しりあいの家でコーヒーをいただいたら、
お茶うけとして ほしたいちぢくをだされた。
くちにすると、かなりあまい。
モロッコを旅行ちゅうによくたべた
ナツメヤシをおもいだした。
中学か高校の授業で、オアシスや、サハラ砂漠の遊牧民は
ナツメヤシの実をたべる、とならった。
おしえている先生にしても、
ナツメヤシの実がどんなものかしらないだろうに、
「北アフリカでは・・・」なんて
さもみたことがあるように授業ではなすのは、
たとえ仕事とはいえ うしろめたかったのではないか。
わたしは はじめてナツメヤシをたべたとき、
これが教科書にのっていたナツメヤシか、と
わりかし感慨ぶかかった。
モロッコでのナツメヤシは、主食としてではなく、
デザートのくだものとして、あるいは
手ごろなおやつとして、身ぢかな存在だった。
オアシスも、モロッコではじめてみた。
乾燥しきった景色のなかをバスがはしり、
やがて緑の点が砂漠のなかにあらわれる。
オアシスだ。
ことばとして「オアシス」をきいたことがあったけど、
じっさいにオアシスにやってくると、
植物のゆたかさにおどろいた。
水がなければ草木はまったくはえない。
水さえあれば、こんなにもほかの地域とちがう景色になる。
集落とよぶのがふさわしい、ちいさなオアシスだっただけに、
水の存在がどれだけ決定的にはたらいて、
このゆたかな緑の拠点をうみだしているのかがよくわかった。
乾燥地帯での移動は、こうしたオアシスがたよりだ。
海のなかにうかぶ、ちいさな島のようにみえる。
まわりはぜんぶ茶色なのに、オアシスだけが緑にあふれている。
ナツメヤシにしても、オアシスにしても、
社会科の授業では、ことばをおぼえただけで、
じっさいはどんなものなのか、まるでイメージできなかった。
現地にいって、じっさいに体験するしかないのに、
テストの回答にはもっともらしく「ナツメヤシ」なんてかくのだから、
社会科の授業って、なんだかへんな勉強だ。