2017年06月27日

津村記久子さんによるしあわせの定義

津村記久子さんが朝日新聞に連載しているコラムで
「幸せは固定された時間ではなくサイクルの中にあるのだ」
と喝破している。
この結論にたどりついたのは、
「あえてダラダラすること」があなたの毎日に健康と創造力をもたらす。

という、インターネットの記事をよんだのがきっかけとなっている。
いかにもわたしごのみのフレーズであり、
やっぱりそうかと、ふかく納得した。
津村さんは、「ダラダラ」でたちどまらないで、
さらに「ぼんやり」へとおもいをはせる。
5月のある夕方、仕事が終わってぼんやり過ごしていて、心底幸せだなと感じたことがあった。(中略)ただ坐っているだけで、なんとなく満足していた。自分はぼんやりする権利を守るために日々働いてるんだな、とその時におもったのだった。「仕事終わった!」っていう時が一番幸せ、とあるライターさんが言っていた。ということは幸せになるためには仕事をする過程がいるわけで、要するに、幸せは固定された時間ではなくサイクルの中にあるのだ。

だからこそ毎日の生活のなかに
おおくのひとがしあわせをかんじるのであり、
スペシャルなイベントよりも
平凡な日常こそがしあわせの本質といえる。
旅行にでかけ みしらぬ土地をあるいたり、
さわやかな風にふかれるここちよさは、
しあわせというよりも よろこびであり、
いっしょにしないで わけてかんがえたほうがよさそうだ。
しあわせは、くりかえし再生が可能という
津村さんの発見をわたしも支持したい。
そして津村さんは、
ぼんやりとしあわせとの関係も指摘している。

・ぼんやりしていると しあわせをかんじられる
・ぼんやりできるのは仕事をおえたとき
・しあわせになるには仕事をすること

「ぼんやり」にピッタリなのが、老人となったネコだ。
いっしょにくらしているネコのピピは、
いちにちのほとんどをねてすごしているけど、
夜になるとわたしがねているベッドまできて、
わたしのからだによじのぼり、ハナをこすりつけてくる。
わたしたちは じっと目をみつめあい、みじかいことばをかわす。
毎晩おなじ儀式が もうながいことつづいており、
その時間こそがわたしにとってのしあわせとなっている。
ピピとのくらしは「ぼんやり」だけで、仕事とは縁どおいけど、
しあわせの定義と矛盾しないと、強行突破をはかりたい。
仕事をおえなくても、わたしはピピのおかげでぼんやりできるから。

posted by カルピス at 22:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする