野宿伝道師であるかとうちあきさんが、
『イージーライダー』や『スタンド・バイ・ミー』を
「野宿映画」としてとらえていると、
すこしまえのブログで紹介した。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/453471813.html?1512051499
録画で『愛と哀しみの果て』をみていたら、
この作品もまた、「野宿映画」の王道をいっているのに気づいた。
かんたんにおさらいしておくと、
『愛と哀しみの果て』は、
第一次世界大戦前後のケニアが舞台で、
アフリカの自然のうつくしさだとか、
ヨーロッパ列強の植民地施策の具体的な例とか、
いろんなみかたができる。
わたしがすきなのは、レッドフォードとメリル=ストリープが、
サファリをしながら野宿をする場面だ。
野宿というよりも、ここは野営とよびたい。
車に山のようなキャンプ用品をつみ、
野営地につくと、イスとテーブルをならべ、
食事はもちろん同行するコックがつくってくれるし、
テーブルのうえにはワインやデザートのくだものがならぶ。
アフリカといえども、ケニアの高地はすずしいようで、
ひんやりと、かわいた空気のなかでするたき火は、
ひえはじめたからだを、ここちよくあたためてくれる。
こうしたゴージャスな野宿風景を、
かとうちあきさんが野宿とのであいとしていたら、
彼女の野宿観に、どんな影響をあたえただろう。
おそらく日本の野宿史は、おおきくぬりかえらるのではないか。
野宿というと、必要最低限の物資で、
禁欲的な一夜をすごす行為を想像しがちだけど、
『愛と哀しみの果て』での野宿風景は、
なんの気おいもかんじられない。
精神的にも金銭的にも貧乏なわたしは、
はげしいカルチャーショックをうけた。
なにしろ、100年まえのアフリカに、
母国でのスタイルそのままの夕ごはんをもちこんで、
食後のデザートには、優雅にオレンジの皮をむきながら
ゆたかな会話をたのしむのだ。
蓄音機まではこびだし、モーツァルトだってながす。
彼らにとってそれが野営であり、
疑問の余地のない、あたりまえな一夜のすごし方だ。
かとうさんが提唱する
できるだけものにたよらない野宿は、
これはこれでうつくしいけれど、
その対極にあるレッドフォードたちの野営もまた、
いちどは体験してみたい。
コンビニでかったつまみや発泡酒ではなく、
バケツ(ワインクーラー)でワインをひやし、
手をぬかないフルコースをサファリで味わう。
家ですごす夜を、そのままサファリにもちこむ。
最近の傾向として、広々としたテントや、
家にあるような電気製品にたよった
快適なキャンプが人気をあつめているけど、
『愛と哀しみの果て』の野営は それとは微妙にちがう。
レッドフォードたちは、自然をいじくろうとはせず、
アフリカのきびしい環境を、そのままうけいれていた。
日本ではやりつつあるキャンプは、
自分の部屋でねていないだけで、
精神は、家でのくらしをそのままひきずっている。
ゴージャスにすごそうとするところが
かえって貧乏にうつる。
2017年11月30日
2017年11月29日
『鳩の撃退法』(佐藤正午・小学館)
『鳩の撃退法』(佐藤正午)をよみだしたらとまらなくなった。
というのはちょっとおおげさだけど、
すごくおもしろいのはたしかだ。
まだ上巻の2/3くらいをうろついており、
本来なら、紹介するのは はやすぎる。
でも、あまりにもケタはずれの小説なので、
さいごまでよみおえたとしても、ストーリーの紹介や、
気のきいた感想なんて わたしの手にあまる。
よんでるとちゅうでの紹介でも、
ぜんぜん問題ないとひらきなおった。
ここでかきたいのは、
キンドル版がでていてたすかった、というはなしだ。
『鳩の撃退法』を、はじめは図書館からかりてよみはじめた。
うかつなことに、しばらく「つんどく」してから手にしたので、
返却日までには とてもよみおえられそうにない。
図書館に延長をねがいでると、予約が2件はいっており、
はやくても1ヶ月はまたなくてはならない。
図書館の線はあきらめた。
できるだけはやく、いますぐにでも、 小説の世界にもどりたい。
どうしたものか。
すこしかんがえてみると、
わたしには3つの選択肢がある。
・本屋さんでかう
・アマゾンに注文する
・キンドル版をかう
本屋さんに、『鳩の撃退法』がおいてあるとはかぎらないし、
アマゾンに注文しても、すぐにはよめない。
キンドル版をかうしかなかった。
キンドル版があってよかった。
キンドル版は、80%オフの1118円でかえる。
本だと上下巻とも1998円で、文庫本にはまだなってない。
キンドル版がでてなかったら、
どれだけ味けない何日かになっていただろう。
いまは、ひるま職場にいるときから、
お風呂とねるまえの読書をたのしみにしている。
生活、というか意識が『鳩の撃退法』を中心にまわっており、
これだけのよろこびをあたえてくれた本はひさしぶりだ。
こんなぶっとんだ本はよんだことがない。
樋口毅宏さんの『さらば雑司ヶ谷』を、
もっとやすっぽいハードボイルドにしたかんじ。
「やすっぽい」は、けなしているのではなく、
佐藤正午さんでなければかけない魅力であり、
これまでよんだことのないタイプのおもしろさだ。
むだぐちばかりたたいているようで、
やがて発言のすべてがからんでくる。
なにげなくかたられているセリフの行間に、
こんなにいろんな意味がかくされているなんて。
ひとが口にすることばは、
ひとつひとつの意味をきっちりおさえていくと、
たくさんの情報がうかびあがってくる。
『鳩の撃退法』は、計算しつくしたものがたりの構成と、
いっけんなんのへんてつもない会話のつみかさねにより、
読者をいろんな場所へひっぱっていく。
この本のおかげで、わたしはしあわせな数日を手にいれた。
キンドル版でも、紙の本でも、
ぜひ手にとるようおすすめしたい。
もうすぐ文庫化もされるそうだけど、
わたしはとてもそれまで まてなかった。
というのはちょっとおおげさだけど、
すごくおもしろいのはたしかだ。
まだ上巻の2/3くらいをうろついており、
本来なら、紹介するのは はやすぎる。
でも、あまりにもケタはずれの小説なので、
さいごまでよみおえたとしても、ストーリーの紹介や、
気のきいた感想なんて わたしの手にあまる。
よんでるとちゅうでの紹介でも、
ぜんぜん問題ないとひらきなおった。
ここでかきたいのは、
キンドル版がでていてたすかった、というはなしだ。
『鳩の撃退法』を、はじめは図書館からかりてよみはじめた。
うかつなことに、しばらく「つんどく」してから手にしたので、
返却日までには とてもよみおえられそうにない。
図書館に延長をねがいでると、予約が2件はいっており、
はやくても1ヶ月はまたなくてはならない。
図書館の線はあきらめた。
できるだけはやく、いますぐにでも、 小説の世界にもどりたい。
どうしたものか。
すこしかんがえてみると、
わたしには3つの選択肢がある。
・本屋さんでかう
・アマゾンに注文する
・キンドル版をかう
本屋さんに、『鳩の撃退法』がおいてあるとはかぎらないし、
アマゾンに注文しても、すぐにはよめない。
キンドル版をかうしかなかった。
キンドル版があってよかった。
キンドル版は、80%オフの1118円でかえる。
本だと上下巻とも1998円で、文庫本にはまだなってない。
キンドル版がでてなかったら、
どれだけ味けない何日かになっていただろう。
いまは、ひるま職場にいるときから、
お風呂とねるまえの読書をたのしみにしている。
生活、というか意識が『鳩の撃退法』を中心にまわっており、
これだけのよろこびをあたえてくれた本はひさしぶりだ。
こんなぶっとんだ本はよんだことがない。
樋口毅宏さんの『さらば雑司ヶ谷』を、
もっとやすっぽいハードボイルドにしたかんじ。
「やすっぽい」は、けなしているのではなく、
佐藤正午さんでなければかけない魅力であり、
これまでよんだことのないタイプのおもしろさだ。
むだぐちばかりたたいているようで、
やがて発言のすべてがからんでくる。
なにげなくかたられているセリフの行間に、
こんなにいろんな意味がかくされているなんて。
ひとが口にすることばは、
ひとつひとつの意味をきっちりおさえていくと、
たくさんの情報がうかびあがってくる。
『鳩の撃退法』は、計算しつくしたものがたりの構成と、
いっけんなんのへんてつもない会話のつみかさねにより、
読者をいろんな場所へひっぱっていく。
この本のおかげで、わたしはしあわせな数日を手にいれた。
キンドル版でも、紙の本でも、
ぜひ手にとるようおすすめしたい。
もうすぐ文庫化もされるそうだけど、
わたしはとてもそれまで まてなかった。
2017年11月28日
ナルムなのか、ナムルなのか
夕ごはんになにをつくったのか、日記につけようとして、
モヤシとピーマンをごま油であえたのを、
どうよぶのかわからなくなった。
ナムルとナルム、どっちだったかな。
いつもはためらいなくかいているのに、
きのうはなんとなくひっかかり、
そうなると、どちらもほんとうらしくおもえる。
日本語ではないのだから、
おぼえようとしてもひっかかりがない。
ネットをみると、どっちでもいい、とある。
ずいぶんやわらかいナルムだかナムルだかのあつかいに
わたしはいいかんじをうける。
ものごと、これぐらいおおきくかまえなければ、
たいした仕事はできないのだ。
でも、よくかんがえてみると、
だれが「どっちでもいい」ときめたのだろう。
そうした判断を、だれが、どんなしくみで
くだしていくのかが気になってくる。
どっちでもいいけど。
原理主義的なひとからみれば、
モヤシとピーマンをゆでても、
それはナルム(あるいはナムル)ではなく、
ただの温野菜かもしれない。
あるいは、野菜をゆでて、ごま油をかければ、
ぜんぶナルムかもしれない。
ものごとの定義や名前は、
どのていどかちっとしていたほうがいいのか
むつかしいところだ。
断固ナルム(ナムル)派と、
どちらかというとナルム(ナムル)派と、
どっちでもいい派。
3つの派閥のうち、つきあいやすいのは、どのひとか。
ことばのみだれについて、批判する記事をときどき目にする。
それぞれの批判には、それなりの根拠があるのだろう。
ひとつの立場として、どこまでもゆるいとらえかたがあり
わたしはそっちのほうがすきだ。
「的を射る」でも「的を得る」でも
あと何年かたてば、両方OKになるかもしれない。
アボカドはアボガドではないと、
いまはきびしくとりしまわれているけど、
そのうち、「どっちでもいい」にかわるだろう。
「どうでもいい」「どっちでもいい」が、
わたしの基本的な方針となっている。
モヤシとピーマンをごま油であえたのを、
どうよぶのかわからなくなった。
ナムルとナルム、どっちだったかな。
いつもはためらいなくかいているのに、
きのうはなんとなくひっかかり、
そうなると、どちらもほんとうらしくおもえる。
日本語ではないのだから、
おぼえようとしてもひっかかりがない。
ネットをみると、どっちでもいい、とある。
ずいぶんやわらかいナルムだかナムルだかのあつかいに
わたしはいいかんじをうける。
ものごと、これぐらいおおきくかまえなければ、
たいした仕事はできないのだ。
でも、よくかんがえてみると、
だれが「どっちでもいい」ときめたのだろう。
そうした判断を、だれが、どんなしくみで
くだしていくのかが気になってくる。
どっちでもいいけど。
原理主義的なひとからみれば、
モヤシとピーマンをゆでても、
それはナルム(あるいはナムル)ではなく、
ただの温野菜かもしれない。
あるいは、野菜をゆでて、ごま油をかければ、
ぜんぶナルムかもしれない。
ものごとの定義や名前は、
どのていどかちっとしていたほうがいいのか
むつかしいところだ。
断固ナルム(ナムル)派と、
どちらかというとナルム(ナムル)派と、
どっちでもいい派。
3つの派閥のうち、つきあいやすいのは、どのひとか。
ことばのみだれについて、批判する記事をときどき目にする。
それぞれの批判には、それなりの根拠があるのだろう。
ひとつの立場として、どこまでもゆるいとらえかたがあり
わたしはそっちのほうがすきだ。
「的を射る」でも「的を得る」でも
あと何年かたてば、両方OKになるかもしれない。
アボカドはアボガドではないと、
いまはきびしくとりしまわれているけど、
そのうち、「どっちでもいい」にかわるだろう。
「どうでもいい」「どっちでもいい」が、
わたしの基本的な方針となっている。
2017年11月27日
おもおもしくはしるようになったフィットは、あんがいブレーキの故障かも
わたしの愛車は中古でかった初期型のフィット(ホンダ)で、
2002年につくられているから、もう15年もまえの車だ。
ちいさな車なのに、荷物をたくさんつめるし、
なによりもキビキビしたはしりが気にいっている。
愛している、といってもいいぐらいだ。
先週のやすみの日に、フィットのタイヤを冬用にかえた。
そのあとガソリンスタンドで、空気圧の調整をすると、
右の前タイヤが熱をもっている。
ほかのタイヤはかわりないのに、
ひとつだけがあついのはおかしいので、
いつもお世話になっているお店に連絡した。
どうも、ブレーキがかかった状態ではしっているようだ。
わりによくある故障らしく、わたしがはなす症状をきいて、
すぐに熱の原因を推測され、工場へもってかえられた。
つぎの日の朝、修理会社のかたが、
修理をすませたフィットをもってこられた。
故障の原因について、部品の名前をあげてくわしく説明されたけど、
専門用語がおおく、わたしの理解をこえている。
ブレーキがかかった状態、ということばだけわかった。
故障があっても、とくに異常をかんじなかったけど、
ながいあいだフィットにつらいおもいをさせていたようだ。
タイヤを交換して空気圧をしらべなければ、
熱をもったタイヤに、わたしはぜったい気づかなかっただろう。
なおったフィットにのってみると、すごくかるい。
そういえば、修理にだすまえのフィットは、
まるで大型車を運転しているみたいだったのをおもいだした。
コンパクトカーらしからぬどっしり感を、
わたしはあんがい気にいっており、
それが異常だとはぜんぜんおもわなかった。
車の性能としておもおもしくはしっていたのではなく、
ブレーキがかかった状態だから、おもくかんじてあたりまえだ。
なんのやくにもたたないわたしのブログだけど、
今回は教訓めいた情報をおつたえできる。
もし、あなたの運転するフィットが、
大型車みたいな重厚なはしりをするようにかんじたら、
それは、車の熟成がすすんだわけではなく、
たんにブレーキがわるさをしているのかもしれない。
のっそりしたはしりに満足するのではなく、
タイヤが熱をもっていないかどうかしらべ、
もしそうなら修理工場に相談するようおすすめしたい。
1300ccのフィットは、大型車に進化したりしない。
故障によるおもいはしりは、
あんがいわるくないのりごこちをもたらすけど、
修理をおえた車とくらべてみたら、
どれだけブレーキをかけていたのかわかる。
キビキビはしるようになったフィットと再会し、
いまさらながら フィット本来のはしりを たのしんでいる。
2002年につくられているから、もう15年もまえの車だ。
ちいさな車なのに、荷物をたくさんつめるし、
なによりもキビキビしたはしりが気にいっている。
愛している、といってもいいぐらいだ。
先週のやすみの日に、フィットのタイヤを冬用にかえた。
そのあとガソリンスタンドで、空気圧の調整をすると、
右の前タイヤが熱をもっている。
ほかのタイヤはかわりないのに、
ひとつだけがあついのはおかしいので、
いつもお世話になっているお店に連絡した。
どうも、ブレーキがかかった状態ではしっているようだ。
わりによくある故障らしく、わたしがはなす症状をきいて、
すぐに熱の原因を推測され、工場へもってかえられた。
つぎの日の朝、修理会社のかたが、
修理をすませたフィットをもってこられた。
故障の原因について、部品の名前をあげてくわしく説明されたけど、
専門用語がおおく、わたしの理解をこえている。
ブレーキがかかった状態、ということばだけわかった。
故障があっても、とくに異常をかんじなかったけど、
ながいあいだフィットにつらいおもいをさせていたようだ。
タイヤを交換して空気圧をしらべなければ、
熱をもったタイヤに、わたしはぜったい気づかなかっただろう。
なおったフィットにのってみると、すごくかるい。
そういえば、修理にだすまえのフィットは、
まるで大型車を運転しているみたいだったのをおもいだした。
コンパクトカーらしからぬどっしり感を、
わたしはあんがい気にいっており、
それが異常だとはぜんぜんおもわなかった。
車の性能としておもおもしくはしっていたのではなく、
ブレーキがかかった状態だから、おもくかんじてあたりまえだ。
なんのやくにもたたないわたしのブログだけど、
今回は教訓めいた情報をおつたえできる。
もし、あなたの運転するフィットが、
大型車みたいな重厚なはしりをするようにかんじたら、
それは、車の熟成がすすんだわけではなく、
たんにブレーキがわるさをしているのかもしれない。
のっそりしたはしりに満足するのではなく、
タイヤが熱をもっていないかどうかしらべ、
もしそうなら修理工場に相談するようおすすめしたい。
1300ccのフィットは、大型車に進化したりしない。
故障によるおもいはしりは、
あんがいわるくないのりごこちをもたらすけど、
修理をおえた車とくらべてみたら、
どれだけブレーキをかけていたのかわかる。
キビキビはしるようになったフィットと再会し、
いまさらながら フィット本来のはしりを たのしんでいる。
2017年11月26日
浦和レッズのACL優勝をたたえる
ACL(アジアチャンピオンズリーグ)の決勝第2戦で、
浦和レッズがサウジアラビアのアルヒラルに1-0と
勝利をおさめている。
2試合の合計は2-1となり、浦和がアジアチャンピオンの座についた。
浦和のACL優勝は、ちょうど10年まえの2007年にさかのぼる。
まだかけだしのチンピラみたいなサッカーファンだったわたしは、
ACLなんてまったくしらなかったし、その結果として
クラブワールドカップに出場できる権利をえたことも
もちろん記憶にない。
10年のあいだに、いろいろあった。
浦和にとっても、わたしにとっても。
クラブワールドカップは、
タイトルに「クラブ」がつくことからもわかるように、
世界一のクラブをきめようという大会だ
(「ワールドカップ」は、世界一の国をきめようとしている)。
ヨーロッパと南米のクラブに有利な日程のため、
世界一をきめるに大会としては不公平さがめだつ。
ガチンコの大会というよりも、それぞれの地域で
めでたくチャンピオンになったおいわいに、
おまつりをひらいて はでにたのしむ大会、
とわたしは解釈している。
2007年のクラブワールドカップで、
浦和はACミランと対戦し、0-1でやぶれた。
0-1というと、最相得点の接戦みたいだけど、
内容は圧倒的にミランだったように記憶している。
試合がおわったあとで、浦和のある選手が、
ミランのカカ選手にユニフォームの交換をもうしでて、
「あなたのファンです」といったそうだ。
志のひくさをなげくよりも、
当時の日本にとって、イタリアリーグ(セリエA)は
雲のうえのような存在であり、
名目上は浦和がアジアのチャンピオンといえども、
とても対等な関係とはいえなかった。
浦和の選手が、カカにあこがれていたのもすんなり納得できる。
両クラブのたち位置には、圧倒的ともいえる差があった。
いまでは、おおくの日本人選手がヨーロッパでプレーするようになり、
有名なクラブも、けしてはるかうえの存在ではなくなった。
ドイツ・イタリア・スペイン・フランス・イングランドで、
日本の選手が外国のスーパースターとおなじピッチにたち、
日常的な風景として定期的に試合をくんでいる。
とはいえ、日本のおおくの選手は、
世界レベルでの試合を経験する機会にとぼしく、
それが日本と世界との壁をあつくしているひとつの要因だ。
クラブワールドカップへの出場により、
浦和の選手たちが、世界とたたかうよい機会となるようねがっている。
浦和のACL優勝をたたえるとともに、
クラブワールドカップでの活躍に期待したい。
浦和レッズがサウジアラビアのアルヒラルに1-0と
勝利をおさめている。
2試合の合計は2-1となり、浦和がアジアチャンピオンの座についた。
浦和のACL優勝は、ちょうど10年まえの2007年にさかのぼる。
まだかけだしのチンピラみたいなサッカーファンだったわたしは、
ACLなんてまったくしらなかったし、その結果として
クラブワールドカップに出場できる権利をえたことも
もちろん記憶にない。
10年のあいだに、いろいろあった。
浦和にとっても、わたしにとっても。
クラブワールドカップは、
タイトルに「クラブ」がつくことからもわかるように、
世界一のクラブをきめようという大会だ
(「ワールドカップ」は、世界一の国をきめようとしている)。
ヨーロッパと南米のクラブに有利な日程のため、
世界一をきめるに大会としては不公平さがめだつ。
ガチンコの大会というよりも、それぞれの地域で
めでたくチャンピオンになったおいわいに、
おまつりをひらいて はでにたのしむ大会、
とわたしは解釈している。
2007年のクラブワールドカップで、
浦和はACミランと対戦し、0-1でやぶれた。
0-1というと、最相得点の接戦みたいだけど、
内容は圧倒的にミランだったように記憶している。
試合がおわったあとで、浦和のある選手が、
ミランのカカ選手にユニフォームの交換をもうしでて、
「あなたのファンです」といったそうだ。
志のひくさをなげくよりも、
当時の日本にとって、イタリアリーグ(セリエA)は
雲のうえのような存在であり、
名目上は浦和がアジアのチャンピオンといえども、
とても対等な関係とはいえなかった。
浦和の選手が、カカにあこがれていたのもすんなり納得できる。
両クラブのたち位置には、圧倒的ともいえる差があった。
いまでは、おおくの日本人選手がヨーロッパでプレーするようになり、
有名なクラブも、けしてはるかうえの存在ではなくなった。
ドイツ・イタリア・スペイン・フランス・イングランドで、
日本の選手が外国のスーパースターとおなじピッチにたち、
日常的な風景として定期的に試合をくんでいる。
とはいえ、日本のおおくの選手は、
世界レベルでの試合を経験する機会にとぼしく、
それが日本と世界との壁をあつくしているひとつの要因だ。
クラブワールドカップへの出場により、
浦和の選手たちが、世界とたたかうよい機会となるようねがっている。
浦和のACL優勝をたたえるとともに、
クラブワールドカップでの活躍に期待したい。
2017年11月25日
要約をこばむ 糸井重里さんの文章
糸井重里さんの文章は、要約がとてもむずかしい。
どこかの1行をひっぱってこようとしても、
いいくぎりがみつからないまま、
ずるずるとながい文章をうつしかねない。
たとえば、ほぼ日の「今日のダーリン」は、
いちにち分がそれほどながくない、
日記みたいなエッセイなのに、
そのなかには、おおきなテーマになりそうなはなしが
いくつも もりこまれている。
きょうの「今日のダーリン」は、
「矢野顕子さんが出演する番組に
ゲストみたいなかたちでおじゃましてきた」
ではじまる。
番組のなかで話題になった新曲は、
矢野さんと糸井さんが1981年につくった曲の
アンサーソングであるという。
あれから36年たち、曲のなかでうたわれているふたりは
その後どう生きたのだろう、
というのも、じつに魅力的な話題だ。
糸井さんは、そこから話題をよこにふって、
曲のなかのふたりに、矢野さんと自分とをかさねてみる。
健康で、しかも現役として仕事ができるしあわせ。
しかし、はなしはそれでおわらない。
しあわせとは、なが生きしつつ、
よい友人と いっしょに仕事ができるすばらしさかも。
おわりのほうで、
というから、それもまたききたくなってくる。
と、けきょく 引用だらけとなり、
むりにまとめようとすると、
本文の魅力がゴソッとぬけおちてしまう。
このように、糸井重里さんの文章は、
きれめがなく、どこまでもゆるやかにつながっていて、
チョコチョコっとあんちょこな引用をこばむところがある。
紹介しようとすると、かきだしから おわりまでの
すべてにふれなければ 全体の意味をつたえられない。
かんたんな文章にみせながら、じつに個性的で、
まねしようとしても すぐにボロがでてしまう。
全体がひとつとして 強力にまとまっており、
一部だけをかりてきても、鮮度をたもてない。
「今日のダーリン」をエバーノートにとりこみながら、
タイトル名をどうつけるのかに、いつもこまっている。
どこかの1行をひっぱってこようとしても、
いいくぎりがみつからないまま、
ずるずるとながい文章をうつしかねない。
たとえば、ほぼ日の「今日のダーリン」は、
いちにち分がそれほどながくない、
日記みたいなエッセイなのに、
そのなかには、おおきなテーマになりそうなはなしが
いくつも もりこまれている。
きょうの「今日のダーリン」は、
「矢野顕子さんが出演する番組に
ゲストみたいなかたちでおじゃましてきた」
ではじまる。
番組のなかで話題になった新曲は、
矢野さんと糸井さんが1981年につくった曲の
アンサーソングであるという。
あれから36年たち、曲のなかでうたわれているふたりは
その後どう生きたのだろう、
というのも、じつに魅力的な話題だ。
糸井さんは、そこから話題をよこにふって、
曲のなかのふたりに、矢野さんと自分とをかさねてみる。
ロミオことまさおくんと、ジュリエットのみどりちゃんの
人生の時計は、もちろん36年分も進んでいるけれど、
これ、矢野顕子とぼくの作曲作詞のコンビも、
それくらいの年月生きてきたということでもある。
どちらも健康で生きているから歌がつくれた。
もうちょっと言えば、ある程度の品質の歌を、
まだつくれるほどには現役でいる、ということでもある。
健康で、しかも現役として仕事ができるしあわせ。
しかし、はなしはそれでおわらない。
(糸井さんの)「しあわせ」みたいなものを、
ひとつずつ集めて献立表にしたら、
「矢野顕子との歌づくりが続いている」ということは、
とても太い文字で書かれているだろうなとね。
しあわせとは、なが生きしつつ、
よい友人と いっしょに仕事ができるすばらしさかも。
おわりのほうで、
こんどの『Soft Landing』というアルバムのなかでは、
他に2曲、矢野顕子依頼の「野球が好きだ」という曲と、
ぼくが勝手につくった、ある種のラブソング、
「夕焼けのなかに」という曲がある。
というから、それもまたききたくなってくる。
と、けきょく 引用だらけとなり、
むりにまとめようとすると、
本文の魅力がゴソッとぬけおちてしまう。
このように、糸井重里さんの文章は、
きれめがなく、どこまでもゆるやかにつながっていて、
チョコチョコっとあんちょこな引用をこばむところがある。
紹介しようとすると、かきだしから おわりまでの
すべてにふれなければ 全体の意味をつたえられない。
かんたんな文章にみせながら、じつに個性的で、
まねしようとしても すぐにボロがでてしまう。
全体がひとつとして 強力にまとまっており、
一部だけをかりてきても、鮮度をたもてない。
「今日のダーリン」をエバーノートにとりこみながら、
タイトル名をどうつけるのかに、いつもこまっている。
2017年11月24日
2どめのコンフィを、保温調理法でためしてみる
豚バラ軟骨をつかい、2どめのコンフィをつくる。
豚バラ軟骨とはなにか。
こまかなことはわからないけど、
軟骨まじりの肉が、スペアリブみたいなおおきさでうられている。
30分ほど煮れば、じゅうぶんやわらかくなるし、
時間がなければ、圧力なべに5分かければいい。
何時間も煮こむとか、アクをすくって、とかの
こまかな下処理は必要なく、
牛すじが、気やすくかえない値段になったいま、
100グラム50円の豚バラ軟骨はすごくありがたい。
おでんだけでなく、野菜との煮こみにもよくつかう。
おおきなお皿に山もりの豚バラ軟骨をみかけると、
わたしは うれしくなってすぐカゴにいれる。
ファンがおおいのか、いつもうり場にあるとはかぎらない。
前回のコンフィは、鶏の胸肉をつかい、
炊飯器で保温したけど、
おもったほど脂がまわらなかったし、
やわらかくもなかった。
今回は、鍋を新聞紙にくるんでの保温調理法でためしてみる。
塩コショウとスパイスを適当にまぶした豚バラ軟骨を、
冷蔵庫でひとばんねかせる。
つぎの日に、豚バラ軟骨を鍋にうつし、
ラードをしぼりだして火にかけた。
ラードがたりなくて、肉全体が脂につからなかったので、
たりない分はオリーブオイルをかける。
加熱しすぎると、よいコンフィにならないそうなので、
脂がグツグツいいだすまえに火からおろし、
1日分の新聞紙を2枚ずつ、すこしずらしてならべ、鍋をくるむ。
新聞紙の保温力は、かなりすぐれており、
ひとばんたっても、まだじゅうぶんにあたたかいほどだ。
つぎの日の朝、鍋を新聞紙からとりだして、
常温でほっておくと、すぐに脂がかたまりはじめる。
脂がかたくなりすぎると、あつかいにくいので
適当なところで容器にうつし、冷蔵庫で保存する。
豚バラ軟骨は、もともとが脂肪分たっぷりの肉であり、
それをコンフィにすることで、
どれだけ脂のうまみがひきだされるか たのしみにしていた。
たしかに、脂が肉ぜんたいにまわり、
フライパンでやいてみると、脂がどっととけだしてくる。
でも、肉がおいしくなったかどうかは微妙なところで、
脂たっぷりのハムみたいになるのを期待していたけど、
そんな上等な加工品にはならなかった。
しばらく保存できる、というのが最大のメリットのようだ。
低温による調理がコツ、とあるけど、
新聞紙での保温調理は、条件をクリアしていないのかもしれない。
ラードにまみれた肉や容器のあつかいになれていないので、
あまりのギトギトさに手をやいてしまった。
ほんものの肉食文化になじみのないわたしは、
脂のうまみとおくぶかさが よくわかってないのだろう。
コンフィを2回つくってみて、
ラードとのつきあいは、しばらくおやすみしたいとおもった。
豚バラ軟骨とはなにか。
こまかなことはわからないけど、
軟骨まじりの肉が、スペアリブみたいなおおきさでうられている。
30分ほど煮れば、じゅうぶんやわらかくなるし、
時間がなければ、圧力なべに5分かければいい。
何時間も煮こむとか、アクをすくって、とかの
こまかな下処理は必要なく、
牛すじが、気やすくかえない値段になったいま、
100グラム50円の豚バラ軟骨はすごくありがたい。
おでんだけでなく、野菜との煮こみにもよくつかう。
おおきなお皿に山もりの豚バラ軟骨をみかけると、
わたしは うれしくなってすぐカゴにいれる。
ファンがおおいのか、いつもうり場にあるとはかぎらない。
前回のコンフィは、鶏の胸肉をつかい、
炊飯器で保温したけど、
おもったほど脂がまわらなかったし、
やわらかくもなかった。
今回は、鍋を新聞紙にくるんでの保温調理法でためしてみる。
塩コショウとスパイスを適当にまぶした豚バラ軟骨を、
冷蔵庫でひとばんねかせる。
つぎの日に、豚バラ軟骨を鍋にうつし、
ラードをしぼりだして火にかけた。
ラードがたりなくて、肉全体が脂につからなかったので、
たりない分はオリーブオイルをかける。
加熱しすぎると、よいコンフィにならないそうなので、
脂がグツグツいいだすまえに火からおろし、
1日分の新聞紙を2枚ずつ、すこしずらしてならべ、鍋をくるむ。
新聞紙の保温力は、かなりすぐれており、
ひとばんたっても、まだじゅうぶんにあたたかいほどだ。
つぎの日の朝、鍋を新聞紙からとりだして、
常温でほっておくと、すぐに脂がかたまりはじめる。
脂がかたくなりすぎると、あつかいにくいので
適当なところで容器にうつし、冷蔵庫で保存する。
豚バラ軟骨は、もともとが脂肪分たっぷりの肉であり、
それをコンフィにすることで、
どれだけ脂のうまみがひきだされるか たのしみにしていた。
たしかに、脂が肉ぜんたいにまわり、
フライパンでやいてみると、脂がどっととけだしてくる。
でも、肉がおいしくなったかどうかは微妙なところで、
脂たっぷりのハムみたいになるのを期待していたけど、
そんな上等な加工品にはならなかった。
しばらく保存できる、というのが最大のメリットのようだ。
低温による調理がコツ、とあるけど、
新聞紙での保温調理は、条件をクリアしていないのかもしれない。
ラードにまみれた肉や容器のあつかいになれていないので、
あまりのギトギトさに手をやいてしまった。
ほんものの肉食文化になじみのないわたしは、
脂のうまみとおくぶかさが よくわかってないのだろう。
コンフィを2回つくってみて、
ラードとのつきあいは、しばらくおやすみしたいとおもった。
2017年11月23日
「いい夫婦」がなんだかんだ
きのうはクッキー班のメンバーといっしょにイオンへ。
クッキーの材料をかうためだ。
11月22日は「いい夫婦の日」として
カーネーションのプレゼントがすすめてあった。
11月22日なので、「いいふうふ」というゴロあわせだ。
いろんなことをかんがえるものだ、と感心し、
でも、まえにみたことがあるような気もする。
それにしても、なんでカーネーションなのだろう。
いっしょにあるいていたメンバーから、
わたしの家、というか夫婦は、いい夫婦ですか?と、
ストレートにたずねられた。
いまさら、この手の質問にドギマギしたりはしない。
ひらきなおりというか、よけいなお世話というか、
問題の所存はそんなところにはない、と喝破しているからだ。
というのはウソで、
わたしたちは、まったく議論の対象にならない
いきづまったカップルなので、
こうした質問は そもそも成立しない。
もうずいぶんまえに、いいか わるいかは、つきぬけたようだ。
「いい夫婦の日」と、いいだした側にしても、
なにかの冗談だったのではないか。
そして、ちいさな親切と。
「いい夫婦の日」なんてありえない問題に、
あえて あなたたちはいい夫婦ですかと、
すでにわすれさった概念があるのをおもいださせてくれる。
わたしと配偶者は、おなじ家にくらしているけれど、
おたがいの配慮による精密な連携プレーにより、
ほとんど顔をあわせることもなく、
まるで2世帯住宅にくらしているかのようだ。
何年も行動パターンを観察しあってきた成果として、
朝のいそがしい時間も、おたがいがじょうずにすれちがい、
出勤への準備をしゅくしゅくとすすめる様式が確立されている。
であいのないところに、問題はうまれず、ストレスも生じない。
「いい夫婦」であろうとすれば、
それなりのプレッシャーもあるだろうが、
そこは20年以上のつきあいにより、暗黙の了解がいつしかうまれ、
いくつもの難問を、なんなくスルーしている。
無理してすれちがうのではなく、
自由にふるまっていながら、なおかつ別の世界、というのがミソだ。
問題ありすぎ、とつっこみたいひともいるかもしれないけど、
100%うまくいっていると、本気でひらきなおっている。
ここらへんは、いま話題になっている加計学園や
森友学園の問題とよくにている。
安倍さんは、もしかしたら本気で「問題ない」とおもっているのに、
世間一般的には問題だらけだったりして。
まえは、もうすこしジタバタしていたけど、
いつしか このままいくしかないのだろうな、と
さとりをひらくまでにいたっている。
ひとには寿命があり、いつまでも30代ではいられない。
歳をとれば、それなりの達観があるので、
わかい夫婦のみなさんは、心配しなくても大丈夫だ。
何万年もの人類の歴史や、宇宙が誕生した奇跡をおもうと、
わたしたちがいい夫婦かどうかなんて、
まったくとるにたらない問題でしかない。
「わたし」を大切にしすぎないのがコツなのかも。
クッキーの材料をかうためだ。
11月22日は「いい夫婦の日」として
カーネーションのプレゼントがすすめてあった。
11月22日なので、「いいふうふ」というゴロあわせだ。
いろんなことをかんがえるものだ、と感心し、
でも、まえにみたことがあるような気もする。
それにしても、なんでカーネーションなのだろう。
いっしょにあるいていたメンバーから、
わたしの家、というか夫婦は、いい夫婦ですか?と、
ストレートにたずねられた。
いまさら、この手の質問にドギマギしたりはしない。
ひらきなおりというか、よけいなお世話というか、
問題の所存はそんなところにはない、と喝破しているからだ。
というのはウソで、
わたしたちは、まったく議論の対象にならない
いきづまったカップルなので、
こうした質問は そもそも成立しない。
もうずいぶんまえに、いいか わるいかは、つきぬけたようだ。
「いい夫婦の日」と、いいだした側にしても、
なにかの冗談だったのではないか。
そして、ちいさな親切と。
「いい夫婦の日」なんてありえない問題に、
あえて あなたたちはいい夫婦ですかと、
すでにわすれさった概念があるのをおもいださせてくれる。
わたしと配偶者は、おなじ家にくらしているけれど、
おたがいの配慮による精密な連携プレーにより、
ほとんど顔をあわせることもなく、
まるで2世帯住宅にくらしているかのようだ。
何年も行動パターンを観察しあってきた成果として、
朝のいそがしい時間も、おたがいがじょうずにすれちがい、
出勤への準備をしゅくしゅくとすすめる様式が確立されている。
であいのないところに、問題はうまれず、ストレスも生じない。
「いい夫婦」であろうとすれば、
それなりのプレッシャーもあるだろうが、
そこは20年以上のつきあいにより、暗黙の了解がいつしかうまれ、
いくつもの難問を、なんなくスルーしている。
無理してすれちがうのではなく、
自由にふるまっていながら、なおかつ別の世界、というのがミソだ。
問題ありすぎ、とつっこみたいひともいるかもしれないけど、
100%うまくいっていると、本気でひらきなおっている。
ここらへんは、いま話題になっている加計学園や
森友学園の問題とよくにている。
安倍さんは、もしかしたら本気で「問題ない」とおもっているのに、
世間一般的には問題だらけだったりして。
まえは、もうすこしジタバタしていたけど、
いつしか このままいくしかないのだろうな、と
さとりをひらくまでにいたっている。
ひとには寿命があり、いつまでも30代ではいられない。
歳をとれば、それなりの達観があるので、
わかい夫婦のみなさんは、心配しなくても大丈夫だ。
何万年もの人類の歴史や、宇宙が誕生した奇跡をおもうと、
わたしたちがいい夫婦かどうかなんて、
まったくとるにたらない問題でしかない。
「わたし」を大切にしすぎないのがコツなのかも。
2017年11月22日
紅白にSHISHAMOが出場
紅白歌合戦に出場するひとたちが発表された。
例によって、わたしのしらない名前のほうがおおく、
わたしがいかに芸能オンチかをおもいしらされる。
複数回目の出場となるひとでも、
おぼえのない名前がいくつもあるのだから、
ひらきなおるしかない。
それに、だれがでて、だれがでないのかは、
おおくのひとにとって すぐにはこたえられない難問だ。
たとえばAIが3回目の出場なのに、
aikoはなぜえらばれないのかなんて、
わたしにはむつかしすぎる。
ただ、初出場でもSHISHAMOだけはしっていた。
送迎のとき、ラジオでよくきく「ゆうがたパラダイス」で
SHISHAMOの「明日も」がかかり、
この曲のよさはわたしにもすぐわかった。
SHISHAMOのことばづかいは、たとえば
「一つも手抜きはできないな」の「な」がうまい。
きくものの耳をとらえ、つよく印象にのこる歌詞だ。
躍動感にあふれる「明日も」は、
ことしを代表する歌になる予感があり、
むすこやしりあいにきかせると、だれもがいいという。
きっと、紅白にもでるだろうと、わたしはおごそかに宣言し、
そしてじっさいそのとおりとなった。
べつにわたしがえらいわけではなく、
反対に、いかにわたしがミーハーかの証拠ともいえる。
だれもがいいとおもう曲を、
わたしもまたいいとおもってしまう。
わたしのこのみがみんなよりもさきをいき、
あとからブームになったら得意だろうけど、
そんな体験はしたことがない。
あとをおいかけるのは、いつもわたしのほうだ。
ことし一年は、ガールズバンドについていこうとしてみた。
ヒャダインさんのラジオ番組”ガルポプ!”と、
月曜から木曜までのゆうがたパラダイス(NHKーFM)により、
これまでさけてきたガールズポップに、
意識して頭をなじませようとした。
アイドルの曲にだって耳をかたむけている。
紅白に2年つづけての出場がきまった欅坂46が、
ゆうがたパラダイスの月曜日を担当しており、
メンバーがふたりずつ順番にでている。
ほかの曜日をうけもつ女性たちとくらべ、
欅坂の女の子たちは、いかにもアイドルで、
舌たらずのしゃべりかたと、はなしの貧弱さがきわだち、
わたしにとって、ききつづけるのは そう楽ではない。
なかには自分のことばではなせるひともいるけど、
自立した女性をアイドルにもとめる
わたしのほうに無理があるのだろう。
アイドルとは、こういうひとたちのことをいうのだと、
ふなれなわたしに「アイドル」をおしえてくれたのが欅坂46だ。
一年の集大成として、ことしの大みそかは
しっかりと紅白をみてみよう。
すくなくとも、SHISHAMOと欅坂46だけは
どんな舞台となるかみとどけたい。
一年にわたるわたしのささやかなガールズポップ体験は、
どんな実をみのらせるだろうか。
例によって、わたしのしらない名前のほうがおおく、
わたしがいかに芸能オンチかをおもいしらされる。
複数回目の出場となるひとでも、
おぼえのない名前がいくつもあるのだから、
ひらきなおるしかない。
それに、だれがでて、だれがでないのかは、
おおくのひとにとって すぐにはこたえられない難問だ。
たとえばAIが3回目の出場なのに、
aikoはなぜえらばれないのかなんて、
わたしにはむつかしすぎる。
ただ、初出場でもSHISHAMOだけはしっていた。
送迎のとき、ラジオでよくきく「ゆうがたパラダイス」で
SHISHAMOの「明日も」がかかり、
この曲のよさはわたしにもすぐわかった。
SHISHAMOのことばづかいは、たとえば
「一つも手抜きはできないな」の「な」がうまい。
きくものの耳をとらえ、つよく印象にのこる歌詞だ。
躍動感にあふれる「明日も」は、
ことしを代表する歌になる予感があり、
むすこやしりあいにきかせると、だれもがいいという。
きっと、紅白にもでるだろうと、わたしはおごそかに宣言し、
そしてじっさいそのとおりとなった。
べつにわたしがえらいわけではなく、
反対に、いかにわたしがミーハーかの証拠ともいえる。
だれもがいいとおもう曲を、
わたしもまたいいとおもってしまう。
わたしのこのみがみんなよりもさきをいき、
あとからブームになったら得意だろうけど、
そんな体験はしたことがない。
あとをおいかけるのは、いつもわたしのほうだ。
ことし一年は、ガールズバンドについていこうとしてみた。
ヒャダインさんのラジオ番組”ガルポプ!”と、
月曜から木曜までのゆうがたパラダイス(NHKーFM)により、
これまでさけてきたガールズポップに、
意識して頭をなじませようとした。
アイドルの曲にだって耳をかたむけている。
紅白に2年つづけての出場がきまった欅坂46が、
ゆうがたパラダイスの月曜日を担当しており、
メンバーがふたりずつ順番にでている。
ほかの曜日をうけもつ女性たちとくらべ、
欅坂の女の子たちは、いかにもアイドルで、
舌たらずのしゃべりかたと、はなしの貧弱さがきわだち、
わたしにとって、ききつづけるのは そう楽ではない。
なかには自分のことばではなせるひともいるけど、
自立した女性をアイドルにもとめる
わたしのほうに無理があるのだろう。
アイドルとは、こういうひとたちのことをいうのだと、
ふなれなわたしに「アイドル」をおしえてくれたのが欅坂46だ。
一年の集大成として、ことしの大みそかは
しっかりと紅白をみてみよう。
すくなくとも、SHISHAMOと欅坂46だけは
どんな舞台となるかみとどけたい。
一年にわたるわたしのささやかなガールズポップ体験は、
どんな実をみのらせるだろうか。
2017年11月21日
残留あらそいにまきこまれているサポーターの心理
今年のJ1も、のこすところ あと2試合となり、
優勝と残留をめざしていくつものチームが
きびしいあらそいをくりひろげている。
優勝をほぼ手中におさめた鹿島、
でもまだあきらめてない2位の川崎、
ACL(アジアチャンピオンズリーグ)の出場権をめぐり、
3位あらそいのセレッソと柏、
ギリギリの残留あらそいで、
もはやかつしかなくなった清水・広島・甲府・大宮。
今年は3シーズンぶりに1シーズン制へともどっている。
どこかのチームがぶっちぎりで優勝したら
この時期の試合はおもしろみにかけるけど、
さいわいさいごまで優勝と残留のゆくえに
目がはなせない一年となった。
シーズンのはじめに波にのれなかった広島は、
けっきょくさいごまで残留あらそいにまきこまれてしまった。
とちゅうで監督が交代し、選手の補強もありながら、
きょねんまで優勝をあらそっていたチームが、
さいごまでピリッとしない。
優勝目前の鹿島にしても、石井監督がとちゅうで解任されたし、
ほかにも浦和・神戸・大宮・新潟と、
ぜんぶで6チームの監督が交代する異例のシーズンとなった。
朝日新聞の日曜日に連載ちゅうの
『ディス・イズ・ザ・デイ』(津村記久子)に、
応援するチームが残留するかどうかで
やきもきするサポーターの心情がえがかれており、胸にせまる。
残留あらそいが意味する修羅場をしらないひとには、
いったいなにがどうしたので、こんなわかりにくい儀式が
えんえんとくりひろげられるのか 理解にくるしむだろう。
なにかをめざしているようで、なにかをさけているようでもある。
いったい、このふたりは、なにをもとめて
こんなややこしいうごきをするのか。
すごく念いりというか、集中というか、
逆に集中しないように気をそらすというか、
大切な試合まえのソワソワ感がすごい。
正面きって、おもいっきり応援するのではなく、
目のまえにせまった試合を、
ぜんぜん気にとめないようなふりをする。
でもほんとうは、そのことばかりをかんがえながら、
試合を意識しすぎないよう 最大限に気をくばる。
ふたりの息がぴったりなのも
夫婦というよりは、筋金いりのサポーターどうしであり、
こまやかな配慮がすさまじいまでにうかがえる。
自分のことなら だれもここまでしない。
個人の努力・がんばりでは、どうにもならないから、
はれものにさわるような、慎重きわわりない対応となる。
もはや、やれることはすべて手をつくした。のこるは神だのみだ。
自然界の秩序とバランスを、ほんのちょっとした不注意により
くずしてしまわないように、超人的な配慮のもと、
試合のなりゆきを、人知のおよばない、なにものかにゆだねる。
サッカーの神さまにほほえんでもらうには、
気をそらして、なにごともないようによそおうしかない。
愛にあふれたサポーターといえども、それしかできない。
でなければ、気まぐれな神さまは、
するっとむこうへとおりぬけてしまうのだ。
いまの時期、残留をめぐってあらそうチームとサポーターは、
忍と和敏の夫婦のように、最善をつくしたのち、
息をひそめながら さいごの試合をむかえるしかない。
優勝と残留をめざしていくつものチームが
きびしいあらそいをくりひろげている。
優勝をほぼ手中におさめた鹿島、
でもまだあきらめてない2位の川崎、
ACL(アジアチャンピオンズリーグ)の出場権をめぐり、
3位あらそいのセレッソと柏、
ギリギリの残留あらそいで、
もはやかつしかなくなった清水・広島・甲府・大宮。
今年は3シーズンぶりに1シーズン制へともどっている。
どこかのチームがぶっちぎりで優勝したら
この時期の試合はおもしろみにかけるけど、
さいわいさいごまで優勝と残留のゆくえに
目がはなせない一年となった。
シーズンのはじめに波にのれなかった広島は、
けっきょくさいごまで残留あらそいにまきこまれてしまった。
とちゅうで監督が交代し、選手の補強もありながら、
きょねんまで優勝をあらそっていたチームが、
さいごまでピリッとしない。
優勝目前の鹿島にしても、石井監督がとちゅうで解任されたし、
ほかにも浦和・神戸・大宮・新潟と、
ぜんぶで6チームの監督が交代する異例のシーズンとなった。
朝日新聞の日曜日に連載ちゅうの
『ディス・イズ・ザ・デイ』(津村記久子)に、
応援するチームが残留するかどうかで
やきもきするサポーターの心情がえがかれており、胸にせまる。
忍は、ヴェーレ浜松が一部から二部に降格した試合をテレビで観る前、自分はどうだったかを思い出そうとする。試合の後にどうなってもいいように家事と仕事をすべて済ませ、部屋の掃除をして、お茶を淹れて、寒かったり暑かったりしないように部屋の空調を念入りに調整した。もちろん、忍も夫の和敏も一切予定は入れなかった。前日は二人で呑みながらだらだら別のチームのことを話し込んで、昼前に起きて、近所のレストランへ昼ごはんを食べに行って、キックオフの一時間前には買い物を済ませて自宅に帰った。
残留あらそいが意味する修羅場をしらないひとには、
いったいなにがどうしたので、こんなわかりにくい儀式が
えんえんとくりひろげられるのか 理解にくるしむだろう。
なにかをめざしているようで、なにかをさけているようでもある。
いったい、このふたりは、なにをもとめて
こんなややこしいうごきをするのか。
すごく念いりというか、集中というか、
逆に集中しないように気をそらすというか、
大切な試合まえのソワソワ感がすごい。
正面きって、おもいっきり応援するのではなく、
目のまえにせまった試合を、
ぜんぜん気にとめないようなふりをする。
でもほんとうは、そのことばかりをかんがえながら、
試合を意識しすぎないよう 最大限に気をくばる。
ふたりの息がぴったりなのも
夫婦というよりは、筋金いりのサポーターどうしであり、
こまやかな配慮がすさまじいまでにうかがえる。
自分のことなら だれもここまでしない。
個人の努力・がんばりでは、どうにもならないから、
はれものにさわるような、慎重きわわりない対応となる。
もはや、やれることはすべて手をつくした。のこるは神だのみだ。
自然界の秩序とバランスを、ほんのちょっとした不注意により
くずしてしまわないように、超人的な配慮のもと、
試合のなりゆきを、人知のおよばない、なにものかにゆだねる。
サッカーの神さまにほほえんでもらうには、
気をそらして、なにごともないようによそおうしかない。
愛にあふれたサポーターといえども、それしかできない。
でなければ、気まぐれな神さまは、
するっとむこうへとおりぬけてしまうのだ。
いまの時期、残留をめぐってあらそうチームとサポーターは、
忍と和敏の夫婦のように、最善をつくしたのち、
息をひそめながら さいごの試合をむかえるしかない。
2017年11月20日
よくいくスーパーが休業になっただけで、世紀末のおとずれをかんじ、はげしく動揺する
プールからのかえり、いつものスーパーへ。
店内のあかりがくらい。駐車場の車がすくない。
いつもとちがうようすに、お店ぜんたいをよくみると、
ガラスに「休業中」とおおきくかかれた紙がはってある。
清掃業者がはいり、おおがかりなかたづけがはじまっている。
夕方だし、プールでおよいでいたせいもあり、
なんだか目にはいる景色がぼんやりしている。
歳のせいもあって、このごろ夕方がすごくくらいのだ。
かいものができないので、しかたなく車で家にむかうと、
とおりすがりにみえるほかのお店も、
なんだかあかりがくらくしてあるようにみえる。
わたしのしらないうちに、なにか異変がおこり、
お店が次々に閉鎖しているのでは。
こんなふうに、いつもいく店がバタバタと閉店したら、
どんなに不自由だろう。不自由だし、さみしい。
人口がへりつづけたら、いまにわたしがすむ町は、
こんな風景になるのだろうか。
『ザ・ロード』(コーマック=マッカーシー)をおもいだす。
世紀末は、もはや太陽がかがやくことはなく、
つめたい雨がふりつづけ、将来に希望をもてない。
ひとびとは、生存をかけて食糧をうばいあう。
人口がへりつづけると、こんな状況がおとずれるのだろう。
空想ではなく、現実になにか異変がおきたのではないか。
うすぐらく、ぼやっとしたかえり道の風景は、
ただごとでない事態がおとずれている気配をかんじさせる。
もっと灯油や食糧を備蓄しておけばよかったとくやむ。
家にもどって、スーパーのチラシをみると、
改装中でのため休業、とあり、
11月下旬にリニューアル・オープンする予定だという。
ほんとうに、一時的な休業のようだ。
さいわい、世界はなにもかわっていなかった。
よくいくスーパーが休業になっただけで、
こんなに動揺するとはおもわなかった。
店内のあかりがくらい。駐車場の車がすくない。
いつもとちがうようすに、お店ぜんたいをよくみると、
ガラスに「休業中」とおおきくかかれた紙がはってある。
清掃業者がはいり、おおがかりなかたづけがはじまっている。
夕方だし、プールでおよいでいたせいもあり、
なんだか目にはいる景色がぼんやりしている。
歳のせいもあって、このごろ夕方がすごくくらいのだ。
かいものができないので、しかたなく車で家にむかうと、
とおりすがりにみえるほかのお店も、
なんだかあかりがくらくしてあるようにみえる。
わたしのしらないうちに、なにか異変がおこり、
お店が次々に閉鎖しているのでは。
こんなふうに、いつもいく店がバタバタと閉店したら、
どんなに不自由だろう。不自由だし、さみしい。
人口がへりつづけたら、いまにわたしがすむ町は、
こんな風景になるのだろうか。
『ザ・ロード』(コーマック=マッカーシー)をおもいだす。
世紀末は、もはや太陽がかがやくことはなく、
つめたい雨がふりつづけ、将来に希望をもてない。
ひとびとは、生存をかけて食糧をうばいあう。
人口がへりつづけると、こんな状況がおとずれるのだろう。
空想ではなく、現実になにか異変がおきたのではないか。
うすぐらく、ぼやっとしたかえり道の風景は、
ただごとでない事態がおとずれている気配をかんじさせる。
もっと灯油や食糧を備蓄しておけばよかったとくやむ。
家にもどって、スーパーのチラシをみると、
改装中でのため休業、とあり、
11月下旬にリニューアル・オープンする予定だという。
ほんとうに、一時的な休業のようだ。
さいわい、世界はなにもかわっていなかった。
よくいくスーパーが休業になっただけで、
こんなに動揺するとはおもわなかった。
2017年11月19日
「夜廻り猫」(深谷かほる)になけた
「夜廻り猫」(深谷かほる)の第324回になけた。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco
お腹をすかせながらも 夜まわりをしている遠藤さんに、
「猫さん よかったら 食べものあるよ」
と犬が声をかけてくる。
「犬殿これは?」とたずねると、
「撲のだよ 父さんにもらった」という。
でも、じつは、そのフードをおきみやげに、
この犬はすてられたのだ。
それをしりつつ、犬は父さん・母さんをうらまないで、
ふたりをみおくっている。
うらむどころか、のこりすくなくなったフードを、
「僕のだよ」と、遠藤さんにすすめたところだった。
遠藤さん(夜廻り猫)はいう。
すてられながら、犬(ラブ)は、
さっていった父さん・母さんの無事をねがっている
遠藤さんはラブをちからづける。
「大丈夫・・・大丈夫! きっと大丈夫だ」
わたしは、この手のはなしにすごくよわい。
「心で泣きながら 黙って見送った」ラブの心情をさっすると、
なんとかしあわせに生きてと、ねがわずにおれない。
そんなラブを、「大丈夫だ」とはげます遠藤さん。
ことばえらびが的確で、ひとこと ひとことがツボをおさえている。
「犬殿 一緒にゴミでもあさらないか?」
とさそえるようなひとに わたしはなりたい。
http://www.moae.jp/comic/yomawarineco
お腹をすかせながらも 夜まわりをしている遠藤さんに、
「猫さん よかったら 食べものあるよ」
と犬が声をかけてくる。
「犬殿これは?」とたずねると、
「撲のだよ 父さんにもらった」という。
でも、じつは、そのフードをおきみやげに、
この犬はすてられたのだ。
それをしりつつ、犬は父さん・母さんをうらまないで、
ふたりをみおくっている。
うらむどころか、のこりすくなくなったフードを、
「僕のだよ」と、遠藤さんにすすめたところだった。
遠藤さん(夜廻り猫)はいう。
おまいさん 心で泣きながら
黙って見送ったのか 偉かったな・・・
すてられながら、犬(ラブ)は、
さっていった父さん・母さんの無事をねがっている
きっと よほどのことだ
父さん 母さん 無事かな・・・
どこかで楽しく暮らしてくれればいいんだけど
遠藤さんはラブをちからづける。
「大丈夫・・・大丈夫! きっと大丈夫だ」
わたしは、この手のはなしにすごくよわい。
「心で泣きながら 黙って見送った」ラブの心情をさっすると、
なんとかしあわせに生きてと、ねがわずにおれない。
そんなラブを、「大丈夫だ」とはげます遠藤さん。
ことばえらびが的確で、ひとこと ひとことがツボをおさえている。
「犬殿 一緒にゴミでもあさらないか?」
とさそえるようなひとに わたしはなりたい。
2017年11月18日
津村記久子さんのコラムに松江市の循環バスがでてきた
ブログをかいているとき、
ひとの文章を引用してばかりいるので、
あまりにもオリジナリティがない内容にいじけがちだ。
でも、かんがえてみると、
朝日新聞の第一面にのっている「折々のことば」にしたって、
ぜんぶひとのアイデアを紹介しているだけともいえる。
えらいひとが、堂々と とりあげれば有名なコラムとなり、
これまであまり陽のあたらなかったことばに再評価をあたえる。
わたしの引用も、それはそれで、意味があるかもしれない。
というわけで、引用についてのひらきなおり。
朝日新聞に連載されている
津村記久子さんのコラム「となりの乗客」に、
わたしがすむ町の循環バスがでてきた。
まさか、ひごろよくのっている循環バスからのながめが、
テキサスと似ているとはおもわなかった。
わたしは、毎週かならずこの循環バスにのっており、
窓からの景色をかなりよくしっているつもりだ。
地元の人間にとって、かわりばえのしないながめでしかない。
謙遜ではなく、ほんとうに、どこの町でもみかけそうな景色だ。
そんな日常風景を、いきなり津村さんに、
テキサスと松江市の車窓が似ているといわれておどろいた。
テキサスというと、サボテンがまばらにはえている砂漠で、
ところどころにおおきな看板がたっている
だだっぴろい空間を想像するけど、
市街地についていえば、松江市とかわらないらしい。
津村さんのコラムは、
とむすばれている。
似ているからつまらない、ではなく、
似ているのがあたりまえであり、
だからこそ いまたっている場所を
世界の中心と とらえられる。
似ているのだから、旅行なんかにでかけなくても、
自分のいる町で満足すればよさそうなものだけど、
それはまた、べつのはなし。
似ていると確信するには、でかけなければわからない。
そして、いまたっている場所が世界の中心に位置づける。
世界の中心は、ニューヨークでも渋谷でもなく、
自分がすむ町であり、テキサスの市街地なのだ。
ひとの文章を引用してばかりいるので、
あまりにもオリジナリティがない内容にいじけがちだ。
でも、かんがえてみると、
朝日新聞の第一面にのっている「折々のことば」にしたって、
ぜんぶひとのアイデアを紹介しているだけともいえる。
えらいひとが、堂々と とりあげれば有名なコラムとなり、
これまであまり陽のあたらなかったことばに再評価をあたえる。
わたしの引用も、それはそれで、意味があるかもしれない。
というわけで、引用についてのひらきなおり。
朝日新聞に連載されている
津村記久子さんのコラム「となりの乗客」に、
わたしがすむ町の循環バスがでてきた。
島根の松江市の循環バスからの眺めは、最近よく動画サイトで視聴しているテキサスの市街地の車道からの風景に似ていたりもする。(「となりの乗客」〜世界の中の点〜より)
まさか、ひごろよくのっている循環バスからのながめが、
テキサスと似ているとはおもわなかった。
わたしは、毎週かならずこの循環バスにのっており、
窓からの景色をかなりよくしっているつもりだ。
地元の人間にとって、かわりばえのしないながめでしかない。
謙遜ではなく、ほんとうに、どこの町でもみかけそうな景色だ。
そんな日常風景を、いきなり津村さんに、
テキサスと松江市の車窓が似ているといわれておどろいた。
テキサスというと、サボテンがまばらにはえている砂漠で、
ところどころにおおきな看板がたっている
だだっぴろい空間を想像するけど、
市街地についていえば、松江市とかわらないらしい。
津村さんのコラムは、
遠く離れたある場所とある場所の類似のことを考えていると、どこにいようと人はおなじなのではないかと思えてくる。結局、それぞれが立っている場所が世界の中心なのだ。
とむすばれている。
似ているからつまらない、ではなく、
似ているのがあたりまえであり、
だからこそ いまたっている場所を
世界の中心と とらえられる。
似ているのだから、旅行なんかにでかけなくても、
自分のいる町で満足すればよさそうなものだけど、
それはまた、べつのはなし。
似ていると確信するには、でかけなければわからない。
そして、いまたっている場所が世界の中心に位置づける。
世界の中心は、ニューヨークでも渋谷でもなく、
自分がすむ町であり、テキサスの市街地なのだ。
2017年11月17日
回覧板をまわす近所のおじさんに仮装してのボジョレー配達
ゆうべは お得意さま宅へ、ボジョレー=ヌーボーをとどける。
職員ふたりがペアをくみ、10コースにわかれて市内をまわるのだけど、
なんねんもまえから、仮装しての配達がお約束になってしまった。
はじめは100均でかったサンタさんの服をきる程度だったのが、
だんだんとエスカレートして、
いまではまるでハロウィンみたいだ。
わたしは、デイリーポータルZの
「地味な仮装」というコンセプトに共感しており、
ふつうなら仮装しないであろう、
たとえばスタバの定員とか、交通誘導のひとを参考に、
きょねんはクロネコヤマトの配達員に「仮装」して、
それなりの評価をえた。
それから一年。
ことしはなにをしようかと、
ずっと頭にひっかかったまますごしていた。
で、最終的にきめたのが、
「回覧板をまわしている近所のおじさん」だ。
回覧の内容は、近所にボジョレーの配達をよそおった
家出ヤンキー少女が出没し、おしうりの被害がでているので、
みかけたときは、ご注意ください、にする。
わたしがおうちのひとに説明していると、
そこへヤンキー本人があらわれて おしうりをはじめる・・・、
というストーリーだ。
わたしは、普段着でいいし、
ペアをくんだ女性職員も、ヤンキーの仮装はやりたかったようで、
高1のむすめさんから制服をかり、シナイをかついで
迫力あるヤンキーを演出してくれた。
玄関のチャイムをならし、
「回覧板で〜す」と声をかけると、
「そこへおいといてください」と、
しごくもっともな返答をされるおうちがあった。
みたことのないヤンキーに、
冗談としりつつ、こわがってくれたひとがいた。
ボジョレーを1万円でかってくれ、
でないと家にかえれないとすごむのだから、
プレゼントをとどけにきた、というよりも、
子どもをなかす ナマハゲみたいだ。
さいごにたずねたお宅では、
ひとりさみしくすごしていたところに
わたしたちがやってきたので、大歓迎をうけた。
砂漠でたすけをまつところにあわれた 救助隊みたいだ。
おしゃべりをしたくて たまらなかったそうで、
おしうりをしようと、ボジョレーに1万円をふっかけても
「かいます かいます」と よろこんでくれる。
むこうのほうがはるかに役者がうえだった。
事業所にもどると、まだ仮装のままの職員が記念撮影をしていた。
男性職員の女装は定番ともいえ、
かわいい女子高生がいて、おもわず写真をとった。
かくれていたチャームポイントがひきだされ、
みんなが おもいがけないかわいさをみとめていた。
芸能界にくらいわたしは、なにに仮装しているのか
わからないペアもあったけど、
職員たちは、ボジョレー配達の仮装をたのしんでいるようだ。
普段着でのぞんだのはわたしだけで、
みんなの熱意になんだか水をさしている。
来年は変化球にたよらず、本格的な仮装をして、
究極の地味おじさんになりきろうとおもった。
職員ふたりがペアをくみ、10コースにわかれて市内をまわるのだけど、
なんねんもまえから、仮装しての配達がお約束になってしまった。
はじめは100均でかったサンタさんの服をきる程度だったのが、
だんだんとエスカレートして、
いまではまるでハロウィンみたいだ。
わたしは、デイリーポータルZの
「地味な仮装」というコンセプトに共感しており、
ふつうなら仮装しないであろう、
たとえばスタバの定員とか、交通誘導のひとを参考に、
きょねんはクロネコヤマトの配達員に「仮装」して、
それなりの評価をえた。
それから一年。
ことしはなにをしようかと、
ずっと頭にひっかかったまますごしていた。
で、最終的にきめたのが、
「回覧板をまわしている近所のおじさん」だ。
回覧の内容は、近所にボジョレーの配達をよそおった
家出ヤンキー少女が出没し、おしうりの被害がでているので、
みかけたときは、ご注意ください、にする。
わたしがおうちのひとに説明していると、
そこへヤンキー本人があらわれて おしうりをはじめる・・・、
というストーリーだ。
わたしは、普段着でいいし、
ペアをくんだ女性職員も、ヤンキーの仮装はやりたかったようで、
高1のむすめさんから制服をかり、シナイをかついで
迫力あるヤンキーを演出してくれた。
玄関のチャイムをならし、
「回覧板で〜す」と声をかけると、
「そこへおいといてください」と、
しごくもっともな返答をされるおうちがあった。
みたことのないヤンキーに、
冗談としりつつ、こわがってくれたひとがいた。
ボジョレーを1万円でかってくれ、
でないと家にかえれないとすごむのだから、
プレゼントをとどけにきた、というよりも、
子どもをなかす ナマハゲみたいだ。
さいごにたずねたお宅では、
ひとりさみしくすごしていたところに
わたしたちがやってきたので、大歓迎をうけた。
砂漠でたすけをまつところにあわれた 救助隊みたいだ。
おしゃべりをしたくて たまらなかったそうで、
おしうりをしようと、ボジョレーに1万円をふっかけても
「かいます かいます」と よろこんでくれる。
むこうのほうがはるかに役者がうえだった。
事業所にもどると、まだ仮装のままの職員が記念撮影をしていた。
男性職員の女装は定番ともいえ、
かわいい女子高生がいて、おもわず写真をとった。
かくれていたチャームポイントがひきだされ、
みんなが おもいがけないかわいさをみとめていた。
芸能界にくらいわたしは、なにに仮装しているのか
わからないペアもあったけど、
職員たちは、ボジョレー配達の仮装をたのしんでいるようだ。
普段着でのぞんだのはわたしだけで、
みんなの熱意になんだか水をさしている。
来年は変化球にたよらず、本格的な仮装をして、
究極の地味おじさんになりきろうとおもった。
2017年11月16日
『ライオン〜25年目のただいま〜』
『ライオン〜25年目のただいま〜』
(ガース=デイヴィス:監督・2016年・オーストラリア他)
インドのいなか町でくらす5歳のサルー。
スラムよりもちょっとまし程度のまずしい集落だけど、
兄と母親からたっぷりの愛情をそそがれ、しあわせにくらしている。
といっても、母親は石はこびのきびしい仕事につき、
兄とサルーにしても、はしっている汽車にとびのって
石炭をちょろまかして小銭をかせがなければ、
くらせないような最低限のくらしだ。
(以下、ネタバレあり)
兄が仕事にでかけるというので、サルーもついていきたくなった。
自分は子どもではなく、ちゃんと仕事ができるとダダをこねるので、
兄のグドゥはしかたなくつれていく。
ねむくなったサルーは、駅のホームのベンチでよこになり、
グドゥひとりが仕事をさがしにいく。
目をさましたサルーは、
だれもいないホームにひとりだけになっていた。
さみしさと混乱から、兄をさがしまわるうちに、
のっていた列車がうごきだしてしまう。
まっくらな駅のぶきみさとこころぼそさ。
あとにしてきた町でさえ、さきのみえない最低なくらしにみえるのに、
兄とわかれたサルーは 完全なひとりぼっちとなる。
回送列車だったので、駅でののりおりがないまま2.3日はしりつづけ、
サルーがすんでいた町から
1600キロもはなれた カルカッタについた。
大都会、カルカッタのものすごいひとごみと、よるべのない絶望感。
駅でくらす孤児たちのちかくですごしていると、
ひとさらいが子どもたちをつかまえにくる。
ホームレスとして町をさまよい、数ヶ月をすごすうちに、
孤児院へとながれついた。
ここまでが前半部分。
そこからの第2部は、場面をオーストラリアにうつす。
孤児たちにそだての親を斡旋する慈善事業で、
サルーはオーストリアにわたり、
養子としてそだてられることになる。
サルーのあたらしい人生が、インドからはるかとおく、
オーストラリアのタスマニアではじまる。
時計の針は一気に20年すすみ、サルーは大学生となった。
オーストラリア人の両親としあわせにくらしながらも、
おさないころをすごしたインドをわすれられない。
兄や母親との生活が、しきりにサルーの脳裏をかすめる。
仲間とはなしているときに、グーグルアースをつかえば、
かすかな記憶から、自分がすんでいた町を
かなりのていど推測できるのでは、とおもいつく。
兄と母に、愛情ぶかくそだてられた記憶から、
自分が家族のことを気にとめるとおなじように、
ふたりもまた 自分のことを心配しているとサルーは確信している。
パソコンにむかううちに、インドにのこしてきた家族を
自分がどれだけふかくもとめているかに気づく。
仕事をやめ、部屋にこもり、ルーツさがしにのめりこんでいく。
生みの親と、そだての親。
パソコンでの検索は、そだての母親であるスーを、
うらぎりっているようにおもえ、サルーはなやむ。
あるときスーがサルーに、
「子どもはもてた」とうちあける。
子どもはもてた。でも、いまの時代に
自分の子どもをうむことに、なにか意味があるだろうか。
それよりも、そだてる親をうしなった子どもたちに
あたらしい愛をあたえるほうが、
自分には意味があるとスーはかんがえた。
スーのふかい愛をしったサルーは、
感謝しつつも、インドへの旅だちをきめる。
いまをしあわせにくらしていても、
自分がどこからきたのか はっきりしらないことが、
こんなにもひとを不安定な気もちにさせるものなのか。
サルーのねがいどおり、
母親はいまもおなじ町にすみ、
サルーを気にとめながら生きていた。
25年目の、奇跡的な再会だ。
タイトルのライオンがなにを意味するかは、
じっさいに映画をみていただきたい。
インドのスラムで、5歳の子が みよりをうしなったときの絶望感。
自分の子をもてたのに、養母となる道をえらんだスー。
このふたつがあまりにも圧倒的で、強烈な印象をのこす。
「ライオン」をみたあとでは、謙虚な気もちになる。
夕ごはんのしたくをしながら、
ここにはすべてがある、天国みたいだと、ふとおもった。
きっと、これもライオン効果だ。
(ガース=デイヴィス:監督・2016年・オーストラリア他)
インドのいなか町でくらす5歳のサルー。
スラムよりもちょっとまし程度のまずしい集落だけど、
兄と母親からたっぷりの愛情をそそがれ、しあわせにくらしている。
といっても、母親は石はこびのきびしい仕事につき、
兄とサルーにしても、はしっている汽車にとびのって
石炭をちょろまかして小銭をかせがなければ、
くらせないような最低限のくらしだ。
(以下、ネタバレあり)
兄が仕事にでかけるというので、サルーもついていきたくなった。
自分は子どもではなく、ちゃんと仕事ができるとダダをこねるので、
兄のグドゥはしかたなくつれていく。
ねむくなったサルーは、駅のホームのベンチでよこになり、
グドゥひとりが仕事をさがしにいく。
目をさましたサルーは、
だれもいないホームにひとりだけになっていた。
さみしさと混乱から、兄をさがしまわるうちに、
のっていた列車がうごきだしてしまう。
まっくらな駅のぶきみさとこころぼそさ。
あとにしてきた町でさえ、さきのみえない最低なくらしにみえるのに、
兄とわかれたサルーは 完全なひとりぼっちとなる。
回送列車だったので、駅でののりおりがないまま2.3日はしりつづけ、
サルーがすんでいた町から
1600キロもはなれた カルカッタについた。
大都会、カルカッタのものすごいひとごみと、よるべのない絶望感。
駅でくらす孤児たちのちかくですごしていると、
ひとさらいが子どもたちをつかまえにくる。
ホームレスとして町をさまよい、数ヶ月をすごすうちに、
孤児院へとながれついた。
ここまでが前半部分。
そこからの第2部は、場面をオーストラリアにうつす。
孤児たちにそだての親を斡旋する慈善事業で、
サルーはオーストリアにわたり、
養子としてそだてられることになる。
サルーのあたらしい人生が、インドからはるかとおく、
オーストラリアのタスマニアではじまる。
時計の針は一気に20年すすみ、サルーは大学生となった。
オーストラリア人の両親としあわせにくらしながらも、
おさないころをすごしたインドをわすれられない。
兄や母親との生活が、しきりにサルーの脳裏をかすめる。
仲間とはなしているときに、グーグルアースをつかえば、
かすかな記憶から、自分がすんでいた町を
かなりのていど推測できるのでは、とおもいつく。
兄と母に、愛情ぶかくそだてられた記憶から、
自分が家族のことを気にとめるとおなじように、
ふたりもまた 自分のことを心配しているとサルーは確信している。
パソコンにむかううちに、インドにのこしてきた家族を
自分がどれだけふかくもとめているかに気づく。
仕事をやめ、部屋にこもり、ルーツさがしにのめりこんでいく。
生みの親と、そだての親。
パソコンでの検索は、そだての母親であるスーを、
うらぎりっているようにおもえ、サルーはなやむ。
あるときスーがサルーに、
「子どもはもてた」とうちあける。
子どもはもてた。でも、いまの時代に
自分の子どもをうむことに、なにか意味があるだろうか。
それよりも、そだてる親をうしなった子どもたちに
あたらしい愛をあたえるほうが、
自分には意味があるとスーはかんがえた。
スーのふかい愛をしったサルーは、
感謝しつつも、インドへの旅だちをきめる。
いまをしあわせにくらしていても、
自分がどこからきたのか はっきりしらないことが、
こんなにもひとを不安定な気もちにさせるものなのか。
サルーのねがいどおり、
母親はいまもおなじ町にすみ、
サルーを気にとめながら生きていた。
25年目の、奇跡的な再会だ。
タイトルのライオンがなにを意味するかは、
じっさいに映画をみていただきたい。
インドのスラムで、5歳の子が みよりをうしなったときの絶望感。
自分の子をもてたのに、養母となる道をえらんだスー。
このふたつがあまりにも圧倒的で、強烈な印象をのこす。
「ライオン」をみたあとでは、謙虚な気もちになる。
夕ごはんのしたくをしながら、
ここにはすべてがある、天国みたいだと、ふとおもった。
きっと、これもライオン効果だ。
2017年11月15日
佐々木正悟さんの「コーヒーを飲みながら仕事しない」におどろく
シゴタノの佐々木正悟さんは、
コーヒーをのむときでさえ、
同時になにかをしないそうだ。
「コーヒーを飲みながら仕事しない」
https://cyblog.jp/29073
なぜなら、マルチタスクをさけたいから。
同時にふたつ以上のタスクをすすめないほうが、
目のまえの仕事に集中できるだろう。
とはいえ、それは原則であって、
いくらシングルタスクがいいといっても、
コーヒーぐらい、仕事をしながらのんでもいいのに、
とあまりの徹底ぶりにわたしはおどろいた。
ここまで徹底してシングルタスクにこだわると、
ひとつのスタイルとしてかっこよくみえる。
わたしはこのごろあるくのがたのしくて、
2時間くらいあるくのに集中していると、
頭もからだもリフレッシュされて気もちがいい。
まさに「あるくためにあるく」のであり、
なにかをめざしてではなく、ただあるくのがたのしくてあるく。
メモとボールペンも もっているけど、
かなりのスピードであるくと、
あんがいものごとはかんがえられない。
アイデアが空からおりてきたりもしない。
ただひたすらあるいており、それだけでたのしい。
これなんかも、シングルタスクとしてのここちよさだ。
カニグズバーグさんの『13歳の沈黙』(岩波書店)をよんでいたら、
いちどにひとつのことしかしない
家政婦のヨランダさんがでてきた。
彼女はいちどにひとつのことしかしない。
しずかに、ていねいに、ひとつずつ仕事をすすめていく。
このおちついた態度こそを、依頼主の女性は必要としていた。
仕事ははやいけどあわただしい、というのではなく
ヨランダさんのしずかな仕事ぶりが
まわりから信頼されのはとてもよくわかる。
この本をよんでから、わたしもまた
できるだけいちどにひとつのことしかしないよう
こころがけるようになった。
たとえば、冷蔵庫にバターをしまおうとたちあがったとき、
テーブルにあったよごれたお皿が目にはいり、
バターといっしょに手にする、
ということがよくあるわけだけど、
そんなときにも、まずバターをしまい、
その動作が完全におわってからお皿をながしにもっていく。
とにかくひとつずつしかしないこと。
簡単なようで、これがなかなかできない。
どうじにふたつ以上の仕事をすすめると、
効率はいいかもしれないけど、
雑な生き方となり、うつくしくない。
「いちどにひとつ」は、生活におちつきをもたらす。
コーヒーをのむときでさえ、
同時になにかをしないそうだ。
「コーヒーを飲みながら仕事しない」
https://cyblog.jp/29073
なぜなら、マルチタスクをさけたいから。
時間によほど追われていると自分で判断するのでない限り、マルチタスクは極端なまでに避けています。べつにできないわけではありませんが、マルチタスクに よる時間の節約というのは、思うほど効果がなく、しばしば時間がかえってムダになり、しかも経験が薄められてしまうと思うからです。
同時にふたつ以上のタスクをすすめないほうが、
目のまえの仕事に集中できるだろう。
とはいえ、それは原則であって、
いくらシングルタスクがいいといっても、
コーヒーぐらい、仕事をしながらのんでもいいのに、
とあまりの徹底ぶりにわたしはおどろいた。
ここまで徹底してシングルタスクにこだわると、
ひとつのスタイルとしてかっこよくみえる。
わたしはこのごろあるくのがたのしくて、
2時間くらいあるくのに集中していると、
頭もからだもリフレッシュされて気もちがいい。
まさに「あるくためにあるく」のであり、
なにかをめざしてではなく、ただあるくのがたのしくてあるく。
メモとボールペンも もっているけど、
かなりのスピードであるくと、
あんがいものごとはかんがえられない。
アイデアが空からおりてきたりもしない。
ただひたすらあるいており、それだけでたのしい。
これなんかも、シングルタスクとしてのここちよさだ。
カニグズバーグさんの『13歳の沈黙』(岩波書店)をよんでいたら、
いちどにひとつのことしかしない
家政婦のヨランダさんがでてきた。
彼女はいちどにひとつのことしかしない。
しずかに、ていねいに、ひとつずつ仕事をすすめていく。
このおちついた態度こそを、依頼主の女性は必要としていた。
仕事ははやいけどあわただしい、というのではなく
ヨランダさんのしずかな仕事ぶりが
まわりから信頼されのはとてもよくわかる。
この本をよんでから、わたしもまた
できるだけいちどにひとつのことしかしないよう
こころがけるようになった。
たとえば、冷蔵庫にバターをしまおうとたちあがったとき、
テーブルにあったよごれたお皿が目にはいり、
バターといっしょに手にする、
ということがよくあるわけだけど、
そんなときにも、まずバターをしまい、
その動作が完全におわってからお皿をながしにもっていく。
とにかくひとつずつしかしないこと。
簡単なようで、これがなかなかできない。
どうじにふたつ以上の仕事をすすめると、
効率はいいかもしれないけど、
雑な生き方となり、うつくしくない。
「いちどにひとつ」は、生活におちつきをもたらす。
2017年11月14日
ひさしぶりの「関白宣言」
きらいなものをわざわざブログにかく必要はないとよくいわれる。
たしかに。
でも、苦手については、すこしぐらいゆるされるのではないか。
なにかをきらいなことに理由はないけど、
なんで苦手かのなかには、わたしの深層心理にかんする
普遍的な問題点がかくされているかもしれない。
というわけで、さだまさしさん。
先日NHK-FMの「歌謡スクランブル」をきいていたら、
昭和・平成のヒット曲集を特集していた。
月曜日に昭和のふるい歌からはじまり、
だんだん時代をさかのぼって 金曜日には平成の曲にいたる。
わたしはさだまさしさんが苦手で、
あのひとの曲がかかると たいていすぐにチャンネルをかえるけど、
この日は、ヒット曲のながれをおいかけたかったので、
「関白宣言」がかかっても そのままききつづけた。
ひさしぶの「関白宣言」だ。
なんでわざわざこんな曲をつくったのか理解にくるしむ。
なんどきいても、感想はかわらない。
歌ってる本人は冗談だというかもしれないけど
冗談でも ああいう 歌詞が出るのは、
ほんとのところは、冗談でないからだろう。
自民党の議員が、どこかで問題発言をしてしまい、
「ジョークだから」と いいわけする場面をおもいだした。
なぜわたしはさだまさしさんが苦手なのか。
よくある現象として、さだまさしさんのなかに、
かくしている自分をかんじとってしまい、
なるべく距離をおきたくなるのかもしれない。
さだまさし的な要素が「関白宣言」にはつめこまれており、
だからこそつよく反発してしまうのでは。
あまりかんがえたくない仮説だけど、
つよく否定する裏には、それなりの理由があるはずだ。
自分という人間の存在基盤を あやうくしかねないので、
無意識のうちにさだまさしさんを
とおざけているとしたら かなり残念だ。
ネガティブな感情をあつかうのはむつかしい。
きらいでも苦手でも、わざわざブログにかくのは
やめたほうがいいみたいだ。
たしかに。
でも、苦手については、すこしぐらいゆるされるのではないか。
なにかをきらいなことに理由はないけど、
なんで苦手かのなかには、わたしの深層心理にかんする
普遍的な問題点がかくされているかもしれない。
というわけで、さだまさしさん。
先日NHK-FMの「歌謡スクランブル」をきいていたら、
昭和・平成のヒット曲集を特集していた。
月曜日に昭和のふるい歌からはじまり、
だんだん時代をさかのぼって 金曜日には平成の曲にいたる。
わたしはさだまさしさんが苦手で、
あのひとの曲がかかると たいていすぐにチャンネルをかえるけど、
この日は、ヒット曲のながれをおいかけたかったので、
「関白宣言」がかかっても そのままききつづけた。
ひさしぶの「関白宣言」だ。
なんでわざわざこんな曲をつくったのか理解にくるしむ。
なんどきいても、感想はかわらない。
歌ってる本人は冗談だというかもしれないけど
冗談でも ああいう 歌詞が出るのは、
ほんとのところは、冗談でないからだろう。
自民党の議員が、どこかで問題発言をしてしまい、
「ジョークだから」と いいわけする場面をおもいだした。
なぜわたしはさだまさしさんが苦手なのか。
よくある現象として、さだまさしさんのなかに、
かくしている自分をかんじとってしまい、
なるべく距離をおきたくなるのかもしれない。
さだまさし的な要素が「関白宣言」にはつめこまれており、
だからこそつよく反発してしまうのでは。
あまりかんがえたくない仮説だけど、
つよく否定する裏には、それなりの理由があるはずだ。
自分という人間の存在基盤を あやうくしかねないので、
無意識のうちにさだまさしさんを
とおざけているとしたら かなり残念だ。
ネガティブな感情をあつかうのはむつかしい。
きらいでも苦手でも、わざわざブログにかくのは
やめたほうがいいみたいだ。
2017年11月13日
寝床難民
すこしまえのブログで予告したとおり、
ピピのおしっこからにげようと、べつの部屋でこっそりねた。
夜なかになんどもおこされては、そしてそんな日がつづけば、
仕事にさしつかえるので、ピピにかくれて寝袋を用意する。
家庭内ショートステイで、俗にいう寝床難民だ。
結果からいえば、ピピはわたしの「かくれが」を
朝の4時にかぎつけて 枕もとで「わー」とないた。
いまさらしらばっくれてもしょうがないので、
ピピをだきよせて再会をよろこびあう。
ピピにだまってちがう場所でねるのは、
ひどいうらぎりにおもえて気がひけた。
もしわたしが愛するだれかをベッドでまってるのに、
そのひとがこっそりべつの部屋でねたら、
そうとうきずつくのではないか。
おなじことを、わたしはピピにたいしてやったのだ。
でもピピは、そんなわたしにたいしても、
あいかわらず全幅の信頼をよせてくれ、
あまえた声をだしながら鼻をこすりつけてくる。
ベッドをはなれての睡眠は、プチ野宿として
野宿へのあこがれをすこしだけみたしてくれた。
寝袋にくるまるのだから、さむくはないけど、
ペラペラの座布団をしたにしいただけなので
背中と腰がいたくなった。
野宿をするときは、寝袋だけでなく、
マットがどれだけ大切かをおもいださせてくれる。
これは、野宿伝道師のかとうちあきさんが、
野宿をかたるときに、かならずふれている重大なコツだ。
もっとも、かとうさんは、快適な睡眠をめざすのではなく、
なんとか一夜をしのげたらいいという 達人なので、
最小限のクッションと断熱をねらい、
市販のマットをしいているだけだ。
わたしはずいぶんまえに、
あつい座布団をならべたうえに寝袋をしいてねたことがある。
つかれのとれかたが ぜんぜんちがい、快適さにおどろいた。
梅棹忠夫さんは、『モゴール族探検記』のなかで、
じゅうじつした個人テントの大切さをのべている。
隊員ひとりひとりに個室となる個人テントを用意し、
そのなかにふかふかの寝床をつくる。
・マットレス
・さらに空気マットレス
・そのうえに毛布
これだけつかってあついクッションをこしらえ、
さらに羽毛でつくった寝袋をのせるのだから、
よんでるだけでも そうとう居心地がよさそうだ。
この探検は、いまから62年もまえの
1955年におこなわれているのに、
すでに寝床づくりのノウハウが確立されている。
テントでの睡眠は、一夜をしのげればいいのではなく、
ながい期間にわたって調査をつづけられるだけの
快適さがもとめられる。
ピピのおしっこをさけようと わたしがつくった「ねぐら」は、
1955年のモゴール族探検でのテント生活にさえ およばなかった。
ピピがみつけてくれず、なんにちもあの部屋でねていたら、
おそらく体調をくずしていただろう。
つぎの日から トイレシートをしきつめたもとのベッドにもどった。
いつふとんにおしっこをされるかのリスクにおびえながら、
2017年の冬をすごしている。
ピピのおしっこからにげようと、べつの部屋でこっそりねた。
夜なかになんどもおこされては、そしてそんな日がつづけば、
仕事にさしつかえるので、ピピにかくれて寝袋を用意する。
家庭内ショートステイで、俗にいう寝床難民だ。
結果からいえば、ピピはわたしの「かくれが」を
朝の4時にかぎつけて 枕もとで「わー」とないた。
いまさらしらばっくれてもしょうがないので、
ピピをだきよせて再会をよろこびあう。
ピピにだまってちがう場所でねるのは、
ひどいうらぎりにおもえて気がひけた。
もしわたしが愛するだれかをベッドでまってるのに、
そのひとがこっそりべつの部屋でねたら、
そうとうきずつくのではないか。
おなじことを、わたしはピピにたいしてやったのだ。
でもピピは、そんなわたしにたいしても、
あいかわらず全幅の信頼をよせてくれ、
あまえた声をだしながら鼻をこすりつけてくる。
ベッドをはなれての睡眠は、プチ野宿として
野宿へのあこがれをすこしだけみたしてくれた。
寝袋にくるまるのだから、さむくはないけど、
ペラペラの座布団をしたにしいただけなので
背中と腰がいたくなった。
野宿をするときは、寝袋だけでなく、
マットがどれだけ大切かをおもいださせてくれる。
これは、野宿伝道師のかとうちあきさんが、
野宿をかたるときに、かならずふれている重大なコツだ。
もっとも、かとうさんは、快適な睡眠をめざすのではなく、
なんとか一夜をしのげたらいいという 達人なので、
最小限のクッションと断熱をねらい、
市販のマットをしいているだけだ。
わたしはずいぶんまえに、
あつい座布団をならべたうえに寝袋をしいてねたことがある。
つかれのとれかたが ぜんぜんちがい、快適さにおどろいた。
梅棹忠夫さんは、『モゴール族探検記』のなかで、
じゅうじつした個人テントの大切さをのべている。
隊員ひとりひとりに個室となる個人テントを用意し、
そのなかにふかふかの寝床をつくる。
わたしたちは、昼間は共同テントに出勤して、仕事や食事をする。夜は各自の自宅に帰る。個人テントは、ナイロンとブロード、骨は軽金属のパイプでつくったすばらしい上等だ。わたしはその中に、ヘアロックのマットレスを敷き、さらに空気マットレスと毛布で、上等のベッドをこしらえる。その上に羽毛の寝袋をおくと、これならいくらでも眠れそうだ。わたしは自分の新しい家に満足する。(梅棹忠夫『モゴール族探検記』岩波新書)
・マットレス
・さらに空気マットレス
・そのうえに毛布
これだけつかってあついクッションをこしらえ、
さらに羽毛でつくった寝袋をのせるのだから、
よんでるだけでも そうとう居心地がよさそうだ。
この探検は、いまから62年もまえの
1955年におこなわれているのに、
すでに寝床づくりのノウハウが確立されている。
テントでの睡眠は、一夜をしのげればいいのではなく、
ながい期間にわたって調査をつづけられるだけの
快適さがもとめられる。
ピピのおしっこをさけようと わたしがつくった「ねぐら」は、
1955年のモゴール族探検でのテント生活にさえ およばなかった。
ピピがみつけてくれず、なんにちもあの部屋でねていたら、
おそらく体調をくずしていただろう。
つぎの日から トイレシートをしきつめたもとのベッドにもどった。
いつふとんにおしっこをされるかのリスクにおびえながら、
2017年の冬をすごしている。
2017年11月12日
Tシャツに外国語をつかいたくなる気もち
デイリーポータルZに、タイでみかけたへんな日本語がのっていた。
http://portal.nifty.com/kiji/171103201102_1.htm
Tシャツなどに、「可能な!」なんて 日本語でかかれていると、
たしかにへんなかんじだ。
正確な日本語でも、たとえば「がんばろう!」と
日本語でかかれていたら違和感がある。
Tシャツにかいてあるのは「もよう」としてわりきっているので、
はっきりしたメッセージは かえってじゃまなのかもしれない。
いまでこそ、陸上部などは くじけないでがんばるぞ、みたいな
「ポエム」がかかれたシャツをみかけるけど、
普段着のシャツだと はずかしくてきられない。
わたしは外国へ旅行にいったときに よくTシャツをかうけど、
その国のことばがデザインされていたほうが おみやげになる。
タイで、タイ語がのったTシャツをさがしたけど、
そのときはみつからなかった。
かりにあったとしても、タイ語なので、
なにがかいてあるのかわたしにはわからないのに、
それでもタイ文字のTシャツがほしい。
日本でうられているTシャツだって、外国人からみると、
へんなメッセージがけっこうあるのではないか。
Tシャツにかかれているのは、ほとんどが英語だろうけど、
正確な英語かどうかは 問題ではなく、
デザインとしてかっこいいかどうかを かうほうは大切にする。
「読んでる人大好き」みたいなデザインは
いくらでもやってそうだ。
タイには屋台がずらーっとならんでいるとおりがよくあり、
「うどん」「すし」とノボリがたっている。
「うどん」のところへいってみると「すし」だった。
かといって「すし」のノボリがたった店は
うどんがたべられるかというと、
ほんとうに「すし」がならべてあって肩すかしをくう。
メニューをしらせるためのノボリではなく、
ただのマークなのだからしょうがない。
欧米のひとにとって、町でみかけるTシャツのほとんどは
母語でかかれているわけだけど、
そういうのって、彼らの目に どう うつっているのだろう。
日本では、外国語でかかれた店のなまえやシャツがあたりまえなので、
ぜんぶ日本語でかかれていたら、かえってへんなかんじがするはずだ。
欧米人にとって、それが日常風景なのだから、
日本人からすれば、ずいぶん地味な景色のなかでくらしている。
タイだけでなく、欧米でもへんな日本語のTシャツをみかけるのは、
わたしがタイ語でかかれたTシャツをありがたがるのと いっしょだ。
http://portal.nifty.com/kiji/171103201102_1.htm
Tシャツなどに、「可能な!」なんて 日本語でかかれていると、
たしかにへんなかんじだ。
正確な日本語でも、たとえば「がんばろう!」と
日本語でかかれていたら違和感がある。
Tシャツにかいてあるのは「もよう」としてわりきっているので、
はっきりしたメッセージは かえってじゃまなのかもしれない。
いまでこそ、陸上部などは くじけないでがんばるぞ、みたいな
「ポエム」がかかれたシャツをみかけるけど、
普段着のシャツだと はずかしくてきられない。
わたしは外国へ旅行にいったときに よくTシャツをかうけど、
その国のことばがデザインされていたほうが おみやげになる。
タイで、タイ語がのったTシャツをさがしたけど、
そのときはみつからなかった。
かりにあったとしても、タイ語なので、
なにがかいてあるのかわたしにはわからないのに、
それでもタイ文字のTシャツがほしい。
日本でうられているTシャツだって、外国人からみると、
へんなメッセージがけっこうあるのではないか。
Tシャツにかかれているのは、ほとんどが英語だろうけど、
正確な英語かどうかは 問題ではなく、
デザインとしてかっこいいかどうかを かうほうは大切にする。
「読んでる人大好き」みたいなデザインは
いくらでもやってそうだ。
タイには屋台がずらーっとならんでいるとおりがよくあり、
「うどん」「すし」とノボリがたっている。
「うどん」のところへいってみると「すし」だった。
かといって「すし」のノボリがたった店は
うどんがたべられるかというと、
ほんとうに「すし」がならべてあって肩すかしをくう。
メニューをしらせるためのノボリではなく、
ただのマークなのだからしょうがない。
欧米のひとにとって、町でみかけるTシャツのほとんどは
母語でかかれているわけだけど、
そういうのって、彼らの目に どう うつっているのだろう。
日本では、外国語でかかれた店のなまえやシャツがあたりまえなので、
ぜんぶ日本語でかかれていたら、かえってへんなかんじがするはずだ。
欧米人にとって、それが日常風景なのだから、
日本人からすれば、ずいぶん地味な景色のなかでくらしている。
タイだけでなく、欧米でもへんな日本語のTシャツをみかけるのは、
わたしがタイ語でかかれたTシャツをありがたがるのと いっしょだ。
2017年11月11日
信号機のない横断歩道で 車はなぜとまらないか
先日の朝日新聞に
「止まらぬ車 戸惑う外国人」
という記事がのった。
投稿したマーク=リバック氏は、
「信号機のない横断歩道は車優先」
という日本の状況におどろいている。
しかし、日本の運転手は、
車優先と はっきり意識しているのではなく、
横断歩道でまっているひとが、自分とは関係ない存在だから
あえてとまろうとしないのではないか。
自分が所属する「世間」でなければ、
運転手にとって かかわりのない「その他大勢」にすぎない。
横断歩道で車がとまらないのは、
そこでまっているのが、自分とは縁のない他人だからだ。
横断歩道で車がとまらないのは、
電車の席を老人にゆずらない問題とよくにている。
日本はサイフをおとしてもかえってくるほど
道徳がゆきとどいた国なのに、
いっぽうでは、老人をたたしたままでも平気な国だ。
鴻上尚史さんが
「日本人には社会がなくて
世間だけで生きている」となにかにかいていた。
自分がぞくするコミュニティでは親切にふるまうのに、
そこから一歩でると、まわりはぜんぶ関係のない他人となる。
世間にたいしてはずかしいかどうかが 判断の基準であり、
ひろく社会的にみたらどうかはかんがえられない。
世間と社会とを、はっきりわけてあつかっている。
わたしはバスにのっていたとき、
年配の女性が、あとからのってくる友だちのために、
荷物をおいて 席を確保しているのにでくわした。
その女性の論理では、ほかのひとがすわれなくても、
あとからくる自分の友だちがすわれたらいい。
このひとにとって、バスにのっているお客さんは
自分とかかわりのない他人であり、
しらないひとがすわりたい気もちは想像できず、
自分の友だちに楽をしてもらいたいと「親切」にする。
投稿によると、道路交通法38条に
「横断歩道等における歩行者等の優先」
とあるそうだ。
それなのに、人対車の交通事故のうち、
「約30%が横断歩道を横断中に起きている」そうで、
こんな状況がほっておかれているのが
そもそもめちゃくちゃなのだ。
なんで規則違反として とりしまらないのだろう。
信号を無視すると、ルール違反でとがめられる。
日本人は、きまりならば まもろうとするので、
信号のない横断歩道で ひとがまっているときは、
とまらなければ罰金という規則にすればいい。
交通違反にすれば、どの運転手もとまるようになる。
もちろん、老人に席をゆずらないのも犯罪としてあつかう。
なんだか安倍さんがめざす共謀罪法案後の日本を
さきどりしたようなギスギスした社会だ。
「止まらぬ車 戸惑う外国人」
という記事がのった。
投稿したマーク=リバック氏は、
「信号機のない横断歩道は車優先」
という日本の状況におどろいている。
しかし、日本の運転手は、
車優先と はっきり意識しているのではなく、
横断歩道でまっているひとが、自分とは関係ない存在だから
あえてとまろうとしないのではないか。
自分が所属する「世間」でなければ、
運転手にとって かかわりのない「その他大勢」にすぎない。
横断歩道で車がとまらないのは、
そこでまっているのが、自分とは縁のない他人だからだ。
横断歩道で車がとまらないのは、
電車の席を老人にゆずらない問題とよくにている。
日本はサイフをおとしてもかえってくるほど
道徳がゆきとどいた国なのに、
いっぽうでは、老人をたたしたままでも平気な国だ。
鴻上尚史さんが
「日本人には社会がなくて
世間だけで生きている」となにかにかいていた。
自分がぞくするコミュニティでは親切にふるまうのに、
そこから一歩でると、まわりはぜんぶ関係のない他人となる。
世間にたいしてはずかしいかどうかが 判断の基準であり、
ひろく社会的にみたらどうかはかんがえられない。
世間と社会とを、はっきりわけてあつかっている。
わたしはバスにのっていたとき、
年配の女性が、あとからのってくる友だちのために、
荷物をおいて 席を確保しているのにでくわした。
その女性の論理では、ほかのひとがすわれなくても、
あとからくる自分の友だちがすわれたらいい。
このひとにとって、バスにのっているお客さんは
自分とかかわりのない他人であり、
しらないひとがすわりたい気もちは想像できず、
自分の友だちに楽をしてもらいたいと「親切」にする。
投稿によると、道路交通法38条に
「横断歩道等における歩行者等の優先」
とあるそうだ。
それなのに、人対車の交通事故のうち、
「約30%が横断歩道を横断中に起きている」そうで、
こんな状況がほっておかれているのが
そもそもめちゃくちゃなのだ。
なんで規則違反として とりしまらないのだろう。
信号を無視すると、ルール違反でとがめられる。
日本人は、きまりならば まもろうとするので、
信号のない横断歩道で ひとがまっているときは、
とまらなければ罰金という規則にすればいい。
交通違反にすれば、どの運転手もとまるようになる。
もちろん、老人に席をゆずらないのも犯罪としてあつかう。
なんだか安倍さんがめざす共謀罪法案後の日本を
さきどりしたようなギスギスした社会だ。