『イージー・ライダー』
(デニス=ホッパー:監督・1969年・アメリカ)
ピーター=フォンダがとにかくかっこいい。
すらっと背がたかく、ときどきニコッとちいさくわらい、
フロントフォークがものすごくながいバイクがよくにあう。
あんなバイクにのって、仲間とふたり、ふらっと旅にでたら
どんなにたのしいだろう。
のどかな田舎道や、あらあらしい荒野を、
予定にしばられずに気ままにはしる。
夜はもちろん野宿だ。
わかいころみたら、いちころで影響をうけたのではないか。
旅のとちゅうでおとずれたヒッピーたちのコミューンが
とうじのアメリカのうごきをつたえている。
町をはなれ、自然のなかで自由にくらしていく。
くるものをこばまず、食事もふるまってくれた。
スカスカのやきいもみたいなのをたべていたけど、
あれはなんだったのだろう。
パンの失敗作か、あのコミューンの名物料理なのか。
ジャック=ニコルソンもよかった。
あのころからニコルソンはすでにニコルソンだったのだ。
弁護士として、ちゃんとはたらいていたら
体制側のメンバーとしてうけいれられたのに、
よそもののふたりぐみにくわわったために、
州の境で住民たちからリンチをうける。
自由の国だとおもっていたアメリカなのに、
じっさいは髪がながいだけでもゆるされなかった。
わかいころみたら、影響をうけただろう、とかいたけど、
じつはわかいころ わたしはこの作品をみている。
本多勝一さんが、アメリカ南部の差別について、
黒人でなくても よそものは異端者としてあつかわれると
なにかの本にかいていた。
白人であるピーター=フォンダとデニス=ホッパーが
なぜあんなふうにころされなければならなかったかは、
ふつうにあの作品をみていただけではわかりにくい。
とうじのアメリカ南部の社会は、たとえ白人であっても
異端者はころされても当然というあつかいをうける。
『イージー・ライダー』は、
差別と偏見を極端にえがいたのではなく、
当時のアメリカがかかえていた、現実そのものだった。
野宿だって、モーテルにことわられるから
野宿をせざるをえなかったのだし、
町ではいったカフェでは 客たちからひややかな視線をあび、
お店のひとは注文さえきこうとしない。
自由の国だとおもっていたアメリカが、
こんなに差別と偏見にみちた社会だったとは。
映画のなかでニコルソンが、
自由をおそれるから 自由にいきるものをおそれる、
と分析している。
自分たちとちがうものをうけいれない。
あたりまえのようにリンチにかけ 銃をはなつ。
ピーター=フォンダがかっこいい、
ジャック=ニコルソンがいい味だしていた、
なんて うかれてみられたのは さいしょだけだ。
ものがたりがすすむにつれ、現実のひどさに呆然となる。