糸井重里さんが「孤独は前提」とかいている。
孤独は、すべての人にとっての前提なのであるから、
だれかは孤独じゃなくてだれかは孤独ということはない。
そうか。前提なのか。いいことばをしった。
選択ではなく、前提。
ひとりで死ぬのは さみしくてやだなーとおもっていたけど、
前提とわりきれば、しょうがないさだめと うけいれられる。
たとえば、死ぬときにまわりでだれもみとってくれないのは、
死ねきれないくらいさみしいと おそれていた。
でも、孤独は前提といわれると、
だれかに手をにぎってもらいながら
あの世へいきたいなんて、あまっちょろいたわごとにおもえてくる。
わかいころ、クラブのリーダーになったとき、
リーダーはなんて孤独なのかとおどろいた。
わたしにはとてもたえられないので、それ以降は
リーダーになりそうな気配をかんじると
あわててにげだすようになった。
これだって、孤独でないようにと、
むだなしくみをこころみるのではなく、
前提としてうけいれたら、
あたりまえのはなしとして我慢するしかない。
孤独は前提、というとらえかたは、
前提なのでにげださないように、という
神さまからのいましめにちがいない。
とはいえ、わたしはすこし「孤独は前提」を
素直にうけいれすぎるのかもしれない。
「孤独は前提」は、いかにも説得力があることばだけど、
ほかのことばをかわりにいれても
あんがいもっともらしくおさまる。
「残念は前提」といわれると、
そういえばそんな面があるような気がするし、
「しあわせは前提」だって、
あたりまえの覚悟としてきこえないでもない。
なにをいれても相性がいいのなら、
おもいきって「前提はない」というのはどうだろう。
前提なんかにこだわらず、自由にやるぞー、という宣言だ。