2017年06月10日

どれがイネなのか、まだわからない

いっしょに田んぼに種もみをまいたしりあいから 電話がかかってきた。
芽がでたかどうか、心配してくれる。
わたしが田んぼをみても、どれがイネなのかよくわからないので、
これまで連絡をひかえていた。
きょうは、そのしりあいにもみてもらおうと、
いっしょに田んぼへでかける。

結果からいえば、イネがそだっているかどうかを、
きょうも確認できなかった。
これまでの失敗でこりており、こんかいは
種もみいりの団子を一定間隔でまいていったのに、
それでもどれがイネで、どれが雑草なのかわからない。
団子をまいたのが、5月3日なので、もう5週間すぎている。
イネには葉耳・葉舌とよばれる
ヒゲみたいのがはえているけど、ヒエにはない。
と、知識としてはしっていても、
いざ田んぼにはえている植物をみると、
ヒゲのようでもあり、ヒゲでないようにもみえる。
けっきょく、もうすこしようすをみようと、
田んぼをあとにする。
ようすをみるといっても、なにもすることはないのだけど。
イネのようなヒエのような.jpg
【イネのようなヒエのような】
つぎに、ふたりで畑にむかった。
せんじつうえた夏やさいの苗がかれずにそだっているかの確認だ。
雨がなんどかふったこともあり、
どの苗も、ちゃんといきのこっている。
つぎに、ニンニクを収穫する。
きょねんの10月にうえたニンニクが、
かれはじめているので、そろそろぬいてもよさそうだ。
ちょっとちからをこめて茎をひっぱると、かんたんにぬけた。
ぬけたのではなく、おれたのかとおもった。
それくらい、抵抗がちいさい。
茎のさきには、ほんのちいさなかたまりがついている。
しらないひとがみたら、
これがまさかニンニクだとはおもわないだろう。
肥料もやらず、草とりもしなかったとはいえ、おどろくほどちいさい。
タマネギも、ピンポン球よりちいさなのしかできなかったけど、
ニンニクもまたそうとうなものだ。
ニンニクの収穫.jpg
そんなささやかなニンニクなのに、
もってかえろうと、車につむと、
すごいにおいがたちこめてきた。
ちいさくてもさすがにニンニクで、
料理につかえば そうとうなかおりを まきちらしてくれるだろう。
ただ、あまりにもちいさいので、
いっかいの料理にひとたまぜんぶをつかい、
すぐにたべおえてしまいそうだ。

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2017年06月09日

散髪難民

ながいあいだかよっている美容院の、予約がとれなくなった。
スタッフがやめてしまい、店長ひとりきりの体制となったため、
2ヶ月さきまで予約がいっぱいだといわれる。
いつでも利用できるとおもっていたので、
ながいあいだはまてないほど髪がのびている。
しかたなく、ほかのお店をさがす。

町にはたくさんの理髪店・美容院があるのに、
なんで予約がとれないほど
ひとつのお店に人気があつまるのか。
かよっていた店は、よいサービスとはおもうものの、
予約でいっぱいになるほど 特別とはおもわなかった。
なじみのお店にいけないとなると、プランBがない。
いきなり散髪難民になった気分だ。
きのうシリアを話題にしたあとだけに、
軽々しく「難民」なんていいたくないけど、
しらない世界にいきなりほうりだされた
トホホ感とよるべなさは あまりたのしくない。

なじみのお店のほうが、気らくでいいけど、
とはいえ、わたしはそんなにお店をかぎるほうではない。
外国へ旅行にいったときでも、
その国の散髪事情がしりたくて、
目についた店にはいり、髪をきってもらう。
これまでにネパール・タイ・フランス・モロッコ・
ベトナム・フィリピンの散髪屋さんを体験した。
どの国も、予約なんかいれてない。
いきなりたずねても、ほとんどの国で
すぐにイスにすわらせてくれた。

印象にのこっているのが、ホーチミン市の理髪店で、
はじめにきいた料金はやすくても、
イスにすわっているあいだに、耳そうじやツメきりなど、
こっちの意志を確認せずにどんどんサービスにあたり、
それらぜんぶに追加料金がかかった。
けっきょくはじめにきいた金額の、2倍くらいを請求される。
だましているとはいえないけど、
しぼりとれるものはぜんぶいただこうとする
ベトナム人のすさまじいエネルギーをかんじた。

自宅と職場のあいだにやすそうな理髪店があり、
「予約なしでもOK」の看板がでていた。
のぞいてみると、髪をきるだけなら2100円という。
予約なしでいって、まつのはいやだから、
つぎの日の夕方に予約をいれる。

夕方6時にお店にはいると、そのあとも
ひっきりなしにお客さんがやってきて、
あたりまえのようにまっている。
予約していたひとたちらしい。
4人のスタッフが、手わけして お客さんをながしている。
30分まって、わたしの名前がよばれた。

3センチきって、とたのむ。
ほかのお客さんをみると、
モヒカンみたいに中央の髪だけをのこし、
その部分をかたまでながくのばしているひとや、
もうじゅうぶんみじかいのに
さらにきってもらいたがるひとなど、いろいろだ。
そういえば、ずっと美容院へかよっていたので、
男だけの客という環境がめずらしい。
子ども以外は、手間がかかりそうな髪型のひとがおおい。
3センチきるだけのわたしなんて、
めちゃくちゃかんたんな客ではないのか。

ひげそりとヘアトニック、それにマッサージはことわる。
追加料金を心配してのことだ。
あとからおもえば、マッサージはおそらく無料だったろう。
このごろ肩こりがひどく、マッサージ店にいきたいぐらいなのに、
そのマッサージを自分からことわるのは残念だった。
「肩がこらなくていいですね」
なんて ほめられてしまい、もしまたこのお店にくることがあっても
マッサージをたのみにくい。
たのまないのに、どんどん追加サービスにとりかかり
料金をうわのせしようとするベトナム方式が
教訓となりすぎてしまった。

すべてがおわり、鏡をみると、
あれっ?と拍子ぬけするくらい 変化がちいさい。
あたりさわりのないように、
それだけうまく髪をきってくれたのだろう。
なやみの種になりつつあった散髪が、
あっけなくかたづいた。
髪をきるだけにとどめた禁欲的な姿勢がみのり、
はじめにいわれたとおりの2100円をしはらって店をでる。

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2017年06月08日

キリンチャレンジカップ、対シリア戦 サッカーができるしあわせ

きのうはキリンチャレンジカップで
日本対シリアの試合がくまれた。
Wカップアジア最終予選のイラク戦をひかえ、
中東のチームになれておこうという位置づけだ。
シリアとしても、中国戦が来週おこなわれるので、
日本と試合しておけば いい調整ができるだろう。

試合は1-1のひきわけにおわった。
前半はとくにシリアのよさがめだち、
日本らしい攻撃のかたちができない。
後半のあたまから久保にかわって本田がはいり、
そのあと乾がはいると ようやく日本にリズムがでてくる。
とくに乾のボールさばきは、メッシをおもわせるレベルだ。
解説者が、「セクシー」といってたけど、ほんと そんなかんじ。

しかし、それにしてもシリアである。
2200万人の人口のうち、470万人が
難民生活をおくっている あの、シリアだ。
シリアとの親善試合としりつつ、
あらためて相手がシリアであることにおどろいている。
国内は内戦状態で、国民の2割が難民となり
国からでていくような状態なのに、
サッカーの代表チームを組織し、
選手団を外国へおくりだすなんてすごい。
実況しているアナウンサーが、
ほんのすこしシリアの混乱した国内事情を紹介したけど、
試合内容よりもまず、試合がくまれ、それが実現しただけでも
おどろくべき事態ではないか。

日本が来週の火曜日に本番でたたかうイラクは、
まだ国内で試合ができる状態ではなく、
最終予選は第3国のイランでおこなわれる。
そのイランにしても、せんじつテロがおきたばかりで、
おちついて試合ができるのか気になるところだ。
シリアの選手たちは、国民をちからづけるために
ぜひWカップに出場したいと
試合まえのインタビューでこたえていたという。

わたしはいまでもおぼえている。
2007年のアジアカップで、優勝したのはイラクだった。
オシムさんが指揮をとっていた当時の日本代表は、4位におわっている。
政情不安がつづいていたイラクは、国内での練習ができないなか、
気迫にみちたプレーで 感動的な初優勝をはたした。
祖国のため・国民のため、というセリフはよくきくけど、
そのことばがほんとうにプレーとしてあらわれる試合を
わたしははじめてみた。

こんかいの親善試合で、
シリアがおもいがけず 日本をくるしめたのは、
アジアカップのイラクとおなじように、
国民や祖国のためと、モチベーションがたかかったのだろう。
戦争や政治で国がめちゃくちゃになるのは
あってはならない事態だけど、
サッカーは、たしかに民族をまとめるちからがある。

さいわい日本は治安を心配したりせず、
サッカーに集中できるのぞまれた環境だ。
シリアやイラクと試合がくまれたこの時期の代表戦で、
試合内容やスタッツを気にするだけでなく、
平和にサッカーができるしあわせを、再確認したい。

posted by カルピス at 21:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月07日

伊藤理佐さんの「お土産 やめました」がうまい

朝日新聞に連載ちゅうの伊藤理佐さんの
「オトナになった女子たちへ」をたのしみにしている。
今回は、おみやげをかわなくなったはなしだ。
今、わたしの軒下には
「冷やし中華 はじめました」的に、
「お土産 やめました」
が、風に吹かれているのだった。はためいている。旅行で、お土産を探すのをやめた。(中略)
旅先で「義理」を考えないのがとても気持ちいいのだった。

そんなある日、伊藤さんは
「もらってもあげてもなんのプレッシャーもない」
粋なおみやげをオトナ女子の友人からもらうのだけど、
それはまたべつのはなし。
ここでは軒下でゆれる旗についてかく。
「冷やし中華 はじめました」的に
がうまい。
ちょっとしたニュースをさりげなくしらせる効果は、
たしかに「冷やし中華」の旗がぬきんでている。
「いかがですか?」ではなく、
「はじめました」といってるだけなのに、
旗をみたひとは、「じゃあたべてみるか」と
なんらかの反応をしめしたくなる。

わたしもなにか適切な「おしらせ」がしたくなった。
すぐにおもいついたのが、
「人生、半分おりてます」
だけど、これはちょっと旗がおおきすぎる。
冷やし中華サイズの旗にかぎるとして、
わたしはどんな旗を
軒下にひらめかせられるだろう。

わたしの場合「お土産 やめました」というより、
「お土産 やめてます」のほうが正確だ。
「おみやげかわない主義者」であると職場で宣言し、
研修にださせてもらっても、
個人で旅行にいったときも、
基本的におみやげをもちかえらない。
研修は、いそがしいなか、
事業所のお金でいかせてもらうのだから、
感謝の気もちとして おみやげを職場にもちかえるのが
社会人としての「常識」なのだろうけど、かわない。
かわなければ、あんがいなんとかなるもので、
とくにいやなおもいをしたことはない。

そうはいっても、伊藤さんが「お土産 やめました」
の旗をかかげたくなる気もちはわかる。
なにもおしらせなしに おみやげをかわないと、
職場や世間にかなり義理をかいてしまいそうだ。
そんなときに、冷やし中華的な旗が
方針の変更をつたえるのにピッタリくる。
玄関にはる「セールスおことわり」では、
一方的な宣告であり、うるおいがない。
冷やし中華の旗をひっぱりだしてきた
伊藤さんの観察力をたかく評価したい。

posted by カルピス at 22:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月06日

『真夜中のパーティー』(フィリパ=ピアス)ディックはなぜ村をでていったのか

『真夜中のパーティー』(フィリパ=ピアス・岩波少年文庫)

フィリパ=ピアスといえば
『トムは真夜中の庭で』が有名だけど、
この『真夜中のパーティー』は、
表紙の絵があかぬけており、いかにもおもしろそうだ。
図書館をぶらついているとき、目をひいたので かりてみる。
ページをめくると、まえによんだ本なのに気づく。
でも、ほとんどわすれているので問題ない。

8編からなる短編集だ。
ねるまえのお酒を手にして よみはじめる。
いちにちのおわりに、寝酒をたのしみながら
みじかいものがたりをひとつよむのは、
わるくない読書におもえてきた。
アラビアンナイトを地でいく夜のおたのしみだ。
児童文学の短編なのですぐによめるし、
よみおえたとき、まだグラスにすこし酒がのこっているのがいい。
ものがたりをふりかえりながら グラスをからにする。
ながい小説だと、よみすすめながら
つい酒をおかわりしたくなる。
ねるまえの読書は、児童文学の短編にとどめをさす。

一編めは、「よごれディック」。
ディックは「ぼく」の家のおとなりさんで、
動物とがらくたにかこまれてくらしている。
廃品回収をなりわいにしているようで、
いつも荷車にがらくたをのせ、てくてくあるいている。
ほかにもウサギとメンドリをかい、
現金をかせいでいるようすだ。
「よごれディック」というくらいだから、
きっと身のまわりにむとんちゃくで、
女のひとは不衛生な男をきらうから、
「ぼく」のお母さんはディックをきらっている。

近所のメイシーさんは、奥さんにかくれて
きいろい犬をかっていたけど、
奥さんにばれると すぐにすててこいとめいじられる。
メイシーさんは、奥さんのいうことが絶対なので、
いわれたとおり、犬をもといた場所の道路につれていく。
犬は、両目がみえず、道路におきざりにされたら
すぐに車にひかれてしまうだろう。
「ぼく」は、なんとかしたいけど、
どうしたらいいのかわからない。
そんなとき、とおりかかったディックが、
犬をだきよせて荷車のうえにのせた。
よごれディックは動物たちの世話をよくやいた。そして養うことにきめた老犬の世話もよくしてやった。犬はいつも、えさをたっぶりもらって、ブラシをていねいにかけてもらっていた。ときどきディックは、長いひもの先に犬をつないでつれて出たが、だいたいのところ犬は家で気持ちよく暮らさせてもらっていた。

ある事件がおきて、ディックは村からすがたをけしてしまう。
ウサギとメンドリは、村のひとにあげてしまった。
お金はごくすこししかもっていなかったにちがいない。まだお札がいっぱいつまっている靴下が、家賃をはらうたびに書きこむノートといっしょに、暖炉の上に置いてあった。残してあったお金は、家賃と、つぎの借家人のために家と庭とをきれいにする費用には、じゅうぶんだった。

自分がわるいわけではないのに、
ディックはなぜなにも説明しないまま
村をでていってしまったのか。
グラスにのこったわずかなお酒では、
ぜんぜんまにあわず、おかわりがしたくなる。
ただ、あと味はわるくない。
わたしが年おいたときのくらし、
そして自由について おもいをめぐらす。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月05日

「何でもたべる」は、日本人だけの美徳なのか

『21世紀のインド人』(山田和・平凡社)をよんでいたら、
すききらいがないのを美徳とする日本人のかんがえ方は、
世界的にみて、けして一般的ではないとかいてあった。
私たち日本人が、美徳の最たるものと見なしている「好き嫌いをしないこと」「何でも食べること」は、じつは日本人の美徳にすぎない。ヒンドゥー教徒は牛肉をたべず、イスラーム教徒は豚肉をたべないし酒も飲まない。

給食でたべのこしたりすると、
「世界には、じゅうぶんな食事ができないひとがいる」と、
道徳的なとらえかたで 子どもに圧力をかけるけど、
日本人以外はそんな価値観をもたないのだろうか。
日本では「好き嫌いがないこと」は社会的協調性が備わっていることと見なされ、親の躾が悪くなかったことを意味するだけでなく、その人物が我が儘でないこと、気むずかしく神経質な人間でないことさえも意味する。「何でも食べる」ことは善的価値のかたまりであり、転じて出来物、好人物であることさえ保証するのだ。このような価値観が通るのはしかし、日本人の間だけである。

日本の常識は、世界の非常識というのを、
「クールジャパン」などをみていると
つよくかんじるわけだけど、
とはいえ、宗教的なタブーと、
ピーマンやにんじんがにが手、というのを
いっしょくたに論じていいものだろうか。
なるほどなー、といったんはふかく感心したものの、
そんなかんがえ方もある、くらいにとどめ、
あくまでも「インドでは」の
ただしがきをわすれないほうがいいような気がする。

朝日新聞のコラム「特派員メモ」に、
「ヒンディー語では、明日と昨日がおなじ単語だ」
とあった。
インド人は時間をまもらない、といわれるけど、
明日と昨日がおなじ単語なら、
日本的な時間感覚とはかなりずれるのも
しかたないようにおもう。
そんな価値観のもとで生きているひとたちが
世界にはたくさんいることを、わすれないでおきたい。

たとえば、アマゾンの奥地でくらすピダハンのひとたちは、
数をかぞえることばがなく、右と左をわけることばもないという。
日本人からみると、おどろくような言語だけど、
文化は相対的であり、優劣はないのだから、
日本人的な価値観から
いい・わるいといってもしかたない。
自分のとらえ方が、世界的にみて
ぜったいただしいときめつけず、
文化の多様性のまえに謙虚でありたい。

posted by カルピス at 21:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月04日

地区の自治会の運命は?

ゆうべは地区の体育振興会に出席する。
総会と、そのあとに懇親会が予定されていた。
どうせたいした意見はでず、沈黙のうちに議題がすすむ
チャンチャン総会だろうとおもっていたら、
いくつも意見がでて 意外ともりあがる。

わたしがすむ地域は、高齢化がすすみ、
自治会への参加がだんだんとすくなくなっている。
それにともない会費収入がへり、
このままおなじ規模の事業計画をたてると、
予算がくるしくなっていく。
安定した会費収入を確保するために、
これまであつめている会費にくわえ、
各地区からさらに5000円ずつを
追加徴収しては、という提案から議論に火がついた。

会費のうえに、さらに5000円なんて
自分の地区に説明できない、というひとや、
追加であつめるまえに、もっとむだな支出を
みなおすべきだ、という意見がでる。
それにたいし、これまでの経緯が説明され、
それぞれにもっともな理があるようにおもえる。
自分の意見をもち、それをほかのひとにもわかるいい方で
はなせるひとが なんにんもいるのにおどろいた。
日本の民主主義は、すくなくとも町内会レベルでは
しっかりと国民のなかに根づいている。

会員の高齢化と、わかものの減少は、
会費の減少だけでなく、
会の存続そのものにもかかわってくる。
役員会は、おなじ顔ぶれがもうながいことつづけており、
あとをひきつごうとするひとがいない。
たいていの企画に参加者があつまらず、
おなじようなメンバーで毎年やりくりしている。
ちかい将来、年にいちどの体育祭すら
ひらけなくなるかもしれない。
地域の体育をもりあげるどころか、
会じたいがつづかなくなりそうだ。
会をどうするか、あんがいはやい段階で
判断をくだす必要があるかもしれない。
何十年まえのやり方を、ずっとつづけてきた弊害もでており、
会員の減少をきっかけに、会そのものをやめたり、
ちがう企画にかえたりする まがり角にきている。

過疎がすすんだ村では、
議会をやめる検討までされているそうで、
体育振興会がなくなるくらいは、
それにくらべると、たいした問題ではない。
ただ、おわりのはじまりとして、
これからどんな経緯をへて
地域の自治会がしぼんでいくのかを、
しずかに観察していきたい。

posted by カルピス at 21:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月03日

西部謙司さんが分析する モナコのつよさの秘密は「普通さ」

サッカーライターの西部謙司さんが、
チャンピオンズリーグで活躍するモナコを、
「非凡な”普通さ”が最大の武器」と分析している。
https://www.footballchannel.jp/2017/04/21/post207735/3/
なにしろ、財政的にそれほどおおきくないクラブが、
あのドルトムントに2連勝したのだから、
なにか特別な秘密がかくされていそうだ。
よく練られてはいるが、特殊な守備戦術を用いているわけでもない。極めて普通の4-4-2である。そして、それこそが相手チームにとっての落とし穴なのではないだろうか。(中略)
 モナコの守備が普通なので普通に攻め込むと、ボランチの守備力が普通ではない。奪われて「あっ」と気づいたときには手遅れ。モナコのカウンターが 発動する。

「ふつう」をつきつめると、非凡なつよさに到達するなんて、
いかにもわたしがすきそうなはなしだ。

「あたりまえ」や「ふつう」こそがだいじなんだと、
わたしは座右の銘に平凡さをあげている。
おおくのひとがもとめるのは、「ふつう」のくらしだ。
でも、「ふつう」はあんがいとらえどころがなく、
「ふつう」にくらしているときは、そのありがたさに気づかない。
なにかがおきて、ふつうでなくなったときに、
「ふつう」がいかにありえない状況だったかをしる。
ふつうこそ、最大にして最強のしあわせだ。

自分ではあたりまえだとおもっていることが、
ひとからみるとめずらしかったり、
あんがい いいレベルにたっしていたりして
ほめられたことがなんどかある。
なにを「ふつう」とかんがえるかは
ひとによってちがうわけで、
わたしの「ふつう」は、べつのひとの「ふつう」ではない。
モナコは「ふつう」そうにみせかけたのではなく、
「ふつう」そうだからと かってに油断する相手のほうがわるい。
とはいえ、サッカーの戦術として
「ふつう」が成立しているのをおもしろくおもった。
ふつうのことを ふつうにやれば ふつうでなくなる。
バルサやレアル・マドリーなどがつよいのは、
それぞれもっともらしい理由があるなかで、
「ふつう」をちからにするモナコのつよさは魅力的だ。

posted by カルピス at 17:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月02日

スポーツをたのしむ権利

きのうの朝日新聞に、
「スポーツ嫌いな子、だめですか」
という記事がのっていた。
スポーツ庁が、運動やスポーツのきらいな中学生について、
半減させる目標をうちだしたことへの反応だ。
(スポーツ庁の調査によると)運動やスポーツが「嫌い」か「やや嫌い」な中学生は16・4%。微増傾向にある。このままでは将来、運動しない大人が増えてしまうと、同庁は3月、5年かけて8%に半減させる目標を「スポーツ基本計画」の中で打ち出した。

「スポーツ嫌いな子、だめですか」には、
きらいなままじゃだめですか、の意味がふくまれている。
計画が報じられると、「強制しないでほしい」「余計嫌いになる」「嫌いで何が悪い」などの意見がネット上で飛び交った。

タイトルも刺激的だけど、
わたしがこの記事に目をとめたのは、
ヒャダインさんの名前をみかけたからだ。
ヒャダインさんは、テレビ番組「久保みねヒャダこじらせナイト」で
体育へのうらみ・つらみをとりあげているらしい。
わたしは、「強制しないでほしい」と反発するよりも、
体育へのうらみ・つらみから、
スポーツをきらいにさせない教育が大切だとおもう。

ヒャダインさんによると、
体育が嫌なのは恥をかかされるから。周りに迷惑をかけている申し訳なさ、馬鹿にされているんだろうなという自虐。ネガティブな感情ばかりが渦巻くんです。

学校での体育は、できる子がたのしいおもいをするいっぽうで、
ヒャダインさんがいうように、できない子、にがてな子は
はずかしかったり、かなしいおもいをする つらい時間だ。
できない子、にがてな子を、
できるようにする過程が体育の授業だとおもうけど、
適切なノウハウをもった先生はかぎられている。

運動がきらいな中学生をへらすというよりも、
運動をきらいにさせないことが大切だ。
体育の授業が、できる子をもてはやす時間ではなく、
できない子をできるようする
本来のすがたをとりもどせば、
子どもたちは運動がきらいにならない。
小学校の低学年では ほとんどの子が体育をすきなのに、
成長するにつれてきらいになるのは、
できない子がつらいおもいをするからだ。
この記事は、いろいろな要素をいっしょくたにして
話題づくりをねらった印象をうける。
「スポーツ嫌いな子」がだめなのではなく、
スポーツをきらいにさせた学校体育に問題がある。

中村敏雄氏の『近代スポーツ批判』には
うまくない人には、そうなってしまった不幸な歴史があったのである。それを笑ったり、けなしたりすることは、人間的な行為とはいえないし、そうしていることが、うまくない人の自由を圧迫していることになる、ということにも思い至るべきであろう。
とかかれている。
この本がだされたのは1977年であり、
それから40年たっても状況はあまりかわっていない。
スポーツが得意なひとは、
ほっておいても自分でかってにからだをうごかす。
大切なのは、スポーツをきらいにさせない教育であり、
学校体育がはたすやくわりはおおきい。
スポーツはできるひとだけのものではなく、
だれにもスポーツをたのしむ権利がある。
スポーツがうまくないひとの
「不幸な歴史」がくりかえされてはならない。

posted by カルピス at 21:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月01日

ガールズポップスの壁がたかくあつい

ラジオ番組「ヒャダインの”ガルポプ”」をきいていたら、
ヒャダインさんとゲストの嗣永桃子さんの会話が
まるで外国語のようだった。
ハロー!プロジェクトやキュート、
カントリー=ガールズといわれても、
なんのことだかわからない。
ふたりはわたしがわからないことばを
器用にあやつる異文化のひとだ。
キュートは「℃-ute」なのだそうだ。
ウィキペディアにくわしくかかれているけど、
よんでもますますわからない。
夕方パラダイスの津野米咲さんや高田秋さん、
それにヒャダインさんがはなしてくれる
ガールズポップスの世界に
なんとかついていこうとしてるけど、
関心はあっても共感できる曲がほとんどなく、
たかくあつい壁にはねつけられている。

そもそもガールズポップスについていこうとしたのは、
ヒャダインさんたちのおしゃべりが興味ぶかかったからだ。
わたしがしらないところで、なにやらおもしろそうにあそんでいる。
おじさんもなかまにいれてくれないか、みたいなノリだ。

でも、わたしがしらない世界は ガールズポップスだけでない。
というよりも、本やサッカー以外は しらないジャンルだらけだ。
本にしたって、時代小説やSFはまずよまない。
純文学は、よんでも そのよさがわからない。
マンガやアニメだって、むかしはすきだったけど、
ごぶさたしているあいだに すっかりとりのこされてしまった。
だれかがよいガイドになってくれないと、
大量のマンガのなかから、どれをよめばいいのか
わたしにはもはやわからない。

きゅうにガールズポップスをききはじめたのは、
のこされた時間のすくなさに
危機感をもったわたしの脳みそが、
なんとか抵抗しようともがきはじめたのではないか。
このままくちおちていくには、
あまりにもわたしはものごとをしらない。
とはいえ、のこされた時間をどうつかうのか、
優先順位をはっきりさせないと、
いろんなことに手をひろげただけで、
とりいれた情報が、ゴチャゴチャとまとまらないまま
寿命がつきてしまいそうだ。
クラシックとソウルミュージックを
頭のなかの地図にすっきり整理したい。
わかくていきのいい作家たちの本に目をくばりたい。
ガールズポップスにかたむける時間があまりにも不毛なら、
はやいとこあきらめたほうが いいのかもしれない。

posted by カルピス at 21:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする