2017年07月11日

ヒロシさんのネガティブ芸がすごい

NHK-FMの「ゆうがたパラダイス」、
火曜日は三森すずこさんの担当で、
きょうのゲストはヒロシさんだった。
「ヒロシです」のヒロシだ。
ひとむかしまえ、ネガティブなセリフを
ひとりがたりしていたヒロシさんは、
いまもまたネガティブさを前面にだしている。
でも、その内容はずいぶん円熟味をましてきた。
いぜんは、よくあるネガティブにすぎなかったのが、
いまはさらにそれを
「ネガティブであつかいにくいひと」まで芸をたかめている。
わたしもけっこうネガティブな人間なのに、
ついもっとポジティブにならないと、とまじめにかんがえがちだ。
何十年もネガティブをやってきたのだから、
そうかんたんにポジティブになれるわけがない。
ヒロシさんのネガティブ路線を参考にして、
ネガティブでなにがわるいと、ひらきなおりたくなった。

ヒロシさんについて、むかしみた芸のほかには
どんなひとなのか ほとんどしらない。
自虐ギャグで絶大な人気をえていたピン芸人で、
その後まったくうれなくなり
(自分からテレビにでなくなったらしい)、
世間のつめたさをしっかり味わったひとと解釈している。
三森さんの番組では、ネガティブであつかいにくいひととして
「おれのことほんとにしりたいの?」と
すぐにうたがったり ひねくれたりして、
あつかいにくさが芸になっていて おかしかった。
「しくじり先生」を絵にかいたような人生で、
まわりもヒロシさんのうきしずみをしっているから、
はれものをさわるようなあつかいだ。
なにかいったとき「おもしろくないでしょ?」と
自分からいじけるので、まわりのあわてぶりがおもしろくなる。
地獄をみたひとのつよさ・すごさがにじみでて、
ほかのひとにない芸風となっている。
おちるとこまでおちれば、もうこわいものはない。
ネガティブだって あんがいわるくないのかも。
世のなかは、とかくポジティブさがもとめられがちで、
だからこそ かえって生きにくいひとがたくさんいる。
時代は地味をこえて、ネガティブへと舵をきりつつある。

ヒロシさんの趣味はアウトドアだそうで、
なぜなのかをきかれると、
自然はみんなに平等だから。
うれてるひとにも、うれてないひとにも、
平等に雨がふる。

というのがおかしかった。
ふつうなら、お天道さまは、だれにも平等に陽をそそぐ、
といいそうなところなのに、
根っからネガティブなひとは雨をまずイメージするのだ。
ヒロシさんの真骨頂をみたおもいだ。

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2017年07月10日

『PK』(ラージクマール=ヒラーニ:監督・アーミル=カーン:主演)

『PK』(ラージクマール=ヒラーニ:監督・2014年・インド)

『きっと、うまくいく』のアーミル=カーンが主役をえんじる。
評判がいいし、アーミル=カーンなので、
おもしろくないわけがないと期待してかりた。
153分とながい作品で、なかなかはなしがうごきださない。
前半は、ものがたりの伏線をかためる作業がしつこいほどつづき、
それぞれの配置がきまった まんなかへんから
いっきょにものがたりがすすんでいく。
この作品をえがくには、153分が必要だったと
全部みおわったときに納得できる。
『カラマーゾフの兄弟』をえがくには、
あのとほうもないながさが必要なのとおなじだ(ほんとか!)

以下ネタバレあり。
地球を調査するためにやってきた宇宙船から、
宇宙人がひとりインドの砂漠におりたつ。
宇宙船と交信するリモコンを、冒頭でいきなりうばわれてしまい、
彼(PK)は、ことばも風習もわからないインドに、
なすすべもないままほうりだされる。
神さまならたすけてくれるというので、
いろんな神さまにすがり、リモコンがもどるようにおねがいする。
しかし、どの神さまも、PKのねがいをきいてくれない。
なぜ神さまがたすけてくれないのか、
PKはいろいろかんがえるうちに、宗教の本質にせまっていく。

宗教批判にうけとれる場面があり、
よくこの作品がインドでつくられたものだと感心する。
いくつもの宗教が混在し、現実の問題として
きびしい対立関係にあるインドだからこそ、
うけいれられたのかもしれない。
インドで宗教をあつかうというと、
いろいろタブーがおおそうだけど、
宗教が身ぢかな存在なだけ、
あるていどは自由に発言できるのだろうか。
なぜ神にすがってもききいれてもらえないのかは、
おおくのひとたちがもつ共通の疑問だ。

シリアスな問題を、わらいにつつんで
映画にとりいれるのに成功している。
まさか、オープニングに登場した男性が、
ラストの鍵をにぎるとは、まったく予想していなかった。
PKをえんじるアーミル=カーンの、
存在そのものがみごとに宇宙人っぽい。
耳がでかくて、目をかっとひらき、
カトちゃんダンスみたいなはしりかたをする。
宇宙人がいるとしたら、PKみたいな外見ではないだろうか。
みおわったときのさわやかさがすばらしい。
PKもまた、『アホは神の望み』でいう
「神はバカ正直なひとにほほ笑む」典型的なアホっぽいひとだ。
でも、神はPKがバカ正直だからほほえんだのではない。
地球より はるかにひろい宇宙をしっているPKは、
地球人のいう神よりも、本質的な「神」を理解している。

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2017年07月09日

西部謙司氏のいう「気持ちの問題」がおもしろい

サッカージャーナリストの西部謙司氏が、
「気持ちの問題」と題して、
サッカーでも点がおおくはいる試合は実現できるとかいている。
http://www.sponichi.co.jp/soccer/yomimono/column/nishibe/kiji/20170707s00002368176000c.html
オフサイドや、足でボールをあつかうルールにより、
サッカーはあまり点がはいらないスポーツだ。
だからおもしろくない、というひとがいる。
おもしろいスコアは3-2といわれているし、
あまりたくさん点がはいりすぎるのは
なんだかサッカーらしくない。
ただ、国によって得点への価値観はちがっており、
守備を重視するイタリア人にとって、
1-0での勝利が最高のスコアといわれたりする。

西部氏は、先日おこなわれた
J2第20節のFC岐阜対ジェフユナイテッド千葉が、
4−6というスコアだったのを紹介しながら、
現代サッカーと得点の傾向を整理し、
なぜロースコアの試合になりやすいかを分析している。
その結論が「気持ちの問題」というのがおもしろい。
 要は気持ちの問題なのだ。シュートやパスワークなど技術的な問題はあるだろうし、戦術的な課題もあるだろうが、現実に1試合で5点、10点が入る試合もあるわけで、その気になればサッカーは1試合平均2点台のゲームではなくなるに違いない。

結局、たいていのことは「気持ちの問題」なわけで、
でも、それをいっては身もフタもないから
いろいろとかざりをつけて 文章に説得力をもたせるのが一般的だ。
西部氏の記事は、そこをぬけぬけと
ストレートについてくるのが魅力となっており、
人徳からか、なんとなく納得してしまう。

まえにも西部氏の記事に、
「ひいて守る相手をくずすには先取点」
とかいてあり、おどろいたことがある。
ひいてまもりをかためられると、
点をいれられないからこまっているのに、
その解決策が、「さきに点をいれること」なのだから
発想がものずごく柔軟だ。
先取点をいれられたら、相手はせめざるをえないから、
とにかく点をいれたらいい。すごくわかりやすい。
サッカーにくわしくないわたしは、
たくみな守備に感心するだけの知識がないので、
点がたくさんはいる試合のほうが みていてたのしめる。
「気持ちの問題」で、そんな試合がすぐに実現できるのなら、
「ひいてまもってカウンター」ではなく、
もうすこしまえにでて、せめこんでほしい。

先日おこなわれていたコンフェデのメキシコ対ロシアをみる。
ルーズボールをキーパーとあらそっていたメキシコの選手が、
一歩さきにおいつき、ヘディングでボールをうかせる。
ボールはそのままゴールへ。
キーパーは、その選手と交錯したときに、
ボールではなく むなもとへむけて キックをはなっている。
あきらかに 腹いせだ。
スロービデオでそのときの映像がながれると、
おどろいたことに、メキシコの選手はほほえんでいた。
ヘディングしたボールが ゴールにすいこまれるのを確信すると、
キーパーにけられる恐怖よりも、得点へのよろこびにより、
けられながらも空中でわらっていた。
点をいれるためだったら、どんな犠牲でもはらうという
一流選手のガッツをみたおもいだ。
その試合のスコアは2-1でメキシコだった。
けられてもほほえむぐらいの「気持ち」があれば、
4,5点はいるのでは、とかきたかったけど、
じっさいには両チームの合計で3点だ。
「気持ちの問題」は、なかなか気もちだけでは
うまくいかないかもしれない。

posted by カルピス at 20:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月08日

まるのみしてうまいのか?

小アジをフライにしようとさばいていたら、
どのアジのお腹にも、ちいさな魚が何匹かはいっていた。
15センチほどのアジなのに、
自分のからだの 半分くらいある魚を まるのみにしている。
まるのみして、うまいのか?
アジにかぎらず、おおきな魚や、オットセイにアシカ、
そうだ、ペリカンもだ。
つるりと魚をまるのみにするけど、
まるのみして 味のちがいがわかるのだろうか。
鳥だってそういえば基本的にまるのみだ。
カエルやヘビも頭からパクリとやる。
まるのみは、けして異端ではなく、
マジョリティな食事法かもしれない。
その日のごはんをいきおいよくたべている犬は、
とても味わっているようにはみえない。
牛や馬といった草食系の動物以外は、
まるのみないし、それにちかい咀嚼が一般的である。

まるのみがただしい食事法としても、
まるのみ派の動物たちは、なんでもかんでも
まるのみにしているわけではないだろう。
どれをまるのみにするか、かれらはどうやってみわけるのだろう。
あいてがうごいていたら、いきのいいごちそうだと判断して
まるごとパクリとやるのだろうか。
でも、死んだ獲物をたべる動物もいるのだから、
おいしいからまるのみしている動物と、
とにかくお腹をみたしたらいい動物にわけたくなる。

こうなると、「うまい」とは なんなのだろう。
たとえばチンパンジーは このんでたべるものがきまっている。
味覚音痴といわれるネコだって、
どのペットフードでもいいわけではなく、
すきなカンヅメでないとたべない。
まるのみする動物は、うまいから獲物をまるのみにする。
うまいと判断するのは、舌ではなくノドごしの瞬間かもしれない。
人間が舌でうまい・うまくないをきめるのは、
きわめて例外的な舌のつかい方であり、
おおくの動物は、舌にたよらないで「うまい」をきめる。 
だからまるのみでも はやぐいでも、「うまい」とかんじている。
人類は、舌にたよりすぎてきたのではないか。
ノドごしの快感こそが、
つぎのヒット商品をうみだす鍵におもえてきた。

posted by カルピス at 12:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月07日

老化

保育園の庭であそぶ子どもたちをみていると、
しゃがみこんでるか はしっているかで、
ゆっくりあるいたりはしない。
かけまわらずにおれない、生物的な衝動にみちているみたいだ。

わたしはジョギングのまえに、
ほとんどウォーミングアップなしではしりだす。
もう、はじめはほんとうにヘロヘロなはしりで、
脳のだす指令が からだのはしっこにいきとどかず、
からまわりするように手足をうごかす。
いったいこのヘロヘロ感はなんなのだと、
ながねんの疑問だったけど、
このまえようやくおもいついた。
これは、単純に老化現象なのではないか。
いまのところ、日常生活に支障はなく、
ふつうにあるけ、仕事もできるけど、
トレーニングなどのはげしい運動になると、
きゅうにギアをきりかえられるほど
からだはいつでも準備ができている状態ではない。

16歳になるネコのピピは、
いちにちのうち 22時間をねてすごしている。
たべる以外の時間は、ぜんぶまるくなっている。
ネコはもともとくつろぐ時間がながいとはいえ、
22時間はさすがにすごい。
これもまたあきらかに老化なのであり、
彼らのような晩年のすごし方こそ、生物的には自然な姿なのだろう。
ネコの16歳は、人間でいうと75歳になるので、
はしりまわらないのは あたりまえだ。

人間は、いまでこそ90ちかくまで生きるけど、
種の保存を目的に生きる生物としてとらえると、
50歳でそのやくめをおえている。
55になるわたしは、老化しながら 死にむかって
ゆるやかに坂道をくだっている。
いきなりのジョギングに、からだはとまどっているのだ。

なんておもっていたら、けさの朝日新聞に
一柳彗さんが さらっとすごいことをかいておられる。
 2012年に103歳で亡くなった前衛作曲家のエリオット・カーターも、90歳をこえてからがすごかった。晩年に挑戦する心が増してくるというのが本物ですよ。年をとってからの方が、社会からの束縛が少なくなるぶん、好奇心に純粋に従えるようになる。だから、古いものへの反発も逆に少なくなる。新しいか古いかは、実は面白いかどうかには関係ないんです。
 身体の方はそりゃあ、昔ほど元気ではないですが、若い頃にできなかった大変のことが軽々とできたりすることがあります。作曲でもピアノでも。こだわりも消えました。(「人生の贈り物」より)

動物と人間の老化はちがうのだろうか。

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2017年07月06日

1キロ1280円もする南高梅で 梅ぼしをしこむ

3キロの梅をかってきて、梅ぼし用につける。
毎年やってることなのに、毎年のように
お店の棚に梅がなくなるころ あわてて梅をかっている。
スーパーに梅がではじめるころは、梅酒用のわかい梅がおおく、
黄色くうれた梅をまっているあいだに
梅の時期をのがしそうになるのが いつものパターンだ。
まだきょねんつけた梅がすこしのこっており、
3キロつけるか、2キロですますのか、
はっきりきめないまま まよっていたのもよくなかった。

ことしかったのは、1キロ1280円もする南高梅だ。
いつもなら、700円でもたかいとおもうのに、
1280円はいくらなんでもひどい。
ほかの梅をまっていたけど、
いつのまにか やすい梅をみかけなくなった。
梅がなくなってはこまるので、
たかくても1280円で手をうつしかない。
ネットにのった情報では、梅が不作のうえに、
梅どろぼうによる被害がずいぶんでたらしい。
アマゾンをみると、わけあり商品が1キロ 1000円くらいからあり、
手間をかんがえると 1キロ1280円の梅をかってきて
家で梅ぼしをつけていては、わりがあわない。
梅ぼしづくりは、なんとなく
勤勉な日常生活を象徴する行為におもえるので、
ひとつの儀式として ことしもつづけたかった。

エバーノートで「梅干し」を検索すると、
12個のノートがみつかった。
なかには糸井重里さんの「今日のダーリン」もひっかかっている。
梅ぼしのつくり方ではなく、意外にも
ブロクが「毎日なんとか続くコツ」についての記事だ。
ひとつは、「じぶん」が書くしかないとわかったこと。
もうひとつは、「いいこと」なんか書くなよと、
じぶんに教えてやれたこと。
たいしたことない人間だから、
たいしたことないことを書く。

梅は1280円とたかかったけど、
「たいしたことない人間だから」
たいしたことないことをかいたっていいと、
おもいだせてよかった。

検索されたほかのノートにも目をとおすと、
どうも梅ぼしは、平凡な日常生活を
比喩的に表現するときによく顔をだすようだ。
わたしが日常生活の象徴として、梅ぼしづくりをつづけるのは
あながち的はずれのとりくみではなく、
むしろ、梅ぼしがつくる世界観を
ただしく理解しているのかもしれない。
むかしの村上春樹さんだったら ここでアシカを登場させるところだ。
3キロの梅ぼしをつくることで、まともな社会人として
ことしもなんとか いきのびれた気がする。

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2017年07月05日

『アホは神の望み』(村上和雄)

大橋悦夫氏がシゴタノ!で
『アホは神の望み』(村上和雄・サンマーク出版)にふれておられた。
http://cyblog.jp/modules/weblogs/28141
いかにもわたしごのみのタイトルなので、
図書館でかりてよむ。
計算だかい秀才よりも、「神はバカ正直なひとにほほ笑む」と、
いろんな実例をあげて愚直に生きることの大切さがかかれている。
ひっかかったのは、
純粋な理論研究も大事だが、その理論が現実の生活に役立ってこそ意味がある

というところで、
梅棹忠夫さんの『私の生きがい論』にある
できるだけやくにたたないで生きたい、というのと
正反対のとらえ方だ。
一般的には、もちろん 「役立ってこそ意味がある」のほうが
うけいれられるだろうけど、
どうも「やくだつ」をいいはじめると
おもしろさと不思議さがうすまってしまう気がする。
たとえばバカボンのパパは、社会やひとのやくにたちたいとは、
おそらくかんがえていない。
ただすきだから、やいたいから まわりの目を気にせずに、
のびのびとふるまっている。
バカボンのパパみたいなひとこそ 神さまから愛されるはずなのに、
「やくにたたない」からダメときりすててはもったいない。

「ひらがな」についてもふれてある。
平易なものの中にこそほんとうに深いものは存在しているのではないでしょうか。深いことはやさしく伝えられるべきで、やさしくかみ砕いていえない真理は本物ではないーは私にはそう思えます。

わたしの文章は、ひらがなのわりあいがかなりたかく、
なれないひとには、かえってよみにくいようだ。
よんでみて わかりにくいというよりも、
ひらがなのおおさがあまりにも異質なため、
生理的な嫌悪感をまねくのではないか。
よみやすく、わかりやすい文章をこころがけているのに、
反対の感想をきくのは残念だ。
よみにくくならないよう、みじかいセンテンスをこころがけ、
ときには「わかちがき」もとりいれて、
漢字がはたしている視覚的なくぎりとしている。
ただ、ますますひらがながおおくなる傾向も
たしかにかんじている。
まえは、訓よみは原則としてひらがなで、という
おだやかな方針だったけど、
いまではさらに戦闘的となり、
音よみでも できるだけひらがなをつかう。
そのほうが わたしにとって 視覚的にうつくしいからで、
このままいくと、数年後には、
ほとんど漢字をつかわないブログになりそうだ。
10年つづけてブログかこうと 目標にしているけれど、
もしかしたら 10年目にかくブログは、
ひらがなだけの文章でゴールインするかもしれない。
きっとそれがわたしの文章の完成形だ。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月04日

Jリーグ雑感

ことしは3季ぶりにJリーグが1シーズン制となった。
もし独走するチームがでれば、優勝あらそいへの関心が
そがれるところだったけど、
いまのところはげしい混戦がつづいている。
勝点35から26のあいだに8チームがいて、
試合ごとに首位がめまぐるしくかわっている。

目につくうごきとしては、
・波にのれない有力チーム(とくに広島の不振・現在17位)
・ACLの決勝トーナメントに川崎と浦和がのこっている
・J2から昇格してきたチームが明暗をわけている
 (セレッソが1位、コンサドーレ札幌が15位、
 清水エスパルスが13位)

J1が混戦というなら、J2は激戦リーグだ。
1位と2位が勝点43で突出しているものの、
3位あらそいは 勝点36から30のあいだに
なんと12チームが団子状態でひしめいている。
ただ、3位になったからといって無条件に昇格できるわけではなく、
3位から6位までのチームによるトーナメントで
3チームめの昇格がきまる規則だ。
後半戦にはいれば、6位までをキープしようと、
ますますシビアなレースとなるだろう。

そんなたいへんな状況なのに、
J2については ほとんどメディアがとりあげない。
Jリーグタイムですら、J2については 試合結果をしらせるだけで、
上位をたもとうと、どんなあらそいになっているかのコメントはない。
そんななかで、朝日新聞に連載されている
津村記久子さんの『ディス・イズ・ザ・デイ』は
J2とJ3をいったりきたりするような
よわいチームを愛してしまったサポーターに焦点をあてている。
スター選手がいたり、圧倒的なつよいチームでなくても、
いろんな理由から ひとはサポーターになる。
いわば、サッカーが生活に根づいているひとたちで、
サッカー文化が日本にしっかり根をおろしたからこそ、
こうした下部リーグにも熱心なサポーターがついている。

Jリーグタイムのキャスターが中川絵美里さんにかわり、
豊富な知識と適切なコメントにより、
安心して番組をみられるようになった。
それまでは、ほとんどサッカーをしらない女性タレントが担当になり、
猛勉強でだんだんとサッカー事情につうじるようになるものの、
なぜこのひとがサッカーの番組にかつぎだされたのかと、
しっくりこないときがおおかった。
サッカーを報道するというよりも、
かわいいタレントとしてのふるまいを 期待されているようにみえた。
中川さんをキャスターにすえたことで、
Jリーグタイムは ようやくサッカーの専門番組として
体制をととのえた。

せんじつおこなわれたコンフェデ杯の試合をすこしみたら、
ボールさばきがあんまりうまいのでおどろいてしまった。
Jリーグとは、別次元のサッカーであり、
おどろくとともに、ちょっとがっかりした。
日本と世界とのあいだには、まだそうとうな差が歴然としてある。
代表チームを応援するだけでなく、
J2やJ3、あるいは、まだJリーグに加盟すらできていない
弱小チームへの無償の愛が、
日本のサッカーをすこしずつまえにすすめていく。
わたしはどこかのチームをつよく応援するほどの
熱心なファンではないけれど、
サッカーからおおくのエネルギーをうけとった。
サッカーがあってよかったと、
日本のサッカーをささえている すべてのサポーターに感謝している。

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2017年07月03日

「孤独は前提」をうたがってみる

すこしまえの「今日のダーリン」に
糸井重里さんが「孤独は前提」とかいている。
孤独は、すべての人にとっての前提なのであるから、
だれかは孤独じゃなくてだれかは孤独ということはない。

そうか。前提なのか。いいことばをしった。
選択ではなく、前提。
ひとりで死ぬのは さみしくてやだなーとおもっていたけど、
前提とわりきれば、しょうがないさだめと うけいれられる。
たとえば、死ぬときにまわりでだれもみとってくれないのは、
死ねきれないくらいさみしいと おそれていた。
でも、孤独は前提といわれると、
だれかに手をにぎってもらいながら
あの世へいきたいなんて、あまっちょろいたわごとにおもえてくる。

わかいころ、クラブのリーダーになったとき、
リーダーはなんて孤独なのかとおどろいた。
わたしにはとてもたえられないので、それ以降は
リーダーになりそうな気配をかんじると
あわててにげだすようになった。
これだって、孤独でないようにと、
むだなしくみをこころみるのではなく、
前提としてうけいれたら、
あたりまえのはなしとして我慢するしかない。
孤独は前提、というとらえかたは、
前提なのでにげださないように、という
神さまからのいましめにちがいない。

とはいえ、わたしはすこし「孤独は前提」を
素直にうけいれすぎるのかもしれない。
「孤独は前提」は、いかにも説得力があることばだけど、
ほかのことばをかわりにいれても
あんがいもっともらしくおさまる。
「残念は前提」といわれると、
そういえばそんな面があるような気がするし、
「しあわせは前提」だって、
あたりまえの覚悟としてきこえないでもない。
なにをいれても相性がいいのなら、
おもいきって「前提はない」というのはどうだろう。
前提なんかにこだわらず、自由にやるぞー、という宣言だ。

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2017年07月02日

『マイ・インターン』デ=ニーロのあらたな魅力

『マイ・インターン』
(ナンシー=マイヤーズ:監督・2015年・アメリカ)

70歳のベン(デ=ニーロ)は、妻をなくしてから3年がたち、
おだやかな日々のくらしに感謝しながらも、
仕事に熱中していたころをなつかしくおもいかえす。
退職してから いろんなところへ旅行にいったし、
外国語の勉強にとりくんだりもした。
自由な時間はたっぷりあるけれど、
いいかげん、そんな悠々自適の生活にもあきてきた。
いまは なにかその日にするべき用事を 毎日さがしている。
あたらしく生きがいとなる なにかがほしいと、
ファッション通信サイトの会社がよびかけた
シニア=インターン制度に応募する。
女性のボス(アン=ハサウェイ)のもとにつかえる
みならいとして配属がきまり、
あたらしい職場でのあたらしい生活がはじまった。

うまくいきすぎている、という批判もあるようだけど、
ハサウェイとデ=ニーロの魅力がいっぱいで、
すてきな作品にしあがっている。
とくにデ=ニーロは、70歳の老人をえんじながら、
おだやかな笑顔であたらしい魅力をみせる。
こんな役ができるひとだとは、おもわなかった。
これまでに、いろんなタイプの役をこなしてきた
デ=ニーロならではの、ボーナス作品といっていい。
ハサウェイもすてきだ。
やり手の社長だけど、会社をおおきくしたのちも
仕事への熱意をたもちつづけ、まわりへの配慮もおこたらない。
『プラダを着た悪魔』で上司をつとめた
メリル=ストリープとはまったくちがうタイプで、
よわさもみせるし 自信のなさもときどきのぞかせる。
人間味にあふれた彼女だから、ベンのもちあじを評価できた。

この作品は、セリフとして生き方をかたってはいないけれど、
けっきょくひとは礼儀ただしさが大切であるし、
誠実に生きなければ、なにも蓄積されないとおしえてくれる。
デ=ニーロの作品から 誠実さをまなぶとは へんなかんじだ。
70歳になったとき、わたしはベンのように
ゆたかな表情でひとをはげませられるだろうか。
自分の人生を肯定できるからこそ、
ベンは自信をもって 自分の価値観をまわりにかたりかける。

ほかのスタッフから相談をうけたとき、
「エリのついた服をきていったほうがいい」とか
「ハンカチはひとにかすためにある」など、
ゆたかな経験にうらづけされた具体的なアドバイスをベンはおくる。
そんなひとことを、まわりはもとめている。
誠実に生きてきたベンだから、
自信をもってアドバイスをおくれるし、
まわりもそれをききいれようとする。
ネットにかんする知識はすくなくても、
男として大人の会話ができるし、
相手へのおもいやりもかかさない。
ベンのおだやかな笑顔をみているうちに、
わたしもまたあたたかな気もちで生きたくなった。
すなおにみれば、とてもいい気分にしてくれる作品であり、
そうおもえないというひとがいたら、
『プラダを着た悪魔』のほうがあっているかもしれない。

posted by カルピス at 21:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月01日

草のなかでそだっているのは たぶんイネ

田んぼのみまわりへ。
こんかいは、イネらしい株を「発見」した。
等間隔に泥団子をまいたにしては、ふぞろいだけど、
おそらくこれはイネだ。
たぶんイネ.jpg
ただ、まわりの草のいきおいにまけ、おおきくそだてないみたいだ。
むかしの米づくりは、草とりがいかにたいへんだったかと、
よく苦労話をきかされた(いまは農薬をあたりまえにつかう)。
たしかにこれだけ草にうもれると、
イネだけにそだってほしいとねがうのは 虫がよすぎるだろう。
福岡正信さんの自然農法では、
レンゲによって草をおさえるというけど、
レンゲだけでそう うまくいくものだろうか。
わたしの田んぼにも、きょねんの秋にレンゲをまき、
春さきにはレンゲが花をさかせた。
種もみのはいった泥団子をまいてから、
草刈機でレンゲをかったけど、
そのあとはえてきた雑草に田んぼはおおわれている。
田んぼには、水をはっているので、
水によわい草はかれる、というのが水田のよさといわれるけど、
いまの状態でイネが草にまけずそだってくれるのか、
はなはだこころもとない。
とはいえ、手で草をとっていたら、時間がかかりすぎる。
ひとの手をくわえなくてもそだつからこそ自然農法というのだ。
きょうのところはどうしようもないので、
そのまま水をはったまま しばらくようすをみたい。

ちかくにある畑へいくと、
1ヶ月まえにうえた夏やさいの苗がそだっていた。
雨がすくない1ヶ月だったので、よく生きのびてくれた。
ただ、かれないで生きのこっていた、
という状態で、おおきく成長したという意味ではない。
サツマイモは、苗のときからほとんどおおきさがかわらない。
そんななか、ズッキーニだけがげんきそうだ。
ズッキーニ.jpg
畑もだいぶ草がはえてきてたけど、
本格的な草とりをするげんきがなかったので、
ほんのすこしウネにはえている草をとっただけで、
畑のみまわりをおえる。
「自然農法」という名を理由に、
これだけ手ぬきの野菜づくりでは
うえられた苗たちの 苦戦を報告するだけになる。
だれにでもできる自然農法の野菜づくりには、
どんな野菜をえらべばいいのか まだよくわからない。

posted by カルピス at 15:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする