「鉄道写真の手法で人を撮ると、人は鉄道に見えるか」(安藤昌教)
がおもしろかった。
http://portal.nifty.com/kiji/170721200204_1.htm
鉄道写真には写真のテクニックが凝縮されている。
そのテクニックを駆使して人を撮ると、それはもう電車に見えるんじゃないだろうか。
結論からいうと、ひとが電車にみえるわけはない。
でも、強力で乱暴な仮説のもとに、
プロの鉄道写真家をひっぱりだして、
記事を成立させてしまう 安藤さんのちからワザにおどろくこととなる。
・正面ドカン
・アウトハイ
・インロー
・アウトカーブ0角度
・流し撮り
鉄道写真には、いくつもの手法があり、
それぞれが、電車の魅力をよくひきだしている。
しかし、それらのとり方をもってしても、
ひとはどうしても電車にはみえない。
本物の電車とひととのギャップはいかんともしがたく、
想像力を駆使しても、ひとと電車はあきらかにちがう。
テーマである「人は電車に見えるか」よりも、
モデルをひとにかえることで、鉄道写真のテクニックのすごさを
紹介するための記事といっていいのでは。
それほどプロによる鉄道写真は迫力がある。
モデルとなったライターの地主さんは、
鉄道写真家の金子さんからうける技術指導にそって、
一生懸命 電車になりきろとしているけれど、
しかし ひとと鉄道との差は いかんともしがたい。
まじめにとりくめば とりくむほど、
これはいったいなんの撮影なのかと、
地主さんは とまどいの色をかくせない。
それはそうだ。ひとが鉄道に、みえるわけがないのだから。
みえるわけがないけれど、それを承知であえて記事にする。
「こういう企画では我に返るの厳禁である」
という、安藤さんの気づきが身につまされる。
われにかえると とてもやってられないので、
かんがえるのをやめ、ひたすらゴリゴリとまえにすすむ。
ブログをかいているとき、わたしにも ときどき疑問がわくことがある。
意味がないのをしっているくせに、
わたしはなにをしようとしているのか。
安藤さんの記事をよむと、わたしのまよいなど
とるにたらない あまえたレベルだ。
われにかえらないほうがいい瞬間はおおい。