鷹の爪についての記事をずっとかいてない。
きょねんの秋に映画館で
『鷹の爪8 吉田くんの×(バッテン)ファイル』をみたのが、
彼らを映像でみた さいごとなった。
グーグルアラートにときどきひっかかるものの、
あまり興味をひかれるニュースではない。
Eテレでの放送「ビットワールド」がおわったのをさかいに、
わたしのまえから「鷹の爪」がすっかりきえてしまった。
かといって、ネットで動画をさがすまではしない。
わたしもいくらかの経験をつみ、ながい人生には
あらゆるものに こうした しずかな時期があるのをしっている。
なんとかロスとかいって さわぐのは、
わたしの美意識がじゃまをするし。
きっとじゅうぶんにちからをたくわえたのち、
まったくあたらしいきりくちで
あらたな「鷹の爪」をたのしませてくれるだろう。
もちろん、なにしろスーパー大使なのだから、
島根にいると吉田くんはごくあたりまえの存在として、
チラチラと目のまえにあらわれる。
レジ袋をやめるよう 吉田くんがよびかけているポスターや、
どこでもFMのコマーシャルをラジオできくし、
島根を紹介する企画のきりこみ隊長として
吉田くんの存在感は絶大だ。
しばらくは、こうした ささやかなであいだけにとどめ、
つぎにあう機会をたのしみにまちたい。
ほんとうは、わたしが勝手に距離をとっているだけで、
フロッグマン氏はテレビとはちがう媒体で
「鷹の爪」を活躍させているようだ。
いまや、テレビと映画だけが、世界征服の場ではない。
アメリカ・北朝鮮、そして日本の政界と、
予想しなかった展開で さきがよめなくなっているなか、
鷹の爪団が世界の再編成にどうからまっていくのか 予断をゆるさない。
2017年09月30日
2017年09月29日
これはトイレなのか、それともベッドなのか
いっしょにくらしているネコのピピが、
あす16歳の誕生日をむかえる。人間でいうと、75歳くらいか。
3年まえにピピは口内炎をわずらい
(ネコの口内炎は、食事をとれなくなるのでこわい病気)、
腎機能もおちてきて、2時間おきにおしっこがでる
(健康なネコは1日に2回くらい)。
トイレでおしっこをするぶんには、なんの問題もないけど、
めんどくさがり どこでもおしっこをしてしまうので こまってしまう。
送迎の仕事で利用者のおうちにおじゃましたら、
おおきな白黒のネコがでむかえてくれた。
まるでアザラシの毛皮みたいに色ツヤがよく、
テカテカにひかっていたのでおどろいてしまった。
3歳というわかさにくわえて、栄養がいきとどいているようすだ。
彼がネコだとすると、ピピはいったいなんなのだ。
病気をかかえながら16歳になろうとしているピピとはぜんぜんちがう。
ピピのトイレ問題について、なんどかこのブログにかいてきた。
状況はますますひどい。
わたしのベッドには、厳重にトイレシートがしかれ、
仮想トイレとして、そのうえでおしっこをしてもいい枕もおいてある。
朝目がさめて、くしゃくしゃになったトイレシートと、
どこかにできているおしっこのシミをみると、
これはトイレなのか、それともベッドなのか
わたしにもわからなくなる。
2時間おきにトイレへつれていくと(ベッドのすぐそばにある)、
ピピは「不本意ながら」という顔つきで腰をおろして用をたす。
でも、いつもいつも2時間おきにトイレへつれていけるわけじゃない。
冬のあいだは、コタツのなかですごす時間がながいので、
おしっこへの対応はわりあいかんたんだ。
あたたかい時期は、日中にすごす場所がきまっておらず、
おしっこをされてもこまらないように、
そこらじゅうにトイレシートをしきつめることになる。
夜は、きまってわたしのベッドにやってくる。
わたしをたよってくれるのはうれしいけど、
2時間おきのおしっこも もれなくついてくるので、
なかなかぐっすりねむれないし、
ピピを気にしながらだときゅうくつな姿勢になる。
口内炎を発病したときは、もうすぐおわかれなのだからと覚悟し、
しんみりした気もちでピピにせっしていたけど、
それが3年もつづくと、さすがに介護する側もつかれてきた。
秋めいて 夜がすずしくなり、タオルケットから毛布にかえると、
さっそくそのうえでおしっこをされてしまった。
色即是空、色即是空。
ヨレヨレになりながらも、生きつづけてくれるピピに、
最大限の「誕生日おめでとう」と「だいすき」をつたえよう
(だっこするだけだけど)。
あす16歳の誕生日をむかえる。人間でいうと、75歳くらいか。
3年まえにピピは口内炎をわずらい
(ネコの口内炎は、食事をとれなくなるのでこわい病気)、
腎機能もおちてきて、2時間おきにおしっこがでる
(健康なネコは1日に2回くらい)。
トイレでおしっこをするぶんには、なんの問題もないけど、
めんどくさがり どこでもおしっこをしてしまうので こまってしまう。
送迎の仕事で利用者のおうちにおじゃましたら、
おおきな白黒のネコがでむかえてくれた。
まるでアザラシの毛皮みたいに色ツヤがよく、
テカテカにひかっていたのでおどろいてしまった。
3歳というわかさにくわえて、栄養がいきとどいているようすだ。
彼がネコだとすると、ピピはいったいなんなのだ。
病気をかかえながら16歳になろうとしているピピとはぜんぜんちがう。
ピピのトイレ問題について、なんどかこのブログにかいてきた。
状況はますますひどい。
わたしのベッドには、厳重にトイレシートがしかれ、
仮想トイレとして、そのうえでおしっこをしてもいい枕もおいてある。
朝目がさめて、くしゃくしゃになったトイレシートと、
どこかにできているおしっこのシミをみると、
これはトイレなのか、それともベッドなのか
わたしにもわからなくなる。
2時間おきにトイレへつれていくと(ベッドのすぐそばにある)、
ピピは「不本意ながら」という顔つきで腰をおろして用をたす。
でも、いつもいつも2時間おきにトイレへつれていけるわけじゃない。
冬のあいだは、コタツのなかですごす時間がながいので、
おしっこへの対応はわりあいかんたんだ。
あたたかい時期は、日中にすごす場所がきまっておらず、
おしっこをされてもこまらないように、
そこらじゅうにトイレシートをしきつめることになる。
夜は、きまってわたしのベッドにやってくる。
わたしをたよってくれるのはうれしいけど、
2時間おきのおしっこも もれなくついてくるので、
なかなかぐっすりねむれないし、
ピピを気にしながらだときゅうくつな姿勢になる。
口内炎を発病したときは、もうすぐおわかれなのだからと覚悟し、
しんみりした気もちでピピにせっしていたけど、
それが3年もつづくと、さすがに介護する側もつかれてきた。
秋めいて 夜がすずしくなり、タオルケットから毛布にかえると、
さっそくそのうえでおしっこをされてしまった。
色即是空、色即是空。
ヨレヨレになりながらも、生きつづけてくれるピピに、
最大限の「誕生日おめでとう」と「だいすき」をつたえよう
(だっこするだけだけど)。
2017年09月28日
島根が山にのまれていく日
『未来の年表』(河合雅司・講談社現代新書)をよんでいると、
ちかい将来に日本でおきるであろうさまざまな状況が
これでもかとリアルに指摘されている。
2033年には3戸に1戸が空き家に、とか、
2040年には自治体の半数が消滅、とか。
人口減少の影響が、この数年で、はっきりあわられてきそうだ。
きのう車ではしっていたら、4〜5人で路肩の草かりをしていた。
草刈機をあつかっているので、
おたがいの距離に気をくばりながら隊列をくんでいる。
地区の清掃活動というよりも、市から委託された業者ではないか。
島根ではよくみかける光景だ。
こうして定期的に草をからないと、みためにもよくないし、
場所によっては歩行者や車がとおりにくくなる。
人口がへっていくと、人手不足になり、
こうした作業もできなくなるのだろう。
町が草にのみこまれてしまう日が、そうとおくないかもしれない。
県庁所在地では、しばらくは草かりをつづけるかもしれないけど、
じきにそんな余力はなくなるはずだ。
わたしがすむ島根県は、過疎ということばが
はじめてつかわれた土地でもある。
過疎の先進県ともいえ、自治体の崩壊が心配されるずっとまえから
人口の減少になやまされてきた。
ひとがすまなくなった家は、ほっておくとじきに山にのまれてしまう。
かやぶき屋根がかたむき、庭さきまで木がはえ、
部屋のなかがあれはてているのが外からみえる。
家がくちはてていくようすは 気味がわるかった。
自然の回復などというなまやさしいものではなく、
ちょっとでもスキをみせれば、人間のいとなみなど、
すぐにのみこもうとする自然の脅威をかんじる風景だ。
ジブリの宮ア駿さんが、アンコールワットなど、
自然が文明をのみこんでいく風景がすき、みたいなことを
どこかでかたっていた。
わたしもアンコールワットをたずねたとき、
石づくりの寺院に 森の木が
おおきな根っこをはりめぐらしているのをみた。
たしかに、「盛者必衰のことわり」をおもい、
うつくしささえかんじる景色だ。
ただそれは、わたしの想像力がとぼしいせいであり、
自分のすむ町が、こんなふうに
自然にのみこまれていく姿をおもいえがくと、
うつくしいとばかりはいっておれない。
あと20年もしたら、島根の自然はずいぶん回復し、
それにともない山にちかい村や、
おそらく町の景色もずいぶんかわっているだろう。
それが日本全体の規模でおこると、
近未来を舞台にした映画みたいに、
荒廃した景色が支配する世界になるのだろうか。
ながいきにあまり関心はないけれど、
こわいものみたさで、日本の近未来がどうなっているかを
みとどけてから死にたくなった。
200年後の日本は人口が450万人だ。
日本じゅうにたった450万人しかすまない日本は
どんな「国」になっているのか ぜひみてみたい。
ちかい将来に日本でおきるであろうさまざまな状況が
これでもかとリアルに指摘されている。
2033年には3戸に1戸が空き家に、とか、
2040年には自治体の半数が消滅、とか。
人口減少の影響が、この数年で、はっきりあわられてきそうだ。
きのう車ではしっていたら、4〜5人で路肩の草かりをしていた。
草刈機をあつかっているので、
おたがいの距離に気をくばりながら隊列をくんでいる。
地区の清掃活動というよりも、市から委託された業者ではないか。
島根ではよくみかける光景だ。
こうして定期的に草をからないと、みためにもよくないし、
場所によっては歩行者や車がとおりにくくなる。
人口がへっていくと、人手不足になり、
こうした作業もできなくなるのだろう。
町が草にのみこまれてしまう日が、そうとおくないかもしれない。
県庁所在地では、しばらくは草かりをつづけるかもしれないけど、
じきにそんな余力はなくなるはずだ。
わたしがすむ島根県は、過疎ということばが
はじめてつかわれた土地でもある。
過疎の先進県ともいえ、自治体の崩壊が心配されるずっとまえから
人口の減少になやまされてきた。
ひとがすまなくなった家は、ほっておくとじきに山にのまれてしまう。
かやぶき屋根がかたむき、庭さきまで木がはえ、
部屋のなかがあれはてているのが外からみえる。
家がくちはてていくようすは 気味がわるかった。
自然の回復などというなまやさしいものではなく、
ちょっとでもスキをみせれば、人間のいとなみなど、
すぐにのみこもうとする自然の脅威をかんじる風景だ。
ジブリの宮ア駿さんが、アンコールワットなど、
自然が文明をのみこんでいく風景がすき、みたいなことを
どこかでかたっていた。
わたしもアンコールワットをたずねたとき、
石づくりの寺院に 森の木が
おおきな根っこをはりめぐらしているのをみた。
たしかに、「盛者必衰のことわり」をおもい、
うつくしささえかんじる景色だ。
ただそれは、わたしの想像力がとぼしいせいであり、
自分のすむ町が、こんなふうに
自然にのみこまれていく姿をおもいえがくと、
うつくしいとばかりはいっておれない。
あと20年もしたら、島根の自然はずいぶん回復し、
それにともない山にちかい村や、
おそらく町の景色もずいぶんかわっているだろう。
それが日本全体の規模でおこると、
近未来を舞台にした映画みたいに、
荒廃した景色が支配する世界になるのだろうか。
ながいきにあまり関心はないけれど、
こわいものみたさで、日本の近未来がどうなっているかを
みとどけてから死にたくなった。
200年後の日本は人口が450万人だ。
日本じゅうにたった450万人しかすまない日本は
どんな「国」になっているのか ぜひみてみたい。
2017年09月27日
渡辺信幸さんがうちだす大胆な肉食の食事法
きのうの朝日新聞に、肉をたくさんたべる食事法がのっていた。
肉を200グラム、タマゴを3個、チーズを120グラム、
毎日たべるのだという。
那覇市の「こくらクリニック」の院長である渡辺信幸さんが、
沖縄の肉食文化からおもいついたのだそうだ。
ちょっとかんがえてみても、この量はそうとうな肉食であり、
それだけに大胆な食事法といえる。
一般的には、コレステロールをあげすぎないために
タマゴはいちにちに1個におさえるとか、
バランスのとれた食生活を、とか、
肉より魚をおおくたべて、とか、
ほんとかいなという指針がもっともらしくしめされるなか、
こんなにはっきりと肉食をすすめる食事法は気もちがいい。
気になるのは、お金がかなりかかるのではないか、という点で、
たとえばやすい鳥の胸肉だって100グラム50円くらいはする。
肉とタマゴとチーズで、いちにちにどうしても400円はかかるだろう。
これだけはっきり肉食にかたよると、
炭水化物がはいる余地はないかもしれない。
自然と、糖質制限にもなりそうだ。
これまたすこしまえの朝日新聞で、
糖質制限がはやっているとつたえていた。
外食チェーン店でも、糖質制限のメニューが登場しているといい、
ごはんのかわりに大根をつかったすしが紹介されている。
糖質を制限した食事は、
糖尿病の治療という点でも効果が期待されている。
いっぽうで、糖尿病の専門医は、いまだに糖質制限をみとめていない。
自分のなわばりをまもろうと、
むかしながらのカロリー制限食にしがみつき、
患者に不自由な食事と必要のない我慢をもとめる。
そんな医者がおおいなかで、渡辺さんがうちだした食事法は画期的だ。
ダイエット法ではなく、健康法というのがとてもいい。
肉を200グラム、タマゴを3個、チーズを120グラム、
毎日たべるのだという。
那覇市の「こくらクリニック」の院長である渡辺信幸さんが、
沖縄の肉食文化からおもいついたのだそうだ。
ちょっとかんがえてみても、この量はそうとうな肉食であり、
それだけに大胆な食事法といえる。
一般的には、コレステロールをあげすぎないために
タマゴはいちにちに1個におさえるとか、
バランスのとれた食生活を、とか、
肉より魚をおおくたべて、とか、
ほんとかいなという指針がもっともらしくしめされるなか、
こんなにはっきりと肉食をすすめる食事法は気もちがいい。
気になるのは、お金がかなりかかるのではないか、という点で、
たとえばやすい鳥の胸肉だって100グラム50円くらいはする。
肉とタマゴとチーズで、いちにちにどうしても400円はかかるだろう。
これだけはっきり肉食にかたよると、
炭水化物がはいる余地はないかもしれない。
自然と、糖質制限にもなりそうだ。
これまたすこしまえの朝日新聞で、
糖質制限がはやっているとつたえていた。
外食チェーン店でも、糖質制限のメニューが登場しているといい、
ごはんのかわりに大根をつかったすしが紹介されている。
糖質を制限した食事は、
糖尿病の治療という点でも効果が期待されている。
いっぽうで、糖尿病の専門医は、いまだに糖質制限をみとめていない。
日本糖尿病学会は13年、「現時点では糖尿病患 者に勧められない」との提言を出した。予防効果も結論は出ていないという。ダイエット効果について、佐々木敏・東大教授(社会予防疫学)は「糖質制限で減らしたカロリーを脂質など他のもので補わなければ効果はある」としつつ、「『ご飯ものを減らしたからおかずをもう一皿』となると本末転倒です
自分のなわばりをまもろうと、
むかしながらのカロリー制限食にしがみつき、
患者に不自由な食事と必要のない我慢をもとめる。
そんな医者がおおいなかで、渡辺さんがうちだした食事法は画期的だ。
ダイエット法ではなく、健康法というのがとてもいい。
2017年09月26日
職場の有志があつまって 夜のトレーニングへ
トレーニングに関心のある職員があつまって、
毎週火曜日の夜にジムで汗をながすことになった。
なった、というよりも、
いまのところまだ「あつまれたらいいですね」
という段階なのだけど、
気のはやいわたしは 夕ごはんのしたくをすませてから
夜7時すぎに県立プールのジムへむかった。
職場からきていたのは、わたしと もうひとり、女性職員のふたりだけ。
まえは、週一回、きっちりウエイトトレーニングをしていたものだ。
体育館がたてかえとなり、あたらしくできたジムは
つかいがってがよくなかったため
(せまいし、シャワーに200円もかかる)、
この1年半はジム難民としてすごしていた。
うわさによると、県立プールは利用者がおおすぎて
夜いっても満足にトレーニングができないそうだ。
そんなところへいってストレッチだけでおわるのなら、
家で体幹トレーニングをしていたほうがいい。
でも、「あつまりませんか?」と声をかけられると、
しばらくおとなしくしていたフリーウェイトの虫がうずきだした。
だめもとで、とにかくいちど参加してみよう。
夜7時すぎのジムは、たしかに利用者がおおいけど、
つかう器具がないほどたくさんではない。
かるくストレッチをしてから、
フリーウェイトコーナーを観察していると、
ちょうどベンチプレスの台があいたので
しょっぱなからベンチプレスにとりくめた。
そのあとも、バーベルをつかっていくつかのメニューをこなす。
ほぼ1年ぶりのウエイトトレーニングなので、
まともにやればひどい筋肉痛が確実にまっている。
かるいおもさだけをあつかい、種目もへらした。
というのは、ほぼまけおしみで、
ひさしぶりにとりくむウエイトトレーニングは、
どの種目もろくにバーベルがあがらない。
鏡にうつるわたしの姿は、筋肉がおち、
バーベルをにぎるのが いたいたしいかんじのやせっぽちだ。
ひととおりのメニューをこなしてから、
さいごにトレッドミルで5キロはしる。
相手は機械なので、時速10キロに設定すると、
とにかくそのスピードではしらないといけない。
ついゆっくりペースになりがちなわたしには、いい練習となる。
夜9時ちかくまでからだをうごかすなんて、
しばらくとおざかっていた夜のトレーニングだけど、
ジム全体の雰囲気はなごやかで 居心地がいい。
これからもかよいたくなった。
さいごにシャワーをあびようと 更衣室にむかったら、
閉館時間がせまっていたため、ひとがいっぱいだ。
わたしのあとからも ひとがふえてきて、
しばらくシャワーをつかえそうにない。
島根にいて、こんな混雑を体験するとはおもわなかった。
あきらめて、家にかえってから汗をながすことにする。
車で5分ほどだから、たいして苦痛ではない。
そんなちかくに施設があるというのも、
ひとのすくなさと、施設の充実という点において、
島根ならではの いいところだ。
毎週火曜日の夜にジムで汗をながすことになった。
なった、というよりも、
いまのところまだ「あつまれたらいいですね」
という段階なのだけど、
気のはやいわたしは 夕ごはんのしたくをすませてから
夜7時すぎに県立プールのジムへむかった。
職場からきていたのは、わたしと もうひとり、女性職員のふたりだけ。
まえは、週一回、きっちりウエイトトレーニングをしていたものだ。
体育館がたてかえとなり、あたらしくできたジムは
つかいがってがよくなかったため
(せまいし、シャワーに200円もかかる)、
この1年半はジム難民としてすごしていた。
うわさによると、県立プールは利用者がおおすぎて
夜いっても満足にトレーニングができないそうだ。
そんなところへいってストレッチだけでおわるのなら、
家で体幹トレーニングをしていたほうがいい。
でも、「あつまりませんか?」と声をかけられると、
しばらくおとなしくしていたフリーウェイトの虫がうずきだした。
だめもとで、とにかくいちど参加してみよう。
夜7時すぎのジムは、たしかに利用者がおおいけど、
つかう器具がないほどたくさんではない。
かるくストレッチをしてから、
フリーウェイトコーナーを観察していると、
ちょうどベンチプレスの台があいたので
しょっぱなからベンチプレスにとりくめた。
そのあとも、バーベルをつかっていくつかのメニューをこなす。
ほぼ1年ぶりのウエイトトレーニングなので、
まともにやればひどい筋肉痛が確実にまっている。
かるいおもさだけをあつかい、種目もへらした。
というのは、ほぼまけおしみで、
ひさしぶりにとりくむウエイトトレーニングは、
どの種目もろくにバーベルがあがらない。
鏡にうつるわたしの姿は、筋肉がおち、
バーベルをにぎるのが いたいたしいかんじのやせっぽちだ。
ひととおりのメニューをこなしてから、
さいごにトレッドミルで5キロはしる。
相手は機械なので、時速10キロに設定すると、
とにかくそのスピードではしらないといけない。
ついゆっくりペースになりがちなわたしには、いい練習となる。
夜9時ちかくまでからだをうごかすなんて、
しばらくとおざかっていた夜のトレーニングだけど、
ジム全体の雰囲気はなごやかで 居心地がいい。
これからもかよいたくなった。
さいごにシャワーをあびようと 更衣室にむかったら、
閉館時間がせまっていたため、ひとがいっぱいだ。
わたしのあとからも ひとがふえてきて、
しばらくシャワーをつかえそうにない。
島根にいて、こんな混雑を体験するとはおもわなかった。
あきらめて、家にかえってから汗をながすことにする。
車で5分ほどだから、たいして苦痛ではない。
そんなちかくに施設があるというのも、
ひとのすくなさと、施設の充実という点において、
島根ならではの いいところだ。
2017年09月25日
モノを手ばなして自由になった稲垣えみ子さん
稲垣えみ子さんへのインタビュー、
「モノを手放したら不安が消えた」を
しりあいがおしえてくれた。
https://www.businessinsider.jp/post-34890?utm_source=yahoo&utm_medium=news&utm_campaign=201709
稲垣さんの『魂の退社』をよんだことがあり、
どんなくらしをしているひとなのか、
だいたいはしってるつもりだったけど、
ますます独自の道をあゆまれている。
東日本大震災での原発事故をきっかけに、
電気をつかわない生活をはじめた稲垣さんは、
電気製品を手ばなしはじめる。
朝日新聞記者の仕事もやめ、
身のまわりの家具を処分し、
きわめつけは冷蔵庫を手ばなすと、
一気にものをもたない生活へとかたむいていく。
稲垣さんがかたる ものをもたないくらしをよんでいると、
アルバイトと年金でなんとか老後をしのごうとしている自分が
つまらない人間におもえてきた。
おまえは自分だけがよければ、それでいいのかと
つっこみをいれたい。
稲垣さんは、冷蔵庫をもたないので つくりおきができない。
つくったぶんを、その日のうちにたべる。
自然とおなじようなおかずをつくることになるけど、
毎日たべてもぜんぜんあきないのだそうだ。
自分ひとりのために料理すると、
おなじおかずをくりかえしつくっても問題ない。
家族がいると、毎日ちがう料理を、なんておもうけど、
ひとりだったら野菜いためとみそ汁でじゅうぶんだ。
それにしても月1万円の食費はすごい。
これだったら、お金を心配せずに老後をむかえられる。
だれでもできることなのに、だれもはやらない。
お金をつかわないくらしは、自由とふかいつながりがある。
そもそも、自分ひとりでなんとかしなければ、とおもうから、
何千万円もの貯金が必要になるわけだけど、
稲垣さんは、ものをもたなくなってから
しりあいがふえたので、こまったときは
そこへころがりこめばいいと おもえるようになった。
ここらへんは、アマゾンの先住民族たちの倫理とおなじだ。
おたがいに たすけあうしくみのうえで 生活がなりたっている。
うしなうものがないと、自由に生きられる。
自由がいちばんだいじ、といいながら、
ものにかこまれて自由をうしなっていることに
わたしは気づかないふりをしてくらしている。
「モノを手放したら不安が消えた」を
しりあいがおしえてくれた。
https://www.businessinsider.jp/post-34890?utm_source=yahoo&utm_medium=news&utm_campaign=201709
稲垣さんの『魂の退社』をよんだことがあり、
どんなくらしをしているひとなのか、
だいたいはしってるつもりだったけど、
ますます独自の道をあゆまれている。
東日本大震災での原発事故をきっかけに、
電気をつかわない生活をはじめた稲垣さんは、
電気製品を手ばなしはじめる。
朝日新聞記者の仕事もやめ、
身のまわりの家具を処分し、
きわめつけは冷蔵庫を手ばなすと、
一気にものをもたない生活へとかたむいていく。
・月1万円で食べていけることが私を支えている
・手放していく生活に新たな可能性をかんじるようになった
稲垣さんがかたる ものをもたないくらしをよんでいると、
アルバイトと年金でなんとか老後をしのごうとしている自分が
つまらない人間におもえてきた。
おまえは自分だけがよければ、それでいいのかと
つっこみをいれたい。
稲垣さんは、冷蔵庫をもたないので つくりおきができない。
つくったぶんを、その日のうちにたべる。
自然とおなじようなおかずをつくることになるけど、
毎日たべてもぜんぜんあきないのだそうだ。
自分ひとりのために料理すると、
おなじおかずをくりかえしつくっても問題ない。
家族がいると、毎日ちがう料理を、なんておもうけど、
ひとりだったら野菜いためとみそ汁でじゅうぶんだ。
それにしても月1万円の食費はすごい。
これだったら、お金を心配せずに老後をむかえられる。
だれでもできることなのに、だれもはやらない。
お金をつかわないくらしは、自由とふかいつながりがある。
そもそも、自分ひとりでなんとかしなければ、とおもうから、
何千万円もの貯金が必要になるわけだけど、
稲垣さんは、ものをもたなくなってから
しりあいがふえたので、こまったときは
そこへころがりこめばいいと おもえるようになった。
ここらへんは、アマゾンの先住民族たちの倫理とおなじだ。
おたがいに たすけあうしくみのうえで 生活がなりたっている。
うしなうものがないと、自由に生きられる。
自由がいちばんだいじ、といいながら、
ものにかこまれて自由をうしなっていることに
わたしは気づかないふりをしてくらしている。
2017年09月24日
『ラオスにいったい何があるというんですか?』(村上春樹)
『ラオスにいったい何があるというんですか?』
(村上春樹・文藝春秋)
村上さんが20年のあいだにかいた、いくつかの紀行文をまとめたもの。
この本が出版されたのは2年前だけど、タイトルにひっかかってしまい
これまでほったらかしてきた。
「ラオスにいったい何があるというんですか」って、
ラオスにすごく失礼ないいかたではないか。
でも、よんでみると、
べつにラオスをひくくみているわけではなかった。
これからラオスのルアンプラバンにむかおうとするとき、
のりつぎをしたハノイで、
ベトナムのひとが村上さんにいったことばだ。
なんでもベトナムにあるのだから、
わざわざラオスになんていかなくてもいいのに。
でも、それが旅行というものなのでは。
20年もの期間にわたるのだから、いきさきはあちこちだ。
ボストンやアイルランド、それに日本の熊本もふくめ、
村上さんがたずねた10ヶ所の旅行記がまとめられている。
なかには『遠い太鼓』にでてきたミコノス島とスペッツェス島、
それにトスカーナ地方のように、再訪の記録もあり、
それはそれでなつかしい。
ありきたりないいかただけど、
とりあげられている町にいきたくなるは村上さんのうまさだろう。
なかでも、フィンランドのはなしがいちばんおもしろかった。
ヘルシンキで村上さんは、
カウリスマキ監督の兄弟が経営するバー
「カフェ・モスクワ」をたずねている。
基本的経営方針が「冷たいサービスと、暖かいビール」というから
かなりかわっている。
店にはいり、椅子にすわっても、従業員がだれも注文をききにこない。
店には、カップルの客が一組だけ。
村上さんの比喩に いつも関心するけど、
この「内装の一部」もきまっている。
いくらまっても従業員がこないので、
村上さんはけっきょく「暖かいビール」すらのめなかったそうだ。
ボストンでの
もいい。
翻訳っぽい文章にすることで、
いかにも外国のガイドブックをみている気がしてくる。
そして、タイトルになっている
ラオスのルアンプラバンにはなにがあったのか。
率直にいって、あまり魅力のある記事とはいえなかった
(ホテルできいた民族音楽についてかたるときだけさえている)。
村上さんとアジアは、あまり相性がよくないのかもしれない。
(村上春樹・文藝春秋)
村上さんが20年のあいだにかいた、いくつかの紀行文をまとめたもの。
この本が出版されたのは2年前だけど、タイトルにひっかかってしまい
これまでほったらかしてきた。
「ラオスにいったい何があるというんですか」って、
ラオスにすごく失礼ないいかたではないか。
でも、よんでみると、
べつにラオスをひくくみているわけではなかった。
これからラオスのルアンプラバンにむかおうとするとき、
のりつぎをしたハノイで、
ベトナムのひとが村上さんにいったことばだ。
なんでもベトナムにあるのだから、
わざわざラオスになんていかなくてもいいのに。
でも、それが旅行というものなのでは。
20年もの期間にわたるのだから、いきさきはあちこちだ。
ボストンやアイルランド、それに日本の熊本もふくめ、
村上さんがたずねた10ヶ所の旅行記がまとめられている。
なかには『遠い太鼓』にでてきたミコノス島とスペッツェス島、
それにトスカーナ地方のように、再訪の記録もあり、
それはそれでなつかしい。
ありきたりないいかただけど、
とりあげられている町にいきたくなるは村上さんのうまさだろう。
なかでも、フィンランドのはなしがいちばんおもしろかった。
ヘルシンキで村上さんは、
カウリスマキ監督の兄弟が経営するバー
「カフェ・モスクワ」をたずねている。
基本的経営方針が「冷たいサービスと、暖かいビール」というから
かなりかわっている。
暗くけばい もろ60年代風の内装から、ジュークボックスの表に貼られた偏執的な選曲リストから、すべてが見事なまでにカウリスマキ趣味で成り立っている。
店にはいり、椅子にすわっても、従業員がだれも注文をききにこない。
店には、カップルの客が一組だけ。
この二人はフィンランド人の三十代初めくらいの男と、エストニア人の二十歳過ぎのちょっと色っぽい女の子のカップルで、かなりダウン・トゥ・アースな、みっちり下心に満ちた、濃い雰囲気を漂わせていた。このへんの客層もいかにもカウリスマキっぽい。本当に「内装の一部」といっても違和感のないようなお二人だった。
村上さんの比喩に いつも関心するけど、
この「内装の一部」もきまっている。
いくらまっても従業員がこないので、
村上さんはけっきょく「暖かいビール」すらのめなかったそうだ。
ボストンでの
そして言うまでもないことだけれど、あなたがボストンに来るなら、新鮮な魚介料理を食べに行くことは、チェックリストのかなり上段に置かれるべき項目になる。
もいい。
翻訳っぽい文章にすることで、
いかにも外国のガイドブックをみている気がしてくる。
そして、タイトルになっている
ラオスのルアンプラバンにはなにがあったのか。
率直にいって、あまり魅力のある記事とはいえなかった
(ホテルできいた民族音楽についてかたるときだけさえている)。
村上さんとアジアは、あまり相性がよくないのかもしれない。
2017年09月23日
「カール」ロスにそなえたヨシダプロ氏の記事がすばらしい
わたしのだいすきなモモちゃんシリーズ
(デイリーポータルZ・ヨシダプロ氏)。
今回は、柴犬のモモちゃんのしっぽが
スナック菓子のカールににているというこじつけだ。
「カール」ロスにそなえて、ももちゃんのしっぽが
どれだけカールっぽくなるかの検証である。
http://portal.nifty.com/kiji/170921200729_1.htm
いつものように、めちゃくちゃな問題提起だ。
いや、これまでにいちばん無理がある設定だろう。
シリーズちゅう、最大で最高のこじつけだ。
そりゃ、たしかに犬のしっぽはクルンとまるまっているけど、
だからといっておかしのカールをおもいおこすほどでもない。
しかし、ヨシダプロは
ももちゃんの、さらなる「カール化」が、
今回のテーマなのだ。
100均でかってきた布をはりあわせ、
カールの袋っぽい絵を布にかく。
ヨシダプロ氏にとって、カールといえばチーズ味なのだそうで、
カールならではの「それにつけても」とともに、
「チーズ味」がかきこまれる。
これで、ももちゃんの、カール化が完成した。
デイリーポータルZにのった記事には、
たくさんの写真と説明文がのっており、
ももちゃんの無理やりカール化をたすけている。
もし説明文がなければ、いったいなんの記事か
ほとんどのひとは理解できないだろう。
とにかく、しっぽがクルンとまるまった犬がいたら、
もしカールが発売されなくなっても、
なんとか「カール」ロスはさけられるみとおしがたった。
まことにめでたいと いわねばなるまい。
(デイリーポータルZ・ヨシダプロ氏)。
今回は、柴犬のモモちゃんのしっぽが
スナック菓子のカールににているというこじつけだ。
「カール」ロスにそなえて、ももちゃんのしっぽが
どれだけカールっぽくなるかの検証である。
http://portal.nifty.com/kiji/170921200729_1.htm
この秋以降、東日本からカールが無くなるらしい。まずい。そこで、来たるべきカールロスに備えて、事実上のカールとも言える、柴犬のシッポでなんとか乗り越えたいと思う。
いつものように、めちゃくちゃな問題提起だ。
いや、これまでにいちばん無理がある設定だろう。
シリーズちゅう、最大で最高のこじつけだ。
そりゃ、たしかに犬のしっぽはクルンとまるまっているけど、
だからといっておかしのカールをおもいおこすほどでもない。
しかし、ヨシダプロは
「ほぼカール」なことが明らかになった柴犬だが、たしかにカールっぽいけど ただデフォルトのままでは、カールカタルシスはやや足りないであろう。そこで今回は、カールロスを乗り越えるべく、さらなるカール化を柴犬に施したいと思う。
ももちゃんの、さらなる「カール化」が、
今回のテーマなのだ。
100均でかってきた布をはりあわせ、
カールの袋っぽい絵を布にかく。
ヨシダプロ氏にとって、カールといえばチーズ味なのだそうで、
カールならではの「それにつけても」とともに、
「チーズ味」がかきこまれる。
これで、ももちゃんの、カール化が完成した。
デイリーポータルZにのった記事には、
たくさんの写真と説明文がのっており、
ももちゃんの無理やりカール化をたすけている。
もし説明文がなければ、いったいなんの記事か
ほとんどのひとは理解できないだろう。
とにかく、しっぽがクルンとまるまった犬がいたら、
もしカールが発売されなくなっても、
なんとか「カール」ロスはさけられるみとおしがたった。
まことにめでたいと いわねばなるまい。
2017年09月22日
『裏が、幸せ』(酒井順子)
『裏が、幸せ』(酒井順子・小学館)
裏日本って、じつは魅力的な場所なんじゃないの、という、
酒井さんによる裏日本の再発見が一冊にまとめられている。
「表」の繁栄にかくれ、ひっそりとくらい印象のある裏日本だけど、
これからはその後進性こそをひとびとがもとめるかもしれない。
冒頭には、酒井さんがはじめて山陰本線にのったときのおどろきが
のべられている。
島根にすんでいるわたしは、日常的にこうした風景にせっしている。
あたりまえすぎて、なんともおもわない景色が、
「表」にすんでいるひとにとって、
おどろくべきうつくしさにうつるとは。
これこそが、すんでいるものには気づきにくい、
「裏」の魅力なのだろう。
酒井さんが石川県の旅館「加賀屋」をたずねると、
三代目の会長がこうはなしている。
ついでに、風呂にいれる水もじぶんで井戸からくみ、
マキをたきつけて湯をわかす体験もくみこんだら
人気がでるのではないか。
やったことのないひとには、マキに火はつけられないだろうから、
そこは旅館のスタッフが手だすけをする。
自分で「不便」のたのしさを体験できれば、
そうしたくらしが けして不便だけではないと気づくのでは。
酒井さんは、「日本海側美人一県おき説」を検証するために、
かつて青森から福井までの県庁所在地を調査している。
町をあるく女性が、美人か、そうでないかをカウントしてみると、
「一県おき説」がみごとに立証され、
なかでも秋田美人の健闘がめだった。
その3年後に、そのつづきとして、こんどは京都から福岡までの
日本海側の県における美人率をしらべている。
結果としては
島根は、とりあげられた6県のなかでは、
比較的たかいポイントをあげているものの(6.5%)、
平凡な数字にとどまっている(第3位)。
島根にすむものとしては、すこし残念な結果だ。
とはいえ、京都の4.5%よりも美人率がたかく、
東京でさえ、京都なみというから、
島根には美人がおおいと、いいきっておく。
表でなくてもいいではないか、と
いまをいきるひとびとがかんじるようになった。
光あるところばかりが魅力なのではない。
裏であるからこそのよさが裏日本にはあり、
これからは裏日本の時代、というよりも、
これからも裏ならではの魅力をうしなわないでほしいと、
酒井さんはねがっている。
わたしもまた、島根は島根でいいと おもうようになった。
裏日本って、じつは魅力的な場所なんじゃないの、という、
酒井さんによる裏日本の再発見が一冊にまとめられている。
「表」の繁栄にかくれ、ひっそりとくらい印象のある裏日本だけど、
これからはその後進性こそをひとびとがもとめるかもしれない。
冒頭には、酒井さんがはじめて山陰本線にのったときのおどろきが
のべられている。
「鄙びている」を通り越して、日本海はあくまで澄んだ青、山々は緑、海山の間に建てられた家並みは統一感があって・・・と、ほとんど絶景の連続です。「こんな場所が日本にあったとは」と、私は思いました。
島根にすんでいるわたしは、日常的にこうした風景にせっしている。
あたりまえすぎて、なんともおもわない景色が、
「表」にすんでいるひとにとって、
おどろくべきうつくしさにうつるとは。
これこそが、すんでいるものには気づきにくい、
「裏」の魅力なのだろう。
酒井さんが石川県の旅館「加賀屋」をたずねると、
三代目の会長がこうはなしている。
裏日本が、表のようになったってしょうがないんです。かつて、明るく華やかな観光地を人びとは目指したけれど、これからはそうじゃないでしょう
今はもう消えてしまったもの、たとえば五右衛門風呂とか蚊帳とかね、そんなものを揃えて、その名も「裏日本」なんていう旅館をつくったら面白いだろうなぁと、これは商売人としても思いますね
ついでに、風呂にいれる水もじぶんで井戸からくみ、
マキをたきつけて湯をわかす体験もくみこんだら
人気がでるのではないか。
やったことのないひとには、マキに火はつけられないだろうから、
そこは旅館のスタッフが手だすけをする。
自分で「不便」のたのしさを体験できれば、
そうしたくらしが けして不便だけではないと気づくのでは。
酒井さんは、「日本海側美人一県おき説」を検証するために、
かつて青森から福井までの県庁所在地を調査している。
町をあるく女性が、美人か、そうでないかをカウントしてみると、
「一県おき説」がみごとに立証され、
なかでも秋田美人の健闘がめだった。
その3年後に、そのつづきとして、こんどは京都から福岡までの
日本海側の県における美人率をしらべている。
結果としては
はっきりした『一県おき』傾向は、西日本では見られませんでした。
島根は、とりあげられた6県のなかでは、
比較的たかいポイントをあげているものの(6.5%)、
平凡な数字にとどまっている(第3位)。
島根にすむものとしては、すこし残念な結果だ。
とはいえ、京都の4.5%よりも美人率がたかく、
東京でさえ、京都なみというから、
島根には美人がおおいと、いいきっておく。
表でなくてもいいではないか、と
いまをいきるひとびとがかんじるようになった。
光あるところばかりが魅力なのではない。
裏であるからこそのよさが裏日本にはあり、
これからは裏日本の時代、というよりも、
これからも裏ならではの魅力をうしなわないでほしいと、
酒井さんはねがっている。
わたしもまた、島根は島根でいいと おもうようになった。
2017年09月21日
マッサージしてもらうしあわせ
床屋さんや美容院は、たいていのところで
総しあげみたいなかんじのマッサージをしてくれるけど、
もうひとつものたりなさがのこることがおおい。
気もちよくないわけではないけど、いいところで うちきられる。
テクニックとしても、中途半端で いまひとつなかんじ。
理容学校では、マッサージの基本技術をおしえているのだろうか。
マッサージと散髪とは、ほんらい まったく関係ないのに、
タダでやってくれるのだから、ありがたいといえば ありがたい。
ありがたいけど、どうせするなら、もうちょっと、
とかんじるのが床屋さんのマッサージだ。
わたしの職場には、なにかにつけて
運転ちゅうのわたしに マッサージをしてくれる利用者さんがいる。
運転席のうしろから手をのばし、わたしの肩をたたくのは、
かなりやりにくい体勢となるはずなのに、
ひじょうにしばしばたたいたり、もんだりしてくれる。
ありがたいことに、床屋さんでのマッサージよりも、
ずっとていねいで、時間もながい。
職員としては、利用者に肩をもんでもらうなんて、
まわりのひとから、どんなうけとめかたをされるかわからないので、
やめるようにはたらきかけないといけない場面だ。
でもまあ、車のなかなら、すこしぐらはいいいいだろうと、
つい そのままもんでくれるにまかせてしまう。
そのひととしては、サービスとしてのマッサージではなく、
あそんでくれるようにと、わたしにちょっかいをかけているのだ。
でも、そのマッサージが 妙に気もちいい。
あそびとしてわたしの肩をたたいているのだから、
ときどきめちゃくちゃちからをこめてたたくこともある。
それでも、わたしの肩はガチガチにこっているのか、
我慢できないほどのちからではなく、
ほかでは味わえないサービスとして ありがたく頂戴している。
たいていのことがらがそうであるように、
マッサージも、かなりのていどセンスできまる。
へたなひとは、どんなに気もちをこめても
相手が満足するマッサージはできない。
利用者さんは、どうやってこれだけの技術を身につけたのだろう。
とにかくそのひとは、わるくないテクニックをもって
わたしの肩をもむのが なぜかすきなようだ。
たのみもしないのに、肩をもんでくれるなんて、
かんがえてみると ものすごくしあわせな状況だ。
すぐれたセンスと、マッサージずきなわたしとを、
神さまがアレンジしてくれたとしかおもえない。
みかたをかえると、マッサージは
ひとつのスキンシップでもある。
ひとの肩をもんでしたしみをあらわし、
うける側のわたしは 気もちよさを相手につたえる。
からだをさわられると いやがるひともいるけど、
わたしは抵抗がないので、わるい気はぜんぜんしない。
床屋さんのマッサージは、ながい時間 じっとすわってもらい、
おつかれさまでした、という意味がこめられているのだろう。
あるいは、スキンシップ効果をねらって、
リピーターをふやそうとしているのか。
ハグや、ラテン系のひとがよくやる ほほをあててのキスのかわりに、
日本でも、なにか身ぢかなスキンシップがひろまらないだろうか。
総しあげみたいなかんじのマッサージをしてくれるけど、
もうひとつものたりなさがのこることがおおい。
気もちよくないわけではないけど、いいところで うちきられる。
テクニックとしても、中途半端で いまひとつなかんじ。
理容学校では、マッサージの基本技術をおしえているのだろうか。
マッサージと散髪とは、ほんらい まったく関係ないのに、
タダでやってくれるのだから、ありがたいといえば ありがたい。
ありがたいけど、どうせするなら、もうちょっと、
とかんじるのが床屋さんのマッサージだ。
わたしの職場には、なにかにつけて
運転ちゅうのわたしに マッサージをしてくれる利用者さんがいる。
運転席のうしろから手をのばし、わたしの肩をたたくのは、
かなりやりにくい体勢となるはずなのに、
ひじょうにしばしばたたいたり、もんだりしてくれる。
ありがたいことに、床屋さんでのマッサージよりも、
ずっとていねいで、時間もながい。
職員としては、利用者に肩をもんでもらうなんて、
まわりのひとから、どんなうけとめかたをされるかわからないので、
やめるようにはたらきかけないといけない場面だ。
でもまあ、車のなかなら、すこしぐらはいいいいだろうと、
つい そのままもんでくれるにまかせてしまう。
そのひととしては、サービスとしてのマッサージではなく、
あそんでくれるようにと、わたしにちょっかいをかけているのだ。
でも、そのマッサージが 妙に気もちいい。
あそびとしてわたしの肩をたたいているのだから、
ときどきめちゃくちゃちからをこめてたたくこともある。
それでも、わたしの肩はガチガチにこっているのか、
我慢できないほどのちからではなく、
ほかでは味わえないサービスとして ありがたく頂戴している。
たいていのことがらがそうであるように、
マッサージも、かなりのていどセンスできまる。
へたなひとは、どんなに気もちをこめても
相手が満足するマッサージはできない。
利用者さんは、どうやってこれだけの技術を身につけたのだろう。
とにかくそのひとは、わるくないテクニックをもって
わたしの肩をもむのが なぜかすきなようだ。
たのみもしないのに、肩をもんでくれるなんて、
かんがえてみると ものすごくしあわせな状況だ。
すぐれたセンスと、マッサージずきなわたしとを、
神さまがアレンジしてくれたとしかおもえない。
みかたをかえると、マッサージは
ひとつのスキンシップでもある。
ひとの肩をもんでしたしみをあらわし、
うける側のわたしは 気もちよさを相手につたえる。
からだをさわられると いやがるひともいるけど、
わたしは抵抗がないので、わるい気はぜんぜんしない。
床屋さんのマッサージは、ながい時間 じっとすわってもらい、
おつかれさまでした、という意味がこめられているのだろう。
あるいは、スキンシップ効果をねらって、
リピーターをふやそうとしているのか。
ハグや、ラテン系のひとがよくやる ほほをあててのキスのかわりに、
日本でも、なにか身ぢかなスキンシップがひろまらないだろうか。
2017年09月20日
これからどんな老いがまっているのか
ときどきのぞいてみるブログに、
55歳をむかえた感想がかきこんであった。
いちねんまえの誕生日とくらべても、
つかれがとれにくく、無理がきかなくなったという。
なによりも、将来の不安がかかれていた。
計画的な人生設計のもとにくらしてきたわけではないので、
貯金はわずかしかないらしく、
年金がどうなるか、うけとれるまで健康でいられるかなど、
歳がちかいせいか、わたしとおなじような不安をかかえておられる。
ものすごく共感しながら 老いをむかえつつある心境をよんだ。
わたしのこころずもりとしては、
年金をうけとれる65歳まで、なんとか仕事をつづけ、
それからはアルバイト程度の仕事と年金で
ささやかにくらしていけたらありがたい。
ただ、それも「このままいけば」というはなしであり、
健康に問題をかかえたり、家族への介護が必要になった場合、
わたしが絵にかいてるような生活は
たちどころになりたたなくなる。
歳をとればとるほど、リスクはたかまるわけで、
けっきょくは、いつまで生きるつもりなのかが 鍵をにぎっている。
ピンピンコロリをだれもがねがうように、
わたしの予定も 死ぬまでげんきにくらし、
そこからバタバタっとみじかい期間の「さいご」をむかえるという
虫のいいねがいのもとになりたっている。
具体的には、75歳まで生きられたら、それでじゅうぶんだ。
とすれば、あと20年。
予定どおり、75歳の誕生日をむかえたときに、
わたしのからだと精神は、どんな状況をむかえているだろう。
このまえ利用者のおでかけにつきそったとき、
バッティングセンターであそぶ機会があった。
わたしといっしょにいったひとが、コインをいれすぎてしまい、
いつまでも いつまでもボールがとんでくる。
バッティングにあきたそのひとが、わたしにバットをわたしたので、
かつて野球少年だったわたしは、どれどれと打席にたつ。
バッティングマシーンに設定されているスピードは、時速80キロ。
プロ野球でしめされるスピードの半分ていどだ。
プロだったら、超スローボールであるそのスピードでさえ、
わたしはまったくバットにあてられなかった。
ほんとうに、かすりもしない。
なれたら そのうちあたるようになるともおもえない。
いまのわたしは、おそらくキャッチボールもむつかしいのではないか。
ノックをうけても、ボールのスピードに
からだがついていきそうにない。
歳をとるとは、こういうことなのかと しみじみおもいしらされる。
わかいころのイメージがあたまにのこっているのに、
からだはそのとおりにうごいてくれない。
むかしよくあそんだテニスやバドミントンも、
きっとおなじように残念なうごきしかできないだろう。
脳がからだに命令しても、からだがうごかない事実に
自分のことながらとまどってしまう。
75歳まであと20年。
これからどんな現実がわたしをまっているのか。
そうした老いを、どうしたらしずかにうけいれられるのか。
だれもが老いをむかえるのに、
なんでこんなにこころがまえが さだまらないのだろう。
はじめてむかえる老いは、わからないことばかりだ。
55歳をむかえた感想がかきこんであった。
いちねんまえの誕生日とくらべても、
つかれがとれにくく、無理がきかなくなったという。
なによりも、将来の不安がかかれていた。
計画的な人生設計のもとにくらしてきたわけではないので、
貯金はわずかしかないらしく、
年金がどうなるか、うけとれるまで健康でいられるかなど、
歳がちかいせいか、わたしとおなじような不安をかかえておられる。
ものすごく共感しながら 老いをむかえつつある心境をよんだ。
わたしのこころずもりとしては、
年金をうけとれる65歳まで、なんとか仕事をつづけ、
それからはアルバイト程度の仕事と年金で
ささやかにくらしていけたらありがたい。
ただ、それも「このままいけば」というはなしであり、
健康に問題をかかえたり、家族への介護が必要になった場合、
わたしが絵にかいてるような生活は
たちどころになりたたなくなる。
歳をとればとるほど、リスクはたかまるわけで、
けっきょくは、いつまで生きるつもりなのかが 鍵をにぎっている。
ピンピンコロリをだれもがねがうように、
わたしの予定も 死ぬまでげんきにくらし、
そこからバタバタっとみじかい期間の「さいご」をむかえるという
虫のいいねがいのもとになりたっている。
具体的には、75歳まで生きられたら、それでじゅうぶんだ。
とすれば、あと20年。
予定どおり、75歳の誕生日をむかえたときに、
わたしのからだと精神は、どんな状況をむかえているだろう。
このまえ利用者のおでかけにつきそったとき、
バッティングセンターであそぶ機会があった。
わたしといっしょにいったひとが、コインをいれすぎてしまい、
いつまでも いつまでもボールがとんでくる。
バッティングにあきたそのひとが、わたしにバットをわたしたので、
かつて野球少年だったわたしは、どれどれと打席にたつ。
バッティングマシーンに設定されているスピードは、時速80キロ。
プロ野球でしめされるスピードの半分ていどだ。
プロだったら、超スローボールであるそのスピードでさえ、
わたしはまったくバットにあてられなかった。
ほんとうに、かすりもしない。
なれたら そのうちあたるようになるともおもえない。
いまのわたしは、おそらくキャッチボールもむつかしいのではないか。
ノックをうけても、ボールのスピードに
からだがついていきそうにない。
歳をとるとは、こういうことなのかと しみじみおもいしらされる。
わかいころのイメージがあたまにのこっているのに、
からだはそのとおりにうごいてくれない。
むかしよくあそんだテニスやバドミントンも、
きっとおなじように残念なうごきしかできないだろう。
脳がからだに命令しても、からだがうごかない事実に
自分のことながらとまどってしまう。
75歳まであと20年。
これからどんな現実がわたしをまっているのか。
そうした老いを、どうしたらしずかにうけいれられるのか。
だれもが老いをむかえるのに、
なんでこんなにこころがまえが さだまらないのだろう。
はじめてむかえる老いは、わからないことばかりだ。
2017年09月19日
いまさらながら『ニュー・シネマ・パラダイス』
『ニュー・シネマ・パラダイス』
(ジュゼッペ=トルナトーレ:監督・1988年・イタリア)
まえにいちどみたことがあるけど、
このごろたびたびこの作品の名前や音楽が耳にはいるので、
なんとなく気になっていた。
図書館でかりて、もういちどみてみる。
(以下、ネタバレあり)
おもしろいけど、こんな内容だったっけ。
とくに、さいごのほうは、まったく記憶にない。
とおもっていたら、どうもこの作品には、
劇場公開版と、完全オリジナル版があるようで、
まえにわたしがみたのはおそらく劇場公開版だったのだろう。
有名なラストをみても、わたしにはピンとこなかった。
自主規制していたキスシーンをあつめただけじゃないか。
そんな程度にしか行間をよみとれないわたしは、
いかに映画オンチかをおもいしらされる。
そうか。ふたりの愛をじゃましたのは、
アルフレードのしわざだったのか。
いまさらどうしようもないけど、
もしわたしがそんなことをされたら 納得できそうにない。
有名になるより、すきな女性とむすばれたいにきまっている。
劇場公開版と完全オリジナル版とのちがいは、
テーマを映画への愛にするか、
女性への愛にするかのちがいかもしれない。
それにしても、キスシーンがこれだけあつまると
キスというのがじつに自然な行為なのだとわかる。
はずかしがらずに、せいいっぱいキスしておかなくては。
なきながらスクリーンをみて、
おもわずつぎのセリフをくちにする男性。
完全にこころをときはなち、おおわらいしている男性。
映画には、みているひとのこころを浄化するちからがある。
映画はかつて、こんなにもひとびとが必要とし、
くらしのなかにしっかりと根づいていた。
ないたり わらったりの娯楽というよりも、
生きていくうえで、なくてはならない存在だった。
映画そのものをあつかった作品がたくさんあるなかで、
なんだかんだいっても、けっきょくは
『ニュー・シネマ・パラダイス』にとどめをさす。
映画へのおもいに、いまも むかしもない。
作品の理解にちがいがあっても、
映画がすきなひとには、たまらない作品だ。
(ジュゼッペ=トルナトーレ:監督・1988年・イタリア)
まえにいちどみたことがあるけど、
このごろたびたびこの作品の名前や音楽が耳にはいるので、
なんとなく気になっていた。
図書館でかりて、もういちどみてみる。
(以下、ネタバレあり)
おもしろいけど、こんな内容だったっけ。
とくに、さいごのほうは、まったく記憶にない。
とおもっていたら、どうもこの作品には、
劇場公開版と、完全オリジナル版があるようで、
まえにわたしがみたのはおそらく劇場公開版だったのだろう。
有名なラストをみても、わたしにはピンとこなかった。
自主規制していたキスシーンをあつめただけじゃないか。
そんな程度にしか行間をよみとれないわたしは、
いかに映画オンチかをおもいしらされる。
そうか。ふたりの愛をじゃましたのは、
アルフレードのしわざだったのか。
いまさらどうしようもないけど、
もしわたしがそんなことをされたら 納得できそうにない。
有名になるより、すきな女性とむすばれたいにきまっている。
劇場公開版と完全オリジナル版とのちがいは、
テーマを映画への愛にするか、
女性への愛にするかのちがいかもしれない。
それにしても、キスシーンがこれだけあつまると
キスというのがじつに自然な行為なのだとわかる。
はずかしがらずに、せいいっぱいキスしておかなくては。
なきながらスクリーンをみて、
おもわずつぎのセリフをくちにする男性。
完全にこころをときはなち、おおわらいしている男性。
映画には、みているひとのこころを浄化するちからがある。
映画はかつて、こんなにもひとびとが必要とし、
くらしのなかにしっかりと根づいていた。
ないたり わらったりの娯楽というよりも、
生きていくうえで、なくてはならない存在だった。
映画そのものをあつかった作品がたくさんあるなかで、
なんだかんだいっても、けっきょくは
『ニュー・シネマ・パラダイス』にとどめをさす。
映画へのおもいに、いまも むかしもない。
作品の理解にちがいがあっても、
映画がすきなひとには、たまらない作品だ。
2017年09月18日
『イコライザー』必殺仕掛人みたいなデンゼル=ワシントンの格闘術
『イコライザー』(アントワーン=フークア監督・2014年・アメリカ)
ストーリーはいたって簡単だ。
元CIAの諜報部員だったマッコール(デンゼル=ワシントン)は、
いまは平凡な中年男性として、町のホームセンターではたらいている。
いきつけの食堂でしりあった まだおさない娼婦が、
ある日、元じめのマフィアにひどくキズつけられる。
マッコールは、マフィアの事務所をたずね、
少女をひきとる交渉にのぞむが、まったくあいてにされない。
諜報部員だった自分のちからをふうじてきたマッコールだが、
いまや忍耐の限界をこえてしまった。
その場にいたマフィア5人を、一連のはやわざでみなごろしにする。
その間、わずか19秒。
このマフィアは、ロシアのマフィアとつながっていた。
自分をころすまであいてはあきらめないとしったマッコールは、
ロシアンマフィアのトップであるプーシキンをたおすまで
たたかいつづけるときめる。
イマジカBSをつけたら たまたまやっていた作品で、
そのままズルズルとさいごまでみてしまった。
ありがちなストーリーで、ウソみたいにつよい主役の活躍も、
じょうずにつくってあり気にならない。
これだけの圧倒的なヒーローをえんじながら、
いやみをかんじさせないデンゼル=ワシントンはたいしたものだ。
マッコールの格闘術がすごい。
状況を観察したうえで、何秒であいてをたおすかをきめ、
時計のストップウォッチをおしてから 仕事にかかる。
はじめに5人のマフィアとたたかったときは、
16秒を予測し、実際は19秒だったので、
自分の仕事に満足していない。
『ザ・ウォーカー』みたいだなー、とおもっていたら、
あの作品も、デンゼル=ワシントンだった。
復讐の鬼とかしたマッコールは、
職場であるホームセンターにきたチンピラも
もはやゆるしておけない。
レジのお金と、レジ係の指輪をうばい、車でたちさるチンピラ。
マッコールは、じっと車の特徴をおぼえ、
やおら店にひきかえすと、うり場にあったハンマーを手にとって、
なにかを決意したようにみえる。
つぎのシーンで、血まみれになったハンマーを、
マッコールがタオルでぬぐっている。
いちどきれてしまうと、ロシアンマフィアだろうが、
町のチンピラだろうが、マッコールは容赦しないのだ。
この作品ちゅう、いちばんのみどころといっていいだろう。
ストーリーはいたって簡単だ。
元CIAの諜報部員だったマッコール(デンゼル=ワシントン)は、
いまは平凡な中年男性として、町のホームセンターではたらいている。
いきつけの食堂でしりあった まだおさない娼婦が、
ある日、元じめのマフィアにひどくキズつけられる。
マッコールは、マフィアの事務所をたずね、
少女をひきとる交渉にのぞむが、まったくあいてにされない。
諜報部員だった自分のちからをふうじてきたマッコールだが、
いまや忍耐の限界をこえてしまった。
その場にいたマフィア5人を、一連のはやわざでみなごろしにする。
その間、わずか19秒。
このマフィアは、ロシアのマフィアとつながっていた。
自分をころすまであいてはあきらめないとしったマッコールは、
ロシアンマフィアのトップであるプーシキンをたおすまで
たたかいつづけるときめる。
イマジカBSをつけたら たまたまやっていた作品で、
そのままズルズルとさいごまでみてしまった。
ありがちなストーリーで、ウソみたいにつよい主役の活躍も、
じょうずにつくってあり気にならない。
これだけの圧倒的なヒーローをえんじながら、
いやみをかんじさせないデンゼル=ワシントンはたいしたものだ。
マッコールの格闘術がすごい。
状況を観察したうえで、何秒であいてをたおすかをきめ、
時計のストップウォッチをおしてから 仕事にかかる。
はじめに5人のマフィアとたたかったときは、
16秒を予測し、実際は19秒だったので、
自分の仕事に満足していない。
『ザ・ウォーカー』みたいだなー、とおもっていたら、
あの作品も、デンゼル=ワシントンだった。
復讐の鬼とかしたマッコールは、
職場であるホームセンターにきたチンピラも
もはやゆるしておけない。
レジのお金と、レジ係の指輪をうばい、車でたちさるチンピラ。
マッコールは、じっと車の特徴をおぼえ、
やおら店にひきかえすと、うり場にあったハンマーを手にとって、
なにかを決意したようにみえる。
つぎのシーンで、血まみれになったハンマーを、
マッコールがタオルでぬぐっている。
いちどきれてしまうと、ロシアンマフィアだろうが、
町のチンピラだろうが、マッコールは容赦しないのだ。
この作品ちゅう、いちばんのみどころといっていいだろう。
2017年09月17日
『私はダニエル・ブレイク』ひとりの市民としての尊厳を
『わたしはダニエル・ブレイク』(ケン=ローチ監督・2016年・イギリス)
すごい映画をみてしまった。
ダニエルのまっすぐな生き方に、最後まで圧倒される。
(以下、ネタバレあり)
59歳のダニエルは、心臓の病気をかかえ、
医者からはたらくことをとめられている。
これまで国からの手当をうけてくらしてきたが、
支援手当の継続検査では、はたらけるので 手当は中止、
という結果がつたえられた。
不服審査にうったえようとしても、手つづきがあまりにも複雑だし、
制度そのものが、こまっているひとをたすけるようにできていない。
求職者手当を申請するために職安へいっても、
手つづきはネットによってのみうけつけられ、
パソコンにうといダニエルは、
申請書をダウンロードするのさえむつかしい。
ダニエルは腹をたてながらも、
あきらめずに手つづきをすすめようとする。
はたらけないのに、行政からは求職活動の実績をもとめられ、
履歴書をもって仕事をさがすけど、
申請のきまりとして、求職活動を証明するものがないと、
うけつけてもらえない。
こまっているものをたすけるのが行政の役割なのに、
どの窓口へいっても彼らの仕事は
よわいものたちをはじきだす方向でしか機能していない。
行政からは、はたらけるのに なまけているとほのめかされ、
ダニエルがどの窓口をたずねても、
とうてい納得できない理屈でおしきろうとされる。
行政のいうとおりに申請をだそうとしても、
オンラインサービスはわかりにくいし、
電話では、担当者になかなかつながらない。
行政の窓口をおとずれるたびに、
みじめな気もちにさせられるばかりだ。
無能で問題のある人間として、さげすまされたあつかいをうける。
良心的な職員がいても、制度じたいに問題があるため、
こまっているはどんどんきりすてられてしまう。
病気でたおれたりして、いったん歯車がくるうと、
ずるずるとセーフティーネットからこぼれてしまう硬直した社会制度。
歳をとり、病気やアクシデントでからだの自由がきかなくなったとき、
まずしいものは、どうやってくらしていけばいいのか。
ダニエルの設定年齢は59歳なので、わたしとあまりかわらない。
わたしだってからだをこわせば、すぐに生活がなりたたなくなる。
なんとか仕事についているけど、ほんのちょっとしたできごとで、
どちらにころぶかわからない 不安定なところにたっている。
だれだってそうしたリスクをかかえながらくらしており、
だからこそ正直に生きるものが、
つらいおもいをするような社会であってはならない。
ダニエルのかなしみとやるせなさが、
自分のことののように身につまされる。
それでもくじけずに、毅然として生きるダニエルは、
胸をはり、はやあしで堂々とあるく。
いいことはいい、ダメなものはだめ。
人間としての尊厳を、いつも大切に生きてきた。
ながいものにまかれず、できるだけただしくあろうとするし、
自分の生活だっておさきまっくらなのに、
こまっているひとをほっておけない。
行政にたいして正当ないかりをつたえ、
たすけが必要なひとには手をさしだす。
それらをあたりまえなこととして、行動にうつせるがダニエルだ。
映画のおわりのほうで、
ダニエルが、手当の審査に不服をもうしたてるとき、
行政にうったえようと、自分のかんがえを紙にまとめていた。
ひとりの市民として、まじめにはたらき、税金をおさめ、
それをほこりにおもって生きてきたのに、
自分のような人間をずっとないがしろにしてきた行政へのいかり。
ほどこしをうけようとはおもわない。
自分は番号ではなく、ひとりの人間であり、
市民として尊厳をもってせっしてほしい。
しかし このうったえが、
ダニエルの口から直接つたえられることはなく、
映画はかなしみのラストをむかえる。
すごい映画をみてしまった。
ダニエルのまっすぐな生き方に、最後まで圧倒される。
(以下、ネタバレあり)
59歳のダニエルは、心臓の病気をかかえ、
医者からはたらくことをとめられている。
これまで国からの手当をうけてくらしてきたが、
支援手当の継続検査では、はたらけるので 手当は中止、
という結果がつたえられた。
不服審査にうったえようとしても、手つづきがあまりにも複雑だし、
制度そのものが、こまっているひとをたすけるようにできていない。
求職者手当を申請するために職安へいっても、
手つづきはネットによってのみうけつけられ、
パソコンにうといダニエルは、
申請書をダウンロードするのさえむつかしい。
ダニエルは腹をたてながらも、
あきらめずに手つづきをすすめようとする。
はたらけないのに、行政からは求職活動の実績をもとめられ、
履歴書をもって仕事をさがすけど、
申請のきまりとして、求職活動を証明するものがないと、
うけつけてもらえない。
こまっているものをたすけるのが行政の役割なのに、
どの窓口へいっても彼らの仕事は
よわいものたちをはじきだす方向でしか機能していない。
行政からは、はたらけるのに なまけているとほのめかされ、
ダニエルがどの窓口をたずねても、
とうてい納得できない理屈でおしきろうとされる。
行政のいうとおりに申請をだそうとしても、
オンラインサービスはわかりにくいし、
電話では、担当者になかなかつながらない。
行政の窓口をおとずれるたびに、
みじめな気もちにさせられるばかりだ。
無能で問題のある人間として、さげすまされたあつかいをうける。
良心的な職員がいても、制度じたいに問題があるため、
こまっているはどんどんきりすてられてしまう。
病気でたおれたりして、いったん歯車がくるうと、
ずるずるとセーフティーネットからこぼれてしまう硬直した社会制度。
歳をとり、病気やアクシデントでからだの自由がきかなくなったとき、
まずしいものは、どうやってくらしていけばいいのか。
ダニエルの設定年齢は59歳なので、わたしとあまりかわらない。
わたしだってからだをこわせば、すぐに生活がなりたたなくなる。
なんとか仕事についているけど、ほんのちょっとしたできごとで、
どちらにころぶかわからない 不安定なところにたっている。
だれだってそうしたリスクをかかえながらくらしており、
だからこそ正直に生きるものが、
つらいおもいをするような社会であってはならない。
ダニエルのかなしみとやるせなさが、
自分のことののように身につまされる。
それでもくじけずに、毅然として生きるダニエルは、
胸をはり、はやあしで堂々とあるく。
いいことはいい、ダメなものはだめ。
人間としての尊厳を、いつも大切に生きてきた。
ながいものにまかれず、できるだけただしくあろうとするし、
自分の生活だっておさきまっくらなのに、
こまっているひとをほっておけない。
行政にたいして正当ないかりをつたえ、
たすけが必要なひとには手をさしだす。
それらをあたりまえなこととして、行動にうつせるがダニエルだ。
映画のおわりのほうで、
ダニエルが、手当の審査に不服をもうしたてるとき、
行政にうったえようと、自分のかんがえを紙にまとめていた。
ひとりの市民として、まじめにはたらき、税金をおさめ、
それをほこりにおもって生きてきたのに、
自分のような人間をずっとないがしろにしてきた行政へのいかり。
ほどこしをうけようとはおもわない。
自分は番号ではなく、ひとりの人間であり、
市民として尊厳をもってせっしてほしい。
しかし このうったえが、
ダニエルの口から直接つたえられることはなく、
映画はかなしみのラストをむかえる。
2017年09月16日
ネコの行動原理
江國香織さんの短篇集
『号泣する準備はできていた』をよんでいたら、
かいぬしになつかないネコがでてきた。
ピピといっしょだ。
ピピとはいい関係だとおもいこんできたけど、
もしかして、いやがらせをしてるだけだったりして。
いやいやそんなわけはない。
人間がかんじている関係性とは、
まったくべつの原則でネコたちは生きているのだ。
人間が、かってにかわいいだの、
ひねくれているだのと、きめつけているだけで、
ネコたちの行動原理はつねにかわらない。
夏はすずしいところ、冬はあたたかいところをもとめ、
やわらかてもりあがったところでおしっこしたい。
よごれているトイレはつかいたくないので、
うごくのがめんどくさいときはベッドのうえで粗相もする。
ナ月さんのブログに、「菌を飼う」という作品がある。
http://nekokaenu.tumblr.com/post/158887465728/%E8%8F%8C%E3%82%92%E9%A3%BC%E3%81%86-%E7%B7%8F%E9%9B%86%E7%B7%A8
ネコをかえないアパートぐらしなので、
かわりにのらネコのツメからとった菌をかう、というはなしだ。
ベランダによくくるので、そのネコをベラと名づけた、
というのがさえている。いかにも菌的な名前だ。
ネコでさえ、人間の対応とはべつの原理でうごいているのだから、
菌にいたっては、人間のおもわくとは関係なしに
繁殖したり、活動をとめたりする。
ナ月さんのかかわり方も、熱心に世話をしたかとおもうと、
あきたので、ほったらかしにしたり、すごくムラがある。
はじめのころはかわいがっておきながら、
さいごには非情にも
「でも飽きたもんは飽きたので捨てた」
なのがすごくおかしい。
ネコをすてたりしたら、ひどい人間ととがめられるけど、
さすがにあいてが菌となると、すてても良心はいたまない。
ネコ的なものとのつきあいは、さまざまだ。
かわりに菌をそだててしまうほど、ネコはかわいい。
『号泣する準備はできていた』をよんでいたら、
かいぬしになつかないネコがでてきた。
弥生にも夫にもなつこうとしなかった。ベッドの中や、洗いたての衣類の山の上に粗相をした。
ピピといっしょだ。
ピピとはいい関係だとおもいこんできたけど、
もしかして、いやがらせをしてるだけだったりして。
いやいやそんなわけはない。
人間がかんじている関係性とは、
まったくべつの原則でネコたちは生きているのだ。
人間が、かってにかわいいだの、
ひねくれているだのと、きめつけているだけで、
ネコたちの行動原理はつねにかわらない。
夏はすずしいところ、冬はあたたかいところをもとめ、
やわらかてもりあがったところでおしっこしたい。
よごれているトイレはつかいたくないので、
うごくのがめんどくさいときはベッドのうえで粗相もする。
ナ月さんのブログに、「菌を飼う」という作品がある。
http://nekokaenu.tumblr.com/post/158887465728/%E8%8F%8C%E3%82%92%E9%A3%BC%E3%81%86-%E7%B7%8F%E9%9B%86%E7%B7%A8
ネコをかえないアパートぐらしなので、
かわりにのらネコのツメからとった菌をかう、というはなしだ。
ベランダによくくるので、そのネコをベラと名づけた、
というのがさえている。いかにも菌的な名前だ。
ネコでさえ、人間の対応とはべつの原理でうごいているのだから、
菌にいたっては、人間のおもわくとは関係なしに
繁殖したり、活動をとめたりする。
ナ月さんのかかわり方も、熱心に世話をしたかとおもうと、
あきたので、ほったらかしにしたり、すごくムラがある。
はじめのころはかわいがっておきながら、
さいごには非情にも
「でも飽きたもんは飽きたので捨てた」
なのがすごくおかしい。
ネコをすてたりしたら、ひどい人間ととがめられるけど、
さすがにあいてが菌となると、すてても良心はいたまない。
ネコ的なものとのつきあいは、さまざまだ。
かわりに菌をそだててしまうほど、ネコはかわいい。
2017年09月15日
職場の事業所がひらいた実践報告会
わたしの職場である介護事業所が、
関係者をまねいて実践報告会をひらいた。
5人の職員が、それぞれ自分のとりくみを発表している。
保護者や養護学校の先生、また、ほかの事業所からなど、
60名の方が参加される。
外部のひとたちにきいてもらう報告会は、
これがはじめての機会だ。
開所してから15年になるので、
これまでひらかなかったのが不思議といえるだろう。
発表になれないせいか、ひとり20分の発表がながくかんじられたけど、
職員たちの熱意がつたわってきて、好感をもつ。
介護職員のなれのはてとなったわたしは、
その仕事愛に感心するしかない。
「医療的ケアの必要な利用者をむかえての実践」の発表では、
気管切開や胃ろうをしている方のうけいれが報告されている。
重度障害の方が、ブルーベリーがりや海水浴、
それに、ゆかたをきて花火大会におでかけされているようすが
じっさいに写真で紹介されると、説得力がある。
医療的ケアが必要な方は、
養護学校を卒業すると、いく場がなくなって、
ずっと家ですごさなければならないケースがおおい。
そんな方たちにとって、今夜のような報告は、
つよい関心をあつめるにちがいない。
医療設備のととのった、おおきな施設でないと
利用できないとおもっていたのが、
身ぢかにあるちいさな事業所が実践しているのだから、
もっとこうしたとりくみがひろがってほしい。
今夜くばられた資料に、事業をはじめてからのうつりかわりが
表にまとめられていた。
2003年の4月、6名の正職員と4人のパート職員ではじまったのが、
15年後の2017年には、正職員24人・パート職員16人にもふえている。
わたしは、事業所のたちあげにかかわり、8年間つとめたものの、
もういいや、という気になって、いちど事業所をはなれている。
5年後に、頭をかきながら、またもどってきたわけで、
いまは、職場にわるい影響をあたえないよう 気をつけながら、
わかい職員たちにすべてをまかせ、
いわれるがまま、しゅくしゅくとはたらくだけの存在だ。
今夜の報告会にも、完全にお客さんとして顔をだした。
いまさらわたしがいえた義理ではないけど、
いい職員集団がそだちつつあり、こころづよくおもった。
関係者をまねいて実践報告会をひらいた。
5人の職員が、それぞれ自分のとりくみを発表している。
保護者や養護学校の先生、また、ほかの事業所からなど、
60名の方が参加される。
外部のひとたちにきいてもらう報告会は、
これがはじめての機会だ。
開所してから15年になるので、
これまでひらかなかったのが不思議といえるだろう。
発表になれないせいか、ひとり20分の発表がながくかんじられたけど、
職員たちの熱意がつたわってきて、好感をもつ。
介護職員のなれのはてとなったわたしは、
その仕事愛に感心するしかない。
「医療的ケアの必要な利用者をむかえての実践」の発表では、
気管切開や胃ろうをしている方のうけいれが報告されている。
重度障害の方が、ブルーベリーがりや海水浴、
それに、ゆかたをきて花火大会におでかけされているようすが
じっさいに写真で紹介されると、説得力がある。
医療的ケアが必要な方は、
養護学校を卒業すると、いく場がなくなって、
ずっと家ですごさなければならないケースがおおい。
そんな方たちにとって、今夜のような報告は、
つよい関心をあつめるにちがいない。
医療設備のととのった、おおきな施設でないと
利用できないとおもっていたのが、
身ぢかにあるちいさな事業所が実践しているのだから、
もっとこうしたとりくみがひろがってほしい。
今夜くばられた資料に、事業をはじめてからのうつりかわりが
表にまとめられていた。
2003年の4月、6名の正職員と4人のパート職員ではじまったのが、
15年後の2017年には、正職員24人・パート職員16人にもふえている。
わたしは、事業所のたちあげにかかわり、8年間つとめたものの、
もういいや、という気になって、いちど事業所をはなれている。
5年後に、頭をかきながら、またもどってきたわけで、
いまは、職場にわるい影響をあたえないよう 気をつけながら、
わかい職員たちにすべてをまかせ、
いわれるがまま、しゅくしゅくとはたらくだけの存在だ。
今夜の報告会にも、完全にお客さんとして顔をだした。
いまさらわたしがいえた義理ではないけど、
いい職員集団がそだちつつあり、こころづよくおもった。
2017年09月14日
かとうちあきさんが野宿をはじめたころをかたっている
『野宿野郎』編集長のかとうちあきさんへのインタビューが
ツイッターにながれていた。
https://series.yahoo.co.jp/feature/expedition/3/
「野宿映画」というジャンルわけがおもしろい。
そこをつっこまれると、
たしかに、両方の映画とも、たき火の場面が印象にのこる。
仲間といっしょにすごす みしらぬ土地での夜は、
きっと少年たちの記憶に宝物としてきざまれるだろう。
ふつうのひとには旅館やホテルがあたりまえだけど、
かとうさんにとっては快適ではなく不自由なんだ。
「歩いていけば絶対着く」
「野宿が生活になった瞬間」
すばらしい達観だ。
きのうのブログにバックパッカーの旅をとりあげたけど、
5番めにジャンルわけされるバックパッカーとして
かとうさんの野宿は位置づけられるのでは。
野宿をつづけることで、旅と生活のさかいをなくし、
旅にでなくても、旅びとの自由を獲得している。
ツイッターにながれていた。
https://series.yahoo.co.jp/feature/expedition/3/
野宿したいと思い始めたのは中学生からです。その頃、思春期というか、わりと暗い感じだったので「このままではいけない」みたいな思いがあって。「スタン ド・バイ・ミー」(1986年公開)とか、「イージー・ライダー」(1969年公開)とか。そういう野宿映画を見て「おっ、何だこれは。青春っぽいぞ」と 思ったのが始まりです。
「野宿映画」というジャンルわけがおもしろい。
そこをつっこまれると、
えっ? でもなんか、みんなでたき火を囲みながら寝るじゃないですか。そこで主人公たちがいい話をするみたいな。あれは、外で寝る(野宿する)ことによって、きっと成り立っている映画なんですよ。
たしかに、両方の映画とも、たき火の場面が印象にのこる。
仲間といっしょにすごす みしらぬ土地での夜は、
きっと少年たちの記憶に宝物としてきざまれるだろう。
泊まる所を決めちゃうと、そこまで行かないといけないですからね。それってとっても不自由なことですもんね。
ふつうのひとには旅館やホテルがあたりまえだけど、
かとうさんにとっては快適ではなく不自由なんだ。
(高校3年生のときにやった本州縦断について)
誰でもできます! 私もやって思ったのは、「誰でも時間さえあればできるんだ」ってことで、逆にそれが面白かったなぁ。海を渡るのは自力ではできないけど、日本国内の地続きの場所だったら歩いていけば絶対着くみたいな。その感覚がわかったのが面白かったです。
そのときに長いこと野宿をして、なんかどこかで野宿が生活になった瞬間みたいなのが、すごく面白かったんですよね。
「歩いていけば絶対着く」
「野宿が生活になった瞬間」
すばらしい達観だ。
きのうのブログにバックパッカーの旅をとりあげたけど、
5番めにジャンルわけされるバックパッカーとして
かとうさんの野宿は位置づけられるのでは。
野宿をつづけることで、旅と生活のさかいをなくし、
旅にでなくても、旅びとの自由を獲得している。
2017年09月13日
『旅を生きる人びと』(大野哲也)バックパッカーの人類学
『旅を生きる人びと』(大野哲也・世界思想社)
バックパッカーの人類学
バックパッカーが 学問の対象になるなんて。
旅行がすきで、文化人類学に関心のあるわたしには
たまらなくおもしろい本にしあがっている。
この本では、日本人特有ともいえる「自分探し」を手がかりに、
日本人バックパッカーたちの生きかたをさぐっている。
著者は筋金いりのバックパッカーであり、
バックパッキングなんてしたこともない学者が、
もっともらしくバックパッキングを研究するのとは わけがちがう。
取材したバックパッカーへの理解と共感がきわめてふかい。
本書では、バックパッカーを4つのタイプに分類し、
それぞれ例をあげながら、
どんな「自分探し」がおこなわれているかをあきらかにする。
・移動型
可能な限り多くの国や町に行くことに喜びや価値を見いだす
・沈潜型
気に入った町に長期滞在して、
その町に「溶け込む」ことに喜びを見いだす
・移住型
現地社会が気に入って移住した者
・生活型
旅を生き続けているバックパッカーのことを指す
移住型のように特定の社会に定住する気も毛頭ない
旅の商品化についての分析が興味ぶかかった。
商品化されている旅の例として、
タイのチェンコンからラオスのフェイサイへ、
そしてメコン川を船でくだってルアンパバーンまでのコースがある。
バックパッカーは商品化された旅を消費するだけの存在だ。
リスクは最小限におさえられ、
快適で安全な「冒険」をたのしめるシステムができあがっている。
メコン川を船でくだりはしなかったけど、
このまえの旅行でわたしがたどったのは、
ほぼこの本で紹介されているコースだ。
いかにも秘境にはるばるやってきたと、
旅行者におもわせる、異国情緒たっぷりの景色。
自分では自由に旅行をたのしんでいるつもりでも、
じつはすべてできあがったシステムのなかで
じょうずにあそばされているにすぎない。
ガイドブックにたより、マニュアルどおり、
だれかがおこなった旅をなぞるバックパッカーって、
かなり残念な存在であり、それがわたしの旅でもある。
生活型のバックパッカーにはなしをきくと、
わたしの休日は、まさにそんなかんじだ。
日本にいながら「旅に生きている」のかもしれない。
わざわざ外国へ旅にでなくていいのかも。
生活型バックパッカーの生き方をみていると、
月なみな表現ながら、人生は旅であり、旅はまた人生であると、
いまさらながら 気づかせてくれる。
彼らはまさに旅をつづけながら、生きている。
旅にでようがでまいが、けっきょくは旅を生きているのであり、
どう生きるかが ひとりひとりにとわれている。
バックパッカーの人類学
バックパッカーが 学問の対象になるなんて。
旅行がすきで、文化人類学に関心のあるわたしには
たまらなくおもしろい本にしあがっている。
この本では、日本人特有ともいえる「自分探し」を手がかりに、
日本人バックパッカーたちの生きかたをさぐっている。
著者は筋金いりのバックパッカーであり、
バックパッキングなんてしたこともない学者が、
もっともらしくバックパッキングを研究するのとは わけがちがう。
取材したバックパッカーへの理解と共感がきわめてふかい。
本書では、バックパッカーを4つのタイプに分類し、
それぞれ例をあげながら、
どんな「自分探し」がおこなわれているかをあきらかにする。
・移動型
可能な限り多くの国や町に行くことに喜びや価値を見いだす
・沈潜型
気に入った町に長期滞在して、
その町に「溶け込む」ことに喜びを見いだす
・移住型
現地社会が気に入って移住した者
・生活型
旅を生き続けているバックパッカーのことを指す
移住型のように特定の社会に定住する気も毛頭ない
旅の商品化についての分析が興味ぶかかった。
商品化されている旅の例として、
タイのチェンコンからラオスのフェイサイへ、
そしてメコン川を船でくだってルアンパバーンまでのコースがある。
バックパッカーは商品化された旅を消費するだけの存在だ。
リスクは最小限におさえられ、
快適で安全な「冒険」をたのしめるシステムができあがっている。
メコン川を船でくだりはしなかったけど、
このまえの旅行でわたしがたどったのは、
ほぼこの本で紹介されているコースだ。
いかにも秘境にはるばるやってきたと、
旅行者におもわせる、異国情緒たっぷりの景色。
自分では自由に旅行をたのしんでいるつもりでも、
じつはすべてできあがったシステムのなかで
じょうずにあそばされているにすぎない。
ガイドブックにたより、マニュアルどおり、
だれかがおこなった旅をなぞるバックパッカーって、
かなり残念な存在であり、それがわたしの旅でもある。
生活型のバックパッカーにはなしをきくと、
朝起きて、朝飯の用意して、そのあと柔軟体操、ヨガも取り入れたやつを二時間くらいやって、そうすると昼になるから昼飯作って。そのあと、ちょっと休憩したり本読んだりしたら、もう夜になるから、晩飯作って。だから生きてるだけで忙しいですよ。
わたしの休日は、まさにそんなかんじだ。
日本にいながら「旅に生きている」のかもしれない。
わざわざ外国へ旅にでなくていいのかも。
ルーティン化した日々の生活に旅を実感している人は少ないかもしれない。一方、旅を生き続けている人も、日々の移動にいまさら旅を強烈に実感することはないかもしれない。しかし「私」の実感はどうであれ、「私」は、自己の生が尽きるまで、「私」だけの生を歩み続けなければならない。(中略)
「私」が踏んだ場所には「私」だけの足跡が残っていく。この足跡こそが、「私」だけの旅路であり、最後の一歩の地点こそが「私」がたどり着いた、そして「私」だけがたどり着くことができた到達点なのだ。
「私」は、到達点は見えないが、それでも、より善き生に向かって、機知を操りながら、日々旅をしているのである。
生活型バックパッカーの生き方をみていると、
月なみな表現ながら、人生は旅であり、旅はまた人生であると、
いまさらながら 気づかせてくれる。
彼らはまさに旅をつづけながら、生きている。
旅にでようがでまいが、けっきょくは旅を生きているのであり、
どう生きるかが ひとりひとりにとわれている。
2017年09月12日
180度 発想をかえてみる
ピピがまた 枕のうえでおしっこをした。
これで4どめとなる。
さいわい、枕をトイレシートでくるんでから
枕カバーをかけておいたので、
枕につめてあるビーズまで おしっこはとどかなかった。
4回もつづくと、これはもう あきらかに
ピピは枕のうえでおしっこをするのがすきなのだ。
こうなったら、枕をまもるというこれまでの対応から、
180度 発想をかえ、おしっこは 枕の上でするものと、
あたらしいとりきめをピピにしめしたらどうだろうか。
どこでおしっこをするかわからないと、
いたるところにトイレシートをしかなくてはならない。
トイレとしての枕でおしっこをしてくれたら、
全体としては、おしっこ被害がなくなる。
厳重にトイレシートでくるめば、
枕のなかまでよごれたりしない。
ピピには気もちよく枕の上でおしっこをしてもらおう。
われながら神対応におもえ、自分で感心してしまった。
きょうのできごとで、もうひとつさえていたのは、
仕事が一段落したときのプチ終礼をやめたこと。
わたしがはたらいている事業所には、
刺激にとても敏感なひとがいて、
めずらしい自動車がとおったり、
いつもはいないひとがきゅうにたずねてくると、
その刺激にすぐさま反応し、ワーッとおおさわぎになってしまう。
しずかに、とかイスにすわりましょう、なんていってもだめだ。
刺激に反応する障害特性なのだから、
刺激をできるだけ とりのぞくしかない。
しかし、当然ながら 日常生活には
刺激となる不意なできごとにみちているわけで、
気もちの波をなくすのは そうかんたんではない。
クッキーづくりが一段落し、
これから配達やらかいものにでかけるというまえに、
ささやかな終礼をして、その日の活動をふりかえるのが、
クッキー班のおやくそくになっている。
どうも、そうやって終礼をすることじたいが、
おおさわぎにつながっているのに気づいた。
仕事が一段落したときなので、あそびたい気もちもあるのだろう。
そんなときに わざわざ終礼なんかをはじめると、
その会がひきがねになって さわぎたい気もちに火をつけてしまう。
終礼でのわるふざけをくりかえしてきた習慣から、
終礼が、おふざけの合図になってしまった。
それなら、終礼じたいをやめてしまったほうが、
感情の波をおおきくしないですごせる。
いろいろ工夫して、なにかのシステムをあらたにつくるのではなく、
すべてやめてしまうという ひき算の発想が気にいっている。
あれこれつけくわえるよりも、
あんがいこの対応はあたっているのではないか。
ピピのトイレとして枕を位置づけること。
終礼をとりやめて刺激をすくなくすること。
われながら、さえてるいちにちだった。
これで4どめとなる。
さいわい、枕をトイレシートでくるんでから
枕カバーをかけておいたので、
枕につめてあるビーズまで おしっこはとどかなかった。
4回もつづくと、これはもう あきらかに
ピピは枕のうえでおしっこをするのがすきなのだ。
こうなったら、枕をまもるというこれまでの対応から、
180度 発想をかえ、おしっこは 枕の上でするものと、
あたらしいとりきめをピピにしめしたらどうだろうか。
どこでおしっこをするかわからないと、
いたるところにトイレシートをしかなくてはならない。
トイレとしての枕でおしっこをしてくれたら、
全体としては、おしっこ被害がなくなる。
厳重にトイレシートでくるめば、
枕のなかまでよごれたりしない。
ピピには気もちよく枕の上でおしっこをしてもらおう。
われながら神対応におもえ、自分で感心してしまった。
きょうのできごとで、もうひとつさえていたのは、
仕事が一段落したときのプチ終礼をやめたこと。
わたしがはたらいている事業所には、
刺激にとても敏感なひとがいて、
めずらしい自動車がとおったり、
いつもはいないひとがきゅうにたずねてくると、
その刺激にすぐさま反応し、ワーッとおおさわぎになってしまう。
しずかに、とかイスにすわりましょう、なんていってもだめだ。
刺激に反応する障害特性なのだから、
刺激をできるだけ とりのぞくしかない。
しかし、当然ながら 日常生活には
刺激となる不意なできごとにみちているわけで、
気もちの波をなくすのは そうかんたんではない。
クッキーづくりが一段落し、
これから配達やらかいものにでかけるというまえに、
ささやかな終礼をして、その日の活動をふりかえるのが、
クッキー班のおやくそくになっている。
どうも、そうやって終礼をすることじたいが、
おおさわぎにつながっているのに気づいた。
仕事が一段落したときなので、あそびたい気もちもあるのだろう。
そんなときに わざわざ終礼なんかをはじめると、
その会がひきがねになって さわぎたい気もちに火をつけてしまう。
終礼でのわるふざけをくりかえしてきた習慣から、
終礼が、おふざけの合図になってしまった。
それなら、終礼じたいをやめてしまったほうが、
感情の波をおおきくしないですごせる。
いろいろ工夫して、なにかのシステムをあらたにつくるのではなく、
すべてやめてしまうという ひき算の発想が気にいっている。
あれこれつけくわえるよりも、
あんがいこの対応はあたっているのではないか。
ピピのトイレとして枕を位置づけること。
終礼をとりやめて刺激をすくなくすること。
われながら、さえてるいちにちだった。
2017年09月11日
田中小実昌さんにつられてジンをかってみる
朝日新聞の土曜日版beで、新宿ゴールデン街がとりあげられていた。
作家やアーティストなど、
あやしげな業界人がこのんだ のみ屋街だという。
常連客としてゴールデン街にでいりした作家に、
田中小実昌さんの名前があがっている。
コミさんは、もっぱらジンをこのみ、
とうぜんながら、いつもよっぱらっていたそうだ。
わたしがはじめて小実昌さんをしったのは、
アメリカの軽ハードボイルド作家、
カーター=ブラウンの翻訳者としてだった。
カーター=ブラウンの作品は、なんにんかのひとが訳しているけど、
そのかるい世界をあらわすのに、
小実昌さんの訳がいちばんしっくりくるようにおもった。
アル=ウィーラ警部のでてくるシリーズが、
わたしはとくにすきだった。
ハードボイルドなのに、ちからをぬいて生きているのがいい。
やたらと軽口をたたきながら、あんがい仕事はちゃんとやっている。
エッセイをよむと、小実昌さんは、
日本でも外国でも、しらない町へでかけ、
いきさきのわからないバスにのるのがすきらしい。
いかにも自由きままなすごし方がかっこいい。
そして、旅さきでも、やはりジンを基本に 酒をもとめている。
お酒をかいにいったとき、いつもだと、
ジンはゴードン=ドライジンにきめているけど、
ほかのジンもためしてみる気になる。
小実昌さんの記事が頭をかすめたからだ。
小実昌さんはきっと、どのジンがいちばん、
なんていわなかっただろう。
ジンのかおりがして、よっぱらえたらよかったのではないか。
わたしだって、こまかなちがいがわかるほど、
りっぱな味覚はもっていない。
かったのは、おなじみのゴードン=ドライジン・
ギルビー、そしてボンベイ=サファイアの3本だ。
ボンベイ=サファイアだけ、うすいブルーの色がついている
(とおもったら、ビンの色であり、ジンは透明だった)。
ゴードンとギルビーは37.5度で、ボンベイ=サファイアは47度。
ギルビーは値段のやすさにつられ、
ボンベイ=サファイアは、しりあいがすすめていたから。
ためしてみると、やはりゴードンがいちばんおいしくかんじる。
ただ、なんとなくゴードンのほうが、というレベルなので、
そのうち違和感はなくなるかもしれない。
わたしがジンをのむときは、ほとんどの場合ジン=トニックだ。
ことしになって、レモンではなくライムを、
冷蔵庫の氷ではなく、ロックアイスへと すこしこだわってみる。
のこりの人生で、あと何回ジン=トニックをのめるかわからないので。
ギルビーは、水わりのほうがいい、と
ネットにのっていたのでためしてみる。
たしかに、ソーダやライムをいれないほうが、
おいしいような気がした。
いずれにしても、ジンはこゆめにつくったほうがおいしい。
うすいジンほどふやけた酒はない。
「なにかのみますか?」とたずねられたときに、
アル=ウィーラ警部はきまって、
「スコッチのオン・ザ・ロック、ソーダをちょっぴりいれて」
とこたえていた。
ジンもいっしょだ。
あくまでも こゆく、ソーダはちょっぴり、が
ただしいジンの たのみ方である。
作家やアーティストなど、
あやしげな業界人がこのんだ のみ屋街だという。
常連客としてゴールデン街にでいりした作家に、
田中小実昌さんの名前があがっている。
コミさんは、もっぱらジンをこのみ、
とうぜんながら、いつもよっぱらっていたそうだ。
わたしがはじめて小実昌さんをしったのは、
アメリカの軽ハードボイルド作家、
カーター=ブラウンの翻訳者としてだった。
カーター=ブラウンの作品は、なんにんかのひとが訳しているけど、
そのかるい世界をあらわすのに、
小実昌さんの訳がいちばんしっくりくるようにおもった。
アル=ウィーラ警部のでてくるシリーズが、
わたしはとくにすきだった。
ハードボイルドなのに、ちからをぬいて生きているのがいい。
やたらと軽口をたたきながら、あんがい仕事はちゃんとやっている。
エッセイをよむと、小実昌さんは、
日本でも外国でも、しらない町へでかけ、
いきさきのわからないバスにのるのがすきらしい。
いかにも自由きままなすごし方がかっこいい。
そして、旅さきでも、やはりジンを基本に 酒をもとめている。
お酒をかいにいったとき、いつもだと、
ジンはゴードン=ドライジンにきめているけど、
ほかのジンもためしてみる気になる。
小実昌さんの記事が頭をかすめたからだ。
小実昌さんはきっと、どのジンがいちばん、
なんていわなかっただろう。
ジンのかおりがして、よっぱらえたらよかったのではないか。
わたしだって、こまかなちがいがわかるほど、
りっぱな味覚はもっていない。
かったのは、おなじみのゴードン=ドライジン・
ギルビー、そしてボンベイ=サファイアの3本だ。
ボンベイ=サファイアだけ、うすいブルーの色がついている
(とおもったら、ビンの色であり、ジンは透明だった)。
ゴードンとギルビーは37.5度で、ボンベイ=サファイアは47度。
ギルビーは値段のやすさにつられ、
ボンベイ=サファイアは、しりあいがすすめていたから。
ためしてみると、やはりゴードンがいちばんおいしくかんじる。
ただ、なんとなくゴードンのほうが、というレベルなので、
そのうち違和感はなくなるかもしれない。
わたしがジンをのむときは、ほとんどの場合ジン=トニックだ。
ことしになって、レモンではなくライムを、
冷蔵庫の氷ではなく、ロックアイスへと すこしこだわってみる。
のこりの人生で、あと何回ジン=トニックをのめるかわからないので。
ギルビーは、水わりのほうがいい、と
ネットにのっていたのでためしてみる。
たしかに、ソーダやライムをいれないほうが、
おいしいような気がした。
いずれにしても、ジンはこゆめにつくったほうがおいしい。
うすいジンほどふやけた酒はない。
「なにかのみますか?」とたずねられたときに、
アル=ウィーラ警部はきまって、
「スコッチのオン・ザ・ロック、ソーダをちょっぴりいれて」
とこたえていた。
ジンもいっしょだ。
あくまでも こゆく、ソーダはちょっぴり、が
ただしいジンの たのみ方である。