2017年08月31日

祝 日本代表 2018Wカップ ロシア大会へ

Wカップアジア最終予選、
対オーストラリア戦に日本が2-0と勝利し、
2018ロシア大会への出場をきめた。
ロングボールでいっきょにゴールまえにせまり、
フィジカルのつよさでゴリゴリおしてきたオーストラリアは
すでに過去の姿となった。
いまは、キーパーからパスをつないでせめあがるサッカーをめざし、
世界で通用するチームへと、戦術をきりかえちゅうだ。

解説の木村さんが、なんどもくちにしていたのは、
「パスをつないでくれて、ほんとうにたすかった」
というセリフで、
事実、オーストラリアは後半にケーヒルをいれても
戦術そのものはかえないで、あいかわらずパスをつないできた。
オーストラリアにとって、
チームをつくりなおしている期間なのだから、
めさきの勝利にこだわらず、パスをつなぎつづけるのは、
適切な方針かもしれないけど、
日本にとって、そのほうがやりやすかったのはたしかだ。

とはいえ、前半41分に浅野が先制点をいれるまで、
せめながらも、シュートをはなちながらも、
日本は得点をうばえずに、いやな展開になりかけていた。
実況アナウンサー氏は、
「点がはいらなかったら、どうしようかという前半でした」
とあとからふりかえっている。
これまでの日本がそうだった。
シュートをたくさんはなちながら 決定力をかき、
自分で試合をむつかしくしている。
きょうは、後半に2点目を井手口がきめ、
戦術をかえてこないオーストラリアにもたすけられた形で、
あぶなげなく試合をおえている。

香川・本田・岡崎という、これまでの中心選手にかわり、
浅野・井手口・大迫・乾が先発でピッチにたつ。
選手たちは90分をつうじてよくはしり、
相手にプレッシャーをかけつづけた。
つぶされても、なんどでもボールにからんでいく姿勢が、
試合終了のホイッスルがなるまでかわらない。
はしりつづける選手たちがたのもしかった。

試合終了後のインタビューで、
ハリルホジッチ監督は、インタビューというよりも、
ひとりでかってに演説していた。
「ありがとう。メルシーボクー。ファンタスティック!」
4年前もこんなかんじでスタジアムがよろこびにつつまれた。
Wカップの出場をきめたときの監督・選手たちの感激は、
みているものの胸をうつ。
4年前も 相手はオーストラリアで、会場もおなじ埼玉スタジアム。
後半ロスタイムにえたPKを 本田がゴールのまんなかにきめて、
劇的なかたちで同点においつき、ブラジル大会への出場をきめた。
あのときと、きょうの試合の両方に先発したのは
川島・長友・長谷部、そして吉田の4名だ。
いまの日本代表は、若手とベテランが、
いいかんじで融合したチームといえるかもしれない。
オーストラリアに2-0での完勝は、
ハリルホジッチ監督になってからのベストマッチだった。

posted by カルピス at 23:07 | Comment(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月30日

まくらのうえでピピがおしっこ

ゆうべは、ピピがベッドのうえで、2どおしっこをした。
いちどめは、あつさ対策としてしいているゴザのうえで。
にどめは、まくらのうえだ。
まくらには、もちろんわたしの頭がのっているはずだけど、
わたしがトイレにいっているあいだに
(スキをみはからったかのようだ)、
まくらのうえにすわりこんでいた。
足元には、おしっこのシミがみえる。
こんなときにかぎって、
まくらの裏側までおしっこが貫通するほどの
大量のおしっこが放出されたようだ。

まくらのうえでおしっこをされると、とてもこまる。
まくらのうえでおしっこをされたトホホ感は、
まくらのうえでおしっこをされたひとにしかわからない。
今夜わたしはどうやってねればいいのか。
まくらカバーをあらっただけではダメで、
なかにはいっているちいさなつめものを あらわないくてはならない。

ピピがまくらのうえでおしっこをするのは、
いやがらせではなく、ネコはこういうちょっともりあがった
やわらかいところがすきだからだ。
うずくまるだけならいいけど、おしっこはひどい。
ピピは、最低限の量をたべ、水ものんでいるので、
なんとか夏をのりきってくれたけど、
ますますやせてしまい、顔までとんがってきた。
でも、まだベッドにとびのるちからがあるし、
なによりも食欲がピピのいのちをのばしている。

ほぼ日にのる「ドコノコカメら」には、
まいにちかわいいネコや犬の写真が掲載される。
かわった顔だったり、表情がおもしろかったり、
かわいいしぐさだったり。
どのコも、それぞれ「かわいい」としかいえないくらい「かわいい」。
いつの日か、ピピの写真がのらないかとまっているけど、
競争がはげしいらしく、なかなかピピまで順番がまわってこない。
ピピみたいに、おしっこまみれのあげく
手足が黄色くなったネコが「ドコノコカメら」にのれば、
それはそれで反響があるのではないか。

わたしはまいちにピピとつきあっているから気づかないけど、
おそらくわたしの部屋はそうとう
ネコのにおいがしみついているだろう。
もしかしたら、すでにわたしのからだからも、
ピピのおしっこのにおいがただよっているかもしれない。
ネコのおしっこのにおいがする不潔な男と、
女性にきらわれたら どうしてくれるというのだ。
でもピピは、夜になるとわたしのベッドにきてくれるし、
きっと今夜もベッドのどこかでおしっこをする。
トイレシートをすきまなくしいて、万全の対応でのぞみたい。
とはいえ、おしっこをされてこまる場所はたくさんある。
まるで北朝鮮のミサイルみたいに、わたしの裏をねらってくるだろう。

posted by カルピス at 22:06 | Comment(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月29日

にげまくって生きてきた男の末路は?

たかい目標をかかげてトレーニングをかさねたり、
ライバルや自分自身にまけないよう
たいへんな努力をつみかさねたりと、スポーツにかぎらず、
なにかに成功したひとの苦労ばなしが紹介されると、
わたしは、楽をして生きてきたなー、とおもう。
トレーニングがきらいなわけではないけど、
とことん自分をおいこむまで負荷をかけたのは、
大学生のころまでで、あとは自分にここちよいペースにおさえている。

スポーツだけでなく、仕事でも、対人関係でも、
いやなことから背をむけ、それでもたりないときは、
にげまくってきたのがわたしの人生だ。
梅棹忠夫さんの『わたしの人生論』につよい影響をうけ、
わかいころから人生を半分おりたように生きてきた。
ぜんぶおりようとするとたいへんだけど、
半分おりるだけなら あんがいかんたんだ。
〜するべき、とかの正論で自分をしばらない。
勇気も否定して、楽なほうに、プレッシャーのないほうにと、
自分のすすむ道をえらんできた。
向上心もなく、これまでされてきたことを ただくりかえす。

すこしまえの記事で、いまはやりらしい「末路本」をとりあげ、
「わかいころから はっきりとした方針のもとに生きていたひとが、
その後どんな生活をおくっているのかしりたい」
とかいた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/452706078.html?1504009220
ある傾向のもとに生きてきたひとの、その後をしることで、
いろんな生き方のモデルとなる。
記事をかいたときは気づかなかったけど、
にげまくって生きてきたわたしの生涯も、
これはこれでひとつのケースとして、
あんがいなにかの参考になるかもしれない。

わたしはいま56歳で、あともうすこし生きるだろうから、
まだ最終的な「末路」が決定したわけではく、
いまのところ、という限定つきでの末路だ。
わたしの感想としては、にげまくって生きても
それなりになんとかなる、というものだ。
はなばなしい活躍をしたひとや、
たかい目標をかかげて努力したひととくらべると、
はるかに質はおちるだろうけど、だからといって後悔はない。
なにかの達成にむけて生きるのは、もちろんひとつの選択だけど、
そうでないからといって、けしてはじることはない。

自分の意志よりも、状況にながされ、
うけみで生きるのもまた、ひとつの選択だ。
自分からうごかなくても、じっとしていたら、
状況がすこしずつかわってゆき、
その結果、自分の仕事や立場もかってにうごいていく。
なんと志のひくいやつだといわれても、
志じたいを否定しているので 反省したりしない。

わたしはこれまで仕事を4回やめてきた。
それでもなんとかたべられているし、
結婚もして子どももひとりできた。
にげまくってきた人生は、いまのところそうわるくない。

posted by カルピス at 21:16 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月28日

音楽の世界は、いまも神童たちが生まれているのか

「クラシックカフェ」などの音楽番組では、
演奏家や作曲家を紹介するときに、
8歳から才能を開花させ・・・、みたいなはなしがよくでる。
おさなくして数十曲の作曲をしたとか、
10歳にならないうちから、国王のまえでピアノを披露したとか。
むかしの大音楽家たちのおおくが、おどろくほど おさないころから
ゆるぎない神童であった。
いまもまた、そうした天才たちが、音楽の世界にはいるのだろうか。
音楽の世界では超有名であっても、
一般にはあまりしられていないだけなのか。

音楽の天才たちが花をさかせた時代は、
音楽くらいしか、目だった才能を発揮できなかったのかもしれない。
貴族だったら乗馬やキツネがりなどで
ひいでたうでまえを披露する機会があるけど、
庶民クラスの階層では、音楽にすぐれるぐらいしか、
成功をおさめる場面がない。
だれもがきいて、はっきりわかる技能が、音楽だった。
音楽方面での突出した才能を
パトロンである貴族たちはまちのぞんでおり、
すぐれた子が才能をみせると、すぐにケアされて、
大演奏家のもとへでむいてトレーニングをうける
(ような気がする)。

いまは、スポーツやパソコンなど、
天才が能力をあらわせる場所が
音楽のほかにもたくさんある。
サッカー選手など、だれにもできないような技を披露し、
スポンサーが何十億もの価値をみとめるのだから、
むかしの音楽家に匹敵する天才たちといえるのではないか。
将棋の藤井四段も、わかりやすい形であらわれた超天才だ。
ひとけたの年齢で、すでに将棋界から注目されていた。

ものすごくおおざっぱにいってしまうけど、
ほんの100年か200年のあいだに
ポコポコと大音楽家たちが生まれ、
そのおおくはおさないころからの神童だった。
そしてクラシックは、大音楽家たちが世をさってからも、
歴史の波をかいくぐり、おおくのひとから愛され、
世界じゅうで演奏されつづけている。
音楽の世界では、8歳で作曲をはじめるような天才が、
いまもあちらこちらでそだっているのだろうか。

posted by カルピス at 23:14 | Comment(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月27日

スイカにたすけられたことしの夏

ことしの夏は、スイカなしではこせなかっただろう。
ほぼ毎週、半分にきったスイカを業務用のスーパーでかっている。
値段はこまかくうごいた。
780(鳥取産)→880→980→780(青森産)→680(北海道産)

値段の頂点である980円は、何週かつづいた。
ほしいけど、たかい。たかいけど、
まだしばらくは値段がさがらないだろう。
足もとをみられているようでシャクだったけど、
980円でもかうしかなかった。
こまかな値段のあがりさがりは、
当然ながら需要と供給の関係がよくあらわれている。

例年だと、お盆をすぎればスイカの味がおちるし、
からだもスイカをもとめなくなるけど、
ことしは8月下旬になってもそこそこおいしいし、
はしったり、草かりなどで汗をかいたあとは
スイカしか からだがうけつけないようなときがあった。
まだ車にのる用事があるときは、スイカだけがたよりだ。

車にのらなくてもいい日は、
水風呂につかってビール、というのをなんどかやった。
イメージとして水風呂でのビールが大切なのであり、
頭におもいえがくと、ひどいノドのかわきを なんとか我慢できる。
水風呂につかってビールをのんでも、
じっさいはそれほどの快感はないけれど、
そうやってもりあげるのが 夏をたのしむひとつのコツだ。

ねるまえのお酒は、ジン=トニックにとどめをさす。
ボトルもグラスも冷凍庫でひやしておき、
氷はロックアイスでありたい。
これまでレモンをしぼっていたけど、
ライムのほうがジン=トニックにはよくあうのがわかった。
おかわりには、ジンをウォッカにかえる。
ウォッカにもまたライムがピッタリなので、
よくひえた2種類の酒が夏の夜を居心地よくしてくれる。
チェイサーというか、水もいっしょにのむようにしている。
つぎの日にアルコールがあまりのこらなくなった。

なんだかんだで、すこしくらいあつくても
夏は夏でわるくない。
それにしても、スイカにはお世話になった。

posted by カルピス at 18:43 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月26日

雷におびえながら 命がけでおよぐ

県立プールについたとき、ちょうどはげしい雨がふってきた。
いかにも「大気の状態が不安定」な雨で、
どしゃぶりとこぶりをくりかえす。
雨がよわくなったスキをとらえて車からでた。
駐車場に水がたまっており、シューズがずぶぬれになる。

外にある50メートルプールでおよごうとすると、
職員の方に「雷がなったらあがってもらいます」といわれた。
そうか。雷がおちる危険性があるのか。
わたしが死ぬときは、もしかしたらこんなふうに
不意の事故によるものかも、と頭をかすめた。
老後にたのしもうとしている旅行へいけないし、
いろいろとはずかしいものをのこしたまま、
雷で死ぬなんて、たまらんとおもうけど、
わたしの死に方として、いかにもありそうだ。

まえは自転車での事故で死ぬような気がしていた。
いつもあぶなっかしい運転をしているし、
いつまでも自由自在に自転車をあやつれるとおもっていたら、
からだがついていかなくて、車にひかれる、というシナリオだ。
でも、交通事故は死ぬまでいたそうだし、
もしすんなり死ななくて、マヒがのこったりしたらこまる。
おなじ不慮の事故でも、雷で一瞬に死ぬほうが
あっさりしていて わるくないようにおもえてきた。
そんなことをかんがえながらおよぐと、水泳も命がけだ。
命をかけておよぐ自分が、かっこいいような気もしてくる。

あぶないのなら、およがなければいいのに、
もしかしたら雷がおちるかも、とおもいながらの水泳は、
しめきり間際のあせりみたいに
おしりのほうがムズムズしてくる。
そうまでしておよぐ自分がいとおしい。
命をかけておよぐなんて、なかなか体験できない。
ピンピンコロリには、落雷がおすすめかもしれない。

さいわい雷はおちることなく、
わたしが1500メートルおよぎきるまでまっていてくれた。
雷を気にして はやくおよげばいいのに、
いつもよりもっとおそく、1500メートルに40分もかかる。
最低記録だ。雷にうたれるのを おすすめしたくなるレベル。
命をかけたわたしの冒険は、なにごともなく無事におわる。

posted by カルピス at 09:21 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月25日

シャツをズボンのなかにいれる

シャツをズボンやスカートのなかにいれるのが
このごろ はやっているらしい。
ファッションにうといわたしが気づくほど、
そうした女性がよく目につくようになった。
ダサいといわれたこの着こなしを はやらせたひとはえらい。
まえはダサさの象徴みたいだったのに、
シャツをいれるのがおしゃれと、価値観を180度かえてしまった。

背中から、シャツをちょろっとだす、というのを
すこしまえによくみかけた。
ファッションなんて関心なさそうな女性でも、
ちゃんと背中からシャツをだしているので
流行のちからをおもいしらされたものだ。
女性だけでなく、意識のたかいひとは
男性でもシャツをだしていたのをおぼえている。
「ちょろっと」というのが特徴で、
「ちょろっと」だすためのシャツがよくうれたのではないか。

酒井順子さんの本に、
私たちは「どう見られるか」に命をかけたような高校生活を送っていたわけですが

という記述があった。(『下に見るひと』P70)
おおくの女性は、ファッションの訓練を、
小学生くらいのときからやってるわけで、男とは年季がちがう。
男子生徒にも、なかにはそうした「青春」を
おくっていたひとがいたかもしれないけど、
すくなくとも、わたしのまわりにいた男たちにとって、
ファッションは必然ではなかった。

いまの、シャツをズボンのなかにいれるスタイルは、
これだけは流行ってほしくなかったと、
おもっている女性がおおいのではないか。
強調したくない部分をシャツがかくしてくれていたのに、
それがきんじられてしまった。
ふつうにかんがえると、
シャツをいれられるひとと、
いれられないひとに、はっきりわかれそうだけど、
ファッションへの関心が、不可能を可能にかえていくような気がする。
どうやって 女性たちがシャツをズボンのなかにいれるのか、
勉強させてもらおう。

わたしは、シャツをちょろっとだしもしなかったし、
ことしの夏も、シャツをズボンのなかにいれたりしない。
なにがはやっていようが、まったく関係ない態度だ。
お腹がぽっこりでているわけではないけど、
流行のために服をかうほど勤勉ではない。
おおくの男たちが、わたしとおなじように、
流行と関係なく生きているようにみえる。
ファッションのことをかんがえると、
男にうまれてたすかったとおもう。

posted by カルピス at 21:39 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月24日

『騎士団長殺し』雑感

『騎士団長殺し』(村上春樹・新潮社)をよみおえる。
たいへん興味ぶかい小説であるのはまちがいないとして、
いくつか気になるところがあったので、
よみおえた印象を、ざっとかいておきたい。
ネタバレというか、この本をよんでないひとには、
なんのことかわからない「印象」だけど、
いちどめによんだときにかんじたわたしの率直な感想だ。

・免色さんにたのまれた肖像画は、いくらしはらわれたのだろう。
 依頼したときに500万円、じっさいにふりこまれたのは、
 ボーナスとしてうわのせした600万円というのはどうだろう。
・年上のガールフレンドが、
 免色さんのことをやたらとしりたがるので、
 ゴシップずきな俗物におもえてきた。
 「私」は彼女に、免色さん情報を
 そんなにくわしくかたらなくてもいいのに。
・雑木林にある祠に重機でいれたのは水曜日だけど、
 この日の夕方は絵画教室の仕事があるはずなのに、
 なんの説明もない。
・免色さんが「私」のむかえによこしたインフィニティの運転手は
 「顔色ひとつ変えずに」まがりくねった道を運転したとあるけど、
 「顔色ひとつ変えずに」は、おもしろみのない いいまわしだ。
・秋川まりえの表情について
 「食べかけの皿を途中で持って行かれた猫のような顔つきだった」
 がうまい。
・伊豆の療養所から「私」がぬけだしてからの何章が、
 かなりたいくつだった。
・「私」がのるカローラは、ほこりがつもるほど
 ほったらかしになってる、となんども「埃」がでてくるけど、
 車をただあらわないだけなら そんなにほこりはつもらない。
・イデアとしての「騎士団長」は、
 高橋留美子さんのマンガにでてくる
 カラス天狗をおもいえがくとピッタリだ。
・髪がまっしろ、とかいてあるのに、
 免色さんを俳優の渡辺謙さんにおきかえてしまう。
 はなしかたやしぐさが、いかにも渡辺謙さんだ。
・おわりのほうがかなりしりつぼみにおもえる。
 それまでは、ずいぶんこまかくさまざまな描写があるのに、
 いったん「事件」がかいけつすると、
 バタバタバタっとかたづいてしまった。
・「私」の子が保育園にはいったけど、
 小田原は待機児童問題はないのだろうか。
・「私」は、たずねてくる客を、
 しばしばカーテンのすきまから観察している。
 あまりいい趣味ではないのでは。
・「自分のとった行動が適切なものだったかどうか、
 いまとなっては確信が持てなかった」(第2部P454)
 村上さんの小説に、よくでてくるフレーズだけど、
 確信がもてないことがよくあるのは、
 あたりまえにおもえるけど。
・免色邸にしのびこんだ秋川まりえが、
 「侵入を防ぐための、手に入るすべての防犯手段が用いられている」
 とおもった場面があるけど、
 12歳の女の子になぜそんなことがわかるのか。
・秋川まりえのおばさんの胸について
 「オリーブの種を思わせる叔母さんのそれとは比べようもない」
 とあるのは、種ではなく実ではないのか。
・夕食に、そんなに時間がかかるだろうか?
ブリの粕漬け
漬け物
キュウリとわかめの酢の物
大根と油揚げの味噌汁
米飯
「その簡素なひとりぼっちの夕食を食べ終えかけた頃に」
 秋川まりえがやってくる。(第二部P47)
 「私」はまりえを家にいれ、「最後まで食べちゃっていいかな?」
 とことわってから 「食べ終えかけ」ていた夕食にふたたびむかう。
 わたしの疑問は、わずかなおかずの夕食なのに、
 しかも「食べ終えかけて」いたにもかかわらず、
 再開してからさらに
 「ブリの粕漬けを食べ、味噌汁を飲み、米飯を食べ」るのは
 ずいぶん時間がかかるじゃないか、
 というイチャモンみたいなものだ。
 よほど一品がおおもりなのか、
 ひとくち100回以上よくかんでいるのか。
 まるで夕食のスタートから
 まりえがみまもっているみたいな描写は
 おおげさではないだろうか。
・氷をいれないのが一般的なシングルモルトを、
 オンザロックでのむのはなぜか。(第二部P137)

ついこまかなところが気になったけど、
すばらしい作品であり、たのしい時間をすごせた。

posted by カルピス at 21:05 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月23日

ポカラで突然きいた「ありがとう」の主題歌

きょうの仕事は車での移動がおおく、
そのせいか ラジオをよくきいたいちにちとなる。
まず、NHK-FMで「プレイバック・昭和歌謡主題歌集」をやっていた。
・行け行け飛雄馬
・アタックNo1
・タイガーマスク
・あしたのジョー
と、すごくなつかしい。
アニメ特集かとおもったら、
・時間ですよ
・サインはV
・ありがとう
など、ドラマの主題歌もかかる。
どれもそれぞれになつかしい。
番組のサイトをみると、あすは
・太陽がくれた季節
・天才バカボン
・キューティーハニー
・デビルマンのうた
・マジンガーZ
などが予定されている。
仕事ちゅうでもなんとか理由をつけて
車のラジオでききたくなった。きっときくだろう。
ツボをおさえた選曲がすばらしい。
むかしなつかしい気分をたくみにくすぐられて、
ズルズルと、いつまでもきいていたくなる。

「ありがとう」は、わたしが小学生のときの番組だ。
母親がこのシリーズをよくみており、
わたしもつきあってみていたので、主題歌までよくおぼえている。
中国の雲南省を旅行していたとき、
かなりの田舎町にある旅館では
1台のテレビをおおぜいのひとがかこんでみていた。
そのときやっていた番組が「ありがとう」だったので、
なんだか不思議な気がしたものだ。
典型的な日本人気質をえがいたドラマが、
中国の田舎町のひとがみておもしろいのだろうか。

そのあとも旅行をつづけ、何ヶ月かのちに ネパールのポカラについた。
いまのわたしには とてもまねできないけど、
そのころは旅行先であんがいほかの旅行者と かんたんにしたしくなり、
いっしょにごはんをたべたり、
雑談にふけったりして無為な日々をすごしている。
ある日、なんにんかで町の食堂にでかけ 夕ごはんをたべ、
てきとうなはなしをしながら
ゲストハウスにむかってあるいていると、
そのなかのひとりがきゅうに
「さわやかに 恋をして・・・」とうたいだした。
「ありがとう」の主題歌だ。
うたったのは、すかしかわっているけど、
そんなところもふくめて みんなからかわいがられていた若者だ。
江戸川にすんでいるので、「江戸川くん」とよばれていた。
なんできゅうに「ありがとう」をうたうのか たずねると、
「なんとなく」と、とくに理由はないらしい。
それにしても、ポカラにきてまで「ありがとう」の主題歌をきくとは。
ポカラといえば「ありがとう」をおもいだすぐらい、
印象にのこるできごとだった。

夕方の番組では、「ゆうがたパラダイス」で
水曜日担当の津野米咲さんが「赤い公園」のなかまたちと
電話でおしゃべりするコーナーがあった。
そのなかでメンバーのひとりが
「おまつりはたのしむものだからね」
といったのが胸にひびく。
たしかに。おまつりはたのしむものなのだ。
ひとがいっぱいいていやだ、とか
タコヤキもからあげも、どれも値段がたかい、とか
つまらないことをいって水をさすのではなく、
こころをおおきくひらいてとにかくたのしむ。
わたしは、こうしたまずもっての前提をまちがえることがよくあり、
たのしむ機会をのがしたり、だいなしにしがちだ。
たのしくするかどうかは自分しだいなのに、
おまつりにでかけようともしないで、
はじめからつまらないものときめてかかっている。
「おまつりはたのしむもの」という前提を たいせつにしたい。

「赤い公園」は、津野米咲さんが
ひとりめだっているグループかとおもっていたけど、
ほかの3人もみんないいかんじだ。
自由なこころがまえが気もちよかった。

posted by カルピス at 22:17 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月22日

毎週のイオンフードコートはまずしくないか

イオンのフードコートへ つきそうで でかけたら、
ちかくのテーブルに先週もみかけた 親子づれがいるのに気づいた。
女の子ふたりにお父さん・お母さんの4人だ。
おなじ時間に、おなじ場所にすわっている。
こっちだって、おなじ時間、おなじ場所なのだから
にたようなものだけど、
わたしはおでかけの支援として、
そのつど別のひとときている。

この家族は、毎週日曜日のブランチを(10時半なので)
イオンのフードコートときめているのか。
はじめにみたときは、家族でのスペシャルな食事にみえ、
たのしくやってねと、応援をおくっていたけど、
もしかして毎週、となると、印象がちがってくる。
いちどめにみたときは、お父さんが
むすめさんの のこしたラーメンをすすっていた。
にどめはそれぞれが自分の注文したものをたべている。
そんな、ごくふつうの風景が、
いっぺんにさえない日常にみえてきた。

そんなことは、わたしが文句をいう筋あいではない。
毎週のイオンフードコートが団らんの象徴であってもいいわけで、
子どもたちがおおきくなれば、家族がまとまりをもっていた
しあわせな時間だったとなつかしくおもいだすだろう。
わたしは、さえない日常こそが人生だと、ひごろはいってるくせに、
イオンフードコート的な場所を、
気のきかないまずしい選択としてきめつけてしまう。
わたしの発想こそが固定観念にしばられ、偏見にまみれている。
あの家族は、平凡な日常をしゅくしゅくとすごす達人にちがいない。

フードコートをみわたしてみると、
この家族だけでなく、おなじみとなった顔にいくつもであう。
あんがいおおくのひとが、毎週のイオンフードコートをたのしみに
たいくつな一週間をやりすごしているのかもしれない。
いまやイオンフードコートは、すぐれた大衆文化へとそだち、
きわめて日本的で クールな場所になっている。
自分たちの家族だけが ほかのひととちがうところへいくのではなく、
とりあえずたいていのものがそろうイオンへ だれもがなびく。
平和でいい光景なのかもしれない。

posted by カルピス at 20:56 | Comment(0) | 食事 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月21日

「世界入りにくい居酒屋」がとりあげたホイアンのお店

「世界入りにくい居酒屋」で
ベトナムのホイアンにあるお店がとりあげられた。
ホイアンへは、わたしもいったことがある。
ベトナムの中部にあるちいさな町だ。
ちかくには、ベトナム戦争のときに
米軍の基地があった都市として有名なダナンがある。
ホイアンは、1999年にユネスコ世界文化遺産に登録されており、
それ以来おとずれるひとが10倍以上にふえたそうだ。

わたしがおとずれたのは2014年であり、
しずかな田舎町を想像していたけど、
観光客でいっぱいだった。
もうすこしはやくいっていれば、
むかしながらのしずかなホイアンをみられたのだろう。
有名な日本橋も、屋根つきの橋としてめずらしいけど、
いちどみれば、それでもうじゅうぶんだ。

ふつうの町は、旧市街が開発からとりのこされた
さみしい地域になり、
新市街にあたらしく活気のあるまちなみが発達する。
でも、ホイアンの場合は、旧市街に観光名所があつまっており、
ひとびとは、新市街にすみ、旧市街へかようかたちがおおいらしい。
番組がとりあげたお店は新市街にある。
新市街といっても、旧市街にくらべてあたらしいという意味で、
じゅうぶんごちゃごちゃしてるし、ふるめかしくもある。

そのお店に、毎晩たくさんのお客がやってくる。
番組が紹介するほかの「入りにくい」居酒屋は、
名物料理や郷土料理を大切にしているなど、
はっきりした特徴があるけど、
ホイアンのお店「MC」は、気のいいご夫婦がやっている、
ごくふつうの食堂だ。
きっと、ホイアンのひとには「ごくふつう」に意味があるのだろう。
年配のお客さんは、だれもがベトナム戦争の体験をかたっていた。
さいごに自分をうけいれてくれるのは、ふるさとしかないのだという。
わかいひとたちも、大都会のホーチミンではおちつけず、
けっきょくまたホイアンにかえってきた、といっていた。

以前はこの番組をみると、とりあげられたお店に
なんとかしていってみたいとおもっていたけど、
ホイアンのお店をみたら、そうでもないかと気がかわった。
お店に魅力がなかった、というのではなく、
わたしが旅行でたずねた町にも
「入りにくい居酒屋」があったことに満足したのだ。
いこうとおもえばいけたお店だとおもうと、
残念というよりも、だったら どこのお店でもいっしょかも、
という気がしてきた。
もし番組がわたしのすむ町の、どこかのお店をとりあげたら、
よろこんでかようようになるかというと、
きっとそうはならない。

番組がとりあげる店を、「いいな〜」と
かるくおもうだけでじゅうぶんなわけで、
なにがなんでも番組が紹介されたお店を
さがしだすのはヤボというものだ。
自分がなじんだ町の、ときどきおとずれる店こそが、
自分にとっての「入りにくい居酒屋」である。
青い鳥はすぐちかくにいるのだ。

posted by カルピス at 21:51 | Comment(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月20日

「夏でも野宿」のかとうちあきさんがすばらしい

かとうちあきさんが、
「夏はやっぱり野宿でしょ!」と、
上高地での一夜を紹介している。
https://www.bushikaku.net/article/36236
あつくてねぐるしいうえに、蚊になやまされる夏が、
「やっぱり野宿」に最適とはおもえないけど、
かとうさんにとったら、ほんとうに
いちねんじゅうが野宿の季節みたいだ。
・1月は正月で酒がのめるぞ・・・
・2月は節分で酒がのめるぞ・・・
と、なんだかんだいって 酒をのむ理由にする歌があったけど、
かとうさんは、いちねんを あの歌のように野宿しているのではないか。

それにしても、台風の影響で雨と風がつよく、
びしょびしょになっても なお
悪夢を見たり、びしょびしょになっても、やっぱり一晩夜を過ごすと楽しいし、ゆっくりできます。

というのだから、かとうさんが野宿にむける愛はどこまでもふかい。
わたしだったら、びしょびしょにならないように、
寝袋カバーを用意するだろうけど、
そうやってなんだかんだと準備するうちに、
どんどん自由がうしなわれていく。
かとうさんは、だれもがとびつきがちな便利さよりも、
なにもかまえない自由な精神がすきなのだろう。
いや、「自由な精神」なんて かまえてしまうのではなく、
かとうさんは、ただめんどくさくてやらない。
めんどくさいと、なにも準備しないででかけ、
その結果、自由な野宿に到達できる。
めんどくささは、あんがい自由な精神と
ふかい関係があるのではないか。

村上春樹の『騎士団長殺し』をよんでいたら、
「ここにあるものは、すべてがみたいなものなのです」
というセリフがでてきた。
大胆な仮説として、『騎士団長殺し』は、
ちまたでいわれている「もっともらしさ」への疑問が
おおきなテーマといえるかもしれない。
「もっともらし」くあるよりも、
しょせんすべては「みたいなもの」なのだ。
かとうさんは、いぜんから「のようなもの」として
すべての「らしいもの」のとりあつかいに慎重だ。
いまやっているお店も、
「お店のようなもの」がただしいお店の名前であり、
お店らしいお店を期待したらいけないよ、
とちゃんとおことわりしている。
野宿伝道師と、かるい肩書をなのっているけど、
かとうさんこそが、ほんものの伝道師であり、
『騎士団長殺し』の第三部には、「のようなもの」を自在にあつかう
かとうさん(のようなひと)がでてくるのでは。

posted by カルピス at 20:26 | Comment(0) | かとうちあき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月19日

宍道湖一周のサイクリングに失敗

きゅうにおもいたって宍道湖一周のサイクリングにでかける。
宍道湖を一周すれば およそ50キロ、
3時間あれば一周できる、手頃なコースにおもえた。
スイムランをめざし あついなか はしってきたので、
レースがおわると気がぬけて、はしりたいとおもわなくなった。
気分転換に、しばらく自転車にきりかえてみよう。

でも、出発して50分、15キロのところで前輪がパンクしてしまう。
修理道具はあるけど、空気いれがない。
お金を800円しかもっていなかったので、
自転車屋さんに修理をおねがいもできない。
けっきょく、きた道を、自転車をおしてあるいてもどる。

この自転車は、ほとんどのっていないのに、
これで3度めのパンクだ。
まえの2回は、家にとめておいただけでパンクしている。
わたしがのっている自転車は、シクロクロスといって、
「オフロードもはしれるロードバイク」のはずなのに、
のってもいないのにパンクするようではこまる。

自転車をおしてあるくのは、
だれもなにもいわないけれど、かなりなさけない姿だ。
コースが国道9号線ぞいだったこともあり、
わたしのわきを、ひっきりなしにスピードをあげた車がとおる。
サイクリングにでかけるときには、
パンク修理のセットと、お金もじゅうぶもっていたほうがいい。
パンクをなおす自信がなかったので、
運にまかせて空気いれをもっていかなかったのが失敗だった。

けっきょく14キロをあるいて家までかえったのだけど、
3時間あるくのは、けっこうたいへんだった。
わたしはちかい将来に、
スペインのサンチャゴ=デ=コンポステラをめざして
巡礼の徒歩旅行を計画している。
いちにちに30キロはあるきたいところだけど、
14キロの2倍となる距離を まいにちあるくのは
おもいえがいていたような 牧歌的な旅ではないかもしれない。

自転車旅行もまた、わたしが老後の生活で
夢みている「あそび」なのだけど、
ほんとうにいきたいのなら、
パンクぐらいなおせるようにしておかなければ、
どこかでひどい目にあうだろう。

4時間の、おもわぬアクティビティとなり、
たった14キロあるいただけなのに、
からだもこころも、かなりおいつめられて家にたどりつく。
スイカとビールでいきかえったけど、
なれない土地で、おもったように お店や宿にたどりつけなかったとき、
わたしの巡礼は、かなり余裕のない旅になりそうだ。
いちにちの移動距離を、かなりみじかめにコースをとって、
あるくのがたのしい範囲におさめたほうがよさそうだ。

posted by カルピス at 17:43 | Comment(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月18日

ネットでみたこのごろお気にいりの表現

佐々木正悟さんがシゴタノ!に、
つくづく思ったのですが、「やる気というものは、つまり、出そうと思った段階ですでに何かが間違っている」

https://cyblog.jp/28923
とかいている。
「どうすればやる気を出せる?」とい状態におちいるのが
そもそもまちがっているらしい。
こういうの、だいすきだ。
「〜しようと思った段階で すでに何かが間違っている」
は、いろいろ応用がききそうではないか。
たとえば、
「マラソンは、はしろうとおもった段階ですでに何か間違っている」なんていうと、
ついに最上級のさとりをひらいたようにみえる。
「ダイエットは、やせようとおもった段階で、
 すでに何か間違っている」も、
なにかものすごくふかい真理をあらわしていそうだ。
いわれたほうがかってにふかよみしてしまう。
本のタイトルにつけたら、それだけでうりあげがのびるのでは。

世のなかでいわれていることは、かなりまえからの常識であり、
いまとなっては たいていまちがっている。
なにかもっともらしいことをするまえに、
ひとまず「すでにまちがっているかも」と
うたがってみたほうがよさそうだ。

このごろのお気にいりとして、もうひとつ
「〜すぎない」がある。
新聞かなにかに、
「美人すぎない市議会議員」とあった。
よく美人すぎる◯◯、と話題になるけど、
「美人すぎない」は正直で、好感のもてる表現だ。

「〜すぎる」、は「すぎる」ほどすばらしいと、
強調したいのはわかるけど、
いまや、あまりにも手垢がつきすぎた。
それとくらべれば、
「〜すぎない」は、謙虚であるとともに、事実をあらわしている。
なにしろ「すぎない」のだから、
ようするに、「ふつう」なのであり、
安定したこころもちと 地味なひととなりをかんじる。
ひかえめであるとともに、ふつうである状況を適切にあらわしている。
美人すぎる市議会議員より、美人すぎない市議会議員のほうが、
よほど仕事ができそうだし、気らくにはなせそうで、わたしはすきだ。

posted by カルピス at 20:19 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月17日

嬬恋村で大根ぬきのアルバイトをしていたころ

近所のスーパーへかいものにいくと、
「嬬恋村」とかかれたダンボールに レタスがいれられていた。
なんとなく店内をみていただけなのに、
「嬬恋村」の文字が、わたしの目にとびこんできた。

20代のまんなかへんのころ、
群馬県の嬬恋村で大根ぬきのアルバイトをしたことがある。
「アルバイトニュース」で求人情報をさがし、
嬬恋村の農家に連絡すると、
すぐにはたらかせてもらえることになった。
嬬恋村までは、東京からのトラックに便乗させてもらう。
東京を夜でると、朝には嬬恋村につく。
ひと夏を、その嬬恋村ですごした。

嬬恋村は、一面がレタスとキャベツの畑だ。
大根畑なんてまったく目にはいらない。
わたしとしては、大根でもキャベツでも なんでもよかったけど、
じっさいに仕事をはじめてみると、大根がいちばんらくそうだった。
レタス畑では、朝はやくから、必死の収穫が延々とつづいている。
すこしぐらい雨がふっても仕事をやすまないし、
夕方にはトラクターのライトをつけてまで はたらいている。
収穫は、人間がひとつずつレタスをきりとるしか方法がない。
商品価値があるうちに、ひとつでもおおく収穫しようという
農家の方々の執念がつたわってくる。
おしゃべをしながら、和気あいあいに、という農作業ではなく、
一刻もムダにせずに、すこしでもおおくのレタスを、
という気迫にあふれた労働だ。
あまりにもずっとレタスにかかりきりなので、
人間というより、レタスとりのロボットにおもえてくる。

大根は、そんなおそろしい世界ではなく、
アルバイトのわかものだけが5人ほどでチームをくみ、
とまりこみで仕事にあたった。
朝ごはんと昼ごはんは、農家の方がつくってくれ、
夕ごはんはたのんである食堂へたべにいく。
午後の仕事がすむと、まいにちかならず温泉へでかけた。
農家が温泉旅館と契約してくれており、
ほとんどの場合だれもお客のいない大浴場につかる。

ちからと体力のいる仕事であり、そうらくではなかったはずだけど、
まだわかく、エネルギーにあふれていたわたしは、
仕事がおわっても、ジョギングや筋トレをする余裕があった。
高原の朝夕はすずしく、真夏でもふとんがいるほどひえこむ。
なにしろ避暑地ですごしているようなものなのだ。
適度な労働と、気のあった仲間をえて、たのしい日々をすごした。

やすみの日には、大根ぬきの仲間と、
ちかくの町まであそびにでかけた。
浅間山・軽井沢・小諸など、どこも有名な観光地だ。
大根ぬきのアルバイトをしてなければ、
きっとわたしは一生いくことのなかった場所だろう。
まだわかかったわたしは、将来の心配などぜんぜんしないで、
ひと夏のアルバイトにいそしんだ。

いまでも大根ぬきやレタスの求人が
アルバイトニュースにでているだろうか。
ロボットがいかに発達しても、畑にでてレタスを収穫するのは、
かなりむつかしい仕事におもえる。
スーパーでみかけたレタスは、農家のひとが収穫したものだろうか。
アルバイトニュースをみたわかものが とりこんだのか。
あんがいもうじきしたら、わたし自身が、
またどこかの高原で 野菜の収穫にたずさわっているかもしれない。
わかいころの経験をいかしてがんばろう。

posted by カルピス at 21:34 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月16日

『騎士団長殺し』と散歩にひたった夏やすみ

お盆やすみ、つまり会社づとめの人間にとっての
実質的な夏やすみがきのうでおわった。
8月11日から15日まで、5日間をぜんぶ自分のためにつかえたので、
客観的にいえばわるくはないかもしれないけど、
このていどでよろこんではならない、ともおもう。

たった5日間とはいえ、ぜんぶ自由にしていいよ、といわれると、
あんがいリズムがつくりにくいものだ。
ことしは
・リハビリみたいなトレーニング
・散歩
・読書
の3つが、ぴったりはまる休暇となった。
リハビリみたいな、というのは、
ことしいちばんの目玉であるスイムランをおえ、
身体的にも精神的にも一段落ついた。
いわばオフの時期として、まったくからだをやすめるのではなく、
負担のない範囲で すこしからだをうごかし、
しかるべき再スタートにつなげるすごしかただ。
具体的にいえば、プールで1500メートルをゆっくりおよいだり、
ひさしぶりに体幹トレーニングにとりくんだり。

散歩は、いつもいくスーパーへ、たまたまあるいていったら、
あんがい気もちよくて、もっとつづけてあるきたくなった。
つぎの日から とおまわりのコースをえらび、
1時間半から2時間あるいている。
ふだんから これぐらいの時間をはしることはあっても、
散歩としてはめずらしい体験となる。
はやあるきしていると、だんだんリズムよく足がうごくようになる。
老後の生活をさきどりしたような ながい距離の散歩だ。

読書は『ロング・グッドバイ』(レイモンド=チャンドラー)と、
いまさらながらの『騎士団長殺し』(村上春樹)にとりくむ。
夏やすみのメインイベントとして、この時期の「騎士団長」を
まえからねらっていた。
第一部と第二部、それと、『みみずくは黄昏に飛びたつ』
(村上春樹・川上未映子)もいっしょにかいこみ、
いまは第一部がおわったところ。
期待していたとおりおもしろい。
かきたいことを、かきたいように表現できる
村上さんのテクニックがすばらしい。
村上さんは自由自在にことばをあやつり、
おもうぞんぶんものがたりをうごかしている。

意外だったのは、「騎士団長」の奥付をみると、
発行された日づけが2月25日になっていたこと。
増版をなんどもくりかえしているとおもっていたのに、
発売されてから半年後にかった本が、
まだ初版なのは、あまりうれていない、ということだろう。
わたしみたいな、いまさらながらの読者がいうのもなんだけど、
これだけすぐれた本が、なぜもっと評判にならないのか不思議だ。
それとも、おまつりにうかれた新潮社が、
ありえないほどの数をはじめに印刷したのだろうか。

たのしい5日間のあと、きょうの出勤は心理的にかなりおもたかった。
バカンスをここちよくすごすリズムができたところで
また仕事がはじまるのはいつものお約束だ。

posted by カルピス at 19:09 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月15日

20年後のA子さんは、いまどうしているだろう

えくぼさんのブログに、「別荘は負動産に」という記事がのっていた。
http://blog.goo.ne.jp/matsui04/e/3951787c95ee4176c1081678ec7851f6
土地は財産ではなく、もはや負動産とでもいうべき存在なのだ。
朝日朝刊の一面トップ記事は「別荘地投げ売り10万円、バブル期の価格の130分の1になってしまった例が取りあげられている。「この夏も軽井沢の別荘で過ごしますの」と言っていたA子は今どうしているだろうか。
海外旅行が盛んになり別荘への魅力が下がりはじめていたとき、A子は貯金をはたき更に銀行から借りて軽井沢の別荘を買った。(中略)
あれから20数年過ぎた。彼女の消息は全くわからない。友だちを別荘に招き親交を深めたかったとしたら、彼女は計算を間違ったことになる。しかも暴落していたら、などと心配するのはやめよう。とっくの昔に手放して儲けて高級なケアホ一ムで楽しく過ごしているかもしれない。

そういえば、しばらくまえの新聞に
『宝くじで1億円当たった人の末路』(鈴木信行・日経BP社)
という本の広告がのっていた。

・海辺の町でのんびり暮らしたひとの末路
・子供を作らなかった人の末路
・教育費貧乏な家庭の末路
・賃貸派の末路

などがとりあげてあるようだ。
たしかに いろんなケースごとの「末路」が気になる。
宝くじほどハデなできごとでなくても、
人生におけるおおきな転機をむかえたひとはおおいだろうし、
わかいころから はっきりとした方針のもとに生きていたひとが、
その後どんな生活をおくっているのかしりたい。
ただし、「教育費貧乏」とか「賃貸派」などのような、
おおざっぱなくくりでは、
あまりはっきりした傾向をつかめないような気がする。
ひととなりについて、ある程度しっているひとであれば、
どんな末路がまっていたのかを、より客観的に分析できるのでは。

A子さんは、いまどうしているだろう。
20年まえはこうだったひとが、
いまはこうなっている、とかけるのは、70歳よりも年配のひとだ。
50代のわたしが、50代のしりあいの「いま」をかいたところで、
このさきまだどうなるかはわからない。
オシムさんがいうように、人生はトータルであり、
さいごになにがまっているかはだれにもわからない。

でも、70歳のひとが、わかいころの友人の言動をおもいだし、
それと「いま」をくらべるのは、だれにでもできる。
コツコツはたらいたひとがどうなったか、
おおきな病気を体験したひとがどうなったか、
じゅうぶんな貯金をもたずに老後をすごしているひとが
どうなっているか。
20年でどうなったかの情報がもっとほしい。
団塊の世代の方たちが、まわりをよくみわたして、
しりあいたちのその後をこまかく報告してくれないだろうか。

posted by カルピス at 09:05 | Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月14日

宮田珠己さんの「たのしい47都道府県正直観光案内」に島根が登場

宮田珠己さんが『本の雑誌』で連載ちゅうの
「たのしい47都道府県正直観光案内」は、
毎回どこかの都道府県をとりあげて、
その土地ならではの観光スポットを紹介している。
こういう企画は、とかく耳ざわりのいいことばが ならびやすく、
おおくの観光案内がにたような内容になりがちだ。
そうならないために、宮田さんが担当しているわけで、
この連載では、宮田さんぐらいしか関心をもたないのでは、という
きいたことのない地名やたのしみかたが紹介されている。
各都道府県のかくされた特徴をあぶりだし、
実用性はあまりないけど、よみものとして興味ぶかい
「正直」な観光案内が特徴となっている。

その連載に、ようやく島根と鳥取がとりあげられた。
毎回ふたつの都道府県が紹介されており、よくにた県として、
島根と鳥取がセットであつかわれるのは、
いたしかたのないところだろう。
でも、ますますよむひとの誤解をまねかないだろうか。

島根と鳥取は、ほかの都道府県にすむひとからみると、
地理的な関係がおぼえにくいそうで、
どっちが島根でどっちが鳥取なのかがわからないという。
それを逆手にとって「島根は鳥取の左側です」と
鷹の爪団の吉田くんが自虐的にいうのだけど、
こうやってひとくくりにあつかわれると、
ますます「どっちが左側だっけ?」となりそうだ。
どっちがどっちでも、世界情勢にはたいして影響がないので、
いつまでたっても、あいかわらず「島根はどっち?」となる。
おなじような人口で、おなじように地味な県が
たまたまふたつならんでるのだから、
まちがわれてもしかたがないと、
地元の人間はほとんどあきらめている。

かんじんの記事のほうは、島根・鳥取とも
いまひとつきれあじがよくない。
宮田さんらしさがあまりかんじられず、
したがって、どこかの観光案内とたいしてかわりがない。
宮田さんをもってしても、島根と鳥取は
にたような印象しかのこせなかった。

島根と北朝鮮の財政規模はいっしょ、と
だれかがいっていたけど、ほんとうだろうか。
島根みたいな小規模の予算でまわしている国が、
あんなにたくさんのロケットをうちあげても大丈夫なのか。
やってることの是非はともかくとして、
島根とおなじような貧弱な財政規模の国が
一生懸命わるあがきをしているようで、いたましくおもえてくる。

posted by カルピス at 10:41 | Comment(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月13日

ながい積んどくのはてに やっと手にした村上春樹訳の『ロング・グッドバイ』

『ロング・グッドバイ』(レイモンド=チャンドラー・早川文庫)

清水俊二氏の訳による『長いお別れ』は、
大学生のころにいちどよんだことがある。
なにがかいてあったか、内容をすっかりわすれたけど、
ミステリーにおける「必読書」として手にとった。
村上春樹が訳したこの新版は、本文だけで594ページと、
『長いお別れ』よりもおよそ100ページながい。
ストーリーとしてはさほど複雑ではないけど、
なにしろいろんなことがおこるし、
登場人物のおおくがおしゃべりなので、
あるていどのながさがなければ、
こまかな設定のすみずみまでえがけない。
よみだしてすぐに、本のぶあつさをたのもしくかんじ、
600ページをよみおえたときには、
小説の世界にどっぷりとひたれた充実感を味わえる。

『村上春樹翻訳(ほとんど)全仕事』によると、
村上さんはチャンドラーの文体をモデルにしながら、
「一段一段、階段をのぼっていくような感じ」で
自分の世界にふみこんでいったという。
チャンドラーの文体は撲の原点でもある。そういう小説を自分の手で翻訳できるのは、実に小説家(翻訳家)冥利につきるというか。
村上さんにとってレイモンド=チャンドラーは、
そしてとりわけ『ロング・グッドバイ』は、
特別な意味をもつ小説として 位置づけられている。

おかしかったのは、にくからずおもっていた女性と
いよいよベッドへ、という場面。
「君にはどれくらい財産がある?」
「全部で、どれくらいかしら。たぶん800万ドル前後ね」
「君とベッドに行くことにした」
「金のためなら何でもやる」と彼女は言った。
「シャンパンは自腹を切ったぜ」
「シャンパンくらい何よ」と彼女は言った。

こんなときに
「君にはどれくらい財産がある?」
なんてたずねる男がいるだろうか。
「たぶん800万ドル前後ね」
と即答する女性も息がよくあっていて、いいかんじだ。
この場面でのマーロウは、シャンパンにからめた軽口がさえている。
酒がやたらとでてくる小説でり、
ついわたしもつきあってしまい、
のみすぎる日がなんどかあった。
それもまた、この小説をよむときの
大切な一部分かもしれない。

本書をよんでいると、村上さんの存在をしばしばかんじた。
こんなことをいわれたら、村上さんとしては不本意だろうけど、
まるで村上さんがかいた本みたいだ。
文庫版が発売されてからすぐにかっていたものの、
ずっと本棚にならべるだけになっていた本書を、
なぜきゅうによんでみる気になったのだろう。
チャンドラーによばれて、というよりも、
村上さんにおいでおいでをされたような気がする。

posted by カルピス at 10:23 | Comment(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年08月12日

うまくいかない自然農法による米つくり

お盆がちかづき、道路わきにひろがる田んぼには、
イネの穂がみのりつつある。
梅雨にあまり雨がふらなかったけど、
その後なんとかもちなおしたし、
気温もたかく、米つくりには もうしぶんのない年だろう。
でも、わたしの田んぼでは、イネがあまりおおきくそだってない。
このままいくと、とてもよその田んぼのようには
穂をつけてくれないだろう。
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何年もお米をつくってない田んぼをかりたのだから、
栄養がたりないわけではないとおもう。
きょねんの秋にはレンゲの種もまいており、
根粒菌がバッチリ繁殖しているはずだ。
いまは水をかけながし しているけど、
低温障害をまねく春さきには 水をとめていた。
自然農法による米つくりは、ことしが3年めで、
なにがよくて、なにがわるいのかが いまだによくわからない。

わたしの職場では、庭さきや、
市民農園でそだてている野菜が
あんがいおおきくそだっている。
コンポストには、トマトがしっかりと実をつけているし、
おどろいたことに、スイカもりっぱなのができて、
わたしもおすそわけにあずかった。
しろうとがつくったスイカなんて、
どうせたいしたことないだろう、とおもっていたのに、
じゅうぶんあまくて おいしい。
なんだか、自然農法でイネや野菜をそだてるのが
つまらなくおもえてきた。
土をたがやさなくても、肥料をやらなくても 米や野菜はできる。
収穫はすくないだろうけど、できただけでいいのだ、
なんてえらそうにいっていたけど、
できなければ やる気がおきない。
職場でたべたおいしいスイカは、
その満足のいく味とはうらはらに、
わたしにはかなりショックなできばえだった。
まだ3年めとはいえ、自然農法はそれほどかんたんに
ゆたかな収穫をむかえさせてくれない。

posted by カルピス at 14:09 | Comment(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする