地区の運動会がおこなわれた。
体育委員をやってるので、必然的に参加しなければならない。
きょねん、100メートル競争でビリになった記憶がまだあたらしい。
そもそも、わたしは運動会にいいおもいでがない。
小学校のときから、短距離がおそくて、
運動会ではいつもビリにちかいほうだったし、
小学生として参加した地区の運動会では、
リレーでわたしがバトンをおとしたため順位をさげた。
体育委員になってまだ2年めなので、
まわりの顔になじみがなく、わたしの存在は完全にういている。
さいわい、競技観察係をおおせつかったので、
本部テントにつめる時間がながく、
地区のひととあまり顔をあわせなくてもよかった。
競技観察係は、なまえがりっぱなだけで、
じっさいはたいした権限があるわけではなく、
ただたっているだけに かなりちかい。
リレーでは、グランドのあちこちに紅白の旗をもってたち、
OKなら白旗を、ダメなら赤旗をふって合図する。
小学生がはしるところをみていると、
短距離は、完全にセンスがものをいう世界なのがわかる。
はやい子は、学年がひくくてもかっこいいはしりをするし、
おそい子は おさないころから
ギクシャクとしたうごきを身につけている。
わたしも、子どものころ すでに
いまのはしりが完成していたのだろう。
女性が出場するレースでは、
必死にはしりる女性のうつくしさに胸をうたれた。
いいかげんにながすのではなく、
一生懸命にはしりながらも、うつくしさをたもっている。
お化粧もしてるみたいだし、髪のセットもみだれない。
『ルパン三世カリオストロの城』では、
スパイとして潜入している不二子ちゃんにルパンが
「仕事に熱中してるご婦人ってのは、うつくしいねー」
という場面がある。
たしかに。
気どらずに、全力をつくしている女性は、ハッとするほどうつくしい。
男だって、けっこう本気で運動会にうちこんでいる。
閉会式では、不本意な成績に満足できなかった男性が、
放心状態となり、式のとちゅうで列をはなれ、
自分たちのテントへもどっていくのをみた。
まわりのひとは、どう声をかけようかとこまっていた。
わたしの地区でも、ながいあいだ体育委員をしているひとは、
地区の成績に本気でこだわっており、
委員になって2年めのわたしなど、まったくおよびでない存在だ。
運動会にさきだつ準備会では、
たかだか運動会とはいえない雰囲気のもとで、
2どのうちあわせがもたれ、選手選考に知恵をしぼっている。
参加できるひとにおねがいする、というよりも、
かてるひとをどう確保するかが選手選考会なのだ。
運動会というよりも、選手権レベルの意気ごみなのがすごい。
すごいけど、わたしとはずいぶんちがう価値観の世界であり、
なんかいかかわっても なかなかなじめない。
2017年09月10日
2017年09月09日
『再婚生活』(山本文緒)うつ病からの復帰、第一弾の日記エッセイ
『再婚生活』(山本文緒・角川書店)
山本文緒さんの『再婚生活』は、
うつ病で入院し、そして退院してからの生活が
日記エッセイとしてつづられている。
といっても、闘病記をかんじさせるおおげさな表現ではなく、
体調と気もちのうつりかわりが ありのままにかいてある。
状況は深刻だけど、そうおもわせないかるさがいいかんじだ。
うつは、たいへんな病気だなーとおもいつつ、
ひとの生活をのぞきみするのがすきなわたしはには、
興味ぶかい日記だった。
わたしがしばしばかんじる「だるさ」について、
この日記にはひんぱんに登場するのにも共感できる。
山本さんは、だるさの度あいを「ダルサ指数」としてあらわしている。
・本日の私は大変元気。ダルサ指数0。
・たっぷり14時間睡眠で、体調は15ダルサくらいに回復の模様。
・夜に症状がでて120ダルサで苦しむ
・ダルサはメーターを振り切ったまま
「120ダルサ」なんて、おもしろいあらわし方だ。すごくわかりやすい。
わたしのだるさも、もしかしたら精神的なものではないだろうか。
脳がブレーキをかけるから、からだがだるいのかも。
うつ病のだるさといっしょにしたら、
うつ病のひとからは、なにをあまえたことを、と
ヒンシュクをかいそうだけど、
まあそこはダルサ指数のひくい初心者としてゆるしてもらおう。
わたしのだるさは、それほど深刻なものではないけど、
だるいときに、ほんのすこしクッキーをたべると、
まるで薬をのんだみたいに げんきがでる日もあり、
わたしのだるさは血糖値のひくさが関係してるのかもしれない。
貧血ぎみでもあるので、鉄分をおぎなう薬をのんでもいるけど、
こちらのほうは、即効性がなく、
きいているのか いないのか よくわからない。
めんどくさがりのわたしは、
めんどくささとだるさの関係をうたがっていたけど、
精神的なものとかんがえると、納得しやすい。
だるいときは、だるいとかんがえてもどうにもならない。
どうにもならないので、だるさはないものとするのも ひとつの手だ。
山本さんは、うつ病とつきあいながら
仕事をし、けっこうあそびあるき、
おもったことをかくさずにひとにつたえている。
ストレスをためない生活にみえるけど、
それでも体調をコントロールできないのだから、
うつ病はやはりたいへんな病気だ。
でも、たいへんはたいへんとして、この本をよめば、
うつ病のひともすこしは気がやすまるのではないか。
うごけなくても、家事ができなくても、
病気なんだからしかたないとおもえてくる。
山本文緒さんの『再婚生活』は、
うつ病で入院し、そして退院してからの生活が
日記エッセイとしてつづられている。
といっても、闘病記をかんじさせるおおげさな表現ではなく、
体調と気もちのうつりかわりが ありのままにかいてある。
状況は深刻だけど、そうおもわせないかるさがいいかんじだ。
うつは、たいへんな病気だなーとおもいつつ、
ひとの生活をのぞきみするのがすきなわたしはには、
興味ぶかい日記だった。
わたしがしばしばかんじる「だるさ」について、
この日記にはひんぱんに登場するのにも共感できる。
山本さんは、だるさの度あいを「ダルサ指数」としてあらわしている。
・本日の私は大変元気。ダルサ指数0。
・たっぷり14時間睡眠で、体調は15ダルサくらいに回復の模様。
・夜に症状がでて120ダルサで苦しむ
・ダルサはメーターを振り切ったまま
「120ダルサ」なんて、おもしろいあらわし方だ。すごくわかりやすい。
わたしのだるさも、もしかしたら精神的なものではないだろうか。
脳がブレーキをかけるから、からだがだるいのかも。
うつ病のだるさといっしょにしたら、
うつ病のひとからは、なにをあまえたことを、と
ヒンシュクをかいそうだけど、
まあそこはダルサ指数のひくい初心者としてゆるしてもらおう。
わたしのだるさは、それほど深刻なものではないけど、
だるいときに、ほんのすこしクッキーをたべると、
まるで薬をのんだみたいに げんきがでる日もあり、
わたしのだるさは血糖値のひくさが関係してるのかもしれない。
貧血ぎみでもあるので、鉄分をおぎなう薬をのんでもいるけど、
こちらのほうは、即効性がなく、
きいているのか いないのか よくわからない。
めんどくさがりのわたしは、
めんどくささとだるさの関係をうたがっていたけど、
精神的なものとかんがえると、納得しやすい。
だるいときは、だるいとかんがえてもどうにもならない。
どうにもならないので、だるさはないものとするのも ひとつの手だ。
山本さんは、うつ病とつきあいながら
仕事をし、けっこうあそびあるき、
おもったことをかくさずにひとにつたえている。
ストレスをためない生活にみえるけど、
それでも体調をコントロールできないのだから、
うつ病はやはりたいへんな病気だ。
でも、たいへんはたいへんとして、この本をよめば、
うつ病のひともすこしは気がやすまるのではないか。
うごけなくても、家事ができなくても、
病気なんだからしかたないとおもえてくる。
2017年09月08日
きゅうにおとずれた「絶好調」がいつまでつづくのか
アルバイトのあとで、2週間ぶりにおよごうと プールへでかける。
水のいれかえで、プールはつかえなかった。
はしったりおよいだりするまえは、
できたら練習したくないなー、という気分と体調のことがおおいけど、
このごろすごくからだがよくうごき、
はしるのが気もちよくなっている。
ひさしぶりのプールで、どんなおよぎができるのか、
そして、体調のよさはほんものだろうかと、
たのしみにしていた水泳だったので 残念だった。
カツ丼をたのしみに お店にでかけたら、やすみだった、という場合、
カツ丼がだめならラーメンにしようか、とはならない。
とくに、そのお店が絶対的な存在の場合、
なかなか頭とからだが変更を納得してくれない。
そんなときは、自分でカツ丼をつくる手があるとおしえてくれたのは、
『哀愁の町に霧が降るのだ』にでてきた沢野さんだ。
たしかにこの方法だと、絶体絶命のピンチを
ギリギリのところでチャンスにかえる可能性がある。
でも、プールでおよげない場合は、どうやってのりきればいいのか。
プールには、トレーニングジムが併設されているけど、
ジム用のズボンをもっていなかった。
さすがに水泳パンツでトレーニングするのは はずかしいし、
ひとさわがせでもある。
車にのりこんだまま、どんな選択肢があるのか しばらく検討したけど、
けっきょくきょうのところはなにもできないという結論にいたる。
家にもどって体幹トレーニングをするのがせいぜいで、
欲求不満なからだをなだめるように、
家でしこしことからだをうごかした。
なぜきゅうにからだがうごくようになったのか わからない。
ずっとだるさがつづいていたので、
ふつうにうごけるようになると すごく楽だ。
ひとは気分でうごいている、となにかにかいてあったけど、
ほんとうに、からだがキレキレだと、
なにごとにもまえむきでいられる。
道ですれちがう しらないひとにも上機嫌で声をかけそうだ。
ジョギングでは、これまで30分はしると
ようやくウォーミングアップがおわる、
みたいなかんじだったのに、
このまえは はじめから気もちよくはしれたのでおどろいた。
新聞広告に「家内も驚いた、みなぎる活力」なんて薬がのっている。
わたしの場合はそっちの「活力」ではないので
残念ながら配偶者はちっともおどろかないけれど、
もし薬でいまみたいにからだがうごくようになるのなら、
サプリにたよるのもありだなとおもう。
80歳をこえてからエベレストにのぼり有名になった三浦さんは、
サントリーのセサミンをのんでいるという。
ほかにも、調子がよくなるというサプリを、
新聞だけで何種類も目にする。
ケチで貧乏なわたしは、サプリの効果をしんじてなかったので、
これまでいちどもためしたことがない。
わたしの絶好調は、なにがよかったのか、
そして、いつまでつづいてくれるのか。
朝おきたとき、なにかのかげんで、
またあのだるいからだに もどっているのでは、と ヒヤヒヤしている。
水のいれかえで、プールはつかえなかった。
はしったりおよいだりするまえは、
できたら練習したくないなー、という気分と体調のことがおおいけど、
このごろすごくからだがよくうごき、
はしるのが気もちよくなっている。
ひさしぶりのプールで、どんなおよぎができるのか、
そして、体調のよさはほんものだろうかと、
たのしみにしていた水泳だったので 残念だった。
カツ丼をたのしみに お店にでかけたら、やすみだった、という場合、
カツ丼がだめならラーメンにしようか、とはならない。
とくに、そのお店が絶対的な存在の場合、
なかなか頭とからだが変更を納得してくれない。
そんなときは、自分でカツ丼をつくる手があるとおしえてくれたのは、
『哀愁の町に霧が降るのだ』にでてきた沢野さんだ。
たしかにこの方法だと、絶体絶命のピンチを
ギリギリのところでチャンスにかえる可能性がある。
でも、プールでおよげない場合は、どうやってのりきればいいのか。
プールには、トレーニングジムが併設されているけど、
ジム用のズボンをもっていなかった。
さすがに水泳パンツでトレーニングするのは はずかしいし、
ひとさわがせでもある。
車にのりこんだまま、どんな選択肢があるのか しばらく検討したけど、
けっきょくきょうのところはなにもできないという結論にいたる。
家にもどって体幹トレーニングをするのがせいぜいで、
欲求不満なからだをなだめるように、
家でしこしことからだをうごかした。
なぜきゅうにからだがうごくようになったのか わからない。
ずっとだるさがつづいていたので、
ふつうにうごけるようになると すごく楽だ。
ひとは気分でうごいている、となにかにかいてあったけど、
ほんとうに、からだがキレキレだと、
なにごとにもまえむきでいられる。
道ですれちがう しらないひとにも上機嫌で声をかけそうだ。
ジョギングでは、これまで30分はしると
ようやくウォーミングアップがおわる、
みたいなかんじだったのに、
このまえは はじめから気もちよくはしれたのでおどろいた。
新聞広告に「家内も驚いた、みなぎる活力」なんて薬がのっている。
わたしの場合はそっちの「活力」ではないので
残念ながら配偶者はちっともおどろかないけれど、
もし薬でいまみたいにからだがうごくようになるのなら、
サプリにたよるのもありだなとおもう。
80歳をこえてからエベレストにのぼり有名になった三浦さんは、
サントリーのセサミンをのんでいるという。
ほかにも、調子がよくなるというサプリを、
新聞だけで何種類も目にする。
ケチで貧乏なわたしは、サプリの効果をしんじてなかったので、
これまでいちどもためしたことがない。
わたしの絶好調は、なにがよかったのか、
そして、いつまでつづいてくれるのか。
朝おきたとき、なにかのかげんで、
またあのだるいからだに もどっているのでは、と ヒヤヒヤしている。
2017年09月07日
みていないサウジアラビア戦を「分析」する
9月4日は、ブログをかきはじめて6年目となる記念日だった。
10年連続をめざし、いまようやくその2/3までこぎつけた。
あんがいへっちゃらかも、とおもう日があるかとおもうと、
適当なネタをおもいつかず、むりやりのりきることもある。
きょうもまた、そんないちにちかもしれない。
なにしろ、みてもいないのに、サッカーの試合についてかくのだから。
サッカー日本代表は、Wカップアジア最終予選の最終戦で、
サウジアラビアと対戦した。結果は0-1の完敗。
8月31日におこなわれた対オーストラリア戦にかち、
6どめのWカップ出場をきめていたからよかったようなものの、
もしあの試合をおとしていたらとおもうと ぞっとする。
どうしてもかたなければならないサウジアラビアと
アウエーでたたかうなんて、
ナイーブな日本代表には たえられそうにない。
時差の関係で、試合は日本時間の午前2時30分
(9月6日)からはじまった。
もうWカップの出場がきまっているので、
深夜におきて(あるいは ねないで)
つきあうほど大切な試合ではない。
録画して、夕方にゆっくりみようとたのしみにしていた。
結果のわかった試合を録画でみる是非はともかくとして、
消化試合ともいえる試合なので、安心してみられるはずだ。
でも、録画に失敗し、試合結果だけをしることとなる。
そのうち試合のようすが耳にはいってきて、
あまりかんばしくない内容だったのをしる。
オーストラリアとの試合が、
攻守とも すばらしくはまっていたので、
わたしは手ばなしでよろこび、
日本代表のさらなる可能性によいしれた。
でも、かたなければ2位以内にはいれない
サウジアラビアが相手では、状況はかなりきびしくなる。
ましてやアウエーなのだから、
気象条件やスタンドからのブーイングなど、
おおくの点が日本にとって不利な環境だ。
日本チームは、先取点をゆるしたあとも、
自慢の堅守速攻がちぐはぐなまま、
ずるずると試合終了をむかえたようだ。
オーストラリア戦といれかえた選手たちが、
めだったはたらきをしなかったようで、
収穫にとぼしい最終戦となった。
なんどでもくりかえしていうけど、
ほんとうに、オーストラリア戦で
Wカップ出場をきめていてたすかった。
試合をみていないのに、
その試合についてブログにかくのは「あり」だろうか。
村上春樹さんの小説にでてくる「撲」なら、
試合をみずにブログをかくのが、はたしてただしい行為だったのか
わたしにはわからない、とかいって、なやんでみせる場面だろうけど、
こんなのに「ただしい」も「ただしくない」もない。
サッカーの感想から、ただの日記へと、
わたしのなかでのジャンルがうつっただけだ。
とはいえ、だいぶまえの読書で、
村上龍さんが、よんでいない本の解説をかいたとしり、
おどろいたことがある。
それにくらべれば、まだ罪はかるいのではないか。
10年連続をめざし、いまようやくその2/3までこぎつけた。
あんがいへっちゃらかも、とおもう日があるかとおもうと、
適当なネタをおもいつかず、むりやりのりきることもある。
きょうもまた、そんないちにちかもしれない。
なにしろ、みてもいないのに、サッカーの試合についてかくのだから。
サッカー日本代表は、Wカップアジア最終予選の最終戦で、
サウジアラビアと対戦した。結果は0-1の完敗。
8月31日におこなわれた対オーストラリア戦にかち、
6どめのWカップ出場をきめていたからよかったようなものの、
もしあの試合をおとしていたらとおもうと ぞっとする。
どうしてもかたなければならないサウジアラビアと
アウエーでたたかうなんて、
ナイーブな日本代表には たえられそうにない。
時差の関係で、試合は日本時間の午前2時30分
(9月6日)からはじまった。
もうWカップの出場がきまっているので、
深夜におきて(あるいは ねないで)
つきあうほど大切な試合ではない。
録画して、夕方にゆっくりみようとたのしみにしていた。
結果のわかった試合を録画でみる是非はともかくとして、
消化試合ともいえる試合なので、安心してみられるはずだ。
でも、録画に失敗し、試合結果だけをしることとなる。
そのうち試合のようすが耳にはいってきて、
あまりかんばしくない内容だったのをしる。
オーストラリアとの試合が、
攻守とも すばらしくはまっていたので、
わたしは手ばなしでよろこび、
日本代表のさらなる可能性によいしれた。
でも、かたなければ2位以内にはいれない
サウジアラビアが相手では、状況はかなりきびしくなる。
ましてやアウエーなのだから、
気象条件やスタンドからのブーイングなど、
おおくの点が日本にとって不利な環境だ。
日本チームは、先取点をゆるしたあとも、
自慢の堅守速攻がちぐはぐなまま、
ずるずると試合終了をむかえたようだ。
オーストラリア戦といれかえた選手たちが、
めだったはたらきをしなかったようで、
収穫にとぼしい最終戦となった。
なんどでもくりかえしていうけど、
ほんとうに、オーストラリア戦で
Wカップ出場をきめていてたすかった。
試合をみていないのに、
その試合についてブログにかくのは「あり」だろうか。
村上春樹さんの小説にでてくる「撲」なら、
試合をみずにブログをかくのが、はたしてただしい行為だったのか
わたしにはわからない、とかいって、なやんでみせる場面だろうけど、
こんなのに「ただしい」も「ただしくない」もない。
サッカーの感想から、ただの日記へと、
わたしのなかでのジャンルがうつっただけだ。
とはいえ、だいぶまえの読書で、
村上龍さんが、よんでいない本の解説をかいたとしり、
おどろいたことがある。
それにくらべれば、まだ罪はかるいのではないか。
2017年09月06日
『みみずくは黄昏に飛びたつ』(村上春樹・川上未映子)
『みみずくは黄昏に飛びたつ』(村上春樹/川上未映子・新潮社)
村上作品の熱心なファンである川上未映子さんが、
4回にわたるロングインタビューで村上さんにたずねる。
帯には、「ただのインタビューではあらない」のコピーがあり、
『騎士団長殺し』を中心に、小説家であり、
村上作品のファンである川上未映子さんでなければ
たずねられないような、創作にまつわるはなしがおおい。
引用しだしたらきりがないので、
ここでは かんじたことをすこしだけ。
インタビューの1回目は、文芸誌『MONKEY』に掲載されており、
それが そのまま本書の第1章となっている。
わたしは『MONKEY』により、すでに第1章をよんでいたわけだけど、
かかれている内容を ほとんどわすれていた。
『みみずくは〜』をよみながら、
大切そうなフレーズに えんぴつで線をひく。
あとから『MONKEY』をひっぱりだして、
まったくおなじ ふたつのインタビューをくらべてみると、
さすがといいうか、ほぼおなじようなところに線がひいてあった。
はじめてよむ本として あらたに感心するなんて、
いくら線をひいたって、これではなにもしないのといっしょだ。
ひらきなおってべつのいいかたをすると、このインタビューには、
なんどよんでも感心したくなるおもしろさがつまっている。
「優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない」
なんて、もういちどよんでも線をひきそうだ。
村上さんが小説をかくときの、具体的なうごきと気もちのもち方を、
これほどこまかくききだしたインタビューはない。
そして、村上さんの 小説にたいする勤勉さと自信が、
川上さんの質問によりうかびあがる。
これまでわたしは 川上未映子さんの作品をよんだことがないけど、
どんな小説をかくひとなのか、しりたくなった。
村上作品の熱心なファンである川上未映子さんが、
4回にわたるロングインタビューで村上さんにたずねる。
帯には、「ただのインタビューではあらない」のコピーがあり、
『騎士団長殺し』を中心に、小説家であり、
村上作品のファンである川上未映子さんでなければ
たずねられないような、創作にまつわるはなしがおおい。
引用しだしたらきりがないので、
ここでは かんじたことをすこしだけ。
インタビューの1回目は、文芸誌『MONKEY』に掲載されており、
それが そのまま本書の第1章となっている。
わたしは『MONKEY』により、すでに第1章をよんでいたわけだけど、
かかれている内容を ほとんどわすれていた。
『みみずくは〜』をよみながら、
大切そうなフレーズに えんぴつで線をひく。
あとから『MONKEY』をひっぱりだして、
まったくおなじ ふたつのインタビューをくらべてみると、
さすがといいうか、ほぼおなじようなところに線がひいてあった。
はじめてよむ本として あらたに感心するなんて、
いくら線をひいたって、これではなにもしないのといっしょだ。
ひらきなおってべつのいいかたをすると、このインタビューには、
なんどよんでも感心したくなるおもしろさがつまっている。
「優れたパーカッショニストは、一番大事な音を叩かない」
なんて、もういちどよんでも線をひきそうだ。
村上さんが小説をかくときの、具体的なうごきと気もちのもち方を、
これほどこまかくききだしたインタビューはない。
そして、村上さんの 小説にたいする勤勉さと自信が、
川上さんの質問によりうかびあがる。
これまでわたしは 川上未映子さんの作品をよんだことがないけど、
どんな小説をかくひとなのか、しりたくなった。
2017年09月05日
2度目のチェンマイマラソンへ
米子空港からタイのチェンマイまでのチケットを予約する。
12月24日におこなわれる、
チェンマイマラソンに参加するためだ。
8月にあったのみ会で、マラソンへの挑戦が話題となり、
わたしはまえにはしったことのある
チェンマイマラソンをレース仲間にすすめた。
はなしがすんなりすすみ、
なんとなくわたしもいっしょに参加することになる。
6年まえの2011年に、初マラソンとして、
わたしはこのチェンマイマラソンではしっている。
タイムは4時間50分。
300人程度と、こじんまりとした大会だし、
コースもほとんど平坦なので初心者むきといえる。
スタートが午前4時と、体調をととのえにくいけど、
これはまあ、なんとかするしかない。
冬のチェンマイは、日本の秋みたいな気候なので、
熱帯地方のあつさを心配せずに参加できる。
レースのあとでうける タイマッサージが いまからたのしみだ。
レース仲間といっしょに参加するといっても、
わたしがおぜんだてするのはめんどくさいので、
現地集合という形にした。
それぞれ自分の事情があるわけで、
いつ出発し、いつ日本にかえるのかまで
ひととあわせていたら 旅行はつまらない。
現地集合・現地解散だと、気らくに計画でき、うごきやすい。
そうか、またあのコースをはしるのかと、
ひさびさのマラソンにむけて 気もちを整理していたら、
うちあげから1週間もたたないうちに、
レース仲間からメッセージがとどいた。
エントリーをすませ、チケットとホテルの予約もおわった、とある。
12月24日のレースなので、まだまだ時間に余裕があると、
わたしはのんびりかまえていたので、
すばやいうごきにおどろいてしまった。
相棒は、海外旅行がこれで2度目なので、
もっと慎重にはなしをすすめるとおもっていたのだ。
せかされるように、わたしもチケットをさがしはじめる。
そして きのう、米子から羽田、
そしてバンコクのスワンナプーム経由で、
チェンマイへ、というチケットを予約した。
朝7時半に米子を出発し、
夕方の6時半にチェンマイについている予定だ。
12万5850円と、それなりの値段だけど、
これほどスムーズなのりつぎはのぞめないだろう。
おそるおそる予約のボタンをおす。
いつもながら、最終的な決定となるボタンをおすのはビビってしまう。
だいそれたかいもののような気がするし、
もっと条件のいいチケットをさがしたくなる。
でも、じっさいは、はやくきめても問題はないし、
そのほうがあとのうごきを楽にする。
というわけで、おもいがけず、
12月22日から、1月2日までのタイ旅行がきまった。
チェンマイマラソンだけでなく、
そのあとにタイ東北部をまわるのをたのしみにしている。
自転車かバイクをかりて、東北部のメコン川ぞいをまわりたい。
これまでタイの北部へは たびたびいっているけど、
東北部はなんとなくあとまわしにしてきた。
まえの旅行でたずねた ラオスのメコン川ぞいが、
のんびりした雰囲気でここちよかったので、
タイ側でもにたようなすごし方ができないだろうか。
12月24日におこなわれる、
チェンマイマラソンに参加するためだ。
8月にあったのみ会で、マラソンへの挑戦が話題となり、
わたしはまえにはしったことのある
チェンマイマラソンをレース仲間にすすめた。
はなしがすんなりすすみ、
なんとなくわたしもいっしょに参加することになる。
6年まえの2011年に、初マラソンとして、
わたしはこのチェンマイマラソンではしっている。
タイムは4時間50分。
300人程度と、こじんまりとした大会だし、
コースもほとんど平坦なので初心者むきといえる。
スタートが午前4時と、体調をととのえにくいけど、
これはまあ、なんとかするしかない。
冬のチェンマイは、日本の秋みたいな気候なので、
熱帯地方のあつさを心配せずに参加できる。
レースのあとでうける タイマッサージが いまからたのしみだ。
レース仲間といっしょに参加するといっても、
わたしがおぜんだてするのはめんどくさいので、
現地集合という形にした。
それぞれ自分の事情があるわけで、
いつ出発し、いつ日本にかえるのかまで
ひととあわせていたら 旅行はつまらない。
現地集合・現地解散だと、気らくに計画でき、うごきやすい。
そうか、またあのコースをはしるのかと、
ひさびさのマラソンにむけて 気もちを整理していたら、
うちあげから1週間もたたないうちに、
レース仲間からメッセージがとどいた。
エントリーをすませ、チケットとホテルの予約もおわった、とある。
12月24日のレースなので、まだまだ時間に余裕があると、
わたしはのんびりかまえていたので、
すばやいうごきにおどろいてしまった。
相棒は、海外旅行がこれで2度目なので、
もっと慎重にはなしをすすめるとおもっていたのだ。
せかされるように、わたしもチケットをさがしはじめる。
そして きのう、米子から羽田、
そしてバンコクのスワンナプーム経由で、
チェンマイへ、というチケットを予約した。
朝7時半に米子を出発し、
夕方の6時半にチェンマイについている予定だ。
12万5850円と、それなりの値段だけど、
これほどスムーズなのりつぎはのぞめないだろう。
おそるおそる予約のボタンをおす。
いつもながら、最終的な決定となるボタンをおすのはビビってしまう。
だいそれたかいもののような気がするし、
もっと条件のいいチケットをさがしたくなる。
でも、じっさいは、はやくきめても問題はないし、
そのほうがあとのうごきを楽にする。
というわけで、おもいがけず、
12月22日から、1月2日までのタイ旅行がきまった。
チェンマイマラソンだけでなく、
そのあとにタイ東北部をまわるのをたのしみにしている。
自転車かバイクをかりて、東北部のメコン川ぞいをまわりたい。
これまでタイの北部へは たびたびいっているけど、
東北部はなんとなくあとまわしにしてきた。
まえの旅行でたずねた ラオスのメコン川ぞいが、
のんびりした雰囲気でここちよかったので、
タイ側でもにたようなすごし方ができないだろうか。
2017年09月04日
アジアのトイレが洋式になってしまった
角田光代さんのエッセイをよんでいたら、
トイレにまつわるはなしがのっていた。
家の便器がこわれたので、あたらしいのをかうと、
乾燥ボタンがついてなかったそうだ。
角田さんは、おしりを電気でかわかすなんて、
さほど必要な機能におもえなかったので、
不人気な乾燥機能が淘汰されたとおもわれたようだ。
じっさいは、角田さんが
たまたま乾燥機能のない便器をえらんだだけで、
半分ほどの機種にはいまも乾燥ボタンがついているらしい。
そうしたマクラから、角田さんがわかいころ旅行した
アジアのおおくの国では、おしりを手であらったものだと、
テーマであるトイレのはなしにはいっていく。
そういえば、このごろはアジアへでかけても、
手でおしりをあらわなくなった。
宿には洋式の便器ばかりがおいてあり、
トイレットペーパーもついている。
わたしの旅行スタイルがかわり、
やすいゲストハウスにとまらなくなっただけが原因ではなく、
個室には西洋便器が基準になりつつある気がする。
バスで長距離を移動するときの休憩所には、
アジア式のトイレがあるので、
まったく目にしないわけではないけど、
やすい宿でも洋式トイレがふつうにそなえつけてある。
ただ、トイレに紙がつまるのをふせぐために、
おしりをふいたトイレットペーパーは、
トイレにおいてあるゴミ箱にすてるのが基本なので、
日本人としては、すこしひっかかる。
水のながれもいまひとつで、なかなか便器がきれいにならない。
こんなことなら 手と水でおしりをあらうほうが気もちいい。
以前は、アジアを旅行していると、おおくの国で
どうしてもおしりを手であらわなければならなかった。
便器のよこにおいてあるオケから容器で水をすくい、
おしりのうしろ側から水をかけながら、
まえから手をまわしておしりをきれいにする。
なれてくればとまどわなくなるし、あんがい気もちがいい。
注意しなければならないのは、ネパールやインドなど、
トイレのない家がおおい地域をあるくときで、
気をつけないと、ウンコをふんづけてしまいそうになる。
ネパールでトレッキングをしていたら、
うつくしい景色とウンコがセットになっている場合があり、
あやしそうな場所では用心が必要だった。
ただ、そとでウンコをするのは、ある種の快感があり、
せまくてきたないトイレよりも
気もちよく用がたせるのもたしかだ。
わたしは、日本で野良仕事をしているとき、
がまんできなくなって、外でなんどかウンコをした。
ひとにみられないように、と
コソコソおおいそぎでするのではなく、
みはらしのいい丘のてっぺんで のんびり腰をおろしたのは
すてきな経験だった。
人口密度のたかい都会では まず味わえないよろこびだろう。
もっとも、ひとの目を気にしつつ、
という状況のほうが刺激的ですきだ、という意見もあるかもしれない。
そとでするトイレは あんがいおおくのひとが
秘密の体験をもっており、話題がなくなったときにたすけてくれる。
まだこころみたことがない方は、
いちど外でおしりをさらしてみるよう おすすめしたい。
トイレにまつわるはなしがのっていた。
家の便器がこわれたので、あたらしいのをかうと、
乾燥ボタンがついてなかったそうだ。
角田さんは、おしりを電気でかわかすなんて、
さほど必要な機能におもえなかったので、
不人気な乾燥機能が淘汰されたとおもわれたようだ。
じっさいは、角田さんが
たまたま乾燥機能のない便器をえらんだだけで、
半分ほどの機種にはいまも乾燥ボタンがついているらしい。
そうしたマクラから、角田さんがわかいころ旅行した
アジアのおおくの国では、おしりを手であらったものだと、
テーマであるトイレのはなしにはいっていく。
そういえば、このごろはアジアへでかけても、
手でおしりをあらわなくなった。
宿には洋式の便器ばかりがおいてあり、
トイレットペーパーもついている。
わたしの旅行スタイルがかわり、
やすいゲストハウスにとまらなくなっただけが原因ではなく、
個室には西洋便器が基準になりつつある気がする。
バスで長距離を移動するときの休憩所には、
アジア式のトイレがあるので、
まったく目にしないわけではないけど、
やすい宿でも洋式トイレがふつうにそなえつけてある。
ただ、トイレに紙がつまるのをふせぐために、
おしりをふいたトイレットペーパーは、
トイレにおいてあるゴミ箱にすてるのが基本なので、
日本人としては、すこしひっかかる。
水のながれもいまひとつで、なかなか便器がきれいにならない。
こんなことなら 手と水でおしりをあらうほうが気もちいい。
以前は、アジアを旅行していると、おおくの国で
どうしてもおしりを手であらわなければならなかった。
便器のよこにおいてあるオケから容器で水をすくい、
おしりのうしろ側から水をかけながら、
まえから手をまわしておしりをきれいにする。
なれてくればとまどわなくなるし、あんがい気もちがいい。
注意しなければならないのは、ネパールやインドなど、
トイレのない家がおおい地域をあるくときで、
気をつけないと、ウンコをふんづけてしまいそうになる。
ネパールでトレッキングをしていたら、
うつくしい景色とウンコがセットになっている場合があり、
あやしそうな場所では用心が必要だった。
ただ、そとでウンコをするのは、ある種の快感があり、
せまくてきたないトイレよりも
気もちよく用がたせるのもたしかだ。
わたしは、日本で野良仕事をしているとき、
がまんできなくなって、外でなんどかウンコをした。
ひとにみられないように、と
コソコソおおいそぎでするのではなく、
みはらしのいい丘のてっぺんで のんびり腰をおろしたのは
すてきな経験だった。
人口密度のたかい都会では まず味わえないよろこびだろう。
もっとも、ひとの目を気にしつつ、
という状況のほうが刺激的ですきだ、という意見もあるかもしれない。
そとでするトイレは あんがいおおくのひとが
秘密の体験をもっており、話題がなくなったときにたすけてくれる。
まだこころみたことがない方は、
いちど外でおしりをさらしてみるよう おすすめしたい。
2017年09月03日
『中年だって生きている』(酒井順子)中年期をむかえる女性の本音
『中年だって生きている』(酒井順子・集英社)
先日よんだ群ようこさんの『ゆるい生活』とおなじように、
中年期にさしかかった女性が、自分におとずれた老化を
どうとらえるかについてかかれている。
年齢でいうと、群さんはわたしの7歳うえ、
酒井さんはわたしの5歳しただ。
わたしをふくめた3人がかんじている「老化」の微妙な差は、
すこしずつずれている 世代のちがいではないだろうか。
本の内容について、おおまかな印象としては、
群さんが、どこまでも個人の体験をこまかくかいているのに対し、
酒井さんは、自分だけでなく、まわりの女性たちの声もつたえている。
酒井さんのもち味は、主流派に位置する女性たちの声を
ありのままにおしえてくれるところだ。
少数派の意見ではなく、主流派というのがミソで、文章をかくひとは、
中心からすこしはなれたポジションをとる場合がおおく、
本をよんでいるだけだと、そうした少数派の意見ばかりが目にはいる。
酒井さんは、高校生のころから、
彼女と彼女の仲間たちが、いったいなにをかんがえ、
なにをしているのかをおしえてくれた。
教室のすみっこにいる 一部の女の子に焦点をあてるのではなく、
クラス全体の雰囲気をつたえている。
そうした声はなかなか男性にはとどかないもので、
まるで女子会ではなされている内容を、
おしえてもらっているような気がしてくる。
パンツの秘密を、ここまでおしえてくれるひとは なかなかいない。
そもそも、酒井さんはパンツをちゃんと「パンツ」とかいてくれる。
わたしの酒井さんへの信頼は、そうした感覚を共有しているからだ。
たった「ファッション」というひとつのみだしだけをとっても、
・ロングスカートのおばちゃん性
・おばさんになるとき
・きゅうくつを我慢できなくなり、ゆるさをもとめる
・なぜ綿のパンツなのか
など、いくつもの「気づき」や「告白」がつまっている。
女性のこんな事情を セキララにあかすのは、酒井さんだけだ。
「腹に食い込むのが嫌」とまでうちあけてくれる酒井さん。
酒井さんは、このようにして、いつも女性の本音をおしえてくれる。
先日よんだ群ようこさんの『ゆるい生活』とおなじように、
中年期にさしかかった女性が、自分におとずれた老化を
どうとらえるかについてかかれている。
年齢でいうと、群さんはわたしの7歳うえ、
酒井さんはわたしの5歳しただ。
わたしをふくめた3人がかんじている「老化」の微妙な差は、
すこしずつずれている 世代のちがいではないだろうか。
本の内容について、おおまかな印象としては、
群さんが、どこまでも個人の体験をこまかくかいているのに対し、
酒井さんは、自分だけでなく、まわりの女性たちの声もつたえている。
酒井さんのもち味は、主流派に位置する女性たちの声を
ありのままにおしえてくれるところだ。
少数派の意見ではなく、主流派というのがミソで、文章をかくひとは、
中心からすこしはなれたポジションをとる場合がおおく、
本をよんでいるだけだと、そうした少数派の意見ばかりが目にはいる。
酒井さんは、高校生のころから、
彼女と彼女の仲間たちが、いったいなにをかんがえ、
なにをしているのかをおしえてくれた。
教室のすみっこにいる 一部の女の子に焦点をあてるのではなく、
クラス全体の雰囲気をつたえている。
そうした声はなかなか男性にはとどかないもので、
まるで女子会ではなされている内容を、
おしえてもらっているような気がしてくる。
友人がおばちゃんに見える時というのは、すなわち「ラク」の方向に逃げた時です。「お洒落は我慢だ」という話もありますが、人は年をとると、肉体的な我慢がどうしたって利かなくなるもの。「お洒落」と「ラク」を天秤にかけて「ラク」の方に目盛りがぐっと傾いた時に、私たちはある一線を超えるのです。
「綿のパンツ」は、いうまでもなく非モテアイテムです。熟女ものAV、それもかなり特殊なセンスの作品にしか、綿のパンツを着用した女は登場しないことでしょう。女物の綿のパンツが干してあるご家庭は、明らかにセックスレスだと思う。
パンツの秘密を、ここまでおしえてくれるひとは なかなかいない。
そもそも、酒井さんはパンツをちゃんと「パンツ」とかいてくれる。
わたしの酒井さんへの信頼は、そうした感覚を共有しているからだ。
たった「ファッション」というひとつのみだしだけをとっても、
・ロングスカートのおばちゃん性
・おばさんになるとき
・きゅうくつを我慢できなくなり、ゆるさをもとめる
・なぜ綿のパンツなのか
など、いくつもの「気づき」や「告白」がつまっている。
女性のこんな事情を セキララにあかすのは、酒井さんだけだ。
人間、ウエストにゴムが入ったものを着るようになったらおしまいだ、という話もありますが、私はもはやゴム入りのものすら嫌いです。なぜならば、ゴムというのは伸びもするけれど縮みもするので、その縮み力が腹に食い込むのが嫌なのです。
「腹に食い込むのが嫌」とまでうちあけてくれる酒井さん。
酒井さんは、このようにして、いつも女性の本音をおしえてくれる。
2017年09月02日
『ゆるい生活』(群ようこ)
『ゆるい生活』(群ようこ・朝日新聞出版)
50代のまんなかで、体調をくずした群さんが、
漢方薬局のマッサージにかよい、
だんだん自分のからだとのつきあい方に目ざめていくはなし。
群さんは、からだがひえやすく、余計な水分をためがちな体質で、
とどこおっている水をだすために、
週にいちど、リンパマッサージをうける。
マッサージの先生は、群さんのからだにふれただけで、
ときには顔色や表情をみただけで、体調をいいあてるゴッドハンドだ。
リンパマッサージは、はじめのうちすごくいたいけど、
漢方薬局へかようにつれ、だんだんと余分な水分がぬけ、
体重がへり、なやまされていためまいがおきなくなる。
でも、それで問題が解決されたかというと そうではなく、
老化をむかえつつあるからだと、
どうおりあいをつけていくかが これからの課題となる。
年齢を意識しすぎないほうがいい、とか
気もちがげんきならいつまでもわかくいられる、
みたいなことがよくいわれるけど、
できればそうありたいとおもいつつ、
わたしはどうしても年齢を気にかけてしまう。
56歳でこんなにたいへんなのだから、
これからどんな老化がまっているのだろう。
トレーニングまえはいつだってからだがだるいし、
記録は年々おちていく。
朝おきたときからのつかれはいったいなんだ。
かといって、なにかが決定的にわるいわけではないので、
コーヒーや寝酒をガマンしてまで健康をめざしたくはない。
群さんのように、ひどい体調不良になやまされなければ、
なかなか習慣はかえられないだろう。
わたしもまた、トレーニングを中心にした生活ではなく、
「無理をしない」を、
からだがもとめているのかもしれない。
群さんみたいに 毎週ゴッドハンドのマッサージをうければ、
体調もよくなるだろうけど、
わたしの経済力では そんなぜいたくはゆるされず、
「無理をしない」を基本方針に、
自分のからだとおりあいをつけていくしかない。
50代のまんなかで、体調をくずした群さんが、
漢方薬局のマッサージにかよい、
だんだん自分のからだとのつきあい方に目ざめていくはなし。
群さんは、からだがひえやすく、余計な水分をためがちな体質で、
とどこおっている水をだすために、
週にいちど、リンパマッサージをうける。
マッサージの先生は、群さんのからだにふれただけで、
ときには顔色や表情をみただけで、体調をいいあてるゴッドハンドだ。
リンパマッサージは、はじめのうちすごくいたいけど、
漢方薬局へかようにつれ、だんだんと余分な水分がぬけ、
体重がへり、なやまされていためまいがおきなくなる。
でも、それで問題が解決されたかというと そうではなく、
老化をむかえつつあるからだと、
どうおりあいをつけていくかが これからの課題となる。
(マッサージをうけるようになって6年がたち)当時よりははるかに体調はよくなってきているけれど、加齢という問題はこれからもずっと続く。体調が回復したのはいいけれど、加齢による身体のトラブルのほうが上回れば、再び体調が悪くなる可能性がある。
私にとって快適にくらすためには、
「増やすよりも減らすほうが大事」
だった。身体によいことをするより、身体によくないことをしないほうがいい。
年齢を意識しすぎないほうがいい、とか
気もちがげんきならいつまでもわかくいられる、
みたいなことがよくいわれるけど、
できればそうありたいとおもいつつ、
わたしはどうしても年齢を気にかけてしまう。
56歳でこんなにたいへんなのだから、
これからどんな老化がまっているのだろう。
トレーニングまえはいつだってからだがだるいし、
記録は年々おちていく。
朝おきたときからのつかれはいったいなんだ。
かといって、なにかが決定的にわるいわけではないので、
コーヒーや寝酒をガマンしてまで健康をめざしたくはない。
群さんのように、ひどい体調不良になやまされなければ、
なかなか習慣はかえられないだろう。
本当に疲れやすく、ふんばりがきかなくなったのは感じる。でもそれならそれなりに、仕事さえやっていれば、だらだらと過ごしてもいいかなと考えている。とにかく、
「無理をしない」
それだけで生きているといった感じなのである。
わたしもまた、トレーニングを中心にした生活ではなく、
「無理をしない」を、
からだがもとめているのかもしれない。
群さんみたいに 毎週ゴッドハンドのマッサージをうければ、
体調もよくなるだろうけど、
わたしの経済力では そんなぜいたくはゆるされず、
「無理をしない」を基本方針に、
自分のからだとおりあいをつけていくしかない。
2017年09月01日
教訓にみちている安藤昌教さんの「鉄道写真の手法で人を撮ると、人は鉄道に見えるか」
すこしまえのデイリーポータルZにのった
「鉄道写真の手法で人を撮ると、人は鉄道に見えるか」(安藤昌教)
がおもしろかった。
http://portal.nifty.com/kiji/170721200204_1.htm
結論からいうと、ひとが電車にみえるわけはない。
でも、強力で乱暴な仮説のもとに、
プロの鉄道写真家をひっぱりだして、
記事を成立させてしまう 安藤さんのちからワザにおどろくこととなる。
・正面ドカン
・アウトハイ
・インロー
・アウトカーブ0角度
・流し撮り
鉄道写真には、いくつもの手法があり、
それぞれが、電車の魅力をよくひきだしている。
しかし、それらのとり方をもってしても、
ひとはどうしても電車にはみえない。
本物の電車とひととのギャップはいかんともしがたく、
想像力を駆使しても、ひとと電車はあきらかにちがう。
テーマである「人は電車に見えるか」よりも、
モデルをひとにかえることで、鉄道写真のテクニックのすごさを
紹介するための記事といっていいのでは。
それほどプロによる鉄道写真は迫力がある。
モデルとなったライターの地主さんは、
鉄道写真家の金子さんからうける技術指導にそって、
一生懸命 電車になりきろとしているけれど、
しかし ひとと鉄道との差は いかんともしがたい。
まじめにとりくめば とりくむほど、
これはいったいなんの撮影なのかと、
地主さんは とまどいの色をかくせない。
それはそうだ。ひとが鉄道に、みえるわけがないのだから。
みえるわけがないけれど、それを承知であえて記事にする。
「こういう企画では我に返るの厳禁である」
という、安藤さんの気づきが身につまされる。
われにかえると とてもやってられないので、
かんがえるのをやめ、ひたすらゴリゴリとまえにすすむ。
ブログをかいているとき、わたしにも ときどき疑問がわくことがある。
意味がないのをしっているくせに、
わたしはなにをしようとしているのか。
安藤さんの記事をよむと、わたしのまよいなど
とるにたらない あまえたレベルだ。
われにかえらないほうがいい瞬間はおおい。
「鉄道写真の手法で人を撮ると、人は鉄道に見えるか」(安藤昌教)
がおもしろかった。
http://portal.nifty.com/kiji/170721200204_1.htm
鉄道写真には写真のテクニックが凝縮されている。
そのテクニックを駆使して人を撮ると、それはもう電車に見えるんじゃないだろうか。
結論からいうと、ひとが電車にみえるわけはない。
でも、強力で乱暴な仮説のもとに、
プロの鉄道写真家をひっぱりだして、
記事を成立させてしまう 安藤さんのちからワザにおどろくこととなる。
・正面ドカン
・アウトハイ
・インロー
・アウトカーブ0角度
・流し撮り
鉄道写真には、いくつもの手法があり、
それぞれが、電車の魅力をよくひきだしている。
しかし、それらのとり方をもってしても、
ひとはどうしても電車にはみえない。
本物の電車とひととのギャップはいかんともしがたく、
想像力を駆使しても、ひとと電車はあきらかにちがう。
テーマである「人は電車に見えるか」よりも、
モデルをひとにかえることで、鉄道写真のテクニックのすごさを
紹介するための記事といっていいのでは。
それほどプロによる鉄道写真は迫力がある。
モデルとなったライターの地主さんは、
鉄道写真家の金子さんからうける技術指導にそって、
一生懸命 電車になりきろとしているけれど、
しかし ひとと鉄道との差は いかんともしがたい。
まじめにとりくめば とりくむほど、
これはいったいなんの撮影なのかと、
地主さんは とまどいの色をかくせない。
それはそうだ。ひとが鉄道に、みえるわけがないのだから。
みえるわけがないけれど、それを承知であえて記事にする。
「こういう企画では我に返るの厳禁である」
という、安藤さんの気づきが身につまされる。
われにかえると とてもやってられないので、
かんがえるのをやめ、ひたすらゴリゴリとまえにすすむ。
ブログをかいているとき、わたしにも ときどき疑問がわくことがある。
意味がないのをしっているくせに、
わたしはなにをしようとしているのか。
安藤さんの記事をよむと、わたしのまよいなど
とるにたらない あまえたレベルだ。
われにかえらないほうがいい瞬間はおおい。