。

1978〜1983年の作品をとりあげている『冒険小説の時代』は、
さすがにずいぶんとふるめかしい。
二段組で、ちいさな文字がぎっしりうまっている。
ふだんつかっているのより、もっとこまかい文字用の
リーディンググラスでなければ わたしにはよめない。
三部作は、うしろのほうに、著者名の索引と、
作品名の索引がのっているけれど
(『極私的ミステリー年代記』は著者名索引だけ)、
著者と作品をあわせた索引はないので、
データーベースをととのえようとはりきっている。
三段階評価もつけて、のこりの時間を計算しつつ
おもしろ本の森にふみこみたい。
海外ミステリーだけにかぎっても、
じゅうぶんわたしの人生はみたされそうだけど、
おもしろさが保障された日本の小説が、さらに山のようにある。
映画だって まだみてない名作・話題作がべつの山脈をつくっている。
ながいきしたくなってきた。

posted by カルピス at 20:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月19日

「困っている人と動物がいたら、学校や仕事に遅れてもいいから助けなさい」といったベッキーのおとうさん

けさの朝日新聞に、ベッキーさんが父親についてかたる
「おやじのせなか」がのった。
イギリス人であるお父さんは、
困っている人と動物がいたら、学校や仕事に遅れてもいいから助けなさい

とベッキーさんにおしえてくれたそうだ。
こういう具体的なことばは、
行動規範として 子どもの胸にふかくきざみこまれるだろう。
ただ「たすけなさい」よりも、
「学校や仕事に遅れてもいいから」がつくと、
とっさの判断をたすけてくれる。

こまっているひとは、どんな事情があるかわからないので
(かかわらないほうがいい場合もある)、
わたしはあまりたすけたくないけど、
こまっている動物は、100%こまっているのだから
たすけたほうがいい。たすけなければならない。
子どもだと、どうしたらいいかまようだろうから、
お父さんが まえもってちゃんとおしえてくれていたら
ためらわなくてもすむ。
おおくの子どもたちは、自分としてはたすけたくても、
親が反対するから こまっている動物を 家につれてかえれない。
ベッキーさんの家のように、親が「助けなさい」
といってくれるところはすくないだろう。

わたしも、基本的にはこまっているネコがいたらたすけるほうだけど、
ときどきためらうし、自分のつごうしだいでは、
ネコでさえほっておくこともある。
むすこが小学生のときに、公園でみかけたネコを
家でかっていいかどうかきいてきた。
もう子ネコではなく、そんなにこまってそうでなかったから、
わたしは一家のあるじとして、もっともらしい顔をしながら
「だめ!」といってしまったダメおやじだ。

ネコならたすけやすくても、もしタヌキがこまっていたら
わたしはなにをするだろう。
何年かまえに、獣医さんで順番をまっていたら、
看護婦さんが タヌキをはこびこんできた。
通勤のとちゅうで、そのタヌキがたおれていたのだそうだ。
先生は、こまったなー、といいながらも なんだかうれしそうで、
この病院のスタッフは、ほんとうに動物がすきなんだなー、と
みていたわたしは ますますその病院を信頼するようになった。

やさしいひとになりなさい、とか、
ひとに親切にしなさい、よりも、
「困っている動物がいたら助けなさい」
のほうが よい教育となる。
親だって、いったからには 自分でも実践しなければ
子どもへのしめしがつかない。
わたしも こんなセリフのいえる、かっこいい父親でありたかった。

posted by カルピス at 21:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月18日

ランドナーにのったおじさん旅行者をみかける

車で国道をはしっていたら、
ふるいタイプの自転車にのったおじさんをみかけた。
旅行用の自転車として、いぜんは一般的だったランドナーだ。
ドロップハンドルで、みかけはロードレーサーみたいだけど、
タイヤはふとく ちいさい。ママチャリサイズだ。
泥よけがついていて、スピードをたのしむ自転車ではなく、
ゆっくり旅行するための機能が重視されている。
カバンはフロントバックをつけているだけだから、
近場の旅行かもしれないし、
宿泊施設をつかい、なんにちもかけて
はしっているのかもしれない。
タオルを頭にまき、規則ただしく足をうごかしているようすは、
いかにも年季のはいったベテランライダーだ。

わたしは、一條裕子さんの『自転車キャンピング』をよんで、
自転車をつかっての旅行が 自分にむいているとさとった。
自転車をこげばおなかがすくので、
土地の名物料理をたくさんたべられる。
自転車で移動するのだから、
バスや電車の時間や予約に気をつかわなくてもいい。
一條さんは、国内での自転車旅行や野宿をかさねたのち、
カナダのバンクーバーからアラスカまでの自転車旅行にでかけている。
一條さんの旅行スタイルや自転車とのむきあい方は、
肩のちからがぬけており、わたしにむいていそうだ。
優先順位をはっきりさせて、きめた目標にむかい
できるだけの労力をかたむけるところがかっこいい。

わたしは、彼女をみならって外国にでかけようと
いきさきをタイとマレーシアにきめた。
旅行の相棒として ランドナータイプの自転車を8万円でかい、
タイ南部のハジャイから マレーシアをめざしてスタートした。
でも、根性のないわたしは、道路をゆく車のおおさにくじけ、
ほんのなんにちか自転車をこいだだけで、
あとはバスをつかう ふつうの旅行にきりかえている。
自転車は、景色のいいところをはしるとたのしいけど、
そうでない場所では ガッツがなければつづけてはしれない。

あのランドナーのおじさんは、どこへむかっていたのだろう。
わたしはすぐにわが道をゆくひとが うらやましくなる。
わたしもあのひとみたいに、
淡々と足をうごかしつづけ、しらない土地をはしりたくなった。
そして、自転車と食欲をくみあわせようとした
旅行のスタートをおもいだす。
中高年となったいま、もういちど
ホームポジションにもどるときではないか。
リゾート滞在型にうつつをぬかそうとしていたけど、
自転車旅行の再チャレンジこそが いまのわたしにふさわしい。
目標にしているサンチャゴ=デ=コンポステラへの巡礼は、
自転車旅行をやりとげたさきにみえてくるだろう。

posted by カルピス at 21:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月17日

新人職員の「だれよりもネコずき宣言」に感心する

4月から おなじ事業所ではたらいている20代の男性が、
ネコをかいたいという。
ネコアレルギーだけど、ネコをかいたいという。
新人職員なので、わたしは彼のことをほとんどなにもしらない。
ネコアレルギーなのに、かっても大丈夫ですか、ときくと、
子どものころは、家でネコと犬をかっていたのだそうだ。
おとなになってから、ネコアレルギーの症状がでたらしい。

あろうことか、
「ぼくは、ネコをかってないけど、
 ネコをかっているひとより
 ネコずきの自信があります」なんていう。
子どものころの体験から、そんなふうにおもってるのだろうけど、
ほかのひとがどれだけネコをかわいがっているか わからないのに、
自分のほうがもっとネコがずき、ときめつけるのはへんなはなしだ。
まったく根拠のない自信であり、反論するのもバカバカしいけど、
こういうのは、わかいころしかいえないかもしれない。

彼の発言にわたしがひっかかったのは、
じつは わたしも、自分こそだれよりもネコずきとおもっている
おろかものだからだ。
むすこがまだ保育園にかよっていたころ、
家のネコたちが自分のほうにこないと むすこは不満そうだった。
配偶者はすぐに、そんなことないでしょ、
だっこさせてくれるし、となぐさめたけど、
むすこが「父ちゃんのほうばっかりにいく」というと、
「あ、父ちゃんとくらべてか、それは無理ムリ」と
きゅうにむすこをなぐさめる配偶者のトーンがさがった。
配偶者は、けしてわたしをほめようとしたのではなく、
むしろ あきらめ、もしくはさみしさにちかいつぶやきだった。
これまでに配偶者がくちにした どんなことばよりも
わたしにたいする評価が率直にあらわれており、
いわれたわたしは しみじみといい気分になった。

もういちど
「ネコをかってないけど、
 ネコをかっているひとよりネコずき」
とおもいこんでいる新人職員にはなしをもどす。

わたしはサッカーをしたことがないけど、
サッカーをするひとよりじょうずな自信があります、
なんていうと、ぜんぜん通用しないけど、
どれだけすきかは、目にみえないので、どうとでもいえる。
もし彼が女性にたいして、「だれよりもあなたがすき」と
正面きって堂々といえば、かなり説得力がありそうだ。
このひとぐらい かんたんに「すき」という場合、
たいていはただのおもいこみなわけで、
いわれた女性はじきにがっかりしそうだけど。

それでも、いわれたひとからすると、 わるい気はしないだろう。
根拠のない自信は、最強のくどき文句をうみだしかねない。
わたしにはとてもいえないセリフだ。
本気でいっているのだから、
いわれたほうもいきおいにのまれてしまう。
年をとり、いろいろわかってくると、
こんなふうにストレートな表現はできないけど、
わかいころは これぐらいのかんちがいが必要かもしれないと
だれよりもネコずき宣言に感心してしまった。

posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月16日

とにかく空白の日がない(だけの)ブログ

倉下忠憲さんがブログにかかれていた
「目標が機能不全を起こす」にはげしく共感する。
あまりにもカッチリした目標をたてると、
すこしずれただけで 目標をなげだしたくなる、というはなしだ。
(「4/5の悪評な目標」http://rashita.net/blog/?p=22048
ラフな記事を一切認めない目標を立ててしまうと、忙しくなったらまず間違いなく何も書けなくなってしまう。そして、その時点で目標が機能不全を起こすのだ。

そういってもらうと、わたしはすごく気が楽になる。
こんな記事をかいてなんになる、
とおもう日が わたしはよくあるけど、
そのたびになげだしていたら、とても毎日の更新なんてできない。
はじめは3割くらい まともな記事があれば
りっぱな打率だと いいわけし、
そのあとはイチロー選手でさえ1割代のこともある、と
自分をなぐさめるようになった。
ブログでいうと、糸井重里さんがほぼ日にかいている
「今日のダーリン」だって、ときにははずれの記事がある。
そんな日は、がっかりするよりも、
糸井さんでさえ こうなのだと、うれしくなったりする。
毎日更新というおおきな目標のまえでは、
「できればすぐれた記事を」の優先順位は、すこしさがる。
内容だけでなく、つづけた事実が大切なのだと
うんとひらきなおる日もある。

わたしが中学生のとき、家でとりくむ勉強について
夏やすみまえに計画をたてさせられた。
計画をたてる段階では、毎日1時間の勉強なんて
かんたんに実行できそうな気がするのに、
いざ夏やすみがはじまると、ぜんぜんうまくいかないのは
おおくのひとが体験ずみだろう。

わたしの担任は、家での勉強につかう1冊のノートを用意して、
すべての教科をそのノートにかくやり方をおしえてくれた。
とにかく空白のページをつくらない、
というのが、このとりくみのキモだ。
勉強をしなかった日を 白紙としてのこすと、
がっかりきて そのさきをつづける気をうしなってしまう。
なにもやる気がおきないときは、
ただ教科書を丸うつしするだけでいいから、
白いページを文字でうめ、実績につなげていく。
ためしにわたしもそうやってノートをつかってみた。
しばらくつづけると、文字でうまったページがふえ、
いかにも勤勉に自習したような気がしてくる。
時間がないときや、めんどくさいときは、教科書をそのままうつし、
とにかく毎日なにかを「やった」実績とする。
夏やすみがおわるころには、
文字がびっしりならんだノートができあがり、
かなりの達成感をあじわえた。
内容はともかくとして、毎日つづけられたのは自信にもなった。

中学生の自習用ノートみたいなブログかもしれないけど、
10年の目標まで、なげださずに このままつづけたい。

posted by カルピス at 21:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月15日

北上次郎さんのミステリー時評3部作を注文する

「本の雑誌」に「図書カード3万円使い放題!」という企画がある。
作家を本屋さんにつれていって 3万円分の図書カードをわたし、
ほしい本をかってもらう。
かいものにあたり、どんな方針で本屋さんにたち、
なぜその本をえらんだのかを かいてもらう企画だ。
うれてる作家でも、3万円の図書カードはうれしそうで、
たいていのひとが この企画をもってこられると
冷静さをわすれ まいあがった姿をみせる。

わたしに3万円分の図書カードをくれるひとはいないけれど、
自分でかってに3万円分のかいものはできる。
そうおもいつつ、なかなか実行できないからこそ、
この企画がよろこばれるのだろう。
プレゼントされた図書カードは、
本ずきにとって 格別なよろこびとなる。

デイリーポータルZにも「勝手に食べ放題」という企画があった。
お店が企画するたべ放題でなくても、
おなかいっぱいになるまで「勝手に」注文すればいいのだから、
ほんのすこし日常から足をふみだすだけで
わりとかんたんに実行できる。
ただ、そうやって「食べ放題」しても、
おなかがいっぱいにはなるものの、精神的な充実感はとぼしいようで、
おなじ「勝手に」やるのなら、
わたしも「図書カード3万円」のほうをえらびたい。

北上次郎さんの著書に『勝手に!文庫解説』がある。
文字どおり、依頼されてもいない原稿を
自分から勝手にかいた解説をあつめた本だ。
たのまれもしないのに解説をかきたくなるくらい、
その本について ひとこといいたいわけで、
どの解説もすごくおもしろい。
この本のなかで、北上さんは
ご自分でかかれた書評集についてふれている。
「小説推理」にかいているミステリー時評をまとめたもので、

『冒険小説の時代』(1978年〜1983年)
『ベストミステリー10年』(1984年〜1993年)
『極私的ミステリー年代記』(上下巻)(1993年〜2012年)

の3冊にわかれている。
この3冊をよめば、
「35年間の翻訳ミステリーの状況が、一応わかる仕組みになっている」
というからすごい。

翻訳ミステリー16冊にふれた『勝手に!文庫解説』だけでも
よみたい本がゾロゾロでてきたし、
その作家がかいたほかの作品もおさえようとすると、
16冊がさらに芋づる式でふえていく。
そのうえに、ミステリー時評3部作をくわえると、
わたしのしらないおもしろ本が、
いったい何冊になるのか見当もつかない。
わたしは、財宝のつまった宝箱にであったのかもしれない。

ブログだってほんとうは「勝手に」かいているわけで、
わたしもよんだ本をよくとりあげるけど、
ささやかな「感想」であり、「解説」とはまったくべつものだ。
北上次郎さんの『勝手に!文庫解説』は
正確な知識と ほうふな読書経験があって はじめてかけるもので、
その本がなぜおもしろいのかを
ご自分のこのみをからめて ふかくほりさげていく。
わたしは、こんな書評集がよみたかったのだ。
じゅうじつした老後の生活にむけ、
さっそくアマゾンで 3部作を注文した。

posted by カルピス at 22:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月14日

タイトル『勝手にふるえてろ』がうまい

ネットの記事や本のタイトルは、
目にしたひとが できるだけじっさいによんでくれるように、
気をひくタイトルがつけらえている。
さいきんだされた本のタイトルでは、
『君の膵臓をたべたい』(住野よる)が気になる。
でも、気になりながら、
よんでみようとまではおもわないのだから、
本のタイトルはむつかしい。
しらない作家の本は、よほど自分の関心と
かさなるタイトルでなければ
レジまでもっていく気にならない。
タイトルより、口こみをふくめた評判のほうが 背中をおしてくれる。
すこしまえの本では、綿矢りさ さんの
『勝手にふるえてろ』がすばらしい。
綿矢さんは、『蹴りたい背中』もいいタイトルで、
「ん?、なんだ なんだ?」とおもわせる。
どちらも、タイトルだけでなく、ないようもよかった。

「日本タイトルだけ大賞」というのがあるそうで、
『人間にとってスカイとは何か』が受賞したと、
なんねんかまえの新聞にのっていた。
こんなタイトルをつけられたら、
すぐにでも手にとりたくなる・・・
かというと あんがいそうでもなく、
わたしはまだよんでない。
いいタイトルをつけても うれゆきまで保障されるわけではない。
「タイトルだけ大賞」とは、うまい名前をつけたものだ。

もっとも、本は 小説かノンフェクションかで
タイトルのつけかたはかわってくる。
小説の場合、なんとなく気になる、
というところでとめておかないと、
タイトルでなかみまでほのめかすのは無理だ。
よんでほしいからと、あんまりちからがはいりすぎると
なんのことだかわけがわからないタイトルになってしまう。

ブログでは、記事の内容をあからさまにするタイトルがおおい。
わたしがすきな「デイリーポータルZ」でいうと、
・「ビールを見ないで注ぐとかっこいい」は本当か
・コーラが一番吹き出す都道府県調べ
・隠し味をばれるまで入れる
など、タイトルで だいたいなかみも予想できる。
できるけど、ぜひよんでみたくなるタイトルだ。
もっとも、「コーラが一番吹き出す都道府県調べ」が、
まさかほんとうにタイトルどおり
コーラをふきださせる実験とはおもわないだろう。
現実が想像をこえるのだから、
まさしくデイリーポータルZらしい記事だ。

本やブログががんばっているのに、
映画のタイトルはあんがいそっけない。
きいただけでは なんのヒントにもならないタイトルがおおい。
映画製作には、ものすごくお金がかかるだろうに、
なぜタイトルは あまり気をくばられないのか 不思議だ。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月13日

米づくりでは なぜ種まきではなく 苗をうえるのか

田んぼにいって草かりをする。
田んぼのなかではなく、まわりの草かりだ。
このまえ種もみいりの団子をまいてから10日たった。
そのあいだ、適度に雨がふり、気温もあがっている。
田んぼをみると、稲とおもわれる芽がでている。
ほんとに稲ならいいけど。

このまえ種もみいりの粘土団子をつくっているとき、
手つだってくれたひとにたずねられた。
「麦をつくるときは 畑にちょくせつ種をまくのに、
 なんで米はこんな団子をつくるの?」
そういえば なんでだろう。
種もみをそのまままくと 鳥や虫にたべられるといわれるので、
わたしは種のはいった粘土団子を田んぼにまいている。
わたしだけでなく、日本でおこなわれている直播栽培のほとんどは、
種もみをいったん団子状にしてから田んぼにまいている(はず)。
でも、麦は畑に種をまいてつくるのだから、
稲だっておなじやり方ができるのではないか。
鳥にたべられないためには、種をまいたあとで土をかければいい。
麦をつくるときのように。

アメリカでは、どうやってお米をつくっているのだろう。
ネットをみると、有名なカリフォルニア米は、
水をはった水田に、飛行機で種をまいている。
とくに土をまぶしたりはしないで、種もみをそのままばらまく。
アメリカは雨がすくないので、田んぼに水をはったまま
水田としてはたもたないだろうとおもってたけど、
種まきのときからずっと田んぼに水をはってそだてるのだという。
収穫は小麦とおなじように、
めちゃくちゃおおきな機械でかりとっていく。

日本では、大規模でしられる八郎潟でも
飛行機による種まきはせず、ほかの地域とおなじように
田うえによる米づくりだ。
アメリカのように、飛行機で種をまけば、
圧倒的にはやくすむけど、それだけ無駄もおおいはずだ。
よほど規模がおおきくないと、飛行機はつかえないかもしれない。

わたしがかりている田んぼは、7アール(20m×35m)しかない。
しかし、たった7アールでも、機械をつかわず
手で田うえをしようとすれば ものすごく時間がかかる。
種もみを直接まいたほうが、ずっと楽なのに、
米つくりというと、田うえとセットになっているのが
わたしには不思議でしょうがない。
それほど田うえは、安定した収量をえるのに、
てきしたやり方なのだろう。

苗をうえるより、種まきのほうが
原始的でかんたんそうにおもえるけど、
じっさいには苗をうえたほうが お米をつくりやすい。
稲作は、スタートしたときから苗うえとセットになっていた、
という説を本でよんだ。
おそらく、この説はただしい。
この本により、わたしのなかで 稲作の起源は すでに決着がつき、
照葉樹林文化や、縄文時代へのロマンはもうない。
いまわたしが直播栽培にこだわっているのは、
福岡正信さんがとなえられた自然農法を
自分でもためしてみたいからだ。
ひとが余計な手をださなくても、自然が稲をそだててくれるはずで、
わたしは できるだけしずかに 稲の成長をみまもりたい。

posted by カルピス at 22:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月12日

ニューオーリンズ旅行のみやげばなしをきく

アルバイトさきのハーブショップへ。
きょうは、苗をそだてている農場のほうにいった。
3棟あるビニールハウスのなかに、たくさんの苗がならんでいる。
でも、きょうかきたいのは ハーブのことではなく、
休憩時間での おしゃべりについて。

音楽ずきなスタッフから、
ニューオーリンズ旅行のみやげばなしをきけた。
いきさきのニューオーリンズは、
もちろんジャズ発祥の地としてえらんだのだ。
ジャズに関心のあるひとむけのツアーに参加して、
音楽にゆかりのある場所をいくつかたずねたらしい。
でも、町にそれらしい雰囲気はなかったそうで、
もっと英語がはなせて、ひとりであるけたら、
またちがった旅行になっただろうにと、すこし残念そうだ。

このひとは、70歳以上なのに、こまめに外国旅行へでかけている。
「まえにベネチアへもいったそうですね」と水をむけると、
「ありゃションベンしに ほんのちょっとよっただけだ」なんていう。
外国旅行というと、ちからがはいりやすいけど、
このひとみたいに 気らくなまわりかたなら
いろんな景色がみえそうだ。
「ションベンしに よっただけ」なんて、
わたしもかるく口にしたい。

ブルースとジャズはどっちがふるいのかと、
べつのスタッフがたずねると、
「そりゃもちろんブルース」という。
ブルースは、アフリカからつれてこられた黒人奴隷たちの
うらみつらみの音楽が原点らしい。
わたしは、ブルースとジャズとソウルのちがいがよくわからないけど、
映画の『ブルース・ブラザーズ』をみてからは、
ブルースとは、ブルース兄弟のような生きかたをさすのだと
自分なりに納得した。
『ブルース・ブラザーズ』のサントラ盤を、
このひとはどう評価するだろうか。
『ブルース・ブラザーズ』は、シカゴを舞台にした作品であり、
シカゴと合衆国南部は距離がはなれているけれど、
ブルースとしてのつながりはふかいらしい。
そんな情報をウィキペディアからえると、
ますますわかったような気になる。
そういえば、フレドリック=ブラウンが そのものずばり
『シカゴ・ブルース』というタイトルのミステリーをかいていた。

「オーティス=レディングはブルースですか?」
とわたしがたずねると、
おどろいてことにそのひとは、オーティスの名前をしらなかった。
じつは、ブルースとオーティスをくっつけるほうが無理なはなしで、
オーティスは、ブルースというより
ソウルミュージシャンにあたるらしい。
ブルースファンがオーティスをしらなくてもせめられない。
わかったような顔がしたくて、
わたしがしっている知識を総動員するものだから、
はなしがややこしくなる。

ニューオーリンズといえばナマズ料理だ。
背のびしないで 旅行ちゅうのたべものについてきくと、
はなしが正常にもどった。
でかい肉をたべているようで、あまりおいしくなかったそうだ。
無理して音楽の話題についていこうとするより、
身のほどをわきまえ、自分の関心ごとに話題をしぼったほうがいい。

posted by カルピス at 21:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする