『アホは神の望み』(村上和雄・サンマーク出版)にふれておられた。
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いかにもわたしごのみのタイトルなので、
図書館でかりてよむ。
計算だかい秀才よりも、「神はバカ正直なひとにほほ笑む」と、
いろんな実例をあげて愚直に生きることの大切さがかかれている。
ひっかかったのは、
純粋な理論研究も大事だが、その理論が現実の生活に役立ってこそ意味がある
というところで、
梅棹忠夫さんの『私の生きがい論』にある
できるだけやくにたたないで生きたい、というのと
正反対のとらえ方だ。
一般的には、もちろん 「役立ってこそ意味がある」のほうが
うけいれられるだろうけど、
どうも「やくだつ」をいいはじめると
おもしろさと不思議さがうすまってしまう気がする。
たとえばバカボンのパパは、社会やひとのやくにたちたいとは、
おそらくかんがえていない。
ただすきだから、やいたいから まわりの目を気にせずに、
のびのびとふるまっている。
バカボンのパパみたいなひとこそ 神さまから愛されるはずなのに、
「やくにたたない」からダメときりすててはもったいない。
「ひらがな」についてもふれてある。
平易なものの中にこそほんとうに深いものは存在しているのではないでしょうか。深いことはやさしく伝えられるべきで、やさしくかみ砕いていえない真理は本物ではないーは私にはそう思えます。
わたしの文章は、ひらがなのわりあいがかなりたかく、
なれないひとには、かえってよみにくいようだ。
よんでみて わかりにくいというよりも、
ひらがなのおおさがあまりにも異質なため、
生理的な嫌悪感をまねくのではないか。
よみやすく、わかりやすい文章をこころがけているのに、
反対の感想をきくのは残念だ。
よみにくくならないよう、みじかいセンテンスをこころがけ、
ときには「わかちがき」もとりいれて、
漢字がはたしている視覚的なくぎりとしている。
ただ、ますますひらがながおおくなる傾向も
たしかにかんじている。
まえは、訓よみは原則としてひらがなで、という
おだやかな方針だったけど、
いまではさらに戦闘的となり、
音よみでも できるだけひらがなをつかう。
そのほうが わたしにとって 視覚的にうつくしいからで、
このままいくと、数年後には、
ほとんど漢字をつかわないブログになりそうだ。
10年つづけてブログかこうと 目標にしているけれど、
もしかしたら 10年目にかくブログは、
ひらがなだけの文章でゴールインするかもしれない。
きっとそれがわたしの文章の完成形だ。