2017年09月17日

『私はダニエル・ブレイク』ひとりの市民としての尊厳を

『わたしはダニエル・ブレイク』(ケン=ローチ監督・2016年・イギリス)

すごい映画をみてしまった。
ダニエルのまっすぐな生き方に、最後まで圧倒される。
(以下、ネタバレあり)

59歳のダニエルは、心臓の病気をかかえ、
医者からはたらくことをとめられている。
これまで国からの手当をうけてくらしてきたが、
支援手当の継続検査では、はたらけるので 手当は中止、
という結果がつたえられた。
不服審査にうったえようとしても、手つづきがあまりにも複雑だし、
制度そのものが、こまっているひとをたすけるようにできていない。
求職者手当を申請するために職安へいっても、
手つづきはネットによってのみうけつけられ、
パソコンにうといダニエルは、
申請書をダウンロードするのさえむつかしい。

ダニエルは腹をたてながらも、
あきらめずに手つづきをすすめようとする。
はたらけないのに、行政からは求職活動の実績をもとめられ、
履歴書をもって仕事をさがすけど、
申請のきまりとして、求職活動を証明するものがないと、
うけつけてもらえない。
こまっているものをたすけるのが行政の役割なのに、
どの窓口へいっても彼らの仕事は
よわいものたちをはじきだす方向でしか機能していない。

行政からは、はたらけるのに なまけているとほのめかされ、
ダニエルがどの窓口をたずねても、
とうてい納得できない理屈でおしきろうとされる。
行政のいうとおりに申請をだそうとしても、
オンラインサービスはわかりにくいし、
電話では、担当者になかなかつながらない。
行政の窓口をおとずれるたびに、
みじめな気もちにさせられるばかりだ。
無能で問題のある人間として、さげすまされたあつかいをうける。
良心的な職員がいても、制度じたいに問題があるため、
こまっているはどんどんきりすてられてしまう。

病気でたおれたりして、いったん歯車がくるうと、
ずるずるとセーフティーネットからこぼれてしまう硬直した社会制度。
歳をとり、病気やアクシデントでからだの自由がきかなくなったとき、
まずしいものは、どうやってくらしていけばいいのか。
ダニエルの設定年齢は59歳なので、わたしとあまりかわらない。
わたしだってからだをこわせば、すぐに生活がなりたたなくなる。
なんとか仕事についているけど、ほんのちょっとしたできごとで、
どちらにころぶかわからない 不安定なところにたっている。
だれだってそうしたリスクをかかえながらくらしており、
だからこそ正直に生きるものが、
つらいおもいをするような社会であってはならない。
ダニエルのかなしみとやるせなさが、
自分のことののように身につまされる。

それでもくじけずに、毅然として生きるダニエルは、
胸をはり、はやあしで堂々とあるく。
いいことはいい、ダメなものはだめ。
人間としての尊厳を、いつも大切に生きてきた。
ながいものにまかれず、できるだけただしくあろうとするし、
自分の生活だっておさきまっくらなのに、
こまっているひとをほっておけない。
行政にたいして正当ないかりをつたえ、
たすけが必要なひとには手をさしだす。
それらをあたりまえなこととして、行動にうつせるがダニエルだ。

映画のおわりのほうで、
ダニエルが、手当の審査に不服をもうしたてるとき、
行政にうったえようと、自分のかんがえを紙にまとめていた。
ひとりの市民として、まじめにはたらき、税金をおさめ、
それをほこりにおもって生きてきたのに、
自分のような人間をずっとないがしろにしてきた行政へのいかり。
ほどこしをうけようとはおもわない。
自分は番号ではなく、ひとりの人間であり、
市民として尊厳をもってせっしてほしい。
しかし このうったえが、
ダニエルの口から直接つたえられることはなく、
映画はかなしみのラストをむかえる。

posted by カルピス at 21:57 | Comment(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする