しりあいのハーブショップで雑談していたら、
さいきん認知症の方に ビニールハウスの手つだいをしてもらっている、
といわれた。
おじさんにあたる方だそうで、
苗がたくさんはいっている箱をちがう場所へうつしたり、
ハウスまわりやポットの草とりをおねがいしているという。
草とりでは、ポットにはえた草を
ただぬいてください、とおねがいすると、
どのポットが草ぬきをおえたものかわからなくなり、
なかなか仕事がすすまなかったそうだ。
そんなとき、おわったら、ちがう場所へポットをうつす、
というルールをきめると、いっぺんでまちがいがなくなっている。
また、箱をうごかす仕事のむときは、
ハウスのむこう側にロープをはって、
このロープよりむこうへはこんでくださいと、
視覚的にわかりやすくすれば、
どこまではこべがいいのかを、
わすれずにとりくめるようになったという。
その認知症の方は、家にいるとふさぎこみがちだったけど、
ハウスではひとの役にたてるし、お金ももらえるので、
よろこんで仕事にこられるようになっている。
けしてむりにハウスですごしてもらっているのではなく、
店長さんにすれば、自分がやる仕事を
その方がやってくれるので、すごくたすかっているそうだ。
仕事のおわりをはっきりさせたり、
どこまで箱をもっていけばいいのかを、
みてわかるようにする工夫は、
ふだんわたしがしている障害者支援にも共通する。
はなしをきいていると、店長さんは
わたしよりもずっとじょうずに
認知症のかたのちからをひきだしている。
まったくの民間事業所であるハーブショップが
介護とか支援とかを意識しないで、
いかにも自然なかたちをとりながら、
認知症のかたの居場所となっている。
町づくりのすばらしい実践が、
おもいがけなく 身ぢかな場所でおこなわれていた。
認知症の方とすごすとき、
どうしてもできなくなったことに目がいきやすいけど、
店長さんのように、できることをみつけていけば
能力をいかせる仕事はきっとたくさんあるし、
そこではたらいてもらえば、おたがいがたすかる。
認知症の当事者や家族の方、
中途障害で 仕事をつづけられなくなった方など、
こうした関係を、おおくのひとがもとめているのではないか。
介護として、なにかをやってあげることばかりを意識するのではなく、
そのひとが得意な活動をみつけ、
どうしたら自分だけでとりくめるかを工夫すれば、
老人や障害をもったひとでも、もっと自然なかたちではたらける。
年をとれば、障害をもてば、
自動的に介護施設へまわされるのではなく、
できるだけそれまで自分がおくってきた生活をつづけながら、
はたらいて、まだひとの役にたてるのだという実感は、
施設にいるよりも ずっとまえむきな気もちをうみだすだろう。
ハーブショップの店長さんは、
社会のために役だとうとか、ボランティアになれば、なんて
まったくおもっていない。
ハウスでの仕事を手つだってもらうと、
ほんとうにたすかるから きてもらっている。
無理のない自然なかかわり方で、おたがいがいい気分ですごせる。
すばらしいとりくみに、すっかり感心した。
2017年06月30日
2017年06月29日
よんでないけど、すごくおもしろそうな『スーパーカブ』
『スーパーカブ』(トネ・コーケン 角川スニーカー文庫 )
朝日新聞の書評に『スーパーカブ』が紹介されていた。
前島賢氏による記事で、
女の子がホンダのオートバイ「スーパーカブ」にであい、
しだいに生きるちからを身につけるはなしだという。
両親をうしなった女子高校生が、
山奥でひとりぐらしをしている。
彼女がカブを1万円で手にいれたところからものがたりがはじまる。
・だんだんとカブになれ
・自分の生活にあわせてカスタマイズし
・メンテナンスの方法をまなび
・配達のアルバイトをはじめ
・おなじように カブにのる女性の友だちとであい
・彼女がカブで富士山にいどんだはなしに耳をかたむける
うまいところに目をつけたものだ。
カブを脇役に、女の子がだんだんと自立していくはなし。
アイデアをおもいついた時点で
おもしろさが半分ぐらい保証されたようなものだ。
男の子が主人公では、カブの個性がいかされないだろう。
非力で、だれにでもあつかえる、
スーパーカブだからこそ、女子高校生にぴったりだ。
すぐにでもよみたくなったけど、
よめばきっと実物のカブがほしくなる。
そうでなくても、町でみかけるカブについ目をやって
妄想をはじめるわたしなので、
よめばいっぺんに背中をおされて ポチッとしそうだ。
いろいろな種類のオートバイがあるなかで、
スーパーカブは 愛好家がおおく、
カブによる旅行や、カブのカスタマイズなど、
カブだけからなる独立したジャンルができあがっている。
世界的にみても、これだけ個性的で
おおくのひとから愛されるオートバイは、あまりないのでは。
わたしもまた、老後はカブとともにすごそうと
漠然とした夢をえがいており、
カブ旅行の記事をこのんでよんでいる。
とはいえ、ここはやはり女子高校生が主人公のほうがいい。
『セーラー服と機関銃』は、ヤクザの親分と女子高校生という、
ふつうならとおくはなれた ふたつをくっつけたから刺激的だった。
スーパーカブと女子高校生の関係は、
いわれてみればぴったりなのに、
これまでだれもおもいつかなかった。
アイデアの勝利だ。
よんでいないのに、あたまのなかで
おもいえがくだけでもたのしい。
はやくよみたいけど、よむとまちがいなく影響をうけそうでこわい。
朝日新聞の書評に『スーパーカブ』が紹介されていた。
前島賢氏による記事で、
女の子がホンダのオートバイ「スーパーカブ」にであい、
しだいに生きるちからを身につけるはなしだという。
両親をうしなった女子高校生が、
山奥でひとりぐらしをしている。
彼女がカブを1万円で手にいれたところからものがたりがはじまる。
・だんだんとカブになれ
・自分の生活にあわせてカスタマイズし
・メンテナンスの方法をまなび
・配達のアルバイトをはじめ
・おなじように カブにのる女性の友だちとであい
・彼女がカブで富士山にいどんだはなしに耳をかたむける
うまいところに目をつけたものだ。
カブを脇役に、女の子がだんだんと自立していくはなし。
アイデアをおもいついた時点で
おもしろさが半分ぐらい保証されたようなものだ。
男の子が主人公では、カブの個性がいかされないだろう。
非力で、だれにでもあつかえる、
スーパーカブだからこそ、女子高校生にぴったりだ。
すぐにでもよみたくなったけど、
よめばきっと実物のカブがほしくなる。
そうでなくても、町でみかけるカブについ目をやって
妄想をはじめるわたしなので、
よめばいっぺんに背中をおされて ポチッとしそうだ。
いろいろな種類のオートバイがあるなかで、
スーパーカブは 愛好家がおおく、
カブによる旅行や、カブのカスタマイズなど、
カブだけからなる独立したジャンルができあがっている。
世界的にみても、これだけ個性的で
おおくのひとから愛されるオートバイは、あまりないのでは。
わたしもまた、老後はカブとともにすごそうと
漠然とした夢をえがいており、
カブ旅行の記事をこのんでよんでいる。
とはいえ、ここはやはり女子高校生が主人公のほうがいい。
『セーラー服と機関銃』は、ヤクザの親分と女子高校生という、
ふつうならとおくはなれた ふたつをくっつけたから刺激的だった。
スーパーカブと女子高校生の関係は、
いわれてみればぴったりなのに、
これまでだれもおもいつかなかった。
アイデアの勝利だ。
よんでいないのに、あたまのなかで
おもいえがくだけでもたのしい。
はやくよみたいけど、よむとまちがいなく影響をうけそうでこわい。
2017年06月28日
神奈川県からの「上京」でも 感動できるわかれとなる
デイリーポータルZにのった
「でかい紙に応援メッセージを書いて見送られると感動する」
がよかった。
http://portal.nifty.com/kiji/170626199993_1.htm
江ノ島茂道氏による記事で、内容は、タイトルそのままだ。
ふつうなら、ちょっとしたおでかけ、というよりも、
通勤・通学として東京へむかっているだけなのに、
「わかれ」として のぼり線をとらえ、友だちもまきこんで
応援メッセージをかかげながら みおくってもらう。
たとえ神奈川県からの「上京」でも、
おおきな紙に応援メッセージをかいてもらうと
なんだか感動してしまうらしい。
これまで江ノ島氏のかく記事は、
胃袋にたよった ちからずくの企画がおおかったけど、
今回は文章もさえている。
応援メッセージをかく ふとくておもいロール紙を、
「バットにできそうなぐらい長いが、
振れないほど重いのでバットには向いてない」
といいあらわすあたり、
ロール紙の特質について、論理的に表現するちからを
江ノ島氏は身につけてきた。
さいしょの実験は、江ノ島氏がみおくられる側だ。
あるていど うちあわせをして、
何時何分発の電車の何両目にのっているかを
おくる側につたえる。
友人たちの応援メッセージを発見したとき、
と江ノ島氏はかんじたというから、そうとうな効果だ。
ドラマなどでよくみるホームのわかれは、たいていいなかの駅なので
乗客とみおくりとの距離がちかく、感動的な旅だちになりやすい。
しかし、都会の駅でおなじような「わかれ」を演出しようとすると、
線路のちかくにある公園などで横断幕をかかげることになり、
すこしぐらいおおきな字をかいたところで、
電車のなかからは識別するのは困難となる。
よくみえないにもかかわらず、「感動した」というのだから、
メッセージの内容よりも、自分が旅だつにあたり、
しりあいがかけつけてくれた事実そのものが
うれしいのだろう。
もうひとり、おくられた側の感想は、
というから、上京による旅だちは、江ノ島氏にかぎらず、
だれでもこころがひきしまる体験になりやすいようだ。
いっぽう、おくる側にたったひとに感想をたずねると、
というから、
ひとは けっこう、その場の雰囲気に 調子よく そまりがちだ。
よくかんがえてみると、これらの感動は、
企画当初にあった
「でかい紙に応援メッセージを書いて見送られると」
とは、ほとんど関係がない。
けっきょく、もともとの企画は本来の意味をうしない、
ただ「おおくのひとにみおくられると うれしい」
という事実だけが わかれの本質としてうかびあがる。
江ノ島氏のこんごの活躍に期待したい。
「でかい紙に応援メッセージを書いて見送られると感動する」
がよかった。
http://portal.nifty.com/kiji/170626199993_1.htm
江ノ島茂道氏による記事で、内容は、タイトルそのままだ。
ふつうなら、ちょっとしたおでかけ、というよりも、
通勤・通学として東京へむかっているだけなのに、
「わかれ」として のぼり線をとらえ、友だちもまきこんで
応援メッセージをかかげながら みおくってもらう。
たとえ神奈川県からの「上京」でも、
おおきな紙に応援メッセージをかいてもらうと
なんだか感動してしまうらしい。
これまで江ノ島氏のかく記事は、
胃袋にたよった ちからずくの企画がおおかったけど、
今回は文章もさえている。
応援メッセージをかく ふとくておもいロール紙を、
「バットにできそうなぐらい長いが、
振れないほど重いのでバットには向いてない」
といいあらわすあたり、
ロール紙の特質について、論理的に表現するちからを
江ノ島氏は身につけてきた。
さいしょの実験は、江ノ島氏がみおくられる側だ。
あるていど うちあわせをして、
何時何分発の電車の何両目にのっているかを
おくる側につたえる。
友人たちの応援メッセージを発見したとき、
受験をしたとき、自分の番号を見つけたときぐらいうれしい。
東京でも頑張ろうという気持ちになる。
と江ノ島氏はかんじたというから、そうとうな効果だ。
ドラマなどでよくみるホームのわかれは、たいていいなかの駅なので
乗客とみおくりとの距離がちかく、感動的な旅だちになりやすい。
しかし、都会の駅でおなじような「わかれ」を演出しようとすると、
線路のちかくにある公園などで横断幕をかかげることになり、
すこしぐらいおおきな字をかいたところで、
電車のなかからは識別するのは困難となる。
よくみえないにもかかわらず、「感動した」というのだから、
メッセージの内容よりも、自分が旅だつにあたり、
しりあいがかけつけてくれた事実そのものが
うれしいのだろう。
もうひとり、おくられた側の感想は、
窓から、たくさんの人が一生懸命手を振っているのが見えました。指笛みたいな音も聞こえました。僕なんかのために集まってくれたのかと思うと本当に嬉しかったです。こちらからも手を振り返したのですが、見えたのは一瞬で、ちゃんとこたえられたかは分かりませんでした。東京でもがんばろうと思いました。
というから、上京による旅だちは、江ノ島氏にかぎらず、
だれでもこころがひきしまる体験になりやすいようだ。
いっぽう、おくる側にたったひとに感想をたずねると、
「電車内からも手を振っているのが見えて、全然知らない人なのに(行っちゃうのか〜)という気持ちになって少し寂しくなった」
というから、
ひとは けっこう、その場の雰囲気に 調子よく そまりがちだ。
よくかんがえてみると、これらの感動は、
企画当初にあった
「でかい紙に応援メッセージを書いて見送られると」
とは、ほとんど関係がない。
けっきょく、もともとの企画は本来の意味をうしない、
ただ「おおくのひとにみおくられると うれしい」
という事実だけが わかれの本質としてうかびあがる。
江ノ島氏のこんごの活躍に期待したい。
2017年06月27日
津村記久子さんによるしあわせの定義
津村記久子さんが朝日新聞に連載しているコラムで
「幸せは固定された時間ではなくサイクルの中にあるのだ」
と喝破している。
この結論にたどりついたのは、
という、インターネットの記事をよんだのがきっかけとなっている。
いかにもわたしごのみのフレーズであり、
やっぱりそうかと、ふかく納得した。
津村さんは、「ダラダラ」でたちどまらないで、
さらに「ぼんやり」へとおもいをはせる。
だからこそ毎日の生活のなかに
おおくのひとがしあわせをかんじるのであり、
スペシャルなイベントよりも
平凡な日常こそがしあわせの本質といえる。
旅行にでかけ みしらぬ土地をあるいたり、
さわやかな風にふかれるここちよさは、
しあわせというよりも よろこびであり、
いっしょにしないで わけてかんがえたほうがよさそうだ。
しあわせは、くりかえし再生が可能という
津村さんの発見をわたしも支持したい。
そして津村さんは、
ぼんやりとしあわせとの関係も指摘している。
・ぼんやりしていると しあわせをかんじられる
・ぼんやりできるのは仕事をおえたとき
・しあわせになるには仕事をすること
「ぼんやり」にピッタリなのが、老人となったネコだ。
いっしょにくらしているネコのピピは、
いちにちのほとんどをねてすごしているけど、
夜になるとわたしがねているベッドまできて、
わたしのからだによじのぼり、ハナをこすりつけてくる。
わたしたちは じっと目をみつめあい、みじかいことばをかわす。
毎晩おなじ儀式が もうながいことつづいており、
その時間こそがわたしにとってのしあわせとなっている。
ピピとのくらしは「ぼんやり」だけで、仕事とは縁どおいけど、
しあわせの定義と矛盾しないと、強行突破をはかりたい。
仕事をおえなくても、わたしはピピのおかげでぼんやりできるから。
「幸せは固定された時間ではなくサイクルの中にあるのだ」
と喝破している。
この結論にたどりついたのは、
「あえてダラダラすること」があなたの毎日に健康と創造力をもたらす。
という、インターネットの記事をよんだのがきっかけとなっている。
いかにもわたしごのみのフレーズであり、
やっぱりそうかと、ふかく納得した。
津村さんは、「ダラダラ」でたちどまらないで、
さらに「ぼんやり」へとおもいをはせる。
5月のある夕方、仕事が終わってぼんやり過ごしていて、心底幸せだなと感じたことがあった。(中略)ただ坐っているだけで、なんとなく満足していた。自分はぼんやりする権利を守るために日々働いてるんだな、とその時におもったのだった。「仕事終わった!」っていう時が一番幸せ、とあるライターさんが言っていた。ということは幸せになるためには仕事をする過程がいるわけで、要するに、幸せは固定された時間ではなくサイクルの中にあるのだ。
だからこそ毎日の生活のなかに
おおくのひとがしあわせをかんじるのであり、
スペシャルなイベントよりも
平凡な日常こそがしあわせの本質といえる。
旅行にでかけ みしらぬ土地をあるいたり、
さわやかな風にふかれるここちよさは、
しあわせというよりも よろこびであり、
いっしょにしないで わけてかんがえたほうがよさそうだ。
しあわせは、くりかえし再生が可能という
津村さんの発見をわたしも支持したい。
そして津村さんは、
ぼんやりとしあわせとの関係も指摘している。
・ぼんやりしていると しあわせをかんじられる
・ぼんやりできるのは仕事をおえたとき
・しあわせになるには仕事をすること
「ぼんやり」にピッタリなのが、老人となったネコだ。
いっしょにくらしているネコのピピは、
いちにちのほとんどをねてすごしているけど、
夜になるとわたしがねているベッドまできて、
わたしのからだによじのぼり、ハナをこすりつけてくる。
わたしたちは じっと目をみつめあい、みじかいことばをかわす。
毎晩おなじ儀式が もうながいことつづいており、
その時間こそがわたしにとってのしあわせとなっている。
ピピとのくらしは「ぼんやり」だけで、仕事とは縁どおいけど、
しあわせの定義と矛盾しないと、強行突破をはかりたい。
仕事をおえなくても、わたしはピピのおかげでぼんやりできるから。
2017年06月26日
『偉大なるしゅららぼん』やめるにやめられず、あつかいにこまった本
『偉大なるしゅららぼん』(万城目学・集英社文庫)
582ページもある、けしてみじかくはない小説だ。
お風呂で半身浴しながら、すこしずつよみすすめた。
なげだすほどつまらなくはないが、
おもしろくてとまらない興奮はない。
やめるにやめられず、あつかいにこまっているうちによみおえる、
あまり経験のない読書となった。
さいごまでよませるのだから、文句なんていいたくないけれど、
もうすこしなんとかならなかったのか。
600ページちかくも必要だったとはおもえないし、
600ページをついやすのなら、もっと読者を
ものがたりの世界であそばせてほしかった。
万城目学さんのもち味である、ありえないちからのはなしで、
そのありえなさにリアリティがとぼしい。
不思議だけど なんだかありえそうと、おもわせてくれたら
スラスラよめただろうけど、
いくらなんでも これは大げさだろうと、
ひっかかりながらの読書は、ページがはかどらない。
ありえなさにリアリティをもたせるのが
小説家の生命線ではないだろうか。
むかし日本の各地にある湖には、
その湖とむすびついた特殊なちからが存在し、
ちからをうけつぐ一族(湖の民)が湖のまわりでくらしていた。
いまでは琵琶湖にしか そのちからがのこされていない。
一族は後継者をえらび、ある年齢にたっすると、
能力をたかめるための訓練をほどこしている。
こまかい設定はもっとたくさんあるけど、
こまかさがリアリティにつながらず、
めんどくさいだけの説明におわっている。
おわりまでよみとおせたのが不思議なくらいで、
それこそが湖の民のちからだったのかもしれない。
島根には宍道湖という
日本で7番目におおきな湖がある。
かつては宍道湖からちからをえていた民がいたと
本書でもちらっと名前があがっている。
もしかしたらわたしのまわりにも、
湖の民の末裔がいるのでは、と
すこしでもおもえれば たのしい読書だけど、
残念ながら宍道湖のそばにくらすわたしでも、
湖につたわるちからが唐突すぎて ついていけない。
おわりまでよませてくれたとはいえ、
せっかくの素材を料理しきれなかった印象がつよい。
『鴨川ホルモー』のありえないゲームをなつかしくおもいだす。
『偉大なるしゅららぼん』の半分ほどのながさしかない小説で、
じゅうぶん読者をしらない世界にひきずりこんでくれた。
あんな不思議な世界をかききった万城目氏なのに、
『偉大なるしゅららぼん』では 残念ながらうまくいかなかった。
582ページもある、けしてみじかくはない小説だ。
お風呂で半身浴しながら、すこしずつよみすすめた。
なげだすほどつまらなくはないが、
おもしろくてとまらない興奮はない。
やめるにやめられず、あつかいにこまっているうちによみおえる、
あまり経験のない読書となった。
さいごまでよませるのだから、文句なんていいたくないけれど、
もうすこしなんとかならなかったのか。
600ページちかくも必要だったとはおもえないし、
600ページをついやすのなら、もっと読者を
ものがたりの世界であそばせてほしかった。
万城目学さんのもち味である、ありえないちからのはなしで、
そのありえなさにリアリティがとぼしい。
不思議だけど なんだかありえそうと、おもわせてくれたら
スラスラよめただろうけど、
いくらなんでも これは大げさだろうと、
ひっかかりながらの読書は、ページがはかどらない。
ありえなさにリアリティをもたせるのが
小説家の生命線ではないだろうか。
むかし日本の各地にある湖には、
その湖とむすびついた特殊なちからが存在し、
ちからをうけつぐ一族(湖の民)が湖のまわりでくらしていた。
いまでは琵琶湖にしか そのちからがのこされていない。
一族は後継者をえらび、ある年齢にたっすると、
能力をたかめるための訓練をほどこしている。
こまかい設定はもっとたくさんあるけど、
こまかさがリアリティにつながらず、
めんどくさいだけの説明におわっている。
おわりまでよみとおせたのが不思議なくらいで、
それこそが湖の民のちからだったのかもしれない。
島根には宍道湖という
日本で7番目におおきな湖がある。
かつては宍道湖からちからをえていた民がいたと
本書でもちらっと名前があがっている。
もしかしたらわたしのまわりにも、
湖の民の末裔がいるのでは、と
すこしでもおもえれば たのしい読書だけど、
残念ながら宍道湖のそばにくらすわたしでも、
湖につたわるちからが唐突すぎて ついていけない。
おわりまでよませてくれたとはいえ、
せっかくの素材を料理しきれなかった印象がつよい。
『鴨川ホルモー』のありえないゲームをなつかしくおもいだす。
『偉大なるしゅららぼん』の半分ほどのながさしかない小説で、
じゅうぶん読者をしらない世界にひきずりこんでくれた。
あんな不思議な世界をかききった万城目氏なのに、
『偉大なるしゅららぼん』では 残念ながらうまくいかなかった。
2017年06月25日
『イージー・ライダー』1969年にアメリカ社会がかかえていた闇
『イージー・ライダー』
(デニス=ホッパー:監督・1969年・アメリカ)
ピーター=フォンダがとにかくかっこいい。
すらっと背がたかく、ときどきニコッとちいさくわらい、
フロントフォークがものすごくながいバイクがよくにあう。
あんなバイクにのって、仲間とふたり、ふらっと旅にでたら
どんなにたのしいだろう。
のどかな田舎道や、あらあらしい荒野を、
予定にしばられずに気ままにはしる。
夜はもちろん野宿だ。
わかいころみたら、いちころで影響をうけたのではないか。
旅のとちゅうでおとずれたヒッピーたちのコミューンが
とうじのアメリカのうごきをつたえている。
町をはなれ、自然のなかで自由にくらしていく。
くるものをこばまず、食事もふるまってくれた。
スカスカのやきいもみたいなのをたべていたけど、
あれはなんだったのだろう。
パンの失敗作か、あのコミューンの名物料理なのか。
ジャック=ニコルソンもよかった。
あのころからニコルソンはすでにニコルソンだったのだ。
弁護士として、ちゃんとはたらいていたら
体制側のメンバーとしてうけいれられたのに、
よそもののふたりぐみにくわわったために、
州の境で住民たちからリンチをうける。
自由の国だとおもっていたアメリカなのに、
じっさいは髪がながいだけでもゆるされなかった。
わかいころみたら、影響をうけただろう、とかいたけど、
じつはわかいころ わたしはこの作品をみている。
本多勝一さんが、アメリカ南部の差別について、
黒人でなくても よそものは異端者としてあつかわれると
なにかの本にかいていた。
白人であるピーター=フォンダとデニス=ホッパーが
なぜあんなふうにころされなければならなかったかは、
ふつうにあの作品をみていただけではわかりにくい。
とうじのアメリカ南部の社会は、たとえ白人であっても
異端者はころされても当然というあつかいをうける。
『イージー・ライダー』は、
差別と偏見を極端にえがいたのではなく、
当時のアメリカがかかえていた、現実そのものだった。
野宿だって、モーテルにことわられるから
野宿をせざるをえなかったのだし、
町ではいったカフェでは 客たちからひややかな視線をあび、
お店のひとは注文さえきこうとしない。
自由の国だとおもっていたアメリカが、
こんなに差別と偏見にみちた社会だったとは。
映画のなかでニコルソンが、
自由をおそれるから 自由にいきるものをおそれる、
と分析している。
自分たちとちがうものをうけいれない。
あたりまえのようにリンチにかけ 銃をはなつ。
ピーター=フォンダがかっこいい、
ジャック=ニコルソンがいい味だしていた、
なんて うかれてみられたのは さいしょだけだ。
ものがたりがすすむにつれ、現実のひどさに呆然となる。
(デニス=ホッパー:監督・1969年・アメリカ)
ピーター=フォンダがとにかくかっこいい。
すらっと背がたかく、ときどきニコッとちいさくわらい、
フロントフォークがものすごくながいバイクがよくにあう。
あんなバイクにのって、仲間とふたり、ふらっと旅にでたら
どんなにたのしいだろう。
のどかな田舎道や、あらあらしい荒野を、
予定にしばられずに気ままにはしる。
夜はもちろん野宿だ。
わかいころみたら、いちころで影響をうけたのではないか。
旅のとちゅうでおとずれたヒッピーたちのコミューンが
とうじのアメリカのうごきをつたえている。
町をはなれ、自然のなかで自由にくらしていく。
くるものをこばまず、食事もふるまってくれた。
スカスカのやきいもみたいなのをたべていたけど、
あれはなんだったのだろう。
パンの失敗作か、あのコミューンの名物料理なのか。
ジャック=ニコルソンもよかった。
あのころからニコルソンはすでにニコルソンだったのだ。
弁護士として、ちゃんとはたらいていたら
体制側のメンバーとしてうけいれられたのに、
よそもののふたりぐみにくわわったために、
州の境で住民たちからリンチをうける。
自由の国だとおもっていたアメリカなのに、
じっさいは髪がながいだけでもゆるされなかった。
わかいころみたら、影響をうけただろう、とかいたけど、
じつはわかいころ わたしはこの作品をみている。
本多勝一さんが、アメリカ南部の差別について、
黒人でなくても よそものは異端者としてあつかわれると
なにかの本にかいていた。
白人であるピーター=フォンダとデニス=ホッパーが
なぜあんなふうにころされなければならなかったかは、
ふつうにあの作品をみていただけではわかりにくい。
とうじのアメリカ南部の社会は、たとえ白人であっても
異端者はころされても当然というあつかいをうける。
『イージー・ライダー』は、
差別と偏見を極端にえがいたのではなく、
当時のアメリカがかかえていた、現実そのものだった。
野宿だって、モーテルにことわられるから
野宿をせざるをえなかったのだし、
町ではいったカフェでは 客たちからひややかな視線をあび、
お店のひとは注文さえきこうとしない。
自由の国だとおもっていたアメリカが、
こんなに差別と偏見にみちた社会だったとは。
映画のなかでニコルソンが、
自由をおそれるから 自由にいきるものをおそれる、
と分析している。
自分たちとちがうものをうけいれない。
あたりまえのようにリンチにかけ 銃をはなつ。
ピーター=フォンダがかっこいい、
ジャック=ニコルソンがいい味だしていた、
なんて うかれてみられたのは さいしょだけだ。
ものがたりがすすむにつれ、現実のひどさに呆然となる。
2017年06月24日
ワークマンでかった4900円のレインスーツ
ワークマンでレインスーツをかった。4900円。
いまはモンベルのゴアテックス製をつかっているけど、
雨がかんたんにカッパをとおりこして 服をしめらせてしまう。
むれるのではなく、雨がしみこむので、
ちょっと本格的な雨ふりになると
安心してつかえない。
ポンチョもわるくはないけど、こんかいのかいものでは、
雨をしっかりふせいでくれるレインスーツを手にいれたかった。
「よく水をはじく」「むれにくい」といった程度では
おさまらない雨がときどきふる。
防水性や撥水性をうたっている商品はおおくても、
たいていはじっさいに本格的な雨になると、つかいものにならない。
そんなときにでも、安心して身につけられる
性能本位なレインスーツがほしかった。
貧乏人の味方モンベルは、やすくて手をだしやすいけど、
それだけがおなじ製品を身につけたひとによくであう。
まったくおなじではなくても、
モンベルのマークをそこらじゅうでみかける。
ユニクロほどポピュラーでないとはいえ、
アフトドア商品といえばモンベルかノースフェイスで、
お金があるかないかが そのままあらわれているようでさみしい。
これまでとはかいものの方向性をかえ、
作業着をあつかうお店をためそうとおもった。
はじめてはいったワークマンのお店は、
ホームセンターの作業服売場とちがい、
いかにも作業服、という無骨なかんじではなく、
町できていても違和感がなさそうだ。
値段もやすく、ズボンや帽子など、いろんなものがほしくなった。
これからお世話になるお店かもしれない。
こんかいかった4900円のレインスーツは、
むれにはよわそうだけど、雨はしっかりはじきかえしてくれそうだ。
ダブダブでもきゅうくつでもなく、うごきやすそうだし、
ポケットの形やフードのアジャスターなど、
こまかなところまで雨をふせいぐ工夫がほどこされている。
でも、こればかりは つかってみないとなんともいえない。
雨の日に、はやくこのスーツをきて ためしてみたい。
糸井重里さんが「今日のダーリン」に
とかいていた。
いまのわたしは、まさに「たのしい季節になったぞ」のひとだ。
すこしまえにかった長ぐつといっしょに、はやくためしてみたい。
ためしたうえで、いくつかの不具合に気づくかもしれない。
そのときは、ストレートに「雨を好きになろうとしてみる」か。
本格的な梅雨の雨ふりがまちどおしい。
いまはモンベルのゴアテックス製をつかっているけど、
雨がかんたんにカッパをとおりこして 服をしめらせてしまう。
むれるのではなく、雨がしみこむので、
ちょっと本格的な雨ふりになると
安心してつかえない。
ポンチョもわるくはないけど、こんかいのかいものでは、
雨をしっかりふせいでくれるレインスーツを手にいれたかった。
「よく水をはじく」「むれにくい」といった程度では
おさまらない雨がときどきふる。
防水性や撥水性をうたっている商品はおおくても、
たいていはじっさいに本格的な雨になると、つかいものにならない。
そんなときにでも、安心して身につけられる
性能本位なレインスーツがほしかった。
貧乏人の味方モンベルは、やすくて手をだしやすいけど、
それだけがおなじ製品を身につけたひとによくであう。
まったくおなじではなくても、
モンベルのマークをそこらじゅうでみかける。
ユニクロほどポピュラーでないとはいえ、
アフトドア商品といえばモンベルかノースフェイスで、
お金があるかないかが そのままあらわれているようでさみしい。
これまでとはかいものの方向性をかえ、
作業着をあつかうお店をためそうとおもった。
はじめてはいったワークマンのお店は、
ホームセンターの作業服売場とちがい、
いかにも作業服、という無骨なかんじではなく、
町できていても違和感がなさそうだ。
値段もやすく、ズボンや帽子など、いろんなものがほしくなった。
これからお世話になるお店かもしれない。
こんかいかった4900円のレインスーツは、
むれにはよわそうだけど、雨はしっかりはじきかえしてくれそうだ。
ダブダブでもきゅうくつでもなく、うごきやすそうだし、
ポケットの形やフードのアジャスターなど、
こまかなところまで雨をふせいぐ工夫がほどこされている。
でも、こればかりは つかってみないとなんともいえない。
雨の日に、はやくこのスーツをきて ためしてみたい。
糸井重里さんが「今日のダーリン」に
なんとなくいやだというような梅雨を、
「これはたのしい季節になったぞ」と
思えるようになったら、ずいぶんうれしいことになる。(中略)
雨を好きになってみる、ということは、
どうすればいいかではなくて、実は、
「雨を好きになろうとしてみる」だけで、
よいのではないだろうか。
とかいていた。
いまのわたしは、まさに「たのしい季節になったぞ」のひとだ。
すこしまえにかった長ぐつといっしょに、はやくためしてみたい。
ためしたうえで、いくつかの不具合に気づくかもしれない。
そのときは、ストレートに「雨を好きになろうとしてみる」か。
本格的な梅雨の雨ふりがまちどおしい。
2017年06月23日
アーティチョークいりのタジンをつくる
しりあいのハーブショップでアーティチョークをいただいた。
なんねんかまえに、そのお店がだしているメルマガに、
アーティチョークの苗を発売中、とおしらせがのり、
日本でのアーティチョークを 話題にしたことがある。
たべるのだろうか、花をたのしむのだろうか。
おおきなアーティチョークが3つ手にはいったので、
さっそく夕ごはんにタジンをつくった。
モロッコでタジンをたべると、
このアーティチョークがよくはいっていた。
アーティチョークは おおきくてみばえがするけど、
じっさいにたべられるのは、茎のごくいちぶでしかない。
モロッコにいるときは、自分でタジンをつくったわけではないので、
どうやってアーティチョークの下ごしらえをするのかわからない。
花びらみたいなガクをぜんぶとりさり、テキトーに包丁をいれる。
茎だけをとりだすと、あんなにおおきかったアーティチョークから、
ほんのわずかな量しかのこらない。
タジン鍋にいれて弱火でにこむと、ほかの野菜にまぎれてしまい、
アーティチョークが ほとんどみあたらなくなってしまった。
いちばんおおきなかたまりを、なにもしらない母が、
しらないだけ大胆にサジにのせ、自分のお皿にとると、
あとにはごくちいさなかけらしかのこっていない。
たべても、いまのがいったいなんだったのかわからにほど
すごくささやかなアーティチョークいりタジンとなった。
モロッコ料理といえばタジンだけど、
これはごちそうというより煮こみ料理の総称であり、
なにをいれてもタジンとよばれる。
あの帽子みたいなタジン鍋で
スパイスといっしょに煮こめば それがタジンだ。
羊肉がおおいけど、イワシもよくはいっている。
日本でも、数年まえにタジン鍋がはやった。
きっと日本風にアレンジした
あっさり系の蒸し料理となっていることだろう。
モロッコ式タジンのコツは、ちょっとおおすぎるかな、とおもう量の
さらにたくさんのオリーブオイルを鍋にしくこと。
水はいれない。
もうひとつは、あくまでも弱火をたもつ。
弱火で時間をかけたほうが、肉と野菜がやわらかくなり、
ほっておくだけなのに なんとなくできあがる。
ギトギトとしつこくしあがったタジンを
かためのパンですくってたべる。
モロッコへいきたくなってきた。
なんねんかまえに、そのお店がだしているメルマガに、
アーティチョークの苗を発売中、とおしらせがのり、
日本でのアーティチョークを 話題にしたことがある。
たべるのだろうか、花をたのしむのだろうか。
おおきなアーティチョークが3つ手にはいったので、
さっそく夕ごはんにタジンをつくった。
モロッコでタジンをたべると、
このアーティチョークがよくはいっていた。
アーティチョークは おおきくてみばえがするけど、
じっさいにたべられるのは、茎のごくいちぶでしかない。
モロッコにいるときは、自分でタジンをつくったわけではないので、
どうやってアーティチョークの下ごしらえをするのかわからない。
花びらみたいなガクをぜんぶとりさり、テキトーに包丁をいれる。
茎だけをとりだすと、あんなにおおきかったアーティチョークから、
ほんのわずかな量しかのこらない。
タジン鍋にいれて弱火でにこむと、ほかの野菜にまぎれてしまい、
アーティチョークが ほとんどみあたらなくなってしまった。
いちばんおおきなかたまりを、なにもしらない母が、
しらないだけ大胆にサジにのせ、自分のお皿にとると、
あとにはごくちいさなかけらしかのこっていない。
たべても、いまのがいったいなんだったのかわからにほど
すごくささやかなアーティチョークいりタジンとなった。
モロッコ料理といえばタジンだけど、
これはごちそうというより煮こみ料理の総称であり、
なにをいれてもタジンとよばれる。
あの帽子みたいなタジン鍋で
スパイスといっしょに煮こめば それがタジンだ。
羊肉がおおいけど、イワシもよくはいっている。
日本でも、数年まえにタジン鍋がはやった。
きっと日本風にアレンジした
あっさり系の蒸し料理となっていることだろう。
モロッコ式タジンのコツは、ちょっとおおすぎるかな、とおもう量の
さらにたくさんのオリーブオイルを鍋にしくこと。
水はいれない。
もうひとつは、あくまでも弱火をたもつ。
弱火で時間をかけたほうが、肉と野菜がやわらかくなり、
ほっておくだけなのに なんとなくできあがる。
ギトギトとしつこくしあがったタジンを
かためのパンですくってたべる。
モロッコへいきたくなってきた。
2017年06月22日
ブログ更新は、つなわたりな日々でも あんがい大丈夫
このまえたまたまブログを午後はやくにアップしたら、
そのあとの時間をとてもリラックスしてすごせた。
夜をまるまるあそびにつかってもよくなった 中学生の気分だ。
ブログをアップするのが、そんなにもプレッシャーだったとは。
でも、仕事からかえり、夕ごはんをすませたあと、
ブログにむかう時間がすきなのもたしかだ。
すきだけど、たいへんでもある、なんて
なんだか かっこよさそう。
ブログをなんとか毎日かいているけど、
ストックなんてぜんぜんたくわえておらず、
つなわたりの日々というか、
余裕のない更新が日常となっている。
よくつづいているともいえるし、
かってにはじめて かってにくるしんでるだけでもある。
とくにテーマをきめたブログではなく、
本やらサッカーやら、なんでもありの 日記みたいなものなので、
いろいろなところからネタをひろえる。
さらに、どうでもいいことをテキトーに、が基本方針で、
したがってよんでくれるひとは 残念なほどすくなく、
あまり気をつかわずにかけるのもおおきい。
わたしのブログをひとことであらわすなら、
「のらりくらり」がいちばんピッタリくる。
糸井重里さんが「今日のダーリン」で、
「書くのが嫌い」だし、「不得意でもある」、とかいていた。
あれほどよませる文章をさらっとかきながら、
嫌いだし苦手とは、しんじがたいけど、
本人がかんじていることなので、そうですかというしかない。
糸井さんにそんなことをいわれると、
のらりくらりつづけているわたしのブログなんて、
ひとりよがりでスカスカの作文におもえてくる。
まあ、ひととくらべるのがそもそもまちがっている。
28連勝中の藤井四段の わかさとつよさを
わたしがうらやんでもしょうがない。
大橋悦夫さんが「シゴタノ!」に
http://cyblog.jp/modules/weblogs/28234
と、ネタさがしにつかえそうな、ひとつの方法を紹介されている。
たとえば、「旅行」をわたしのエバーノートで検索すると、
「旅行」と関係ないノートまで ぞろぞろとひっかかり、
おぼえのない文面をよみかえすだけでもおもしろい。
いよいよネタにこまったときは、エバーノートをあてにしよう。
このごろ睡眠がひとつのキーワードとなっている。
睡眠不足がどれだけリスクをまねくかについて
いろんなことがわかってきている。
ガンや認知症にもかかわっているそうで、
睡眠時間をけずってまでブログを更新するのは、
それなりのリスクを覚悟したほうがいい。
どうでもいいことをテキトーに、なんて
かっこつけている場合じゃないかもしれない。
そのあとの時間をとてもリラックスしてすごせた。
夜をまるまるあそびにつかってもよくなった 中学生の気分だ。
ブログをアップするのが、そんなにもプレッシャーだったとは。
でも、仕事からかえり、夕ごはんをすませたあと、
ブログにむかう時間がすきなのもたしかだ。
すきだけど、たいへんでもある、なんて
なんだか かっこよさそう。
ブログをなんとか毎日かいているけど、
ストックなんてぜんぜんたくわえておらず、
つなわたりの日々というか、
余裕のない更新が日常となっている。
よくつづいているともいえるし、
かってにはじめて かってにくるしんでるだけでもある。
とくにテーマをきめたブログではなく、
本やらサッカーやら、なんでもありの 日記みたいなものなので、
いろいろなところからネタをひろえる。
さらに、どうでもいいことをテキトーに、が基本方針で、
したがってよんでくれるひとは 残念なほどすくなく、
あまり気をつかわずにかけるのもおおきい。
わたしのブログをひとことであらわすなら、
「のらりくらり」がいちばんピッタリくる。
糸井重里さんが「今日のダーリン」で、
「書くのが嫌い」だし、「不得意でもある」、とかいていた。
あれほどよませる文章をさらっとかきながら、
嫌いだし苦手とは、しんじがたいけど、
本人がかんじていることなので、そうですかというしかない。
糸井さんにそんなことをいわれると、
のらりくらりつづけているわたしのブログなんて、
ひとりよがりでスカスカの作文におもえてくる。
まあ、ひととくらべるのがそもそもまちがっている。
28連勝中の藤井四段の わかさとつよさを
わたしがうらやんでもしょうがない。
大橋悦夫さんが「シゴタノ!」に
Evernoteを特定のキーワードで検索すると高い確率でブログに書きたいと思えるトピックがヒットする。
http://cyblog.jp/modules/weblogs/28234
と、ネタさがしにつかえそうな、ひとつの方法を紹介されている。
たとえば、「旅行」をわたしのエバーノートで検索すると、
「旅行」と関係ないノートまで ぞろぞろとひっかかり、
おぼえのない文面をよみかえすだけでもおもしろい。
いよいよネタにこまったときは、エバーノートをあてにしよう。
このごろ睡眠がひとつのキーワードとなっている。
睡眠不足がどれだけリスクをまねくかについて
いろんなことがわかってきている。
ガンや認知症にもかかわっているそうで、
睡眠時間をけずってまでブログを更新するのは、
それなりのリスクを覚悟したほうがいい。
どうでもいいことをテキトーに、なんて
かっこつけている場合じゃないかもしれない。
2017年06月21日
『ヨシダ、裸でアフリカをゆく』(ヨシダ ナギ)おなじ格好をして仲よくなるのが夢
『ヨシダ、裸でアフリカをゆく』(ヨシダ ナギ・扶桑社)
子どものころから アフリカの少数民族にあこがれてきた著者が、
なんどかの訪問での、めずらしい体験をつづった記録。
おなじ格好をすれば仲よくなれると、
ナギ氏は裸になって少数民族とおなじ衣装を身につける。
アフリカの奥地へでかけるのだから、どんな女性かとおもったら、
はじめは ものすごく旅なれないひとだった。英語もはなせない。
はじめての旅行先としてエチオピアへでかけたとき、
のだから、よくひとりで でかけたものだ。
日本ではひっこみじあんで、
友だちもあまりいなかったとある。
だから日本に執着せずに、アフリカへむかえたのかもしれない。
ほとんど英語がはなせなかった著者が、
なんどかアフリカにおとずれるうちに、
かなり複雑な内容でも理解し、つたえられるようになっている。
つたえようという気もち・ききとろうとする熱意が
なによりも大切なのだろう。
金をくれと、しつこくつきまとう子どもたちに
「私は超貧乏で・・・」と通訳につたえてもらうと、
ひとりの少年が
といったはなしがよかった。
じっさいに少年(タジボ)の家をたずねると、
4畳半ほどの倉庫みたいな部屋に、
お母さんとタジボ兄弟の4人がくらしていた。
貧しいくらしなのに、長ズボンしかもとめないとは、
なんてうつくしい精神なのか。
自分がとんでもない欲ばりにおもえてくる。
タイトルが「裸でアフリカをゆく」となっているけど、
もちろんいつも裸ですごしているわけではない。
あいてとの距離をちぢめ、こころをひらいてもらうのに、
いちばん効果的な方法が、おなじ格好をする、だった。
ただ、いい写真をとろうと、計算づくでの裸ではない。
子どものころにはじめてマサイ族をみたときから、
彼らの民族衣装をかっこいいとおもい、
おなじ格好をして おなじ時間を共有するのが著者の夢だった。
カメルーンでコマ族のくらす集落をたずねたとき、
かたい雰囲気をなんとかしようと、著者ははじめて裸になる。
素直にかかれた文章もいいけど、写真がまたすばらしい。
アフリカの、そして少数民族のうつくしさが
彼女の写真には とてもよくあらわれている。
あいてのふところにとびこんでいくので、
こんなすばらしい写真がとれるのだろう。
寝酒によっぱらいながら、
「『野生のエルザ』でアフリカにあこがれたおれが、
この本でまたアフリカによばれた。いくしかない!」
とわたしは興奮ぎみにメモをのこしていた。
そんな気にさせてくれるぐらい、この本は刺激にみちている。
子どものころから アフリカの少数民族にあこがれてきた著者が、
なんどかの訪問での、めずらしい体験をつづった記録。
おなじ格好をすれば仲よくなれると、
ナギ氏は裸になって少数民族とおなじ衣装を身につける。
アフリカの奥地へでかけるのだから、どんな女性かとおもったら、
はじめは ものすごく旅なれないひとだった。英語もはなせない。
はじめての旅行先としてエチオピアへでかけたとき、
「Hello」と「I'm fine!」と、「Hungry」「Sleepy」が言えるくらいのスキルしかなかった。
のだから、よくひとりで でかけたものだ。
日本ではひっこみじあんで、
友だちもあまりいなかったとある。
だから日本に執着せずに、アフリカへむかえたのかもしれない。
ほとんど英語がはなせなかった著者が、
なんどかアフリカにおとずれるうちに、
かなり複雑な内容でも理解し、つたえられるようになっている。
つたえようという気もち・ききとろうとする熱意が
なによりも大切なのだろう。
金をくれと、しつこくつきまとう子どもたちに
「私は超貧乏で・・・」と通訳につたえてもらうと、
ひとりの少年が
貧乏なら、僕ん家でごはん食べよう!
僕ん家も貧乏だけど、インジェラ(エチオピアの主食)ならあるから、
それでもよければお腹いっぱいになるまで
食べてって!遠慮はいらないから!
といったはなしがよかった。
じっさいに少年(タジボ)の家をたずねると、
4畳半ほどの倉庫みたいな部屋に、
お母さんとタジボ兄弟の4人がくらしていた。
私はお金持ちではないので大きなサポートはできないのですが、私のできる範囲内で、タジボの将来を少しだけ応援させてもらえたら嬉しいです。とりあえず、今、私がタジボにできることを教えてもらえませんか」と伝えると、お母さんはこう返してくれた。
「神様が、息子のもとにナギを送ってくださったのだと思います。私たちは貧しい生活に慣れております。だから大金も必要ありません。ただ、しいて言うならばウチの子は半ズボンしか持っていません。朝と夜は寒く、足もケガばっかり増えてしまうので、長ズボンだけいただけたら嬉しいです」と。
貧しいくらしなのに、長ズボンしかもとめないとは、
なんてうつくしい精神なのか。
自分がとんでもない欲ばりにおもえてくる。
タイトルが「裸でアフリカをゆく」となっているけど、
もちろんいつも裸ですごしているわけではない。
あいてとの距離をちぢめ、こころをひらいてもらうのに、
いちばん効果的な方法が、おなじ格好をする、だった。
ただ、いい写真をとろうと、計算づくでの裸ではない。
子どものころにはじめてマサイ族をみたときから、
彼らの民族衣装をかっこいいとおもい、
おなじ格好をして おなじ時間を共有するのが著者の夢だった。
カメルーンでコマ族のくらす集落をたずねたとき、
かたい雰囲気をなんとかしようと、著者ははじめて裸になる。
この日、幼少期から抱いていた私の”同じ姿になったら仲よくなれる”という根拠のない自信は、長い年月を経て”確信”へと変わり、遠く離れたカメルーンの長老の心に私の思いは届いた。(中略)
言語の壁を簡単にぶち壊してくれるのは”態度で示すこと”なのだと思った。無表情だったコマ族の奥様たちの笑顔を見たとき、”脱いで本当によかった”と思ったし、初めて身にまとった葉っぱスタイルにとても興奮した。
素直にかかれた文章もいいけど、写真がまたすばらしい。
アフリカの、そして少数民族のうつくしさが
彼女の写真には とてもよくあらわれている。
あいてのふところにとびこんでいくので、
こんなすばらしい写真がとれるのだろう。
寝酒によっぱらいながら、
「『野生のエルザ』でアフリカにあこがれたおれが、
この本でまたアフリカによばれた。いくしかない!」
とわたしは興奮ぎみにメモをのこしていた。
そんな気にさせてくれるぐらい、この本は刺激にみちている。
2017年06月20日
かとうちあきさんの「お店のようなもの」
デイリーポータルZに、かとうちあきさんがやってる
「お店のようなもの」がちらっと とりあげられた。
http://portal.nifty.com/kiji/170618199934_1.htm
かとうさんは「お店のようなもの」の名で、
ときどきツイートされており、
いったいこの「お店のようなもの」とはなんのことだろうと、
気にしながら ほったらかしていた。
この、ほったらかすのは、
わたしがよくやる とりあえずの対応策だ。
わからないことがあると、
一生懸命にこたえをさがすのもいいけど、
あまりかんがえつづけると、生きるのがつらくなったりする。
頭のかたすみにそっとおいておき、
ときおりおもいだして、そのつど すこしかんがえる。
そんな適度な距離感が、生きるうえでのコツとして身についた。
たとえば、人生いかにいきるべきか、を
真剣にかんがえるのは大切だけど、
すぐにこたえがみつからないからといって
自分をさげすんだり、ヤケクソになってはならない。
なんねんもかけてこたえをさがすべき問題が
世のなかにはたくさんあり、
いったんわすれたほうが けっきょくは ながくかんがえられる。
記事により、「お店のようなもの」の概要はつかめた。
でも、わかったような気になっているだけかもしれない。
こたえさがしをあせらずに、
すこしずつ「お店のようなもの」の正体をつかみたい。
記事をよむかぎり、「お店のようなもの」は、
その名のとおり、「お店のようなもの」としかいえない空間だ。
窓ガラスに
とかかれた紙がガムテープでとめられている。
営業日は火曜と水曜日ともかいてある。
ながねんの疑問がとけて安心した。
たしかにここは「お店のようなもの」で、
ほかによびようがない。
記事は、「お店のようなもの」の常連客である
タケさんに焦点をあてているけど、
わたしにとっては、お店の概要がわかりありがたかった。
なんて自由な空間だろう。
ひとの影響をうけやすいわたしは、
「お店のようなもの」を自分でもやってみたいとおもった。
いろんなものをごちゃごちゃと店においておけば、
おもしろがるひとが のぞいてくれるだろう。
かき氷くらいならサービスしてもいい。
駄菓子があれば、小学生がきてくれるだろうか。
人生になやむわかものが ひといきつける場所もあったほうがいい。
一生懸命にはやらないけど、よかったらつかってください、
みたいな ゆるい方針で店をひらき、
店主であるわたしがときどき顔をだす。
目的がはっきりした場所はかなわん、というのが
このごろのわたしの問題意識だ。
「お店のようなもの」がちらっと とりあげられた。
http://portal.nifty.com/kiji/170618199934_1.htm
かとうさんは「お店のようなもの」の名で、
ときどきツイートされており、
いったいこの「お店のようなもの」とはなんのことだろうと、
気にしながら ほったらかしていた。
この、ほったらかすのは、
わたしがよくやる とりあえずの対応策だ。
わからないことがあると、
一生懸命にこたえをさがすのもいいけど、
あまりかんがえつづけると、生きるのがつらくなったりする。
頭のかたすみにそっとおいておき、
ときおりおもいだして、そのつど すこしかんがえる。
そんな適度な距離感が、生きるうえでのコツとして身についた。
たとえば、人生いかにいきるべきか、を
真剣にかんがえるのは大切だけど、
すぐにこたえがみつからないからといって
自分をさげすんだり、ヤケクソになってはならない。
なんねんもかけてこたえをさがすべき問題が
世のなかにはたくさんあり、
いったんわすれたほうが けっきょくは ながくかんがえられる。
記事により、「お店のようなもの」の概要はつかめた。
でも、わかったような気になっているだけかもしれない。
こたえさがしをあせらずに、
すこしずつ「お店のようなもの」の正体をつかみたい。
記事をよむかぎり、「お店のようなもの」は、
その名のとおり、「お店のようなもの」としかいえない空間だ。
窓ガラスに
「お店ようなものは
お店のようなものです。
時々あいてなにか売ったり、
やったりしています。
いまは石!!
石を売ってるよ!!」
とかかれた紙がガムテープでとめられている。
営業日は火曜と水曜日ともかいてある。
ながねんの疑問がとけて安心した。
たしかにここは「お店のようなもの」で、
ほかによびようがない。
記事は、「お店のようなもの」の常連客である
タケさんに焦点をあてているけど、
わたしにとっては、お店の概要がわかりありがたかった。
なんて自由な空間だろう。
ひとの影響をうけやすいわたしは、
「お店のようなもの」を自分でもやってみたいとおもった。
いろんなものをごちゃごちゃと店においておけば、
おもしろがるひとが のぞいてくれるだろう。
かき氷くらいならサービスしてもいい。
駄菓子があれば、小学生がきてくれるだろうか。
人生になやむわかものが ひといきつける場所もあったほうがいい。
一生懸命にはやらないけど、よかったらつかってください、
みたいな ゆるい方針で店をひらき、
店主であるわたしがときどき顔をだす。
目的がはっきりした場所はかなわん、というのが
このごろのわたしの問題意識だ。
2017年06月19日
「そうじとかたづけ」はべつものらしい
ラジオをきいていたら、ある番組で、
「そうじとかたづけはべつもの」といっていた。
かたづけができていないと、
いつまでもそうじがはかどらない。たしかに。
わたしは、このふたつをいっしょにあつかっていた。
かたづけながらそうじをする。
でも、じっさいは そんなことできっこないので、
どちらも中途半端におわる。
わけてあつかったほうがいいことって、ほかにもありそうだ。
旅行は、計画と実行とべつものかもしれない。
食事は調理と じっさいにたべる行為にわける。
結婚は、婚前と婚後ではないか。
世のなかには、なにかとふたつにわけるのがすきなひとがいて、
たとえば「あなたは犬派?それともネコ派」
なんてよくいうし、
「人間は2つのタイプにわけられる。
自分できめられるひとと、きめられないひとだ」
なんてのもどこかでよんだ気がする。
皮肉って、
「ひとは2タイプにわけられる。
2タイプにわけたいひとと、そうでないひとに」
なんていいたくなるくらい
よくみかけるとらえ方だ。
あんがい、2つにわけてあつかうのは、
ただのおもいこみで、
ほんとうは3つなのかもしれない。
「2つ」のあいだには、
巨大な第三地帯がひろがっているのではないか。
梅棹忠夫さんは、東洋と西洋のあいだに中洋があると指摘した。
おなじように、犬派とネコ派のあいだには、
どちらでもない おおぜいのひとがいるのでは。
家がいつまでもかたづかないのは、
第3の要素をみおとしているからだ。
それがなにかを発見できたら、
わたしの机は画期的にととのえられる。
「そうじとかたづけはべつもの」といっていた。
かたづけができていないと、
いつまでもそうじがはかどらない。たしかに。
わたしは、このふたつをいっしょにあつかっていた。
かたづけながらそうじをする。
でも、じっさいは そんなことできっこないので、
どちらも中途半端におわる。
わけてあつかったほうがいいことって、ほかにもありそうだ。
旅行は、計画と実行とべつものかもしれない。
食事は調理と じっさいにたべる行為にわける。
結婚は、婚前と婚後ではないか。
世のなかには、なにかとふたつにわけるのがすきなひとがいて、
たとえば「あなたは犬派?それともネコ派」
なんてよくいうし、
「人間は2つのタイプにわけられる。
自分できめられるひとと、きめられないひとだ」
なんてのもどこかでよんだ気がする。
皮肉って、
「ひとは2タイプにわけられる。
2タイプにわけたいひとと、そうでないひとに」
なんていいたくなるくらい
よくみかけるとらえ方だ。
あんがい、2つにわけてあつかうのは、
ただのおもいこみで、
ほんとうは3つなのかもしれない。
「2つ」のあいだには、
巨大な第三地帯がひろがっているのではないか。
梅棹忠夫さんは、東洋と西洋のあいだに中洋があると指摘した。
おなじように、犬派とネコ派のあいだには、
どちらでもない おおぜいのひとがいるのでは。
家がいつまでもかたづかないのは、
第3の要素をみおとしているからだ。
それがなにかを発見できたら、
わたしの机は画期的にととのえられる。
2017年06月18日
黒のスーツとサングラスできめたおにいさんにはなしかけられる
障害のあるかたの余暇支援でバスにのったら、
黒のスーツできめたおにいさんがはなしかけてきた。
髪は茶色にそめてパンチパーマ、そして黒のサングラスをかけている。
ときどきおなじバスにのられるので、
これまでも、みじかいあいさつをかわすくらいはしていた。
きょうは、「おでかけですか?」のあと、世間話になる。
このズボンはアジャスターがついているので、
すこしぐらいふとっても対応できる、と
いきなりわたしのふところにスルッとはいってこられた。
ヤクザ屋さんではないとふんでいたとおり、
スーツできめてるだけのおにいさんだ。
こういうひとはえてして はなしだすと とまらなくなるけど、
この方は、おおむねしずかにすごしながら、
ときどきズバッと自分のかんがえをかたられる。
はなすうちに、だんだんと ひととなりがわかってきた。
とくにかくすようすもなく、はなしのついでというかんじで、
養護学校をでているといわれた。
同期の子たちは、みすぼらしいかっこでくらしています、
わたしがいちばんかせいでいるとおもいます、と
自信ありげにはなされた。
そういわれても、いやなかんじをうけない。
わたしのしらないファッションとあそびのはなしをきかせてもらえ、
たのしいおしゃべりとなった。
黒のスーツと、それ以外の色のスーツをそれぞれ8着ずつもっておられ、
黒のスーツはよそいきというよりカジュアルな位置づけらしい。
黒だとよごれがめだたないので、というのが理由だ。
(4万円のやすいスーツ、というからすごい)。
わたしがみかけるときはいつも黒のスーツで、
この方にとってはカジュアルかもしれないけど、
ここまできめたひとは、わたしの町ではまずみかけない。
ほんとうにきめるときは、黒ではなく
11〜12万円もするド派手なスーツで気合をいれる。
こうしたはなしは たいがいハッタリがおおいけど、
このひとの場合はきっとほんとうだ。
確固たる信念にもとずいて、大切にされているスタイルなのだろう。
はなしをするうちに、居酒屋ではたらいていて、
きょうは月に2日しかない やすみの日というのがわかった。
月に2どのイベントとして、
町でお酒をのむのがたのしみなのだそうだ。
いちどの外出で3万円分あそぶらしい。
1500円のタクシー代をのこして きっちりつかってしまう。
かっこいい。
お酒をのむといっても、すきのないスーツできめるぐらいだから、
この方の場合は居酒屋ではなく、
「スナック・ラウンジ・キャバクラですね」ということだ。
わたしにはできないあそび方なので、
どんなおはなしをされるのですかとたずねると、
服やシモのはなしですと、てれや自慢ではなく、
事実を事実としてすんなりおしえてくれる。
わたしとまったくちがうお金のつかい方だけど、
かっこいいスーツと金銭感覚にすっかり感心してしまった。
かるい知的障害をもつひとのおおくは、
全面的に親の支配下にあったり、
施設や介護事業所に身もこころもあずけておられるなか、
この方は、はたらいて得たお金を自分のたのしみにつかっている。
キャバクラや高級スーツ、たとえ風俗だとしても、
どうどうと自分のスタイルを確立し、
生活をたのしみ、生きかたに自信をもっておられる。
結婚されてますか、ときかれたので、
「はい」とこたえる。
「あなたは結婚したくないですか」と、こちらからもたずねると、
あまり結婚に魅力をかんじておられないようすだ。
いまの生活をこれだけたのしんでおられのだから、
あえて結婚したいとはおもわないだろう。
「そうですね、いいことばかりじゃないですもんね」。
わたしは自分にいいわけするように あいづちをうった。
黒のスーツできめたおにいさんがはなしかけてきた。
髪は茶色にそめてパンチパーマ、そして黒のサングラスをかけている。
ときどきおなじバスにのられるので、
これまでも、みじかいあいさつをかわすくらいはしていた。
きょうは、「おでかけですか?」のあと、世間話になる。
このズボンはアジャスターがついているので、
すこしぐらいふとっても対応できる、と
いきなりわたしのふところにスルッとはいってこられた。
ヤクザ屋さんではないとふんでいたとおり、
スーツできめてるだけのおにいさんだ。
こういうひとはえてして はなしだすと とまらなくなるけど、
この方は、おおむねしずかにすごしながら、
ときどきズバッと自分のかんがえをかたられる。
はなすうちに、だんだんと ひととなりがわかってきた。
とくにかくすようすもなく、はなしのついでというかんじで、
養護学校をでているといわれた。
同期の子たちは、みすぼらしいかっこでくらしています、
わたしがいちばんかせいでいるとおもいます、と
自信ありげにはなされた。
そういわれても、いやなかんじをうけない。
わたしのしらないファッションとあそびのはなしをきかせてもらえ、
たのしいおしゃべりとなった。
黒のスーツと、それ以外の色のスーツをそれぞれ8着ずつもっておられ、
黒のスーツはよそいきというよりカジュアルな位置づけらしい。
黒だとよごれがめだたないので、というのが理由だ。
(4万円のやすいスーツ、というからすごい)。
わたしがみかけるときはいつも黒のスーツで、
この方にとってはカジュアルかもしれないけど、
ここまできめたひとは、わたしの町ではまずみかけない。
ほんとうにきめるときは、黒ではなく
11〜12万円もするド派手なスーツで気合をいれる。
こうしたはなしは たいがいハッタリがおおいけど、
このひとの場合はきっとほんとうだ。
確固たる信念にもとずいて、大切にされているスタイルなのだろう。
はなしをするうちに、居酒屋ではたらいていて、
きょうは月に2日しかない やすみの日というのがわかった。
月に2どのイベントとして、
町でお酒をのむのがたのしみなのだそうだ。
いちどの外出で3万円分あそぶらしい。
1500円のタクシー代をのこして きっちりつかってしまう。
かっこいい。
お酒をのむといっても、すきのないスーツできめるぐらいだから、
この方の場合は居酒屋ではなく、
「スナック・ラウンジ・キャバクラですね」ということだ。
わたしにはできないあそび方なので、
どんなおはなしをされるのですかとたずねると、
服やシモのはなしですと、てれや自慢ではなく、
事実を事実としてすんなりおしえてくれる。
わたしとまったくちがうお金のつかい方だけど、
かっこいいスーツと金銭感覚にすっかり感心してしまった。
かるい知的障害をもつひとのおおくは、
全面的に親の支配下にあったり、
施設や介護事業所に身もこころもあずけておられるなか、
この方は、はたらいて得たお金を自分のたのしみにつかっている。
キャバクラや高級スーツ、たとえ風俗だとしても、
どうどうと自分のスタイルを確立し、
生活をたのしみ、生きかたに自信をもっておられる。
結婚されてますか、ときかれたので、
「はい」とこたえる。
「あなたは結婚したくないですか」と、こちらからもたずねると、
あまり結婚に魅力をかんじておられないようすだ。
いまの生活をこれだけたのしんでおられのだから、
あえて結婚したいとはおもわないだろう。
「そうですね、いいことばかりじゃないですもんね」。
わたしは自分にいいわけするように あいづちをうった。
2017年06月17日
デイリーポータルZ「将棋で人間は犬に勝てるのか」がすばらしい
デイリーポータルZに
「将棋で人間は犬に勝てるのか」がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/170615199912_1.htm
ヨシダプロ氏による記事で、
例によって相手は犬のももちゃんだ。
わたしは、ももちゃんシリーズがだいすきなのだ。
これはもう、企画をおもいついた時点で
「勝負あった」の記事だ。
すばらしい。
中学生棋士の連勝記録や、
コンピューターに名人がやぶれるなど、
このところ将棋の話題をよく耳にする。
そこに、この「将棋で人間は犬に勝てるのか」なのだから、
内容がどうこうより、タイトルでもうきまりだ。
記事は、「犬王戦」と名づけられた
タイトルマッチに焦点をあてている。
会場はヨシダプロ氏の自宅らしく、
立会人などはいないけれど、
それなりに棋戦らしい雰囲気が ないでもない。
写真がまたすばらしい。
ももちゃんがじっと基盤をみつめ、
ヨシダプロ氏とむかいあっている。
ヨシダプロ氏は、まず駒のうごかし方を読者に説明し、
最低限のルールをおさえたのち、
いよいよ対局がはじまる。
はたしてももちゃんは駒を適切にあつかえるのか。
わたしがどうのこうのつけたすよりも、
とにかく記事をみていただきたい。
AIなみに「神の手」をくりだしながら
おもわぬ善戦にもちこんだ
ももちゃんの健闘に拍手をおくりたい。
「将棋で人間は犬に勝てるのか」がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/170615199912_1.htm
ヨシダプロ氏による記事で、
例によって相手は犬のももちゃんだ。
わたしは、ももちゃんシリーズがだいすきなのだ。
これはもう、企画をおもいついた時点で
「勝負あった」の記事だ。
すばらしい。
中学生棋士の連勝記録や、
コンピューターに名人がやぶれるなど、
このところ将棋の話題をよく耳にする。
そこに、この「将棋で人間は犬に勝てるのか」なのだから、
内容がどうこうより、タイトルでもうきまりだ。
記事は、「犬王戦」と名づけられた
タイトルマッチに焦点をあてている。
会場はヨシダプロ氏の自宅らしく、
立会人などはいないけれど、
それなりに棋戦らしい雰囲気が ないでもない。
写真がまたすばらしい。
ももちゃんがじっと基盤をみつめ、
ヨシダプロ氏とむかいあっている。
ヨシダプロ氏は、まず駒のうごかし方を読者に説明し、
最低限のルールをおさえたのち、
いよいよ対局がはじまる。
はたしてももちゃんは駒を適切にあつかえるのか。
わたしがどうのこうのつけたすよりも、
とにかく記事をみていただきたい。
AIなみに「神の手」をくりだしながら
おもわぬ善戦にもちこんだ
ももちゃんの健闘に拍手をおくりたい。
2017年06月16日
もうひとつだった『本の雑誌 7月号』の特集「本好きのための旅行ガイド」
『本の雑誌 7月号』の特集は、「本好きのための旅行ガイド」。
活字中毒者は、どのような旅行をすればいいかを
座談会で提案してくれるという。
いかにもおもしろそうな企画だけど、残念ながらすべってしまった。
あまりにも漠然としたテーマすぎるのか、特集の焦点がさだまらない。
「本好き」と「旅行」をからめた
活字中毒者ならではの企画とならず、もったいなかった。
黒田信一氏による「旅のガイドブックガイド」がおもしろかった。
いくつもでているガイドブックについて「ガイド」したもので、
よくしられている「地球の歩き方」もでてくる。
黒田氏は、『地球の歩き方・中国自由旅行』の表紙に、
「一日1500円以内で旅ができる」とかかれていたのにひかれ、
現金2万円をもって中国へと旅だった。
1987年、黒田氏が32歳のときだ。
黒田氏によると、『地球の歩き方』のよさは、
紹介されている安宿の数がおおいことで、
弱点は、
「とにかく安あがりを主題としているために、
お土産や食事の情報が貧弱な点だ」
としている。
これは、わたしの感想とまったく逆で、
以前はともかく 最近の「歩き方」は
たかいホテルと高級レストランの紹介がおおく、
やすく旅行をしようとするものにとって あまり役だたない。
なによりも、かなりかさばるし、おもたいしで、
このごろは必要な情報だけをコピーし、
メインのガイドブックは
ほかの出版社からえらぶようになった。
ネット時代となり、それ以前のガイドブックから
方針をかえていこうとするのは当然で、
これからますます なにかの情報に特化していくだろう。
黒田氏が中国をまわった1987年は、
くしくもわたしが中国を旅行した時期とかさなっている。
わたしも香港から広州にはいり、桂林をかすめて
雲南省にはいった。
「一日1500円」での旅行はほんとうに可能で、
もっとケチれば500円でも滞在できた。
正確な金額はおぼえていないけど、
田舎にいけば宿代が200円、食事は一食が100円あればたりるし、
バスでの移動はものすごくやすかった。
30年まえの中国は、まだ開放されていない地域がおおく、
広州でさえあかぬけない町におもえたのに、
2ヶ月ほど雲南省をまわって広州にもどると、
どれだけほかの町とちがう都会なのかにおどろいたものだ。
たとえば、広州以外の町では冷蔵庫をほとんどみかけず、
ぬるいビールがあたりまえだった。
冷蔵庫があっても、嗜好品をひやす場所ではなく、
あくまでも食品をくさらせずに保存するいれものだった。
中国は、あれから急激な発展をつづけ、
ニュースでながれる町の映像をみると、日本よりも都会にみえる。
1987年に中国を旅行しておいてよかった。
活字中毒者は、どのような旅行をすればいいかを
座談会で提案してくれるという。
いかにもおもしろそうな企画だけど、残念ながらすべってしまった。
あまりにも漠然としたテーマすぎるのか、特集の焦点がさだまらない。
「本好き」と「旅行」をからめた
活字中毒者ならではの企画とならず、もったいなかった。
黒田信一氏による「旅のガイドブックガイド」がおもしろかった。
いくつもでているガイドブックについて「ガイド」したもので、
よくしられている「地球の歩き方」もでてくる。
黒田氏は、『地球の歩き方・中国自由旅行』の表紙に、
「一日1500円以内で旅ができる」とかかれていたのにひかれ、
現金2万円をもって中国へと旅だった。
1987年、黒田氏が32歳のときだ。
広州、上海、桂林、マカオと弾丸のように回って10日後、香港経由で東京に戻って来た。手元に残っていたのは、1万2000円であった。中国本土での交通費、宿泊代、飲食費、物価の嵩む香港での滞在費を差し引いてのこの残額。おおっ!と声をあげた。『地球の歩き方』は正しかったのである。
黒田氏によると、『地球の歩き方』のよさは、
紹介されている安宿の数がおおいことで、
弱点は、
「とにかく安あがりを主題としているために、
お土産や食事の情報が貧弱な点だ」
としている。
これは、わたしの感想とまったく逆で、
以前はともかく 最近の「歩き方」は
たかいホテルと高級レストランの紹介がおおく、
やすく旅行をしようとするものにとって あまり役だたない。
なによりも、かなりかさばるし、おもたいしで、
このごろは必要な情報だけをコピーし、
メインのガイドブックは
ほかの出版社からえらぶようになった。
ネット時代となり、それ以前のガイドブックから
方針をかえていこうとするのは当然で、
これからますます なにかの情報に特化していくだろう。
黒田氏が中国をまわった1987年は、
くしくもわたしが中国を旅行した時期とかさなっている。
わたしも香港から広州にはいり、桂林をかすめて
雲南省にはいった。
「一日1500円」での旅行はほんとうに可能で、
もっとケチれば500円でも滞在できた。
正確な金額はおぼえていないけど、
田舎にいけば宿代が200円、食事は一食が100円あればたりるし、
バスでの移動はものすごくやすかった。
30年まえの中国は、まだ開放されていない地域がおおく、
広州でさえあかぬけない町におもえたのに、
2ヶ月ほど雲南省をまわって広州にもどると、
どれだけほかの町とちがう都会なのかにおどろいたものだ。
たとえば、広州以外の町では冷蔵庫をほとんどみかけず、
ぬるいビールがあたりまえだった。
冷蔵庫があっても、嗜好品をひやす場所ではなく、
あくまでも食品をくさらせずに保存するいれものだった。
中国は、あれから急激な発展をつづけ、
ニュースでながれる町の映像をみると、日本よりも都会にみえる。
1987年に中国を旅行しておいてよかった。
2017年06月15日
スコットランドの村をたずねる あるく旅行の番組がよかった
すこしまえに録画していた「旅もの」をみた。
ウィスキーづくりでしられる スコットランドの村をたずねている。
かつてウィスキーを港まではこぶために鉄道がしかれており、
いまはその線路あとが遊歩道となり、村から北海までむすんでいる。
6日かけて村から村へとあるきつづけ、
最終日には北海をのぞむ村にたどりついた。
いちにちに10キロ程度の移動なので、かなりゆっくりな「旅」だ。
ウィスキーも魅力的だけど、
いなか道のまわりにひろがる景色がよかった。
スコットランドは、たとえ私有地でも
そこをあるいたりキャンプが自由にできるそうだ。
天気がかわりやすく、いつ雨がふってくるかわからないので、
さすがにキャンプまではのぞまないけど、
ゆっくりあるき、ときどきウィスキー工場を見学できるのは、
夢のようなコースにおもえた。
わたしはちかい将来に、
サンティアゴ巡礼をこころみたいとおもっており、
あるく旅行をあつかった記事になにかとひかれる。
サンティアゴゆきは、巡礼が目的というより、
いい景色のなかをあるきたいからだ。
サンティアゴ巡礼でなくても、今回みた番組のように、
あるいてたのしいコースは いくらでもあるのかもしれない。
20代のころ、ネパールで5日間のトレッキングをしたことがあるけど、
あるくたのしさなんて、かんじる余裕がほとんどなかった。
せっかくネパールにきてるのだから、
まわりの景色やひとびとのいとなみを
ゆっくりみてまわればいいのに、
まだわかかったせいか、やたらにさきをいそぎがちで、
目的地まであと◯キロ、と、
その日のゴールばかりをめざしていた。
その後、ゆっくり ながくが、わたしの基本的なペースとなり、
旅行でも、自転車や散歩をかねたとりくみに
魅力をかんじるようになった。
とはいえ、日ごろ散歩をたのしんでいるかといえば、
仕事以外ではほとんどあるかない。
近所を散歩するぐらいなら自転車にのるし、
1時間あるなら 散歩よりもはしりたくなる。
いい景色のなかをのんびりと、なんて
絵にかいたあこがれみたいなもので、
じゅうじつしたひとの活動をみると
すぐにまねしたくなる わたしのわるいクセだ。
サンディエゴでなくても、スコットランドでなくても、
日本にもいいコースはあるだろうし、
わたしの地元だって みかたによれば
自然と景観の宝庫ともいえる。
退職してからゆっくり のんびりと、なんて
絵にかいたモチをおいもとめないで、
はじめられるところから手をつければ、
やればやっただけ、知識と経験をつみかさねられる。
サンディエゴとスコットランドは、
それはそれでおおきな目標としてだいじにし、
それまでにも「あるき」を日常にとりいれたほうがいい。
どんなシューズやリュックが ながくあるくのに適切かなど、
じっさいにつかっていないと ぶっつけ本番になってしまう。
いつおむかえがきてもいい、なんていいながら、
やりたいことがどんどんふえていく。
ウィスキーづくりでしられる スコットランドの村をたずねている。
かつてウィスキーを港まではこぶために鉄道がしかれており、
いまはその線路あとが遊歩道となり、村から北海までむすんでいる。
6日かけて村から村へとあるきつづけ、
最終日には北海をのぞむ村にたどりついた。
いちにちに10キロ程度の移動なので、かなりゆっくりな「旅」だ。
ウィスキーも魅力的だけど、
いなか道のまわりにひろがる景色がよかった。
スコットランドは、たとえ私有地でも
そこをあるいたりキャンプが自由にできるそうだ。
天気がかわりやすく、いつ雨がふってくるかわからないので、
さすがにキャンプまではのぞまないけど、
ゆっくりあるき、ときどきウィスキー工場を見学できるのは、
夢のようなコースにおもえた。
わたしはちかい将来に、
サンティアゴ巡礼をこころみたいとおもっており、
あるく旅行をあつかった記事になにかとひかれる。
サンティアゴゆきは、巡礼が目的というより、
いい景色のなかをあるきたいからだ。
サンティアゴ巡礼でなくても、今回みた番組のように、
あるいてたのしいコースは いくらでもあるのかもしれない。
20代のころ、ネパールで5日間のトレッキングをしたことがあるけど、
あるくたのしさなんて、かんじる余裕がほとんどなかった。
せっかくネパールにきてるのだから、
まわりの景色やひとびとのいとなみを
ゆっくりみてまわればいいのに、
まだわかかったせいか、やたらにさきをいそぎがちで、
目的地まであと◯キロ、と、
その日のゴールばかりをめざしていた。
その後、ゆっくり ながくが、わたしの基本的なペースとなり、
旅行でも、自転車や散歩をかねたとりくみに
魅力をかんじるようになった。
とはいえ、日ごろ散歩をたのしんでいるかといえば、
仕事以外ではほとんどあるかない。
近所を散歩するぐらいなら自転車にのるし、
1時間あるなら 散歩よりもはしりたくなる。
いい景色のなかをのんびりと、なんて
絵にかいたあこがれみたいなもので、
じゅうじつしたひとの活動をみると
すぐにまねしたくなる わたしのわるいクセだ。
サンディエゴでなくても、スコットランドでなくても、
日本にもいいコースはあるだろうし、
わたしの地元だって みかたによれば
自然と景観の宝庫ともいえる。
退職してからゆっくり のんびりと、なんて
絵にかいたモチをおいもとめないで、
はじめられるところから手をつければ、
やればやっただけ、知識と経験をつみかさねられる。
サンディエゴとスコットランドは、
それはそれでおおきな目標としてだいじにし、
それまでにも「あるき」を日常にとりいれたほうがいい。
どんなシューズやリュックが ながくあるくのに適切かなど、
じっさいにつかっていないと ぶっつけ本番になってしまう。
いつおむかえがきてもいい、なんていいながら、
やりたいことがどんどんふえていく。
2017年06月14日
Wカップアジア最終予選 対イラク戦
Wカップアジア最終予選のイラク戦。
イラクは政情不安により、試合ができないので、
第三国のイランでおこなわれた。
結果からいえば、1-1のドローにおわる。
ピッチの気温が35℃、湿度10%の過酷なコンディションが、
さいごまで日本をくるしめた。
もちろん、条件は両チームともおなじとはいえ、
日本はあつさでうごけなくなる選手がおおかった。
当然だ。
日本選手にとって、いつもゲームをしているグランドとは
まったく別次元の環境であり、
試合に集中できるコンディションではない。
そんななかで はしりまわれというほうが むちゃなのだ。
後半はとくに、両チームとも選手が足をつり、
たびたびタンカがピッチにはこびこまれた。
消耗戦とよぶのがぴったりの過酷な試合となる。
日本は前半8分に大迫のヘディングで先制したものの、
それ以降はほとんどの時間帯でイラクにせめこまれた。
まもる時間がながかった影響で、後半は日本選手の足がとまってくる。
ルーズボールのほとんどをイラクにつながれ、
日本は攻撃の形がなかなかつくれない。
チャンスがなかったわけではなく、2点目をきめきれなかったツケが
ドローという結果でかえってきた。
イラクの選手たちは、過酷な状況での試合になれているようにみえた。
はげしくボールにむかいつづけ、
プレーにからめて ひじうちやとびげりを したたかにねらっている。
日本選手は接触があるたびに こづきまわされていた。
イラクはロングボールが効果的だったし、パスもよくつながるので、
日本はボールをなかなかうばえない。
手をかけず、スルスルっとゴールまえにせまり、
かんたんにシュートまでもちこんでくる。
なぜこのチームがグループ5位にいるのかが不思議だった。
あつさ・ボールがころがらない芝生・審判の笛と、
典型的な「アジア最終予選」ともいえる。
日本は ケガによるアクシデントで2枚の交代枠をつかい、
おもったような試合展開にもちこめない。
けっきょく、35℃のあつさに あまりにも消耗させられた試合となった。
1-1でのひきわけは、残念な結果とはいえ、
つかれきった日本選手からは、得点のかおりがほとんどしなかった。
「まけなかっただけマシ」な試合だった。
イラクは政情不安により、試合ができないので、
第三国のイランでおこなわれた。
結果からいえば、1-1のドローにおわる。
ピッチの気温が35℃、湿度10%の過酷なコンディションが、
さいごまで日本をくるしめた。
もちろん、条件は両チームともおなじとはいえ、
日本はあつさでうごけなくなる選手がおおかった。
当然だ。
日本選手にとって、いつもゲームをしているグランドとは
まったく別次元の環境であり、
試合に集中できるコンディションではない。
そんななかで はしりまわれというほうが むちゃなのだ。
後半はとくに、両チームとも選手が足をつり、
たびたびタンカがピッチにはこびこまれた。
消耗戦とよぶのがぴったりの過酷な試合となる。
日本は前半8分に大迫のヘディングで先制したものの、
それ以降はほとんどの時間帯でイラクにせめこまれた。
まもる時間がながかった影響で、後半は日本選手の足がとまってくる。
ルーズボールのほとんどをイラクにつながれ、
日本は攻撃の形がなかなかつくれない。
チャンスがなかったわけではなく、2点目をきめきれなかったツケが
ドローという結果でかえってきた。
イラクの選手たちは、過酷な状況での試合になれているようにみえた。
はげしくボールにむかいつづけ、
プレーにからめて ひじうちやとびげりを したたかにねらっている。
日本選手は接触があるたびに こづきまわされていた。
イラクはロングボールが効果的だったし、パスもよくつながるので、
日本はボールをなかなかうばえない。
手をかけず、スルスルっとゴールまえにせまり、
かんたんにシュートまでもちこんでくる。
なぜこのチームがグループ5位にいるのかが不思議だった。
あつさ・ボールがころがらない芝生・審判の笛と、
典型的な「アジア最終予選」ともいえる。
日本は ケガによるアクシデントで2枚の交代枠をつかい、
おもったような試合展開にもちこめない。
けっきょく、35℃のあつさに あまりにも消耗させられた試合となった。
1-1でのひきわけは、残念な結果とはいえ、
つかれきった日本選手からは、得点のかおりがほとんどしなかった。
「まけなかっただけマシ」な試合だった。
2017年06月13日
『タイ 謎解き町めぐり』(桑野淳一)
『タイ 謎解き町めぐり』(桑野淳一・彩流社)
サブタイトルは、「華人廟から都市の出目を知る」。
タイの町をつくったのは、外国からの移民であり、
なかでも中国からやってきたひとたちによる影響がおおきい。
本書でいう華人とは、中国からの移民のことで、
華人廟は、日本でいえば神社のような存在らしい。
華人たちがタイの町につくった華人廟をたずねると、
中国移民たちの出身地がわかり、
そこから町の発展の経緯を、おおまかに推理できるという。
桑野氏は、ときおり得意そうに自分の推測をひろうし、
そのたねあかしをしながら 読者を華人廟へとみちびこうとする。
華人たちは、タイにうつりすんだとき、
出身地にわかれてよりあつまり、同郷のものどおしで仕事についた。
彼らがつくったタイの町は、
彼らが中国のどこからやってきたかによって、
町ごとに それぞれはっきり特徴のある発展をとげた。
桑野氏は、タイの町にかならずある華人廟をたずねながら、
どのようにしてその町がつくられていったかをさぐっていく。
わたしには、よんでいてさっぱりわからないところもあるけれど、
こうしたやり方でタイの発展をしらべようとする著者の
ものずきといいたくなるような情熱を、おもしろいとおもった。
おおくの旅行本とはちがい、
ものすごくマニアックな町めぐりであり、
ふつうはあまり関心をもちにくい華人廟めぐりに
著者は喜々としてとりくんでいる。
といって、生活のすべてをなげだして、みたいな悲壮感はない。
いい年こいたおじさんが、趣味としてたのしんでいる。
そのかるさと、ときおり顔をのぞかせる
アカデミックな知識のバランスがとてもよい。
謎がとかされる過程がおもしろいというよりも、
著者のマニアックな情熱がただめずらしく、
好感をもちながらの読書となった。
まったくジャンルはちがうけれど、本書をよみながら、
くしくも、おなじくタイを舞台にした
『タイ国鉄4000キロの旅』(渡邊乙弘・文芸社)をおもいだした。
タイ国内をはしるすべての路線にのる旅であり、
鉄道に関心がないものには、まったく理解できない情熱をかたむけて、
著者は車窓にひるがる風景をこまかく記録している。
鉄ちゃんでないわたしでも、
これだけ突出した情熱にふれると、税別2300円の本なのに、
そして図書館にいけばかりられるのに、
おもわずアマゾンに注文した。
対象がなんであれ、だれかがゴソゴソと
おもしろがってとりくむ本は魅力がある。
いちじるしい情熱はあきらかに伝染する。
そんな情熱を発散させてくれる場所として
タイはなにかと魅力にあふれた国のようだ。
サブタイトルは、「華人廟から都市の出目を知る」。
タイの町をつくったのは、外国からの移民であり、
なかでも中国からやってきたひとたちによる影響がおおきい。
本書でいう華人とは、中国からの移民のことで、
華人廟は、日本でいえば神社のような存在らしい。
華人たちがタイの町につくった華人廟をたずねると、
中国移民たちの出身地がわかり、
そこから町の発展の経緯を、おおまかに推理できるという。
桑野氏は、ときおり得意そうに自分の推測をひろうし、
そのたねあかしをしながら 読者を華人廟へとみちびこうとする。
華人たちは、タイにうつりすんだとき、
出身地にわかれてよりあつまり、同郷のものどおしで仕事についた。
彼らがつくったタイの町は、
彼らが中国のどこからやってきたかによって、
町ごとに それぞれはっきり特徴のある発展をとげた。
桑野氏は、タイの町にかならずある華人廟をたずねながら、
どのようにしてその町がつくられていったかをさぐっていく。
わたしには、よんでいてさっぱりわからないところもあるけれど、
こうしたやり方でタイの発展をしらべようとする著者の
ものずきといいたくなるような情熱を、おもしろいとおもった。
おおくの旅行本とはちがい、
ものすごくマニアックな町めぐりであり、
ふつうはあまり関心をもちにくい華人廟めぐりに
著者は喜々としてとりくんでいる。
といって、生活のすべてをなげだして、みたいな悲壮感はない。
いい年こいたおじさんが、趣味としてたのしんでいる。
そのかるさと、ときおり顔をのぞかせる
アカデミックな知識のバランスがとてもよい。
謎がとかされる過程がおもしろいというよりも、
著者のマニアックな情熱がただめずらしく、
好感をもちながらの読書となった。
まったくジャンルはちがうけれど、本書をよみながら、
くしくも、おなじくタイを舞台にした
『タイ国鉄4000キロの旅』(渡邊乙弘・文芸社)をおもいだした。
タイ国内をはしるすべての路線にのる旅であり、
鉄道に関心がないものには、まったく理解できない情熱をかたむけて、
著者は車窓にひるがる風景をこまかく記録している。
鉄ちゃんでないわたしでも、
これだけ突出した情熱にふれると、税別2300円の本なのに、
そして図書館にいけばかりられるのに、
おもわずアマゾンに注文した。
対象がなんであれ、だれかがゴソゴソと
おもしろがってとりくむ本は魅力がある。
いちじるしい情熱はあきらかに伝染する。
そんな情熱を発散させてくれる場所として
タイはなにかと魅力にあふれた国のようだ。
2017年06月12日
冷蔵庫にあるのこりものでお弁当をつくるとかんたんだ
お弁当をつくるとき、温度差のあるおかずをくっつけると
いたみやすいので よくないという。
夏はとくに食中毒が心配になるので、
かならず火をとおすようにいわれる。
でも、冷蔵庫にいれてあるものどおしだったら、
どれも低温なので、そのままお弁当箱にいれられる。
火をとおさなくてもお弁当ができあがるのは すごく楽だ。
ごはんだけは、朝たいたものを べつのいれものにいれる。
ごはんのうえにベーコンエッグをのせると、
つめたいおかずだけの味けない雰囲気がおさえられ、
ゆたかな食生活を演出できる(ような気がする)。
職場についたら、お弁当を冷蔵庫にすぐいれる。
わたしは通勤時間が10分なので、
ほぼ冷蔵庫から冷蔵庫へと、お弁当箱をリレーできる。
衛生面からみて 完璧だ。
職場にはレンジがなく、おひるには、つめたいままのお弁当をたべる。
ひんやりしたお弁当は、冬だとあまりたのしくないけど、
夏はそんなに気にならない。
わたしはもう、つめたいお弁当になれた。
おかずがつめたいのは致命傷ではなく、
大切なのはなにがお弁当箱につめられているかだ。
冷蔵庫にたよったお弁当の問題点は、
いかにも残飯ふうで、おいしくなさそうなみかけだ。
おかずをひとつずつ、しきりでわければ
もうすこしみた目がよくなるだろうけど、
めんどくさいので わたしはおかずぜんぶを いっしょくたにいれる。
ひえているので、たとえば野菜いためや煮物などはかたまっており、
しきりがなくてもあつかえる。
キャラ弁がはやる時代に、かなり残念なみかけではあるものの、
おなかにいれてしまえばいっしょと 昭和うまれはかんがえる。
夕ごはんがおわったとき、
テーブルにおかずがたくさんのこっているなら、
かたづけるついでに、はやばやとお弁当箱にいれてしまうのもいい。
これだと、朝のいそがしい時間に お弁当の準備をしなくてもいいので、
もっとも時間に余裕がもてるやりかただ。
朝ごはんのおわりに ゆっくりコーヒーがのめ、
その日の予定を確認したりと、いちにちを冷静にスタートできる。
朝をトータルでかんがえると、お弁当づくりに時間をとられるより、
できるだけ手間をかけず、そのぶん新聞をよんだり
コーヒーをいれたりにまわせるほうが ゆたかだとわたしはおもう。
お弁当づくりを、冷蔵庫にいれてあるおかずにたよるので、
冷蔵庫になにがあるのかをいつも気にかける。
したがって、おかずがいたむまえに ぜんぶたべきる。
いいことばかりだ。
冷蔵庫のなかで ものをくさらせるひとの気がしれない。
いたみやすいので よくないという。
夏はとくに食中毒が心配になるので、
かならず火をとおすようにいわれる。
でも、冷蔵庫にいれてあるものどおしだったら、
どれも低温なので、そのままお弁当箱にいれられる。
火をとおさなくてもお弁当ができあがるのは すごく楽だ。
ごはんだけは、朝たいたものを べつのいれものにいれる。
ごはんのうえにベーコンエッグをのせると、
つめたいおかずだけの味けない雰囲気がおさえられ、
ゆたかな食生活を演出できる(ような気がする)。
職場についたら、お弁当を冷蔵庫にすぐいれる。
わたしは通勤時間が10分なので、
ほぼ冷蔵庫から冷蔵庫へと、お弁当箱をリレーできる。
衛生面からみて 完璧だ。
職場にはレンジがなく、おひるには、つめたいままのお弁当をたべる。
ひんやりしたお弁当は、冬だとあまりたのしくないけど、
夏はそんなに気にならない。
わたしはもう、つめたいお弁当になれた。
おかずがつめたいのは致命傷ではなく、
大切なのはなにがお弁当箱につめられているかだ。
冷蔵庫にたよったお弁当の問題点は、
いかにも残飯ふうで、おいしくなさそうなみかけだ。
おかずをひとつずつ、しきりでわければ
もうすこしみた目がよくなるだろうけど、
めんどくさいので わたしはおかずぜんぶを いっしょくたにいれる。
ひえているので、たとえば野菜いためや煮物などはかたまっており、
しきりがなくてもあつかえる。
キャラ弁がはやる時代に、かなり残念なみかけではあるものの、
おなかにいれてしまえばいっしょと 昭和うまれはかんがえる。
夕ごはんがおわったとき、
テーブルにおかずがたくさんのこっているなら、
かたづけるついでに、はやばやとお弁当箱にいれてしまうのもいい。
これだと、朝のいそがしい時間に お弁当の準備をしなくてもいいので、
もっとも時間に余裕がもてるやりかただ。
朝ごはんのおわりに ゆっくりコーヒーがのめ、
その日の予定を確認したりと、いちにちを冷静にスタートできる。
朝をトータルでかんがえると、お弁当づくりに時間をとられるより、
できるだけ手間をかけず、そのぶん新聞をよんだり
コーヒーをいれたりにまわせるほうが ゆたかだとわたしはおもう。
お弁当づくりを、冷蔵庫にいれてあるおかずにたよるので、
冷蔵庫になにがあるのかをいつも気にかける。
したがって、おかずがいたむまえに ぜんぶたべきる。
いいことばかりだ。
冷蔵庫のなかで ものをくさらせるひとの気がしれない。
2017年06月11日
ゴッドハンドかとおもったピピのオシッコ
2ヶ月ほどまえから首と肩がいたい。
ピピがいつもわたしのとなりでねることから、
へんな姿勢がつづいてしまい 寝ちがえたのだろう。
肩はよくまわるし、うでもうえまであがるので、
50肩ではないはずだ。
生活するのにそう不都合はないけど、
首をうごかすとジンジンいたむのはたのしくない。
ほっておいてもなおらないので、2週間まえに
これまでなんどかお世話になったことのある 整体院へいった。
わたしはもともと首がよわく、
数年にいちど、そのおみせでととのえてもらっている。
でも、こんかいはききめがなく、
おなじいたみがそのあともつづく。
2日まえは、これもときどきお世話になっている
マッサージのお店をたずねる。
状況を説明し、もんでもらうけど、だめだった。
こういうお店は、こっている場所をちょくせつさわるのではなく、
全身にちらばる いっけん関係ないツボをおさえていく。
肩がいたくても、首がまわらなくても、
マッサージのやり方はいつもとおなじだ。
どこをさわられても気もちいいけど、
こりをほぐされていく快感はあじわえないし、
いちどのマッサージでは解決されなかった。
きのうはピピがしきふとんのうえでオシッコをする。
厳重にしいたつもりのトイレシートをかいくぐり、
シーツのしたにもしいていたトイレシートもかいくぐり、
しきぶとんがぐっしょりぬれている。
してはいけないところでオシッコするときは、
なぜかトイレでするときよりも はるかに量がおおい。
がっくりくる。
シーツをあらい、ふとんをほし、
ピピにお説教してからひるねにつく。
目がさめると、なんだか首と肩がらくになった気がする。
しきぶとんなしの、うすいクッションが、
いい姿勢をとれせてくれ、首がほぐれたようだ。
いつまでもつづくわたしのいたみをさっし、
計算づくでピピはオシッコをしたのだろうか。
まったくおもってもみなかった角度からの
間接的なゴッドハンドだ。
不思議なめぐりあわせをアレンジしたピピに感謝する。
とおもったら、じきにいたみがもどってきた。
ゴッドハンドかとおもったピピのオシッコは、
めんどくさくてトイレにいくのを たださぼっただけだったのか。
でも、まだわからないと、親バカなわたしはおもう。
しばらくしたら、絶大な効果がじわじわでてくるかも。
ピピがいつもわたしのとなりでねることから、
へんな姿勢がつづいてしまい 寝ちがえたのだろう。
肩はよくまわるし、うでもうえまであがるので、
50肩ではないはずだ。
生活するのにそう不都合はないけど、
首をうごかすとジンジンいたむのはたのしくない。
ほっておいてもなおらないので、2週間まえに
これまでなんどかお世話になったことのある 整体院へいった。
わたしはもともと首がよわく、
数年にいちど、そのおみせでととのえてもらっている。
でも、こんかいはききめがなく、
おなじいたみがそのあともつづく。
2日まえは、これもときどきお世話になっている
マッサージのお店をたずねる。
状況を説明し、もんでもらうけど、だめだった。
こういうお店は、こっている場所をちょくせつさわるのではなく、
全身にちらばる いっけん関係ないツボをおさえていく。
肩がいたくても、首がまわらなくても、
マッサージのやり方はいつもとおなじだ。
どこをさわられても気もちいいけど、
こりをほぐされていく快感はあじわえないし、
いちどのマッサージでは解決されなかった。
きのうはピピがしきふとんのうえでオシッコをする。
厳重にしいたつもりのトイレシートをかいくぐり、
シーツのしたにもしいていたトイレシートもかいくぐり、
しきぶとんがぐっしょりぬれている。
してはいけないところでオシッコするときは、
なぜかトイレでするときよりも はるかに量がおおい。
がっくりくる。
シーツをあらい、ふとんをほし、
ピピにお説教してからひるねにつく。
目がさめると、なんだか首と肩がらくになった気がする。
しきぶとんなしの、うすいクッションが、
いい姿勢をとれせてくれ、首がほぐれたようだ。
いつまでもつづくわたしのいたみをさっし、
計算づくでピピはオシッコをしたのだろうか。
まったくおもってもみなかった角度からの
間接的なゴッドハンドだ。
不思議なめぐりあわせをアレンジしたピピに感謝する。
とおもったら、じきにいたみがもどってきた。
ゴッドハンドかとおもったピピのオシッコは、
めんどくさくてトイレにいくのを たださぼっただけだったのか。
でも、まだわからないと、親バカなわたしはおもう。
しばらくしたら、絶大な効果がじわじわでてくるかも。