デイリーポータルZに、「快感!職業アナウンスカラオケ」
(林雄司)がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/171029201053_1.htm
いつもデイリーポータルZの紹介でもうしわけないけど、
この記事は おおくのひとの夢をかなえてくれる
すばらしい発見であり、ぜひじっさいにあそんでほしい。
なにをするのかというと、
車内放送や機長のあいさつなどを、
効果音つきのカラオケでアナウンスするのだ。
なりたかった自分に仮装する、が
コスプレの基本的なコンセプトだとおもうけど、
「職業アナウンスカラオケ」は、なりたかった自分に
リアルにちかづけるのだから、たのしいにきまっている。
今回の記事でカバーされている職業は、
・飛行機にのったときにおなじみの機長からのアナウンス
「当機はただいま◯◯の上空3万フィートを・・・」
・切符の自動販売機のアナウンス
「お釣りや切符の取り忘れにご注意ください」
・気象通報
「石垣島では南東の風 風力4・・・」
・相撲のものいい
「ただいまの協議について説明いたします・・・」
わたしは、路線バスにのったときなど、
運転手さんのアナウンスをうるさくおもっていたけど、
カラオケとしてあそべるならはなしはべつだ。
ゴッコあそびこそ、あそびの出発点であり、
なりたい職業へのねがいをくすぐられる。
林さんが「職業アナウンスカラオケ」を
おもいついたきっかけは、
東急の車内放送をアナウンスできるカラオケからだ。
じっさいに、鉄道カラオケというジャンルがあり、
4社26区間の路線で運転手や車掌となり、
車内放送をアナウンスしてたのしめるという。
わたしはいま、ボジョレーヌーボーを配達するときに、
どんな仮装をしたらいいかこまっているけど、
もしこの「職業アナウンスカラオケ」がもちはこびできたら、
お客さんに最高のサービスをとどけられるのではないか。
鉄ちゃんには鉄道カラオケを、
飛行機ずきには機長からのアナウンスを、
野球ずきのひとには場内アナウンスを、
マイクと映像のちからをかりてよみあげてもらったら、
ぜったいによろこんでもらえる。
老人ホームやデイサービスでも人気をあつめそうだ。
いま話題のバーチャルリアリティとくみあわせたら、
やりたかった仕事をリアルに体験できる。
にたようなゲームがすでに開発されているのだろう。
2017年10月31日
2017年10月30日
『ラーメン放浪記』にまなぶ創意工夫の極意
『ラーメン放浪記』(富沢順)
たまたま手にしたマンガに、創意工夫の極意がかたられていた。
各話よみきりのストーリーは、毎回おなじながれだ。
主人公の青年が、いきだおれ寸前でたすけられ、
「ラーメンがたべたい・・・」とうわごとをつぶやく。
彼にかかわったひとたちは みんな親切で、
ちかくのラーメン屋さん
(なにかと問題をかかえている)へつれていき、
すきっぱらをとにかく解決しようとラーメンをたべさせる。
この青年は、じつはメンをうつことにかけて
ものすごい実力者で、2000とおりのラーメンをつくれるという。
彼がつくるものすごくおいしいラーメンにより、
お店は人気をとりもどしていく。
青年が、ラーメンにかたむける愛はすさまじく、
ラーメンによってひとをしあわせにできるとしんじている。
そしてさいごにかならず
と、ラーメン道の奥ぶかさがかたられるのだ。
はじめこれを「後方(こうほう)」とかいてあるのかとおもった。
すでにこころみてきた工夫のなかに、
こたえはちゃんとあるのだ、という意味だとおもった。
なんというふかいことばだろう。
こたえが、はるか前方にあるのはあたりまえだけど、
はるか後方にあった、というのは
現実の意外性をさりげなくあらわしている。
いろいろためしてみたものの、
けっきょくはじめのこころみがいちばんいいところをついていた、
というのをわたしはなんどか経験している。
なにかを計画したときも、
さらにそれをよくしようといろいろおもいつくけど、
たいていは、もとの計画のまますすめたほうが、まちがいない。
なにかが必要になり、あたらしくかわなくては、
とおもっていたものを、
じつはすでにもっていた、なんてのもわりとよくある。
あくまでも、わたしは、のはなしであり、
いろいろ工夫するなかで、レベルをたかめていった経験のあるひとは、
それなりにふかい人生を味わっておられるのだろう。
残念ながらわたしはそうでないことがおおかったので、
その学習をいかし、だんだんと工夫しない人間になったみたいだ。
「はるか 彼方にある」よりも、
「はるか 後方にあった」のほうがおもしろいとおもうけど。
たまたま手にしたマンガに、創意工夫の極意がかたられていた。
各話よみきりのストーリーは、毎回おなじながれだ。
主人公の青年が、いきだおれ寸前でたすけられ、
「ラーメンがたべたい・・・」とうわごとをつぶやく。
彼にかかわったひとたちは みんな親切で、
ちかくのラーメン屋さん
(なにかと問題をかかえている)へつれていき、
すきっぱらをとにかく解決しようとラーメンをたべさせる。
この青年は、じつはメンをうつことにかけて
ものすごい実力者で、2000とおりのラーメンをつくれるという。
彼がつくるものすごくおいしいラーメンにより、
お店は人気をとりもどしていく。
青年が、ラーメンにかたむける愛はすさまじく、
ラーメンによってひとをしあわせにできるとしんじている。
そしてさいごにかならず
いつだって答えは はるか彼方にある
と、ラーメン道の奥ぶかさがかたられるのだ。
はじめこれを「後方(こうほう)」とかいてあるのかとおもった。
すでにこころみてきた工夫のなかに、
こたえはちゃんとあるのだ、という意味だとおもった。
なんというふかいことばだろう。
こたえが、はるか前方にあるのはあたりまえだけど、
はるか後方にあった、というのは
現実の意外性をさりげなくあらわしている。
いろいろためしてみたものの、
けっきょくはじめのこころみがいちばんいいところをついていた、
というのをわたしはなんどか経験している。
なにかを計画したときも、
さらにそれをよくしようといろいろおもいつくけど、
たいていは、もとの計画のまますすめたほうが、まちがいない。
なにかが必要になり、あたらしくかわなくては、
とおもっていたものを、
じつはすでにもっていた、なんてのもわりとよくある。
あくまでも、わたしは、のはなしであり、
いろいろ工夫するなかで、レベルをたかめていった経験のあるひとは、
それなりにふかい人生を味わっておられるのだろう。
残念ながらわたしはそうでないことがおおかったので、
その学習をいかし、だんだんと工夫しない人間になったみたいだ。
「はるか 彼方にある」よりも、
「はるか 後方にあった」のほうがおもしろいとおもうけど。
2017年10月29日
ヨシダプロ氏の発見「犬の頭に『?』をつけるとかわいくなる」はほんとうだった
デイリーポータルZに、わたしのすきなももちゃんシリーズがのった。
「犬の頭に『?』をつけるとかわいくなる」(ヨシダプロ氏)
http://portal.nifty.com/kiji/171025201009_1.htm
今回は、なにかに似ている、ではなくて、
犬の頭に「?」をつけたらかわいい、という発見だ。
ヨシダプロ氏が、ももちゃんと将棋をさす記事をかいたときのこと。
画像加工でクエスチョンマークを顔のちかくにおいたら
かわいくなる効果があるのに気づいた。
それを、画像加工ではなく、紙と針金をつかって
をつくったら、というのが今回の記事の趣旨だ。
たしかに「?」をつけると、かわいくなる効果がみとめられる。
ひいきにしてる「ももちゃんシリーズ」なので、
蛇足としりつつも、この記事をとりあげてみた。
そもそも、動物はいつもなにかしら
かんがえこんでいるようにみえる。
ももちゃんだけでなく、わたしの家のピピ(ねこ)だって、
つねにささやかな疑問をかかえているみたいだし、
ときにはすべてをしりつくしてるんじゃないか、とまでおもう。
犬やネコだけでなく、カラスだって、
いつもなんだか悪だくみをしてるみたいだ。
人間にはわからない回路で、脳をはたらかせているのでは。
そうはいっても、あまりちいさな動物、
たとえばスズメやネズミには「?」が似あわないような気がする。
さらにちいさい生物、ミジンコのよこに「?」をつけてもだめだ。
神社でむれているハトは、一心不乱にエサをついばむだけで、
なにか疑問をかかえているようにはみえない。
カラスはOKで、ハトだとダメなのは、なんの差があるのだろう。
ひとつの仮説として、あるていどのおおきさがないと、
知性をみとめにくいのでは、というのがわたしの気づきだ。
反対に、あまりおおきな動物でもクエスチョンマークはにあわない。
ゾウの頭の上に「?」があってもへんなだけだし、
馬でもまだおおきすぎる。
こうしてみると、ヨシダプロ氏が
犬のももちゃんを題材にえらんだのは、
身ぢかにいる動物という理由だけでなく、
必然的な選択だったのかもしれない。
やっぱり、蛇足にしかならないかった。
ちなみに、ヘビにもクエスチョンマークはふさわしくない。
ヘビは疑問なんてもたず、冷酷に行動するからこそヘビなのであり、
なやみをかかえたヘビはすでにヘビではない。
やはり、いちばん「?」が似あうのは、犬かネコみたいだ。
「犬の頭に『?』をつけるとかわいくなる」(ヨシダプロ氏)
http://portal.nifty.com/kiji/171025201009_1.htm
今回は、なにかに似ている、ではなくて、
犬の頭に「?」をつけたらかわいい、という発見だ。
ヨシダプロ氏が、ももちゃんと将棋をさす記事をかいたときのこと。
画像加工でクエスチョンマークを顔のちかくにおいたら
かわいくなる効果があるのに気づいた。
それを、画像加工ではなく、紙と針金をつかって
常に具体化するアイテム「?(デフォルトクエスチョン)」
をつくったら、というのが今回の記事の趣旨だ。
たしかに「?」をつけると、かわいくなる効果がみとめられる。
ひいきにしてる「ももちゃんシリーズ」なので、
蛇足としりつつも、この記事をとりあげてみた。
そもそも、動物はいつもなにかしら
かんがえこんでいるようにみえる。
ももちゃんだけでなく、わたしの家のピピ(ねこ)だって、
つねにささやかな疑問をかかえているみたいだし、
ときにはすべてをしりつくしてるんじゃないか、とまでおもう。
犬やネコだけでなく、カラスだって、
いつもなんだか悪だくみをしてるみたいだ。
人間にはわからない回路で、脳をはたらかせているのでは。
そうはいっても、あまりちいさな動物、
たとえばスズメやネズミには「?」が似あわないような気がする。
さらにちいさい生物、ミジンコのよこに「?」をつけてもだめだ。
神社でむれているハトは、一心不乱にエサをついばむだけで、
なにか疑問をかかえているようにはみえない。
カラスはOKで、ハトだとダメなのは、なんの差があるのだろう。
ひとつの仮説として、あるていどのおおきさがないと、
知性をみとめにくいのでは、というのがわたしの気づきだ。
反対に、あまりおおきな動物でもクエスチョンマークはにあわない。
ゾウの頭の上に「?」があってもへんなだけだし、
馬でもまだおおきすぎる。
こうしてみると、ヨシダプロ氏が
犬のももちゃんを題材にえらんだのは、
身ぢかにいる動物という理由だけでなく、
必然的な選択だったのかもしれない。
やっぱり、蛇足にしかならないかった。
ちなみに、ヘビにもクエスチョンマークはふさわしくない。
ヘビは疑問なんてもたず、冷酷に行動するからこそヘビなのであり、
なやみをかかえたヘビはすでにヘビではない。
やはり、いちばん「?」が似あうのは、犬かネコみたいだ。
2017年10月28日
レーサーパンツをめぐる欲望とのつきあい方
ロードバイク用のズボンがほしくなった。
いわゆるレーサーパンツというやつだ。
おしりの部分にパットがはいっており、
下着をつけずに、直接レーサーパンツをはく。
自転車に特化しているだけ、そのぶん自転車からおりると、
町をあるくときに、いっぺんで用なしとなる。
これまでさむい時期のサイクリングは、
ふるいジャージのズボンでまにあわせてきたけど、
ボロボロになり、みすぼらしさがいやになってきた。
ネットでレーサーパンツをみると、
長ズボンタイプでも3000円からある。
これくらいなら、快適なサイクリングのために
もっていてもいいのでは。
レーサーパンツは、いかにもサイクリスト、というスタイルだし、
ノーパンにひっかかるという意見がおおいけど、
わたしはその部分についてとくに抵抗はない。
水着にきがえる水泳だってにたようなものだからだろうか。
やせ型のわたしは、きっとレーサーパンツがにあうだろう。
ひっかかるのは、サイクリングにしかつかえない点だ。
水着だって水泳にしかつかえないとおもえば、まあいいか。
手袋もまた、さむい時期のサイクリングにかかせない。
これまでつかってきたものは、もう何年もまえからほつれてきて、
そのつど夜なべしてつくろってきた(ウソです)。
いいかげん、あたらしい手袋をかっても浪費にはあたらないだろう。
パンクしたときにそなえ、空気いれも必要だ。
お金をもっていても、自転車屋さんが
すぐにみつからないかもしれないし、
自分でパンクをなおすにしても、
チューブをそっくりかえるにしても、
空気いれがなければタイヤはふくらまない。
ネットで注文するまえに、もしかしたらと、
20年以上まえにかったランドナーの空気いれをためしてみる。
ゴムの部分が劣化して、スカスカな手ごたえかとおもってたら、
おどろいたことに、まだちゃんと空気がはいる。
残念ながら、あたらしくかわなくても用をたしそうだ。
けっきょく、かわない。
ネットでほしいものをさがしていると、
イモづる式によさそうなものがみつかり、
あればかっこいいし、便利におもえる。
でも、すこし日数をおけば、あんがいその熱はじきにさめて、
なくても平気なこころもちになる場合がおおい。
今年の秋・冬も、気分は19世紀の自転車のりのつもりで、
ダサい服装のまま、愛車のシクロクロスで町をはしる。
いわゆるレーサーパンツというやつだ。
おしりの部分にパットがはいっており、
下着をつけずに、直接レーサーパンツをはく。
自転車に特化しているだけ、そのぶん自転車からおりると、
町をあるくときに、いっぺんで用なしとなる。
これまでさむい時期のサイクリングは、
ふるいジャージのズボンでまにあわせてきたけど、
ボロボロになり、みすぼらしさがいやになってきた。
ネットでレーサーパンツをみると、
長ズボンタイプでも3000円からある。
これくらいなら、快適なサイクリングのために
もっていてもいいのでは。
レーサーパンツは、いかにもサイクリスト、というスタイルだし、
ノーパンにひっかかるという意見がおおいけど、
わたしはその部分についてとくに抵抗はない。
水着にきがえる水泳だってにたようなものだからだろうか。
やせ型のわたしは、きっとレーサーパンツがにあうだろう。
ひっかかるのは、サイクリングにしかつかえない点だ。
水着だって水泳にしかつかえないとおもえば、まあいいか。
手袋もまた、さむい時期のサイクリングにかかせない。
これまでつかってきたものは、もう何年もまえからほつれてきて、
そのつど夜なべしてつくろってきた(ウソです)。
いいかげん、あたらしい手袋をかっても浪費にはあたらないだろう。
パンクしたときにそなえ、空気いれも必要だ。
お金をもっていても、自転車屋さんが
すぐにみつからないかもしれないし、
自分でパンクをなおすにしても、
チューブをそっくりかえるにしても、
空気いれがなければタイヤはふくらまない。
ネットで注文するまえに、もしかしたらと、
20年以上まえにかったランドナーの空気いれをためしてみる。
ゴムの部分が劣化して、スカスカな手ごたえかとおもってたら、
おどろいたことに、まだちゃんと空気がはいる。
残念ながら、あたらしくかわなくても用をたしそうだ。
けっきょく、かわない。
ネットでほしいものをさがしていると、
イモづる式によさそうなものがみつかり、
あればかっこいいし、便利におもえる。
でも、すこし日数をおけば、あんがいその熱はじきにさめて、
なくても平気なこころもちになる場合がおおい。
今年の秋・冬も、気分は19世紀の自転車のりのつもりで、
ダサい服装のまま、愛車のシクロクロスで町をはしる。
2017年10月27日
社会科でならったナツメヤシとオアシス
しりあいの家でコーヒーをいただいたら、
お茶うけとして ほしたいちぢくをだされた。
くちにすると、かなりあまい。
モロッコを旅行ちゅうによくたべた
ナツメヤシをおもいだした。
中学か高校の授業で、オアシスや、サハラ砂漠の遊牧民は
ナツメヤシの実をたべる、とならった。
おしえている先生にしても、
ナツメヤシの実がどんなものかしらないだろうに、
「北アフリカでは・・・」なんて
さもみたことがあるように授業ではなすのは、
たとえ仕事とはいえ うしろめたかったのではないか。
わたしは はじめてナツメヤシをたべたとき、
これが教科書にのっていたナツメヤシか、と
わりかし感慨ぶかかった。
モロッコでのナツメヤシは、主食としてではなく、
デザートのくだものとして、あるいは
手ごろなおやつとして、身ぢかな存在だった。
オアシスも、モロッコではじめてみた。
乾燥しきった景色のなかをバスがはしり、
やがて緑の点が砂漠のなかにあらわれる。
オアシスだ。
ことばとして「オアシス」をきいたことがあったけど、
じっさいにオアシスにやってくると、
植物のゆたかさにおどろいた。
水がなければ草木はまったくはえない。
水さえあれば、こんなにもほかの地域とちがう景色になる。
集落とよぶのがふさわしい、ちいさなオアシスだっただけに、
水の存在がどれだけ決定的にはたらいて、
このゆたかな緑の拠点をうみだしているのかがよくわかった。
乾燥地帯での移動は、こうしたオアシスがたよりだ。
海のなかにうかぶ、ちいさな島のようにみえる。
まわりはぜんぶ茶色なのに、オアシスだけが緑にあふれている。
ナツメヤシにしても、オアシスにしても、
社会科の授業では、ことばをおぼえただけで、
じっさいはどんなものなのか、まるでイメージできなかった。
現地にいって、じっさいに体験するしかないのに、
テストの回答にはもっともらしく「ナツメヤシ」なんてかくのだから、
社会科の授業って、なんだかへんな勉強だ。
お茶うけとして ほしたいちぢくをだされた。
くちにすると、かなりあまい。
モロッコを旅行ちゅうによくたべた
ナツメヤシをおもいだした。
中学か高校の授業で、オアシスや、サハラ砂漠の遊牧民は
ナツメヤシの実をたべる、とならった。
おしえている先生にしても、
ナツメヤシの実がどんなものかしらないだろうに、
「北アフリカでは・・・」なんて
さもみたことがあるように授業ではなすのは、
たとえ仕事とはいえ うしろめたかったのではないか。
わたしは はじめてナツメヤシをたべたとき、
これが教科書にのっていたナツメヤシか、と
わりかし感慨ぶかかった。
モロッコでのナツメヤシは、主食としてではなく、
デザートのくだものとして、あるいは
手ごろなおやつとして、身ぢかな存在だった。
オアシスも、モロッコではじめてみた。
乾燥しきった景色のなかをバスがはしり、
やがて緑の点が砂漠のなかにあらわれる。
オアシスだ。
ことばとして「オアシス」をきいたことがあったけど、
じっさいにオアシスにやってくると、
植物のゆたかさにおどろいた。
水がなければ草木はまったくはえない。
水さえあれば、こんなにもほかの地域とちがう景色になる。
集落とよぶのがふさわしい、ちいさなオアシスだっただけに、
水の存在がどれだけ決定的にはたらいて、
このゆたかな緑の拠点をうみだしているのかがよくわかった。
乾燥地帯での移動は、こうしたオアシスがたよりだ。
海のなかにうかぶ、ちいさな島のようにみえる。
まわりはぜんぶ茶色なのに、オアシスだけが緑にあふれている。
ナツメヤシにしても、オアシスにしても、
社会科の授業では、ことばをおぼえただけで、
じっさいはどんなものなのか、まるでイメージできなかった。
現地にいって、じっさいに体験するしかないのに、
テストの回答にはもっともらしく「ナツメヤシ」なんてかくのだから、
社会科の授業って、なんだかへんな勉強だ。
2017年10月26日
MEC食を1ヶ月ためしてみて
那覇市「こくらクリニック」の渡辺信幸さんが提唱するMEC食
(いちにちに、肉200グラム・卵3個・チーズ120グラムを
よくかんでたべる食事法)
をためしてから1ヶ月になる。
低炭水化物食よりも、目標とする数字がはっきりしているので
なにをたべるのかが わかりやすい。
炭水化物をなるべくたべない、よりも、
たんぱく質をたくさんたべる、のほうが
かんがえ方として健全な気がする。
渡辺さんがMEC食をおもいついた出発点として、
欧米型だった沖縄の食生活が、本土型になるにつれ、
肥満と糖尿病がふえたことをあげている。
離島のおおい沖縄で、病気になると通院がたいへんなので、
大切なのは治療よりも予防と渡辺さんはかんがえた。
沖縄には肉食文化が根づいており、
抵抗なくうけいれられる食事としてMEC食にたどりついた。
やせ型のわたしは、低炭水化物食をこころみると、
たくわえている脂肪がすくないので、カロリー不足になりやすい。
MEC食は、まず必要な栄養素をとりいれてから、
余裕があればほかのたべものを、
という順序なので、わたしにむいている。
漠然とした低炭水化物食では、体重がおちてしまったけど、
MEC食にしてから体重が1キロふえ、
体力に余裕ができた気がする。
わたしはMEC食のかんがえ方がすごくふにおちたけど、
たとえば食のほそい老人にとっても、
MEC食は具体的なめやすとなるのではないか.。
なんとなく 肉や卵をたくさんたべましょう、では、
野菜や炭水化物でおなかがいっぱいになり、
結果として栄養不足になりやすい。
MEC食は、肉や卵をじゅうぶんにたべるので、
野菜を中心にした食事よりもコンパクトになる。
腹八分でも、必要なカロリーをとりいれられる。
卵3個とチーズ120グラムをたべるのは、なんとかなるけど、
肉の200グラムはあんがいハードルがたかい。
MEC食をつづけようとすると、食材にお金がかかるので、
やすい肉料理を工夫したいところだ。
鳥の胸肉がやすいけど、ふつうにやくだけではパサついていて、
そんなにつづけてたべられるものではない。
いまは、クックパッドが
いくつもの料理をおしえてくれるのでたすかる。
ひらきなおって、パサついた胸肉こそが肉食のだいごみ、
と自分にいいきかせるのも手だ。
こんなに肉をたべて、地球環境は大丈夫なのか。
よくいわれるように、穀物を1キロそだてるのよりも、
肉として牛をそだてるのは、はるかに水やエネルギーを必要とする。
倫理面からみた命の問題もある。
MEC食なんていいながら、
おおくの命を自分のためにうばって平気なのか。
食の安全も気になるだろう。
この肉や卵、それにチーズは、
農薬と化学肥料にまみれてそだったのではないか。
MEC食をこころみるのなら、これらの問題から目をそむけられない。
肉の値段ばかりをみて かいものをしていて いいわけがない。
MEC食は、いかに生きるかも といかけてくる。
(いちにちに、肉200グラム・卵3個・チーズ120グラムを
よくかんでたべる食事法)
をためしてから1ヶ月になる。
低炭水化物食よりも、目標とする数字がはっきりしているので
なにをたべるのかが わかりやすい。
炭水化物をなるべくたべない、よりも、
たんぱく質をたくさんたべる、のほうが
かんがえ方として健全な気がする。
渡辺さんがMEC食をおもいついた出発点として、
欧米型だった沖縄の食生活が、本土型になるにつれ、
肥満と糖尿病がふえたことをあげている。
離島のおおい沖縄で、病気になると通院がたいへんなので、
大切なのは治療よりも予防と渡辺さんはかんがえた。
沖縄には肉食文化が根づいており、
抵抗なくうけいれられる食事としてMEC食にたどりついた。
やせ型のわたしは、低炭水化物食をこころみると、
たくわえている脂肪がすくないので、カロリー不足になりやすい。
MEC食は、まず必要な栄養素をとりいれてから、
余裕があればほかのたべものを、
という順序なので、わたしにむいている。
漠然とした低炭水化物食では、体重がおちてしまったけど、
MEC食にしてから体重が1キロふえ、
体力に余裕ができた気がする。
わたしはMEC食のかんがえ方がすごくふにおちたけど、
たとえば食のほそい老人にとっても、
MEC食は具体的なめやすとなるのではないか.。
なんとなく 肉や卵をたくさんたべましょう、では、
野菜や炭水化物でおなかがいっぱいになり、
結果として栄養不足になりやすい。
MEC食は、肉や卵をじゅうぶんにたべるので、
野菜を中心にした食事よりもコンパクトになる。
腹八分でも、必要なカロリーをとりいれられる。
卵3個とチーズ120グラムをたべるのは、なんとかなるけど、
肉の200グラムはあんがいハードルがたかい。
MEC食をつづけようとすると、食材にお金がかかるので、
やすい肉料理を工夫したいところだ。
鳥の胸肉がやすいけど、ふつうにやくだけではパサついていて、
そんなにつづけてたべられるものではない。
いまは、クックパッドが
いくつもの料理をおしえてくれるのでたすかる。
ひらきなおって、パサついた胸肉こそが肉食のだいごみ、
と自分にいいきかせるのも手だ。
こんなに肉をたべて、地球環境は大丈夫なのか。
よくいわれるように、穀物を1キロそだてるのよりも、
肉として牛をそだてるのは、はるかに水やエネルギーを必要とする。
倫理面からみた命の問題もある。
MEC食なんていいながら、
おおくの命を自分のためにうばって平気なのか。
食の安全も気になるだろう。
この肉や卵、それにチーズは、
農薬と化学肥料にまみれてそだったのではないか。
MEC食をこころみるのなら、これらの問題から目をそむけられない。
肉の値段ばかりをみて かいものをしていて いいわけがない。
MEC食は、いかに生きるかも といかけてくる。
2017年10月25日
またまた時事ネタ
先日おこなわれた選挙の結果について、
ネットや新聞にいろんな意見がのっている。
自民にとっていい結果だった、という論調だけでなく、
勝者はいない、というまとめかたもあった。
すこしまえにおこなわれた、
サッカー国際親善試合、日本対ハイチは、
「よかったのは、ベンチにいた選手」(ショーン=キャロル氏)
というコメントが、まとめとなるような試合だった。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171011-00010000-footballc-socc
まえの試合から選手を9人いれかえ、
選手交代も、6人の交代枠をぜんぶつかいきった。
ハリルホジッチ監督としては、
おおくの選手にチャンスをあたえたわけだし、
選手にしても、存在存在感をアピールする貴重な機会だった。
しかし、おおくの選手はいいところをみせられず、
それどころか、かえって印象をわるくしている。
「よかったのは、ベンチにいた選手」というコメントが
強烈な皮肉であるとともに、試合全体を的確にあらわしている。
選挙では、「勝者はいな」かったのだから、
ハイチ戦よりもまだひどい。
ショーン=キャロル氏は、さらに、
とものべている。
戦術や采配を云々する以前の問題であり、
あのような内容では、どこがあいてでもまける。
この発言もまた、先日の選挙にあてはまる。
小池さん・前原さんは、だれが相手だろうと関係なく
かてない試合をしたのではないか。
サッカーにおいては、
たとえひとつの試合でアピールに失敗しても、
ながい目でみればいい経験をつめたといえるし、
そもそも 失敗がなければ成長はみこめない。
よくいわれるように、打席にたたなくては
ぜったいにホームランやヒットはうてない。
とはいえ、前原さんのたち位置は、そう単純ではなさそうだ。
おなじような失敗をなんどもくりかえすひとが、
これからどうやって所属する党をたてなおすのか、
あるいは、失敗が、とりかえしのつかない失敗となり、
永久にとどめをさされるのか。
これからのうごきをみまもりたい。
ネットや新聞にいろんな意見がのっている。
自民にとっていい結果だった、という論調だけでなく、
勝者はいない、というまとめかたもあった。
すこしまえにおこなわれた、
サッカー国際親善試合、日本対ハイチは、
「よかったのは、ベンチにいた選手」(ショーン=キャロル氏)
というコメントが、まとめとなるような試合だった。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20171011-00010000-footballc-socc
まえの試合から選手を9人いれかえ、
選手交代も、6人の交代枠をぜんぶつかいきった。
ハリルホジッチ監督としては、
おおくの選手にチャンスをあたえたわけだし、
選手にしても、存在存在感をアピールする貴重な機会だった。
しかし、おおくの選手はいいところをみせられず、
それどころか、かえって印象をわるくしている。
「よかったのは、ベンチにいた選手」というコメントが
強烈な皮肉であるとともに、試合全体を的確にあらわしている。
選挙では、「勝者はいな」かったのだから、
ハイチ戦よりもまだひどい。
ショーン=キャロル氏は、さらに、
「W杯でこのようなパフォーマンスだったら相手は関係ないと思う」
とものべている。
戦術や采配を云々する以前の問題であり、
あのような内容では、どこがあいてでもまける。
この発言もまた、先日の選挙にあてはまる。
小池さん・前原さんは、だれが相手だろうと関係なく
かてない試合をしたのではないか。
サッカーにおいては、
たとえひとつの試合でアピールに失敗しても、
ながい目でみればいい経験をつめたといえるし、
そもそも 失敗がなければ成長はみこめない。
よくいわれるように、打席にたたなくては
ぜったいにホームランやヒットはうてない。
とはいえ、前原さんのたち位置は、そう単純ではなさそうだ。
おなじような失敗をなんどもくりかえすひとが、
これからどうやって所属する党をたてなおすのか、
あるいは、失敗が、とりかえしのつかない失敗となり、
永久にとどめをさされるのか。
これからのうごきをみまもりたい。
2017年10月24日
きゅうにおもいたって夜あるいてみる
ひさしぶりにはれたので、
けさはあるいて出勤しようとおもった。
おもったのに、ずるずると時間がすぎてしまい、
あるいていたら、遅刻しそうだ。
けっきょく、いつものように自転車で職場へ。
なんだかこのごろ体調がよく、からだのすみずみまで
エネルギーがいきとどいているかんじ。
あるいたら、きっと気もちよかっただろうと、
自分でムダに朝の時間をすごしておいて、
あるかなかった出勤をもったいなくおもう。
きのうの記事にかいたとおり、
あるきを生活にとりいれようとしたのに。
そのかわり、といってはなんだけど、
夕ごはんのあと、きゅうにあるく気になった。
スマホをみると、きょうは2200歩あるいており、
もうすこし歩数をかせぎたかったのと、
わたしとしてはめずらしく、食後にもかかわらず、
からだをうごかしたいとおもったからだ。
いかにも健康づくりなどと みられたくないので、
ジャージなどははかず、いつもの服装で、
手にはちいさなカバンをもって、
ダイエット目的のウォーキングではないと強調する。
今夜はとてもすずしくて、はやあるきでからだをうごかしていると
なんともいえず気もちいい。
ジョギングは、ここちよさよりも くるしさがかってるけど、
あるいていると、からだにてきした負荷なのか、
脳になにかの刺激物資がながれるのか、
こんなに気もちのいい運動はないとおもえるほど
すがすがしい気分を味わう。
かいわすれたタマゴをスーパーでかったりして、
30分ほどあるいて家にもどる。
しかし、なんということか、
スマホをみると 歩数の合計は2660で、
出発のときから360しかふえてない。
30分はやあるきしたら、3000歩は足をうごかしているはずで、
スマホの万歩計は、あてにならない数字なのがわかった。
きのうの記事で、自分がおもってるよりも、
ずっと活動量のすくない人間であることへの
ショックをかいたけど、問題は万歩計のほうで、
わたしの日常生活ではないとわかって安心した。
とはいえ、あるくのが気もちいいのはたしかで、
朝でも夜でも、どこかに時間をみつけて、
たとえ30分でもあるくと てきめんに気分がよくなる。
きゅうにおもいたったこんやの散歩では、
爽快感とともに、精神の自由をかんじながらあるいた。
からだがここちいいと、頭もさえてくる。
精神の自由、なんておおきなことをかかげながら、
何歩あるいたかで一喜一憂するのもへんなはなしだけど、
いまのわたしは、ジョギングより、水泳より、
あるくと確実にいい気もちが味わえる。
けさはあるいて出勤しようとおもった。
おもったのに、ずるずると時間がすぎてしまい、
あるいていたら、遅刻しそうだ。
けっきょく、いつものように自転車で職場へ。
なんだかこのごろ体調がよく、からだのすみずみまで
エネルギーがいきとどいているかんじ。
あるいたら、きっと気もちよかっただろうと、
自分でムダに朝の時間をすごしておいて、
あるかなかった出勤をもったいなくおもう。
きのうの記事にかいたとおり、
あるきを生活にとりいれようとしたのに。
そのかわり、といってはなんだけど、
夕ごはんのあと、きゅうにあるく気になった。
スマホをみると、きょうは2200歩あるいており、
もうすこし歩数をかせぎたかったのと、
わたしとしてはめずらしく、食後にもかかわらず、
からだをうごかしたいとおもったからだ。
いかにも健康づくりなどと みられたくないので、
ジャージなどははかず、いつもの服装で、
手にはちいさなカバンをもって、
ダイエット目的のウォーキングではないと強調する。
今夜はとてもすずしくて、はやあるきでからだをうごかしていると
なんともいえず気もちいい。
ジョギングは、ここちよさよりも くるしさがかってるけど、
あるいていると、からだにてきした負荷なのか、
脳になにかの刺激物資がながれるのか、
こんなに気もちのいい運動はないとおもえるほど
すがすがしい気分を味わう。
かいわすれたタマゴをスーパーでかったりして、
30分ほどあるいて家にもどる。
しかし、なんということか、
スマホをみると 歩数の合計は2660で、
出発のときから360しかふえてない。
30分はやあるきしたら、3000歩は足をうごかしているはずで、
スマホの万歩計は、あてにならない数字なのがわかった。
きのうの記事で、自分がおもってるよりも、
ずっと活動量のすくない人間であることへの
ショックをかいたけど、問題は万歩計のほうで、
わたしの日常生活ではないとわかって安心した。
とはいえ、あるくのが気もちいいのはたしかで、
朝でも夜でも、どこかに時間をみつけて、
たとえ30分でもあるくと てきめんに気分がよくなる。
きゅうにおもいたったこんやの散歩では、
爽快感とともに、精神の自由をかんじながらあるいた。
からだがここちいいと、頭もさえてくる。
精神の自由、なんておおきなことをかかげながら、
何歩あるいたかで一喜一憂するのもへんなはなしだけど、
いまのわたしは、ジョギングより、水泳より、
あるくと確実にいい気もちが味わえる。
2017年10月23日
いちにちに、1000歩しかあるいてなかったとは
スマホに万歩計のアプリをいれた。
ジョギングなどの運動以外で、
わたしはどれくらいあるいているだろうか。
わたしのいちにちをざっとまとめてみると、
自転車を5分こいで職場にかよい、
事業所を利用するひとを自動車でむかえにいって、
そのあとクッキーをやいたり、配達したりの仕事につき、
夕方また利用者をおうちにおくりとどける。
かえりには、ちかくのスーパーによってかいものをすませ、
10分ほど自転車にのって家にもどる。
こうした活動では、いちにちに1000歩もあるいていなかった。
トレーニングをしなくても、
日常的に2,3000歩はあるいているとおもっていたのに、
こんなにも歩数がすくなかったとは。
すこしはやあるきをしたら、10分でだいたい1000歩になる。
だから、いちにちに1万歩をめざすとすれば、
1時間半あるけば、おおよそ1万歩だ。
やすみなしでの1時間半はたいへんだけど、
いちにちの合計で90分あるけばいいのだから、
そんなにむりな数字ではない。
と、かんたんにかんがえていたのに、
自分の日常が、まさか こんなにあるいていないとはしらなかった。
ずっと車を運転していたり、パソコンにむかいあってるのなら
1000歩いかなくても納得できるけど、
はしらないまでも、そこそこからだをうごかして
いちにちをすごしているつもりだった。
まさか、たったの1000歩だったとは。
はじめ、なにかのまちがいだとおもい、
なんにちか、おなじようなすごし方をしたけれど、
どの日も1000歩いかなかった。
ながいきしたければはしるな、
あるいは、一万歩なんてめざさなくてもいい、
みたいな本をときどきみかける。
でも、そういう本は、注目をあつめたいから
そんなタイトルをつけているだけで、
あるくのを完全に否定してるわけではない(とおもう)。
むしろ、人間のからだはうごく(あるく)ようにできており、
あるかなければ、いろんな不都合がうまれるのではないか。
わたしはいちにちにうでたてふせ90回、
ヒンズースクワット300回をこなすようにしている。
朝でもお風呂のまえでも いつでもいいから、
いちにちのどこかで時間をみつけ、このふたつの種目にとりくむ。
やらないよりも、やったほうがいいだろうけど、
スクワットをしてるのを理由に ほとんどあるかない日でも、
ま、いいか、とあまりおもくかんがえてこなかった。
ピピはいちにちのうち22時間をねていると、
おおげさにおどろいて ひとにはなすけれど、
わたしにしたって、いちにちのうち
23時間50分はあるいていなかった。
健康のため・ダイエットのためと、
一心不乱にあるくのは わたしの美学にはんする。
爽快感のため、かんがえごとがしやすいから、など、
そのほかの理由を前面にうちだして、
あるきをもっと生活にとりいれたい。
わたしがいまの生活に9000歩うわのせするには、
あるいての通勤にきりかえ、かいものにもあるくようにしても、
4000歩ぐらいにしかならない。
根本的に生活をみなおさなければ、
いちにちに一万歩あるくのは そうかんたんではない。
ジョギングと水泳で安心してたけど、
わたしはあんがいうごかない人間と 認識したほうがよさそうだ。
ジョギングなどの運動以外で、
わたしはどれくらいあるいているだろうか。
わたしのいちにちをざっとまとめてみると、
自転車を5分こいで職場にかよい、
事業所を利用するひとを自動車でむかえにいって、
そのあとクッキーをやいたり、配達したりの仕事につき、
夕方また利用者をおうちにおくりとどける。
かえりには、ちかくのスーパーによってかいものをすませ、
10分ほど自転車にのって家にもどる。
こうした活動では、いちにちに1000歩もあるいていなかった。
トレーニングをしなくても、
日常的に2,3000歩はあるいているとおもっていたのに、
こんなにも歩数がすくなかったとは。
すこしはやあるきをしたら、10分でだいたい1000歩になる。
だから、いちにちに1万歩をめざすとすれば、
1時間半あるけば、おおよそ1万歩だ。
やすみなしでの1時間半はたいへんだけど、
いちにちの合計で90分あるけばいいのだから、
そんなにむりな数字ではない。
と、かんたんにかんがえていたのに、
自分の日常が、まさか こんなにあるいていないとはしらなかった。
ずっと車を運転していたり、パソコンにむかいあってるのなら
1000歩いかなくても納得できるけど、
はしらないまでも、そこそこからだをうごかして
いちにちをすごしているつもりだった。
まさか、たったの1000歩だったとは。
はじめ、なにかのまちがいだとおもい、
なんにちか、おなじようなすごし方をしたけれど、
どの日も1000歩いかなかった。
ながいきしたければはしるな、
あるいは、一万歩なんてめざさなくてもいい、
みたいな本をときどきみかける。
でも、そういう本は、注目をあつめたいから
そんなタイトルをつけているだけで、
あるくのを完全に否定してるわけではない(とおもう)。
むしろ、人間のからだはうごく(あるく)ようにできており、
あるかなければ、いろんな不都合がうまれるのではないか。
わたしはいちにちにうでたてふせ90回、
ヒンズースクワット300回をこなすようにしている。
朝でもお風呂のまえでも いつでもいいから、
いちにちのどこかで時間をみつけ、このふたつの種目にとりくむ。
やらないよりも、やったほうがいいだろうけど、
スクワットをしてるのを理由に ほとんどあるかない日でも、
ま、いいか、とあまりおもくかんがえてこなかった。
ピピはいちにちのうち22時間をねていると、
おおげさにおどろいて ひとにはなすけれど、
わたしにしたって、いちにちのうち
23時間50分はあるいていなかった。
健康のため・ダイエットのためと、
一心不乱にあるくのは わたしの美学にはんする。
爽快感のため、かんがえごとがしやすいから、など、
そのほかの理由を前面にうちだして、
あるきをもっと生活にとりいれたい。
わたしがいまの生活に9000歩うわのせするには、
あるいての通勤にきりかえ、かいものにもあるくようにしても、
4000歩ぐらいにしかならない。
根本的に生活をみなおさなければ、
いちにちに一万歩あるくのは そうかんたんではない。
ジョギングと水泳で安心してたけど、
わたしはあんがいうごかない人間と 認識したほうがよさそうだ。
2017年10月22日
ときには時事ネタ
書評家の斎藤美奈子さんに
『たまには、時事ネタ』(中央公論社)という著作がある。
本の評論だけではなく、斎藤さんだって時事ネタをかくのだ。
2001〜2006年にかかれた時事ネタコラムで、
ひさしぶりにめくってみると なつかしいし、おもしろい。
それにあやかって、というわけではないけど、
わたしもたまには時事ネタをかいてみよう。
と、いっても、ひさしぶりに投票した、というだけのはなしだ。
それだけ世のなかのうごきをうれいたわけではなく、
ただなんとなく、がニュアンスとしてはちかい。
このまえ選挙にいったのは、いつだっただろう。
国政選挙(っていうんだっけ?)にしても、
地方選挙にしても、あまりにも不毛な選択がつづき、
選挙にいく気をなくしていた。
今回にしても、とくに日本のゆくさきを心配したわけではなく、
なりゆきにすぎない。
台風がちかづき、暴風雨がふきあれているので、
いつもとちがったことがしたくなったのかもしれない。
夕方5時20分の投票所には、
わたしのほかにも5,6人がおとずれていた。
夕方にラジオをきいていたら、午後4時の状況としたうえで、
投票率が26%、前回を2.8%したまわっているそうだ。
たかいのが、東北地方の県で、最低は沖縄の19%くらいだという。
8時までまだ時間があるとはいえ、
今回の選挙はずいぶん話題になっていたのに、
それでも20%代とは、あまりにもひくいのでおどろいた。
沖縄のひとにしてみたら、基地問題やオスプレー、
最近でもヘリコプターの墜落事故と、
それにもかかわらず強行に運転が再開されたりで、
本土に一貫してめちゃくちゃなあつかいをされつづけているのだから、
国政選挙があるからといって、
いまさらたいして期待する気になれないだろう。
わたしにしても、これだけ与党がやりほうだいなのに、
あいかわらず与党有利の予測をきいて理解にくるしんでいた。
そんな選挙にいく意味があるのかとおもってしまう。
小池氏が「希望の党」をたちあげたときには、
おもしろくなってきた、とおもったけど、
そのあとの「排除発言」が問題になり、
うごきにブレーキがかかってしまった。
政策が一致しないのに、おなじ党として活動はできないだろうから、
いいかたこそ直接すぎたかもしれないけど、
小池氏の発言は当然におもえる。
ひさびさにおとずれたチャンスを、野党側はふいにしたようだ。
ま、いいけど。
おちるところまでおちてしまえば、
これからの日本がどうなるのか はやくわかる。
『たまには、時事ネタ』(中央公論社)という著作がある。
本の評論だけではなく、斎藤さんだって時事ネタをかくのだ。
2001〜2006年にかかれた時事ネタコラムで、
ひさしぶりにめくってみると なつかしいし、おもしろい。
それにあやかって、というわけではないけど、
わたしもたまには時事ネタをかいてみよう。
と、いっても、ひさしぶりに投票した、というだけのはなしだ。
それだけ世のなかのうごきをうれいたわけではなく、
ただなんとなく、がニュアンスとしてはちかい。
このまえ選挙にいったのは、いつだっただろう。
国政選挙(っていうんだっけ?)にしても、
地方選挙にしても、あまりにも不毛な選択がつづき、
選挙にいく気をなくしていた。
今回にしても、とくに日本のゆくさきを心配したわけではなく、
なりゆきにすぎない。
台風がちかづき、暴風雨がふきあれているので、
いつもとちがったことがしたくなったのかもしれない。
夕方5時20分の投票所には、
わたしのほかにも5,6人がおとずれていた。
夕方にラジオをきいていたら、午後4時の状況としたうえで、
投票率が26%、前回を2.8%したまわっているそうだ。
たかいのが、東北地方の県で、最低は沖縄の19%くらいだという。
8時までまだ時間があるとはいえ、
今回の選挙はずいぶん話題になっていたのに、
それでも20%代とは、あまりにもひくいのでおどろいた。
沖縄のひとにしてみたら、基地問題やオスプレー、
最近でもヘリコプターの墜落事故と、
それにもかかわらず強行に運転が再開されたりで、
本土に一貫してめちゃくちゃなあつかいをされつづけているのだから、
国政選挙があるからといって、
いまさらたいして期待する気になれないだろう。
わたしにしても、これだけ与党がやりほうだいなのに、
あいかわらず与党有利の予測をきいて理解にくるしんでいた。
そんな選挙にいく意味があるのかとおもってしまう。
小池氏が「希望の党」をたちあげたときには、
おもしろくなってきた、とおもったけど、
そのあとの「排除発言」が問題になり、
うごきにブレーキがかかってしまった。
政策が一致しないのに、おなじ党として活動はできないだろうから、
いいかたこそ直接すぎたかもしれないけど、
小池氏の発言は当然におもえる。
ひさびさにおとずれたチャンスを、野党側はふいにしたようだ。
ま、いいけど。
おちるところまでおちてしまえば、
これからの日本がどうなるのか はやくわかる。
2017年10月21日
稲かりと大豆の脱穀
ことしで3どめとなる稲かりをする。
おととしより、1週間おそい稲かりだ(きょねんは収穫ゼロ)。
種もみいりの団子を いっしょにまいたしりあいと、
ふたりでカマを手に田んぼにはいる。
残念ながら、ほんの30分でおわってしまった。
発芽がそろわず、芽がでてからのそだちもわるい。
稲かりをしてると、稲のカブがスポッと、かんたんにぬけてしまう。
根がよくはってないから、成長もわるいのだろう。
ほとんど収穫がないのはわかっていたので、
いまさらショックはうけないけど、
自然農法は、そうかんたんに 豊作までいかせてくれない。
ついでに、といってはなんだけど、
大豆もぜんぶかりとって、足踏脱穀機にかけた。
わたしの畑はひあたりがわるく、
このままほっておいても 乾燥しそうにないので、
とにかくぜんぶ収穫した。
稲とちがい、大豆は順調にそだった。
枝豆としてもたくさんたべたし、
肥料や農薬をつかわなくても よくそだった。
足踏脱穀機でとりだしたサヤは、
家にもってかえってベランダにほす。
稲も、わずかな量しかなかったので、
ものほしざおにかけた。
稲は、乾燥してからの脱穀がのこっているし、
大豆も、サヤから豆をとりだすのがさいごの仕事だ。
とはいえ、ことしの米と大豆の収穫があっけなくおわった。
とくに米つくりについては、なかなかうまくいかないなー、が
3年目をおえてのそっちょくな感想だ。
おととしより、1週間おそい稲かりだ(きょねんは収穫ゼロ)。
種もみいりの団子を いっしょにまいたしりあいと、
ふたりでカマを手に田んぼにはいる。
残念ながら、ほんの30分でおわってしまった。
発芽がそろわず、芽がでてからのそだちもわるい。
稲かりをしてると、稲のカブがスポッと、かんたんにぬけてしまう。
根がよくはってないから、成長もわるいのだろう。
ほとんど収穫がないのはわかっていたので、
いまさらショックはうけないけど、
自然農法は、そうかんたんに 豊作までいかせてくれない。
ついでに、といってはなんだけど、
大豆もぜんぶかりとって、足踏脱穀機にかけた。
わたしの畑はひあたりがわるく、
このままほっておいても 乾燥しそうにないので、
とにかくぜんぶ収穫した。
稲とちがい、大豆は順調にそだった。
枝豆としてもたくさんたべたし、
肥料や農薬をつかわなくても よくそだった。
足踏脱穀機でとりだしたサヤは、
家にもってかえってベランダにほす。
稲も、わずかな量しかなかったので、
ものほしざおにかけた。
稲は、乾燥してからの脱穀がのこっているし、
大豆も、サヤから豆をとりだすのがさいごの仕事だ。
とはいえ、ことしの米と大豆の収穫があっけなくおわった。
とくに米つくりについては、なかなかうまくいかないなー、が
3年目をおえてのそっちょくな感想だ。
2017年10月20日
雨ふりにそなえてショートブーツをかう
台風21号がちかづいており、天気予報によると、
週末から月曜にかけて、日本を縦断するコースをとっている。
だから、というのは ちょっとこじつけだけど、
ホームセンターへいったついでに ショートブーツをかった。
ファッションとしての意味はまったくない。
ひたすら雨をどうふせぐか、からもとめたショートブーツだ。
ショートブーツなんていうのもはずかしい しょぼいデザインなので、
正確に、ショート=レイン=ブーツ、
あるいは、長靴のみじかいの、とよんだほうがいいかもしれない。
ホームセンターにあるくらいだから、1980円とやすい。
仕事がら、そとをあるく機会のおおいわたしは、
雨の日にどんな雨具を身につけたらいいか、いつもまよっている。
これまでの経験から、雨ふりのときに大切なのは、
けっきょく足もとをぬらさないことだとわかってきた。
たとえ上半身を雨からまもっても、
くつがぬれたらいっぺんに不快さがます。
そして、いくらカサをさしても、
いつもとおなじジョギングシューズをはいていたのでは、
足もとがぬれるのをふせげない。
自転車にのる場合でも、上下のカッパだけではクツをまもれない。
わたしは、自転車用の雨具で、
クツのうえからつけるレインカバーをもっている。
ジョギングシューズでも、このカバーをはいて、
上下にカッパをつければ完璧な装備となる。
ただ、目的地についてから、そのカバーをどうあつかうかが
あんがいやっかいで、あまりつかう機会のない雨具だ。
長靴をはけば、問題はないわけだけど、
小雨になったり、ながい距離をあるくときに
長靴ではおおげさすぎて もてあましてしまう。
そこで、ショートブーツだ。
ショートブーツなら、あるきと自転車の両方に対応できる。
まだはいたことがないのに、すごくもちあげたけど、
これまでの雨問題をいっきょに解決する
画期的な雨具になってくれる気がする。
はやく雨ふりの日につかってみたい。
週末から月曜にかけて、日本を縦断するコースをとっている。
だから、というのは ちょっとこじつけだけど、
ホームセンターへいったついでに ショートブーツをかった。
ファッションとしての意味はまったくない。
ひたすら雨をどうふせぐか、からもとめたショートブーツだ。
ショートブーツなんていうのもはずかしい しょぼいデザインなので、
正確に、ショート=レイン=ブーツ、
あるいは、長靴のみじかいの、とよんだほうがいいかもしれない。
ホームセンターにあるくらいだから、1980円とやすい。
仕事がら、そとをあるく機会のおおいわたしは、
雨の日にどんな雨具を身につけたらいいか、いつもまよっている。
これまでの経験から、雨ふりのときに大切なのは、
けっきょく足もとをぬらさないことだとわかってきた。
たとえ上半身を雨からまもっても、
くつがぬれたらいっぺんに不快さがます。
そして、いくらカサをさしても、
いつもとおなじジョギングシューズをはいていたのでは、
足もとがぬれるのをふせげない。
自転車にのる場合でも、上下のカッパだけではクツをまもれない。
わたしは、自転車用の雨具で、
クツのうえからつけるレインカバーをもっている。
ジョギングシューズでも、このカバーをはいて、
上下にカッパをつければ完璧な装備となる。
ただ、目的地についてから、そのカバーをどうあつかうかが
あんがいやっかいで、あまりつかう機会のない雨具だ。
長靴をはけば、問題はないわけだけど、
小雨になったり、ながい距離をあるくときに
長靴ではおおげさすぎて もてあましてしまう。
そこで、ショートブーツだ。
ショートブーツなら、あるきと自転車の両方に対応できる。
まだはいたことがないのに、すごくもちあげたけど、
これまでの雨問題をいっきょに解決する
画期的な雨具になってくれる気がする。
はやく雨ふりの日につかってみたい。
2017年10月19日
はてなブックマーク問題よりピピのおしっこ情報がだいじかも
ピピが毛布のうえでおしっこをする。
夜中のおしっこは、もうなれっことはいえ、
今回のはすこし事情がちがう。
ごはんをたべに台所へいったピピが、
部屋にもどってきて わたしをおこそうとする。
ねむいところを、邪魔されるのはいやなので、
毛布をかぶってしらばっくれていたら、
わざわざ毛布によじのぼってのおしっこをしはじめた。
いじわるというか、いやがらせとしかおもえない。
10月も中旬となり、毛布ではさむいくらいなのに、
ふとんをだして、もしそのうえでおしっこをされたら
後始末がかなりたいへんとなる。
これからどうやっておしっこをふせぎながら、
あたたかい夜をすごしたらいいだろう。
こうして、歳おいたネコがする粗相をブログにかいても、
ほとんどのひとにとって関係のないはなしで、
99%は「しらんがな」とそっぽをむくだろう。
それでもわたしがピピのおしっこを しつこくかくのは、
ネコをかっているひとは、いずれむかえるネコの老化であり、
おそかれ はやかれ、やがてもちあがってくる事態だからだ。
ネコずきのおおくが そのうち「ネコ おしっこ」と、検索するだろう。
わたしがその他のジャンルについて、
もっともらしく意見をのべるより、
きっとおしっこ情報のほうが必要とされるときがくる。
けさパソコンをたちあげて
ブラウザのファイヤーフォックスをひらくと、
いつもは左側にでてくる「はてなブックマーク」がみえない。
いろいろやってみるけど、どうやらふるいファイヤーフォックスでは、
はてなブックマークをつかえなくなったみたいだ。
ファイヤーフォックスをあたらしくするには、
システムをあたらしくしなければならず、
わたしのパソコンは、iMacがシステム10.6.8、
マックブックエアーが10.8.5なので、サポートの対象外なのだろう。
わたしにパソコンの正確な知識があり、
ふるいマックにはてなブックマークを
再登場させる方法を紹介できたら、
きっとおおくのひとがもとめる記事になるだろう。
でも、パソコンをつかえるけど、しくみはわからないわたしにとって、
はてなブックマークの再表示は手にあまる問題だ。
とりあえず、ブックマークとして
「はてなブックマーク」を登録し、サイドバーにおいてみる。
不自由だけど、しかたない。
やっぱり、ネコのおしっこをしつこくかいていったほうが、
ながい目でみると、役にたつ記事になりそうだ。
夜中のおしっこは、もうなれっことはいえ、
今回のはすこし事情がちがう。
ごはんをたべに台所へいったピピが、
部屋にもどってきて わたしをおこそうとする。
ねむいところを、邪魔されるのはいやなので、
毛布をかぶってしらばっくれていたら、
わざわざ毛布によじのぼってのおしっこをしはじめた。
いじわるというか、いやがらせとしかおもえない。
10月も中旬となり、毛布ではさむいくらいなのに、
ふとんをだして、もしそのうえでおしっこをされたら
後始末がかなりたいへんとなる。
これからどうやっておしっこをふせぎながら、
あたたかい夜をすごしたらいいだろう。
こうして、歳おいたネコがする粗相をブログにかいても、
ほとんどのひとにとって関係のないはなしで、
99%は「しらんがな」とそっぽをむくだろう。
それでもわたしがピピのおしっこを しつこくかくのは、
ネコをかっているひとは、いずれむかえるネコの老化であり、
おそかれ はやかれ、やがてもちあがってくる事態だからだ。
ネコずきのおおくが そのうち「ネコ おしっこ」と、検索するだろう。
わたしがその他のジャンルについて、
もっともらしく意見をのべるより、
きっとおしっこ情報のほうが必要とされるときがくる。
けさパソコンをたちあげて
ブラウザのファイヤーフォックスをひらくと、
いつもは左側にでてくる「はてなブックマーク」がみえない。
いろいろやってみるけど、どうやらふるいファイヤーフォックスでは、
はてなブックマークをつかえなくなったみたいだ。
ファイヤーフォックスをあたらしくするには、
システムをあたらしくしなければならず、
わたしのパソコンは、iMacがシステム10.6.8、
マックブックエアーが10.8.5なので、サポートの対象外なのだろう。
わたしにパソコンの正確な知識があり、
ふるいマックにはてなブックマークを
再登場させる方法を紹介できたら、
きっとおおくのひとがもとめる記事になるだろう。
でも、パソコンをつかえるけど、しくみはわからないわたしにとって、
はてなブックマークの再表示は手にあまる問題だ。
とりあえず、ブックマークとして
「はてなブックマーク」を登録し、サイドバーにおいてみる。
不自由だけど、しかたない。
やっぱり、ネコのおしっこをしつこくかいていったほうが、
ながい目でみると、役にたつ記事になりそうだ。
2017年10月18日
『本の雑誌 11月号』の特集は「書庫を建てよう!」
『本の雑誌 11月号』の特集は「書庫を建てよう!」。
自宅の庭に、10万冊もはいる書庫をたてた
水鏡子さんが紹介されている。
10万冊というと、ちょっとした図書館といっていい。
水鏡子さんは、結婚せず、自動車ももたず、
ひたすら本に時間とお金をかけてきた。
庭にたてた書庫は、3番めの書庫であり、
自宅にある第1書庫と第3書庫をあわせると、3万冊もはいるのに、
それが、予想よりはやくいっぱいになり、第3書庫が必要になった。
水鏡子さんは、とくに親から財産をひきついだわけではなく、
自分ではたらいたお金を、本をかうのにあててきた。
おもしろかった企画は、
「蔵書家の家族の声をきけ!」で、
目黒考二さんの次男である謙二さんが
目黒家の事情を紹介している。
さきほどとりあげた水鏡子さんは、
家族がいないから問題はないけど、
家族のある蔵書家は、家でどうふるまっているのか。
目黒さんは、まあ、だいたいは予想どおりというか、
まったく家族の迷惑をかえりみない態度をつらぬぬいている。
目黒さんというと、家族小説がだいすきで、
こまやかな感情だって当然ながら理解しているのに、
自分の家族となると、またはなしはべつらしい。
べつというよりも、ひとに迷惑かもしれないという
ふつうの感覚がすっかりぬけているのが不思議なほどだ。
わたしは、それほど本をもっているわけではないけど、
台所に自分用の本棚をもちこんでいるし、
わたしの部屋においてある配偶者のタンスが非情に邪魔なので、
これさえなければ理想の書斎が完成するのにと、
非情にネガティブな感情にとらわれがちだ。
どんな理由をつけたら ほかの部屋へ移動できるのか、
延々とかんがえつづけるけど、いいアイデアがうかばない。
けっきょく わかれるしかないのかと、はやまりそうになる。
基本的に、本をためこみがちな人間は、
自分の欲望だけに忠実であり、
まわりが迷惑かどうかまで気がまわらない。
書庫をたてたら、本の整理がいっきょにすすむので、
家族のためにもいいことなのだろう。
自宅の庭に、10万冊もはいる書庫をたてた
水鏡子さんが紹介されている。
10万冊というと、ちょっとした図書館といっていい。
水鏡子さんは、結婚せず、自動車ももたず、
ひたすら本に時間とお金をかけてきた。
庭にたてた書庫は、3番めの書庫であり、
自宅にある第1書庫と第3書庫をあわせると、3万冊もはいるのに、
それが、予想よりはやくいっぱいになり、第3書庫が必要になった。
水鏡子さんは、とくに親から財産をひきついだわけではなく、
自分ではたらいたお金を、本をかうのにあててきた。
車を持たんだけでも年に2,30万ずつゆとりが出るんですよ。それだけで30年で1千万。
嫁さん持たなかったら1千万。子どもを持たなかったら2千万。合わせて4千万くらいできるわけです。
おもしろかった企画は、
「蔵書家の家族の声をきけ!」で、
目黒考二さんの次男である謙二さんが
目黒家の事情を紹介している。
さきほどとりあげた水鏡子さんは、
家族がいないから問題はないけど、
家族のある蔵書家は、家でどうふるまっているのか。
目黒さんは、まあ、だいたいは予想どおりというか、
まったく家族の迷惑をかえりみない態度をつらぬぬいている。
目黒さんというと、家族小説がだいすきで、
こまやかな感情だって当然ながら理解しているのに、
自分の家族となると、またはなしはべつらしい。
べつというよりも、ひとに迷惑かもしれないという
ふつうの感覚がすっかりぬけているのが不思議なほどだ。
わたしは、それほど本をもっているわけではないけど、
台所に自分用の本棚をもちこんでいるし、
わたしの部屋においてある配偶者のタンスが非情に邪魔なので、
これさえなければ理想の書斎が完成するのにと、
非情にネガティブな感情にとらわれがちだ。
どんな理由をつけたら ほかの部屋へ移動できるのか、
延々とかんがえつづけるけど、いいアイデアがうかばない。
けっきょく わかれるしかないのかと、はやまりそうになる。
基本的に、本をためこみがちな人間は、
自分の欲望だけに忠実であり、
まわりが迷惑かどうかまで気がまわらない。
書庫をたてたら、本の整理がいっきょにすすむので、
家族のためにもいいことなのだろう。
2017年10月17日
鷹の爪団 スーパーデラックス自虐カレンダー(卓上型)をかう
鷹の爪団の「スーパーデラックス自虐カレンダー」(卓上用)をかう。
まえにもこのブログでとりあげたことがあるように、
壁かけ用は、月がかわったときに、
紙をやぶいて つぎの月がみえるようにする。
カレンダーとしては よくあるやり方とはいえ、
たかいお金(1500円ぐらい)をだしてかったカレンダーなのに、
1ヶ月つかっただけで すてるのはもったいない。
ケチでビンボーなわたしは、
けっきょく壁かけ型を、カレンダーとしてつかえなかった。
それ以来、鷹の爪団のカレンダーは、卓上型だけにしている。
2018年版の自虐ネタには、
・民泊
・獣医学部
・国家戦略特区
など、2017年に話題となったできごとが
すかさずとりあげられている。
ながい目でみれば、この自虐カレンダーを将来ふりかえるだけで、
その時代にはなにがニュースだったたかをおもいだせる。
たとえば、
2017年版には「女子会」、
2016年版には「テニスの神様」(錦織圭選手)
ということばがそれぞれ登場している。
それ以前に「女子会」といっても、
なんのことかわからなかったはずだ。
自虐カレンダーにしたしんでいると、
「女子会」ということばがはやったのは、2016年だとわかる。
2018年版は、とくにまえの年とかわった点はない。
あいかわらず祝日に色がついてないので、
スケジュール管理にはふむきだ。
鷹の爪団のメンバーがつぶやいている自虐ギャグを、
たのしむために、ほかの機能は最低限にしぼってある。
その自虐ギャグにしても、へたうまな直筆でかかれているので、
印象にのこるとはいえ、すんなりとはよめない。
なので、カレンダーとしてより、どちらかというと
目や頭をやすませてくれるカードとして役にたつはずだ。
6月のコメントには、
「島根の移住者は増えている。
このカレンダーの購入者は減っている」
とある。
まえはなかなか手にはいらないほど
貴重なカレンダーだったのに、
あまりにもたくさんつくりすぎたせいか、
島根では きょねんあたりから、
どこでも あたりまえにみかけるようになった。
もうそろそろ自虐ギャグというジャンルじたいが
あきられてきたのかもしれない。
しかし、このカレンダーのコンセプトである「負けるな!島根県」は、
これからますますおおきな意味をもつはずだ。
がんばろう、島根県。
まえにもこのブログでとりあげたことがあるように、
壁かけ用は、月がかわったときに、
紙をやぶいて つぎの月がみえるようにする。
カレンダーとしては よくあるやり方とはいえ、
たかいお金(1500円ぐらい)をだしてかったカレンダーなのに、
1ヶ月つかっただけで すてるのはもったいない。
ケチでビンボーなわたしは、
けっきょく壁かけ型を、カレンダーとしてつかえなかった。
それ以来、鷹の爪団のカレンダーは、卓上型だけにしている。
2018年版の自虐ネタには、
・民泊
・獣医学部
・国家戦略特区
など、2017年に話題となったできごとが
すかさずとりあげられている。
ながい目でみれば、この自虐カレンダーを将来ふりかえるだけで、
その時代にはなにがニュースだったたかをおもいだせる。
たとえば、
2017年版には「女子会」、
2016年版には「テニスの神様」(錦織圭選手)
ということばがそれぞれ登場している。
それ以前に「女子会」といっても、
なんのことかわからなかったはずだ。
自虐カレンダーにしたしんでいると、
「女子会」ということばがはやったのは、2016年だとわかる。
2018年版は、とくにまえの年とかわった点はない。
あいかわらず祝日に色がついてないので、
スケジュール管理にはふむきだ。
鷹の爪団のメンバーがつぶやいている自虐ギャグを、
たのしむために、ほかの機能は最低限にしぼってある。
その自虐ギャグにしても、へたうまな直筆でかかれているので、
印象にのこるとはいえ、すんなりとはよめない。
なので、カレンダーとしてより、どちらかというと
目や頭をやすませてくれるカードとして役にたつはずだ。
6月のコメントには、
「島根の移住者は増えている。
このカレンダーの購入者は減っている」
とある。
まえはなかなか手にはいらないほど
貴重なカレンダーだったのに、
あまりにもたくさんつくりすぎたせいか、
島根では きょねんあたりから、
どこでも あたりまえにみかけるようになった。
もうそろそろ自虐ギャグというジャンルじたいが
あきられてきたのかもしれない。
しかし、このカレンダーのコンセプトである「負けるな!島根県」は、
これからますますおおきな意味をもつはずだ。
がんばろう、島根県。
2017年10月16日
バスの運転手さんがつぶやく ひとりごとみたいなブログ
市内をはしるバスの、いちばんまえの席にすわったら、
運転手さんが 安全確認やら状況の説明をブツブツつぶやいている。
「信号まちで停車しています」
「バスからおりてすぐは、
うしろからくる車にお気をつけください」
「ゆっくりでいいですので、バスがとまってから
席をはなれてください」
など。
はじめはマイクでお客さんに説明しているのに、
マイクのスイッチがいれられてないのだとおもった。
でも、運転手さんのコメントをきいているうちに、
ひとりであれやこれやとつぶやきながら、
自分で運転のリズムをつくっているのだとわかってきた。
左折するときなど、
「横断者を確認しながら左折します」
「おいこしてくる車はいません」
と、指さし確認をしながら、
ものすごくこまかに安全な運転をこころがけているし、
お客さんがおりるときには、
じっさいにそのひとにはなしかけて、
お礼や注意をつたえている。
ウィンカーをつけずにまえをゆく車がまがったら、
「ウィンカーをだしてまがってほしかったです。あぶないです」
なんて感想や苦情をくちにする。
終点の車庫にはいろうと右折のウィンカーをだしても、
対向車がなかなかいれてくれないときは、
「みんないじわるですね」。
まえの車がとまり、パッシングで合図してくれたら、
「あ、ありがとうございます。感謝感激雨あられ」
なんていっていた。
ただこまかく安全確認をするだけでなく、
すごく人間味をかんじるつぶやきだ。
こんなふうにおしゃべりしながら運転していたら、
客観的かつ丁寧にはしれるだろう。
お客さんへの対応も マニュアルどおりの安全確認にくわえ、
必要なアドバイスを、ひとりひとりにはなしかけている。
ひとりでブツブツつぶやくのは、気もちわるい、
あるいは不気味、というひとも なかにはいるかもしれないけど、
これぐらいの自由は 運転手さんにみとめられてもいいとおもう。
おなじ日に バス停でバスをまっていたら、
60代とおもえる男性がわたしにはなしかけてきた。
「おさないころ火事にあいましてね」
なんのはなしかと耳をかたむけると、
そのままずっと自分のおいたちをはなしつづけられた。
しっかりした口調だし、身なりもととのったひとなので、
なにかわたしに関係のあるはなしかとおもっていたけど、
どうもそうではなく、
自分の身の上ばなしをこまかくかたっておられるようだ。
わたしにつれがいること、雨がふっていることなど、
状況をしっかり把握されており、
それらに配慮しながらも、ずっとはなしがつづく。
この方の場合は、バスの運転手さんとちがい、
ひとりごとではなく、わたしへのかたりかけなのだけど、
印象としては、いろいろはなすことで、
自分の気もちをおちつかせている。
極端にいいきってしまえば、ひとりごとといっしょだ。
いま、こんなふうなつぶやきが はやっているのだろうか。
かわったひとがいるものだとおもったけど、
このブログをにしたって、かんがえてみると、
わたしのひとりごとみたいなものだ。
だれかを説得したいわけではなく、
習慣だから、たのしいから、にすぎない。
ひとりでいつまでもブツブツつぶやくのは気もちわるい、
なんていわずに つきあってもらえたらうれしい。
運転手さんが 安全確認やら状況の説明をブツブツつぶやいている。
「信号まちで停車しています」
「バスからおりてすぐは、
うしろからくる車にお気をつけください」
「ゆっくりでいいですので、バスがとまってから
席をはなれてください」
など。
はじめはマイクでお客さんに説明しているのに、
マイクのスイッチがいれられてないのだとおもった。
でも、運転手さんのコメントをきいているうちに、
ひとりであれやこれやとつぶやきながら、
自分で運転のリズムをつくっているのだとわかってきた。
左折するときなど、
「横断者を確認しながら左折します」
「おいこしてくる車はいません」
と、指さし確認をしながら、
ものすごくこまかに安全な運転をこころがけているし、
お客さんがおりるときには、
じっさいにそのひとにはなしかけて、
お礼や注意をつたえている。
ウィンカーをつけずにまえをゆく車がまがったら、
「ウィンカーをだしてまがってほしかったです。あぶないです」
なんて感想や苦情をくちにする。
終点の車庫にはいろうと右折のウィンカーをだしても、
対向車がなかなかいれてくれないときは、
「みんないじわるですね」。
まえの車がとまり、パッシングで合図してくれたら、
「あ、ありがとうございます。感謝感激雨あられ」
なんていっていた。
ただこまかく安全確認をするだけでなく、
すごく人間味をかんじるつぶやきだ。
こんなふうにおしゃべりしながら運転していたら、
客観的かつ丁寧にはしれるだろう。
お客さんへの対応も マニュアルどおりの安全確認にくわえ、
必要なアドバイスを、ひとりひとりにはなしかけている。
ひとりでブツブツつぶやくのは、気もちわるい、
あるいは不気味、というひとも なかにはいるかもしれないけど、
これぐらいの自由は 運転手さんにみとめられてもいいとおもう。
おなじ日に バス停でバスをまっていたら、
60代とおもえる男性がわたしにはなしかけてきた。
「おさないころ火事にあいましてね」
なんのはなしかと耳をかたむけると、
そのままずっと自分のおいたちをはなしつづけられた。
しっかりした口調だし、身なりもととのったひとなので、
なにかわたしに関係のあるはなしかとおもっていたけど、
どうもそうではなく、
自分の身の上ばなしをこまかくかたっておられるようだ。
わたしにつれがいること、雨がふっていることなど、
状況をしっかり把握されており、
それらに配慮しながらも、ずっとはなしがつづく。
この方の場合は、バスの運転手さんとちがい、
ひとりごとではなく、わたしへのかたりかけなのだけど、
印象としては、いろいろはなすことで、
自分の気もちをおちつかせている。
極端にいいきってしまえば、ひとりごとといっしょだ。
いま、こんなふうなつぶやきが はやっているのだろうか。
かわったひとがいるものだとおもったけど、
このブログをにしたって、かんがえてみると、
わたしのひとりごとみたいなものだ。
だれかを説得したいわけではなく、
習慣だから、たのしいから、にすぎない。
ひとりでいつまでもブツブツつぶやくのは気もちわるい、
なんていわずに つきあってもらえたらうれしい。
2017年10月15日
ボジョレー=ヌーボーの配達に、ことしはなんの仮装をするか
デイリーポータルZでは、ことしもまた
「地味なハロウィン仮装」をするという。
http://dpz.cocolog-nifty.com/q/2017/09/1029-348e.html
ハロウィンというと、オバケやら悪魔やらのコスチュームをきて
おおさわぎするのがいまや定番となってきたけど、
デイリーポータルZは、何年かまえから
地味な仮装に限定したパーティーをひらいている。
パーティーへの参加をよびかける記事には、
これまでの仮装のいくつかが、写真で紹介されている。
いまさらはでな仮装なんてしたくないので、
デイリーポータルZのコンセプトにものすごく共感する。
わたしがつとめる職場は、お世話になった方々へ、
職員が仮装してボジョレー=ヌーボーをとどける儀式がつづいている。
職員ふたりがペアをくみ、お客さんのおうちを1軒いっけんまわって
ボジョレーをとどけ、お世話になった感謝の気もちをあらわす。
はじめは100均でかったサンタさんの服をきるぐらいだったのが、
だんだんエスカレートして、まるでハロウィンみたいになってきた。
どのコンビの仮装がいちばんすぐれているかを、
お客さんに審査してもらったり、理事長賞がおくられたりと、
手をぬけない行事であり、ことしはなにをきるのか なやまされる。
きょねんは、デイリーポータルZの地味な仮装をパクり、
わたしがクロネコヤマトの配達人に、
パートナーの女性職員は、
駅前でティッシュをくばるおねえさんに仮装した。
仮装といっても、地味なウィンドブレーカーに、
クロネコヤマトのマークである親子のネコを帽子と胸につけただけだ。
でも、地味な仮装、しかもボジョレーをとどけるのに、
いちばんふさわしいともいえる、宅急便の配達人は、
あたりまえすぎて かえって新鮮にうけとめられた。
地味な仮装というコンセプトの勝利である。
おかげで理事長から特別賞みたいなのをいただけた。
ことしはなにをきるのかを、このいちねんをとおしてなやんできた。
地味な仮装という路線はひきつぐとして、
利用者のおうちをまわったときに、それなりに必然性があり、
感心してもらえる服装はなにか。
お医者さんになってボジョレーをとどけても唐突だし、
おまわりさんもひとさわがせだ。
デイリーポータルZの記事には、これまでの仮装例があげられている。
・ペンギンの飼育員
・国会図書館でコピーを取ってくれる人
・宇宙ステーションで地球の子どもたちと交信中の宇宙飛行士
・2002年のファミリーマート店員
・天然酵母パンのお店の声が小さい店員
・元タレントの女性議員
・地域清掃ボランティア
それぞれ地味でおもしろそうだけど、
ボジョレーの配達としてはわかりにく。
ボジョレー=ヌーボーの解禁日は、11月の第3木曜日。
あと1ヶ月のあいだに、なんとか気のきいた仮装をさがしてみよう。
「地味なハロウィン仮装」をするという。
http://dpz.cocolog-nifty.com/q/2017/09/1029-348e.html
ハロウィンというと、オバケやら悪魔やらのコスチュームをきて
おおさわぎするのがいまや定番となってきたけど、
デイリーポータルZは、何年かまえから
地味な仮装に限定したパーティーをひらいている。
パーティーへの参加をよびかける記事には、
これまでの仮装のいくつかが、写真で紹介されている。
いまさらはでな仮装なんてしたくないので、
デイリーポータルZのコンセプトにものすごく共感する。
わたしがつとめる職場は、お世話になった方々へ、
職員が仮装してボジョレー=ヌーボーをとどける儀式がつづいている。
職員ふたりがペアをくみ、お客さんのおうちを1軒いっけんまわって
ボジョレーをとどけ、お世話になった感謝の気もちをあらわす。
はじめは100均でかったサンタさんの服をきるぐらいだったのが、
だんだんエスカレートして、まるでハロウィンみたいになってきた。
どのコンビの仮装がいちばんすぐれているかを、
お客さんに審査してもらったり、理事長賞がおくられたりと、
手をぬけない行事であり、ことしはなにをきるのか なやまされる。
きょねんは、デイリーポータルZの地味な仮装をパクり、
わたしがクロネコヤマトの配達人に、
パートナーの女性職員は、
駅前でティッシュをくばるおねえさんに仮装した。
仮装といっても、地味なウィンドブレーカーに、
クロネコヤマトのマークである親子のネコを帽子と胸につけただけだ。
でも、地味な仮装、しかもボジョレーをとどけるのに、
いちばんふさわしいともいえる、宅急便の配達人は、
あたりまえすぎて かえって新鮮にうけとめられた。
地味な仮装というコンセプトの勝利である。
おかげで理事長から特別賞みたいなのをいただけた。
ことしはなにをきるのかを、このいちねんをとおしてなやんできた。
地味な仮装という路線はひきつぐとして、
利用者のおうちをまわったときに、それなりに必然性があり、
感心してもらえる服装はなにか。
お医者さんになってボジョレーをとどけても唐突だし、
おまわりさんもひとさわがせだ。
デイリーポータルZの記事には、これまでの仮装例があげられている。
・ペンギンの飼育員
・国会図書館でコピーを取ってくれる人
・宇宙ステーションで地球の子どもたちと交信中の宇宙飛行士
・2002年のファミリーマート店員
・天然酵母パンのお店の声が小さい店員
・元タレントの女性議員
・地域清掃ボランティア
それぞれ地味でおもしろそうだけど、
ボジョレーの配達としてはわかりにく。
ボジョレー=ヌーボーの解禁日は、11月の第3木曜日。
あと1ヶ月のあいだに、なんとか気のきいた仮装をさがしてみよう。
2017年10月14日
ミッション・インポッシブルな手ぶらでの散歩
せんじつでかけた20キロの散歩を、わたしは手ぶらであるいた。
ジョギング用のウエストポーチにスマホとお札をいれただけ。
ズボンのポケットに小銭いれとハンカチ。
ジョギングでさえ、ペットボトルをもってはしるわたしなのに、
こうして完全な手ぶら、ポケットもスカスカの状態は
かなり大胆な「装備」だ。わたしとしては、きわめてめずらしい。
相棒の散歩の達人でさえ、ちいさなバックを肩にかけていた。
時速6キロのはやあるきだけに、手ぶらのありがたさがわかる。
いつもなら、着がえのTシャツ・天気によっては雨具、
お茶のはいったペットボトル・文庫本など、
デイパックになんだかんだとものをいれるところだ。
雨にぬれたり、汗ばんだ服を我慢するといった、
「リスク」をおかさなければ冒険はできない。
わたしは「必要最小限の装備」というイメージにあこがれている。
荷物を山ほどもって現地にはいる古典的な冒険旅行も
それはそれで興味をひかれるけれど、
ギリギリの荷物しかもたない軽装スタイルもまたすばらしい。
まえによんだ『奥アジア冒険5600キロ』は、
バングラディシュからウルムチまで、
ふたりのイギリス人が自転車でかけぬけるはなしだ。
自炊道具はもたない。ひとがすむ集落までなんとかたどりついて、
たべさせてもらうしかない。
いかなる食糧も携帯しないというのが基本方針で、
パンやビスケットさえもたない。
水を1リットルが、自分たちにゆるしている「食糧」のすべてだ。
もしたべものをひとからもらったら、
それをぜんぶたべてから出発するという徹底ぶり。
この旅行にもとめられるのはスピードだ。
たべものにありつくには、まえにすすむしかない。
ふたりは、工具に穴をあけてまで、軽量化につとめ、
最低限の装備によってウルムチまでたどりつく。
わたしは、手ぶらで松江市内をあるきまわり、
気分だけは『奥アジア冒険5600キロ』のつもりだった。
水もカサも、アメちゃんさえもたない。
なにももたないいさぎよさに、自分でよっていたかもしれない。
とちゅうでくちにしたのは、地ビール館でのビールだけだ。
インポッシブル、とまではいわないけど、
わたしにとってはかなりハードルのたかいミッションをぶじにおえた。
ジョギング用のウエストポーチにスマホとお札をいれただけ。
ズボンのポケットに小銭いれとハンカチ。
ジョギングでさえ、ペットボトルをもってはしるわたしなのに、
こうして完全な手ぶら、ポケットもスカスカの状態は
かなり大胆な「装備」だ。わたしとしては、きわめてめずらしい。
相棒の散歩の達人でさえ、ちいさなバックを肩にかけていた。
時速6キロのはやあるきだけに、手ぶらのありがたさがわかる。
いつもなら、着がえのTシャツ・天気によっては雨具、
お茶のはいったペットボトル・文庫本など、
デイパックになんだかんだとものをいれるところだ。
雨にぬれたり、汗ばんだ服を我慢するといった、
「リスク」をおかさなければ冒険はできない。
わたしは「必要最小限の装備」というイメージにあこがれている。
荷物を山ほどもって現地にはいる古典的な冒険旅行も
それはそれで興味をひかれるけれど、
ギリギリの荷物しかもたない軽装スタイルもまたすばらしい。
まえによんだ『奥アジア冒険5600キロ』は、
バングラディシュからウルムチまで、
ふたりのイギリス人が自転車でかけぬけるはなしだ。
自炊道具はもたない。ひとがすむ集落までなんとかたどりついて、
たべさせてもらうしかない。
いかなる食糧も携帯しないというのが基本方針で、
パンやビスケットさえもたない。
水を1リットルが、自分たちにゆるしている「食糧」のすべてだ。
もしたべものをひとからもらったら、
それをぜんぶたべてから出発するという徹底ぶり。
この旅行にもとめられるのはスピードだ。
たべものにありつくには、まえにすすむしかない。
ふたりは、工具に穴をあけてまで、軽量化につとめ、
最低限の装備によってウルムチまでたどりつく。
わたしは、手ぶらで松江市内をあるきまわり、
気分だけは『奥アジア冒険5600キロ』のつもりだった。
水もカサも、アメちゃんさえもたない。
なにももたないいさぎよさに、自分でよっていたかもしれない。
とちゅうでくちにしたのは、地ビール館でのビールだけだ。
インポッシブル、とまではいわないけど、
わたしにとってはかなりハードルのたかいミッションをぶじにおえた。
2017年10月13日
来年つかう手帳は?
来年につかう手帳をきめかねている。
なんねんかつづけてほぼ日カズンをつかってきたけど、
このごろスカスカのページがおおくなってきた。
データベースのソフト、ファイルメーカーでも日記、
というか日誌(事実だけの記録)をつけており、
そのすみわけがうまくいってない。
ほぼ日手帳がぜったいにないとこまらないかというと、
あんがいなくても平気にすごせる気がする。
2015年には、ほぼ日手帳のオリジナルと、
1週間を一覧できる週間手帳をいっしょにつかおうとしたけど、
とちゅうでなげだして、カズンにもどった。
このときのオリジナルを まだとってあるので、
裏ワザとして、再利用というか、もういちどつかうチャンスがある。
1月1日が木曜日ではじまる年なら、
すんなりその年の手帳としてつかえるはずだ。
日づけをいれると曜日をおしえてくれるソフトによれば、
つぎに元旦が木曜日の年は、2026年らしい。
さすがに8年もまつのはいやなので、
2015年用のオリジナルは、このままお蔵いりにしたほうがよさそうだ。
わたしが手帳にもとめる機能は、
・その日になにをしたかの記録
・トレーニングの記録
・みた映画・夕ごはんのメニュー・気温などの記録
・スケジュール管理
であり、なるべくこまかな記録をのこしたいし、
スケジュール管理は週単位のほうがつかいやすいので、
これまでどおり、カズンをえらんだほうがまちがいない。
カズンへのかきこみがへっているのは、
つづけていることへのみかえりというか、
手ごたえがないからだ。
記録をつけているからといって、
すぐになにかの効果がでるわけではない。
記録をどういかすかは、わたしのつかい方にかかっている。
きょねんとおととしのカズンをひっぱりだして、
10月10日前後をよみかえす。
よんでいる本、ねるまえにのむ酒の種類と量。
およいだ距離とタイムなど、よみかえしてみると
それなりに興味ぶかい。
ほんの2年まえなのに、水泳のタイムはいまよりもずっといい。
ピピはあいかわらず、というか、2年まえでも
ペッドのうえでおしっこをしている。
かわったことと、かわらないことが よくわかる。
カズンなければ、これほどかきこまなかっただろう。
来年もまた、カズンをつづける気になった。
なんねんかつづけてほぼ日カズンをつかってきたけど、
このごろスカスカのページがおおくなってきた。
データベースのソフト、ファイルメーカーでも日記、
というか日誌(事実だけの記録)をつけており、
そのすみわけがうまくいってない。
ほぼ日手帳がぜったいにないとこまらないかというと、
あんがいなくても平気にすごせる気がする。
2015年には、ほぼ日手帳のオリジナルと、
1週間を一覧できる週間手帳をいっしょにつかおうとしたけど、
とちゅうでなげだして、カズンにもどった。
このときのオリジナルを まだとってあるので、
裏ワザとして、再利用というか、もういちどつかうチャンスがある。
1月1日が木曜日ではじまる年なら、
すんなりその年の手帳としてつかえるはずだ。
日づけをいれると曜日をおしえてくれるソフトによれば、
つぎに元旦が木曜日の年は、2026年らしい。
さすがに8年もまつのはいやなので、
2015年用のオリジナルは、このままお蔵いりにしたほうがよさそうだ。
わたしが手帳にもとめる機能は、
・その日になにをしたかの記録
・トレーニングの記録
・みた映画・夕ごはんのメニュー・気温などの記録
・スケジュール管理
であり、なるべくこまかな記録をのこしたいし、
スケジュール管理は週単位のほうがつかいやすいので、
これまでどおり、カズンをえらんだほうがまちがいない。
カズンへのかきこみがへっているのは、
つづけていることへのみかえりというか、
手ごたえがないからだ。
記録をつけているからといって、
すぐになにかの効果がでるわけではない。
記録をどういかすかは、わたしのつかい方にかかっている。
きょねんとおととしのカズンをひっぱりだして、
10月10日前後をよみかえす。
よんでいる本、ねるまえにのむ酒の種類と量。
およいだ距離とタイムなど、よみかえしてみると
それなりに興味ぶかい。
ほんの2年まえなのに、水泳のタイムはいまよりもずっといい。
ピピはあいかわらず、というか、2年まえでも
ペッドのうえでおしっこをしている。
かわったことと、かわらないことが よくわかる。
カズンなければ、これほどかきこまなかっただろう。
来年もまた、カズンをつづける気になった。
2017年10月12日
質問されるのが苦手
林雄司さんのブログに、質問形式の人が苦手とあった。
http://yaginome.jp/?p=1725
わたしもまた、質問形式、というよりも、質問じたいが苦手だ。
「あなたの夢は?」
「すきなたべものは?」
あらかじめ、質問を想定し、
こたえ方をかんがえておかないと、とっさにはなせない。
自分では、ひとにいろいろ質問するくせに、
自分にたずねられると、とたんにくるしくなる。
就活に、いちばんよわいタイプだ。
「質問はうけつけません」と、いちどいってみたい。
「はい」か「いいえ」でこたえられる質問は、
会話がひろがらないので あまりよくないらしい。
わたしと配偶者の会話はまさしくそれで、
わたしがなにかをたずねても、
みじかいこたえだけがかえってきて、それでおわり。
ほかのひとなら、気をきかせて
ふくらませてくれそうな場面でも、配偶者はそれほどあまくない。
配偶者をあいてに、じょうずな質問ができるようになれば、
ほかの場面でも役にたちそうだ。
家庭の円満にもいいだろうし。
でも、さほど関心のないあいてに
(といってしまうと、さしさわりがあるけど)、
いまやそれほどききだしたいこたえはなく、
沈黙をやぶるだけの質問でしかないので、
けっきょくは「はい」か「いいえ」
(じっさいには、もっと乱暴)の返事だけがかえってくる。
ますます気もちがなえて、いい質問をおもいつけない悪循環だ。
ほかにきらいなのは、行列にならぶことと おもい荷物をもつこと。
「きらいなことは?」という質問だけにはすぐにこたえられる。
林さんの記事は、質問形式をさらに進化させた
「なんで私が怒ってるかわかる?」
がでてくる。
こんなおそろしい質問をくちにされたら、
どうこたえたところで はじめから勝負はついている。
こんな質問は、女性しかできない。
男がやれば ものすごく反感をかいそうだけど、
女性がくちにしたら、ただひたすらおそろしい。
「はい」か「いいえ」ではこたえられないという意味からは、
いい質問なのだろうけど、いったものがちなので ずるい。
はるかむかしに、わたしもいわれたことがあるような気がする。
どうこたえてきりぬけたのか、
あるいはさらに地雷をふんだのか、おぼえていない。
http://yaginome.jp/?p=1725
僕 「そのTシャツいいじゃん。どこで買ったの?」
質問形式の人 「どこだと思う?」
僕 「?」
わたしもまた、質問形式、というよりも、質問じたいが苦手だ。
「あなたの夢は?」
「すきなたべものは?」
あらかじめ、質問を想定し、
こたえ方をかんがえておかないと、とっさにはなせない。
自分では、ひとにいろいろ質問するくせに、
自分にたずねられると、とたんにくるしくなる。
就活に、いちばんよわいタイプだ。
「質問はうけつけません」と、いちどいってみたい。
「はい」か「いいえ」でこたえられる質問は、
会話がひろがらないので あまりよくないらしい。
わたしと配偶者の会話はまさしくそれで、
わたしがなにかをたずねても、
みじかいこたえだけがかえってきて、それでおわり。
ほかのひとなら、気をきかせて
ふくらませてくれそうな場面でも、配偶者はそれほどあまくない。
配偶者をあいてに、じょうずな質問ができるようになれば、
ほかの場面でも役にたちそうだ。
家庭の円満にもいいだろうし。
でも、さほど関心のないあいてに
(といってしまうと、さしさわりがあるけど)、
いまやそれほどききだしたいこたえはなく、
沈黙をやぶるだけの質問でしかないので、
けっきょくは「はい」か「いいえ」
(じっさいには、もっと乱暴)の返事だけがかえってくる。
ますます気もちがなえて、いい質問をおもいつけない悪循環だ。
ほかにきらいなのは、行列にならぶことと おもい荷物をもつこと。
「きらいなことは?」という質問だけにはすぐにこたえられる。
林さんの記事は、質問形式をさらに進化させた
「なんで私が怒ってるかわかる?」
がでてくる。
こんなおそろしい質問をくちにされたら、
どうこたえたところで はじめから勝負はついている。
こんな質問は、女性しかできない。
男がやれば ものすごく反感をかいそうだけど、
女性がくちにしたら、ただひたすらおそろしい。
「はい」か「いいえ」ではこたえられないという意味からは、
いい質問なのだろうけど、いったものがちなので ずるい。
はるかむかしに、わたしもいわれたことがあるような気がする。
どうこたえてきりぬけたのか、
あるいはさらに地雷をふんだのか、おぼえていない。